ヤコブの手紙1章5~11節 「知恵を求める」

きょうは、ヤコブの手紙1章5節から15節のところから、「知恵を求める」というタイトルでお話しします。このヤコブとはイエスさまの異父兄弟のヤコブです。彼は迫害で国外に散っていたユダヤ人クリスチャンを励ますためにこの手紙を書きました。どのように励ましたのかというと、前回の箇所で学んだように、さまざまな試練に会うときには、それをこの上もない喜びと思いなさい、と勧めることによってです。だれも試練を喜ぶ人はいません。それは普通の感情で言えば辛く悲しいものなのです。それなのになぜヤコブは試練を喜ぶように、しかも、この上もない喜びと思いなさいと言ったのでしょうか。それは、試練には目的があったからです。その一つは、試練がためされると忍耐が生じるということです。苦労は買ってでもしろ、と言われますが、なぜなぜ買ってまで苦労をするのかというと、この忍耐が養われるからです。しかし、試練によって信仰がためされている人は苦労を買う必要がありません。すでに与えられているからです。忍耐は試練によって養われるのです。もう一つの目的は、信仰によって生じた忍耐を働かせることによって、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた完全な人になるということでした。つまり、試練を通して信仰が成熟する、大人のクリスチャンになるということです。だから、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい、と言ったのです。

 

きょうのところには、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と勧められています。これは前回のところで語られた試練を喜ぶということと無関係ではありません。つまり、さまざまな試練にあうとき、それをこの上もない喜びと思うためには知恵が必要であるということです。知恵とは何でしょうか。知恵とは、与えられた情報や知識を自分の生活の中に具体的に適応する能力のことです。しかし、この知恵とは人間的な知恵のことではなく、神からの知恵のことです。というのは、ここでヤコブは「知恵に欠けた人がいるなら、神に願いなさい」と言っているからです。なぜ知恵なのでしょうか。試練の中において、問題解決のための力や恵み、救出を願わないで、どうして知恵を求めるようにと言っているのでしょうか。それは、成熟したキリスト者となるために、神が成長の機会として試練を与えておられることを理解し、それに適切に応答するためには知恵が必要だからです。

たとえば、先日私が乗っている車が故障しました。車屋さんで見てもらったどうもオルタネーターという発電機が古くなったのが原因で、それを交換すれば問題ないということでした。しかし、この前はセルモーターが故障して交換して、今回はオルタネーターが壊れたということは、他にも悪い箇所が出てくることが考えられるので、そちらの方が心配だということでした。そういえば、夏になるとオーバーヒートの赤いランプがつくんですよと言うと、それはエンジンが確実にやられているということでしょうね。となると、交換してもどのくらい乗られるかわかりません、と言われました。オルタネーターだけの問題ならそれを交換するだけで済みますが、交換してもまた別の箇所に問題が生じるとしたら修理代がもったいなくなります。私としてはできるだけ部品を交換して乗りたいと思っているので、「でもお金がないから部品を交換してもらえますか。乗れるだけ乗りますから。」と言おうかと思いましたが、もうちょっと様子を見てからにしようと、「もうちょっと待ってもらえますか。家内と相談してからご返事したいと思います。どうせこれから年末年始に入るので整備もできないと思いますし。」と言って帰宅してみると、つばの週にはエンジンから焼いているようなにおいがして、今にも車が爆発でもしそうな大きな音がでたので、「ああ、これは無理だ」とはっきりしたので、交換することにしました。

私たちの日々の生活の中にはこういうことがたくさんあります。いったいどうしたらいいかと悩むことが多いのです。車の部品を交換した方がいいのか、買い替えた方がいいのか、やるべきなのか、それともやめるべきことは何か、行くべきなのか、留まるべきか、話すべきか、黙っているべきか・・・本当に悩みます。そのような時に必要なのがこの知恵なのです。人は例外なくさまざまな試練に会います。ちょうど車のエンジンがかからないように仕事でもエンジンがかからない時があります。人間関係でもさまざまなトラブルが起こります。車のブレーキがきかないように自分自身のブレーキがきかないことがあります。感情のコントロールをすることが難しい時があるのです。また予期しない事が突如として起こったりします。そのような時、自分の知識や経験ではどうしたらいいかわからないことがあるのです。そのような時に必要なのが、この神の知恵なのです。きょうは、この知恵を求めることについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神に願いなさい(5)

 

まず第一に、神に願いなさいということです。5節をご覧ください。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」

今までは自分の知恵や知識、経験で大丈夫だったかもしれませんが、しかし、それがきかなくなったとき、どうしたらいいかわからないとき、いったいどうしたらいいのでしょうか。ここでヤコブは、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と言っています。なぜなら、その知恵は上から来るからです。ローマ16章27節には、神は知恵に満ちた方だとあります。

「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」

神はこの天と地を造られた創造者です。その知恵と力をもってすべてのものを造られました。そして、神は今も知恵と力をもって万物を保持しておられます。神の知恵は私たちの知恵よりも優れていて、私たちが思う以上、考える以上の最善の道を持っておられます。私たちが試練に会い、どうしたらいいかわからず、八方塞がりになったとき、神に知恵を与えてくださるように願わなければなりませな。そうすれば、与えてくださいます。

Ⅰコリント10章13節には、「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」とあります。神は耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。神は耐えることができるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださるのです。

1980年にアメリカの化学メーカー3M社から、糊付き付箋紙ポトスイット(Post-it) が販売されましたが、それがどのようにして発明されたかご存知ですか。それは失敗作から生まれた偶然の産物だったと言われています。この研究所に勤めていた研究員のスペンサーさんは、強力な接着剤を開発しようと研究していたのですがなかなかうまくいかず、失敗ばかりを繰り返していました。その研究の中でよくくっ付くけれどもすぐに剥がれてしまう奇妙な接着剤ができたのです。何かに使えそうだけれども何に使えるかがわからない、しかも、本来の目的であった強力な接着剤を作れないでいたのでとても苦しい状態でした。それから5年くらいした後、いつものように教会に行って聖歌隊として讃美歌のページをめくると、目印にしていたしおりがサッと落ちました。その瞬間彼の頭に「これだ!!」とひらめきました。よくくっつくがすぐに剥がれるものが役に立つものがここにあったと付箋紙を思い出したのです。今ではどこの家でも、どのオフィスでも使われて重宝していますが、このような失敗から新しい発見が生まれたのです。

それは試練も同じです。試練そのものは辛く悲しいように思われますが、そこから教えられることがたくさんあります。神は試練とともに脱出の道を備えておられるのです。ですから、試練に会ってもあきらめないで、その試練の目的は何か、神はそこから何を教えようとしているのかを求めなければなりません。そのためには知恵を求めることが大事なのです。

ヤコブはここで、「その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」と言っています。神はだれにでも惜しげなく、とがめることなく与えてくださる方です。あの人は特別で、自分はそうではないとか、神はあの人の祈りは聞かれるが、私の祈りは聞いてくださらないということはありません。だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださいます。なぜなら、神は私たちに神の御子を与えてくださったからです。ローマ8章32節にはこうあります。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

ありません。最愛のひとり子を与えてくださったのであれば、どうして御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないわけがあるでしょう。子どもが魚をくださいというのに、ちょっと格好が似ているからと、魚の代わりに蛇を与えるような親がいるでしょうか。卵をくださいというのに、さそりを与えるような親がいるでしょうか。してみると、私たちは悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っています。であれば、なおのこと、天の父が、求める者たちに、どうして聖霊を、知恵を与えてくださらないことがあるでしょうか。ないです。求めるなら、与えられるのです。ですから、どうぞ神に求めてください。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:24)すばらしい約束ですね。求めるなら受けるのです。ですから、キリストの名によって父なる神に求めてください。そうすれば受けるのです。

皆さんはどうでしょうか。今どのような試練の中にあるでしょうか。どのような苦しみがあるでしょう。どうしたらいいかわからない、八方塞がりの状態ですか。そうであればどうぞ祈ってください。どうしたらいいのか、何が神のみこころなのか、祈ってください。そうすれば、きっと与えられます。自分でも思いもつかなかったような知恵が与えられます。それは意外とシンプルなことかもしれません。気付いていないことかもしれない。でも神はそんな気づきを与えてくださるでしょう。

Ⅱ.信じて願いなさい(6-8)

次に6節から8節までをご覧ください。

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」

もし、知恵に欠けた人がいて、その人が神に願うなら、神はその知恵を与えてくださいます。しかし、そこには一つの条件があります。それは、少しも疑わずに、信じて願うということです。「信じます、お願いします」と言っておきながら、心の中で、「でも無理だよな、どう考えてもできるわけがない」と思っているとしたらそれは半信半疑ということであり、主から何かをいただけると思ってはなりません。信じるとは疑わないことです。そこには疑う余地がありません。

ヘブル11章6節をご覧ください。そこには、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければなりません。」とあります。ここで神に近づく者に求められていることは何でしょうか。それは、神がおられるということと、神を求める者には報いてくださるということを信じることです。そうでなければ神に近づくことはできません。ですから、神に近づく者には、信仰が求められているのです。

イエスさまはこう言われました。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:22)

ただ信じるのでなく、疑わずに信じることが大切です。そうすれば、山も動きます。私たちの人生にはいろいろな山があります。この問題はどうしても動かないと思える山があります。しかし、心の中で信じて疑わず、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになると主は言われました。

皆さん、私たちの祈りが聞かれるには、心の中で疑わずに信じることが重要です。「主よ、信じます。」これだけです。「主よ、信じます。でも、これは考えられないことです。」とか、「主よ、信じます。しかし、あまり期待はしていません。」というのでは、主も答えようがありません。どっちなの?信じているの、信じていないの、はっきりしてちょうだいと言われそうです。信じますと言った後で、「しかし」とか「もし」ということばがつくと、すぐに疑いが生じてきます。さっきまで信じていたのに、すぐに疑いが始まるのです。そういう人は何に似ているでしょうか。そういう人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。波は何に左右されるかというと、風ですね。風が吹くと揺れ動きます。強風になると大波になります。

私たちの心はどうでしょうか。私たちの心は何に左右されるでしょうか。状況です。状況が安定していると私たちの心も落ち着いていますが、状況が悪くなったとたんに、私たちの心も揺さぶられます。問題が大きくなればなるほど、私たちの心も大きく揺れるのです。私たちは目に見えることによって右往左往してしまうのです。しかし、信仰は見えるものではなく、見えないものに目を留めます。なぜなら、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)だからどんなに状況が悪くても信仰によって歩むなら、心が安定するのです。しかし、信じていても「でも」とか「もし」という疑いがあると、不安定な心になってしまいます。それは二心のある人で、そのような人の歩みは、当然不安定なものとなります。

あるとき、イエスさまのもとに、悪霊につかれた息子を連れて父親が助けを求めてやって来ました。この息子に霊がとりつくと、所かまわず彼を押し倒し、あわを吹いたり、歯ぎしりしたりするので、どうしたらいいかわからず弟子たちのところに連れて来たのですが、弟子たちにはこの霊を追い出すことができませんでした。すると、イエスは彼らの不信仰を嘆かれ、「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねると、父親は、「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も日の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言うと、イエスさまはこう言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)するとこの父親はすぐに、「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言って、息子から悪霊を追い出していただきました。

私たちもすぐに疑って、「もしおできになるなら」と言ってしまう者ですが、「信じます。不信仰な私を助けてください。」と言って、少しも疑わないで信じる者でありたいと思います。油断すると人はすぐに不信仰に陥ってしまいます。それが人の性(さが)というか、生まれつきの性質なのです。状況が悪くなればなるほど、疑いしか出てきません。しかし、そのような時こそ信仰を働かせ、信じて願い求める者でありたいと思います。

Ⅲ.神に望みを置いて(9-11)

最後に9節から11節までを見て終わりたいと思います。

「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」

ここには、貧しい境遇にある人は、自分の高い身分を誇るように、また、逆に、富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持つようにと勧められています。これはどういうことでしょうか。

この手紙は迫害によって国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らは迫害や試練によって家や財産を失い、貧しくなっていました。それは経済的な貧しさだけでなく、社会的にも身分が低くされることも含まれていました。しかし、そのような貧しさの中にいても、自分の価値を低くみる必要はありません。なぜなら、そのような人たちは、神によって高い身分にされているのですからです。すなわち、人の価値は家柄や社会的な地位や物質的な豊かさによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされる霊的資源によって決まるのです。イエス様を信じて神の国に入れられているのであれば、神の子としての特権が与えられているのですから、最高の身分が与えられているということであって、それを誇ればいいのです。逆に、どんなに富んでいたとしても、この特権を受けていなければ永遠に失われた者なのであって、それは最も悲しいことであり、哀れです。なぜなら、富んでいる人は、草の花ようにすぐに過ぎ去ってしまうからです。太陽が熱風を伴って上ってくると、草を枯らしてしまうのです。すると、その鼻は落ち、美しい姿は滅びてしまいます。そのことを、イザヤはこう言っています。

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:6-8)

皆さん、人は草です。その栄光は野の花のようなんです。すぐにしぼんでしまいます。すぐに枯れてしまう。どんなにきれいに咲き誇っていたとしても、やがて滅びてしまいます。それほどはかないものなのです。そんなはかないものでどんなに誇ったところで、それがいったい何になるというのでしょうか。やがてすぐに消え去ってしまいます。しかし、主のことばはとこしえに堅く立ちます。そこに目を留めることができなければ、人生はほんとうに空しいものなのです。

パウロはテモテにこのように書き送りました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならないと実に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

これが神の知恵です。このような正しい価値観は、神の知恵によらなければ持つことはできません。神様を信じるまでは物質的な豊かさこそ人生の豊かさであるかのように思い込んでいましたが、イエス・キリストを通して永遠のいのちがあることを知った時、人生の豊かさはそうした物やお金の豊かさにあるのではなく、ただ神に信頼し、神に望みを置くことによってもたらされる霊的資産いかんによってはかられるものであることがわかりました。それは神の知恵によるのです。ですから、この神の知恵を持つということが私たちの人生にとってどれほど重要であるかがおわかりかと思います。

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、試練によって貧しい境遇になったかもしれない。しかし、低くされるということは謙遜にされるということであり、謙遜にされることによって、人の価値が何なのかがはっきりわかるようになりました。ですから、試練は感謝なのです。試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさいと言われているのです。そのためには、神の知恵が必要です。神の知恵によって、そのことにハッと気づかされるのですから・・。

 

あなたは何に信頼を置いていますか。あなたが信頼を置いているものは、本当に頼りになるものでしょうか。私たちが信頼しなければならないのは神ご自身です。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。ここに望みを置いて歩んでまいりましょう。そのために、神の知恵が与えられるように、少しも疑わずに、信じて願い求めましょう。