ヤコブの手紙1章19~25節「みことばを実行する人に」

きょうは、「みことばを実行する人に」というタイトルでお話します。22節には、「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」とあります。聖書のことばを聞くとき、そこには二種類の人がいます。すなわち、みことばを聞くだけの人と、みことばを実行する人です。ただ聞くだけの人は、自分の生まれつきの顔を鏡で見るような人です。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。みことばもそれと同じで、みことばを聞いても、「ああいい話だった」とか、「為になった」で終わってしまうと、いつまでたってもみことばが身に着かず、従って、生活が変わることがありません。しかし、「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」とあるように、聖書のみことばは私たちの内側にある本質を明るみにし、それを本当に変えることができるのです。ですから、ただみことばを聞くだけでなく、それを実行することが大切です。きょうは、みことばを実行することについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.みことばを聞く(19-20)

 

まず19節と20節をご覧ください。ここには、「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあります。

 

ヤコブはここで、「あなたがたはそのことを知っています。」と言っています。「そのこと」とは何のことでしょうか。ヤコブは前の箇所で、「父はみこころのままに、真理のみことばをもって私たちをお生みになりました。」と言っています。ですから、それは真理のことばによって新しく生まれたことを知っているということです。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちはそのことを知っていました。しかし、知っているだけではだめです。そのことを知っているならば、それを実際の生活の中に生かさなければ意味がありません。それが実際の行為となって具体的に現われることを求めなければならないのです。そのために必要なことは何でしょうか。

ヤコブは、そのためには、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい、と言っています。どうして聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなければならないのでしょうか。

 

当時ユダヤ教の教師は、学者の気質には四つの型があると考えていました。一つは、聞くには早く、忘れるに早い型です。この型は長所と短所が五分五分で、互いに打ち消し合うので結局何も残りません。もう一つの型は、聞くに遅く、忘れるのに遅い型です。この型は、短所が長所によってちょうど補うことができます。三つ目の型は、聞くに早く、忘れるのに遅い型です。この型の気質を持つ人は知者です。そして四つ目の型は、聞くに遅く、忘れるに早い型です。このタイプの人は、手に負えない型です。このことからもわかるように、知者とはどのような人かというと、聞くに早く、語るに遅い人です。

 

ラビ・シメオンは、こう言いました。「私は生まれてからこのかた知者たちに取り囲まれて育てられたが、人間にとって沈黙以上の良いものは見出されなかった。ことばを多くする者は誰でも罪を引き起こす者である。」

 

ですから、箴言には性急すぎることばへの警告に満ちているのです。

「ことば数が多い所には、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。」(箴言10:19)

「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」(箴言13:3)

「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。」(箴言17:28)

「軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。」(箴言29:20)

 

E・B・ホルトは、「本当によい人間は、自分自身の意見を傲慢にくどくどとかん高くわめき散らすよりは、神のことばに耳を傾けることに熱心な人である。」と言っています。

 

私たちは真理のことばをもって新しく生まれさせていただいた者です。であれば、その真理のみことばを聞くことが必要なのです。なぜなら、信仰は聞くことから始まるからです。そして、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。そのみことばをよく聞かなければなりません。みことばを聞かない人は、語ることにおいて、また、怒ることにおいても必ず失敗することになります。知性と感情が神のみことばによって支配されていなければ、すぐに思いついたことを口走ってみたり、感情を露わにして、神の御名と主にある兄弟姉妹を傷つけてしまうことになってしまうからです。

 

ヤコブはここで聞くには早く、語るにはおそくというだけでなく、怒るにはおそいようにしなさいと言っているのはそのためです。なぜここで怒るにはおそくあるべきだと忠告しているのかというと、人の怒りは、神の義を実現するものではないからです。怒りそのものは神が与えてくださったもので悪いものではありませんが、それが神のことばによってしっかりと統制(支配)されていないと、短気で自己中心的ないらだちの弁解でしかなくなり、逆に害を与えてしまうことにもなりかねません。ですから、神のことばをよく聞いて、語るのにおそく、怒るのにおそいようにしなければならないのです。

 

アテネの哲学者デモナクス(80頃ー180頃)は、人間はいかにして最善の支配ができるかと尋ねられた時、「怒ることなく、語ること少なく、聞くこと多く」と答えました。自分のことを語ることを少なくし、神のことばを聞くことを多くすることが、自分を最善に保つ秘訣であるというのです。ある人は人間には二つの耳と一つの口が与えられているのには意味があると言いました。それはしゃべることを抑えて、より多くのことを聞くためだ・・・と。私たちは、時にはストップウオッチを使って自分のおしゃべりの長さを計る必要があるのかもしれません。それよりももっと神のみことばを聞き、人の話に耳を傾けなければなりません。

 

Ⅱ.みことばを受け入れる(21)

 

第二のことは、みことばを受け入れることです。21節をご覧ください。

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」

 

私たちのたましいを救い、私たちを変える真理のことばをどんなに聞いても聞くだけでは意味がありません。その聞いたみことばを実行しなければならないからです。そのためには、心に植え付けられたみことばを、素直に受け入れなければなりません。

 

イエス様は、種まきのたとえの中でみことばを受け入れる四種類の人の心を話されました。まず、道ばたです。道ばたに落ちた種はどうなったかというと、鳥が来て食べてしまいました。このタイプの人はみことばを聞いても全く無関心なので、せっかくみことばを聞いてもすぐに奪われてしまいます。

次に、岩地です。岩地に蒔かれた種はどうなったでしょうか。岩地に蒔かれた種は、土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまいました。このタイプの人は、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れるので芽を出しますが、しばらの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

次は、いばらです。いばらの中に落ちた種は、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、伸びることができませんでした。このタイプの人は、みことばを聞きますが、この世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ぶことができません。

しかし、良い地に落ちた種は違います。良い地に落ちた種は、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結びます。このタイプの人は、みことばを聞いて悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのです。

 

つまり、どのように聞くかが重要であるということです。ですから、イエスさまは、「耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:9)と言われたのです。耳のある者は聞きなさいって、みんな耳を持っているんじゃないですか。それなのに、耳のある者は聞きなさいとはどういうことですか。それは、聞き方に注意しなさいということです。というのは、確かに聞いてはいても悟らず、見てはいてもわからず、触れてはいても感じない人がいるからです。その心は鈍く、その耳は遠く、その目はつぶっているということがあるからです。だから、どのように聞くかはとても重要なことなのです。

 

ここでヤコブは、「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れなさい。」と言っています。どのようにみことばを聞かなければならないのでしょうか。どのようにみことばを受け入れなければならないのでしょうか。まず、すべての汚れやあふれる悪を捨てには「脱ぎ捨てる」と訳されているように、古い汚れた衣服を脱ぎ捨てる様を表しています。つまり、ヤコブはここで汚れた服を脱ぐように、また蛇が脱皮するようにすべての汚れを脱ぎ捨てるようにと命じているのです。

 

ところで、この「汚れ」ということば(ギルパリア)ですが、これはギルポスということばが語源になっていて、これが医学的な意味で用いられる時には、耳垢を意味していました。つまりヤコブは、真理のことばに耳を傾けさせることの妨げになっている一切のものを取り去れ、といっているのです。耳の中に耳垢がたまると人の耳が聞こえなくなるように、人間の罪も神に対してその耳を閉ざすことになります。

 

また「悪」については、「あふれる悪」と言われています。それは伐採しなければならないほど無闇に茂ったやぶのことを指しています。そのように悪が心にあふれていると神のことばが届かなくなります。ですから、そのようなあふれた悪を伐採しなければなりません。そのようにして、神のことばが心に植え付けられるのです。

 

そのようにしてすべての汚れを脱ぎ捨て、あふれる悪を切り取ったならば、次にしなければならないことは、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れるということです。すなおに受け入れるとはどういうことでしょうか。「すなお」と訳されたことばは「プラウテス」ということばですが、これは憤慨しないでとか、怒ることをせずに、謙遜に、穏やかに聞く姿勢のことです。たとえば、私たちが主から「~こうしなさい」と示された時、どのように反応するでしょうか。「なるほど、やっぱり聖書は神のことばだな。知恵に満ちている。そのようにしてください」と反応するときもありますが、時には、「いや、そんなことをしたら、周囲との関係がうまくいかなくなるし、変に思われる」「そのようなことになったら自分の立場が不利になるし、都合悪い」「それはあまりにも犠牲が大き過ぎる。そんなに時間と労力がとられるのは困る」といった思いを持つことがあるのではないでしょうか。中には、「冗談じゃない。そんなことできるはずがないじゃないか・・」と怒りを覚えることもあるかもしれません。しかし、そのように怒ったり、憤慨するのではなく、示されてことに対して淡々と従うこと、それがこのことばが意味している姿勢です。

 

Ⅰペテロ2章2節には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。ですから、それは生まれたばかりの乳飲み子が乳を慕い求めるように、純粋なみことばの乳を慕い求めることなのです。なぜなら、神のみことばは大いなる力をもって私たちを新しく生まれさせ、神のみこころにかなった者へと成長させることができるからです。

 

Ⅲ.みことばを実行する(22-25)

 

第三のことは、みことばを実行することです。22節から27節までをご覧ください。まず22節から24節までをお読みします。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」

 

神のみことばを聞き、それを心に受け入れることは大切なことです。しかし、もっと大切なことは、その聞いたみことばを実行することです。イエス様もこのように言われました。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)

 

ですから、これはヤコブの教えというよりもイエス様ご自身の教えでもあるのです。教会の礼拝で語られる聖書のことばを聞くだけでは十分ではありません。また聖書のことばを勤勉に学ぶだけでも十分ではありません。その聞いたことや学んだことを実際の生活の中で実行しなければ何の意味もないのです。そのような信仰についてヤコブは、具体的な例として2章で取り上げていますが、それは自分を欺くことになるのです。というのは、神様から「・・しなさい」と聞いても、いろいろな理屈をこねて、従わないで自分を正当化するからです。たとえば、「私は年をとっていますから、できなくてもしかたがないのです」とか、「私はまだ子どもだから、それは無理です」とか、「私は献身者ではないので、そこまでしなくてもいいでしょう」等々、言い訳をします。そのように、自分に思い込ませるわけです。それは自分を欺くことです。ですから、真理のみことばに対して、上手に理屈をこねて言い訳せずに、みことばを実行しなければなりません。

 

ヤコブはここで、みことばを聞いても実行しない人を、生まれつきの顔を鏡で見る人のようだと言っています。しばらく間自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのような顔であったのかを忘れてしまうので、身だしなみを整えることをしないのです。当時の鏡はガラスではなく、高度に磨き上げた金属でできていました。その人は自分の顔を見苦しくしている汚れや髪の毛がもつれているのを見ますが、鏡の前を立ち去ると、「あれっ、自分の顔がどんなふうだったかな」と忘れてしまい、身だしなみを整えるのを省いてしまうのです。せっかく鏡を見ても、身だしなみを整えるのでなければ全く意味がありません。

 

この場合の生まれつきの顔とは、自分の心のことを表わしています。また、鏡は聖書のみことばのことです。聖書は、私たちの心をありのままに照らす鏡なのです。真実のことばを聞くことによって、私たちは現在の自分とあるべき自分の姿を明確に知ることができます。しかし、どんなにそれを知ったとしても、それを直さなければ何の意味もありません。それと同じように、どんなにみことばによって心が照らされて、あるべき真の姿が示されても、それを実行しなければ全く意味がないのです。

 

現代の医学で言えば、それはCTスキャンとかレントゲンにたとえることができるかと思います。それによって病状がわかったら、手術をするなり、何らかの処置をしてもらわなければなりませんが、ただ病状を聞いて、「そうですか、ありがとうございました。」と言って、立ち去ってしまうとしたら、何の意味もありません。それを撮るのは自分の病状を映し出してもらうことで、どこに問題があるのかを知り、正しく処置をしてもらうためなのです。しかし、そのように映し出してもらうだけで、鏡を見るだけでイエス様のもとを立ち去る人が多いことでしょう。

 

私は高校時代、半年の間寿司屋でアルバイトをしたことがあります。お金を貯めてアメリカへ行こうとしたのですが、結局お金がたまらず行けませんでした。寿司屋でアルバイトといっても、初めは何をしたらよいか、全くわかりませんでした。それでその店のマスターがいろいろ教えてくれました。どんなに教えてもらっても、最初のうちは、それを頭の中で思い出してやっていたので、時々忘れることがありましたが、毎日やっているうちに、いつの間にか身についていきました。からだで覚えたのです。そして、もう忘れるということはありませんでした。

みことばも同じです。日々実行しているなら、身についていきます。聖書のどの箇所に書かれていたかは覚えていないかもしれませんが、からだで覚えているのです。そして、この場合、忘れることはありません。みことばを覚えているというのは、記憶だけの問題ではないのです。みことばを実行するなら、身についていきます。そして、その生活が変えられていくのです。それで、忘れることはありません。逆に、実行しなければ、決して身につくことがなく、生活も変わりません。それで、忘れていくのです。その結果、神様からの祝福も失ってしまうのです。ですから、聖書は、みことばを実行する人になりなさい、と言っているのです。

 

では、どうしたらみことばを実行することができるのでしょうか。25節をご覧ください。ここには、「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」とあります。

 

聞いたみことばを「よし、それじゃ実行するぞ!」と、自分の力や意志で行おうとしても、それは無理なことです。私たちのたましいは罪の力に縛られているので、自分の力ではどうすることもできないからです。しかしここには、「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。」とあります。「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめる人は、事を、みことばを、実行する人になれるのです。では、完全な律法とか、自由の律法とは、何でしょうか。

 

神は、イスラエルを神の民として選び、一方的な恵みの契約を結び、イスラエルの民に救いの恵みに対する応答として律法を与えられました。その律法は、神を愛し、隣人を愛することを命じるものでしたが、イスラエルの民は、その神の律法を守ることができず、契約の民として失格したのでした。律法は完全なものですが、不完全な人間はどうしてもそれを行うことなどできなかったからです。律法というのは、ヤコブ2章10節にあるように、律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となるからです。律法のすべてを完全に行うことができる者などだれもいないのです。よって、すべての人が罪びとであり、だれもこの律法を守り行うことができる者などいません。それなのに、その律法が自由を与えるものであるというのは、それが文字による規則や決まりではなく、エレミヤが言っているように、主が人の中に置き、その人の心に書き記されたものだからです。エレミヤ31章33節にはこう書かれてあります。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれをかきしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 

この新しい契約は、旧約の律法のように外側から守るように呼びかけられるようなものではなく、その人の心に書き記されるものです。それは神がひとり子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、このお方の十字架と復活を通して罪の贖いを通して、この方を信じるすべての人に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださるというものでした。この方によって私たちは罪の支配から解放され、御霊の力によって神と人とを愛することができるようにされたのです。つまり、この「完全な律法、すなわち自由の律法」とは、イエス・キリストとイエス・キリストの福音のことなのです。

 

それはイエス様のことばからもわかります。イエス様は、ヨハネの福音書8章31節でこう言われました。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

何があなたを自由にするのでしょうか。真理です。真理はあなたがたを自由にします。その真理こそイエス・キリストご自身なのです。イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)とも言われました。

 

ですから、イエス様が私たちを自由にしてくださいます。私たちは自分のちからで罪に打ち勝とうとしてもできません。みことばを実行しようとしても、私たちにある罪の力や肉の力が強力で、実行できないのです。しかし、真理はあなたがたを自由にします。イエス様はそんな弱い私たちを助け、自由にしてくださるのです。

 

ですから、私たちに必要なのは、このイエス様と一つになることです。歯を食いしばって、自分で何とかやってやろう、と言うことではなく、イエス様に信頼することなのです。このイエスに信頼して、その交わりの中にとどまることなのです。

 

イエス様はそのことを、ぶどうの木のたとえを通して教えられました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

(ヨハネ15:5)

 

皆さんは多くの実を結びたいですか。そうであるなら、イエス様にとどまってください。枝が木についていなければ、枝だけで実を結ぶことはできません。だけど、木についている枝は実を結びます。つまり、イエス様にとどまっていることが、多くの実を結ぶ秘訣なのです。キリストが私たちに、みことばを実行したいという願いを持たせて、それを実行させてくださると信じて歩むなら、キリストが実行させてくださり、私たちは多くの実を結ぶことができるのです。

 

ですから、みことばを実行する秘訣は、いつもイエス様と一体であることを覚えて、イエス様を信頼して歩むことです。それが自由の律法を一心に見つめて離さないということです。そういう人は、みことばを実行する人になります。そして、その行いによって祝福されるのです。

 

あなたはどうですか。みことばを聞いていますか。みことばを聞いて、それを心に留めておられますか。また、みことばを実行しているでしょうか。そのためにもどうぞイエス様から目を離さないでください。イエス様を信じて、このイエスのうちにしっかりと留まってください。そうすれば、あなたもみことばを実行する人になり、その行いによって祝福される人になるのです。

ヤコブ5章13~20節 「祈りの力」

きょうは、ヤコブの手紙の最後の箇所から、「祈りの力」と題してメッセージを取り次ぎたいと思います。

ヤコブは、前回のところで、苦難と忍耐について語りました。クリスチャンは世にあっては患難がありますが、主が来られる日が近いということを覚えて、忍耐するようにと勧めました。

今回のところには、そのように苦しみを耐え忍んで主の来臨を待ち望むにあたり、クリスチャンがしなければならないことは何かを教えています。それは祈りです。ここには「祈りなさい」という言葉が何度も繰り返して強調されています。私たちは、祈りを通して神に、私たちの苦しみを知っていただくのです。その時、神はその苦しみから私たちを引き上げてくださいます。きょうはこの祈りについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.祈りなさい(13)

 

まず13節をご覧ください。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」

 

苦しんでいる人がいたら祈りなさい。喜んでいる人がいたら賛美しなさい。実にシンプルで分かりやすい勧めです。いったいなぜこのようなことを勧めているのでしょうか。頭ではわかっているようでも、実際には忘れているからです。私たちは苦しみに会うとパニックになり、泣いたり、騒いだり、落ち込んだり、つぶやいたりしますが、祈りません。また逆にうれしいことがあるとそのことを喜びますが、神に感謝したり、賛美したりしないのです。あたかもそれを自分の手で成し遂げたかのように思い込み、「オレもまんざらじゃないな」とうぬぼれてみたり、「こうしたからうまくいったんだ」と、むなしい誇りを抱いたりするのです。

ここでヤコブは、主の再臨を待ち望むクリスチャンは、逆境の中で苦しんでいる時も、順境の中で喜んでいる時にも、いつも神に祈るようにというのです。なぜなら、祈りは神に向かってなされるものだからです。「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5:19)これが主の来臨を待ち望む者の姿なのです。

 

イエス様が祈っておられる姿を見て思わず引きつけられた弟子たちは、ある時イエス様に、「祈ることを教えてください」と言いました。このときイエスが教えてくださったのが、「主の祈り」です。その祈りは、「天にいます私たちの父よ」(マタイ6:9)という呼びかけで始まります。なぜでしょうか。祈りがこのように呼びかけから始まるということは、そこに神がおられることを前提にしているからです。私たちがどんな時でも祈らなければならない理由はそこにあります。それは神との会話であり、神への信仰そのものなのです。

 

皆さん、人はいったいなぜ祈るのでしょうか。太古の昔から、人はあれ狂う自然の驚異や疫病の猛威におびえ、ただひたすら祈り続けてきました。そして、科学や医学が発達し多くの不安を克服してきた今日でも、その祈りをやめようとしないのはどうしてなのでしょうか。それは人の心の奥底にこうした神への思いがあるからです。

 

ある教会の門のところに1通の手紙が届いたそうです。きちんとした鉛筆の字で、女の子らしい便箋に、こう書いてありました。「神様へ。わたしは受験生です。来週の日曜日から、高校入試がはじまります。いままで、わたしなりに高校に合格できるように勉強してきました。でも、合格できるか心配です。だから毎晩、『合格しますように』とお祈りしています。でも、わたしなんかの願いを神様が聞いてくださっているのかわからないので、教会にわたしの願いを持ってきました。」  そして、2つの高校の名前と受験日があって、最後に、「どの日も、わたしの持っている力をすべて出し切れますように」と書かれてありました。  それで、その教会では祈祷会でその手紙を紹介し、みんなで名前の知らないこの女の子のために祈りました。

私は、この女の子の手紙の中に、人間に共通する訴えのようなものを感じます。「わたしなりに勉強してきました・・・でも不安です」。私たちの「私なりに」が、人生の解決にはならないのです。最善を尽くしてもそこになおも不安は残り、なおも空しさが残り、もどうにもならない問題が山のようにあるのです。だから、人は祈るのです。

 

それからもう一つ、「果たして、私なんかの願いを、神さまが聞いてくださっているのかわからない・・」ということですが、おそらく人間は、いつもそう思ってきたのではないでしょうか。ですから、イエスさまが祈っておられる姿に、弟子たちは思わず引きつけられて、「主よ。祈ることを教えてください」と言ったのではないでしょうか。

 

幸い私たちは、聖書を通してこの神様がどのような方であるかを知りました。神様は天地を造られた創造主であり、罪によって神から離れた私たちのために救い主イエス・キリストを遣わしてくだった方であり、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、罪を贖ってくださいました。それゆえに、この救い主を信じる者を義と認めてくださり、ご自身の子としてくださると約束してくださいました。神様が父であるということは、私たちにとって何が最善であるのかを知っておられるということであり、私たちはこの神様に信頼して祈ることができるということなのです。それがこの「天にいます私たちの父よ」という呼びかけなのです。

 

私たちはもともと神に向かって祈る者であるはずなのに、どのように祈ったらいいかわからないと、いつしか祈ることを止めてしまいました。そうではなく、天にいます私たちの父よと、もっと単純に、もっと純粋に、天に神に向かって祈らなければなりません。こんなことを祈ったら変じゃないかな、これはご利益の祈りに違いない、こんな祈りを神さまが聞いてくださるはずがないという前に、これらすべてをひっくるめて神に向かわなければならないのです。それが祈りなのです。神様は、私たちがどのように祈るかということよりも、私たちにとって神様がどのような存在であるのかを知り、神様ご自身を求めることを願っておられるのです。ですから、私たちは「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しな」(エペソ5:19)ければなりません。苦しんでいる人がいれば、その人は祈ってください。喜んでいる人がいるなら、その人は賛美してください。私たちはいつでも、すべてのことについて、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する者でありたいと思います。

 

Ⅱ.祈りの力(14-18)

 

第二のことは、信仰による祈りには力があるということです。14節から18節までをご覧ください。

「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

 

ヤコブは祈りについて話を続けます。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。」

 

初代教会は、苦しみのために祈り、またあらゆる時に感謝する教会でしたが、それと共に病気のために祈る教会でした。ユダヤ人は、病気になると医者の所へ行くよりも、教会の指導者のもとへ行きました。すると指導者はオリーブ油を塗って祈ったのです。このように初代教会は病気の人のために祈り、神の力をあかししたのです。

 

現代の教会はどうでしょうか。だれかが病気になったら、どれだけの人が教会の指導者たちのところへ行って祈ってもらうでしょう。教会で祈ってもらうよりも、どの病院に行ったらいいかを調べ、あたかも医者が神様であるかのように思い込んでいるところがあります。しかし、どんなに時代が進歩しても、私たちはまず神様が病気を癒してくださるように求めて祈らなければなりません。それは、病院に行ってはならないということではなく、たとえ病院で治療するにしても、それさえも神の恵みと導きによるものと信じて、感謝しなければならないのです。

 

ここには、病気のために祈ってもらうことについて、四つのことが勧められています。

第一に、あなたがたのうちに病気の人がいたら、その人は、教会の長老たちを招き、とあるように、まず招かなければならないということです。どういうことでしょうか。イエス様が病気の人をいやされた時、その多くの場合、彼らがイエス様のところに来て、いやしを求めました。ベテスダの池で38年間も病気で伏せていた人のように、イエス様の方から近づかれたというケースもありますが、その場合でもイエス様は彼に、「よくなりたいか」と尋ねられ、その人から「よくなりたい」という気持ちを引き出されました。つまり、この病気の人のための祈りは、その人の中に神様にいやしていただきたいという強い願いがあって、初めて成り立つということです。イエス様は、「求めなさい。そうすれば、与えられます。捜しなさい。そうすれば、見つかります。たたきなさい。そうすれば、開かれます。」(マタイ7:7)と言われましたが、病気のいやしのために、神に求めなければなりません。

 

第二のことは、ここに「長老たちを招き」とあるように、いやしのために祈ってもらう時には複数の長老たちに祈ってもらう必要があるということです。なぜでしょうか。それはいやしてくださるのは神様であって、長老たちではないからです。とかく私たちはいやしてくださる方よりも、いやしのために祈る人をあがめてしまう傾向がありますが、そのようにして神の栄光を奪う罪を犯すことがないように注意すべきです。

 

第三のことは、主の御名によって祈ることです。ここに、「主の御名によって・・祈ってもらいなさい」とあります。主の御名によって祈るとは、主ご自身がいやしてくださることを信じて祈ることです。主の御名には力があります。それは、この天と地を造られた創造主の御名であり、罪の中から人々を救い出すことができる救い主の御名なのです。

 

第四のことは、オリーブ油を塗って祈ってもらうということです。オリーブ油を塗っていやしてもらうとはどういうことでしょうか。オリーブ油に何か特別な力があるというわけではありません。確かに、旧約時代にはオリーブ油が病の治療にも使われていました。しかし、それはオリーブ油に何か特別ないやしをもたらす成分が含まれているということではなく、このオリーブ油が、ある特別な意味を表していたからなのです。それは何かというと、神の臨在です。ゼカリヤ書4章には神殿の燭台についての幻が記されてありますが、その燭台の油とは神の御霊の象徴でした。したがって、オリーブ油を塗って祈るとは、神の御霊がいやしてくださると信じて祈ることを表わしています。このようにオリーブ油を塗って祈ることで、主ご自身がいやしてくださると信じて祈るところに、主の御力が現されるのです。

 

それは言い換えるなら、「信仰による祈り」と言えます。このような信仰による祈りは、病む人を回復させます。そして、主はその人を立たせてくださいます。ですから、あなたがたのうちに病気の人がいるなら、その人は教会の長老たちを招き、オリーブ油を塗って祈ってもらわなければなりません。信仰による祈りは、病む人を回復させるからです。

 

さらに、ここには、「もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」とあります。病気のいやしの祈りのところで、どうして急に罪の話が挿入されているのでしょうか。それは、当時のユダヤ人は、病気は罪の結果であると考えていたからです。今日私たちは、必ずしも病気が罪の結果であるとは考えていません。しかし、病気と罪とが関わりを持っている場合があることは確かなことです。何らかの罪を犯しているために、それが肉体的な病となって現われるときがあるのです。たとえば、だれかが人を恨んだり憎んだりしているとそれが精神的な病となって現われ、さらに肉体的にも影響を及ぼすことがあります。そういう意味で、神との正しい関係は人間の存在と生活のあらゆる部分で健康を保つうえで重要な要素であることがわかります。

 

もちろんすべての病が罪に起因しているわけではありません。イエス様が、生まれつきの盲人をごらんになられて、彼がそうなったのはその人の罪のためでもなく、両親の罪でもなく、神の栄光が現われるためだ、と言われましたが、そのような病もあるのです。またアダムが罪を犯した結果、土地は呪われたものとなり、だれも病気から免れることはできないばかりか、最終的にはみな死ななければならなくなりました。そういう意味では、こうした病も含め、すべての不幸の原因は、この罪に由来していることがわかります。

 

それゆえ、私たちは、互いに罪を言い表し、互いのために祈らなければなりません。いやされるためです。ただ、ここにある「互いに罪を言い表す」というのは、互いに罪を告白し合うことではありません。罪を告白するのは、神に対してなされるものであって、人に対してなされるものではないからです。ですから、この「互いに罪を言い表す」というのは、自分の過ちを言い表して、と言い換えることができます。私たちはとかく、クリスチャン同士が集まると、自分の弱さを語りたがらないものです。今、こういった悩みがある、こういった苦しみがある、だから祈ってほしい、と言いにくいのです。いつもきちんとしていなければいけない、いつも模範的でなければいけないと思い込んで、気が張っているわけです。けれども、教会はそういうところではありません。何でも言っていいところだとは思いませんが、少なくても自分の弱さを分かち合い、互いのために祈り合い、主からのいやし受ける場なのです。肉体的な病も同じように、私たちは教会において祈ってもらい、そしていやしを受けます。あるいは自分の霊的な病についても祈ってもらったら、肉体の病もいやされる、という場合もあります。いずれにしても、互いに分かち合い、互いに祈り合い、互いにいたわり合って、主のいやしを受ける場なのです。なぜなら、義人の祈りは働くと大きな力があるからです。祈りは神の全能を人々にもたらす、神の無限の力なのです。その無限の神の力が、教会にあふれているのです。

 

ヤコブはここで、その祈りの模範としてエリヤという人物を例に取り上げています。エリヤについては、旧約聖書のⅠ列王記17,18章にあります。当時のイスラエルの王で邪悪な王であったアハブ王と王妃イゼベルが、イスラエルの民を真の神ではなく、偶像礼拝に導いたため、エリヤは雨が降らないように祈ると、神は刑罰として3年6カ月の間、地に雨が降らせませんでした。そして、今度は再び雨が降るようにと祈ると、神はエリヤの祈りに答えて雨を降らせ、地は再びその実を実らせたのです。

 

ここで重要なのは、エリヤは「私たちの同じような人でしたが」という点です。彼は超人ではありませんでした。私たちと同じような普通の人でした。私たちと同じように感情の面で弱さがあり、肉体的にも弱さも持っていた普通の人だったのです。実に彼はうつになり、落ち込んで、自殺願望まで抱いた人です。けれども、そんな彼でも祈ったら、雨が降らないようにすることができました。そして、降らないだけではなく、また降らせることもできました。なぜでしょうか。義人の祈りは働くと大きな力があるからです。この場合の「義人」とは、特別な人という意味での義人ではなく、キリストを信じて神の義とされた人、キリストという義にしっかりと拠り頼んでいる人、という意味です。自分自身に頼らず、キリストのみを自分の正しさとして、この方の知恵によって生きる人のことなのです。そういう人の祈りには力があるのです。

 

インディアンに伝道したデービット・ブレイナードは、そのような祈りの人でした。彼が祈りによって成し遂げたわざは、まことにすばらしいものでした。ブレイナードの伝記を書いたゴードン博士は次のように言っています。

「彼はインディアンのことばに通じていなかったが、ただひとり森の中へ奥深くはいって行き、終日そこで祈っていた。彼が祈っていたのはなぜか。彼はインディアンに接触することができなかったからである。すなわち、彼らのことばを理解できなかったのである。もし話そうとするなら、自分の思いを少しでも通訳してくれる人を捜さなければならなかった。そこで彼は、自分のこれからしようとすることがなんであっても、それを全く神の御力によってしなければならないことを知っていた。彼は、聖霊の力がまちがいなく彼の上に臨み、インディアンたちが彼の前に立つことができないまでになるようにと、終日を祈りに費やした。その結果どうだったか。あるとき彼は、立っていることさえ困難なひどい酔いどれを通訳にして説教した。それが彼のできる最善であった。しかし、その説教で、多くの者が回心したのである。彼の背後にある神の驚くべき力の表れであったという意外、私たちには説明しようがない。」

 

まさに、義人の祈りは働くと、大きな力があるということの現われではないでしょうか。そしてそれはエリヤやデービッド・ブレイナードに限ったことでなく、キリストを信じて、キリストに拠り頼んで生きるすべての人に同様に言えることなのです。私たちも平凡な、普通の人ですが、キリストに信頼して祈る者にさせていただこうではありませんか。

 

Ⅲ.忍耐の祈り(19-20)

 

第三のことは、祈りには忍耐が求められるということです。19節と20節をご覧ください。

「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」

 

ヤコブは最後に、真理から迷い出た者を連れ戻す働きについて語っています。そうした罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうことである、というのです。

 

「真理から迷い出た者」とは、もちろんイエス・キリストの真理から迷い出た者のことです。それは当然行いにも現われてきます。罪を犯し、罪の生活へとのめり込んでいくのです。このような人のために祈ることは、なかなか難しいことでもあります。まだ真理を知らない人のために祈り、そのために労することはそれほど苦になりませんが、ひとたびキリストを信じて真理に入れられたにもかかわらず、自分勝手な道に歩み、そこから迷い出た人がいれば、その人のために祈り、その人を連れ戻すという働きは並大抵のことではありません。それは身から出た錆であり、まさに自業自得なのです。そんな人のために自分の身を削るなどもってのほかです。

 

しかし、それは20節にあるように、罪人のたましいを死から救い出すことであり、多くの罪をおおうことなのです。Ⅰペテロ4章8節には、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とありますが、これが神の共同体である教会に求められていることなのです。これは罪を隠すことではありません。罪を犯した後で、それを悔い改めた人の、その罪を思い出さないということです。そのような愛の共同体があることは、何と幸いなことでしょうか。過去の罪が問われないのです。だれからも裁かれることなく、ただイエス様だけを愛して、キリストをあがめる生活に立ち戻れるということは、本当に大きな喜びです。教会は、キリストを知らない人々を救いに導くことも大切ですが、同様に、キリストを知って迷い出た人を回復させることも大切なことなのです。なぜなら、そのためにキリストは十字架につけられ、死んでよみがえられ、そして今も働き続けておられるからです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたは神の真理から迷い出てはいませんか。自分では正しいと思っていても、いつしか神の真理から迷い出ていることがあります。しかし、もしあなたが自分の罪を告白して、悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。

 

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

 

これが、神の約束です。どうか、主に立ち返ってください。イエス・キリストは、あなたを赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださいます。あなたのたましいは死から救い出され、神のいのちに引き戻されるのです。そして、あなたと同じように、真理の道から迷い出た人がいるなら、私たちはそのために祈り、その人が迷いの道から引き戻されるように労していく者でありたいと願わされます。それが神の来臨を待ち望んでいる教会の姿なのです。互いに罪を言い表し、互いに真理に堅く立ち続けることができるように励まし合い、互いに罪をおおい、互いに祈り合いながら、神のみこころにかなった歩みを目指していきましょう。それが、ヤコブが私たちに強く言いたかったことだったのです。

ヤコブ5章7~12節 「苦難と忍耐について」

きょうは、「苦難と忍耐について」というタイトルでお話しします。7節には、「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。」とあります。「こういうわけですから」というのは、ヤコブがこれまで語って来たことを受けてのことです。ヤコブは5章前半で、富の惑わしについて語りました。1節には、「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」とあります。なぜなら、金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

 

一方で、そうした金持ちたちに搾取され、苦しんでいる人たちがいました。神がおられるならどうしてこのようなことを許されるのか、という思いの中で忍耐を余儀なくされる人たちがいたのです。しかし、そのような状態がいつまでも続くわけではありません。やがて、終わりの日がやって来ます。その時には、神は正しくさばいてくださいます。いつまでも悪がはびこっているわけではありません。不正をして富を得、それをもってぜいたくに暮らし、快楽に身をゆだね、自分の心を太らせた貪欲な者たちに対しては、必ず神の正しいさばきが下されるのです。「こういうわけですから」、主が来られるまで耐え忍びなさい、と勧めているのです。

いったいどのようにして忍耐したらよいのでしようか。きょうはこのことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.農夫のように(7-8)

 

まず7節と8節をご覧ください。

「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」

 

耐え忍ぶことについてヤコブは、農夫のたとえを使って説明しています。どういうことかと言うと、農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待つように、あなたがたもそのように耐え忍びなさいということです。農夫は、種を蒔いて一夜明けたらすぐに刈り取るというわけにはいきません。収穫には時間がかかります。しかも、自分の力で天候を決めようとしてもできません。実に長い忍耐を強いられます。私のように忍耐のない者には農夫の仕事は務まりませんね。

 

「秋の雨」と「春の雨」は、イスラエルの二つの雨季のことです。「秋の雨」はだいたい十月下旬から十一月上旬に降る雨のことです。この雨がないと蒔かれた種は発芽しないと言われています。春の雨とは三月と四月に降る雨のことで、この雨が降らないと、穂は十分に生長しません。秋の雨と春の雨があって、四月からの大麦や小麦の収穫を迎えることができるのです。農夫は、それまでじっと待たなければなりません。同じようにクリスチャンも、キリストが再臨されるまでじっと耐え忍んで待たなければならないのです。

 

それは、4章13節にある人たちとは非常に対照的です。そこには、「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人の姿が描かれていました。彼らは、自分で考え、自分で計画を立て、自分の力で何でも成し遂げようとしますが、農夫は自分にできることをしたら、あとはただじっとその時を待つだけです。これが、主を待ち望む者の姿、クリスチャンの姿なのです。

 

ところで、8節を見ると、ここにはただ耐え忍びなさいとあるだけでなく、「心を強くしなさい」とあります。どういうことでしょうか。私たちが、耐え忍ぶときに陥りやすい弱さの一つは、意気消沈することです。この世はクリスチャンにとってますます住みにくいところになっています。この世の関心は自分のことだけなので、神に対しては全く無関心だからです。主イエスは、世の終わりの最も大きなしるしは、人々の愛が冷たくなることだと言われました(マタイ24:12)。それはクリスチャンにとって大きなプレッシャーです。そのプレッシャーに耐えるのがつらくて、苦しくて、がっかりしてしまうことがあるのです。ですから、ヤコブはここで、「心を強くしなさい」と言っているのです。

 

いったいどうしたら心を強くすることができるのでしょうか。ここには、「主が来られるのが近いからです」とあります。主の来臨が近いということを知るとき、私たちの心は強くなります。それはちょうどマラソン競争と同じで、42.195キロの長いマラソンコースを走り抜き、もうすぐゴールだということがわかると不思議な力が沸いてきます。これまで苦しいこと、辛いこともあったけど、それが報われる時がやって来る。その希望で心が強くされるのです。同じように、主の日が近いという希望があるなら、心に励ましを受けます。

 

パウロも、ペテロも、ヨハネもそうですが、彼らは皆、自分たちが生きている間に主が戻って来ることを期待していました。それは、この手紙を書いているヤコブも同じです。主が来られるのは近いのです。それは何千年も後の、いつになるかわからないずっと遠い先のことではなく、もうすぐ起こることなのです。今にも戻ってくるという希望です。そしてその希望こそが、私たちの心を強くしてくれるのです。ですから、主の来臨を待ち望むことはとても重要なことなのです。

 

第一コリント16章21節に、「マラナ・タ」という言葉がありますが、これは、「主よ、来てください」という祈りです。ある人は、この祈りこそ祈りの中の祈りであり、すべての祈りの源泉としての祈りである、と言いました。その祈りにすべての祈りが要約されるからです。なぜなら、この祈りの中にこそ、主を待ち望ませる力があるからです。それは信じる者たちに、望みを与えるのです。

 

私は最近、韓国のコ・ヒョンウォンという宣教師が作詞・作曲した賛美「マラナタ/主が来られる日まで」を聞いて、ものすごい感動を覚えました。

マラナタ 主イエスよ!早く来てください。

地の果ての全ての民 主を賛美させたまえ。

マラナタ 主イエスよ!早く来てください。

世の民が主に戻って 踊り崇めさせたもう。

 

わが主の来られる道を備えよう

十字架を持って、地の果てまで行こう

わが主の栄光、地をおおう時、

われ地の果てで主を迎えよう。

☆マラナタ、マラナタ

アーメン主イエスよ!来てください。(×2)

 

主が来られる日までこの道を歩む 険しい道 十字架を背負い この道の果てで 愛する主に会える 栄光のわが主 我を迎える 主の来られる日まで 立ち上がり 進み行く 主の栄光あふれる日 立ち上がり 賛美せよ ☆愛するわが主 救いの神 栄光のわが主 王なる主イエス
すばらしい賛美です。この賛美には、どんな困難があっても、この信仰の道を進ませる力があります。その力は栄光の主が来られることによってもたらされる希望です。この希望があるからこそ、私たちはこの信仰の道を進み行くことができるのです。この道の果てで愛する主に会える。その時、栄光の主が私たちを迎えてくださいます。それは私たちにとって躍り上がる喜びの時です。これは希望ではないでしょうか。この希望があるから、この希望が近づいているから、あなたがたも耐え忍びなさいというのです。

 

Ⅱ.互いにつぶやき合わない(9)

 

第二のことは、互いにつぶやき合わないということです。9節をご覧ください。「兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」

 

これは主が来られるのをどのようにして待つべきなのか、そのあり方です。いったいどのようにして主の来臨を待ち望んだらいいのでしょうか。互いにつぶやき合わないということです。「つぶやく」とは、ぶつぶつということ、つまり不平不満を言うことです。例えば、現状などに満足できなくて不愉快に思い、その思いを述べることです。そのように不平を言ってはいけません。なぜなら、それは神のみこころにかなわいないことだからです。よってこのような態度を取り続けるならば、神にさばかれることになります。

 

パウロはこのことを第一コリント10章5節でこのように言っています。「にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」(1コリント10:5)

彼らとは、旧約聖書時代のイスラエルの民のことです。彼らは神に対して、また、神が立てた指導者モーセに対してつぶやきました。すると、彼らはどうなったでしょうか?「彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」(1コリント10:10)「滅ぼす者」とは神ご自身のことです。神が立てた指導者に対してつぶやくことは神に対してつぶやくことであり、それで彼らは神によって滅ぼされてしまいました。

そして、続けて、パウロはこう語っています。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(1コリント10:11)  旧約時代のイスラエルの民に起こったことは、戒めであり、万物の終わりが近づいている時代に生きる、私たちへの教訓だったのです。だから、つぶやかないようにしよう。不平を言わないようにしましょう。それは、神のみこころにかなわないことなのです。

 

ヤコブはそのことを、ここでも主の来臨との関係で語っています。「見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」つまり、互いにつぶやかないということは、万物の終わりが近づいている今だからこそ、特に注意しなければならないことなのです。

 

そのことをパウロは、エペソ人への手紙の中で次のように言っています。「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」(エペソ5:15-16)

世の終わりが近づいている今は悪い時代だからこそ、よくよく注意しなければなりません。私たちの人生には思うようにいかないことや嫌なことがたびたび起こるためすぐにつぶやいたり、不平不満を言いたくなりますが、それは決して賢い人のようではありません。賢い人とはどのような人なのかというと、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いる人です。愚かにならないで、主のみこころは何であるかをよく悟り、御霊に満たされ、詩と賛美と霊の歌とにより、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美します。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝するのです。不平を言いたくなることについては、公平に、すべてを知り、最終的なさばきをなす事ができる方にゆだねなければなりません。さばきの主が戸口まで来ているからです。それを見なければなりません。そのさばきに先だって、勝手に不平不満を言うべきではなく、そのさばきを主にゆだね、忍耐して、主が来られるのを待たなければならないのです。

 

Ⅲ.預言者たちの模範(10-11)

 

第三ことは、預言者たちの模範です。10節と11節をご覧ください。

「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」

 

私たちがこれから経験しなければならないこと、あるいは今経験していることが、すでに他の人が経験済みであるということは、どんな場合でも大きな慰めとなります。ですから、ここでヤコブは、苦しみの中において耐え忍ぶことを学ぶために、預言者たちを模範にしなさいと言っているのです。預言者は、自分が生きている時代の人々に、神のことばを語るために立ち上がった人たちですが、その立場のゆえに、迫害に会い苦しみました。その預言者たちを模範にしなさい、というのです。

 

その中でも、苦難と忍耐についての最も典型的な模範はヨブです。このヨブの忍耐のことについては、当時の人々もよく聞いていました。ヨブは非常に忍耐強い人でした。

 

彼はウツの地で一番の大金持ちで、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。そんな彼が、ある日、彼の多くのしもべと家畜が一瞬にして殺され、また台風が襲い彼の10人の息子と娘までも失ってしまいました。そればかりか、彼の身体を足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物が打ったのです。彼は唾も自由に飲み込めなくなりました。人々は彼につばを吐きかけ、友人たちまでも彼を冷やかしました。ヨブは、彼の顔が赤くなるまで神様に向かい涙を流しながら、主が私を打たれたことによって私の望みを木のように抜き去られたのだと、自分の苦しみを告白しました。

それでもヨブは、罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。(ヨブ1:20-22, 2:10)。むしろ自分の無知、自分の不足さを悟り、悔い改めたのです(ヨブ42:1-6)。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)と、偉大なる信仰の告白をしました。

その結果どうなったでしょうか。ヨブは最後まで信仰の聖さを守ったので、主はヨブの所有物をすべて二倍にされました(42:10)。主はヨブの前の半生よりもあとの半生をもって祝福されました(42:12)。

 

このようにヨブは、失敗してもみくちゃにされながらも、耐え忍びました。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方ですから、不完全な私たちをも、その忍耐のゆえに報いてくださいます。あわれみ深い主に期待して、忍耐するのです。

 

私たちは、ヨブのような迫害を受け、極度の貧しさの中にいる訳ではありませんが、この複雑な社会の中で、豊かで安定した社会の中で、信仰のゆえに、これまでにない形でストレスに悩まされることがあります。しかし、そのような中でも私たちは、主がもうすぐ近くまで来ているということを見なければなりません。その時主はヨブになさったように、私たちにも報いてくださいます。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。この希望のゆえに、私たちは試練と困難を耐え忍ぶことができるのです。ですから、私たちも主が来られる時まで耐え忍びましょう。多くの苦難と困難にあっても、心を強くして、ひたすら主を待ち望みたいと思います。

ヤコブ5章1~6節 「いま持っているもので満足しなさい」

ヤコブの手紙の最後の章に入ります。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(2:26)と、行いの伴った生きた信仰とはどのようなものなのかを具体的な例をあげて語ってきたヤコブは、この最後のところで富の問題を取り上げています。

 

1節には、「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」とあります。必ずしも、お金持ちが悪いというのではありません。聖書では、お金そのものは悪であるとか、裕福であることが罪であるとは教えていません。聖書で問題にしているのは金持ちになりたがること、つまり、お金に貪欲であることです。神よりもお金を愛すること、お金が神になってしまうことなのです。なぜなら、そこには多くの誘惑とわながあるからです。Ⅰテモテ6章9~10節にはこうあります。

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」

金を追い求めたために、信仰から迷い出ることがあります。ヤコブはこの欲についてはたびたび語ってきました。欲そのものは問題ではありませんが、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。その大きな誘惑の一つがお金なのです。お金に貪欲になると信仰から迷い出て、悲惨な結果を招くことになってしまいます。ですから、金銭を愛するのではなく、神を愛し、神によって与えられているもので満足しなければなりません。

 

どうしたら満足することができるのでしょうか。きょうはこの富に対してどうあるべきなのかを、聖書から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.天に宝をたくわえる(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」

 

「あなたがた」とは、この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちのことです。彼らの中には神を愛していると言いながら、実際にはそうでない人たちもいました。彼らが愛していたのは神ではなくお金でした。彼らは口先では神を信じていますと言っても、その行いはそれを否定するものでした。貪欲によってお金を愛することが、彼らの心を支配していたからです。そのように彼らに向かってヤコブは、「あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。」と厳しく警告しています。

 

なぜ泣き叫ばなければならないのでしょうか。それは、彼らにどんなに富があっても、やがて神の前に立つとき、彼らが頼りとしていたその富が、神のさばきから彼らを救うことはできないからです。この地上の富は一時的なものであり、いつまでも続くものではありません。それなのに、神ではなく富を頼りとして生きるなら、やがて終わりの日に、そのような者に迫りくる悲惨な結果がどのようなものであるかを見たら、泣き叫ぶしかありません。

 

2節と3節をご覧ください。

「あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀はさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。」

 

ここには、彼らが頼りとしていたものがどのようなものであったかが述べられています。当時、財産を代表するものが三つありました。それは食べ物、着物、そして金銀です。食べ物というのは大麦や小麦などの穀物のことですが、それらは収穫すると倉にたくわえられました。しかし、たとえ何年分もたくわえてもそれを使わなかったら、それはやがて腐ってしまいます。そうなればすべてが無駄になってしまいます。どんなに蓄えても神の前に富まないと腐ってしまうことになります。

 

着物はどうでしょうか。着物も、当時は大切な財産の一つでした。それは商売の取引としても使われました。また、親から子に相続される価値ある物でもありました。けれども、どんなに価値があるからといっても、それをただしまっておくだけなら意味がありません。やがて虫に食われて使い物にならなくなってしまうからです。何の値打ちもなくなってしまいます。

 

もう一つは金銀です。金銀は虫に食われることはありませんが、別の問題がありました。それはさびです。今のように純金であればさびることはありませんが、当時の金銀は混合物だったので使わずにおけばさびることがありました。

 

そればかりか、ここではそのさびが、あなたがたを責める証言となるとあります。どういうことでしょうか。証言というと、すぐに思い浮かべるのが裁判です。裁判で証人が立たせられると、その証人がいろいろと証言するわけですが、ここではそのさびが証言するというのです。どのように証言するのでしょうか?「私がさびです。私が、この人が愛した元金銀です。この人はずっと私を愛していました。でも、長年使わずにいたのでこんなにさびてしまったのです。この人が私を無駄にしました。今ではもう何の役にも立ちません。こんなにさびてしまいました。全部この人のせいです。」と言って、あなたを責めるのです。

 

そればかりではありません。ここには、そのさびが「あなたがたの肉を火のように食い尽くします。」とあります。火のように食い尽くすというのは、神のさばきを表しています。さびが火のようにあなたをさばくのです。そのように金銀を自分のためにたくわえることは、終わりの日のさばきのために財宝をたくわえることになるのです。

 

いったい何が問題なのでしょうか。前にも申し上げたように、金銀をたくわえることが問題なのではありません。金持ちであることが罪なのではないのです。問題は、あなたがそれをどこにたくわえているのか、何のためにたくわえたのかということです。というのは、そのことによってあなたの心がどこにあったのかがわかるからです。

 

イエス様は、あなたの宝のあるところに、あなたの心もあると言われました。マタイの福音書6章19~21節です。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

 

もしあなたが、自分の宝を地上にたくわえるのなら、あなたの心は地上にあります。しかし、もしあなたの宝を天にたくわえるなら、あなたの心は天にあります。あなたの心のあるところにあなたの宝もあるからです。それによって、あなたが何を頼りに生きているかが明らかにされます。天に宝をたくわえるなら、その人は神を第一にしていることが証明されるので永遠のいのちを受けますが、地上に宝をたくわえるなら、やがて虫とさびできず物となり、また盗人が穴をあけて盗みます。その最後はさびがあなたを食い尽くすことになるのです。だから、自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。自分の宝は天にたくわえなさい、というのです。

 

あなたの宝はどこにありますか。何のために使っているでしょうか。どうか、この地上にではなく、天に宝をたくわえてください。

 

聖書を見ると、そのような人を何人か見ることができます。たとえば、アブラハムはそうでした。創世記14章を見ると、彼はソドムとゴモラが滅ぼされ、ロトとその財産、それにまた、女たちや人々も奪われると、自分のしもべ318人を招集して敵を追跡し、それを打ち破って奪い返したとあります。

するとシャレムの王メルキゼデクが、パンとぶどう酒を持って来て、彼を祝福しました。するとアブラハムはどうしたかというと、戦利品の十分の一を彼にささげたのです。アブラハムはなぜメルキデゼクに自分の戦利品の十分の一をささげたのでしょうか。それは彼が神に信頼していたからです。このメルキデゼクは受肉前のキリストでした。アブラハムは神に十分の一をささげることによって、自分が何により頼んでいるのかを明らかにしたのです。すなわち、彼はこの地上のものではなく、神に信頼して生きていたのです。その証拠に、この後すぐに、ソドムの王が彼に、「人々は私に帰し、財産はあなたが取ってください。」(創世記14:21)と言ったとき、アブラハムはこう言いました。「私は天と地とを造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何も取らない。それは、あなたが、『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」(同14:22-23)

アブラハムは、徹底的に神により頼みました。この地上のものにではなく天に、神により頼んで生きていたのです。天に宝をたくわえていたのです。それは彼が、神がどのような方であり、神の恵みを知っていたからです。

 

私たちもキリストによって神の恵みを受けました。自分の罪のために滅ぼされても致し方ないような者だったのに、神はあわれんでくださり、こんな者を救ってくださいました。このような者にとって、神の恵みに対するもっともふさわしい応答は、自分を神にささげることであり、神により頼んで生きること、自分の宝を天にたくわえることなのです。

 

Ⅱ.不正な金持ちたち(4-5)

 

第二に、4節と5節をご覧ください。ここには、「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とあります。

 

当時、穀物の収穫の時には、労働者を日雇いで雇いました。そうした労働者たちは、もし賃金が未払いにされるとその日の食べ物にありつくことができなかったので、生きていくことができませんでした。ですから、旧約聖書には、こうした賃金の未払いについて厳しく規定されていたのです。たとえば、申命記24章14節には、「貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。」とあります。また、レビ記19章13節にも、「あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。」とあります。こうした律法の規定は、このような貧しい人たちへの配慮から命じられていたのです。

 

それなのに、そうした神の定めを無視し、支払うべきものを支払わず、貧しい者たちから搾取して、ぜいたくに暮らし、快楽にふけり、自分の心を太らせていた不正な金持ちたちがいました。前にも申し上げましたが、聖書は富そのものを非難していません。金持ちであることが問題なのではありません。問題は、その富を不正に手に入れていたことです。

 

まず4節には「未払い賃金」とあります。この金持ちたちは不正な方法によってお金を集めました。それから5節には、「ぜいたくに暮らし、快楽にふけり」とあります。全く利己的なお金の使い方です。そして6節の前半には、「正しい人を罪に定めて殺しました」とあります。彼らは貧しい人、弱い人、正しい人をしいたげることによって、キリストを再び十字架につけて殺すような罪を犯し、同じ神の民であるクリスチャンを傷つけるようなことをしていたのです。

 

ここには、そうした労働者への未払いの賃金が、叫び声をあげている、とあります。この叫び声は、あまりにも恐ろしい搾取に対する困窮者から出てきた叫び声です。それは万軍の主の耳に届いています。何を隠そう、それは万軍の主を敵に回すことなのです。万軍の主がそうした不正に対して戦われます。5節に、「あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」とありますが、それはちょうど、豚肉のために飼われている豚が、屠殺される日のためにたくさんのえさを食べているようなものなのです。

 

この不正な金持ちたちの問題点は何だったのでしょうか。勿論、それは彼らがそうした賃金を不正に手に入れ、自分たちの懐を肥やしていたことですが、その問題の根本には「自分のために」という利己的な思いがあったことです。イエス様はこのような金持ちは愚かな金持ちであると、たとえを話されました。ルカの福音書12章16~21節です。

「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして、言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

この金持ちの問題は、自分のことしか考えられなかったことです。彼の畑が豊作だったとき、彼は「どうしよう」と考え、「こうしよう」と決断しました。そこには神が入る余地がありませんでした。いつも「私」が中心なのです。「私はどうしよう」、「私はこうしよう」、「私は、あの倉を取りこわして、私は、私の穀物や私の財産をみなそこにしまっておこう。」と、「私が」とか「私の」という言葉がくり返されているのです。これが貪欲ということです。人が貪欲になっていくと、自分の思いや意志が優先して、神のことが入って来なくなるのです。本来であれば、「神さま感謝します。こんなに多くの穀物を与えてくださり、豊かになりました。神さま、これをどのように用いたらよいでしょうか。これらすべてはあなたのものです。あなたが与えてくださったものですから、あなたが良いと思うように用いてください。」と祈るところなのに、彼は「ああ、安心した。この先もう何年分もためられたから、さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しもう。」と言いました。彼は自分のためにたくわえましたが、神の前に富む者ではありませんでした。それゆえに神は、彼を「愚か者」と言われたのです。

 

しかし、それはこの愚かな金持ちだけのことでしょうか。それは私たちにも言えることです。私たちは、この金持ちのようにあからさまな快楽にふけるようなことはしないかもしれません。けれども、自分のことだけを考える利己的な思いがあるのは否めません。他者に対して、触りさわりのない言葉を話しますが、しかしそれ以上のことには関わりたくないという心の貧しさがあります。人に優しくしてふるまっているようでも、心の底では自分が満足すればそれでいいというような思いがあるのです。それゆえに、神が見えない、周りの人々が見えないということがあるのです。そういう状態に陥っていることがあるのです。マザーテレサが来日した時に、日本は精神的貧困状態に陥っていると言いましたが、それはまさに自分の心を太らせている私たちのことでもあるのです。

 

Ⅲ.だから、悔い改めて(6)

 

では、いったいどうしたらいいのでしょうか。6節をご覧ください。

「あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」

 

「正しい人」とは、貧しい人のことです。イエス・キリストを信じて罪が赦され、神の前に義と認められた人のことです。彼らは神を信じていない人たち、つまり、身勝手で、貪欲で、不正な方法によってお金を集めていた金持ちたちによって、ひどい仕打ちを受けていました。それなのに、彼らは金持ちたちに抵抗しませんでした。なぜでしょうか。それは、彼らがキリストを信じていたので、正しくさばかれる方にすべてをゆだねていたからです。

 

神は愛である方であると同時に、義なる方でもあられます。不正や不義をいつまでも放置されるような方ではありません。私たちは時々、「神さまがおられるなら、どうしてあんなことを許されるのか」と思うことがありますが、それは神さまがただ忍耐しておられるだけなのです。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それがいつまでも続くわけではありません。やがて、終わりの時がやって来ます。その時には、そのような悪を正しくさばいてくださいます。いつまでも悪がはびこっていることはありません。不正をして富を得て、それをもってぜいたくに暮らし、快楽に身をゆだね、自分の心を太らせた貪欲な者たちに対して、必ず神の正しいさばきが下されるのです。そのことを知っているので何の抵抗もしないのです。

 

しかし、神のみこころは一人も滅びないで、すべての人が救われて真理を知るようになることです。そのために、神はひとり子をこの世に遣わしてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神の御子を信じる者は、ひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持ちます。だれでもキリストを信じるなら救われて、神の子どもとされるのです。これが福音です。そして、このようにして神の子とされた者は、富についても正しく理解することができます。信仰がなかった時は、お金がすべてでした。お金があれば幸せになれると思っていました。そのために生きていたのです。けれども、イエス様を信じてからは、もっと大切なものがあることを知りました。それは何でしょうか。それは神です。永遠のいのちです。お金よりも大切なものがあると知ったとき、生きるのが本当に楽になりました。お金に支配された生き方から、お金を支配する生き方に、それを神の喜びと栄光のために用いることの喜びを知ったのです。

 

星野富広さんが、「いのちよりも大切なもの」という詩を書かれました。

いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが 嬉しかった

 

皆さん、いのちよりも大切なものとは何でしょうか。星野さんはそれを知るまでは生きるのが苦しかったと言っています。いのちよりも大切なものがあると知ったとき、生きているのが嬉しかったというのです。いのちよりも大切なものって何でしょうか。星野さんご本人は、この問いには答えないようにしているそうですが、それは答えなくてもわかります。それは永遠のいのちです。このいのちは、アッシジのフランチェスコが「平和の祈り」の中で、「自分のいのちをささげて死ぬことによって、永遠のいのちを得ることができるからです。」と言っているように、自分をささげることによってもたらされるものです。このいのちが与えられたら、もはやお金とか、富とか、財産とかに縛られることはなくなります。それよりも大切なものがあることを知っているからです。

 

ヘブル13章5節にはこうあります。

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

そのような人は、いま持っているもので満足することができます。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。この天地を創られた主が共におられる。私たちの必要のすべてをご存知であられ、それを満たすことのできる方が共におられる、もうそれだけで十分です。

 

皆さん、私たちが不幸だと感じるのは足りないと思うからです。物でも、愛情でも、これで十分だと思えるなら満足することができます。でも、どんなに高価なものを持っていても、どんなに多くのものを持っていても、十分だと思えなければ不幸だと感じます。それで満足することができなければ、少なくても満足している人の方が幸せなのではないでしょうか。だから、聖書は、「いま持っているもので満足しなさい。」と言うのです。なぜなら、私たちには永遠のいのちが与えられているのですから。なぜなら、私たちにはすべてを満たすことができる神がともにおられるのですから。この神がともにおられるのなら、私たちは何も足りないものはありません。私たちはいのちよりも大切なものを持っているのですから。

 

あなたはどうでしょうか。このいのちを持っておられるでしょうか。そして、この地上のことばかり考えてはいませんか。あれが足りない、これが足りないと、足りないものを見て嘆いていないでしょうか。「いま持っているもので満足しなさい。」神はあなたに永遠のいのちを与えてくださいました。あなたにとって必要なものをすべて与えてくださいます。大切なのは、あなたがこのいのちを得ておられるかどうかです。どうか、あなたの貪欲を悔い改めて、神に立ち返ってください。そうすれば、主はあなたをゆるしてくださいます。そしてあなたに、いのちよりも大切なもの、永遠のいのちを与えてくださいます。それがあれば、あなたは本当に満足することができます。

 

箴言30章7~9節でアグルという人が、次のように言いました。

「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不真実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

 

これは本当に生きる知恵ではないでしょうか。アグルが願った二つのこととは、不真実と偽りを遠ざけてほしいということと、貧しさも富も与えず、ただ、自分に与えられた分の食物で養ってほしいということでした。なぜなら、自分が食べ飽きて、神を否み、「主とはだれだ。」と言うことがないためです。また、自分が貧しくなって、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないためです。だから、貧しさも富も与えないでくださいと願ったのです。定められた分の食物で私を養ってください、と祈ったのです。

 

おもしろいですね。私たちにはそれぞれ、「定められた分の食物」があるのです。ですから、それで満足すべきです。なぜなら、私たちには永遠のいのちが与えられているからです。私たちにとって最も大切なのは、この神のいのちに生きることです。いま、持っているもので満足しなさい。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(Ⅰテモテ6:6)なのです。

ヤコブ4章11~17節 「主のみこころなら」

きょうは、「主のみこころなら」というタイトルでお話したいと思います。ヤコブは2章で、あなたがたに信仰があると言っても行いがなかったら、そのような信仰が人を救うことができるでしょうか、とチャレンジしました。そして3章ではその具体的な適用としてことばの問題を取り上げました。そして前回のところでは、心の高ぶりについて警告しました。いったい何が無限印であなた方の中に戦いや争いがあるのでしょうか。それは、あなたがたの中に働く欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと人殺しをするのです。自分の思うようにならないと我慢することができません。つまり、神のみこころよりも、自分の思いのままに生きていきたいのです。そういう彼らにヤコブは、「神の御前にへりくださりなさい」と勧めたのであります。そして、その流れの中で、兄弟の悪口を言うことと、神のみこころに生きることが語られています。

 

Ⅰ.互いに悪口を言い合わない(11-12)

 

まず11節と12節をご覧ください。

「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」

 

前回のところで「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(4:10)と勧めたヤコブは、ここで悪口の問題を取り上げています。いったいなぜ悪口を言ってはいけないのでしょうか。なぜなら、自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばくことになるからです。どういうことですか?この律法とは、イエスが言われた律法のことです。イエスは、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られます。」(マタイ7:1-2)と言われました。私たちが人をさばくその量り(ものさし)で、私たちも神からさばかれることになります。というのは、私たちは人をさばいた後で、自分も同じことをしてしまう愚かな者だからです。パウロはローマ人への手紙の中でこう言っています。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」(2:1)

ですから、私たちは他人をさばくことはできません。にもかかわらず、人をさばき、他人の悪口を言うようなことがあるとしたら、それは律法をさばく者となり、その律法によってさばきを免れないのは当然のことです。私たちは律法を守るために召されたのであって、律法をさばくために召されたのではないのです。

 

それではだれがさばかれるのでしょうか。それは神ご自身であられます。「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。」

兄弟の悪口を言うことは、ある意味で正しいことかもしれません。なぜなら、兄弟の悪口を言うということはその兄弟に非があるからで、そのように言われても仕方ないからです。けれども、このような非に対して、私たちはさばく権利を持っていないのです。なぜなら、さばきを行うのは、神だけであって、私たちにはないからです。それは兄弟に対してだけでなく、自分に対しても同じです。パウロは、こう言っています。

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。」(Ⅰコリント4:3-4)

つまりパウロはここで、他人をも、自分をもさばかないと言っているのです。なぜなら、自分をさばかれるのは主ご自身であられるからです。たとえ自分には罪がないと言っても無罪とされることはありません。神の前に立たされるなら、だれが自分は正しい者だと主張することができるでしょうか。そのような者を、神は救ってくださいました。このような者が他人をさばくことができるでしょうか。さばかれるのは神だけであって、私たちは神に取って代わることはできません。もしそのようなことを平気で行っているとしたら、それは越権行為であり、そうした行為に対する神のさばきが下るのは当然のことなのです。つまり兄弟の悪口を言うことの本質的な問題は、知らず知らずのうちに自分が神になっていること、それほど自分がおごり高ぶっていることなのです。ヤコブはそのことをここでこう言っています。「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」

 

ですから、兄弟をさばくことはやめましょう。互いに悪口を言い合ってはいけません。それは神のみこころではないからです。神のみこころは何でしょうか。神のみこころは互いに愛し合うことです。愛は多くの罪をおおうからです。(Ⅰペテロ4:7)もし兄弟の悪口を言うようなことがあるとしたら、それはその人の中にある誇りや高ぶりがあるからであって、自分の行いをよく調べてみれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りであって、ほかの人に対して誇れることではないことに気が付くことでしょう。「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」(ガラテヤ6:3)

 

Ⅱ.主のみこころならば(13-15)

 

第二のことは、主のみこころに生きるということです。13節から15節までをご覧ください。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」

 

さばきを神にゆだねず、自分でさばくという態度は、自分の計画を立てるときにも現われます。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。

ユダヤ人は古くから世界の大貿易商人でした。ここには、世界地図を広げながら、新しい商売の拡張を計画している姿が生き生きと描かれています。計画すること自体は問題ではありません。問題はその商売への自信だけでなく、自分の生き方や人生の決定まで自分でできると過信していることです。日本語には訳されていませんが、13節の主語は「私」です。きょうか、あす、私たちはこれこれの町に行き、これこれをしようと、全部自分で時を定め、場所を定め、期間を定め、やるべきことを定めています。自分でいろいろなことを計画して、自分で成し遂げようとします。もしかしたらそれができるかもしれません。しかし、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言19:21)とあるように、主のみこころだけが成るのです。

 

ヤコブは、自分であれこれと計画を立て、自分でそれを達成しようとしている人たちに向かって、次のように言っています。14節です。

「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」

 

あなたがたは、あすことはわからないのです。人間は一寸先もどうなるかわからないちっぽけな存在にすぎません。きのうまであんなに元気だったのに急に病気になってしまったり、ちょっとしたことで思い悩み夜も眠れないこともあります。こんなはずじゃなかったのにと、自己憐憫に陥ってしまうこともあります。避けられない災害によって生活が一変してしまうこともあります。将来を保証されていた人が、ちょっとしたことで人生を棒に振ってしまったということもあります。人生は複雑で、不確実なのです。この先何が起こるのかはだれにもわかりません。ここではそれが霧にたとえられています。しばらくの間現われたかと思ったら、すぐに消えてしまいます。ヨブはそんな人間の姿をこう言いました。

「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。」(ヨブ14:1-2)

ヨブはここで人間の一生を花と影にたとえています。花のように咲いたかと思ったらすぐに切り取られ、影のようにできたかと思ったらすぐに消えてしまいます。それはほんとうにはかなく、むなしいものなのです。そんな人間が自分を誇ってみたところでいったい何になるというのでしょうか。

 

ですから、ヤコブはこう勧めるのです。15節です。ご一緒に読みましょう。

「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

 

私たちが何か計画をたてる時、決して見逃してはならないとは、「~ならば」ということです。「主のみこころならば、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ということです。計画を立てることは決して傲慢なことではありません。傲慢なのは、明日起こる全てのことに関して主権を握っているのは自分であるかのように思い込むことです。私たちが皆知っているように、誰一人としてそのような主権を持っている者はいません。私たちは、あすのことはわからないのです。ですから、主のみこころならば生きていて、あのことをし、このことをしようというのが正しい生き方なのです。「主のみこころなら」というのは、「すべてのことに主を認める」ということです。主の許しがあってこそ事がなされ、成功もできるということを認め、神のみこころは何であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えることなのです。

 

パウロは、エペソで伝道していた時、エペソの人々が、もっと長くとどまるようにと頼みましたが、それを聞き入れないで、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってきます。」(使徒18:21)と言って別れを告げ、エペソから船出しました。

また、コリントの教会16章7節でも、「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。」(Ⅰコリント16:7)と言いました。

「主のみこころならば」、「主がお許しくださるならば」という態度は、私たちの立てる全ての計画において持つべきものです。私たちの立てる全ての計画は、主の御手にゆだねなければなりません。主もまた、私たちの人生に計画をお持ちなのです。エレミヤ書29章11節にはこう書かれています。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

また、イザヤ書55章8節と9節にはこうあります。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

 

あなたは、自分自身のことや将来についてどのように考えておられるでしょうか?実は、私たちよりも神の方がもっと完全な計画をもっておられるのです。私たちに対する神の計らいは計り知れません。自分の計画通りに事が進まず、「神様なぜですか?」と問い、いかに自分の立てた計画が完璧だったのかを思うとき、どうぞ覚えていてください。神の計画はあなたの計画よりもはるかに高いものだということを。神の私たちに対する計画はわざわいをもたらすものではなく、将来と希望を与えるものであるということを。もし主がその計画を祝福しておられないとしたら、それは主があなたを覚えていないからではなく、あるいは、あなたを愛しておられないからでもなく、それはあなたの人生における主の完全なご計画のうちにあるものではなかったということなのです。あなたの人生における主のみこころとご計画は実に完全なものなのです。

 

私たちが計画を立てることは決して間違ったことではありません。しかし、その計画の中に「もしみこころならば」を入れてください。「主のみこころならば、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」と、みこころを求めて生きる人こそ、本当に神の御前でへりくだっている神のしもべなのです。

 

Ⅲ.むなしい誇りを捨てて(16-17)

 

第三のことは、神のみこころに生きるために、むなしい誇りを捨てましょう、ということです。16節と17節をご覧ください。

「ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」

 

結局、自分であれこれと計画を立て、自分で事を成し遂げようとしたり、兄弟の悪口をいうことのすべては、高ぶっていることに原因があります。むなしい誇りをもって高ぶっているので、さばきを主に任せないで、自分でさばこうとするのです。また、自分の計画を神にゆだねないで、自分で行おうとするのです。そこに主のみこころがあるのにそれを無視して、自分で果たそうとすること、それが高ぶりです。「むなしい誇り」は、放浪性のあるやぶ医者という語源から派生したことばだそうです。直っていないのに直ったと言い、やりもしなかったことを誇るのです。

 

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。私たちは、「これはしなければならない」と思いながらも、行っていないことが何と多いことでしょう。それは罪です。罪とはしてはならないことをすることだけでなく、しなければならないことをしないこともそうなのです。そういう意味では、私たちは何と不完全なものであるかをまざまざと見せつけられます。それなのに、いかにも自分はやっているかのように錯覚したり、自分にはできるといったむなしい誇りを持つことがどんなに高ぶった愚かなことであるかわかるでしょう。私たちに必要なのはそんなむなしい誇りを捨てて、悔い改めて、神のみこころに生きることなのです。

 

数人の植物学者たちが、アルプスで標本にする花を探していました。すると絶壁のはるか下の谷底付近に、非常に珍しい花が見付かりました。花は、がけの途中に突き出した小さな岩の上に咲いていました。そこは命綱をしないと下って行けない所でした。どうしたものかと思案していたとき、ふと振り返ると、少し離れた所に羊飼いの少年がいることに気付きました。「そうだ、あの少年にお願いしてみよう。彼なら身軽だし、こういうことには慣れているだろう。」そして少年を呼び寄せると、ピカピカの新しい硬貨を何枚か取り出して、命綱を付けて下に下りて行き、あの花を取ってきてくれたなら、この硬貨をあげようと言いました。少年は深い谷底を見下ろし、差し出された硬貨を見つめて迷いました。硬貨は欲しいが、絶壁は恐ろしい。しかも命綱を握るのは、この見知らぬ人々なのだからなおさらのこと・・。しかし、突然何を思い付いたのか、少年は走り出して山の家に駆け込みました。そしてしばらくすると、大きくてがっしりとした体格の、見るからに親切そうな人といっしょに現われました。それはこの少年の父親でした。少年はがけの縁にいた学者たちのところに来て、こう言いました。「谷底に行って取って来てもいいよ。僕のお父さんが命綱を持っていてくれるから。」

 

主が命綱を握っていてくださるなら、いつでも、どこにでも下って行くことができます。主がともにおられるなら、何をしても大丈夫なのです。問題は何をするかではなく、だれとともにするか、だれが命綱を握っておられるかということです。主のみこころなら、それがどんなに困難なことでも、主が成し遂げてくださいます。主のみこころに生きることこそ、祝福に満ちた神の御手に握られた命綱なのです。

 

詩篇の作者はこう歌いました。「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。」(詩104:34)  私の心の思いが神のみこころにかなうために、この詩篇の記者は、「私自身は、主を喜びましょう。」と言いました。私の思いや計画に神を引っ張り込むのではなく、私たちの思いを神様のみこころに合わせるのです。そして、あらゆる恵み、幸いにも勝って神ご自身を喜ぶことが、神のみこころに生きる道なのです。私たちもまたそのような信仰に歩んでいこうではありませんか!

申命記33章

きょうは、申命記33章から学びます。

 

 Ⅰ.モーセの祝福(1-5

 

 まず1節から5節までをご覧ください。

「これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。彼は言った。「主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。」

 

 モーセは、イスラエルの全会衆に聞こえるように、神のことばを歌によって語りました。その後、主は彼にネボ山に登るようにと命じられました。そこから約束の地カナンを見るためです。彼は約束の地を見ることはできましたが、そこに入ることはできませんでした。イスラエルの民をそこに導くのは彼の後継者ヨシュアでした。モーセではなくヨシュア、すなわち、律法ではなくキリストを信じる信仰によって入ることができるのです。それでモーセは、その死を前にして、イスラエル人を祝福しました。

 

1節には、「これは神の人モーセが」とありますが、これはモーセ五書において、初めて使われた用語です。詩篇90篇にも、「神の人モーセの祈り」とありますが、モーセ五書においては初めてです。それは、モーセが死ぬ前にイスラエルの子孫を祝福したというこの出来事が、彼の死後、モーセではない他の人によって書かれたであろうことを表しています。それは2節で「彼は言った。」という言葉からもわかります。

 

モーセの祝福の序論にあたる2節には、主なる神が、かつてシナイ山で現われたことから始まっています。その時主は、稲妻と角笛の音と黒雲とで、彼らに現れてくださいました。

3節には、イスラエルの民を愛し、その民に神のみことばを語られる主の姿が描かれています。彼らは主の足元に集められ、主が語られる御告げを聞きました。

5節には、主なる神がエシュルン、すなわち、イスラエルの王となられたとあります。これはイスラエルにとって最も大きな祝福です。主は王となって彼らを治めてくださいます。神が治めておられる国は完全な国であり、そこに住む民に平和と喜びがもたらされます。イスラエルはその国民となったのです。しかし、それは同時に、彼らがこの王に従順であることが求められます。あなたは、この王の支配を喜び、敬い、崇めておられるでしょうか。

16世紀のドミニカ修道会に所属していたブラザー・ローレンスはこう言いました。「食事をする時でも、心を神に向けなさい。少しずつでも神を覚えることが、神の前には十分美しいのですあなたは神に向かって叫ぶ必要はない。私たちが思っているよりも、神は近くにおられる。」

主イエスが言われたように、まさに、神の国はあなたがたのただ中にあるのです。私たちは神が支配しておられる国に存在し、生きているのです。

 

Ⅱ.12部族への祝福(6-25

 

次に6節から25節までをご覧ください。ここから、イスラエル12部族への祝福のことばが語れていきます。まず6節をご覧ください。

「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。」

まず長男ルベンに対する祝福のことばです。ルベン族は、死海の東側あたりに割り当て地を持ちますが、その人口が少なくなると言われています。それはかつてルベンが父のそばめビルハと関係を持ち、父の寝床を汚したことに起因していると思われます。(創世記35:22,49:4)それは、実際の歴史の中でも、そのとおりになりました。しかし、ここに生きて、死なないように、とあるように、なくなることはありませんでした。

 

次に、7節をご覧ください。ユダについてはこのように言われています。

「ユダについては、こう言った。「主よ。ユダの声を聞き、その民に、彼を連れ返してください。彼は自分の手で戦っています。あなたが彼を、敵から助けてください。」

ユダに関する祝福は、神が戦いを勝利に導き、彼を連れ返してくださるということです。このユダ族からダビデ王が出ました。彼は戦って勝利したので、イスラエルは国として統一され、強い国となりました。

 

8節から11節までには、レビ族について語られています。

「レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない。』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」

トンミムとウリムとは、大祭司が胸当てのところに入れておく、主のみこころを知るための道具です。レビ人から祭司が出ました。そしてモーセ自身もレビ人です。モーセは、メリバにて、イスラエルのために岩を打って水を出しました。イスラエルが金の子牛をおがんで、乱れていたときに、彼らを殺したのは、レビ人でした。レビ人は、たとえ肉親であっても、主の怒りを静めるために、主に忠誠を尽くしたのです。レビ族の役割は、神との契約と神のみことばを守るように教えることで、神の栄光を現すことでした。その手のわざに恵みを施してくださいと、モーセは祈っています。

 

次に、ベニヤミンに対する祝福のことばです。12節をご覧ください。

「ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」

ベニヤミンに対する祝福は、「主に愛されている者」として、戦いの中にあっても安らかに主のそばに住まい、あたかも父が息子をかばうように、神の肩の間に、安全に住むことができるようにということでした。

 

次に、13節から17節までのところに、ヨセフに対する祝福のことばが続きます。

「ヨセフについて言った。「主の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物、太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる」

ヨセフに対する祝福では、主の祝福が、彼の地にあるようにと、農耕の祝福が語られています。

このヨセフから、エフライムとマナセの二部族が出てきましたが、彼らは、ベニヤミン族の北部にその土地の割り当てが与えられました。その肥沃な土地のゆえに、モーセは主の祝福を「賜物」として描いています。それは「最上のもの」です。ここに7回も繰り返されています。モーセは、神が最も良い産物で、ヨセフを満たしてくださるようにと祈っているのです。また、ヨセフが、その兄弟たちから選び出された者として、頭の頂の上にあるようにと祈っています。

17節の、「牛の初子には威厳があり」とか、「その角は野牛の角」というのは、軍事的にも強いことを表わしています。彼らはこの威厳と角をもって国々の民をことごとく突き倒していきます。士師記に登場するのギデオンは、このマナセ部族の出身です。

 

次はゼブルン族とイッサカル族です。18節と19節をご覧ください。

「ゼブルンについて言った。「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。」

ゼブルンとイッサカルは、ヤコブとレアの間に生まれた息子たちです。ここには、このゼブルンとイッサカルへの祝福が一緒に出ています。なぜ、この二つの部族は、一つとして扱われているのでしょうか。それは、この二つの部族が内と外において、すなわち日常生活において、あらゆる面で楽しみを享受する部族であるからです。

19節の「山」とは、特定の山を指すのではなく、ささげものと礼拝をささげる場所のことを意味しています。ですから、「そこで義のいけにえをささげよう」というのは、儀式的な礼拝ではなく、霊とまことをもってささげる霊的な礼拝のことです。つまり、彼らは霊的な祝福された信仰生活を送るようになるという意味です。そのような部族には、物質的な祝福が伴います。彼らは「海の富と、砂に隠されている宝」、つまり、海を通してもたらされる貿易を通して、富がたくわえられるようになるのです。

 

次に20節と21節をご覧ください。

「ガドについて言った。「ガドを大きくする方は、ほむべきかな。ガドは雌獅子のように伏し、腕や頭の頂をかき裂く。彼は自分のために最良の地を見つけた。そこには、指導者の分が割り当てられていたからだ。彼は民の先頭に立ち、主の正義と主の公正をイスラエルのために行なった。」

「ガドは雌獅子のように」攻撃的で勇敢に戦う部族です。その特徴は、「腕や頭の頂をかき裂く。」というところにあります。彼らにはヨルダン川の東側の最も良い地を相続地として与えられました。モーセが初めて手にした土地の割り当てをもらったのです。(民数記32:1-5)しかし、自分たちに相続地が割り当てられても、神の義に徹し、他の部族たちに協力して、誠実にカナンの地の征服に参加しました。

 

22節をご覧ください。ダンにいては次のように祝福されています。

「ダンについて言った。「ダンは獅子の子、バシャンからおどり出る。」

ダン族は、えさに飛びつく獅子の子にたとえられています。これは将来、強い力を発揮する獅子のようになることを表わしています。ダン族には、ペリシテ人が住む今のガザ地域北部に割り当てが与えられましたが、そこだけでは不十分で、北部のほうにも行き、そこも自分たちの土地としました。「バシャン」というのは、そのことです。それは、現在のゴラン高原の地域にあたります。

 

23節をご覧ください。ナフタリについては次のように祝福されています。

「ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」

ナフタリ族はガリラヤ地方の一部とその西南部を所有しました。そこは肥沃な地で、農産物がたくさんとれるところです。まさにここにあるとおり、恵みに満ち足り、主の祝福に満たされています。

 

次は、アシュルに対する祝福です。24節と25節をご覧ください。

「アシェルについて言った。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」

「アシュル」という名前は、幸いなとか、祝福されたという意味です。この部族はイスラエルの中で、最も祝福された、最も幸福な部族になります。「その足を、油の中に浸すようになれ。」というのは、油を足に注ぐのではなく、油の中に足を浸すようになるということで、かなりのオリーブ油が産出されることを表わしています。また、「あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり」というのは、彼らの砦が堅固なものであることを表わしています。どんな敵も彼らを打ち破ることができません。

 

Ⅲ.しあわせなイスラエル(26-29

 

最後に、26節から29節までを見て終わりたいと思います。

「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、「根絶やしにせよ。」と命じた。こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」

 

先にも述べた通り、エシュルンとはイスラエルのことを指しています。モーセはここで、イスラエル全体を祝福しています。彼はイスラエルの神を賛美すると、神がどれほど偉大な方であるかを、「神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。」と言っています。これは、やがて主が雲に乗って再び来られ、ご自分の民を救ってくださることの預言です。このような神は他におられません。この方に並ぶ者はほかにはありません。

また、神は永遠なる方です。永遠の腕がいつも彼らの下にあります。どんなに自分がだめでも、この永遠の腕が下にあります。その永遠なる腕が彼らの下にあって彼らを敵から守ってくださるというのは、どんなに大きな慰めかと思います。

その結果イスラエルは安らかに住まい、その泉は、穀物と新しいぶどう酒の地を潤します。また天からの露も尽きることはありません。いつまでも豊かな収穫を享受することができるのです。

 

何という祝福でしょうか。そのような祝福を享受するイスラエルを、モーセは「しあわせなイスラエルよ」と言っています。だれが彼らのような祝福を受けることができるでしょう。神は彼らを助ける盾であり、助け手であられます。それは彼らが神との契約の中にあり、神の民とされているからです。そして、神の祝福の計画はイエス・キリストを通して明らかになりました。イエス・キリストを信じて神の子とされた者に、神はこのイスラエルに約束された祝福を注いでくださるのです。

 

私たちは神の子として、このしあわせを受けているということに、どれだけ深く気付いているでしょうか。私たちの下にある永遠の腕の中にすべてをゆだね、そこに深い安心感と満足をいただいて、いつも主をあがめる生活ができるように祈ります。

ヤコブ4章7~10節 「ですから、神に従いなさい」 

きょうはヤコブの手紙4章7節から10節までのみことばから、「ですから、神に従いなさい」というタイトルでお話します。

行いの伴った生きた信仰について語ったヤコブは、その具体的な例として舌を制御することについて述べました。舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。これを制御することはだれにもできませんが、それは心にあることを話すのですから、そのためには、いつも心が神の平和で満たされていなければなりません。

それでは、どうして私たちの間に戦いや争いがあるのでしょうか。それは外側の問題ではなく、内側の問題です。私たちのからだの中で戦う欲望が原因であって、私たちは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをしたり、うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。

ですから、私たちは私たちの心をしっかりと見張っていなければなりません。いつも神に従い、神の平和と神の知恵に満たされていなければならないのです。

きょうは、この神に従うことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神に従いなさい(7)

 

まず7節をご覧ください。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

 

「ですから」というのは、ヤコブがこれまで語ってきたことを受けてということです。これまでヤコブはどんなことを語ってきたのでしょうか。6節には、「しかし、神は」とあります。私たちはすぐに神ではなく世を愛してしまうような愚かな者であるにもかかわらず、しかし、神は、そのような者をも愛して恵みを注いでくださいます。「ですから」です。

 

ですから、そのように神の恵みによって救われたクリスチャンはどうしなければならないのでしようか。「ですから、神に従いなさい」なのです。この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙です。ユダヤ人クリスチャンとは、もともとユダヤ人であった彼らが、神の恵みを受けてクリスチャンになった人たちのことです。ユダヤ人というのは、旧約聖書を信じていますが、その中に書かれてある約束のメシアがイエス・キリストであるとなかなか受け入れることができない人たちです。しかし、そんな彼らでも、中にはイエスを信じて救われた人たちがいました。それがユダヤ人クリスチャンです。

 

そんなユダヤ人クリスチャンにとって、神に従うことは、すべての祝福の原点でした。彼らの先祖は昔エジプトで四百年の間、奴隷として捕らえられていいました。しかし、神はモーセという人物を立てて、彼らをエジプトの地から救い出してくださいました。

しかし、彼らがカデシュ・バルネアというところまで来たとき、約束の地まではほんの目と鼻の先というところまで来たのに、「上って行け」という神のことばに従わないでその地の住人を恐れ、上って行きませんでした。その結果、彼らは40年間も荒野をさまようことになってしまったのです。そして、多くの人たちが荒野で滅び、約束の地に入ることができませんでした。20歳以上の男子では、ただヨシュアとカレブの二人しか入ることができなかったのです。

 

いったい何が問題だったのでしょうか。神に従わなかったことです。ですから、約束の地に入ろうとしていたユダヤ人に、モーセが繰り返し、繰り返し語ったことは、神に従いなさい、神を愛しなさいということだったのです。神に従うことが、その地で彼らが幸せに生きるための絶対条件であり、神が約束してくださったすべての祝福を受ける道であったのです。

 

ヤコブはここで、イエスを信じて救われたクリスチャンに対して、神に従いなさい、と命じました。神に従うことが、神の恵みを受ける道であり、この世で彼らがすべての祝福にあずかる条件なのです。イエスは、こう言われました。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、これらのものはすべて与えられるのです。

 

しかし、残念ながら、生まれながらの人間は、神に従うことができません。生まれながらの人間は肉の性質を持っているので、神に従いたくないからです。肉の性質というのは、自分中心という性質のことです。人はみな生まれながらに自己中心であって、いつも自分を中心に考え、自分の利益を求め、自分の欲望を満足させたいという傾向があるのです。ですから、神に従うよりも自分の思いを通したいのです。しかし、神に救われた者、神の恵みを受け者は、自分に死に、神のために生きるようになりました。自分ではなく、神のために、神を愛し、神の栄光のために生きるようになったのです。

 

それでは、神のために行春とはどういうことでしょうか。神を愛するとはどういうことなのでしょうか。それは、神に従うということです。Ⅰヨハネ5章3節には、このようにこうあります。

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

ここには、神を愛するとはどういうことなのかがはっきりと示されています。それは、神の命令を守ることです。神を愛している人は、神の命令を守ります。それは重荷とはなりません。神を愛していると言いながら、神の命令に従いたくないということはないのです。

 

また、ヨハネの福音書14章15節にはこうあります。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

これはイエスのことばです。イエスを愛する者はイエスの命令、イエスの戒めを守ります。では、その戒めとは何でしょうか。それは互いに愛し合うことです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:24)

これがイエス様の戒めです。それなのに戦いや争いがあるのはどうしてでしょうか。それは、神に従っているのではなく、自分の欲望に従っているからです。何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょうか。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、すぐに人殺しをするのです。自分の思うようにならないと、すぐに敵対心を持ち、憎んだり、争ったりするのです。あなたがたの肉が問題だと、ヤコブは行っているのです。

しかし、神を愛する者は、神に従います。自分の思うとおりにいかなくても、自分のほしいものが手に入らなくても卑屈になりません。神の命令に従って、人を愛し、人を赦し、人を受け入れます。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、人をした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを耐え忍びます。

「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(箴言10:12)のです。

 

ところで、ここには神に従いなさいということだけでなく、悪魔に立ち向かいなさい。ともあります。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。どういうことでしょうか。神に従うことを悪魔が妨げているということです。ですから、神に従って、そして悪魔に立ち向かわなければなりません。

 

悪魔とは何者でしょうか。悪魔は元々神に仕える天使長でしたが、彼は高ぶって、自分も神のようになりたいと神に反逆し、天から落とされよみの穴の底に落とされました。(イザヤ14:12-15)そして最初の人アダムとエバはその悪魔にだまされ罪を犯したので、神から離れてしまいました。それ以来、人類はずっとこの罪の支配下に置かれるようになりました。ですから、すべての人は生まれながらに罪の性質を持っているのです。だれからも教えられなくても悪いことをします。それはそのような性質を持っているからです。ですから、人間は生まれながら罪の奴隷なのであって、いつでも罪に従うというか、悪魔に誘惑されて罪を犯してしまうのです。

 

しかし、神は、ひとり子イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪の代わりに十字架につけてくださり、その罪から救ってくださいました。罪の奴隷から解放してくださったのです。キリストを信じた人は悪魔の支配から神の支配に、暗やみから光へ移されたのです。ですから、クリスチャンは神に従うことができるようになったのです。

 

しかし、以前の主人であった悪魔は、クリスチャンが新しい主人である神に従うことを憎み、神に従わないようにあの手この手を尽くして誘惑し、以前の罪の生活に引き戻そうと躍起なっているのです。たとえば、悪魔は私たちのさまざまな欲に働きかけて誘惑します。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などはそうです。「もっといい生活がしたい。」「あれもほしい、これもほしい」と私たちの中にある欲に働きかけて誘惑してくるのです。誘惑そのものは罪ではありませんが、誘惑に負けると罪になります。

 

あるいは、悪魔は私たちの人生に起こるさまざまな試練を用いて誘惑することもあります。病気とか、事故とか、経済的な問題を通して不安を与え、人間関係の問題を通して脅してきたりするのです。「なぜ私ばかりこんなに苦しまなければならないの、神がおられるなら、こんなことが起こるはずがない・・・」と、神の愛に疑いを抱かせ、信仰を捨てるように誘惑するのです。

 

あるいは、悪魔はこうした問題ばかりでなく、逆に良いことを通しても

誘惑してくることがあります。たとえば、家族を愛することは大切なことです。一生懸命に働くことも、たまに趣味を楽しむことも良いことです。しかし、それがどんなに良いことであっても神よりも愛するなら、それが罠となって神から離れてしまう原因になってしまうことがあるのです。イスラエルの民が神から離れたのは、これが一番大きな要因でした。彼らはパンがないとか水がないことによっても神を疑い、神から離れることがありましたが、それよりも、彼らが豊かになった時かれらは高ぶって神を忘れ、神から離れてしまいました。

 

このように、悪魔は、私たちが神に従わないようにと、あの手この手をもって誘惑してきます。ですから、私たちはこの悪魔に立ち向かっていかなければなりません。そのためには、神に従うことが求められます。神に従って、そして、悪魔に立ち向かわなければならないのです。私たちの力では、悪魔に立ち向かうことができません。神に従い、神の力をいただき、そして悪魔に立ち向かわなければなりません。

 

神はそのために神の武具を与えてくださいました。それはエペソ6章にありますが、中でも悪魔に立ち向かっていくために、御霊の与えてくださる剣である神のことばを与えてくださいました。神のことばは、御霊の与える剣です。この剣を持って悪魔に立ち向かっていくなら、悪魔は逃げ去るのです。

 

あなたは、この武具を受け取っておられるでしょうか。私たちは強そうでも弱い者です。すぐに否定的になったり、躓いたりします。ですから、この神のみことばを心にたくわえ、みことばによって強められて、悪魔に立ち向かっていかなければなりません。

 

Ⅱ.神に近づきなさい(8)

 

第二のことは、神に近づきなさいということです。8節をご覧ください。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」

 

神の恵みによって救われた者は、神に近づかなければなりません。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。どういうことでしょうか。それは、神との親しい交わり中に入れられるということです。悪魔はさまざまな方法で誘惑してくると申し上げましたが、その誘惑に負けて罪を犯すと、神から遠く離れてしまいます。神から離れるとこの世に妥協し、自分勝手な生き方に逆戻りしてしまいます。それは一見楽しそうに見えるかもしれませんが、実は心はみじめで、空しくなるのです。

 

あの放蕩息子のことを思い出してください。彼は父親に財産を分けてもらうと、遠い国に旅立ち、そこで放蕩して湯水のように財産を使い果たしてしましました。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こると、彼は食べるにも困り果ててしまいました。それである人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでした。それは彼にとって屈辱的で、最悪な状態でした。豚の食べるいなご豆とは、豚の食べるえさのことです。そんな家畜のえさで腹を満たしたいというのですから、しかもユダヤ人にとって豚は汚れた動物とされていたので食べることはしませんでしたが、その豚の世話をして、そのえさを食べたいと思うほどであったというのは、彼がどれほど落ちぶれてしまったかをよく表しています。父親のところにいればそんなことはなかったのに、そんな父の下を離れ、自分勝手に生きようとした結果がこうでした。これは私たち人間の姿を表しています。神から離れた人間は、この放蕩息子のようにみじめでしかないのです。人間にとってもっとも幸せなのは、神とともにいることです。なぜなら、人間はそのように造られているからです。神は人をご自身のかたちに造られました。このかたちこそ霊魂のことであり、神に祈り、神と交わる部分です。ですから、神とともにあるとき、私たちは真の喜びと生きがいを感じるのです。

 

あの放蕩息子は、最悪の状態に落ちたとき、そのことを思い出しました。そのとき、彼はこう考えるのです。

「父のところには、パンの有り余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」そうだ、父のところに帰ろう。そしてこう言おう。

「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」(ルカ15:18)

これは彼にとって大きな方向転換でした。これまで自分に向かっていた方向を、父に向けました。これを悔い改めると言います。彼はへりくだり、悔い改めて、父のもとに向かいました。

するとどうでしょう。家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思って走り寄り、何度も口づけして、喜んで彼を迎え入れました。そして彼に一番良い着物を持って来て着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせ、肥えた子牛をひいてきてほふり、祝ったのです。

 

父親から離れ、自分勝手に生きていた彼には何の喜びも祝福もありませんでした。しかし、彼が向きを変えて父のもとに立ち返った時、父親は彼に近づいてくれました。神に近づくなら、神はあなたに近づいてくださるのです。神はあなたの罪を赦し、あなたを祝福してくださいます。ですから、まだイエス様を信じていない人がいたら、どうか悔い改めて、神に立ち返ってください。神の救い、イエス・キリストをあなたの救い主として信じてください。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。あなたのすべて罪は赦されるのです。だれでも、一つや二つ、過去のことで思い悩むことがあります。忘れようとしても忘れられないことがあります。しかし、それがどんなに暗い過去であっても、神は雪のように白くしてくださいます。あなたの罪の全部を赦してくださるのです。

 

また、もうイエス様を信じたのに罪を犯し、神から離れておられる方がおられるでしょうか。そういう方がおられましたら、どうか主のもとに立ち返ってください。神に近づいてください。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。神はあなたを責めるようなことはされません。あの放蕩息子の父親のように、両手を広げて受け入れてくださいます。あなたが返ってくるのを待っておられるのです。

 

ところで、ここには「手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」ともあります。どういうことでしょうか。旧約聖書によると、神に近づくことができたのは、神に仕えた祭司だけでした。彼らはきよめの儀式に従って手を洗い、動物のいけにえをささげてからでないと、神に近づくことができませんでした。なぜなら、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです。ですから、動物をささげて、動物の血を取り、その血によって身をきよめてから、神に近づいたのです。これは、やがてもたらされる完全ないけにえ、イエス・キリストの十字架の贖いのひな型でした。

 

しかし、ここでヤコブが「手を洗いなさい」と言っているのはそのことを言っているのではなく、イエスを信じた後に行っている罪の行いのことです。この手紙は、ユダヤ人だった彼らがイエス・キリスト、神の恵みを信じてクリスチャンになっていた人ユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らは悔い改めてキリストを信じていたのです。それなのに、彼らの行いは神のみこころにかなったものではありませんでした。行いが伴った信仰ではなかったのです。

 

私たちは、イエスを信じてからも罪を犯します。罪を犯さずには生きていけないと言ってもいいでしょう。ここでは、そうした罪を悔い改めるようにと言われているのです。その場合この「手」は、私たちの行いを表しています。キリストを信じて救われた者であるなら、そこには当然良い行いが伴うはずなのにそうでないなら、それを洗いきよめなければなりません。

 

また、ここには「心を清くしなさい」ともあります。心を清くするとは内側を清くするということです。私たちの思い、私たちの動機、私たちの考えといった内側をきよめなければなりません。すなわち、キリストを信じて罪がきよめられ、神に近づく者とされた私たちは、神のみこころにかなった心と行いを持つように、絶えずきよめられなければならないということです。それによって、神に近づくことができるからです。

 

Ⅲ.神の御前にへりくだりなさい(9-10)

 

第三のことは、神の御前にへりくだりなさいということです。9節と10節をご覧ください。

「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高くしてくださいます。」

 

これは、どういう意味でしょうか。Ⅰテサロニケの手紙には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)とあります。このみことばに照らし合わせてみると、ここでヤコブが言っていることは正反対のように感じます。なぜなら、ヤコブはいつも喜んでいなさいではなく、その喜びを憂いに変えなさいとか、笑いを悲しみに変えなさいと言っているからです。

 

前にも申し上げましたが、ヤコブの教えはイエスの教え、特に山上の説教がベースになっています。ここではそのイエスの教えが背景にあります。イエスは山上の説教で開口一番こう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイ5:3-4)

 

イエス様はここで、心の貧しい者は幸いです、と言われました。心の貧しい人とはどういう人でしょうか。それは、神の前に心がへりくだった人です。自分はどうしようもない罪人であり、自分では自分を救うことができないと認めている人、つまり霊的破産状態にあると認めている人です。このような人は神に向かいます。「神さま、助けてください。」「このようなみじめな私を救ってください」と祈らずにはいられません。そのような人は幸いです。なぜなら、天の御国はそのような人たちのものだからです。そのような人こそ神から恵みを受けるのです。

 

イエスは、ルカの福音書18章で、祈るために宮に上ったふたりの人の話をされました。パリサイ人と律法学者です。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをしました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11-12)

それに対して、取税人はどのように祈ったでしょうか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けてようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人をあわれんでください。」(ルカ18:13)

いったい、このふたりのうちどちらが、義と認められて家に帰って行ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人でした。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 

心の貧しい人とは、このように自分の罪を悲しみ、嘆き、神の前にへりくだって、神に救いを求める人です。ですから、ヤコブはここでが、「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」と言っているのは、自分の罪を悲しみ、神の前に心が砕かれて、神に赦しと救いを求めるようにということだったのです。

 

ダビデは偉大な王でしたが、彼の最も偉大だったのはどういう点だったかというと、神の前にへりくだることができたという点です。彼はウリヤの妻バデ・シェバと姦淫を行ったとき、神の前に出てこう祈りました。

「幸いなことよ。そのそむきを許され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。私は黙っていたときは、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申し上げました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。すると、あなたは私のとがめを赦されました。」(詩篇32:1-5)

彼は偉大なイスラエルの王という立場にあっても、主の前にへりくだり、自分の罪を告白して、赦しを請いました。彼は自分の罪に苦しみ、悲しんで、泣いたのです。それゆえ、主は彼の咎を赦し、彼を本当の意味で偉大な王としました。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 

あなたはダビデのように主の前にへりくだっているでしょうか。「神さま、こんな罪深い私をあわれんでください。」と、胸をたたいて、打ちひしがれているでしょうか。主の御前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高くしてくださいます。

 

神に従いなさい。神に近づきなさい。神の前でへりくだりなさい。これが神の恵みを受けたクリスチャンの姿です。私たちはいつもこのことを忘れることなく、ただへりくだって神のみこころに歩ませていただきたいと願います。

ヤコブ4章1~6節 「なぜ戦いや争いがあるのか」

きょうは、ヤコブの手紙4章から「なぜ戦いや争いがあるのか」というテーマでお話します。

以前、こんな質問を受けたことがあります。それは、どうしてこの世の中から戦争がなくならないのか、という質問です。そして、その方が言うには、世の中にはいろいろな宗教があるから戦争も起こるのではないのかということでした。確かに宗教が原因で戦争が起こったこともあります。

しかし、宗教が原因となった戦争は、ある方々が主張しているほど多くはありません。「Encyclopedia of Wars」という戦争に関する百科事典によると、歴史上には1,763件の戦争が起こりましたが、そのうち宗教的なことが原因で起こった戦争は123件(6.98%)であったとされています。ですから、歴史上の大きな戦争は、宗教とは無関係に起こっているのです。ではいったいどうして戦いや争いがあるのでしょうか。

 

Ⅰ.争いの原因(1-2a)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」

 

「あなたがたの間に」の「あなたがた」とは、この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンのことを指しています。ですから、これは教会の外での争いのことではなく、教会の中での、クリスチャンの間にあった争いのことなのです。彼らはイエス・キリストを信じて救われていました。なのに、そうした彼らの間にも戦いや争いがあったのです。信仰を持ったら争いが無くなるのかというとそうではなく、人が集まるところにはどこででも争いが起こるのです。いったい何が原因でこうした戦いや争いが起こるのでしょうか。

 

ヤコブはここでその原因を次のように言っています。「あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」こうした戦いや争いの原因は私たちの外側にあるのではなく私たちの内側にあるのであって、私たちのからだの中で戦う欲望が原因であるというのです。どういうことでしょうか。

 

2節には、「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」とあります。私たちは他の人がいい生活をしているのを見ると、「ああ、いいなぁ。自分もあんな生活をしてみたいなぁ。」とうらやましく思ったり、自分もそういう生活をしてみたいと思ってもできないと、急にひがんでみたり、ねたんだりするようになります。すると不思議なことに、そういう人を見ると嫌な気持ちになったり、敵対心を抱くようになったりするのです。やがて太刀打ちできないということがわかるとその人がいないところで悪口を言ってみたり、うわさ話をして、その人の評判を落とそうとすることさえあります。つまり、そうした自分の中で戦う欲望が外側に表れて、それが争いや戦いになるのです。

 

私は今でこそあまりありませんが、ちょっと前までは、いい車に乗っている人を見ると、「どうしてあんなにいい車に乗れるのだろうか。」とか、「あの人どういう生活をしているんだろう」と思ったものです。別にいい車に乗りたいとは思わないけれども、そういう生活をしてみたいという思いが働くのでしょう。でも、そんな生活ができるわけがないので結局のところあきらめるわけですが、ただあきらめるだけならいいものを、言わなくてもいいようなことまで言ってしまいます。「意外とああいう車にに乗っている人は見栄を張っているだけで、実際は貧しい人たちだ」とか・・。その人がどんな生活をしようと自分とは関係ないのに、自分の中に戦う欲望が、いろいろな思いを引き起こし、それが戦いや争いとなって現われるのです。

 

でもちょっと待ってください。世の中の人々ならわかりますが、クリスチャンはそういうことはないでしょう。この世の中の人々は神を知っているわけではなく、イエス様を信じているわけでもありませんから、生まれながら肉なる者であり、そのような思いを抱くのは当然かもしれませんが、イエス様を信じて救われた人たちがそのような思いを抱くなんて考えられません。クリスチャンはイエス様を信じて新しく生まれ変わった者であり、キリストのために生きていきたいと願っている者たちであり、そうした欲にも勝利しているのではありませんか。

 

確かに、クリスチャンはイエス様を信じたとき、聖霊によって新しく生まれ変えられました。古い自分はキリストともに十字架につけられたのです。私がいまこの世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。しかし、その一方で、まだ肉の性質が残っているのです。肉というのは自分のことです。自分の思いのままに生きていきたい、自分が願うように、自分の満足のために、自分の喜びのために、自分の、自分のという思い、それが肉の思いです。そうした肉の性質が残っているため、欲に引かれて、おびき寄せられ、誘惑されるのです。

 

たとえば、夫婦のことを考えてみてください。まだ結婚していない方は友人との関係でもいいです。なぜ争いが起こるのでしょうか。自分はこうしたいと思っているのに、相手はそうではないからです。自分の思いや利益と相手の思いや利益が一致しないからです。一致していればこうした問題は起こりません。しかし、誰の利益ともぶつからない欲望などはあり得ないわけですから、自分は、自分はという自分の思いが強ければ強いほど、自分の中に戦いや葛藤が生じてくるのです。そしてそれが戦いや争いとなって外側に現れてくるのです。これはクリスチャンであってもノンクリスチャンであっても同じです。確かにクリスチャンであるなら、自分というのは十字架に付けられたので死んでいるはずですから、本当に死んでいれば自分ではなく御霊が支配しているのでその傾向は少ないはずですが、御霊によってではなく肉によって歩むならノンクリスチャンと全く変わらない生き方となってしまうのです。夫婦や友人関係でもそうなのですから、そういう人たちが何人も集まっている教会の中でこうした戦いや争いが起こることは避けられません。

 

ですから、重要なのは、どうしたらこうした戦いや争いを解決することができるかということです。というのは、キリストを信じて救われたクリスチャンが互いに争ったり、戦ったりするのは、神のみこころではないからです。神のみこころは、私たちが互いに愛し合うことです。ですから私たちは、私たちのからだの中で戦うこの欲望に対して、どうしたら対処することができるのかを学ばなければなりません。

 

Ⅱ.神に願い求める(2b-3)

 

いったいどうしたらこの問題を克服することができるのでしょうか。2節後半から3節までをご覧ください。ここには、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。

 

ヤコブはここで、あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからだと言っています。何かをほしいと思い、うらやむのは、その根底に自分があって、自分でそれを手に入れようという思いがあるからです。そこには、「神」は存在していません。したがって、祈ることもないわけです。けれども、神は惜しみなく与えてくださる方です。ですから何かを願うなら、それを神に願い求めなければなりません。神に願って、神に祈って、神により頼むなら、神が与えてくださいます。あなたがたのからだの中で戦う欲望の解決は、まずあなたが神に向かい、神に祈り、神にすべてをゆだねることから始まります。

 

イエス様はマタイの福音書7章7~11節のところで、こう言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ここでも同じです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。どうしてあの人ばかり与えられるのか。それに比べて私はちっとも与えられないと、ひがんではいませんか。求めてください。願ってください。祈ってください。そうすれば、主は豊かに与えてくださいます。

 

そんなこと言われても、それは他の人のことであって、私の祈りなどちっとも聞いてくださいません、という方はおられますか。そうではありません。神はあなたの祈りも聞いてくださいます。

 

何度かお話ししたことがあるかと思いますが、私が福島で会堂建設に携わった時、いろいろな先生方が来られて信仰のチャレンジをしてくださいました。どの先生も言うのは、会堂建設の時には神様が不思議なことをしてくださるので、神様に祈ってくださいということでした。でもそれは他の教会のことであって、私たちの教会では無理だと思っていました。私たちの教会には若い人たちばかりで経済的に余裕のある人など一人もいなかったからです。

しかし、奇跡的に土地が与えられいよいよ会堂本体の工事に入ろうとした時に、一つの問題が生じました。銀行から予定していた金額の借入れができないと言われたのです。そこで、翌週の礼拝後にみんなで話し合いました。そして、本体をもっと小さくして建築費を押さえようと決めかかった時、ちょうど札幌から引っ越してきたばかりの札幌から引っ越してきたばかりの一人の韓国の姉妹が、「はい」と手を上げたのです。すると彼女はこう言いました。「日本人は何でも小さく考えます。でも神様は全能です。それが本当に必要ならば与えてくださるのではないでしょうか。だから祈りましょう。神様が与えてくださると信じて祈りましょう。」一瞬、皆の顔が凍り付きました。もう十分捧げたので、これ以上は無理だと思っていたからです。私もそうでした。しかし、彼女が言われるように、それが本当に必要なら神様が与えてくださるはずです。ですから、信じて祈ることになりました。

すると本当に不思議なことが起こりました。そのことがあって数か月後に東北電力の方が来られ隣のタイヤの工場で電気を引きたいので教会の上空を通してほしいと言われ、その為電線の下の土地の価格の評価が下がるのでその保証として多額の保証金が与えられたり、いつもの年よりもたくさんの結婚式があったりして、予定していた1年後に必要が満たされたのです。問題は祈らないことです。神に祈り求めないことです。求めるなら、与えられるのです。

 

ヤコブはこのことをただ概念として勧めていたのではありません。それは彼自身の経験からにじみ出た確信でした。ヤコブは、「らくだの膝を持つ人」と言われていたそうですが、なぜそのように言われていたかというと、彼の膝がらくだのように堅くなっていたからです。歳をとって堅くなったのではありません。彼はいつも膝をついて祈っていたので堅くなったのです。彼は祈りの人でした。その祈りの中で神に願い求めたのです。そして、神は聞いてくださるという確信を持っていたのです。

 

中国の奥地伝道のパイオニア、ハドソン・テーラーはこのように言いました。「あなたがたは、膝をついて前進しなければならない。」膝をついて前進したらろくに進めないのではないかと思うかもしれませんが、でも膝をついて前進するというのは祈って前進しなければならないということです。祈りなしに神の前に出ることはできません。祈りなしに前進することはできません。祈りこそミニストリーの原動力であり、祈りによらなければ何も生まれないというのが、ハドソン・テーラーの確信だったのです。

 

それじゃ、どうしてあなたが祈っても与えられないのでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。動機が間違っていれば聞かれません。神の栄光のためにではなく自分のために、自分の快楽のために使おうとして悪い動機で願うなら、与えられないのです。神様は私たちの必要を満たしてくださいますが、私たちの欲しいものを与えるわけではありません。自動販売機のように欲しいものを押せば出てくるというものではないのです。もしあなたが祈りとはそのようなものだと思っているなら失望するでしょう。というのは、祈りとは自分の願いが叶うことではなく、神のみこころがなることだからです。みこころが天で行われているように、地でも行われるようにと祈ることです。もちろん、神はご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいますが(ピリピ4:19)、私たちは、私たちの願いではなく、あなたのみこころがなるようにと祈られたイエス様のように祈らなければなりません。これが祈りの神髄です。私たちの願いを祈ることも良いことです。「神さま、私はあれが必要なのです。どうか助けてください。」と祈るなら、神はその祈りを聞いてくださいます。神はあなたのささいなことにも関心を持っておられます。だから必要なことを祈るということは大切なことですが、もっと大切なことは、私の願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてくださいと祈ることなのです。神が望まれることは私たちのベストだからです。であるとしたら、神様はベスト以下の何ものも与えないはずです。ですから、神があなたに与えようとしておられるのは何かを知ることはもっといいことであり、すばらしいことなのです。あなたが祈っても与えられないとしたら、それが神のみこころであり、あなたにとってのベストであるかもしれないからです。であれば、もう悩む必要もありません。今まではあれもほしいこれもほしいと、与えられないことをひがんでみたり、ねたんだりしていたものを、祈っても与えられないことでこれが神からの答えだということがわかれば、私たちは平安を持つことができるからです。だから、神に祈ること、神に願うことは重要で、私たちのからだの中にある欲望に対処する大切なステップです。

 

詩篇34篇10節には、「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を訪ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」とあります。すばらしい約束ではないでしょうか。主を訪ね求める者には、良いものに何一つ欠けることはありません。そう信じて神に向かい、神に願うなら、神はあなたに良いもので満たしてくださるのです。

 

Ⅲ.神の御前にへりくだる(4-6)

 

第三のことは、神の御前にへりくだることです。4~6節までをご覧ください。4節には、「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」とあります。

 

「貞操のない人たち」とは、直訳では、「姦淫を行う人たち」です。口語訳では「不貞のやからよ」と訳しています。すごいですね。「不貞のおからよ」「やから」とは、仲間のこと、あるいはよくない連中のことです。不貞を行う仲間よ、という意味です。ヤコブはこれまで祈りを込めて、「私の愛する兄弟たち」と呼んでいたのに、ここでは「不貞のやからよ」と呼んでいるのです。いったいなぜそのように呼んだのでしょうか。それは、世を愛することは神に敵対することだからです。それは霊的姦淫の罪を犯すことなのです。なぜなら、この世はキリストを拒絶する悪の世であってこの暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊が支配しているところだからです。神などいなくても自分たちには何でもできると思っています。人間中心の世界です。このような考えはこの世の芸術、文化、教育、スポーツ、科学、医学など、ありとあらゆる世界に入り込んでいます。神がいなくても自分たちは何でもできると思い込んでいます。神を無視する世界、神に敵対する世界なのです。ですから、こうしたこの世を愛することはひとえに神に敵対することであり、霊的に姦淫を犯すことになるのです。

 

いいえ、私はこの世を愛していますが神も愛しています、という方がおられるでしょうか。そういうことはできません。なぜならイエス様は、だれも、ふたりの主人に仕えることはできないと言われたからです。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじで他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

ですから、世の友となりたいのか、神の友となりたいのかの、どちらかしかありません。そして、ここでヤコブが言っているように世の友なりたいと思うなら、その人は自分を神の敵としているということを肝に銘じておかなければなりません。

 

5節をご覧ください。ここには、「それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに下っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」

この「」のことばはゼカリヤ書1章14節のみことばの引用です。ゼカリヤ書では、「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」とありますが、ここでは、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」になっています。どちらにも共通していることは、神はねたまれる方であるということです。神の民であるイスラエルが自分以外の偶像に走って行ったら、神はどのような思いを持たれるでしょうか。ねたみです。本当に愛しているからねたむのです。どうでもよければねたみは起こりません。神は私たちが救い主イエス・キリストを信じたとき、私たちにご自分の御霊を与えてくださいました。私たちは福音を聞きそれを信じたことで、新しく生まれ変わりました。神の子として、天の御国を受け継ぐ者とされたのです。その保証として神は、ご自身の御霊を与えてくださいました。それは、私たちがやがて天の御国を受け継ぐことの保証でもあります。それはちょうどマンションを借りる時と同じです。いいマンションが見つかってそこに住みたいと思うなら、不動産を通して契約書にサインし手付金を払います。そうすることで、やがて契約の日が来たらそこに住むことができます。御霊も同じで、それは私たちが天のマンションにやがて住むことができるという手付金なのです。それまでの間、神の御霊が私たちの中に住んでくださり、イエス様を信じるように導き、神を愛することができるように助けてくださいます。本当に罪に汚れた者を聖めてくださり、キリストのご性質にあずかる者としてくださり、この地上にあってキリストの栄光を現すことができるようにしてくださるのです。

それなのに、まことの神以外のものを愛するとしたら、神の敵であるこの世を愛するとしたら、神がどれほどねたまれるでしょう。神は昔エルサレムとシオンとをねたむほど激しく愛したように、今は私たちの中に住んでおられる神の御霊を、ねたむほど慕っておられるのです。

 

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、結論は6節にあります。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 

ここでは、「しかし、神は」が強調されています。たとえ私たちが、神が用意しておられるベストを受けそこなっても、世の友となって神の敵となってしまっても、それで終わりではありません。それでも、神の恵みは尽きることはありません。いや、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。これは福音なのです。グッド・ニュースです。本当に私たちは愚かな者です。自分では神に従っているようでもいつの間にかこの世の友となっていることがあります。しかし、神はそんな者さえも憐れんでくださり、さらに恵みを与えてくださいます。

 

ローマ5章20節には、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」とあります。それじゃ、もっと罪を行おうということではありません。私たちは罪を犯さずには生きていけないほど愚かな者なのです。わかっているようでわからない。どこまでも自分中心で、貪欲の塊(かたまり)でしかありません。にもかかわらず神は、そんな私たちを赦し恵みを注いでくださいます。

 

でから、こう言われるのです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」どうしたら恵みを受けることができるのでしょうか。へりくだることです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになります。イザヤ書66章2節にはこうあります。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

神が目を留められる者はどういう人でしょうか。へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。高ぶっている人は神に向かいません。神に頼らなくても、神に祈らなくてもやっていけると思っているからです。そのような人は神の恵みを受けることはできないのです。神の恵みを受ける人は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。

 

私たちも、私たちのからだの中にはまだ古い性質が残っていて神のみこころよりも自分の意志を通そうとして、それが原因で争いや戦いを引き起こすことがありますが、そのような者をも愛し、赦してくださる主の御前にへりくだり、主ご自身を求めましょう。主のことばにおののく者でありたいと思います。それこそ、私たちのからだの中で戦い欲望に打ち勝つ最大の力なのです。

ヤコブ3章1~18節 「舌を制御する」

きょうは、ヤコブの手紙3章から学びます。ヤコブは2章で、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(17)と、行いが伴った信仰、生き方信仰について語りました。今回の箇所では、その行いの伴った信仰の一つとしてことばの問題を取り上げられています。

 

Ⅰ.ことばで失敗しない人がいたら(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」

 

ヤコブはここで、「私の兄弟たち。多くの者が教師となってはいけません。」と言っています。多くの注解者はこの「教師」を神の御言葉を語る教師のこと、つまり「牧師」のことだと解釈していますが、必ずしも牧師だけのことではありません。勿論、牧師は神の言葉である聖書を神の言葉として解釈し語るわけですから、非常に厳粛さが求められるのは確かです。しかし、それは必ずしも牧師や教師のことだけでなく、栄光の主イエス・キリストを信じたクリスチャンのすべてを指していると考えるのが自然です。というのは、ヤコブはこれまですべてのクリスチャンに対して行いの伴った信仰、生きた信仰とはどのようなものかを語ってきているからです。

 

こうした教師をはじめとするクリスチャンに求められていることは何でしょうか。舌を制御することです。2節には、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とあります。ヤコブがこのように多くの人が教師になってはならないと語るのは、日本語でも「口は災いの元」ということわざがあるように、人は口から発することばで失敗することが多いからです。ここには、「もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とありますから、ことばで失敗しない人はいないということでしょう。「それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちてい」(8)るのです。

 

誰しも、この舌を抑えられたなら失敗しなかったのに、ということがあるのではないでしょうか。これだけ言ったらおしまいだと思っているにもかかわらずついついポロッと口から出てしまったばかりに家族ばかりか親類までも巻き込む問題になったり、上司に言った一言が原因で会社を辞めるはめになってしまうことさえあります。舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているのです。いったいどうしたらこの舌を制御することができるでしょうか。そのためにはまず自分の舌がどんな災いをもたらすかその影響の大きさをまずしっかり自覚し、本気になって解決の道を探っていく必要があります。

 

Ⅱ.舌のもたらす影響の大きさ(3-12)

 

そこで、次に4節から12節までをご覧ください。ここには、舌のもたらす影響がどれほど大きいのかを、いくつかのたとえを用いて説明されています。まず馬とくつわのたとえです。3節をご一緒にお読みましょう。

「馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。」

 

馬は大きくてものすごい力があります。それは力を表す単位として「馬力」が使われていることからもわかります。しかし、そんなに大きくて力のある馬でも、口にくつわをかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。私は実際、馬に乗ったことがありませんが、手綱を右の方に引っ張ると右の方に行き、左の方に引っ張ると左の方に行きます。そして両方引っ張ると止まります。くつわは本当に小さなものですが、そのくつわを口にかけるとどんなに大きくて力がある馬でも御することができるのです。

 

次のたとえは船とかじのたとえです。4節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。

「また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。」

 

この船は風で動く大きな帆船です。帆船は風が吹いてきたら、風になびいて進みますが、そんな時でもかじを取る人によって思いとおりに持って行くことができます。それは船全体に比べたらとても小さなものですが、たとえそれがどんなに小さくても、船全体を風に逆らっても動かすことができるのです。

 

いったいここでヤコブは何を言いたいのでしょうか。そうです、くつわにしても、かじにしても、それらは小さなものですが、馬全体を、船全体を動かす力があるということです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。

 

次に5節と6節をご覧ください。ヤコブが次に用いている例は大きな森と小さな火です。

「ご覧なさい。あのように小さい火があのように大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」

不注意な人が何気なく捨てた小さなタバコの吸い殻が大きな森を燃やしたという話を聞くことがありますが、何気なく、不用意に語ったことばが、その人の人生全体を、人格全体をダメにしてしまうことがあります。日本ではよく、大臣が放った一言によって辞任に追い込まれたり、夫婦でも絶対言ってはいけないことを言ったために、離婚に発展するケースもあります。

 

皆さん、なぜ舌を侮ってはならないのでしょうか。それは自分や他の人々の人生にこんなにも大きく、破壊的な影響をもたらすからです。ある人たちは日本語で「言葉」を言の葉と書くように、言が葉っぱのようにぱらぱらと落ちるイメージがあることから、「ことばは単なる音の響きだ」ととらえている人がいたり、一方、「言霊」(ことだま)と言って、発した言葉どおりの結果を現す力があると考える人もいます。

 

では、聖書では何と言っているかというと、創世記には、神はことばによって世界を造られたとあります。神が、「光よ、あれ」と言うと光ができました。また、預言者が神の呪いを発するとそのようになりました。逆に祭司が祝福を祈るとそのようになりました。つまりユダヤ人にとってことばは単なる響きではなく、そこには実体があると考えられていたのです。ですから彼らが「シャローム」とあいさつすると、「平安がその人に来る」と理解していました。それは私たちも同じで、ことばには重みがあるのです。たった一つのことばが、その人の人生全体に大きな影響を与えてしまうことになります。ですから、ことばが正しく用いられないと、自分や他の人々の人生を破壊してしまうことになるのです。

 

その舌を制御することについて7節と8節ではこう言っています。

「どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」

それは少しもじっとしていない悪であり、死のとげに満ちています。人間は器用に、あらゆる動物を飼いならし、自由に動かすことができます。サーカスを観に行くと、あの巨大な象が、サーカスの人によって上手に飼いならされています。百獣の王であるライオンも、飼いならされています。それなのに、なんとこの小さな舌は制御することができません。それはじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているのです。

 

今、東京都で豊洲移転の問題で大きく揺れています。地下水に溜まっている汚水から基準値の79倍のベンゼンという発がん性物質が検出されたことで、それが人体に与える影響を考慮すると果たして豊洲に移転すべきなのか、すべきでないのかの検討がずっと続けられているのです。工場排水に含まれる害毒には敏感でありながら、自分の口から出る毒に満ちたことばを垂れ流しにしたままでよいのでしょうか。私たちは、自分の舌がどんな災いをもたらすのか、その影響の大きさをまずしっかりと自覚し、本気になって解決の道を探っていく必要があるのではないでしょうか。

 

それは9節から12節に書かれてある泉と木のたとえも同じです。同じ泉から甘い水と苦い水がわきあがることがないように、いちじくの木がオリーブの実をならせることがないように、この唇は神を賛美するために造られたのであって、神をのろったり、神にかたどって造られた人をのろったりすべきではないのです。いったいどうしたらいつもきれいな水を出すことかできるのでしょうか。どうしたら舌を制御することができるのでしょうか。

 

Ⅲ.舌を制御する(13-18)

 

ですから13節から18節をご覧ください。13節と14節には、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。」とあります。

 

ヤコブはここで、「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはなりません。」と言っています。つまり、口から出てくることばの源になっている「心」が問題だと言っているのです。私たちの心にひそかにたまっていることが口から出て、人の心をぐさっと傷つけるのです。そこに目を向け解決されない限りは、ことばの問題、人間関係の問題は解決しません。もしあなたの心の中に、苦々しいねたみや敵対心や憎しみや恨みがあると、言ってはならないようなことを言ってしまったうことになるのです。それは話し方教室に通うだけではどうしようもない問題なのです。ねたみや敵対心があるとき、私たちは悪しき者の影響を受けてしまうのです。確かに、そういう思いで心が一杯になっているとき、自分のコントロールから外れてしまうと思わないでしょうか。普段だったら絶対に言わないようなことを言ってしまったり、やらないようなことをやってしまったりします。カーッとなって思わず手が出てしまったり、たまたま打ち所が悪ければ大変なことになってしまいます。

 

まさかあの人がと言われるような事件の数々は、決して他人事ではありません。またそのような時には、どうやって相手を苦しめようかという知恵もどんどん出てくるものです。「そのような知恵は、上から北ものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや邪悪な行いがあるからです。」そのようなものにしはいされてはなりません。そのために、私たちは上からの知恵、神の知恵に満たされなければなりません。なぜなら、17節にあるように、「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」だからです。私たちの心が整えられて平安であるとき初めて、私たちは自分の舌を制することができるようになり、良い人間関係を築いていくことができるようになるのです。

 

このことについて、イエス様は何と言っておられるかを見てみましょう。マタイの福音書12章34,35節をご覧ください。

「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが癒えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」

また、マタイの福音書15章18,19節でも、「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるのからです。」と言われました。つまり、口と心はつながっていて、口は心で思っていることを語るということです。であれば、私たちは口やことばを直す前に、心が癒され、良い物で満たされる必要があります。では、そのためにはどうしたらいいのでしょうか。

 

二つのことが必要です。一つのことは、イエス・キリストを信じて、霊的に新しく生まれ変わることです。キリストを信じるなら、キリストの平和があなたの心を支配するようになるからです。良い物は良い倉から出てくるのです。キリストによって新しく生まれ変わり神の愛に満たされた良い心からは、だんだん良いことばを話すようになります。それは道徳とか倫理の問題ではありません。あなたの霊、あなたのたましいが罪から救われてきよめられているかどうか、そして、あなたの心が神の愛とキリストの平和で支配されているかどうかの問題なのです。

 

もう一つのことは、キリストの新しい性質を身に着けることです。自転車でも、水泳でもそうですが、どうしたら身に着けることができるでしょうか。実際にやってみることによってです。どんなに教室で自転車の乗り方や泳ぎ方を学んでも、それだけでは実際に乗ることはできません。そのためには何度も何度も失敗しながら、実際にやってみなければなりません。そして一旦からだで覚えたら、意識しなくてもできるようになります。それは舌を制御することも同じことで、そのためには、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないことを実践しなければなりません。

 

Ⅰペテロ310,11にはこうあります。

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを言わず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」

もし、あなたが幸いな日々を過ごしたいと思うなら、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないようにしなければなりません。私たちは常日頃、たくさんの誘惑にさらされています。悪いことをされたり、ばかにされたり、自尊心を傷つけられたりします。そのようなとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。これまでは条件反射的に、悪いことばや攻撃することばを言い返していました。「目には目を。歯には歯を」です。口には口です。しかし、これからは違います。キリストの愛が私たちを取り囲んでいます。聖霊の助けによって舌を押さえて悪を言わないようにするのです。何度か失敗もするでしょうが、その度ごとに聖霊に信頼して何度も何度も実践するのです。そうすれば、それが習慣となり、やがて、舌を押さえることができるよううになるのです。

 

ヤコブは2節のところで、「もしことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」と言っています。この「完全な人」というのは、「大人の人」とか、「成熟した人」という意味です。つまり、初めから舌を制御できる人のことではなく、そうした訓練によって習慣化し、それを身に着けることができるようになった人のことを言っているのです。

 

ケネス・ヘーゲンと言う人は、「愛、勝利に至る道」でこう述べています。生活をエンジョイして、幸いな日々を送り、長生きする秘訣は、『自分の舌に悪をやめさせること』です。愛は、悪を言うことをいつも慎みます。愛は人々に対して欺瞞や悪を語りません。また神のご性質の愛は、すべての人との平和を求めます。」他の人を批判することは簡単なことです。しかし、同じ環境のもとで、私たちはその人ほど立派に行うことができるでしょうか。ですから、その人を裁くのではなく、その人を愛さなければなりません。愛は多くの罪を覆うからです。愛こそ、勝利に至る道なのです。

 

ヤコブは舌のもたらす破壊力について語っていますが、同時に、舌が持つ力についても教えています。もし私たちが舌を正しく制御するなら、私たちの人生をも変えることができるはずです。私たちはことばが持つ力についてあまり意識していません。何かが起こるとすぐに、「ああ、最悪だ」と言ってしまうのです。でも本当に最悪なのでしようか。また、ある人たちは病気がなかなか治らないと、「このままだと死んでしまう」と言ってしまいます。また、ある人たちは「何をやってもうまくいかない。俺の人生はどうせこんなもんだ」と言います。もし私たちがこのような投げやりで破壊的なことばを自分に向かって発するなら、本当に最悪なことが起こり、体はますます悪くなり、失敗を重ねる人生になってしまいます。なぜなら、ことばには力があるからです。自分が発したとおりになってしまうのです。ですから、私たちに求められていることは、神様のみこころにかなったことばを語り、それを実践することです。そうすれば、そのとおりになります。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

舌を制御することはだれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。けれども、イエス・キリストを信じて、聖霊によって心を支配していただき、力の限り、私たちの心を見守るなら、そこからいのちの泉が湧き出るのです。私たちも神のみこころにかなった言葉を発することができるように、上からの知恵に満たされて、自分の唇を制御できるように求めていきましょう。

ヤコブ2章14~26節 「生きた信仰」

きょうは、ヤコブの手紙の後半の箇所から「生きた信仰」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて、みことばを実行する人になりなさい、と勧めました。そして、その具体的な実践の一つとして、人をえこひいきしてはいけないということを取り上げました。きょうのところでも、信仰が生きたものとなって全うされることを勧めています。ここには、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(24)とあることから、信仰による義を強調していた宗教改革者マルチン・ルターは、このを「藁の書」と言ったほどです。しかしここでは、信仰か行いか、どちらかということを述べているのではなく、本当のクリスチャンの信仰生活には、信仰も行いもあるはずだということが強調されているのです。きょうは、行いが伴った本当の信仰、生きた信仰についてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.死んだ信仰(14-17)

 

まず、14節から17節までをご覧ください。ここでヤコブは死んだ信仰について語っています。

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

 

私たちの間に、実質の伴わない、言葉だけの信仰話がしばしばなされることがあります。ヤコブはここで、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と言っています。ここで重要なのは、「自分には信仰があると言っても」の「言っても」です。「私は神を信じています」と言うことと、実際にその人に信仰があるかどうかは、別問題なのです。

 

このことについて、イエスさまは次のように警告されました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)また、ヨハネの福音書2章にも、「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。」(ヨハネ2:23-24)とあります。ということは、イエスさまを信じても、イエスさまがご自身をお任せになれないような信じ方があったということを示唆しています。しかもここには「多くの人々が」とありますから、多くの人々がそのような信じ方をしているということなのでしょう。神との関係が確かなものであれば、それがその人の中に働いて、必ず悔い改めにふさわしい実を結びますが、そうでないと、それが実となって現われることはないのです。

 

ヤコブはその具体的な例として、15節から17節までのところで次のように言っています。

「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

ここでも、「と言っても」が問題となっています。「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えないなら、何の役にも立ちません。そのような信仰は死んでいる信仰なのです。すなわち、それは無きに等しい信仰であり、全く無意味なのです。

 

ちょっと待ってください。私たちは何かをしたから救われたのではなく、神の恵みのゆえに、信仰によって救われたのではないのですか。パウロはエペソ人への手紙の中で、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と言っています。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。それなのに、そのような信仰は無意味だとか、死んでいるというのはおかしいのではないでしょうか。

 

確かにパウロは、私たちが救われるのは神の一方的な恵みによるのであり、行いによるのではないことを強調しています。私たちが神に受け入れられるのはキリストの義を土台にしているのであって、私たちの行いによるのではありません。それが聖書の真理です。しかし、そのようにして始められた救いの御業は必ず行いとなって現われるのであって、行いが伴っていないとすればその信仰は死んだものであるか、その信仰に何らかの問題があるかなのです。というのは、パウロはそのエペソ人への手紙の中で続いてこう言っているからです。

「私たちは神の作品であった、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:20)

パウロは、私たちは恵みのゆえに、信仰によって救われると述べた後ですぐに、それは良い行いをするためだと言いました。つまり、パウロもヤコブも同じ行いの伴う信仰について語っていたのです。勿論、身体的、精神的、その他の理由でしたくてもできない場合もあります。しかし、そうしたケースは別として、自分には信仰があると言っても、それが単なる口先だけの、言葉だけの信仰であるとしたら、そのような信仰は死んだものであり、全く意味がないものなのです。

 

Ⅱ.見せることができない信仰(18-19)

 

次に、18節と19節をご覧ください。

「さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

 

ヤコブはここで、次の話題に入っています。それは、見せることができる信仰についてです。信仰そのものは、目に見えないものですが、信仰の行いは見ることができるのであって、もし見せることができないとしたら、その信仰は偽善的な信仰なのです。

 

多くの人が、信じているけれどもその信仰を見える形で示すことはできないと言いますが、それは正しくありません。というのは、その信仰は行いによって現わされるからです。たとえば、皆さんは今安心して椅子に座っていますが、なぜ安心して座っていることができるのでしょうか。そう信じているからです。この椅子は絶対に壊れないと疑うことなく信じているからこそ座っているのであって、もし壊れるかもしれないと思っていたら怖くて座ることができないでしょう。壊れないと信じているからこそ座るのです。つまり、座るというその動作の中に、その人の信仰が現われているのです。言い換えるならば、その人の行いを見れば、その人が何を信じているかがわかるということです。信仰には、行いをもたらす力があるからです。ですから、その人が何を信じるかということはとても重要なことなのです。

 

これはたとえ話ですが、世界的に有名な天才的な綱渡り師がいるとします。彼はこれまでどんな困難なところでも一度も失敗したことがなく渡ることができました。そして、今、目の前の崖から崖に一本の綱が張られていて、それをだれかをおんぶして渡るとします。彼は見ている人に聞きます。「向こう側に渡れると思う人?」すると全員が手を上げます。そこで彼は続いてこう尋ねます。「それでは自分におんぶしてもらってもいいと言う人?」すると誰も手を上げません。なぜなら、もし誤って落ちてしまったら自分のいのちはないからです。すなわち、信じているようでも、本当に信じていないのです。本当に信じるとは、実際に彼におんぶしてもらうという行為に現れます。本当に信じているなら、その信仰を見せることができるのです。

 

そして、見せることができない信仰とはどのようなものかを、ヤコブは19節でこう言っています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」

 

「神はおひとりだと信じています。」これは申命記6章4節のみことばです。そこには、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)とあります。これはユダヤ人の信仰告白です。ユダヤ人は今でもこのみことばを安息日ごとに告白しています。これはユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙ですから、ヤコブはあえてこのみことばを取り上げたのでしょう。それは私たちで言うならば、イエスがキリストであり、救い主であると告白するようなものです。このように告白することはすばらしいことです。なぜなら、そのように心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。

 

しかし、驚くなかれ、悪霊どももそう信じているのです。悪霊どもは確かに神の存在を信じており、またキリストが神の子であることも信じています。マルコの福音書3章11節、12節には、「また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、あなたは神の子です、と叫ぶのであった。」とあります。そればかりか、「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」(ルカ8:31)とあります。つまり悪霊は、キリストがさばき主であり、最終的な刑罰の場所があることも信じているのです。そして悪霊どもはそう信じて、身震いしているのです(マルコ1:23-24)。

 

しかし、信じて身震いすることと、神の救いを受け入れて救われていることとは全然違います。本当の信仰とは、神の救いについての正しい知識を得て、それを受け入れることです。パウロはこのことを新しい創造と呼んでいます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)つまり、新しく生まれ変わる新生の体験なのです。

 

前回の申命記の学びで、「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6)というみことばを学びました。いったいイスラエルはどうすれば心を尽くし、精神を尽くして、主を愛し、主に従うことができるのか。それは彼らの心を包む包皮を切り捨てることによってです。心を包む包皮とは、肉体の割礼に対する心の割礼のことです。イスラエルの民は、彼らが神の民であることのしるしとして、生まれて八日目に割礼を受けました。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることです。それはユダヤ人にとっては神の民であることのしるしとしてとても重要なものでした。それは、ユダヤ教に改宗する人たちにも求められていました。けれども、彼らがどんなに肉体の割礼を受けても意味がありません。なぜなら、それはただ形式的なことであって、それだけで心を尽くして神に従うことなどできないからです。彼らが神に従うためにはそうした肉体の割礼ではなく、心に割礼を受けなければなりませんでした。心を包む皮を切り捨てなければならなかったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちがバプテスマを受けても、それがただの形式的なものであるならば救われることはなく、私たちが救われるために必要なのはキリストを信じる信仰によって、私たちの心が神の御霊によって新たく生まれ変わることによってなのです。それが心の割礼であり、新しい創造なのです。そのような新しい創造を体験した者は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)とあるように、全人格的、全生涯的にキリストを受け入れて生きるようになるのです。

 

「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。」と言われても、死んだ信仰にはいのちがないのですから、見せようにも見られません。しかし、ヤコブはここで、「私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」と言っています。それは決して高慢になって行っているのではなく、そうした偽善的な信仰に対する彼のチャレンジであり、悔い改めと神への従順を求める神からのメッセージなのです。

 

Ⅲ.生きた信仰(20-26)

 

次に、20節から26節までをご覧ください。

「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」

 

信仰と行いを分離して、一方がなくても他方があるからと反対する人たちに向かって、ヤコブは、信仰と行いとは不可分のものであることを旧約聖書の二人の人物を取り上げて、さらに説明を加えています。その二人とはアブラハムとラハブです。

 

ユダヤ人にとって、アブラハムは信仰の父でした。ヤコブによると、そのアブラハムが義と認められたのはいつのことであったかというと、彼がその子イサクを神にささげた時であったと言っています。彼はその行いによって義と認められたというのです。

 

しかし、創世記を見ると、アブラハムが義とみなされたのは創世記15章6節の時点であって、その時なはまだイシュマエルもイサクも生まれていませんでした。人間的に考えれば、アブラハムに子どもが生まれ、その子孫が天の星のようになるという神の約束が実現することが、全く考えられない時でした。それにもかかわらず、アブラハムは神の約束を信じたのです。主はそれを彼の義と認められました。ローマ4章3節やガラテヤ3章6節でパウロが言っている「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」ということばは、この時のことです。

 

しかし、ヤコブが「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」(21)と言っているのは、それから三十年も後の創世記22章の出来事なのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは、創世記15章6節で、その信仰が義と認められたということばが、22章のイサクをささげたという行いによって実証されたということです。ですから、行いによって義とされたということが救われるための条件としてではなく、義と認められる信仰は、行いによって証明されるということを意味しているのです。

 

22節を見ると、「彼の信仰は彼の行いとともに働いた」とありますが、それはこのことを表わしています。元々、アブラハムが生まれ故郷のウルの町を出た時も、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)という神の召しに応答してのことでした。アブラハムの信仰はただ神を信じるというものでしたが、それは生きた神との交わりを通して育まれ、行動となって現われていきました。彼はたくさん失敗もしましたが、それでも神が恵みをもって祝福してくださったので、神への信頼が増していきました。その結果として、神からあなたの愛するひとり子をささげなさいと命じられた時も、神はイサクをよみがえらせることができると信じて、その命令に従うことができたのです。

 

ここには、「彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ」とありますが、これは、彼の信仰がその行いによって証明されたという意味です。アブラハムの信仰は、イサクをささげるという神への全き服従によって全うされたのです。このように全うされる信仰とは、神の約束のことばを土台として、そのみことばを受け入れ、そのみことばに生きることによって、捨て身になって神に信頼する信仰なのです。その時に、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼が神の友と呼ばれたように、私たちの中にも神の義が全うされるようになるのです。

 

そして、もうひとりの人は遊女ラハブです。彼女については次のように紹介されています。25節です。

「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。」

 

彼女については、ヨシュア記2章に記されていますが、彼女について特筆すべきことは、彼女がカナン人、つまり異邦人であったこと、しかも遊女であったということです。神の救いは決して、その人の素性や行いによって妨げられるものではないことがわかります。しかし、いったいなぜここでわざわざ遊女ラハブのことが取り上げられているのでしょうか。アブラハムならわかります。彼は信仰の父であり、神の友と呼ばれた人物です。しかし、彼女は異邦人であり、遊女でした。そんな彼女がわざわざ取り上げられているのには一つの理由があります。それは、彼女がアブラハム同様、行いによって義と認められた者であるということです。つまり、行いによって、その信仰が全うされた、証明されたということです。いったい彼女はどのようにその信仰を全うしたのでしょうか。

 

25節には、彼女は、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、とあります。彼女は自分の命の危険を冒してイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出しました。いったいなぜ彼女はそこまでしたのでしょうか。ヨシュア記によると、彼女はイスラエルにはまことの神がおられ、その神がカナン人を滅ぼされる計画を持っておられるということを知っていたからでした。つまり、彼女は、その方こそ救い主であると信じていたので、その使者たちをかくまい、自分と自分の家族を救ってほしいと頼んだのです。その信仰がそうした行いとなって現われていたのです。

 

結論として、ヤコブはこう言っています。26節をご覧ください。

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」

死とは、からだからたましいが離れることです。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。

 

皆さんの信仰はどうでしょうか。たましいを離れたからだのようにはなっていないでしょうか。私たちは、神の一方的な恵みによって救われました。しかし、本当に神の恵みによって救われたのなら、そこには必ず行いが伴うはずです。もっと神を愛し、神に従い、神のみ旨にかなった歩みをしたいという思いが溢れてくるはずなのです。もしそうでないとしたら、もう一度自分の信仰を吟味し、本当に救いの信仰を持っているのかどうかをよく調べてみる必要があるのではないでしょうか。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(Ⅱコリント13:5)

そして、行いの伴った信仰、救いに至る信仰を全うしようではありませんか。