ヨハネ16章1~16節「その方が来ると」

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ヨハネの福音書16章に入ります。きょうのタイトルは「その方が来ると」です。「その方」とはだれですか。その方とは、助け主であられる聖霊のことです。その方が来ると、どうなるかということです。

この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知られたイエス様は、自分の愛する弟子たちだけを集めて、最後のメッセージをされました。それが13章から16章までにある内容です。この翌日、イエス様は十字架に掛けられて死なれるわけですが、その前に弟子たちに大切なことを教えられました。特に、前回のところでは、世があなたがたを憎む時、どうしたら良いかというお話しをされました。イエス様を信じて生きるというのはすばらしいことです。そこにこの世では得られない祝福を得ることができます。その一つは、キリストを信じる者は神のわざを行うことができ、また、イエスの名によって祈るなら、何でもかなえられるということでした。その結果、私たちは喜びに満ち溢れるようになります。そればかりか、心にイエスの平安を持つことができます。それは、世が与えるのとは違います。それは、状況によって変化するような平安ではなく、どんな状況にあっても変わらない平安です。

しかし、クリスチャンになるということは、良い事ばかりではありません。すべてがバラ色になるというわけではないのです。なぜ?世があなたがたを憎むからです。この世とは、神に敵対する世のことです。ですから、クリスチャンになるとこの世とは考え方や価値観が変わるので、そこには当然対立が生じます。イエス様ご自身がそうだったわけですから、イエス様を信じ、イエス様に従うクリスチャンが、同じように迫害を受けるのは当然のことです。しかし、安心してください。イエス様は何と言われましたか。20節、「しもべは主人にまさるものではない」と言われました。しもべとは私たちのこと、主人とはイエス様のことです。しもべは主人にまさるものではありません。イエス様が受けられたほどの苦難を受けることはありません。むしろ、イエス様が父なる神のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊によって、大胆に、確信をもってイエス様を証しすることができます。今日は、その方、真理の御霊が来る時、どうなるのかについてお話ししたいと思います。

Ⅰ.これらのことを話したのは(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。1節をお読みします。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」

「これらのこと」とは、今、お話ししたことです。クリスチャンはこの世の人々から憎まれ、迫害されることがありますが、そういうことが起こってもあわてふためく必要はありません。そのためにイエス様は、前もって話してくださったのです。もし前もって話さなかったらどうなるでしょう。「こんなはずじゃなかった・・・」ということになります。人は、苦難に遭うと疑いが起こってくるものです。クリスチャンになると祝福されて、何でもトントン拍子にうまくいくと思っていると、そうでない現実が襲ってきた時、神様の存在さえも疑うようになり、信仰から離れてしまうことさえあります。もちろん、クリスチャンになると、苦難ばかり襲ってくるのかというと違います。クリスチャンになると、私たちが抱えていた問題が解決します。神を信じない人の世界観というのは閉ざされた感があります。何をやっても空しいでしょう。昔の伝道者はこう言いました。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)「空」と言っても食べるという意味の「食う」じゃありませんよ。空しいということです。日の下でどんなに労苦しても、それがいったい人にとって何の益になるのでしょう。たまに刺激的なことがあったとしても、同じ日々の繰り返しの中で歳を取り、やがてその生涯を終えます。すべてが空しく、風を追うようなものです。けれども、イエス様を信じて神の子とされ、神がともにおられるということを体験すると、この世では得られない解放感を味わうことができます。ですから、それまでとは違った喜びと感謝にあふれるようになるのです。しかし、私たちがクリスチャンになるということは、悪魔の支配下から神の支配下に移されるということですから、そこには当然それをおもしろく思う者がいるわけです。悪魔です。そして、あの手この手を使って神から引き離そうとするのです。このことをよく知っておけば、クリスチャンになってから起こる様々な困難や苦難に対しても、対処することはそれほど難しいことではありませんが、そうでないと、「何でそうなるの」と嘆いてみたり、つまずいたりすることになります。イエス様はそういうことがないように、このことを前もって弟子たちに話されたのです。

では、具体的にどういうことが起こって来るのでしょうか。2節には、「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。」とあります。「会堂」とはユダヤ教の会堂のことです。当時、会堂は礼拝をする所だけでなく、子供たちの学校であったり、人々の揉め事を仲裁する裁判所であったり、生活に関するあらゆる場所として使われていました。そこから追放されるということは、当時のユダヤ人社会から追放されることを意味していました。いわゆる村八分です。村八分にされることほど恐ろしいことはありません。それは学校でのいじめの論理と同じです。日本人がクリスチャンになることを恐れる理由の一つがここにあります。つまり、日本人がクリスチャンになることを恐れるのはクリスチャンが少数派であって、大部分がそうではないからです。みんなやってることだものと、長いものには巻かれていれば安心感はあるでしょう。しかし、そうした自分を欺くような生き方は主体性というものが失われ、結局のところ、「俺の人生は何だったんだろう」ということになります。クリスチャンとして生きるということは、確かにそこに戦いはありますが、本当の生きる目的と喜びを実感しながら生きるということなのです。

いったいなぜ彼らはそこまでクリスチャンを迫害するのでしょうか。その理由が3節にあります。「彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。」

ユダヤ人はアブラハムの子孫であり、神に選ばれた民だと思っていました。民族的には確かにそうです。彼らには神からの律法、旧約聖書が与えられていたので、キリストについては良く知らなかったとしても、父なる神についてはよく知っていたはずです。それなのに、彼らは神から遣わされたキリストを受け入れなかったばかりか、その方を十字架に付けて殺してしまいました。なぜ?神を知らなかったからです。知っているようで実際にはそうではありませんでした。もし神を知っていのであれば、神から遣わされた方を拒むことはしなかったでしょう。それをしたということは、本当の意味で神を知らなかったということなのです。キリストを通してでなければ、だれも神を知ることはできません。どんなに宗教的に熱心であっても、それが必ずしも神を知っているというわけではないからです。

4節と5節をご覧ください。イエス様がこれらのことを話された理由がここにかかれてあります。それは、「その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。」「その時」とはクリスチャンが迫害される時のことです。その時が来たとき、イエス様がそのことについて話されたことを彼らが思い出すためでした。イエス様は、初めからこのことを話しませんでした。なぜなら、イエス様がともにおられたからです。どんなに敵が攻めて来ようとも、イエス様がともにおられたので安心でした。しかし、そのイエス様が今、父なる神の許へ行こうとしていました。そうなれば、そうした攻撃をもろに受けることになります。ですから、今、これらのことを彼らにお話ししているのです。その時が来たとき、彼らがそのことを思い出すためです。

ですから、予め知っておくということはとても大切なことです。クリスチャンになったらいいことずくめだと思っていたら、そうでないことが起こった時つまずいてしまうことになります。しかし、そうじゃないんだ、確かにイエスの名によって祈ると、神はその祈りを聞いてくれますが、祈っても、祈っても、なかなか道が開かれないこともあるし、むしろ、想像もしていなかった問題が起こることもあると最初から知っていたら、そういう覚悟で臨むことができ、それを乗り越えることができます。ですから、信仰について聖書は何と言っているか、また、それをどのように理解しているかということは、とても重要なことなのです。

弟子たちはどうでしたか。5節の後半のところを見てください。「けれども、あなたがたのうちだれも、「どこに行くのですか」と尋ねません。」とあります。

どうして彼らは尋ねなかったのでしょうか。彼らの心が悲しみでいっぱいになっていたからです。イエスが父のもとへ行かれるということ、そしてそのときには迫害されるということを聞いて、心が悲しみでいっぱいになっていました。それで、だれもイエスに「どこに行くのですか」と聞かなかったのです。もう聞きたくありませんでした。彼らが期待していたのは、イエスが自分たちを救ってくれるということでした。この場合の救いというのは、自分たちを支配していたローマ帝国の支配からの救いのことです。それなのに、イエス様は十字架で死なれるとか、父の許に行かなければならないとか、全くわけのわからないことを言うものですから、受け止めることができないでいたのです。でも問題はイエス様ではく、弟子たちの方でした。イエス様は最初からご自分が来られた目的や、それをどのようにして成し遂げられるのかを彼らに話してきました。すなわち、イエス様が来られたのは彼らを罪から救うためであり、そのために十字架に掛かって死なれること、そして、三日目によみがえられること、天に昇って行かれること、そのすべてを話されましたが、彼らは聞く耳を持たなかったのでそれがどういうことなのか理解することができなかったのです。

私たちも同じです。理解できないと、心が悲しみでいっぱいになります。そして、つまずいてしまうことになります。ですから、イエス様が言われることをよく聞いてください。イエス様は私たちにも前もって語ってくださいました。それを聞いて理解することが、あるいは理解に努めることが、どんなことがあっても悲しみに沈まない秘訣です。

Ⅱ.去って行くことはあなたかたの益になる(7)

次に、7節をご覧ください。イエス様が去って行かれると聞いて、彼らの心は悲しみでいっぱいになっていましたが、そんな彼らにイエス様はこう言われました。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」

イエス様が弟子たちのもとから去って行くことは、弟子たちにとって益になることでした。なぜなら、去って行かなければ、彼らのところに助け主はおいでにならないからです。でも、行けば、来られます。行けば、来られますというのは変な言い方ですが、イエス様がその助け主を彼らのところに遣わしてくださるということです。この「助け主」については、すでに14:16で教えられていたことです。そこには、「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」とあります。

「もうひとりの助け主」とは、イエス様と全く同じように助けてくださる方という意味です。今まではイエス様がいつもともにいて直接助け、慰めてくれましたが、そのイエス様が去って行かれることで、今度は全く同じ方が来て助けてくださるのです。この方は13節にあるように、真理の御霊です。それは、彼らにとって益になることでした。なぜなら、イエス様が去って行かなければ、確かにイエス様がそばにいて助けてはくれますが、人としてこの地上におられたわけですから、そこには時間的、空間的な限界があったからです。いつでも、どこでも、すぐに助けを与えられるかというとそういうわけにはいきませんでした。

たとえば、イエス様が今日もしパレスチナに生きておられるとしたら、私たちは困ったことが起きた時一々ビザを取ってパレスチナまで行かなければなりませんし、緊急を要する時に、国際電話で話をしようとしても、全世界の人が助けを求めるために電話に殺到して、なかなかつながらないということもあります。まあ、今は便利な時代ですね。国際電話なんて必要ありません。LINEがあればすぐにつながります。しかも、ビデオ通話ですよ。また、ズームという会議用のソフトもあります。世界中の人と同時に話をすることができるようになりました。英語礼拝では5月までZOOMで礼拝が行われていましたが、アメリカにいるネイサン兄が参加してメッセージをしてくれました。いいですね。これからはZOOMの時代です。でも限界があります。途中で、Wi-Fiが弱くて接続できませんという表示がされて、切れてしまうこともあります。やっぱり実際に会って話すのとは違います。こうしたテクノロジーは、補助的な手段にはなっても限界があるのです。

しかし、もうひとりの助け主にはそうした限界がありません。この方は、いつでも、どこでも共にいて、助けることができます。今この教会の真中にいてくださる主は、同時にこの教会だけでなく、すべての教会にもいてくださいます。イエス様は「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)と言われました。また、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われました。どのようにしていつまでも、世の終わりまで、私たちとともにいてくださるのでしょうか。この聖霊を通してです。このように、聖霊は時間と空間に全く制約されることがなく、世界中どこにいても、困ったことが起こった時に助けを求めれば、いつでも答えることができるのです。この方は、世界中のクリスチャンとともに、いやクリスチャンのうちにいてくださるのです。だから、イエス様が去って行かれることは、彼らにとって益なのです。                                               時として私たちも、何かを失うとき、弟子たちのように心が悲しみでいっぱいになることがあります。しかし、失うことは新しいものを得るためであり、さらに良いものが与えられるときでもあるということを覚えておきたいものです。

9 年前、東日本大震災時地震、津波、原発事故に遭遇し故郷を追われた福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生は、今回のコロナウイルスの問題に遭遇し、まさか、人生にこのような日があるとは思いもしなかったと、「黄金の冬ごもり」というコラムの中でこのように言っておられます。

今回のコロナ災禍では、教会堂はあるのに、 教会員はそこにいるのに、礼拝できないという悔しさをかみしめました。最後となった 4 月12 日の礼拝で、先生は思わずことばがつまって祝祷ができませんでした。震災で生き延びた教会は、コロナで力尽き、最後の砦と思った礼拝もかなわず、敗残兵が倒れたように思ったのです。翌19 日の礼拝は、3人の牧師が誰もいなくなった礼拝堂にひっそりと集い、やむなくYouTube礼拝を配信しました。

けれども気がつけば、初代教会も迫害の中で、そして今日の中国の教会も共産主義体制の下で、やむなく家々で礼拝をささげています。この機会はもしかしたら、神様がくださった原点回帰の時でしょうか。私たちは震災の時のように、今礼拝や交わりが決して当たり前ではないことを、つくづく思い知らされています。

そう言えば地球も今、コロナで人間の活動が停止して、貴重な癒しのearth day(地球の日)を迎えているそうです。大気汚染のPM2.5は劇的に下がり、ガンジス河もきれいになったとか。

また、必要は新たなアイデアを生み出します。震災時、私たちはバラバラになった教会員を何とか繋ごうと、ネットで礼拝の配信を始めました。ちょうどその頃スマホが急速に普及し、今回のスムーズなコロナ対応ネット配信礼拝につながりました。そして今回はどうでしょう。いつの間にか増えてしまった会議の整理や、時代に即さなくなった慣例の見直し、ほんとうに大切なものの確認などは、コロナ後の新たな世界を生き抜く、サバイバル教会に脱皮する第一歩です。

9 年前の大霙災は、私たちから多くのものを奪いました。けれども、結果は移住地での新たな教会づくりでした。寝る場所や食べる物確保に右往左往した当時を思うと、今回は住まいや教会は奪われていません。私たちは、大丈夫です。「わたしの前で静まれ」(イザヤ41:1) と語られた主とふたりきりで、黄金の冬ごもりの季節を過ごしましょう。

春は来ます。苛立ちや不安を手玉に取り、信頼や寛容を育んで、来るべきコロナ後の世界への旅支度を始めるのです。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀歌3章33節)

という内容です。本当にそうですね。何かを失うことは新しいものを得るためであり、さらに良いものが与えられる時でもあるのです。まさに今回のコロナの問題は、教会が原点に帰る時として、また、私たちが人生の原点に帰る時として、神が私たちに与えておられることなのではないかと思います。そのことを覚えて感謝し、今、黄金の巣ごもりの時を過ごしたいと願わされます。

Ⅲ.その方が来ると (8-16)

では、その方が来るとどのようなことをなさるのでしょうか。8~16節までをご覧ください。まず11節までをお読みします。

「8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」

その方、聖霊が来るとどのようなことをしてくださるのでしょうか。イエス様はここで、二つのことを述べておられます。その一つがこれです。つまり、その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを明らかにされるということです。世とは、神に敵対している世のことです。この世に、罪について、義について、さばきについて、その誤りを明らかにされます。どういうことでしょうか。

9節をご覧ください。まず罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。「信じない」とは、信じようとしないとか、信じることを拒むという意味で、心を固く閉ざして、信じようとしないということです。なぜ信じないのでしょうか。自分が罪人であることがわからないからです。一般に私たち日本人は、「罪」というと物を盗んだり、人を殺したり、詐欺を働いたりするなど、いわゆる犯罪を行うことを罪だと考えているので、自分はそんな犯罪なんてやっていないし、法律に違反することもしていないので、自分には罪がないと考えているのです。しかし、そもそも聖書が言っている罪ということは、そういうことではありません。聖書が言っている罪とは「ハマルティア」です。「的外れ」です。本来あるべき状態でないことです。つまり、まことの神から離れている状態のことを言います。本来、人間は神のかたちに造られ、神の栄光を現すものとして造られたのに、その神から離れ自分勝手というか、自己本位に生きるようになってしまいました。聖書はそれを罪と言っているのです。ですから、ローマ3:23には、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」とあるのです。罪を犯したから罪人なのではなく、罪人なので罪を犯すのです。その罪がわからないのです。頭ではなんとなくわかるのですが、ピンとこないのです。しかし、その方が来ると、その罪について明らかにしてくださいます。自分がいかに自分勝手に生きてきたか、また、そのために神に反逆していたかが分かり、自分の罪を認めないわけにはいかなくなるのです。

たとえば、使徒の働き2章には、ペンテコステの日に聖霊が降られたときのペテロの説教がありますが、ペテロが、「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」(使徒2:22-24)、「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(同2:33)と語ると、「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」(同2:37)のです。グサッと心に刺さったんです。私も罪人だとわかりました。イエス・キリストを十字架につけたのはこの私だったんだ。私の罪のためにイエス様は十字架で死んでくださった。私はほんとうに罪人だということがわかったのです。それで彼らはどうしましたか。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けました。何とその日3,000人ですよ。3,000人ほどの人々が仲間に加えられました。

罪がわからないとイエス様を信じることができません。だって罪がなければ救われる必要がないわけですから。自分が正しい人間であればどうして救われる必要があるでしょうか。ありません。だから信じることができないのです。しかし、その方が来ると、罪について明らかにしてくださいます。自分が本当に罪深い人間だということがわかるようになるのです。

10節をご覧ください。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」どういうことでしょうか。「義」とは正しいということです。聖霊様が来られると、キリストは正しい方、義なる方であることを明らかにしてくださるということです。どのように明らかになさるんですか。それはイエス様が父のもとに行き、彼らがもはやイエス様を見なくなることによってです。どういうことですか?ユダヤ人たちは、イエス様が「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)とか、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)と言われるのを聞いて、イエスを殺そうとしました。なぜなら、イエスは神を冒涜したと思ったからです。実際、彼らはイエス様を十字架に付けて殺しました。しかし、イエス様は死んで終わりだったでしょうか。いいえ、死んで三日目によみがえられました。そして40日間彼らにご自身のお姿を現わされると、彼らの目の前で天に昇って行かれ、神の右の座に着かれました。それはどういうことかというと、神に受け入れられ、神の権威の座に着かれたということです。そこに着かれたということは、キリストには全く罪がなかったということを示しています。キリストは神と全く等しい方であるということです。どうして神の右の座に着かれたということがわかるのでしょうか。聖霊様です。イエス様が天に昇って行かれ、神の右の座に着かれたことの証明として、神は約束の聖霊を送ってくださいました。そのことによってキリストが神の子であり、全く正しい方であるということが明らかにされたのです。そして、この聖霊によって、キリストこそまさしく神の子であられ、私たちを罪から救うことができる救い主であるということが分かったのです。

パウロはこのことを、ピリピ3:5~9でこう言っています。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」

彼はわかりませんでした。とにかく宗教に熱心であれば救われると思っていました。その熱心は教会を迫害したほどです。しかし、キリストがどのような方であるかがわかったとき、そのキリストのすばらしさのゆえにすべてを損と思うようになりました。彼はそれを「ちりあくた」だと言っています。それはキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。彼は律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義を持ったのです。

皆さん、信仰に熱心であれば救われるというわけではありません。救いはイエス・キリストにあります。なぜなら、キリストはあなたの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたからです。そして、天に昇って行かれ、神の右の座に着かれました。すなわち、この方こそまことに義なる方、神の子、救い主であられるのです。その方が来ると、このことを明らかにしてくださいます。

そして11節をご覧ください。ここには、「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」とあります。どういうことですか。「この世を支配する者」とは、悪魔、サタンのことです。この悪魔は、完全にさばかれました。悪魔は、キリストを十字架に付けた時、してやったりと思ったことでしょう。しかし、キリストがその死の中からよみがえられたことで、その思いは脆くも崩れてしまいました。悪魔の最後の砦は死ですが、キリストがその死を打ち破られたことで、悪魔を完全に滅ぼされたからです。その結果、悪魔は終わりの時のさばきを待つばかりになりました。今はそれが実行されるまでの猶予期間にすぎません。悪魔は、どうにかして多くの人がキリストを信じないように働きかけたり、クリスチャンに対しても誘惑したり、脅したりして信仰から離れさせようと躍起になっていますが、もう勝敗はすでに決まっているのです。イエス・キリストを信じる者は決して罪に定められることはありません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)」

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」

これが、クリスチャンが抱く希望です。なぜなら、この世を支配する者がさばかれたからです。私たちは、神のさばきに会って当然の者でした。罪がありましたから。しかし、神はそんな者を愛して、御子イエス・キリストをこの世に送り、十字架で死んでくださいました。死んだだけではありません。よみがえられました。そのことによって、これまで私たちをがんじがらめにしていた罪の支配から解き放ってくださったのです。もう罪に支配されることはありません。さばきに会うことはありません。なぜなら、この世を支配する者がさばかれたからです。私たちは聖霊によって、罪に打ち勝つ力が与えられ、キリストの復活の力によって勝利ある人生を送ることができるようになったのです。何とすばらしいことでしょう。しかし、それは聖霊様が来られるまでわかりませんでした。聖霊様が来られたことで、罪について、義について、そしてさばきについて、世の誤りを明らかにしてくださったのです。

そればかりではありません。その方が来るとどうなるのか、12節からのところにもう一つのことが教えられています。12~15節をご覧ください。

「12あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。」

イエス様は弟子たちに話したいことがたくさんありましたが、それ以上のことは話しませんでした。なぜなら、その時の弟子たちの信仰のレベルではそれ以上のことを受け入れることができなかったからです。しかし、一つのことだけはどうしても話しておかなければなりませんでした。それは、その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださるということです。どういうことでしょうか。ある人たちは、これを文字通りすべての真理と理解しています。つまり、科学や医学、政治、経済といったあらゆる分野における真理のことです。しかし、ここで言っていることはそういうことではありません。聖書はあらゆる分野の真理を示しているわけではないからです。

そこである人たちは、これはその後にある「御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます」という言葉から、将来起こるであろうすべてのことを指していると考えていますが、そういうことでもありません。確かに主は世の終わりの前兆について語られましたが、それが将来起こるであろうすべてのことではないからです。あまり読み込みすぎると、かえって真理から離れてしまうことにもなりかねません。では、これはどのような意味でしょうか。それは、主が弟子たちに語られたすべてのことを思い起こさせ、その意味を明らかにしてくださるということです。特に、救いに関する教えです。つまり、この後に起こる十字架と復活の出来事、そして昇天という救いに関する一連の出来事について、その真理を明らかにしてくださるということです。

弟子たちの多くは漁師でした。特別な専門教育を受けたこともない、無学で普通の人でした。しかし、彼らには最高の教師がいました。イエス・キリストです。彼らはイエス・キリストから直接教えを受け、そのみわざを間近で見ました。そのイエス様が天に行かれるということで、彼らの心は悲しみでいっぱいでしたが、しかし、そのイエス様が去って行かれることで、イエス様と全く同じ方が、いや、時間と空間を超えているという点ではそれ以上の方が来て彼らを教え、すべての真理に導いてくださいます。彼らの内側にいて、イエスさまが言われたことを思い起こさせてくださいます。そのようにして書かれたのが聖書です。聖書は、弟子たちによって書かれたイエス・キリストについての証言ですが、それは弟子たちによって書かれたというよりも、聖霊によって書かれた証言です。Ⅱペテロ1:21にはこうあります。「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」「預言」とは「聖書」のことですが、預言は、決して人間によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。聖霊が彼らをすべての真理に導いてくださったのです。

世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。なぜなら、イエス様は世に勝利されたからです。その方が来ると、そのことを思い起こさせてくださいます。さまざまな困難に直面する時、聖書のことばを通して、私たちをすべての真理に導いてくださり、助けと励ましを与えてくださいます。こんなに心強い助けがあるでしょうか。現代は先行き不透明な時代です。しかし、この方が来るとき、私たちをすべての真理に導いてくださいます。あなたのうちには、この方がおられますか。イエス・キリストを信じてください。イエス様を信じるすべての人に、神は賜物としてこの聖霊を与えてくださいます。この方こそ、私たちが直面するさまざまな困難の解決であり、その中を生き抜く力なのです。

ヨハネの福音書15章18~27節「世があなたがたを憎むなら」

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ヨハネの福音書15章からお話ししています。きょうは、その4回目となりますが、「世があなたがたを憎むなら」というタイトルでお話しします。18節に、「世があなたがたを憎むなら」とあります。イエス様は、前回のところですばらしい約束を与えてくださいました。それは、あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したということです。それは何のためですか。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるためです。その実とは救われる魂のこと、救いの実のことでした。それは彼らの力によるのではありません。神の力、聖霊の力によるのです。ですから、そのために祈るようにと勧められていたのです。あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはすべて、父が与えてくださいます。すばらしいですね。私たちには、このような約束が与えられているのです。

しかし、それは簡単なことではありません。なぜなら、そこには迫害があるからです。苦難があります。きょうの箇所には、迫害とか、憎むという言葉が何回も出てきます。まず18節には、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」とあります。19節にも、「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」とあります。20節にも、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。」とあります。また23節にも、「わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。」とありますし、24節にも、「もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。」とあります。25節の言葉も合わせると、この箇所だけで9回も遣われています。ピリピ1:29には、「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」とあるように、私たちの信仰生活というのは、キリストを信じることで受ける恵みと同時に、キリストのために受ける苦しみもあるのだということを覚えておかなければなりません。そうでないと、そのような苦難に遭った時、どうしてこのようなことが起こるのかと失望落胆し、信仰から離れてしまうことにもなりかねません。ですから、クリスチャン生活にはこの世から憎まれることがあるということを、イエス様は予め教えられたのです。

いったいなぜクリスチャンはこの世から憎まれるのでしょうか。イエス様は、ここでその三つの理由をお話しなさいました。それは第一に、イエス様ご自身が憎まれたからです。イエス様が憎まれたのであれば、イエス様に従うクリスチャンが憎まれるのは当然のことです。第二のことは、クリスチャンはこの世のものではないからです。もしこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、クリスチャンはこの世のものではなくキリストのもの、神のものです。だから、世はクリスチャンを憎むのです。そして、三つ目の理由は、この世がクリスチャンを憎むのは、まことの神を知らないからです。まことの神を知っていたなら、キリストを憎むことはしなかったでしょう。なぜなら、キリストは神から遣われた方なのですから。

ですから、結論は何かというと、世がどんなにあなたを憎んでも、キリストにしっかりととどまり、キリストを証ししましょう、ということです。

 

Ⅰ.イエスご自身が憎まれたから(18)

まず、第一の理由から見ていきましょう。いったいなぜクリスチャンは憎まれるのでしょうか。なぜなら、主イエスご自身も憎まれたからです。18節をご覧ください。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」

この「世」とは、神に敵対する世界のことです。聖書は、この世は悪魔の支配の下にあり、神に敵対するものであると言っています。たとえば、14:30で主は、「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。」と言われました。「この世を支配する者」とは悪魔のことです。悪魔がこの世を支配しているのです。元々、この世界は神によって造られました。神がこの世界を造られた時、その造られたすべてのものをご覧になり、「見よ、それは非常に良かった。」(創世記1:31)と言われました。ですから、この世界は元々すばらしいものだったのです。しかし、最初の人アダムとエバが悪魔の誘惑に負けて罪を犯したことで、全人類が悪魔の支配の下に置かれることになってしまいました。それゆえ、この世は神を認めません。ピリピ3:19に、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」とあるように、彼らは自分に都合の良いものを神とするようになりました。また、人間の力を誇り、人間には無限の力がある。コロナだって大丈夫。みんなで力を合わせれば必ず乗り越えられると、人間の力を誇るようになりました。その一方で、道徳的にはどうかというと、良くなるどころかますます悪くなり、平気で人を誹謗中傷したり、自分の欲望を満たすために人を騙したり、人の財産やいのちまでも奪うようになってしまいました。オレオレ詐欺は後を絶ちません。次から次に新しい業を繰り出してきます。これが神から離れた世界であり、この世の現実です。

しかし、神はこの世を愛し、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。主イエスがこの世に来られると、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と言われ、神の国の福音を宣べ伝えられました。様々な病気で苦しんでいる人を癒し、悪霊を追い出し、すべての町々、村々に行って神の国の福音を伝えられたのです。するとどうでしょう。そこには、主イエスを信じる人と信じない人の二つに分かれました。イエス様を信じない人たちのトップはユダヤ教の指導者たちでしたが、彼らはどうしたかというと、イエス様を歓迎するどころかイエス様を憎み、迫害しました。それはイエス様がご自分を神としたからです。イエスは言われました。

「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」なのです。」(ヨハネ8:58)

それを聞いたユダヤ人たちはどうしましたか。彼らは怒り、神を冒涜したといってイエスを石打ちにしようとしました。しかし、群衆の手前それができないと思った彼らは、偽りの証言によってイエスを罪に定め、十字架につけて殺してしまったのです。彼らとしては「してやったり」でしたが、しかし、それこそが、永遠の昔から世を救うために定めておられた神の救いのご計画でした。。神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。それが十字架です。誰がそのようなことを考えることができるでしょうか。だれもできません。しかし、神にはできます。神にはどんなことでもできるのです。

このように、主イエスがこの世に来られた時、イエス様を信じない人たちはイエス様を憎みました。これはイエス様だけのことではありません。イエスを信じるすべての人に言えることです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るためです。しかし、それはまさに狼の中に羊を送り出すようなものでした。いつ襲われるかわかりません。なぜなら、世は彼らを憎むからです。でも心配しないでください。イエス様ご自身もそうだったのですから。彼らよりも先に憎まれました。イエス様が憎まれたのであれば、イエス様に従うクリスチャンが憎まれるのは当然のことではないでしょうか。

イエス様は彼らを伝道に遣わすにあたり、そのことを前もってお話しされました。そうでないと、そういうことが起こった時、「こんなはずじゃなかった」とがっかりして、信仰から離れてしまうことにもなりかねないからです。

先日、長野県の知人から電話がありました。長年、事務機の会社で働きながら忠実に主に仕えて来られた方ですが、不況で会社が倒産したのでどうしたらよいかと祈っていたところ、牧師になるのはどうだろうという思いが与えられ神学校で学ぼうかと思っているが、どうしたらよいかということでした。年齢のこともあり、本当にそれが神様のみこころなのか悩んでいるというのです。どうしたら良いと思うかって、牧師になるというのはすばらしいことですが、誰でもなれるわけではありません。というのは、牧師は職業ではなく主から与えられた賜物と召命によるからです。もし、一つの職業と考えたらどうなりますか。続けていくことはできないでしょう。思うように伝道が進みません。教会の方からもいろいろなことを言われます。自分の限界も感じるでしょう。そのような中でどうやって続けて行くことができるでしょうか。初めは牧師謝儀なんてどうでもいいと思っていても、だんだん割に合わないと思うようになります。それでも、その働きを続けていくことができるとしたら、それは主のあわれみと主がそのように召してくださったからという召命があるからです。そうでなかったら続けていくことなんてできません。こんなはずじゃなかったとなるでしょう。

ですから、教会の牧師になりたいと思うなら、まず、今置かれている現場でしっかりと主に仕えることです。そうすれば、周りの方々から少しずつ認められるようになるでしょう。その先に牧師とか伝道者の働きがあるのです。もし牧師の謝儀とか労働条件といったことをどうでもいいということではありませんが、そういうものは後からついてくるものであって、それありきということになると、こんなはずじゃなかったということになるでしょう。

それは、私たちの信仰生活も同じです。私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様が私たちを選び、私たちを任命してくださいました。それは私たちが行って実を結ぶためであり、私たちがイエスの名によって祈るなら、何でも父が与えてくださるためです。

しかし、それは祝福だけではありません。祝福と同時に苦しみも賜りました。聖書が教えていることは、あなたがたは世にあって苦難があるということです。16:33をご覧ください。ここには、「あなたがたは、世にあって苦難があります。」とあります。苦難があるんです。すべてが祝福というわけではありません。「しかし」なんです。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出すことができます。なぜなら、主イエスは、世に勝利されたからです。この方がともにおられるのだから、勇気を出すことができます。私たちは、このように言われたイエス様の言葉をしっかりと心に留めておかなければなりません。そして、たとえ世に憎まれることがあっても、そのことで驚いたりするのではなく、私たちよりも先にイエス様が憎まれたことを思い、心を備えておきたいと思うのです。

Ⅱ.この世のものではないから(19-20)

クリスチャンはなぜ迫害されるのでしょうか。二つ目の理由は、クリスチャンはこの世のものではないからです。19節と20節をご覧ください。「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。」

もしクリスチャンがこの世のものであったなら、世はクリスチャンを愛したでしょう。しかし、クリスチャンは世のものではありません。それで、世はクリスチャンを憎むのです。私たちは以前、この世に属していました。ですから、神がどう思うかなんて全く関係ありませんでした。自分の思いのままに、自由奔放に生きていました。みんなやっていることだもの、ちょっとくらいならいいだろう。バレなければいい、そういう感覚で生きていました。人様に迷惑をかけなければいいじゃないですか。自分の人生なんだから、自分で好きに決めて何が悪いんですかと、すべて自分の思いのままに生きていたのです。それが生きる基準でした。

しかし、キリストを信じたことで生きる基準なり、価値観が変わりました。もうこの世のものではなく、神のものとなったからです。キリストがこの世から選び出してくださいました。ですから、この世の常識とか自分がどう思うかといったことよりも、神が願っていることは何か、何が良いことで神に受け入れるのかということが生きる基準となりました。

ジェームズ・ローガン氏は、アメリカ連邦議会議員として国に仕え、司法委員も務めたクリスチャンです。彼のワシントンへの道は平坦ではありませんでした。母親は十代の頃、バーテンの男に妊娠させられ、生まれたのがジェームズです。バーテンは妊娠の事実を知ると、すぐさま彼女を捨てました。母親には彼を育てる経済力は無く、彼は祖父母に育てられました。

母親の所に戻った頃、母親はアルコール依存症の男と結婚していました。しかし、間もなく離婚。そんな環境に育った彼は高校を中退します。そして、麻薬の売買、拳銃強盗などの問題を起こす連中と、いつも付き合っていました。

しかしジェームズは、かつて祖父から物事の善悪と、目標をもってそれに向かうことの大切さを教わっていたので、意を決して学校に戻り大学へ進みます。そして法律学校で学び検察官となり、州議会議員、判事、連邦政府議会議員として国に仕えます。ある日、彼はエレベーターの中で出会ったクリスチャンのジョイに導かれてクリスチャンになります。その後、その女性と結婚します。ジェームズ・ローガン氏は、自分の人生を大きく変えた、前向きに生きることのすばらしさや、信仰の力について伝えるために、自分の半生を本にしました。彼は、キリストと出会った時に与えられる、五つの変化について語っています。

金銭に対する価値観が変わる

今、多くの人はお金の奴隷になって、お金のためなら何でもするというような風潮があります。しかし、キリストを信じる時、与える喜びを知ります。「受けるよりも与える方が幸いです。」というイエス・キリストのことばを実感するようになります。

追求すべき目標が変わる

自分の利益だけを追及する生き方から、人々を助け、神の栄光を現すような生き方へと目標が変えられます。

物事の見方が変わる

物事の見方が否定的なものから、肯定的なものへと変えられます。「すべてのことについて感謝できる」ようになります。「すべてのことが益に変えられる」と信じられるようになります。従って、人生のあらゆる出来事に対して前向き、肯定的、創造的な態度を取ることができるようになります。

性格が変わる

物事の見方が変わると、当然生活が変えられていきます。救われた魂は、キリストの人格を徐々に映し出すようになって行くのです。

人格が変わる

キリストに従うとき人格が築き上げられます。人格は性格とは違います。人格とは、分化や周囲の価値観に影響されない確信です。確信がある人は、人の言いなりになって利用されることはありません。自分の足で立ち、自分で判断するようになります。その確信は、神のことばである聖書の教えに基づくものです。

すばらしいですね、これは、ジェームズ・ローガン氏の場合ですが、イエス・キリストとの出会いによって、彼の人生は180度変えられました。人を恐れる生活から神を恐れる生活へ、自分の利益を追及する生き方から、人々を助け、神の栄光を現すような生き方へと変えられたのです。それは彼だけでなく、キリストのものとされたすべての人に言えることです。だったらみんなクリスチャンになったらいいのにと思いますが、なかなかそういうわけにはいきません。世はキリストに敵対しているからです。つまり、私たちがこの世から憎まれたるのは、私たちがもはやこの世に属しているのではなく、神に属する者となったからです。ですから、世と違う生き方をしているために憎しみや迫害を受けるとき、むしろ、私たちはイエスに属している者であることが証明されることになるのです。

主は、山上の説教の中でこう言われました。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(マタイ5:10-12)

義のために迫害されている者は幸いです。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。言い換えるなら、それによってその人が神に属していることが明らかになるからです。キリストのためにののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口雑言を浴びせられるとき、あなたがたは幸いなのです。それは、私たちがもはやこの世のものではなく、神の国に属する者となったという証拠でもあるからです。もちろん、クリスチャンが苦しい目に遭ったからと言っても、それが自分の落ち度や自分に責任がある場合は別です。あくまでも義のために迫害されたり、主イエスのために苦しみを受ける時のことですが、もしキリストのためにののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口を浴びせられることがあるとしたら、むしろそれは喜ぶべきことなのです。

20節をご覧ください。ここには、「しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。」とあります。どういうことでしょうか。

私たちはキリストのしもべです。キリストのいのちという代価をもって神に買い取られました。ここには、しもべは主人にまさるものではない、とあります。主人とは誰ですか。イエス様です。私たちはキリストのしもべです。ですから、人々がキリストを迫害したのであれば、しもべである私たちを迫害するのは当然のことですが、その迫害は主人以上のものではありません。このことを覚えておかなければなりません。それは、私たちが疲れ果ててしまうことがないためです。へブル12:2-4にはこうあります。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。」

私たちはどんな迫害に遭ったとしても、イエス様ほどの苦しみに遭うことはありません。イエス様は、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをもろともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。私たちは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなければなりません。それは、私たちが元気を失い、疲れ果ててしまうことがないためです。私たちの主は、私たちよりもはるかに大きな苦難に遭われたということを思うとき、不思議と勇気と力が与えられるのではないでしょうか。だから、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないようにしなければなりません。

Ⅲ.まことの神を知らないから (21-27)

この世がクリスチャンを迫害するのはどうしてでしょうか。その第三の理由は、まことの神を知らないからです。21節から27節までに注目してください。21節には、「しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。」とあります。

どうして世はクリスチャンを迫害するのでしょうか。それは、わたしを遣わした方を知らないからです。イエスを遣わした方とは誰ですか。そうです、それは父なる神、まことの神のことです。その方を知らないのです。たとえば、ユダヤ人たちはどうでしたか。彼らはイエスを迫害しました。彼らは神の民であり、聖書をよく知っていました。熱心に祈りをささげ、断食もしていました。それなのに、主がこの世に来られた時、主を受け入れたかというとそうではなく、何と十字架につけて殺してしまいました。なぜでしょうか?神を知らなかったからです。彼らは神の民であり、神の律法が与えられていましたが、本当の意味で神を知っていなかったのです。本当に神を知っていたのであれば、その神によって遣わされたキリストを拒んだりはしなかったでしょう。ましてや、十字架に付けて殺すようなことはしなかったはずです。確かに彼らは宗教的に熱心でした。でも、それは形だけで中身がありませんでした。大切なのは中身がどうであるかということです。彼らは宗教的でしたが、まことの神について全く知らなかったのです。

22節と23節をご覧ください。「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。」

もしイエス様が来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし、彼らはイエス様が語られたことを聞きました。イエス様は、ご自身が父なる神から遣わされた者であり、父なる神と一つであるということ、また、自分を見た者は父を見たのと同じであるということを話されました。また、ご自分が十字架にかかって身代わりの死を遂げられることについても話されました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14-15)

それなのに、その方を信じなかったとしたら、そこにはもはやそこには弁解の余地はありません。

そればかりではありません。24節をご覧ください。「もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。」

イエス様が話されたことを信じられないという人のために、イエス様は、彼らの間でわざを行われました。それは、ほかのだれも行ったことのないわざです。たとえば、このヨハネの福音書の中には7つのしるしが記されてあります。イエスがメシヤであることの証拠としての奇跡です。たとえば、①カナの婚礼では水をぶどう酒に変えました(2:1~12)。②王室の役人の息子の病気を癒されました(4:43~54)。③また、ベテスダと呼ばれる池では38年間も病気で伏せていた人を癒されました(5:1~18)。④さらに、5つのパンと2匹の魚で、男だけで5,000人の空腹を満たされました(6:1~15)。⑤そして、舟を漕ぎあぐねていた弟子たちを助けるために、ガリラヤ湖の上を歩いて近づかれました(6:16~21)。⑥生まれつきの盲人の目も癒されました(9:1~41)。⑦最後は、死んで四日も経っていたラザロを生き返らせました(11-1~45)。

どれ一つとっても人間には不可能なわざです。しかし、主はこれをご自分が神から遣わされた者、メシヤであることの証拠として行われたのです。そして、ユダヤ人たちはそれを見ました。もし、イエス様が彼らの間でそれを行わなかったなら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし、彼らはそのわざを見て、そのうえで主イエスと父なる神を憎みました。どうしてですか。25節にはこうあります。「これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」

「ゆえもなく」とは「理由もなしに」という意味です。彼らは理由もなしにキリストを拒んだのです。それはこの旧約聖書の預言が成就するためでした。旧約聖書の中に、そのことがちゃんと預言されていたのです。

それはこの時のユダヤ人だけではありません。私たちも同じです。確かに私たちはキリストから直接話を聞いたわけではありません。また、直接キリストのわざを見たわけでもない。しかし、私たちには聖書が与えられています。聖書を見れば、キリストのことば、キリストのわざを知ることができます。それなのに、キリストを信じないとすれば、それはこのユダヤ人同様、「ゆえなく憎んだ」ことになるのです。そういう意味では、現代の私たちにとっても、弁解の余地は全くありません。

このように、私たちはキリストによって選ばれ、世に遣わされた者ですが、世はあなたがたを憎みます。そのような時、私たちが覚えておかなければならないことは、私たちよりも先にイエス様が憎まれたということ、そして、そのように憎まれるということは、私たちがキリストに属するものになったという証明でもあるということ、そして、そのように世が私たちを憎むのは、彼らが神を知らないからであって、弁解の余地はありません。

こうした前提に立って、世があなたがたを憎むとき、どのような態度を取ったら良いのでしょうか。その結論が、26節、27節にあります。ご一緒に読みましょう。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。」

このことは、逆に言えば、こうした偏見と悪意の渦巻く中にあって、クリスチャンは主を証ししなければならないということです。クリスチャンにはそのような使命が与えられているのです。でも、憎しみと迫害の中でどうやって証しすることができるのでしょうか。その鍵は26節にあるように、イエス様が父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊です。その方が来るとき、その方がキリストについて証ししてくださいます。ですから、私たちはキリストを証しすることを止めてはいけないのです。それが、私たちに与えられている使命です。私たちはそのために選ばれたのです。それを自分一人でやらなければならないとしたら、自分の力でやらなければならないとしたらどぅでしょう。できません。しかし、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」あなたが伝えるのではありません。あなたは、聖霊とともに行って証しするだけです。そのとき、聖霊が知恵と力を与えてくださり、語るべきことを教えてくださいます。迫害に耐える力も与えてくださいます。

ディビッド・リヴィングストンは、暗黒大陸アフリカへの宣教師として有名ですが、彼の1856年1月14日の日記には、「今日は私の16年間のアフリカ滞在中最大の危機を迎えた」と記しています。実は、彼ら一行を現地人が待ち伏せしていて、いのちをねらっているという情報が入って来ました。リヴィングストンの仲間は「行くのを止めよう」とか「迂回しよう」と提案しましたが、リヴィングストンは「私たちを守ってくださる方は、必ず守る紳士である。この紳士のことばを私は信じる」。そう言って、マタイの福音書28:20のことばを引用しました。イエス・キリストは、そこで、次のように約束しています。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

そして、リヴィングストンたちは予定通りのコースを白昼堂々と進んで行ったのです。待ち伏せしていた現地人たちは何かに縛られたように動けず、自分たちの目の前を過ぎるリヴィングストンたちをただ見送るだけでした。

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。私たちも、世の終わりまで、いつもともにおられる聖霊が助けてくださると信じ、世が私たちを憎んでも、行って実を結ぶ者とさせていただきましょう。

 

ヨハネの福音書15章12~17節「友と呼んでくださるイエス」

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ヨハネの福音書15章からお話ししています。最後の晩餐の席から立ちあがりゲッセマネの園に向かう途中で、イエス様は弟子たちにぶどうの木のたとえを話されました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(5)

私たちが実を結び、キリストの弟子になることによって、神が栄光をお受けになられます。そればかりか、私たち自身も喜びで満ち溢れるようになります。

そのように言われるとイエス様は、「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(14)と言われました。私たちを、「友」と呼ばれたのです。皆さんには、友と呼べる人がどれだけいるでしょうか。ただその人のことを知っていると言うレベルではなく、その人と深いところで交わり、その人のためならどんなことでもしてあげたいというレベルの友です。

先日、ある牧師と電話でお話しをしていたら、その牧師が、自分には親友が二人いて、自分に何かあったらこの二人が飛んで来て全部やってくれる(葬式)ことになっているので安心なんです、と言われました。そういう人がいるってすばらしいなぁですね。私たちは一般に学校や職場、あるいは隣近所において気さくに話し合える程度の人はいるかもしれませんが、いざという時、その人のためならどんなことでもして上げたいと思うような友はそう多くはいません。人によっては、夫婦の間ですら信頼関係がほとんどないという場合もあります。しかし、私たちの人生において本当の友を持っているということは、実にすばらしいことです。

イエス様は、私たちのことを友と呼んでくださいました。きょうは、このことについて三つのことを話したいと思います。第一に、イエス様が友と呼ばれるのはどういう人のことでしょうか。それは、イエスの命じることを行う人です。第二のことは、イエス様はなぜ弟子たちを友と呼ばれたのでしょうか。なぜなら、イエスは父から聞いたことを、すべて彼らに知らせたからです。本当の友とは、自分の胸の内を隠すことをせず、すべて知らせます。そして第三のことは、どのようにして弟子たちはイエス様の友となったのでしょうか。それは彼らがイエス様を選んだからではありません。イエス様が彼らを選び、任命したからです。それは、彼らが行って実を結び、その実が残るためであり、また、彼らがイエスの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

Ⅰ.わたしが命じることを行うなら(12-14)

まず12節から14節までをご覧ください。ここには、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」とあります。

どのような人が、イエス様の友ですか。ここには「わたしの命じることを行うなら」とあります。イエス様の命じることを行うなら、その人はイエス様の友です。では、イエス様の命じることとは何でしょうか。それは12節にあります。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

このことについては、これまで何回も語られて来ました。まず、13:34に「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とあります。また、14:15にも「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」とあります。そして、14:21にも「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」とあります。また、15:10でも「わたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」とあります。イエス様はこのことを何回も繰り返して語られました。このように何回も繰り返して語っているということは、それだけ重要な内容であるということです。どうしてそんなに重要なのでしょうか。それは、神は愛だからです。ヨハネはこの神の愛について手紙の中でこう言っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)

どこに愛があるんですか。ここにあります。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされたという事実に、です。私たちが神を愛したのではありません。私たちはむしろ神に敵対し、自分勝手に生きていました。しかし、神はそんな私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。そして、この愛を知った人は、同じように神を信じ、神によって生まれた人たち、すなわち、信仰の仲間を愛するようになります。なぜなら、愛は神から出ているからです。その愛によって新しく生まれた者は、互いに愛し合うのは当然のことです。私たちが互いに愛し合うなら、そのことによって私たちが神のうちにとどまっていることがわかります。なぜなら、キリストにとどまるとは、キリストの愛にとどまることだからです。神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することなどできないからです。ですから、神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。これが、イエス様が繰り返して言われたことであり、イエス様が与えてくださった戒めなのです。この戒めを行うなら、あなたはイエスの友なのです。

13節をご覧ください。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」どういうことですか?イエス様は、私たちが互いに愛し合うことができるように、ご自分のいちのを捨ててくださったということです。同じように、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです。これが互いに愛し合うということなのです。

しかし、現実の生活において、そのように友のために自分のいのちを捨てるということはあまりありません。確かに、そのようなこともあります。たとえば、三浦綾子さんの小説「氷点」の題材にもなったのは洞爺丸の沈没事件ですが、救命胴衣を譲った宣教師たちがそうです。

1954年(昭和29年)6月26日に青森と北海道の函館を結ぶ、青函連絡船洞爺丸が台風15号のために沈没し、乗員・乗客1314人のうち、1155人が死亡するという事件が起りました。これはタイタニック号に次ぐ世界第二の海難事故であると言われています。その船の中にアメリカ人宣教師ディーン・リーパーと、カナダ人宣教師アルフレッド・ラッセルが乗り合わせていましたが、彼らはおびえる乗客を手品で和ませたり、逃げ惑う人たちを最後まで励まし続けました。そして、自分の救命胴衣を日本人の子どもに着せ、死んでいったのです。

実際にこのような状況に遭遇することもあります。しかし、現実の生活において、このような場面に遭遇することは極めて稀です。では、イエス様がここで「自分のいのちを捨てる」と言われたのはどういう意味だったのでしょうか。

この「捨てる」ととう言葉ですが、これはギリシャ語でティセミー(τιθημι)という言葉です。これは「捨てる」という意味だけでなく、「置く」とか「差し出す」という意味があります。つまり、自分のいのちを捨てるというのは、文字通り自分のいのちを捨てるということもありますが、それだけでなく、自分のいのちを自分のためにだけ使うのではなくそれを差し出すこと、そこに置くこと、すなわち、ほかの人々のためにささげて生きることを意味しているのです。自分さえよければいいと考える自己本位な生き方でなく、ほかの人のために自分を差し出す生き方です。実際に、あの洞爺丸に自分が乗り合わせていたらいったいどんな行動を取っていたかと思うと恐ろしくなります。おそらく、だれよりも早く逃げていたのではないかと思います。これは危ない、早く逃げないと、我先に救命胴衣を身に着け、海の中に飛び込んだのではないかと思うのです。この話を食事の時に家内にしたら、「想像できる」と言われました。本当に自分は卑しい人間だなぁと改めて思わされましたが、そんなもののためにイエス様は十字架で死んでくださったのです。それによって愛がわかりました。自分のいのちを捨てるなんて到底できないと思うような者ですが、そんな者のためにイエス様が十字架で死んでくださったことを思うと本当に感謝なことであり、この「人がその友のためにいのちを捨てるということ、これより大きな愛はだれも持っていません。」というみことばを何とか実践したいと思うようになります。

ですから、自分の友のためにいのちを捨てるというのは、その愛で愛された者として、自分さえよければいいというような自己本位な生き方でなく、ほかの人のために自分を差し出すような生き方に変えていただくことなのです。それは自分の生活について何も考えてはいけないということではありません。自分さえよければほかの人のことなどどうでもよいと考えるエゴイズムとはちょうど反対に、ほかの人のために自分をささげ、その人の益のために生きる生き方をしていくということが、ここで勧められていることなのです。

この戒めを行うなら、あなたはイエスの友です。ちょっと待ってください。私たちは行いによって救われたのではありません。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によって救われたのではありませんか。それなのに、「わたしが命じることを行うなら」と、行いが強調されているのはおかしいんじゃないですか。いいえ、おかしくありません。なぜなら、神の愛を知り、キリストが私のために死んでくださったということを体験したなら、むしろ、そのようにせずにはいられなくなるからです。だから、13節に「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあるのです。これはイエス様のことを指していると言いましたが、だからイエス様はご自分のいちのを捨ててくださったのです。そのことがわかったら、むしろ、喜んで自分をささげたいと思うようになるでしょう。

ヨハネは、そのことをⅠヨハネ3:16でこのように言っています。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」

ここに「ですから」とありますが、それはこのことです。キリストの愛が分からない人にはできません。愛がわかったのだから、そしてその愛を受け入れたのだから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てることができます。

イエス様は何と言われましたか。イエス様は、「わたしにとどまりなさい」と言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしがあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(15:4)それは、イエスにとどまることによって可能になることなのです。イエスにとどまるなら、多くの実を結ぶことができるからです。その実とは何ですか。その一つが、御霊の実でした。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といったキリストのご性質のことです。だから、キリストにとどまるなら、キリストが私たちの中に働いて愛の人になれるように助けてくださるのです。

しかし、それは自動的にもたらされるものではありません。イエス様を信じたら今日から愛の人になりました、ということにはなりません。愛は成長し続けていくものだからです。つまり、私たちはイエス様の戒めに従うことが求められるということです。確かに私たちはキリストを信じる信仰によって救われましたが、そのようにして救われたのであれば、そこには必ず行いが伴うということです。Ⅰヨハネ3:17-18には、「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」とあります。愛とは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって表されるものであり、私たちがそれを実践することによって全うされるのです。

だから、聖書には「こうしなさい」と命令形で書かれてあるのです。どうしてこのように命令形で書かれてあるのかというと、私たちの意志に向かって語りかけているからです。私たちの気分とか感情に訴えているわけではありません。私たちはどちらかというと「こうしなさい」と言われるのが嫌で、極端に避けようとします。何にも縛られたくありません。自分の好きなように生きていきたいのです。でも、聖書は「こうしたらどうでしょうか」とか、「こうするのが望ましい」というような言い方をしていません。「こうしなさい」と命じているのです。それは、私たちの感情とか気分に訴えているからではなく、意志に訴えでいるからです。感情とか気分というのはいつも変わります。今まで気持ちいいと思っていたら、急に不愉快に思うこともあります。だから、感情や気分を働かせるのではなく、意志を働かせなければなりません。気分が乗っても乗らなくても意志を働かせるなら、神の聖霊が助けてくださいます。神様が聖書を通して「互いに愛し合いなさい」と言われたら、「いやだ、あの人だけは無理です。馬が合わないんです。気分が乗りません」じゃなくて、「はい、愛します」と素直に従うことが肝心です。そうすれば、後で気分が乗ってきますから。その時は気分が乗らなくても、聖書のことばに従って行動するなら、祝福されるのです。

それは、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。たとえば、部屋の片づけなどにしてもそうです。気分が乗らないからやらないでいると、いつまでたってもできません。しかし、よしやろう!と決めて行動するとだんだん気分が乗ってきます。そして、あれもしよう、これもしようということになります。止められない、止まらない、です。勉強だってそうです。気分が乗らないからやらないというと、いつまでも手につきません。しかし、よしやろう!と決めて始めると、意外と楽しいものです。たぶん。信仰生活もそうでしょ。気分が乗らないから聖書を読まないというと、いつまでも読むことができません。でも、気分と関係なく、神の国とその義とを第一に求めるなら、これらのものはすべて、それに加えて与えられるのです。出来る人と出来ない人の違いはそこにあります。それは能力の差ではなく、やるかやらないかという行動力の差です。気分というのは私たちの意志について来るものですから。だから、気分が乗っても、乗らなくても、やってみることです。そうすれば、後で気分がついてきますから。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」この戒めを守るなら、あなたもイエスの友なのです。

Ⅱ.父から聞いたことを知らせたからです(15)

第二のことは、イエス様はなぜ弟子たちを友と呼ばれたのかということです。それは、父から聞いたことをすべて、彼らに知らせたからです。15節をご覧ください。「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」

イエス様は、「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われました。もう「しもべ」とは呼びません。しもべは、主人がすることを知らないからです。「しもべ」とは何ですか。「しもべ」とは「奴隷」のことです。奴隷は、主人が何をするのか知りません。主人が言われることをただやるだけです。なぜそれをしなければならないのかとか、なぜそのように言っているのかとか、どのように考えているのかなどということを知りません。しかし、「友」は違います。友は常に親しく交わる仲間であり、自分の心の内を何でも話します。自分が考えていることだけでなく、自分の夢や目標など、将来のことに至るまで何でも話すのです。友がそれを聞いてくれることを知っているからです。信頼できる友であればあるほど、自分の心の思いを洗いざらい話すことができます。親に話せないことでも友達には話せるでしょう。友達はそれを聞いて理解してくれるからです。それが本当の友です。イエス様は弟子たちを「友」と呼ばれました。なぜなら、イエスは、父から聞いたことをすべて、彼らに知らせたからです。すごいですね。イエス様は弟子たちに何でも話されました。なぜ?「友」だからです。皆さんは、そういう友達がいますか。自分のことを何でも話せる人、そういう人がいたら、どんなにすばらしいことでしょう。イエス様は私たちを、「友」と呼んでくださいました。そのような親しい間柄に入れてくださったのです。

ヤコブ2:23には、「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。』」とあります。アブラハムは「神の友」と呼ばれました。どういう点で彼は神の友と呼ばれたのでしょうか。それは、神がアブラハムに隠し事をされなかったという点においてです。神はご自分が考えておられることを、包み隠さずすべて彼に告げました。

それは創世記18章に書いてある出来事です。あるとき、3人の御使いがアブラハムの天幕を訪れます。それは、彼の妻サラに来年の今ごろ男の子が生まれているということを告げるためでしたが、もう一つの目的がありました。それは、ソドムとゴモラという町を滅ぼすかどうか調査するためでした。3人の御使いがソドムの方に向かったとき、アブラハムは彼らを見送りに、一緒に行くと、その中の一人、この方は主ご自身でしたが、こう考えられました。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18:17)神は、ご自分が成そうとしいたことを、アブラハムに隠しませんでした。ソドムとゴモラの町を滅ぼしに行くんだと告げたのです。

するとアブラハムは、そこに自分の甥のロトが住んでいたのを知っていたので、必死に執り成しました。

「その町に50人の正しい人がいるかもしれません。それでもあなたは彼らを滅ぼされるのですか。その50人の正しい人のために、その町をお赦しにならないのですか。」

「もし正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町をすべて赦そう。」

「もしかすると、50人に5人不足しているかもしれません。その5人のために、あなたは町のすべてを滅ぼされるのですか。」

「いや滅ぼさない。もしそこに45人を見つけたら。」

「もしかすると、そこに見つかるのは40人かもしれません。」

「そうはしない。その40人のゆえに。」

そう言って、10人まで来たとき、主は「滅ぼすまい。その10人のゆえに」と言って、アブラハムの祈りを聞いてくださいました。

結局、10人もいなかったので、その町は滅ぼされてしまいました。それほどひどい町だったのです。しかし、アブラハムの必死の祈りを聞かれた神は、ロトに、この町から出て行くようにと言って救い出されました。

それにしても神は、ご自分が成そうとしていたことを、アブラハムに隠しませんでした。なぜでしょうか?それは、彼が「神の友」と呼ばれたからです。

同じようにイエス様はここで、弟子たちを「友」と呼ばれました。それは、ご自分が成そうとしておられることを彼らに隠さなかったからです。すべて彼らに知らせました。

それは私たちも同じです。イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいました。なぜなら、イエスは、父から聞いたことをすべて、私たちに知らせくださったからです。それが聖書です。聖書は神のことばです。聖書には、神のみこころが示されています。神はどのようなお方なのか、私たちを救うために何をしてくださったのか、私たちが救われて神の国に入れていただくためにはどうしたら良いのか、その神の国に向かって、私たちはこの地上でどのように歩むべきなのか、この世に終わりにはどんなことが起こるのか、といったことのすべてが書き記されてあるのです。イエス様はそれをすべて私たちに知らせてくださいました。それは、私たちが「神の友」、「イエスの友」だからです。もはやしもべではありません。ご自分の友として、父から聞いたことをすべて、隠すことなく私たちに話してくださいました。すごいでしょ。これはクリスチャンの特権です。友でなければ知ることはできません。友だからこそ何でも聞くことができ、話すことができます。このような特権は、この世のどんなものとも比べることができません。そして、このような特権が与えられている私たちは、この関係を大切にしなければなりません。つまり、友の話を聞き、友に話を聞いてもらうという関係です。これが祈りとみことばです。ディボーションです。その時間を大切にしたいですね。そして、決して裏切ることのない永遠の神、主イエスに信頼して、日々歩ませていただきたいと思うのです。

Ⅲ.わたしがあなたがたを選び、任命したのです (16-17)

第三のことは、私たちはどのようにしてイエス様の友となったのでしょうか。それは、私たちがイエス様を選んだからではありません。イエス様があなたを選び、任命してくださったからです。16節と17節をご覧ください。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」

イエス様には12人の弟子たちがいましたが、その弟子たちはどのようにして選ばれましたか。ここには、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」とあります。彼らがイエス様を選んだのではなく、イエス様が彼らを選び、彼らを任命しました。

たとえば、マタイ4:18には、シモンとその兄弟アンデレが弟子として召された時のことが記されてありますが、彼らがそのようになったのは、イエス様に選ばれたからです。彼らは漁師で、ガリラヤ湖で漁をしていました。イエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、二人が、湖で網を打っているのをご覧になられ、「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」(マタイ4:18)と言われたのです。それで、彼らはすぐに網を捨ててイエスに従いました。

さらにそこから進んで行くと、別の二人の兄弟で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがいて、弟子として召されました。彼らは父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っていましたが、それをご覧になられたイエス様が彼らを呼ばれたので、彼らはイエスに従うことができました。

取税人マタイの場合はどうでしたか。同じです。マタイが収税所に座っていたのを見たイエスは、「わたしについて来なさい。」と言われたので、彼はイエスに従いました。すべてイエス様が先に選び、弟子として任命してくださったのです。イニシアチブはイエス様にありました。イエス様が「わたしについて来ない」と言われたので、彼らはそれに従うことができたのです。

それは、私たちにも言えることです。私たちは自分で選んでイエス様を信じたかのように錯覚していますが、実際にはそうではなく、イエス様がそのように選んでくださったので今ここにいるのです。

先日、同盟の牧師たち、宣教師たちが共に集まってチームワークミーティングを持ちました。今年は、コロナウイルスの関係でズームでのミーティングとなりましたが、そこで奉仕してくださったのは、神戸改革派神学校校長の吉田隆先生でした。先生は、仙台で18年間奉仕されたこともあってか、とても親しみを感じました。

先生は、その中でご自分が救いに導かれたことをお話ししてくださいましたが、何と先生はごみ箱に捨てられたトラクトで救われたのです。高校3年生の時でした。校門で配られていたんでしょうね。それを見る人はあまりいません。仕方なく受け取って、それを教室のごみ箱にポンポン捨てるのですが、それを拾って読まれたのです。まだ教会にも行ったことがありませんでした。しかし、そのトラクトを見て、神様を信じて生きることのすばらしさ、その世界観に感動して信仰に導かれたのです。まさに、イエス様が「道端の石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことができると」と言われた通りです。

大学に入ることができたら教会に行ってみようと仙台にやって来られた先生は、教会を探すために小高い丘の上に登りました。今のようにスマホがない時代です。丘の上からなら十字架が見えるのではないかと思いました。しかし、どこにも見当たりませんでした。どうやって探そうかと思っていたとき、電信柱に1枚のチラシが貼ってあるのを見つけました。そこには、「新しい人生」と書いてありました。教会の特別伝道集会のチラシだったんですね。どこにあるのかなあと思って行ってみたら、細い路地の奥にある小さな民家でした。それは宣教師のお宅だったんです。でも十字架が無かったので大丈夫だろうかと心配になりました。しかも、その教会の名前が「改革派」でしょ。当時革新派とか、何とか派いう学生運動が盛んで、ヘルメットをかぶってやっていたので、そういうのに巻き込まれたら大変なことになるなと不安になりました。

しかし、日曜日にその教会に行ってみると、そこには20~30人の人たちが集まっていて、みんな喜んで歓迎してくれました。そして、教会に十字架がないのは、台風が来たときに取れてしまったからだということを聞いて安心しました。教会では、若い学生が来たということでキリスト教の基本を徹底的に教え込まされたそうです。一方、大学のクラスにクリスチャンの方がいて、その方が国際ナビゲーターという超教派の宣教団体で活動していることを知り、大学生伝道に没頭していきました。大学を卒業後も豆腐屋でアルバイトをしながら、大学生伝道に専念したほどです。

その先生が、どうして改革派の牧師になったのか。それは、神の国の働きはどの働きもゴールは一つであることに気付かされたからでした。それは、神の国です。それなら改革派の牧師になろうと思ったのです。どんな働きをしても大きな神の国の働きに仕えるのであれば、自分が導かれた教派で仕えようと思われたのです。自覚的に自分で決めてその教会に来たという人はほとんどありません。たまたまそこにあったからとか、だれか知り合いに誘われてそこに導かれたわけです。であれば、自分が導かれた教会や教派を大切にすることが、神の導きを大切にすることではないかと示されたのです。プラス、同時にどの教会も大事にしなければならないという思いも与えられました。

これは大切なことだと思います。私たちは自分の意思で教会に来たと思いこんでいますが、まあ、そういう面もありますけれども、しかし、自分で来たというよりも、実はそのように導かれたのです。あなたがイエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選び、あなたを任命したのです。エペソ1:3-4をご覧ください。ここには、「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」とあります。何と私たちは世界の基の置かれる前から、キリストにあって選ばれていたのです。それはあなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがキリストの名によって父に求めるものは何でも、父が与えてくださるようになるためです。この「実」とは、救いの実のことです。イエス様を信じて救われる人たちのことです。私たちが行って実を結び、その実がいつまでも残るようにと、主は私たちを選び、任命してくださったのです。

この時からキリスト教はどのようになりましたか。この後で、イエス様は弟子たちに約束を与えます。それは、使徒1:8にあるように、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」という約束です。すると、弟子たちは聖霊を受け、エルサレム、ユダヤ、サマリアの全土、及び地の果てまでキリストの証人となりました。多くの人たちがイエス様を信じ神の国に入れられました。そして、その実が残りました。今も残っています。私たちはその実です。これは彼らの力によるものではありません。これは聖霊の力、祈りの力でした。だからここに、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」とあるのです。多くの人が救われ、その実が残るのは神のみこころです。神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。ですから、私たちが行って実を結び、その実が残るようになるのは主のみこころであり、そのために祈って、聖霊に満たされなければならないのです。

そのために必要なことは何でしょうか。互いに愛し合うことです。これがキリストの戒めです。この戒めを守るなら、私たちはキリストの友と呼ばれます。それは降って湧いたかのような話ではありません。永遠の昔から、世界の基の置かれる前から、キリストにあって選ばれていたことでした。そんな永遠の愛を受けて私たちは選ばれ、キリストの友と呼ばれたのです。それは、私たちが行って実を結び、その実が残るためでした。これが私たちに与えられている使命です。私たちはこのために存在しているのです。ですから、このために祈りましょう。イエス様はあなたを友と呼んでくださいました。私たちにはそのようなすばらしい特権が与えられているのです。そのことを感謝して、私たちも行って、実を結ぶ者とさせていただきましょう。

ヨハネの福音書15章7~11節「キリストにとどまるなら」

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ヨハネの福音書15章からお話ししています。きょうはその2回目となりますが、「キリストにとどまるなら」というタイトルでお話しします。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(14:31)と、最後の晩餐の席から立ち上がりゲッセマネの園に向かう途中で、イエス様は弟子たちにぶどうの木のたとえを話されました。「わたしはまことの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」(1-2)

イエス様は、わたしはまことのぶどうの木です。イエス様の枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさいます。

 

では、どうすれば多くの実を結ぶのでしょうか。それはキリストにとどまることによってです。枝が一生懸命木に働きかけて栄養分を吸い上げようとしたり、枝それ自体の形を整えたりすることによってではなく、木にしっかりとつながっていることによって多くの実を結ぶのです。イエス様はこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(5)

きょうは、この「キリストにとどまる」ことについて三つのことをお話しします。第一に、キリストにとどまっている人に対する約束です。キリストにとどまっているなら、その人の祈りは答えられるということです。第二のことは、私たちが多くの実を結び、キリストの弟子になることによって、どのような結果がもたらされるのかということです。神が栄光をお受けになられます。そして第三のことは、キリストにとどまるとはどういうことかということです。キリストにとどまるとは、キリストの愛にとどまることであり、キリストの愛にとどまるとは、キリストの戒めを守るということです。そのような人はキリストの喜びにあふれるようになります。

Ⅰ.何でも祈りが聞かれる(7)

まず、第一にキリストにとどまっている人に対する約束です。7節をご覧ください。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

すばらしい約束です。もしキリストにとどまっているなら、あなたがたの欲しいものが何でもかなえられます。どういうことですか。これは無条件に私たちが欲しいものを、神が何でも片っ端から与えられるということではありません。そこには一つの条件があります。それは、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」ということです。どういうことでしょうか。

まず、「キリストにとどまるなら」ということですが、そのことについては、5節でも語られたことです。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」ここでは、これを祈りに適用しているのです。キリストにとどまるとは、キリストを信じ、キリストに結び付けられ、キリストと親しい交わりがあるなら、ということです。そうであるなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それがかなえられます。これは当然といえば当然です。なぜなら、いのちはキリストにあるのですから。枝はそこから栄養分をいただいて実を結ぶことができるわけです。枝だけでは実を結ぶことはできません。ですから、キリストにとどまるなら、キリストが私たちに必要なものをすべて与えてくださるのです。

神は昔イスラエルをエジプトから救い出されると、荒野に導かれました。何もない荒野で、イスラエルの民はどのようにして生き延びることができたのでしょうか。神ご自身が彼らを養ってくださいました。岩から水を出させて飲ませ、天からマナを降らせました。毎日同じものばかりで飽き飽きしたと不平を言うと、今度はうずらを運んで来て、肉として食べさせました。つまり、神が彼らのすべての根源であられたのです。すべての根源であられる神にとどまっていれば、神はどんなものでも必要なものを与えてくださいます。

エリヤはどうでしたか。エリヤはB.C.850年頃の預言者でした。彼の時代イスラエルは北と南に分裂していました。北王国イスラエルの王はアハブという王でしたが、最悪な王でした。彼は妻のイゼベルの悪知恵によってイスラエルにバアルとアシェラという偶像を拝ませたのでエリヤは悔い改めるように何度も説得しましたが、アハブ王は悔い改めるどころかますますエリヤを憎み、殺そうとしたのです。それでエリヤは神のことばをアハブに伝えます。「私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(Ⅰ列王17:1)

すると、その言葉のとおり全く雨が降らず、イスラエルを大干ばつが襲いました。それでアハブ王は怒り、預言者エリヤを恨んで、彼を探して殺そうとしたので、エリヤはヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠しました。彼はそこでどうやって生き延びたでしょうか。何と神はカラスを用いて彼を養われました。幾羽かのカラスが、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来たので、それを食べたのです。また、その川から水を飲みました。

その後、川の水が干上がると、今度は「シドンのツァレファテのやもめのところへ行き、そこに住め」と命じられました。しかし、そのやもめはとても貧しく、エリヤを養うどころか明日のいのちさえも分からないような状態でした。エリヤが彼女に、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。また、一口のパンも持って来てください。」と言うと、彼女は焼いたパンを持っておらず、ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけでした。彼女はそれを自分と息子のために調理し、それを食べて、死のうとしていたのです。そんなやもめにどうやってエリヤを養うことができるでしょう。しかし、エリヤは主のことばを受けて彼女にこう言いました。

「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」(Ⅰ列王17:13-14)

「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない。」皆さん、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくなりません。神の国と、その義とを第一に求めるなら、それに加えて、これらのものはすべて与えられるのです。彼女はエリヤが言った通りにすると、パンの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかったので、彼女と息子、および彼女の家族は、長い間それを食べることができました。神様は、不思議な方法でエリヤを、また、ツァレファテのやもめを養われたのです。つまり、エリヤの神は、すべての根源であられたということです。神は、「わたしは、「わたしは、ある」というものである」と言われる方であり、すべての存在の根源であられます。すべてのものを与えることがおできになるのです。ですから、この方につながっていれば、この方が必要を満たしてくださいます。

イエス様の時代、大勢の群衆がイエス様について行きましたが、気付いたら陽も暮れそうになっていて、どこからかパンを買って来て、食べさせなければなりませんでした。その数男だけで5000人です。女の人、子供たちを合わせたら二万人を超えていたでしょう。これだけの人たちに食べさせるのは至難の業です。一人ずつ少しずつ取るにしても、200デナリのパンでも足りません。かといって近くにコンビニがあるわけでもない。いったいどうしたらよいかと思っていた時、一人の少年が五つのパンと二匹の魚を差し出しました。するとイエス様は、その五つのパンと二匹の魚で、男だけで5000人の空腹を満たされました。だれがそんなことができるでしょうか。神にはできます。神にとって不可能なことは一つもありません。イエスは、「わたしはいのちのパンです」と言われました。その方は、どんな必要も満たすことがおできになるのです。それは、あなたに力があるからではありません。あなたに富や能力があるからでもない。キリストに力があるからです。ですから、この方にとどまっているなら、この方があなたの必要を満たしてくださるのです。

でも、キリストにとどまっていなければ、どんなに祈っても聞かれることはありません。イザヤ59:1-2にはこうあります。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

なぜ祈りが聞かれないのですか。それは主の御手が短いからではありません。耳が遠くて、聞こえないからでもありません。あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているからです。罪があるなら、神は聞いてくださいません。しかし、罪が赦された人、義と認められた人の祈りは聞かれます。どうしたら罪が赦されるのですか?イエス・キリストを信じることです。自分が罪人であることを認め、その罪の身代わりとしてキリストが十字架で死んでくださったと信じるなら救われます。それがキリストにつながるということです。キリストにつながっているなら、あなたの祈りは聞かれます。あなたが必要としているものは何でも与えられるのです。

それから、ここにはもう一つのことが言われています。それは、「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」ということです。どういうことでしょうか。それは14:13,14にもありました。「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」キリストの名によって求めるとはどういうことでしたか。それは、キリストのみこころにかなった祈りをするなら、ということでした。そのような祈りは何でも聞いていただけます。Ⅰヨハネ5:14には、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」とあります。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は聞いてくださるのです。これが神に対する私たちの確信です。

では、どうしたら神のみこころにかなった祈りをすることができるのでしょうか。そのためにはある程度信仰生活の年月が必要だと考える人がいますが、全く関係ありません。それは年月の問題ではなく信仰の問題だからです。もちろん、信仰に入ったらすぐに神のみこころにかなった祈りができるのかというと、そうではありません。でも、心に飢え渇きを覚え、イエス様なしでは一瞬たりとも生きていくことはできませんという思いをもってイエス様に求めるなら、必ずそのような祈りに導かれるはずです。そのような人は神のことばを求めるからです。主のみこころを求めるというのは、具体的には主のみことばを求めるということです。主の心を知るためには、主のことばを聞かなければなりません。なぜなら、主イエスは神のことばとしてご自身を現わしてくださったからです。それがまとめられてあるのが聖書です。聖書は神のことばです。ですから、聖書を見れば神のみこころがわかるのです。

これを抜きにして、「あなたの夢はかなえられます」と言うのは大変危険です。神を信じれば何でもうまくいくし、何でもあなたが望む通りになるというのは間違っています。あなたは必ず成功します、あなたが祈って求めることは何でもかなえられます、という言葉には気を付けなければなりません。そうでないと、それがかなえられなかったときどうなりますか。神に失望し、信仰から離れて行ってしまうことになります。聖書が教えていることはそういうことではありません。聖書が教えていることは、あなたがキリストにとどまり、キリストのことばがあなたがたにとどまるなら、何でも欲しいものを求めなさいということです。そうすれば、それはかなえられるということです。

あなたの願いは何ですか。あなたの祈りはどんなことでしょうか。あなたがキリストにとどまり、キリストのことばがあなたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めてください。そうすれば、それはかなえられます。キリストにとどまり、キリストのことばがあなたにとどまることによって、私たちの祈りがかなえられることを信じて祈ろうではありませんか。

Ⅱ.父が栄光をお受けになる(8)

第二のことは、私たちが多くの実を結ぶことによって、どのような結果がもたらされるかということです。8節をご覧ください。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」

どうして私たちが多くの実を結ぶことによって神が栄光を受けられるのでしょうか。ここには「わたしの弟子になることによって」とあります。つまり、キリストのご性質に変えられていくからです。

キリストのご性質とは何でしょうか。それは前回もお話ししたように、御霊の実です。すなわち、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。また、それは聖潔に至る実です。すなわち、神のみこころにかなった生活、神に喜ばれる生活です。また、それは御名をたたえる唇の果実でしたね。すなわち、神を賛美し、感謝する礼拝の生活です。そしてそれは義の実です。すなわち、正しい行いのことです。またそれは救いの実のことでした。つまり、キリストを信じ、キリストにとどまり、キリストのいのちに生かされている人は、神を愛し、神に喜ばれる生き方をしたいと望むようになり、正しい行いを心掛け、キリストへの感謝と賛美に満ち溢れ、何とかして救われる人が起こされるようにと願うようになるということです。ですから、私たちが多くの実を結ぶことによって、神の栄光が現されるようになるのです。

このことを、イエス様は山上の説教の中でこう言われました。

「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:13-16)

皆さん、私たちは地の塩です。世の光です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるでしょうか。もう何の役にも立たなくなり、外に捨てられ、人々に踏みにじられることになってしまいます。また、光としてこの世を照らす者でなければ、何の意味もありません。ですから、私たちの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられる私たちの父があがめられるようにしなければなりません。

2006年4月、星野富弘さんと日野原重明先生が群馬県の富弘美術館で対談をしました。車いすの富弘さんは60歳、日野原先生は94歳でしたが、実にいきいきとして年齢よりもずっと若々しくみえました。

富弘さんは23歳の時、中学校の体育の先生でしたが、指導中に鉄棒の回転に失敗し、首から落ちて頸椎を損傷し全身麻痺になりました。人の世話にならなければ生きていけない人間が、果たして生きていていいのかと考えたそうです。しかし、聖書を読み進めていくうちに、神はこんな自分でも大切に思っていてくださることが分かり、生きる勇気が与えられました。そして人と比べて生きることをしなくなり、また自分は赦されたのだから、人のことも赦すべきだと自然に思えるようになりました。そうなると、生きることが楽しくなったと言います。

富弘さんは言います。「いろいろ経験して分かったことは、どんな時にいのちを感じるかというと、人のために生きる時である。いくら自分で欲しいものを手に入れ、美味しいものを食べても、それはその時たけで終わってしまう。一番の喜びを感じる時は、やはり他の人々のために何かができた時である。自分のやっていることが、他の人の役に立った時、一番いのちが躍動している。それと同時に、自分の中には感謝の気持ちが出て来る。いのちは自分だけのものではなく、誰かのために使えた時、喜ぶのである。」

一方、日野原先生は牧師の家庭に生まれ、小さい時から聖書に親しんできました。特に、Ⅰコリント13章の「信仰と希望と愛」がいつも自分を導いて来たと言います。日野原先生は4~5年前から小学校を訪問し、10歳の子どもたちに「いのちの大切さ」についてお話ししています。子どもたちに「キミたちのいのちはどこにあるの?」と質問すると、ある子どもは心臓を指して「ここにある」と言います。すると先生は「これはモーターで心臓にいのちがあるわけではないよ。いのちとは、キミたちが持っている時間のことだよ。それをどう使っているかが問題なんだよ」と教えます。

そして「自分らしくいのちを使うとはどういうことか作文にしてください」と言うと、10歳らいの子どもたちは自分の日常の行動を反省し、自分のためだけにいのちを使っていたことに気付いて、何とかしなければいけないと感じ始めるのだそうです。先生は「10歳くらいの子どもの感受性はすごい。日本の将来は明るい、大丈夫だ」と思うのです。ところが10歳を超えてから、駄目になるそうです。それは親や周りの大人たちが、正しいモデルを示していないからです。

そういう意味で富弘さんは、身体的ハンディを持つ人々のすばらしいモデルになっています。ハンディがあっても、いきいきと生きることができる。人を励ましたり、勇気付けることができることを富弘さんはモデルとなって示しているわけです。

そして、このお二人に共通していることはどんなことかというと、キリストにしっかりとつながっているということです。キリストにある平安と喜びが与えられ、キリストから与えられた使命を確信し、自分のためだけにいのちを使うのではなくそのいのちを誰かのために使っておられるということです。

それが世の光、地の塩として生きるということです。そのとき、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるのです。

Ⅲ.わたしの愛にとどまりなさい (9-11)

ですから、第三のことはキリストの愛にとどまりなさい、ということです。9~11節までをご覧ください。「9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」

父がイエスを愛されたように、イエスもまた弟子たちを愛されました。どれくらい愛されたのでしょうか。13:1には、「最後まで愛された」とあります。最後まで、余すところなく、とことん愛されました。イエス様の愛は、途中で放棄するような愛ではありません。私たちの愛はそういうところがありますね。少しでも損をすると思ったらすぐに止めてしまいます。損得勘定の愛です。手のひらを返すかのように、すぐに裏切ってしまうことがあります。しかし、神の愛は決して変わることがありません。神はこの愛を十字架によって現わしてくださいました。キリストは、ご自分のいのちを与えるほど、私たちを愛してくださったのです。

新聖歌483番に「両手いっぱいの愛」という賛美があります。

  1. ある日イエスさまに 聞いてみたんだ どれくらいぼくを 愛してるの?これくらいかな? これくらいかな? イエスさまは黙って ほほえんでる
  2. もう一度イエスさまに 聞いてみたんだ どれくらいぼくを 愛してるの? これくらいかな? これくらいかな? イエスさまは優しく ほほえんでる
  3. ある日イエスさまは 答えてくれた 静かに両手を広げて その手のひらに

釘を打たれて 十字架にかかってくださった それは ぼくの罪のため ごめんねありがとう イエスさま それはぼくの罪のため ごめんねありがとう イエスさま ごめんねありがとう イエスさま

この歌は、イエス様がとれほど私たちを愛してくださったかを歌った歌です。それは、その手のひらに釘を打たれ、十字架にかかって死んでくださったほどです。それほどまでに愛してくださいました。ここには、その愛にとどまりなさい、とあります。そこから出ないように。そこから出ると、実を結ぶことができません。神の愛を本当に知った人は神の愛から離れないし、離れることができません。一時的にそういうことがあったとしても、やがて必ず戻って来ます。長い信仰生活の中にはそのようなこともありますが、それでも必ず戻って来るのです。本当に神の愛を知ったなら、その愛から離れることはできないからです。弟子たちはどうでしたか。彼らは最後までキリストにとどまりました。彼らも完全ではなかったので公に主を否んでみたり、自分が捕らえられてしまうのではないかと恐れて逃げ隠れしましたが、それでも最後まで主にとどまりました。

しかし、イスカリオテのユダはそうではありませんでした。彼はイエスを裏切って出て行きました。イエス様は彼に最後まで悔い改めの機会を与えましたが、彼は最後まで悔い改めませんでした。最初から信じていなかったからです。表面的には信じているようでしたが、それは見せかけのものでした。本当は信じてはいなかったのです。でも本当に信じている人はキリストにとどまります。

ではキリストの愛にとどまるとはどういうことなのでしょうか。10節には、「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」とあります。少しわかりにくい訳かと思います。新改訳第三版ではこうあります。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」こちらの方がわかりやすいですね。もし、あなたがたがキリストの戒めを守るなら、キリストの愛にとどまるのです。つまり、その愛とは、キリストの戒めを守ることによって具体化されるということです。

キリストの戒めとは何でしょうか。それは広い意味ではキリストのことば、神のことば全体を指していますが、この文脈では、互いに愛し合うということを指しています。それは、13:34-35で、イエス様が出したちに与えた新しい戒めのことです。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

キリストが父の戒めを守って、父の愛にとどまっているように、私たちもキリストの戒めを守るなら、キリストの愛にとどまっていることになります。神を愛していると言いながら兄弟の悪口を言っているとしたら、その愛とはいったいどういうものなのかと首をかしげたくなります。神を愛していると言いながら兄弟姉妹に対して無関心であるとしたら、それは神を愛しているのではなく、自分を愛しているにすぎません。愛しているかどうかは、従うことによって証明されるのです。

そうでしょ。誰も愛している人の言うことをいい加減にはしません。その人の言葉を大事にしますし、その人の考えを尊重します。愛しているからです。愛するということは、その人と深い交わりを持ち、その人と心において一つになることです。そのような深い交わりを私たちがイエス様と持っているなら、それは目に見える兄弟姉妹との関わりにおいて必ず現れてくるはずなのです。そうでないとしたら、それはキリストの愛にとどまっているということにはなりません。キリストにとどまるとはキリストの愛にとどまることであり、キリストのことば、キリストの戒めにとどまることだからです。そういう人は多くの実を結ぶのです。

最後に、11節をご一緒に見て終わりたいと思います。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」

「これらのこと」とは何ですか。それは1~10節までのところで語られたことです。つまり、イエスがこれらのことを話された目的がここにあります。それは、「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ち溢れるようになるためです。」この喜びとは一時的な喜びではありません。状況によって失われるようなものではないのです。この喜びは永遠の喜びです。どんなことがあっても奪われることがない喜びなのです。

パウロはピリピ4:4で、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と言っています。いつも喜ぶなんて無理ですよ。不可能です。そう思われますか。でも、パウロはいつも喜ぶことができました。それは、彼がキリストにとどまり、キリストの戒めにとどまっていたので、キリストの喜びが与えられていたからです。彼はこう言っています。

「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13)

パウロは、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていました。それは何ですか。イエス・キリストです。イエス・キリストにとどまることです。そうです、彼がどんな境遇にあっても喜ぶことができたのは、主イエスにあって、だったのです。

それは私たちも同じです。私たちの人生にはいろいろなことが起こります。良いことばかりではなく、悪いと思えることも。しかし、それがどんなことであっても、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。あなたがキリストにとどまり、キリストのことばがあなたにとどまるなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それがかなえられます。それは、あなたが多くの実を結び、キリストの弟子となることによって、神は栄光をお受けになられるからです。あなたがキリストにとどまるなら、あなたは喜びで満ち溢れるようになります。確かに、現実は厳しいものがありますが、その中にあっても、神があなたにいのちと力を与え、多くの実を結ぶことができるようにしてくださるのです。

ヨハネの福音書15章1~6節「イエスはまことのぶどうの木」

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ヨハネの福音書15章に入ります。この章も4回に分けて学びたいと思います。今回はその最初の箇所ですが、「イエスはまことのぶどうの木」というタイトルでお話しします。

 

最後の晩餐の席でイエスは、心を騒がせてはなりませんと言われました。なぜなら、イエスが去って行かれるのは彼らのために場所を備えに行かれるからです。その場所を用意したら、また来て、彼らを迎えてくださいます。また、イエスが父のもとに行かれることで、父はもう一人の助け主を遣わしてくださいます。その方は真理の御霊です。その方が来ると、彼らにすべてのことを教え、イエスが彼らに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。そのことによってイエスは、彼らに平安を残してくださるのです。イエスが与える平安は、世が与えるものとは違います。だから、心を騒がせてはなりません。恐れてはならないのです。

 

そう言われたイエスは、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」と言われました。14章の最後です。どこに行くんですか。ゲッセマネの園です。十字架に向かう前にイエスは、弟子たちと祈りの時を持とうとされたのです。そのゲッセマネの園に向かう途中で、イエスが弟子たちに語られた内容が今日の箇所です。

 

イエスはここで有名なぶどうの木のたとえ話をされました。5節、「わたしはぶどうの木です、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(5)

このたとえ話を通して、イエスが弟子たちに伝えたかったことはどういうことだったのでしょうか。きょうはこのたとえ話から、三つのことをお話ししたいと思います。第一に、イエスはまことのぶどうの木であるということ。第二に、神は、私たちが多くの実を結ぶために刈り込みをされるということ。そして第三のことは、だからイエスにとどまりなさい、ということです。

 

Ⅰ.わたしはまことのぶどうの木です(1)

 

まず、1節をご覧ください。ここには、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」とあります。

「わたしは~です」という言い方は、ヨハネの福音書の中に7回使われています。それは、イエスご自身があの出エジプト記3:14で神が語られた「わたしは、『わたしはある』という者である」方であることを示しています。

①「わたしはいのちのパンです。」(6:35/51)

②「わたしは世の光です。(8:12/9:5)

③「わたしは羊たちの門です。」(10:7/9)

④「わたしは良い牧者です。」(10:11/14)

⑤「わたしはよみがえりです。いのちです。(11:25)

⑥「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(14:6)

⑦「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1/5)

ですからイエスはヨハネ8:58でこのように言われたのです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

イエスはアブラハムが生まれる前から存在しておられた方、イスラエルの主なる神ご自身なのです。

 

そのイエスがここでは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」と言われました。どういう意味でしょうか。旧約聖書には、このぶどうの木は、イスラエルの民の象徴として使われています。たとえば、詩篇80篇にはこうあります。「あなたは、エジプトからぶどうの木を引き抜き、異邦の民を追い出してそれを植えられました。その木のために、あなたが地を整えられたので、それは深く根を張り、地の全面に広がりました。」(詩篇80:8-9)

つまり、神がイスラエルの民をエジプトから救い出し、約束の地に置いてくださったということです。彼らはもともとエジプトの奴隷でしたが、神の恵みとあわれみによってその中から救い出され、約束の地に導かれ、そこにぶどうの木のように植えられたのです。それで彼らは深く根を張り、全地に増え広がることができました。しかしそのようにして豊かになると神の恵みを忘れこの世と妥協し、神から離れてしまいました。甘いはずのぶどうが、酸いぶどうになってしまったのです。

 

そのことを嘆いた神は、預言者イザヤを通して、このように歌いました。「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。 今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。」(イザヤ5:1-5)

そのぶどう畑に対する哀歌、嘆きの歌です。ぶどう畑の主人であられた神は、愛する者のために良いぶどうを植え、やぐらを建て、ぶどうの踏み場を掘り、酒ぶねですね、そこまでしたのに、できたのは酸いぶどうでした。いったいどうして悪いぶどうが出来てしまったのか。

 

このように、旧約聖書では、神が良いぶどうの木として植えたはずのイスラエルが、その期待とは裏腹に悪いぶどうの木になってしまったということを前提に、ここではそれとは対照的に、良いぶどうの木としてのイエスご自身の姿が描かれているのです。

イエスは、「わたしはまことのぶどうの木です。」と言われました。「まことの」とは、「真実な」とか「偽りが無い」、「本物の」という意味です。イスラエルは神に従わない不真実で、偽物の、悪いぶどうの木でしたが、イエスはそうではありません。イエスはまことのぶどうの木です。イエスは父なる神に従い、実に十字架の死にまでも従われました。この方こそまことのぶどうの木なのです。

 

Ⅱ.刈り込みをなさる神(2-3)

 

次に、2~3節をご覧ください。「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」

イエスは、「わたしはまことのぶどうの木」と言われると、それに続いて「わたしの父は農夫です」と言われました。「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」「わたしの枝」とは、キリストを信じた人たちのこと、クリスチャンのことです。ぶどうの枝において大切なことは何ですか。それは、実を結ぶかどうかということです。すべての枝が実を結ぶわけではありません。実を結ぶ枝があれば、結ばない枝もあります。

 

主イエスは、そのことを種まきのたとえで話されました。ある人が種を蒔いたらそれが四種類の土地に落ちましたが、そのすべてが実を結んだわけではありません。実を結んだのは良い地に落ちた種だけでした。他の土地に落ちた種は実を結びませんでした。

道ばたに落ちた種は、人々に踏み固められてカチカチになっていたので張ることができず、すぐに烏がやって来て食べてしまいました。

次は土の薄い岩地です。岩地に落ちた種はすぐに芽を出しましたが、深く根を張っていなかったので、太陽が昇るとすぐに枯れてしまいました。こういうのを「ノリの信仰」と言います。最初のうちはノリが良かったのですが、試練が来るとシュンと萎んでしまったのです。

次は「いばらの中に落ちた種」です。この場合はこの世の心づかいや、富の惑わしや、色々な欲望が入り込んで種が塞がれてしまうので実を結びません。

最後は「良い地」です。良い地に落ちた種は育って実を結び、30倍、60倍、100倍になりました。

 

実を結んだのは「良い地」に落ちた種でした。違いは何でしょうか。どういう地に落ちたかということです。種は同じです。しかし、それがどのような地に落ちたかによって結果は全く違ったものとなりました。種とは神のことばです。四種類の土地とは、人の心の態度を表しています。つまり、人が同じように神のことばを聞いても、その人の心の態度によって全く違った結果を人生にもたらすようになるということです。

 

たとえば、このヨハネの福音書2章に、イエスが過越の祭りでエルサレムにいる間、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じたということがかかれてありますが、イエスご自身は、彼らに自分をお任せになりませんでした(2:23-24)。なぜでしょうか。それは、イエスがすべての人の心を知っておられたからです。つまり、奇跡やしるしを見て信じたという人を、イエスは信用されなかったのです。彼らはただ自分たちのご利益しか求めていませんでした。彼らが求めていたのはイエスご自身ではなく、自分たちの欲望が満たされることだったのです。どんなにイエスを求めているようでも、イエスご自身ではなく自分を求めているのであれば、それはイエスを信じているのではなく、自分のためにイエスを利用しているにすぎません。それは本物の信仰ではありません。いわばノリの信仰というか、優先順位が確立されていない信仰です。そのような信仰は、もし自分の思惑と違うと、結局のところ離れてしまうことになります。

 

そのことがよく表われているのが、6章にある5000人の給食の奇跡です。イエスは5つのパンと2匹の魚で、男だけで5000人の空腹を満たされました。人々は食べて満足すると、イエスがいないことに気付きました。それで舟に乗り込んでイエスを捜しにカペナウムに向かうと、湖の反対側でイエスを見つけました。「先生、いつおいでになられたんですか。だめでしょ、勝手に行ったりしては。どこに行かれるのかちゃんと教えてください。」

すると、イエスは何と言われましたか。イエスはあの有名なことばを語られました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」(6:26-27)

彼らがイエスについて来たのはしるしを見たからではなく、パンを食べて満足したからです。パンを食べて満足しているうちはついて来ますが、その教えに冷めるとついて来なくなります。岩地に落ちた種のようですね。実際、その後でイエスが、ご自身がまことのパンであると言われると、「そんなの関係ね」と言って、「弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」(6:66)のです。あんなにたくさんの人がついて来たのに、彼らが求めていたのは違うものだったのです。彼らは実を結びませんでした。

 

このように、枝には実を結ぶ枝と、結ばない枝があります。イエスの枝で実を結ばないものはどうなるんですか。ここには、「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」とあります。

実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除きます。農夫は、枝が実を結ぶことを願っているのです。それで、実を結ばない枝があればそれをすべて取り除き、また実を結ぶものは、もっと多くの実を結ぶようにと、刈り込みをなさるのです。剪定ですね。皆さん、剪定ってご存知ですか。私は、福島で生まれ育ったので、家の周りにはリンゴ畑とか、桃畑がたくさんありました。そして見ていると、冬になると農家の方が刈り込みをしているんですね。枝を切っているわけです。それは剪定作業というのですが、どうして枝を切るのかを尋ねたことがあります。すると、これをしないと余分な枝に栄養が行ってしまい、貧弱な実しかできないということを教えてくれました。それをすることによって必要な枝に栄養分が行き渡り、良い実を結ばせるのです。

それは、私たちも同じです。キリストの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさるのです。どのように刈り込みをなさるのかというと、たとえば、試練や苦しみといったことを通してです。信仰を持ったらすべてがバラ色になるわけではありません。むしろ、いろいろな試練や苦しみが起こってきます。しかし、その試練の中で、あるいはその試練を通して神は、私たちが多くの実を結ぶようにしてくださるのです。これこそ、神が私たちの成長のために神が用いられる方法なのです。ですから、私たちは、自分の生活の上に試練や苦難が襲ってきたら、だれかを憎んだり、自暴自棄になったりしないで、むしろ主が自分に多くの実を結ぶためにこれを与えられたのだと知って、感謝しなければなりません。

 

昔、アメリカのマサチューセッツ州ボストン郊外の精神病院の地下室に、アニーと呼ばれる少女が入れられていました。当時、精神障害者は決して直らない、人目にさらしてはならない、と考えられていました。少女はこの小さな部屋で一生を過ごす運命にあったのです。しかし、その病院で働く一人の掃除婦がその少女を可哀想に想い、食事を運ぶ度に゛I Love you″と声をかけ続けたのです。すると、その結果その少女は心を開き、病も徐々に回復し、やがて学校を卒業し教師の資格を取りました。そして、ある家庭に家庭教師として遣わされました。その家庭には見えない、聞けない、話せないという三重苦の少女がいました。そうです、これがヘレン・ケラーとアン・サリバン先生との出会いです。一人の名もない掃除婦の励ましがなかったらアニーは教師になれなかったでしょう。そして、ヘレン・ケラーのその後の大きな働きもなかったはずです。私たちも、神の励ましを聞くべきです。「わたしの目に、あなたは高価で尊い。あなたを愛している。」と。今の試練は、神が私たちを愛し私たちが多くの実を結ぶために、神が私たちに与えてくださった恵みなのです。

 

3節をご覧ください。ここには、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。

わたしの枝で実を結ばないものは、父がすべて取り除き、実を結ぶものは、もっと多くの実を結ぶために刈り込みをされると聞いて、弟子たちは不安になったのでしょう。自分たちも取り除かれるのではないか、と。そんな彼らにイエスは、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」と言われました。どういうことですか。

「すでにきよい」とは、すでに救われているということです。11人の弟子たちはすでに救われていました。主イエスが弟子たちの足を洗おうとした時、ペテロが「決して洗わないでください」と言うと、イエスは彼に「もし洗わなければあなたはわたしと何の関係もありません」と言われました。「じゃ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と言うと、イエスは彼に何と言われましたか。「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。」と言われました。彼らは全身がきよめられていました。でも皆がそうではありません。皆がそうではないというのはイスカリオテのユダのことを念頭に言われたことですが、他の弟子たちはきよめられていました。確かに救われていたのです。

 

彼らは何によってきよめられたのですか。ここには「わたしがあなたがたに話したことばによってきよいのです」とあります。イエスが彼らに話したことばによって、すでにきよめられていました。そうです、私たちをきよめることができるのは主イエスのことばです。私たちの努力とか、良い行いによってではなく、ただイエス・キリストが話されたことばによってきよくしていただくことができるのです。

 

Ⅰペテロ1:23には、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」とあります。私たちが新しく生まれるのは、神のことばによります。神のことばは私たちを救い、私たちをきよめることができます。神は、ご自身のみことばによって、私たちの刈り込みをされるのです。

 

へブル4:12に、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」とあります。神のことばは、私たちの思いやはかりごとを見分けることができます。ですから、聖書のことばを読んだり、礼拝に来て聖書のみことばを聞く時に心が刺されることがあるのです。「どうして牧師は自分のことを知っているのか。」と言う人がいますが、別にだれかから聞いたわけではありません。その人のことを話しているわけもないのです。神のことばが生きていて、力があります。それがあなたの心を照らすので心が刺されるのです。ですから、心に罪が示されたならそれを悔い改め、きよめていただかなければなりません。神はそのようにして刈り込みをなされ、私たちを主と同じ姿に変えてくださいます。多くの実を結ぶようにしてくださるのです。

 

Ⅲ.わたしにとどまりなさい(4-6)

 

ですから第三のことは、わたしにとどまりなさい、ということです。4~6節までをご覧ください。

「4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。」

 

イエスはここで、「わたしにとどまりなさい」と言っておられます。「とどまる」とは、つながっていることです。この「とどまる」という言葉が、この後10節までのところに10回も使われています。それは、このことがとても大切なことであるということです。どうしてこれが大切なのでしょうか。なぜなら、枝がぶどうの木にとどまっていなければ、枝だけで実を結ぶことはできないからです。枝は、木から流れてくる栄養分によってどんどん育ち、実を結びます。その栄養分こそキリストのいのちなのです。ですから、キリストから離れては何もすることができないのです。つまり、私たちが実を結ぶためにしなければならないことは、一生懸命に地中から栄養分を吸い上げようとしたり、幹に働きかけてもっと栄養分を供給してくれるようにすることではなく、木であるキリストにしっかりと結びついていることなのです。そうすれば、豊かな実を結ぶことができます。私たちが実を結ぼうと努力する必要さえありません。ある人は実を結ぼうと一生懸命努力しますがそうした必要は全くないわけで、木であるキリストに堅くつながり、キリストのいのちに生かされているだけでいいのです。そういう人は多くの実を結ぶのです。5節をご一緒にもう一度読みましょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

 

昔アメリカのケンタッキー州に、小さなレストランを経営する老夫婦がいました。ところが、彼らの店から少し離れた所にフリーウエイが出来たことでお客が激減してしまいました。普通なら絶望的になるところですが、キリストを信じ、キリストに堅くつながっていた彼らは自慢の料理のノウハウを他のレストランに売り込むことで、新しいビジネスチャンスを見出しました。それがケンタッキーフライドチキンの誕生です。カーネルサンダースは、キリストにつながって、ピンチをチャンスに変えたのです。これは、このコロナウイルスで苦しんでいる私たちにも言えることかもしれません。大切なのは何をするかではなく、何につながっているかです。キリストにつながっているなら、その人は多くの実を結ぶのです。

 

ところで、この実とは何ですか。具体的にどんな実を意味しているのでしょうか。すぐにピンとくるのが御霊の実ではないかと思います。ガラテヤ5:22-23には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。御霊の実は、御霊の賜物と違い、すべてのクリスチャンに与えられているものです。クリスチャンでも、愛のない人、喜びのない人、平安がない人、寛容でない人、親切でない人、善意でない人、誠実でない人、柔和でない人、自制心のない人がいるとしたら、そういう人は、キリストに結びついていないということになります。なぜなら、キリストにとどまっている人は、こうした実を結ぶようになるからです。それまでは神に敵対していた人でも、キリストを信じ、キリストにとどまることによって神を愛し、隣人を愛し、信仰の仲間を愛するようになります。もしそうでないとしたら、キリストにとどまっているかどうかをもう一度点検することから始めなければなりません。

 

しかし、ここで言われている実とは御霊の実だけでありません。聖書を見ると「聖潔に至る実」ということばが出てきます。ローマ6:22です。「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。」「聖潔に至る実」とは何ですか。神に喜ばれる、神のみこころにかなった生活のことです。以前は罪の奴隷として、自分の欲の赴くままに生きていました。しかし今は、その罪から解放されて神の奴隷となりました。ですから、神に喜ばれる生き方を求めるようになったのです。それが「聖潔に至る実」です。

 

そればかりではありません。へブル13:15には「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」とあります。「それなら」とは、イエスが民をきよめてくださるために十字架で血を流して死んでくださったのなら、ということです。イエスが私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったのだから、私たちはその救ってくださった方を通して、賛美のいけにえ、つまり、御名をたたえる唇の果実を、絶えずささげようではないかと勧められているのです。この「唇の果実」とは賛美と感謝、礼拝のことです。キリストによって救われた者は、キリストに感謝と賛美をささげるようというのです。つまりこれは礼拝の生活を大切にするということです。

 

それから、ピリピ1:11には「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」とあります。ここに「義の実に満たされて」とあります。義の実とは何ですか。義の実とは正しい行いのことです。私たちが救われたのは正しい行いをするためです。正しい行いをしたら救われるのではなく、救われたので正しい行いをするということです。それが救われた目的でもあるのです。エペソ2: 10には、「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」とあります。信仰によって救われた私たちが良い行いに歩むようにと、その良い行いさえも神はあらかじめ用意してくださいました。それは、私たちがイエス・キリストによって与えられるこの義の実に満たされることによって、神の栄光と誉れが現されるためです。

 

それからもう一つあります。それは「救霊」の実です。ローマ1:13にはこうあります。「兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。」ここに「いくらかの実を得ようと」とあります。これは前後の文脈を見るとかりますが、福音宣教を通して与えられる救霊の実のことです。

 

つまり、キリストを信じ、キリストにとどまり、キリストのいのちに生かされている人は、神を愛し、神に喜ばれる生き方をしたいと望むようになり、正しい行いを心掛け、キリストへの感謝と賛美すること、つまり神を礼拝することを大切にし、救霊の実を得たいと願い、そのことを通して神の栄光が現されることを求めるようになるということです。そうでないとどこかおかしいのです。人がキリストにとどまり、キリストもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結ぶのですから。「わかりました、今日から頑張ります。」というのではありません。私たちは自分の力では何もすることができません。枝にはその力がないのです。枝にとって大切なことは「とどまる」ことです。キリストにとどまること。そして、キリストから力を受けることです。その人は多くの実を結びます。そして、私たちが多くの実を結ぶことによって、神が栄光をお受けになられるのです。

 

あなたはどうですか。実を結んでいますか。もし結んでいないとしたらその原因はどこにありますか。キリストにとどまっていないことです。キリストにとどまっていなければ実を結ぶことはできません。そのような枝は投げ捨てられてしまいます。しかし、キリストにとどまるなら、多くの実を結びます。見せかけや一時的なものではなく、あの良い地に落ちた種のように、キリストにとどまり続けてください。そうすれば、あなたも多くの実を結びますから。

 

イギリスの政治家で、4度にわたり首相を務めたウイリアム・グッドストンは、イギリス国教会の信徒で、キリスト教の精神を政治に反映させることを目指した名首相ですが、彼は首相に乞われる時、一つの条件が満たされれば引き受けても良いと言いました。その条件とは何か。それは「どんなに忙しくても、日曜日に教会の礼拝を守ること」でした。彼のイギリス史上、稀に見る政治的実績の数々は、神から来る知恵や力を根源としていたのです。

 

私たちもキリストにとどまるなら、多くの実を結びます。キリストにとどまって、神から来る知恵と力、いのちを源泉として、この人生の荒波をともに乗り越えてまいりましょう。

ヨハネの福音書14章27~31節「イエスが与える平安」

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ヨハネの福音書14章から学んでいます。きょうはその4回目、最後の箇所となりますが、「平安」というテーマでお話しします。ただの「平安」ではありません。「イエスが与える平安」です。これは今、私たちが最も必要としているものではないでしょうか。オンラインでこれを聞いておられる方もどうぞ聖書を開き、みことばに注目していただけたらと思います。

Ⅰ.わたしの平安を与えます(27)

まず、27節をご覧ください。イエスはこのように言われました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」

弟子たちは、イエスがこの世を去って父のみもとに行かれることを聞いて、それがどういうことなのかわらず、心を騒がせていました。そんな弟子たちに対してイエスは、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1)と言われました。なぜなら、父の家には住む所がたくさんあるからです。その場所を備えたら、また来て、彼らを迎えてくださいます。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。

そればかりではありません。イエスが父のもとに行くことによって、彼らはイエスのわざを行うばかりか、さらに大きなわざを行うようになります(12)。それは彼らが偉大であるからではなく、彼らの祈りを通してイエスが答えてくださるからです(13)。彼らがイエスの名によって求めることは何でも、イエスはしてくださいます。イエスの名によって祈るとは、イエスのみこころにかなった祈りをするということですが、そのような祈りは必ず聞かれるのです。それによって父が栄光をお受けになられるからです。そればかりではありません。イエスが父のもとに行くことで、父はもう一人の助け主を与えてくださいます。その方は真理の御霊です。その方がいつまでも彼らとともにいて、助けてくださいます。だから、心を騒がせてはならないのです。

そして、今日のところでイエスは、さらにすばらしい約束を与えてくださいました。それは、わたしはあなたがたにわたしの平安を与えるということです。27節をご一緒に読みたいと思います。

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」

イエス様は彼らに、「わたしの平安を与えます」と言われました。イエスが与えてくださる平安は、世が与えるものとは違います。世が与える平安とはどういうものでしょうか。広辞苑で「平安」という言葉を調べてみると、無事で穏やかなこと、安穏(あんのん)。とあります。安穏とは、心静かに落ち着いているということです。特に問題もなく、心穏やかに過ごせたらどんなに幸せなことでしょう。だれもがそのような暮らしを求めています。家庭でも、学校でも、職場でも、また近所の人たちも、みんなと仲良く、楽しく、平和に過ごしたいと願っています。ですから、この世で言う平安とは、問題が起こらないこと、争いがないことです。

確かに、問題がければ心は穏やかでしょう。しかし、問題のない人なんていません。みんな問題を抱えながら生きています。そうした問題の中で不安になり、心を騒がせるのです。じゃ、どうやって平安を持とうとしているのかというと、そうした不安を解消するために、たとえばカラオケに行って思い切り歌うとか、食べて、飲んで、騒いで、忘れようとしたり、女性であれば気晴らしにとショッピングをするという人もいるでしよう。中には、ひたすら寝て忘れますという人もいます。少し余裕がある人なら、旅行に行って楽しもうという人もいるでしょう。あるいは、占いに行って運勢を見てもらう人もいます。また、環境を変えたら解決するのではないかと、場所を変えたり、仕事を変えたりする人もいます。でも、どうでしょうか。場所を変え、環境を変えても、また別の問題が起こって来ます。結局、外側をどんなに変えたとしても、自分の内側が変わらなければ、ほんとうの解決はありません。

イエス様はここで「わたしはあなたがたに平安を与えます。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしが与える平安は、世が与えるのとは違います。」と言われました。イエス様が与える平安は世が与えるのとは違います。世が与える平安は、表面的で一時的なものです。しかし、そうしたものは、状況が変わるとまたすぐに不安になってしまいます。それは状況によって左右されるような一時的なものでしかないのです。しかし、イエスが与える平安は違います。イエスが与える平安は上から来る平安です。それはどんな状況でも奪われることのない平安なのです。

ある時「平安」というテーマの絵画展が開かれました。応募作品には、のどかな田園風景の絵や、母親の腕に抱かれて眠る子供の絵などがありました。しかし、その中で最優秀作品に選ばれたのは、荒れ狂う嵐の中、大きな岩の割れ目に設けた巣の中で、雨風をしのいでいる鳥の親子の絵でした。一羽の親鳥がしっかりと雛鳥を抱えているのです。そして雛鳥は外の激しい嵐にもかかわらず、暖かいお母さんの懐に抱かれて平安に眠っていたのです。  これこそ本当の平安です。本当の平安とは環境や状況にかかわりなく、どんな時にも心が穏やかでいられることなのです。

これがイエスの平安です。イエス様はどんな状況でもパニックになることはありませんでした。ああ困ったなぁ、何でこんなことが起こったんだろう、想定外のことが起こってしまった・・というようなことは一度もありませんでした。

たとえば、ある日弟子たちと舟に乗ってガリラヤ湖を渡っていたとき、突然、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入って来て、舟は水でいっぱいになったことがありました。弟子たちの中にはかつて漁師だった者たちもいましたが、そんな彼らでも死んでしまうのではないかと思うほど焦りましたが、イエスはいうと、とも(船尾)の方で枕をして眠っていました。「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか。」というと、イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になりました。そんな嵐の中でもイエスは平安だったのです。なぜでしょう。それは父なる神に全く信頼していたからです。信頼があると平安があります。問題は信頼がないことです。だから、この時イエスは弟子たちにこう言われたのです。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」(マルコ4:40)

赤ちゃんの顔を見てください。いつもすやすやと寝ています。赤ちゃんが不安な顔をしているのを見たことがありますか。「明日は何を食べよう」「どうやって生きていったらよいだろうか」そんなことを考えて悩んでいる赤ちゃんはいません。なぜなら、母親の腕に抱かれているからです。母親の腕に抱かれていると平安があります。全く信頼しきっているからです。自分では何もすることができないので母親にゆだねるしかないのです。このような全き信頼の中には不安はありません。

第二次世界大戦中、多くのユダヤ人をナチスから助けたオランダ人のクリスチャン、コーリー・テンブーン女史は、ユダヤ人をかくまったとしてナチスの手で強制収容所に送られましたが、奇蹟的に生き残りました。それから三十年以上にわたり、世界各国を回り、どんな痛みを抱える人の心にもイエス・キリストによって平和が訪れることを語りましたが、その彼女がこのような言葉を残しています。

「心配したからといって、明日の悲しみが無くなるわけではありません。心配は今日を生きる力を私から奪ってしまいます。」「心配とは、恐れの回りに渦巻く無力な考えにすぎません」

まさにその通りです。心配したからといって、明日の悲しみが無くなるわけではありません。それは、今日を生きる力を奪ってしまいます。私たちに必要なのは心配することではなく、信頼することなのです。

ですから、もしあなたが平安を持ちたいと思うなら、イエスに信頼することです。イエスは、「わたしはあなたがたに平安を与えます。」と言われました。その平安を受け取ればいいのです。平安は、お金で買うことはできません。どんなにお金があっても心の平安を買うことはできないのです。むしろお金に余裕があればあるほど、時間に余裕があればあるほど、いつも自分のことばかり考えて落ち込んでしまうというケースが多いのです。忙しい人は考える余裕もないので、平安はなくてもあまり不安になることはありません。あるいは、不安な時に「平安になれ、平安になれ」とどんなに自分に言い聞かせても、平安になるどころか、余計不安になってしまいます。

しかし、イエスは、わたしはあなたがたにわたしの平安を与えると言われました。それはイエスによって与えられるものなのです。イエスからのプレゼントです。その平安をイエス様から受け取るだけでいいのです。

いったいどうしてイエスは平安を与えることができるのでしょうか。それは、イエス様が私たちの罪の身代わりになって十字架で死んでくださったからです。ですから、この方を信じるとき私たちのすべての罪が赦され、神との平和を持つことができるのです。神との平和があると、私たちの心には神の平安が与えられます。ローマ5:1を開いてください。ここには、「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。

以前は、神との平和がありませんでした。むしろ、神に敵対していました。神を信じないというだけでなく神を無視し、自分勝手に生きることで神に敵対していました。神を認めないし認めたくもありませんでした。しかし、そんな私たちのために神がひとり子をこの世に与えてくださり、十字架で死んでくださることによって私たちの罪を赦してくださったということを知り、その神の愛を信じて受け入れたことで私たちのすべての罪が赦され、神の前に義と認められました。ですから、今はこのキリストによって神との平和を持つことができるようになったのです。神との平和が与えられました。

勿論、現実的には日々いろいろな問題が起こります。信仰をもっても不安になることがあるのです。どうしよう、こうしようと思い悩み、もがけばもがくほど深い淵に落ちてしまうようなことがあります。そのような時は大抵主を忘れている時です。主を忘れて自分の力で一生懸命になっていると不安になってしまいます。どうしたらいいのでしょうか。祈ることです。祈ると心に神の平安が与えられます。なぜなら、祈ると私たちの心と私たちの思いが神に向くからです。神は今まで本当に良くしてくだった。辛い時も苦しい時もいつもそばにいて助け、導いてくださった。この神が今回も必ず祈りを聞いて救ってくださる。このようにして、私たちは神に信頼することを思い起こすことができるのです。

ピリピ4:6~7をご覧ください。パウロはこう言っています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

祈りは、あなたの今の心の思いを神に知っていただくことです。神はあなたのことをすべて知っておられますがあなたが神を忘れているので、あなたの思いが神に向き神に信頼するために祈らなければなりません。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

今から約3000年前、イスラエルの国に、ダビデという王がいました。彼は、王になるまでの間、信仰のゆえに迫害され、命を狙われ、ある時は飢え渇き、耐えられないような苦しみを経験しました。そのダビデが聖書の中で次のように歌っています。

「5 私のたましいよ、黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。6 神こそわが岩わが救いわがやぐら。私は揺るがされることがない。7 私の救いと栄光はただ神にある。私の力の岩と避け所は神のうちにある。8 民よ、どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」(詩篇62:5-8)

現代でも、ダビデが信頼した神、ダビデの祈りに応えて彼を助けて下さった生ける真の神を信頼する者は、どのような苦しみの中にあっても、揺るぐことのない平安を持つことができるのです。

あなたはどうですか。何かの事で心を騒がせてはいませんか。恐れてはいないでしょうか。イエス・キリストを信じて、神との平和を持ってください。そうすれば、神の平安があなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。私たちはいつも問題に右往左往し、すぐに不安になってしまうような者ですが、でも信頼する何かを持っていれば、いろいろなことで心が揺れ動くことがあったとしても、この方に拠り頼むことでどんな状況にあっても安定した心、平安を持つことができるのです。

だから、心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。心を騒がせれば騒がせるほどもっと不安になります。恐れれば恐れるほど、恐れがどんどん膨れ上がってしまいます。どうすればいいんですか。それを止めることです。心を騒がせたり、恐れたりするのではなく、神を信じ、またイエスを信じればよいのです。そうすれば、あなたの心に神の平安、イエスの平安が与えられます。

Ⅱ.父のもとに行かれたイエス(28-29)

次に、28節と29節をご覧ください。

「28 『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。29 今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。」

弟子たちは、イエスが去って行くが、また彼らのところに戻ってくるということを聞きました。そのとき、彼らはどのように反応したでしょうか。心を騒がせました。イエスがどこかへ行かれるのかわからなかったので不安になったからです。しかし、それは悲しいことではなく、むしろ、喜ぶべきことでした。彼らが本当にイエスを愛していたのなら、イエスが父のもとへ行くことを喜ぶはずなのです。なぜなら、イエスがこの世を去って行くことは、十字架につけられるということだからです。そればかりか、イエスはその死からよみがえられ、天に昇られると、約束の聖霊が注いでくださいます。ですから、それは悲しむべきことではなくむしろ喜ぶべきことなのです。

イエスは、十字架の向こうにあるものを見て、苦しみをもろともせず、喜んで十字架に向かわれました。へブル12:2に「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」とあります。十字架の向こうにあるものとは何ですか。それは、私とあなたが救われることです。そして三日目によみがえられて、父のみもとに行かれます。それがなかったら、約束の聖霊が降ることはありません。この方は「もう一人の助け主」と呼ばれた方です。イエスのように私たちのそばにいて、いやうちにいて慰め、励まし、助けてくださる方です。本当に忘れっぽい私たちがいつもイエス様のことばを思い起こすことができるように助けてくださいます。神はイエスの名によってこの方を遣わしてくださると約束してくださいました。それはイエスが父のもとに行くことによって成就するのです。であれば、それは悲しいことではなく、むしろ喜ばしいことではないでしょうか。

「父はわたしよりも偉大な方だからです。」どういうことでしょうか。キリスト教の異端は、この箇所を使ってイエスは神よりも劣ると教えますが、そういうことではありません。イエスと父とは一つです。全く等しいお方であり、本質において全く同じです。神ご自身です。ですから、イエスは「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われたのであり、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われたのです。ではなぜイエスは、父はわたしよりも偉大な方ですと言われたのでしょうか。それは、イエスが人として来られたからです。その立場からそのように言われたのです。イエスは神と等しい方であり、神ご自身であられる方なのに、ご自分を空しくして、しもべの姿をとられ、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまでも従われました。そのことを通して救いのみわざを成し遂げてくださったのです。そういう意味でイエスは、父はわたしよりも偉大な方だと言われたのです。

イエスはこのことを、事前に弟子たちに話しました。そのこととは何ですか。十字架で死なれることです。また三日目によみがえられること、そして、天に昇って行かれることです。それに伴って約束の聖霊が遣わされるということです。イエスはこのことを前もって何回も語られました。なぜでしょうか。それが起こったとき、彼らが信じるためです。弟子たちはイエス様から何回聞いても、何のことを言っているのかさっぱりわかりませんでした。というか、ほとんど理解できませんでした。なぜイエスは十字架で死ななければならないのか、神の神殿を三日で建てるとはどういうことか、しばらくの間見えなくなるが、また見るようになるとはいったいどういうことか、さっぱりわかりませんでした。でもいいんです。その時にわからなくても。あとでわかるようになりますから。そしてそれが起こったとき彼らは信じるようになります。12:16には、「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。」とあります。「これらのこと」とは何ですか。ここでは、群衆が大声で「ホサナ。祝福あれ、主の御名よって来られる方に。イスラエルの王に。」(12:13)と叫んだことです。また、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入場されたことです(12:15)。これらのことは、このヨハネを含め弟子たちにはどういうことなのか初めはわかりませんでした。弟子たちも当時の群衆たちと同じように、イエスがすぐにでもローマの圧政から自分たちを救い出してくれるものと思っていたからです。ですから、そうでないということがわかると、手のひらを返したかのようにというか、イエスが十字架に付けられるために捕らえられるとすぐに逃げ出してしまったのです。自分たちも捕らえられるのではないかと恐れたからです。弟子たちにも、これらのことがどういうことなのか分かりませんでした。彼らにそれらのことが分かったのは、イエスが栄光を受けられた後のことでした。イエスが十字架で死なれ、三日目によみがえられ、天に昇り、神の右の座に着かれ、約束の聖霊を遣わされた時にはっきりわかったのです。何のためでしょうか。そのことが起こったとき、彼らが信じるためです。事実、ペンテコステの時に約束の聖霊が降ったとき、彼らははっきりわかりました。そして彼らは聖霊に満たされ、大胆にキリストを証ししたのです。全部イエスが言われた通りだったので、彼らは信じました。

それは、私たちへの教訓でもあります。これから先に起こることを、イエスは前もって語られました。それは必ず成就します。このコロナウイルスの問題もその一つです。まずエゼキエル36:24には、「わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。」とあります。離散した民がパレスチナに戻ってくるという預言です。これは、全世界からユダヤ人がパレスチナに帰還し、1948年にパレスチナ共和国が建国されたことで成就したことがわかります。

そればかりではありません。マタイ24:6-7には、「また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」とあります。これは第一世界大戦、第二次世界大戦で成就したと言えるでしょう。勿論、これからもさらにもっと大きな世界戦争が起こるでしょう。これはその序章にすぎません。

さらに、イエスは、「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。」(マタイ24:4-5)と言われました。これは説明がいらないでしょう。韓国の文鮮明はじめ、多くの偽キリストが現れました。終末が近づくと、人々の社会不安が増しますが、その不安に乗じて、自分を救い主と自称する偽キリストは、今後さらに多く現われてくるでしょう。

さらにルカ21:10には、「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」とあります。世の終わりが近くなると、大きな地震、方々に飢饉や疫病が起こるのです。このコロナウイルスはこの一つと考えられますが、これがすべてというわけではありません。これはその一つにすぎません。これからますますそのような飢饉や疫病が起こり、困難な時代になっていくのです。

そんなこと信じたくないし、信じられません。しかし、これらのことは必ず起こることです。なぜなら、それは前もってイエスが私たちに話されたことだからです。何のために前もって語られたのでしょうか。それが起こったとき、信じるためです。確かにそれは恐ろしいことではありますが、主を信じている者たちクリスチャンには希望でもあります。イエスを信じて聖霊が与えられると、この世の常識だけでなく聖書の預言に目が開かれ、それに備えて生きることができるようになるからです。それが私たちの平安の土台でもあります。私たちはある日突然災害が起こったかのように驚き怪しむのではなく、それがいつ起こっても大丈夫なように前もって語られたイエスの約束のことばを信じ、そのことばに信頼して生きる者でありたいと思うのです。

Ⅲ.悪魔に勝利されたイエス(30-31)

第三に、30節と31節をご覧ください。「30 わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。31 それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」

イエスは弟子たちに、「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。」と言われました。もう何度も話したのに彼らが理解できないからではありません。彼らが理解できないのは知っていました。彼らが理解できるようになるのは聖霊が降られてからです。その時聖霊がすべてのことを思い起こさせてくださるので、彼らも理解できるようになります。では、なぜイエスは「あなたがたに多くを話しません」言われたのでしょうか。時間がなかったからです。もうすぐこの世を支配する者がやって来ます。この世を支配する者とは、悪魔、サタンのことです。具体的には、ここではイエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダのことです。イエスは、悪魔、サタンのことを「この世を支配する者」と言われました(ヨハネ12:31)。パウロは、Ⅱコリント4:4で、「この世の神」とも言っています。へブル2:14には、「死の力を持つ者」と言われています。悪魔はこの世の神であり、この世を支配する者です。勿論、万物を支配しておられるのは天地万物を創造されたまことの神です。この方がすべてを支配しておられます。ですから、悪魔はイエスに何もすることができません。悪魔はイエスを十字架につけて勝ち誇ったつもりでしたが、それはかかとにかみついたにすぎませんでした。というのは、イエスは三日目によみがえられたからです。それは創世記3:15にあるように、悪魔の頭を踏み砕くことでした。決定的な勝利です。イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれましたが、三日目によみがえられて、死の壁を打ち破られたのです。ですから、悪魔はイエスに何もすることができません。それは同時に、私たちはもう心を騒がせたり、恐れたりする必要がないことを示しています。

私たちは、どうして心を騒がせたり、恐れたりするのでしょうか。それは、その背後にこの悪魔の働きがあるからです。この世の多くの人々は悪魔の存在を信じていないので、悪魔の思うままに操られていますが、悪魔は確かに私たちの背後にあって私たちを支配し、操っています。それに気付かないと、私たちが心を騒がせたり恐れたりするのはあまりにも忙しくしているからだと思い込んでしまいます。しかし、現に悪魔は、私たちの心から平安を奪おうとして躍起になっています。イエスはその悪魔に完全に勝利されました。ですから、悪魔はキリストに対して何もすることができません。そして、このキリストを信じた私たちにも何もすることができません。私たちは、この勝利されたイエス・キリストのゆえに、悪魔を恐れる必要は全くないのです。私たちは二度と罪の奴隷になることも、死の恐怖につながれることもありません。キリストは、死と、罪と、悪魔の力に勝利されたからです。その方があなたとともにおられます。聖霊を通して、あなたの内に住んでおられます。だから、あなたは心を騒がしてはならないのです。恐れてはなりません。問題は、あなたはこのイエス・キリストを信じて、神との平和を持っているかどうかです。あなたがイエスを信じているなら、イエスはあなたに平安を与えてくださいます。

この平安が与えられるとき、私たちは肉体の癒しはさることながら、霊的にも健康が与えられ、心は満ち足りて豊かになり、どんなことにも動揺することなく、いつも落ち着いて、あらゆる人に対して心が開かれ、柔和で、穏やかに、しかも確信を持った生き方をすることができます。たとえ病気がいやされなくても心は健康であり、貧しい生活の中にあっても、心は豊かであって、思い煩うことはありません。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができるのです。というのは、あなたの罪は赦され、永遠のいのちが与えられているからです。キリストが聖霊を通していつも、いつまでもともにいてくださいます。

主イエスがくださる平安とは、このようなものです。この世の平安は、何かが起こるとすぐに心が波立ち、いら立つものですが、主イエスがくださる平安は、あたかも動くことのない海の深海に錨を下ろしている鉛のように、たとえ波風が吹き荒れても、びくともしません。あなたがこの平安を自分のものとしたいのなら、この平安を私たちにくださるお方、主イエス・キリストを、自分の罪からの救い主として信じることです。その時、主はあなたを罪から解放し、ご自身との深い交わりの中に入れてくださいます。

また、神の平安を持っていても、問題が起こると、私たちの心は騒ぐでしょう。それは、あなたの眼がイエス様ではなく問題にいってしまうからです。ですから、どうぞ祈ってください。そうすると、あなたは神に信頼するようになります。そして、神がこの問題も必ず解決してくださり、良い方向に変えてくださると確信することができ、その心が神の平安で満たされるでしょう。神の平安がありますように。シャローム。

ヨハネの福音書14章18~26節「あなたがたを捨てて孤児にはしない」

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ヨハネの福音書14章からお話ししていますが、きょうはその3回目となります。最後の晩餐の席でイエスが弟子たちにこの世を去って父のみもとに行くと言われると、何のことを言っているのかわからなかった弟子たちは不安になりました。そんな彼らにイエスは、こう言われました。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(14:1)

なぜなら、父の家には住む所がたくさんあるからです。そこに場所を用意したら、また来て、彼らを迎えに来てくださるからです。天の御国が用意されていることがわかればどんなことがあっても安心です。この御国の視点が与えられているということはどんなに感謝なことでしょう。不安の中にあっても平安が与えられます。

そればかりではありません。前回のところには、さらに3つのことが約束されていました。それは、キリストを信じる者は、キリストが行うわざを行い、さらに大きなわざを行うということでした(14:12)。また、主はご自身の名によって求めることは、何でもそれをしてくださいます(4:13)。そして、第三のことは、主を信じる者には助け主を与えてくださいます(4:16)。その方は真理の御霊です。この方が彼らとともにいて、いや彼のうちにいて助けてくださいます。だから恐れることはありません。心を騒がせてはならないのです。

 

きょうの箇所はその続きです。きょうは、「あなたがたを捨てて孤児にはしません」と言われたイエスのことばから、三つのことをお話しします。第一に、私たちを捨てて孤児にはしないとはどういうことでしょうか。再び戻って来られるということです。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。第二のことは、そのような神との交わりの中に入れられる人はどのような人かということです。それは、キリストを愛する人です。キリストを愛する人は、キリストのことばを守ります。

そして第三のことは、そのために聖霊が助けてくださるということです。どのように助けてくださるんですか?父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 

Ⅰ.あなたがたを捨てて孤児にはしません(18-20)

 

まず18節から20節までをご覧ください。

「18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」

 

イエスは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と言われました。なぜなら、再び彼らのところに戻って来られるからです。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見るようになります。どういうことでしょうか。これは、イエスが十字架で死なれることで世はイエスを見なくなりますが、三日目にイエスが死からよみがえられることを彼らが見るようになるということです。しかしそればかりではなく、その後、イエスが天に昇って行かれてから約束の聖霊をお遣わしになることによって、もう一度彼らのところに戻ってくるということです。それが20節に書かれてあります。

「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」

「その日」とはいつですか?「その日」とは、その後で起こるペンテコステの日のことです。ユダヤ教の祭りで「五旬節」の日のことです。ギリシャ語で「ペンテコステ」と言います。それはちょうど過越の祭りから50日目、つまり、イエスが十字架で死なれてから50日目に行われた祭りの時でした。弟子たちが同じ場所に集まっていたとき、天から突然、激しい風が吹いて来たかのような響きが起こったかと思ったら、炎のような分かれた舌が現れ、一人ひとりの上にとどまると、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のことばで話し始めたのです。いったい何が起こったのか。約束の聖霊が降られたのです。

 

それは、預言者ヨエルによって預言されていたことでした。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」(ヨエル2:28)この預言が成就したのです。ヨエルは、B.C.830年頃の預言者ですが、当時エルサレムを襲ったいなごによる災害を通して、終わりの日に起こる恐ろしい幻を語りました。その日、畑に多くの種を持って出ても、彼らは少ししか収穫することができません。いなごが食い尽くすからです。ぶどう畑を作り、耕しても、そのぶどう酒を飲むことも、集めることもできません。虫がそれを食べるからです。ではどうすれば良いのか。きよめと断食の集会を開かなければならない。つまり、神の前に悔い改めなければなりません。もし、彼らが心を尽くし、断食と、涙と、嘆きをもって、主に立ち返るなら、主は彼らをあわれみ、祝福してくださると語ったのです。どのように?まず物質的な祝福をもたらされます。

「23 シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。24 打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。25 「いなご、あるいは、バッタ、その若虫、噛みいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。26 あなたがたは食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。主があなたがたに不思議なことをするのだ。わたしの民は永遠に恥を見ることがない。」(ヨエル2:23-26)

そればかりではありません。その後、霊的にも祝福してくださいます。それがこれです。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」

「その後」とは、物質的に祝福してくださった後ということです。その後、主はすべての人に「わたしの霊」を注ぐと言われました。今、世界中がコロナウイルスで混乱していますが、その真の解決はここにあるのではないかと思います。つまり、主の御前に悔い改めるということです。神から離れ、神を神とも思わず自分が神にでもなったかのようにわがもの顔に振舞っている罪を悔い改め、神に立ち返ることです。そうすれば、神がこの地を癒し、霊的にも物質的に祝福をもたらしてくださいます。

ところでここには、「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」とあります。聖霊が注がれると、息子娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見るのです。聖霊が注がれると、神のみこころがはっきりと示されるのです。曖昧にではありません。それまでは、神のみこころがわかりませんでした。ぼんやりしていました。しかし、その日聖霊が注がれると、はっきり見えるようになります。それがペンテコステに起こった出来事でした。ヨエルは、その日のことを預言しましたが、それがそのとおりに起こったのです。つまり、主が弟子たちに「あなたがたのところに戻って来ます」と言われたのは、この聖霊を通してのことだったのです。

「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」どのようにしてわかるのでしょうか?聖霊を通してです。弟子たちには、イエスが言っていることがどういうことなのかよくわかりませんでした。なぜ十字架につけられて死なければならないのか、なぜ父のもとに行かなければならないのか、もう一人の助け主を遣わしてくださるとはどういうことなのかさっぱりわかりませんでした。チンプンカンプンでした。しかし、その日には分かります。すべてがわかる。イエスが言われたこと、教えられたことがどういうことなのか、イエスがここで、「あなたがたを捨てて孤児とはしません」と言われた意味がわかるようになるのです。

もしイエスがどこに行ってしまったままであったら、いったいこれまでの自分の人生は何だったのかとなってしまいます。まさに孤児です。人はだれかに見捨てられるということほど辛いことはありません。皆さんは観ていないと思いますが、今、毎週日曜日の夜、NHKで「レ・ミゼラブル」を放映しています。私は毎週日曜日の奉仕を終えて帰宅してから、目をこすりながら観ていますが、そこに出てくる少女コゼットは、別に見捨てられたわけではありませんが母親は生きるために通りがかりの宿屋に彼女を預けざるをえませんでした。別に見捨てたわけではなく街に行って働いてお金を貯めたら娘を迎えに来ようと思っていたのです。しかし、母親の夢はかないませんでした。彼女はそこで死んでしまったからです。コゼットはもう二度と母親に会うことはできませんでした。孤児として孤独に生きなければならなかったのです。そんな彼女を引き取ったのがジャン・バルジャンでした。でも、それまで彼女はどれほど孤独だったでしょうか。そんな孤独の人生を生きなければなりませんでした。

 

弟子たちもそうです。もしキリストが彼らのもとを去って行くというだけだったら、彼らも孤独だったでしょう。しかし、主は彼らを捨てて孤児にするようなことは決してなさいません。やがて彼らのもとに戻って来られるからです。聖霊を通して。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。十字架で死なれることによって、しばらくの間彼らはイエスを見ることができなくなりますが、「その日」には見るようになります。まず三日目によみがえられることによって、そして、約束の聖霊が降られ、その聖霊に満たされることによってです。その日には、イエスが父のうちに、彼らがイエスのうちに、そしてイエスが彼らのうちにいることが、分かるようになるのです。

 

Ⅱ.イエスを愛する人(21-24)

 

次に、21節から24節までをご覧ください。まず21節をお読みします。

「21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」

 

この節は、前の節とどのような関係があるのかわかりづらいように思うかもしれませんが、実は全部つながっています。イエスは、前の節で「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」と言われましたが、その交わりの中に入れていただけるのはどのような人であるかということです。ここには、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」とあります。それは、キリストの戒めを保ち、それを守る人です。キリストの戒めを保ち、それを守る人は、キリストを愛する人です。そういう人は父に愛され、またキリストにも愛され、キリストご自身を現してくださいます。あなたはどうですか?キリストを愛しておられますか?

 

では、キリストを愛しているかどうかをどうやったらわかるのでしょうか。それはキリストの戒めを守っているかどうかです。キリストの戒めを守る人は、キリストを愛している人です。キリストを愛している人はキリストのことばに従います。しかし、そうでない人は従うことができません。従いたくないのです。キリストのことばよりも、自分の思うように生きていきたいと思っているからです。どんなに表面的に愛しているようでももしそのことばに従っていないとしたら、それは愛しているとは言えません。なぜなら、愛するとは従うことであり、従うことが愛しているということだからです。それがキリストを愛していることの証明となるのです。キリストが言われることがどういうことなのか分からなくても従わなければなりません。なぜなら、主のことばは完全ですから、今はわからなくても後でわかるようになるからです。

 

そのように主を愛する人に、主はご自身を現してくださいます。弟子たちはイエスを愛していたので、イエスに従いました。ですから、イエスが復活された後、彼らにご自身を現してくださったのです。しかし、信じない人たちには現わしてくださいませんでした。当時のユダヤ人指導者たちには現れませんでした。ただイエスを愛しイエスに従った人たちにだけに現われてくださったのです。

それは私たちも同じです。私たちもイエスを愛しています。イエスを見たことはないけれども愛しており、見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊っています。アーメンですか?それは、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。もしかすると、様々な試練の中で悲しまなければならないことがあるかもしれませんが、むしろそれは私たちの益のためであり、私たちが多くの実を結ぶために刈り込みをしてくださっているのです。そう信じているからこそ忍耐して、信仰に堅く立つことができるのです。そういう人にはご自身を現わしてくださいます。

 

どのようにしてイエスは私たちに現れてくださるのでしょうか。別に、夢や幻によって現れるというわけではありません。もちろん、そのようにして現れてくださることもあるでしょう。しかし、主がご自身を現わされるのは、神のことば、聖書のことばを通してなのです。なぜなら、イエスはみことばを通してご自身を現わしてくださったからです。ですから聖書を読み、祈っている中で、「ああ、主がここにおられる」という実感を持つことができます。また、こうして聖書のことばを聞いている中でご自身を現わしてくださいます。だから、礼拝は特別の時間なのです。わずか45分のメッセージですが、その時間に皆さんは主の臨在を感じ心が満たされるのです。同じ時間テレビを観ていても同じように満たされることはありません。かえって不安になったり、落ち込んだりしますが、こうやって聖書のみことばを聞いたり、家で聖書を読み、祈っている中でそれを体験することができるのです。

私たちはどちらかというと何かをすることによって主がご自身を現わしてくださるのではないかと考えがちですが、そうではなく、主はみことばを通してご自身を現わしてくださいます。キリストを愛している人は、キリストの言葉を守ります。そういう人は父に愛され、イエスご自身を現わしてくださるのです。ですから、神秘的に考える必要はありません。聖書を読んで祈ってください。そして、聖書の言葉に従ってください。そうすれば、主はあなたにも必ずご自身を現わしてくださいますから。

 

22節をご覧ください。すると、イスカリオテでないほうのユダがイエスに言いました。「主よ。私たちにはご自身を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」(22)

イエスの弟子たちの中に、ユダという名前の人がもう一人いました。もう一人というのは、イスカリオテのユダではないもう一人のいうことです。これはヤコブの子ユダのことです(ルカ6:16)。彼は自分たちにはご自身を現わされるのに、どうして世にはご自分を現さないのかとイエスに尋ねました。どうして彼はこのように尋ねたのでしょうか。それは、その前の節でイエスが自分を愛する者にご自身を現われてくださると言われたからです。もし王であるのならみんなにわかるように自分から現した方がいいんじゃないですか、ということです。そうすれば、皆があなたを認めるようになるし、すんなりと王になることができます。つまり、彼のメシア観がずれていたのです。彼が期待していたのは自分たちをローマから救ってくださる政治的な王でした。何もこれは彼だけではありません。当時の一般的なユダヤ人たちのメシア観でもありました。当時の人々は、メシアはすべての人に分かるような形でご自身を現してくださると考えていました。

しかし、イエスが来られたのはそのためではありませんでした。イエスが来られたのは、失われた人を捜して救うためでした。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)しかし、彼にはそのことがわかりませんでした。

 

いったいどうしてこのようなずれが生じていたのでしょうか。関心事が違っていたからです。彼らの関心は自分の目の前にある問題から救ってもらうことでしたが、イエスの関心はそうした問題も含めたすべての問題の根源である罪から救うことでした。このようなずれは当時の人々だけでなく現代の私たちにもよくあることです。私たちもイエスを信じていますが、私たちの思いとイエスが求めておられることがずれていることがあります。きっとそうであるに違いないと思いながら、実際のところかなりずれているということがあるのです。つまり、聖書が何と教えているかということよりも、自分はどう思うのか、他の人たちは何と言っているかが判断の基準になっていることが多いのです。もちろん、私たちはそうしたことにも耳を傾けますが。しかしそれ以上に聖書は何と言っているのか、神のみこころは何なのかということを、みことばそのものから受け止めなければなりません。そうでないと、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、どこかに吹き飛ばされてしまうことになります。

 

そこで主は、ご自分が語られたことの真意を繰り返して語られました。23節と24節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「23イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」

これは、15節と21節で語られたことの繰り返しです。主が同じことを繰り返して言われる時は、それがとても重要な教えであるということです。15節と21節では「わたしの戒めを守る人は」とありますが、ここでは「わたしのことばを守る人」と言い換えられています。これは同じことと考えて差し支えないでしょう。では、「わたしの戒め」とか、「わたしのことば」とは具体的に何を指しているのでしょうか。それは、広い意味では聖書全体を指していると言えます。聖書は神のことば、キリストのことばですから。しかし、このヨハネが言うところの「キリストの戒め」とは、この文脈から考えると13章34節でイエスが教えられたことではないかと思います。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)

神を愛するとは、具体的には兄弟姉妹を愛することです。神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することなどできないからです。神を愛するという人は、兄弟をも愛すべきです。つまり、この愛に生きるということ、これがイエスの新しい戒めであり、聖書が教えていることです。

 

あるとき、律法の専門家がイエスのところに来て、こう尋ねました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」するとイエスは彼に言われました。「37『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38 これが、重要な第一の戒めです。39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」」(マタイ22:37-40)

律法の中で、一番大切な戒めは何ですか。それは、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛することです。二番目に重要なのは何ですか。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」ということです。この二つの戒めに律法と預言者、つまり、聖書全体がかかっているのです。つまり、この分厚い聖書を要約すると、この二つの戒めにかかっていると言われたのです。神を愛し、隣人を愛することです。神を愛し、隣人を愛するなら、あなたは神のみことばに従っていると言えます。あなたが、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するなら、また、あなたの隣人をあなた自身のように愛するなら、あなたは、聖書のみことばに従っていると言えるのです。これがイエスを愛するということなのです。

 

そのような人には、どんな祝福が約束されていますか。23節の後半を見てください。ここには、「そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」とあります。すばらしい約束です。そうすれば、父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます。しかしこのところをよく見ると、ここには、「わたしたちは」とあります。「わたし」ではなく「わたしたち」です。複数形で書かれてあります。どういうことでしょうか?そうです、これは三位一体の神を表しているのです。父と子と聖霊の三位一体の神がその人のところに来て、その人とともに住んでくださいます。どのように?聖霊によってです。

 

しかし、イエスを愛さない人は、イエスのことばに従いません。弟子たちはどうでしたか。弟子たちはイエスを愛していたのでイエスに従いました。しかし、ユダヤ人たちはそうではありませんでした。ユダヤ人たちは、自分たちは神を信じていると言いました。自分たちは聖書の教師であり、聖書のことを何でも知っていると主張していましたが、実際にはその聖書の中心であるイエスを拒みました。イエスがなさった奇跡を歓迎しましたが、イエスが父と一つであると言われると、それを認めなかったばかりかイエスを憎み、十字架に掛けて殺してしまいました。彼らはイエスを愛しませんでした。イエスのことばに従わなかったのです。

 

皆さん、私たちは、信じない者にならないで信じる者になりましょう。愛さない者にならないで愛する者になりましょう。従わない者にならないで従う者となりましょう。いったいどうしたらできるのでしょうか。

 

Ⅲ.聖霊が助けてくださる(25-26)

 

それが第三のことです。すなわち、聖霊の助けによってということです。25節と26節をご覧ください。「25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

 

イエスは弟子たちと一緒にいる時、これらのことを何度も話されました。十字架のことも話しました。復活のことも話しました。でも霊的に鈍感な弟子たちは何回聞いてもよくわかりませんでした。その時はわかったような気がしても、次の瞬間にはすっかり忘れてしまったのです。右の耳から入ってすぐに左の耳から抜けて行くような感じです。何もそれは弟子たちだけではありません。私たちも同じです。すぐに忘れてしまいます。ちなみに皆さんは昨日の夜何を食べたか覚えていますか。ほとんど覚えていません。ひどいのになると、今食べたものさえ覚えていないことがあります。先日もありました。夕食の時、皿の上にあったものが何だったのか忘れてしまったことが・・。皿を指さして「あれっ、これって何だっけ」と聞きました。危ないですね。すぐに忘れてしまいます。だとしたら1か月前のこと、2か月前のことになるともうお手上げです。全く覚えていません。私はよく家内に、「あなたは35年前も同じことを言った」とか言われますが、35年前も前のことを覚えているのは奇跡です。昨日言ったことを忘れていて35年前のことを覚えているんですからすごいことです。私たちは本当に忘れっぽいです。何回聞いても忘れてしまいます。しかし、神はそんな私たちにすべてのことを教え、また思い起こすことができるように、聖霊を遣わしてくださいました。この方は、「助け主、すなわち、父がイエスの名によってお遣わしになる聖霊」とあります。本当にすぐに忘れてしまうような私たちが、イエスが教えてくださったことを思い起こすことができるように助けてくださるのです。

 

これを書いたのは弟子のヨハネです。彼は90歳を過ぎてからこれを書いたと言われています。もうよぼよぼのおじいちゃんですよ。でも記憶力は衰えていませんでした。彼は90歳になっても30年以上も前のことを思い出しながら書きました。イエスが初めからなされたこと、話されたこと、それらを全部思い出して書きました。でもそれは彼の記憶力が良かったからではありません。聖霊が特別に彼に働いて思い起こさせてくださったのです。彼の記憶力はだめです。全くだめというわけではなかったでしょうが、若い時のように覚えていることはできなかったでしょう。今話したことさえ「あれっ、何だっけ」となってしまいます。でも、聖霊が思い起こさせてくだったので書くことができました。

 

それはヨハネだけではありません。私たちも同じです。私たちも信仰を持つまでは聖書を読んでもチンプンカンプンでした。今もチンプンカンプンの時がありますが、それでも聖書のお話しを聞くとわかるようになりました。頭がいいからではありません。聖霊が助けてくださるからです。聖書は聖霊によって書かれたものですから、聖霊によらないと理解することができません。そして、私たちがイエス様を信じた瞬間、聖霊が私たちの内に住んでくださったので、罪について、義について、さばきについてわかるようになりました。この聖霊がすべてのことを教えてくださるのです。

 

ですから、日々の生活の中で困った時には祈ってください。聖霊があなたにすべてのことを教え、すべてのことを思い起こさせてくださいます。あなたは今、心が騒いでいますか。イエス様は何と言われましたか。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)

あなたの心は疲れていますか。イエス様のことばを思い出してください。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

あなたの心は渇いていませんか。イエスはこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)

このように、聖霊は私たちに神のことばを思い起こさせてくださいます。そしてあなたを慰め、あなたを励まし、あなたを助け、あなたを導いてくださいます。聖霊はあなたと共に、いや、あなたのうちにおられます。この助け主であられる聖霊によって、イエスのことばを思い出し、イエスのことばに従いましょう。イエスを愛する人はイエスに従います。主はそのような人にご自身を現わしてくださるのです。

ヨハネ14章12~17節「イエスを信じる者に与えられる約束」

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ヨハネの福音書14章からお話ししています。ここを4回に分けてお話ししたいと思いますが、今回はその2回目です。きょうは12節から17節までのところから、主イエスを信じる者に与えられる3つの約束について学びたいと思います。すなわち、第一に、イエスを信じる者はイエスが行うわざを行い、さらに大きなわざを行うということです。第二に、イエスは、イエスを信じる者の祈りに応えてくださるということです。そして第三のことは、イエスを信じる者には、もう一人の助け主、聖霊が与えられるということです。

 

Ⅰ.イエスが行うわざを行う(12)

 

まず、12節をご覧ください。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」

 

十字架につけられる前夜、もうすぐ彼らのもとを去って行くとイエスが言われると、どこに行くのかわからなかった弟子たちは不安になりました。そんな彼らにイエスは、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1)と言われました。なぜなら、父の家には住む所がたくさんあるからです。その場所を用意したら、また来て、彼らを迎えてくださいます。だから、何も恐れる必要はありません。イエスは、ルカ12:32でこのように言われました。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」まさにこれです。イエスを信じた者には御国が与えられているのです。ですから、どんなに小さな者であっても恐れることはありません。この世を越えた天国の視点で物事を見たら、神の平安が心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。何とすばらしい約束でしょうか。これほど大きな慰めはありません。それは永遠に変わることのない神の約束です。このような主のみことばに信頼して歩めることは、ほんとうに感謝なことです。

 

それだけではありません。きょうの箇所には、イエスが父のもとに行かれることによってさらに三つのことを与えてくださると約束しています。その一つがこれです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしのわざを行い、さらに大きなわざを行います。」どういうことでしょうか。

 

まず、ここにも「まことに、まことに」とあります。これはこれまで何回かお話ししてきたように、主イエスが大切なことを語られる時に使われた言葉です。何が大切なのかというと、ここではイエスを信じる者は、イエスのわざを行うとあります。イエスのわざとは何でしょうか。それは、イエスが成された奇跡の御業のことです。ここで奇跡と言っているのは、病気が癒されたり、悪霊が追い出されたり、死人が生き返ったりといったことだけでなく、神に背を向けていた人たちが、神を信じるようになることも含まれています。イエスが成された御業は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書に記録されてありますが、それは人にはできない神の奇跡的なわざでした。このヨハネの福音書には、イエスが神の子、救い主、メシアである証拠としての奇跡が7つ記されてあります。

 

まず2章には、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという奇跡を行いました。ユダヤの結婚式ではぶどう酒はお祝いの象徴であり、喜びの象徴でした。そのぶどう酒がなくなるということは絶対にあってはならないことでしたが、そのぶどう酒がなくなってしまいました。そのときイエスは、水をぶどう酒に変えたのです。

4章には、王室の役人の息子が病気で死にかかっていましたが、「あなたの息子は治る」と言われると、その通りになりました。

5章には、ベテスダの池の回りで38年も病気で伏せていた人に、「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言われると、彼は瞬間的に癒され、床を取り上げて歩き出すことができました。

6章には、5000人の給食の奇跡について記されてあります。5のパンと2匹の魚で、男だけで5000人の空腹を満たされました。しかも余ったパンくずを集めてみると、何と大かご12個にもなりました。

5番目の奇跡は、ガリラヤ湖の水の上を歩くという奇跡です。やはり6章にあります。弟子たちが舟でガリラヤ湖を渡っていたとき強風にあおられて進むことができないでいると、イエスが湖の上を歩いて弟子たちに近づかれたのです。しかも舟に近づかれると、イエスはそばを通り過ぎるおつもりであったとか。

さらに、9章に入ると、生まれつきの盲人の目を見えるようにされました。その方法がとてもユニークでした。地面につばきをして泥を作ると、それを盲人の目に塗り、「シロアムの池で洗いなさい」と言われました。盲人がそのとおりにすると、彼は見えるようになったのです。

そして、もう一つ、7番目の奇跡は、死んだラザロを生き返らせることでした。ラザロは死んでもう4日も経っていました。4日も経っていたというのは、完全に死んでいたということです。しかし、イエスはその死んでいたラザロを生き返らせました。

どれ一つとっても、それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。イエスはその神の子、メシア、救い主であるということを示すために、これらの御業を行われたのです。その御業を、今度はイエスを信じる者が行うようになるというのです。

 

それが実際に起こります。たとえば、使徒の働き3章を見ると、ペテロとヨハネが生まれつき足の不自由な人を癒したことが記されてあります。午後3時の祈りの時間に、彼らが宮に上って行くと、そこに生まれつき足の不自由な人が運ばれて来ました。この人は、宮に入ると、人々から施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる門に置いてもらっていましたが、そこにペテロとヨハネが通りかかったのです。彼は何かもらえるのではないかと思って、施しを求めました。すると、ペテロは彼を見てこう言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)

すると、彼の足とくるぶしがたちまち強くなり、躍り上がって立ち上がり、歩き出したのです。いったいなぜペテロはこのようなことをすることができたのでしょうか。ここに、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い」とある通りです。彼は自分の力とか、敬虔さとかによって歩けるようにしたのではありません。彼は、十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストの御名によって、その名を信じる信仰のゆえに、この人を強くし、立たせることができたのです(使徒3:12~16)。イエスを信じる者は、イエスが行うわざを行うのです。

 

しかし、そればかりではありません。ここには、さらに大きなわざを行うとあります。どういうことでしょうか。イエスを信じる者は、イエスが行うわざよりもさらに大きなわざを行うようになります。この「さらに大きなわざ」とは質的なことではなく、その影響力の及ぶ範囲のことを示しています。それはイエスの復活後、弟子たちの働きが、地上でイエスがなされた働きよりも広範囲に及ぶようになることを意味しているのです。なぜなら、イエスの地上生涯の活動範囲はパレスチナに限られていましたが、また、宣教の対象もユダヤ人に限られていましたが、イエスを信じる者はその救いの福音を異邦人世界にまで、全世界にまでもたらし、これまでイエスを知らなかった多くの人々にまで宣べ伝えていくようになるからです。今日世界中に福音が宣べ伝えられ、多くの人々が主イエスを信じるようになったのも、また、こうして私たちもイエスを信じるように導かれたのも、この主の約束の成就にほかなりません。

 

いったいどうしてこのようなことになるのでしょうか。その理由を、主はその後のところでこのように言っておられます。12節後半、「わたしが父のもとに行くからです」。どういうことですか。イエスが父のもとに行くとなぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは聖霊が降られるからです。聖霊が降り、彼らにそれを行う力を与えてくださるからなのです。使徒1:8をご覧ください。ここには、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とあります。

主イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを40日間使徒たちに示されると、彼らが見ている前で天に昇って行かれました。その直前に語られたのがこのことばです。それは、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けるということでした。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、及び地の果てまで、わたしの証人となります。

 

それから10日後、すなわち、イエスが十字架で死なれてから50日目に、このことばの通り聖霊が降りました。それはユダヤ教の五旬節の日、ギリシャ語ではペンテコステと言いますが、その日に起こりました。彼らが同じ場所に集まっていたとき、天から突然、激しい風が吹いて来たかのような響きが起こると、彼らが座っていた家全体に響き渡ったのです。また、炎のような分かれた舌が現れ、一人ひとりの上にとどまると、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のことばで話し始めました。いったい何が起こったのか。そこにいた人たちが驚き怪しんでいると、ペテロが立ち上がって説教しました。するとその日何と3000人の人が救われたのです。3000人ですよ。たった1回の説教で3000人もの人々が救われました。

さらに、先ほど紹介した生まれつき歩くことができなかった人が癒されたのを見た人たちが、ペテロの言葉を聞くと多くの人々がイエスを信じました。その数、男だけで5000人です。すると、徐々にエルサレムの教会に対する締め付けが厳しくなって行きました。そして、激しい迫害が起こると、使徒たち以外の者はみなユダヤとサマリアの諸地方に散らされて行ったのです。しかし、弟子たちはそこでも福音を宣べ伝えたので、福音はさらに広がって行きました。そして、使徒パウロが救われると、彼によって福音はマケドニア、ギリシャ、ローマへと、すなわち、ヨーロッパへと拡がって行きました。そして、やがて地の果てにまで及んだのです。

 

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖霊が降られたからです。聖霊が降り彼らに臨んだので、彼らは力を受けました。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、及び地の果てまで、キリストの証人となったのです。聖霊によって、この約束が実現しました。その聖霊はどのようにして降ったのでしょうか。イエスが父のもとに行くことによってです。イエスが父のもとに行かれたので、父は約束の聖霊を遣わしてくださいました。全部イエス様が言われたわれたとおりでした。

 

弟子たちはイエスが去って行くということで不安になっていましたが、イエスが去って行くことは彼らにとって良いことだったのです。なぜなら、イエスが去って行くことでイエスは彼らのために場所を用意してくださり、その用意が出来たらまた来て、彼らを迎えてくださるからです。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。そればかりではありません。イエスが父のもとに行くことで彼らの働きがストップしてしまうどころか、ますます大きくなって行のです。約束の聖霊が遣わされるからです。この方は16節に「もう一人の助け主」と言われていますが、この方の力によって爆発的な働きをするようになります。

 

ですから、私たちは心を騒がせてはなりません。私たちがすべきことは、信じることです。神を信じ、またイエスを信じなければなりません。信じるとは、信頼することです。それは単に頭で受け入れるということ以上のことです。それは人格的に、個人的にイエス様に信頼を寄せることです。イエスは「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。このことばに信頼しなければなりません。

ローマ8:28にはこうあります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」信じますか。すべてのことがともに働いて益となるのです。すべてのことです。今起こっているコロナウイルスの問題も、今あなたの生活に起こっている問題もすべてです。それは決して悲しいことではなく、そのこともまた主が支配しておられ、あなたのために働いて益となるということを信じなければならなりません。イエスを信じる者は、イエスが行うわざを行い、さらに大きなわざを行うようになるのです。

 

Ⅱ.イエスは祈りに応えてくださる(13-14)

 

第二に、イエスは、イエスを信じる者の祈りに応えてくださいます。13節と14節をご覧ください。「13またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」

 

イエスはここで、「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」と言われました。どういうことでしょうか。イエスが私たちの祈りに応えてくださるということです。しかも「何でも」です。すごいですね。何でもです。ただ一つだけ条件があります。それは、「わたしの名によって求めるなら」(13)ということです。このことは、14節にも繰り返して言われています。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。どういうことでしょうか。

 

ある人は、私たちは父なる神に対して信用のない罪人なので神はその祈りを聞いてくださらないが、イエスは神の子であり全く罪のない方なので、父なる神に対して完全な信用があるので、この方の名で祈るなら聞き入れていただけると考えていますが、そういうことではありません。イエスの名によって求めるとは、イエスのみこころに従って求めるということです。「名は体を表す」ということわざがあるように、名はその人の性格とか人格、その人自身を表す言葉だからです。すなわち、私たちの願いがイエス・キリストにふさわしい願いなのかどうか、イエス・キリストが望んでおられること、神が望んでおられることと一致しているのかどうかということです。もしそれが一致しているなら、どんなことでも聞いてくださいます。

 

Ⅰヨハネ5:14には、「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」とあります。神に対して私たちが抱いている確信は何ですか。それは、何事でも神のみこころにしたがって祈るなら、神は聞いてくださるということです。これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 

イスラエルの歴史において栄華を極めたのはソロモンという王でした。ソロモンはダビデの子です。イスラエルは、ダビデ王の時代に統一王国となりました。そして、その子ソロモンの時代に繁栄を迎えたわけですが、そのソロモンが王になったとき、神は彼に言われました。「あなたに何を与えようか。願え。」(Ⅰ列王記3:5)このように言われたらあなたなら何と答えるでしょうか。ソロモンは善悪を判断し、聞き分ける心をください、と言いました。それは、神のみこころにかなう願いだったので、神はその願いを聞いてくださったばかりか、彼が願わなかったことまで、すなわち、富とか誉も与えてくださいました。彼は自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、敵のいのちさえも願わず、むしろ自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、神は彼に知恵と判断力とともに、すべてのものを与えてくださったのです。これが「わたしの名によって求める」ということです。私たちがキリストの名によって求めるなら、キリストは何でもそれをしてくださいます。

 

どうして私たちがみこころにかなった願いをするなら、神は何でも聞いてくださるのでしょうか。13節後半にその理由が述べられています。それは、「父が子によって栄光をお受けになるためです。」神はすべての必要を満たすことができる方です。ですから、その祈りを御子が聞いてくださるとしたら、父がどれほど栄光に富んでおられる方であるかがわかります。そのことによって父は栄光をお受けになるのです。

 

ですから、私たちもキリストの名によって求めましょう。それがかなえられることで、父なる神が栄光をお受けになられるからです。あなたの願いは何ですか。それは神のみこころにかなったものでしょうか。それは神の栄光を求めたものでしょうか。人々の益になることでしょうか。もしあなたが神のみこころにかなった願いをするなら、神はどんなことでも聞いてくださるのです。

 

今、コロナウイルスで世界中が不安と混乱の中にありますが、アラスカの5歳の女の子がこのように祈りました。

愛するパパ神様 そこにいますよね? 「聞いている」ってママが言ったもの。わたしまだ小さいけど、今日はすみません、愛やオモチャのおねだりよりもっと大事なお願いをします。

今日はコロナウイルスの犠牲者のために祈ります。亡くなった人たちと残された人たちです。どうぞパパ神様。見守ってください。親を亡くした子供たちや、子どもを亡くしたお年寄りや家族1人2人亡くしたすべての人たちを、どうぞみんなを抱きしめてしっかり守ってください。

世界中の苦しんでいる人たちのために祈ります。みんなひとりぼっちで怖いのです。パパ神様 みんなを治してください。全てはじきによくなるって教えてあげてください。みんな、家で待ってる愛する人のもとに帰って、ハグをして、もう泣かないで済むように。

おうちのない人や、家族を養うお金のない人のために祈ります。どうぞ希望をなくさないよう祝福してあげてください。

命を救うために毎日できる全てをやって命の危険を冒しているお医者さんや、患者さんがよくなるのを助けるために休まずに働く看護師さんたちや、介助に全力を尽くす医療スタッフのために祈ります。パパ神様 皆さん 食べて休息をとるように促してください。

また、私たちが家の中にいて安全なように、日夜働いているお巡りさんのために祈ります。家にいる私たちのために外で働くので力をあげてください。この闘いで皆さんはスーパーヒーローです。皆さんを祝福してください。ヒーローになるのは大変なんです。パパ神様 この悪夢を止めるために一つになり互いに助け合うように導いてください。そうすれば皆、普通の生活に戻れます。そうすれば遠くにいた人もやっと家に戻り、家族と一緒になれます。

パパ神様 どうぞ世界を癒して、世界を救うために闘うすべての人を守ってください 希望は捨てません。あなたのみ名ですべてが良くなると信じていますから。アーメン。

 

何と純粋な祈りでしょうか。5歳の女の子です。彼女は神様をパパ神様と呼んで、愛にあふれた、思いやりのあるお祈りをしました。どうしてこんな祈りができるのでしょうか。神様は自分の祈りを聞いてくださると信じているからです。イエス様が、子どものようにならなければ、天の御国に入ることはできないと言われた意味が、分かるような気がします。

 

兵庫県尼崎市に、大橋秀夫という牧師先生がおられますが、今回のコロナウイルスの問題にあって、次のように祈られました。

今朝の祈り、愛する主よ。今朝も平安を感謝します。先日、世界の主にある兄弟姉妹たちと共にあなたが教えてくださった祈りを、共に捧げました。その時以来、言葉の一つ一つに込められている意味の深さを感じされられています。

まさに、御心が天で行われているように、地でも行われますように。私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください。主よ、これが私の毎日の祈りとなりました。今日も祈ります。御心が天で行われているように、地でも行われますように。私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください!

人は何と弱く、命は何と儚(はかな)いものでしょう。もしも、あなたを知ることがなかったら、私たちの一生は束の間に過ぎなかったのですね。

主よ。もう一度あなたに感謝を捧げます。アーメン。

 

これは、主が教えてくださった主の祈りです。これこそ、主の御名によって祈るということです。御心が天で行われるように、地でも行われますように。私たちを試みにあわせず、悪より救い出してください!「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」

私たちは、この約束を握りしめこのコロナウイルスの問題のために祈ろうではありませんか。それが私たちクリスチャンに与えられている使命です。キリストの名によって求めるなら、キリストは何でもしてくださいます。父が子によって栄光をお受けになるためです。これこそ、神に対する私たちの確信なのです。

 

Ⅲ.もう一人の助け主を与えてくださる(15-17)

 

第三のことは、もう一人の助け主を与えてくださるということです。15節から17節までをご覧ください。「15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」

 

私たちが主イエスの名によって求めるなら、主は何でもかなえてくださいます。ただし、そのために私たちに求められていることがあります。それは何ですか。それは、主イエスに対する愛です。ここには、「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」とあります。それを可能にするのはイエスに対する愛なのです。そして、イエスを愛する人は、イエスのことば、イエスの戒めを守ります。イエスを愛していると言いながら、そのことばを守らないとしたら、その愛とはいったいどのようなものなのか首をかしげたくなります。イエスを愛する者は、イエスの戒めを守るはずだからです。そうすれば、自ずと主のみこころにかなった祈りができるようになるでしょう。それは自分の名誉ではなく、ただ主の栄光を求める思いになるからです。

 

では、どうやって主イエスの戒めを守ることができるのでしょうか。16節にはこうあります。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

ここには、主イエスが父にお願いすると、父はもう一人の助け主を与えてくださるとあります。「助け主」とは、ギリシャ語で「パラクレートス」と言います。意味は、助けるためにそばに呼ばれた者とか、寄り添う者、慰める者、励ます者、助言してくれる者、弁護者です。Ⅰヨハネ2:1には、「とりなしてくださる方」と訳されています。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」この「とりなしてくださる方」がバラクレートスです。これはイエス様について語られていますが、その同じ語が、この「助け主」である聖霊について用いられているのです。ですから、ここでは「もう一人の助け主」と言われているのです。「もう一人の」という言葉はギリシャ語で「アッロス」という語ですが、これは「全く同じ性質の」という意味です。別々の存在ですが、イエスと全く同じ性質を持った方のことです。その方が来て、助けてくださいます。

 

私たちの人生には、「どうしたら良いか」わからなくて悩むことがよくあります。しかし、そんな時「これが道だ。これに歩め」と言って導いてくださる方がいたら、どれほど大きな助けでしょう。その方が「もう一人の助け主」です。この方は「真理の御霊」です。この方は先ほどお話ししたように、イエスが父のもとに行くことによって父なる神によって遣わされる方です。先ほどのところでは、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けますと、力の面が強調されていましたが、ここではそばにいて助けてくださる方、励ましてくださる方、導いてくださる方であることが強調されています。昔イスラエルの民がエジプトを出て荒野に導かれたとき、どこに向かって進んでいったら良いかわからなかったとき、昼は雲の柱、夜は火の柱となって彼らを導いてくださったのは、この聖霊でした。私たちの人生も荒野です。どこに向かって進んで行ったら良いかわからない時がありますが、この方がいつも私たちともにいて助けてくださいます。いや、私たちのうちにいて導いてくださいます。

 

この時弟子たちは、イエスが父もとに行かれると聞いて不安になり、心を騒がせていました。しかし、そのことはむしろ彼らにとって良いことでした。なぜなら、イエスが去って行くことで「もう一人の助け主」が遣わされ、その方がいつも彼らとともにいるようにしてくださるからです。そればかりか、彼らのうちに住んでくださいます。イエスは、大宣教命令の中で「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われましたが、これはこの御霊、聖霊によって可能となったのです。

 

私たちの神は「インマヌエル」の神です。「インマヌエル」、神ともにいまし、です。私たちの神は、いつまでもともにおられる方です。イエスを信じる人の心には、いつも聖霊が住んでくださり、神のみこころに歩めるように助けてくださるのです。私たちは本当に弱く、神の戒めを守ることもできないような者ですが、この聖霊が助けてくださり、イエスを愛することができるように励ましてくださるのです。そして、私たちにもこのような使命が与えられています。

 

昨日の朝、英語礼拝部の姉妹から電話がありました。2,3日前から体がだるく、起きるとめまいと吐き気がするので立っていることができないということでした。熱はないし、咳もしないので、コロナではないと思うけど、ただ事ではない感じがするので病院に行きたいがどこへ行ったらいいかわからないし、職場の担当者に電話したところ「ああ、今すぐに通訳者をみつけることはできない」と言われて困っているということでした。そこで、病院に電話し症状を伝えると、病院でもかなり警戒していて、受け付けると言うまで15分もかかりましたが、「診察するので来てください」と言われたので行くことになりました。でもこのような時期ですから、私たちも悩みました。もし私たちが感染でもしたらと思うと、二の足を踏んだのです。しかし、彼女の苦しみを聞いたとき、「私は何のために存在しているんだろう」と心が探られる思いでした。私がここにいるのは本当に助けを必要としている人に寄り添うためではないか、それなのに、それを恐れている自分が情けなく思ったのです。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」(Ⅰヨハネ4:18)

結局、家内が病院に行きいろいろと検査をしたところ、コロナではなく耳の奥に胆石のような石が出来ていることが原因であることがわかりました。しばらく投薬とリハビリを続けて治療することになりましたが、家内が一日中彼女に寄り添ってあげたことがよほどうれしかったのか、帰り際に涙を流しながら「ありがとう!」と言ったそうです。私にも後で、「今日は一日中自分のためにケアしてくれてありがとう。心から感謝します」とメールが来ましたが、彼女にとってどれほどの慰めだったかと思うのです。こういう時に、実際に役に立つのは家内ですが・・・。

 

寄り添ってくれる人がいるということは、本当に慰めです。そして、神はもう一人の助け主を送り、その方がいつまでも、私たちとともにいてくださるようにしてくださいました。イエスが地上から去って行かれることは、弟子たちにとって悲しいことであり、心を騒がせる事でした。しかし、たとえ主が去って行かれても恐れることはありません。イエスはあなたのために場所を備えに行かれたのですから。そして、イエスが去って行くことで、神はもうひとりの助け主を送ってくださいました。それは真理の御霊です。この方はいつまでも、あなたとともにいてくださいます。そしてイエスがおられた時のようなわざを、いや、さらに大きなわざを行うことができるようにしてくださいました。また、イエスの名によって求めるならば、何でも与えてくださいます。ですから、大切なことは、何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただくことです。そうすれば、あなたのすべての考えにまさる神の平安が、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。あなたに求められているのは、この方に信頼することです。神を信じ、またわたしを信じなさい。そう言われたイエスに信頼することなのです。

 

あなたはどうですか。恐れていることがありますか。それは健康のことですか、家族のことですか、仕事のことですか、人との関係のことですか、あるいは、この先どうなるかということでしょうか。それがどんなことであっても、キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すものは何もありません。あなたがイエスの名によって祈るなら、神は何でも聞いてくださいます。私たちの神は死んだ神ではありません。死から復活し、今も生きておられる神です。この方は、あなたの祈りに応えてくださいます。この方に信頼して祈りましょう。あなたのうちにはもう一人の助け主、神の聖霊がいつもともにいて助けてくださるのですから。

ヨハネの福音書14章1~11節「心を騒がせてはなりません」

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 ヨハネの福音書14章に入ります。きょうのタイトルは、「心を騒がせてはなりません」です。今もそうですが、私たちの人生には心を騒がせることばかりです。そんな中にあってどうしたら心騒がせずにいられるのでしょうか。主からのメッセージをご一緒に聞きましょう。

 

 Ⅰ.心を騒がしてはなりません(1-3)

 

まず、1節から3節までをご覧ください。

「1あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

 

最後の晩餐の席で、イスカリオテのユダはイエスからパン切れを受け取ると、すぐにその場を出て行きました。するとイエスは、「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。」(13:31)と言われました。なぜユダが出て行ったことが人の子にとっての栄光なのでしょうか。それは前回のところでお話ししたように、イエスが十字架で死なれるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、全人類を救うために神が計画しておられたことでした。それが今、成し遂げられようとしていたのです。それは父なる神にとっても同じです。イエスが十字架で死なれることによって、神がどのような方であるかがはっきりと示されることになります。つまり、十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に明らかになります。ですから、十字架は人の子が栄光を受け、神もまた人の子によって栄光を受けられる時なのです。

 

しかし、イエスがそのように言いますと、イエスは不思議なことを言われました。それは、13:33にあるように、イエスはもう少しの間彼らとともにいますが、その後いなくなり、彼らがイエスを捜しても見つけることができないということでした。彼らはそこに来ることができないからです。いったいそれはどういうことか。シモン・ペテロは弟子たちを代表してイエスに尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか」、「なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」するとイエスは彼にこう言われました。38節です。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

ペテロはイエスのためにいのちも捨てると言いましたが、そんなことできません。なぜなら、ペテロはイエスを裏切るようになるのですから。鶏が鳴く前に、彼は三度イエスを知らないと言うと預言されました。

これを聞いた弟子たちはますます不安になったことでしょう。これまで三年半の間ずっとイエスを信じてついて来たのに、いったいこれから先どうなってしまうのかと思うと心配でたまらなかったことと思います。

 

どんな人でも先が全く見えないと不安を感じるものです。この先どうなるのかが分かっていたら、だれも悩んだり、苦しんだりはしません。先が見えないからこそ不安になるのです。このような時、人はいろいろな方法で解決を模索します。ある人は、自暴自棄になりお酒などによって不安を紛らわそうとします。またある人は、考えても何の解決も見えないのだからできるだけ考えないようにしようとします。またある人は、それでも自分の力で何とか解決しようと必死になってもがきます。しかし、そこには何の解決もありません。なぜなら、そのようにして一時的に問題から逃れたとしても、依然としてそこに問題が残り続けるからです。ではどうしたら良いのでしょうか。どうしたら真の解決を得られるのでしょうか。神に信頼することです。神に信頼して、すべてを神にゆだねることなのです。なぜなら、神はすべてを支配しておられるお方だからです。その神を信じ、その神に避け所を求め、神によって解決を求めることです。そうすれば、問題それ自体と取り組んでも、自分の知恵や力によってではなく、全地全能の神の知恵と力によって解決をすることができるのです。

 

イエス様は、弟子たちが先行き不透明な中で不安に陥っていたとき、彼らにこのように言われました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1)

ここでイエスが言われた「心を騒がしてはなりません」という言葉は、このヨハネの福音書の中で何回も使われてきた言葉です。たとえば、11:33には、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、」とありますが、この「心を騒がせて」がそれです。不思議なことに、ここで心を騒がせていたのはだれかというと、イエス様ご自身でした。愛する姉妹マルタとマリアの兄弟ラザロが死んで、彼らが泣いているのをご覧になられたイエスは、霊に憤りを感じ、心を騒がせました。この言葉は「タラッセッソー」というギリシャ語ですが、「悩ます」という意味の言葉です。イエスは死を支配している悪霊と対決しようとして心を騒がせたのです。また、13:21でもこの言葉が使われています。「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。」とあります。ここでも心を騒がせたのはイエス様でした。イエス様は、ご自分を裏切る者がいることを語られると、心を騒がせられたのです。3年余り自分のすぐそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に自分を裏切る者がいるということは、どんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果永遠に滅びてしまうことを思うと、心を騒がせずにはいられなかったのです。

 

ここで「あなたがたは心を騒がせてはなりません」と言われたのは、イエス様ご自身です。それなのに、なぜイエス自身が心を騒がせたのでしょうか。そこに悪魔との戦いがあったからです。ラザロが死んだときは、死を支配している悪魔との戦いがありましたし、イスカリオテ・ユダの裏切りの背後にも、実は悪魔の働きがありました。確かにすべてのことが神のご支配にありますが、そうしたことの中には悪魔の働きがあるのです。ですから、私たちが心を騒がせる時というのは、そこに悪魔の力が働いている時なのです。どんな人でも悪魔が支配しているこの世にあっては、心を騒がせることで満ちているのです。

 

では、そのようなとき、私たちはどうしたら良いのでしょうか。ここには、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」とあります。自分が当面している問題の背後に悪魔の力を感じ、その悪魔と対決しなければならないとき、それを自分ひとりでしなければならないとしたら、不安で、心細くて、どうしようもないでしょう。しかし、この悪魔との戦いにおいて、主が私たちに代わって戦ってくださると信じ、この主に信頼し、主に身を寄せるなら、主が平安を与えてくださるのです。しかし、残念ながら、私たちがどんなにイエス様を信じているとは言っても、いざ現実の生活において問題に直面すると、そうした信仰はすぐにどこかへ吹っ飛んで行ってしまうのです。つまり、イエスを信じていない人と全く変わらない状態になってしまうのです。確かに、イエス様を信じて罪から救われ永遠のいのちが与えられていますが、この世にあっては不安と恐れに苛まれながら生きることになるのです。この時の弟子たちはそうでした。彼らもイエスを信じていました。しかし、そんな彼らに対してイエスは、「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われました。それは、私たちが心を騒がせるような時、このことを一層はっきりと自覚する必要があったからです。自分ではイエス様を信じ、イエス様に信頼していると思っていても、実のところそうでないことがあるということを。日ごろイエス様に信頼している人でも、もう一度この原点に立ち返るとき、心の中から不安が消えていきます。これこそあらゆる問題の解決の原点なのです。

 

では、どうして神を信じ、またイエスを信じるなら不安や恐れが消え去るのでしょうか。ここが大切なポイントです。その理由が2節にあります。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」

「わたしの父の家」とは神の国、天国のことです。イエス様は、「わたしの父の家には住むところがたくさんあります。」と言われました。そこに彼らのために場所を用意するために行かれると言われたのです。つまり、私たちが生きているこの世にあっては、そこは悪魔が支配している所である以上、心を騒がせなければならないことがたくさんありますが、それをこの世という視点で見るのではなく、この世を越えた視点、天国という視点で、また現在という時間を越えた永遠という視点で見るなら、今まで問題だと思っていたことが、全く問題ではなくなってしまうということです。不思議ですね。あれほどイライラしていた気持ちが、いざ天を見上げたとたんスーっと静まっていくのを感じることがあります。これが、イエスが教えてくださった解決です。天の御国を見よ・・・と。

 

お花の師匠さんから聞いたことですが、花を生けるときは、まず、天を決めるということです。天を決めてから、上下左右に、様々なバランスをとっていく、ということでした。これは、私たちの人生においても言えることではないでしょうか。まず天を決めるのです。そこから上下左右、様々なバランスをとってゆくなら、人生のすべてが神の平安で満たされるのです。

 

イエス様は、山上の説教の中でこのように言われました。「25ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:25-34)

イエス様は、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」と言われました。まず天を決める、まず神の国とその義とを第一に求める。これが真の解決です。

 

時として、私たちの心を騒がせる問題は、住宅の悩みから来ることがあります。住む場所が狭かったり、物を置くスペースが足りなかったり、家中が物で溢れている、自分の居場所がないなどです。ある住宅メーカーのアンケートによると、現在の住まいで不満に思う点の1位は何だったかというと、男女ともにこれでした。「収納が足りない」38%です。2位以下は「庭・ベランダが活用できていない」31%、「狭い」30%、「キッチンの使い勝手が悪い」29%、「間取りが暮らしに合わない」27%となっています(SUVACOユーザ調査概要)。しかし、天国には、住む所がたくさんあります。その場所を備えるために、イエス様は父のもとに行くと言われたのです。そこはどのような所でしょうか?そこは、何か功績があった人や、特別に主と教会のために尽くした人だけが入ることができる場所ではありません。そこは、今この世のことで心を騒がしているような信仰の弱い者でも、ひとたび主の十字架の血によって罪を贖っていただいた者であれば、だれでも入ることができる所です。そのことを知ったらどうでしょう。本当に平安が与えられるのではないでしょうか。それこそ、この世の平安ではありません。神の平安、天から与えられる平安です。

 

そして主は、さらにこう言われました。3節、「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

天国は、イエス様が私たちのために用意してくださる所であり、イエス様がともにおられる所です。どんなに天国が光り輝く所であり、快適な暮らしであったとしても、主がともにおられるのでなければ、私たちのたましいは、決して満足を得ることはできません。なぜなら、私たちのたましいは、場所や環境によって満足するものではなく、主イエスご自身がともにおられることによって与えられるものだからです。

 

イエス様は、この天国に行って、場所を用意したら、また来て、あなたがたを迎えてくださいます。これは、主がもう一度来られる再臨の時か、もしくは、私たちのこの世での人生が終わる時かのいずれかの時のことです。いずれにせよ、主は私たちをこの天の御国に導いてくださるために、もう一度来てくださいます。ですから、この世にあってどんな患難があっても恐れることはありません。心を騒がせてはならないのです。心を騒がせるようなことが起こったから、神を信じ、またイエスに信頼すればいいのです。これは、今、世界中の人たちが聞かなければならない聖書のみことばであり、神からのメッセージです。

 

Ⅱ.わたしが道であり、いのちであり、真理なのです(4-6)

 

次に、4節から6節までをご覧ください。

「4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 

イエスは、ご自分がどこに行かれるのかを、すでに繰り返して、弟子たちに語って来られました。ですから、弟子たちはそのことを知っていたはずですが、これを聞いた弟子の一人のトマスは、イエスにこう言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

 

霊的な真理を語られたイエスに、トマスは「これからどこに行けばいいのかわからない」と言いました。ことばが噛み合っていません。トマスという名前を聞くと、皆さんがすぐに思い浮かぶのは、疑い深い人ということではないでしょうか。ヨハネ20章を見ると、イエスが復活したとき彼は、イエスが復活したということを他の弟子たちから聞いても信じることができませんでした。そしてこう言いました。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。」(20:25)

随分現実的というか、疑い深い人ですね。そういうタイプの人がいます、というか、ほとんどの人がそうです。見ないと信じることができません。見ても信じない人もいます。ですから、トマスは私たちそのものなのです。イエス様が天国の話をしても、その意味を理解することができません。「主よ、どこに行ったらいいのですか。その道を教えてください。できれば地図に書いてもらえますか・・」。どちらかというと彼は、この世のことには長けていましたが、霊的なことには疎かったのです。

 

そこで、イエスはその道が何であるのかをはっきりと示されました。6節です。ご一緒に読みましょう。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

私たちはしばしば救いについて誤解し、どの宗教も結局最後に到達するのは同じ神様なのだから、何を信じても同じだと考えがちですが、そうではありません。イエスは、そのような考えをきっぱりと否定されました。そしてはっきりと、ご自分が道であり、真理であり、いのちであり、ご自分を通してでなければ、だれも父のもとに行くことはできないと言われたのです。このようなことを言うと、特に断定的な言い方を極端に嫌う日本人には、なんと排他的なんだろうと思われるかもしれませんが、イエスはこのようにはっきりと言われました。なぜイエスはこのように言われたのでしょうか。それは、ほんとうにイエスこそ道であり、真理であり、いのちであられる方だからです。

 

古来多くの人々が道について語ったり、示したりしてきました。また、真理について教えてきました。いのちに至る方法について説いてもきました。しかし、それらのものはすべて人間によって定められた道であり、真理であり、いのちにすぎません。しかし、イエスの場合はそうではなく、ご自身が道そのものであり、真理そのものであり、いのちそのものなのです。だから、このように宣言することができたのです。イエスが父なる神のみともに至る唯一の道であられるのは、イエスご自身が真理そのものであり、いのちそのものであられるからです。もっと別の言い方をするならば、イエス・キリストは神であられるということです。ですから、天地万物を造られた神のみもとに行こうと思うなら、この神が定めた方法でなければ行くことはできないのです。その方法とは何ですか?その方法とは、イエス・キリストです。神はご自身の御子イエスをこの世に遣わされ、この方によってご自分のところに来る道を用意されました。それが十字架と復活だったのです。

 

「御名を掲げて」という賛美は、このことを歌った賛美です。1989年、アメリカのリック・ファウンズによって書かれました。ファウンズは、朝の祈りの時に聖書を読みながらこの曲を作曲したと言われています。

御名をかかげて あなたをたたえます 救いのために あなたは来られた 救いの道を与えに 天よりくだり 来られた 十字架により いのちあがない よみがえられた

 

キリストは、私たちを罪から救うために天から来られました。それは十字架による罪の贖いと、三日目によみがえられることによって完成されました。これが、私たちが救われるために神が計画しておられたことだったのです。ですから、使徒たちはこのように宣言したのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)私たちが救われるべき名は、すなわち、私たちが天国に入れていただくためには、この御名を信じなければならないのです。

 

あなたはこの御名を信じましたか。信じて、罪を赦していただきましたか。神の子どもとされましたか。イエスが道であり、真理であり、いのちなのです。この方以外には、だれによっても救いはありません。このイエスの御名を信じて、天の御国に入れていただきましょう。そうすれば、あなたも天国の視点で物事を見ることができるようになり、すべての不安と恐れは消え去るのです。

 

Ⅲ.わたしを見た人は、父を見たのです(7-11)

 

最後に、7節から11節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。

「7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 

今度は別の弟子のピリポです。イエス様が、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」と言われると、その父を見せてくださいと言いました。そうすれば、満足しますと。おそらく、ピリポが想定したのは、かつてモーセが見たような神の栄光のことでしょう。神は霊ですから、肉眼で見ることはできません。ならば神の臨在の象徴である神の栄光を見せてくださいと言ったのです。そうすれば、満足します。そうすれば、確かに神がおられることを信じることができます。

 

私がイエス様を信じたのは18歳の時でした。今の妻に誘われて教会に導かれましたが、最初はなかなか信じることができませんでした。だって信仰って一生もんでしょう。そんな大切なことをそう簡単には決断できないと思ったのです。私にも将来がありました。前途が希望に満ちていました。その将来を輝かしいものとするために絶対に道を誤りたくないと思ったのです。ですから、当時通っていた教会の牧師に「イエス様を信じてください」と言われても、なかなか信じることができませんでした。でも教会に行き始めて半年くらい過ぎた頃、私はどちらの道に進むのかを決めなければならないと思いました。すなわち、イエス様を信じるのか、信じないのかということです。それで、ある晩布団に入った時ピリポのように祈りました。「主よ。私に父を見せてください。そうすれば満足します。」実際にこの眼で見たら信じられるのではないかと思ったのです。するとどうでしょう。障子越しに月の明かりが部屋の中を照らしました。まさにイエス様が現れるような雰囲気でした。私は心の中で祈り続けました。「イエス様、イエス様、今です。どうぞ来てください。ここに現われてください。」しかし、何分待っても現れませんでした。結局、残ったのは寝不足だけでした。よく考えてみたら、神は霊ですから、私たちが思っているような形で現れることはないのです。大切は見て信じるのではなく、見ないで信じることです。幸い、神はこんな肉にすぎない私に聖霊を通して信仰を与えてくださいました。そして、イエス様を信じますと告白した時から、実にたくさん、いろいろな時にご自身の栄光を見させてくださいました。特に、聖書のみことばを学ぶとき、そこにはっきりとご自身を現わしてくださいました。神は見ることができませんが、神を信じる者にご自身を見せてくださるのです。ですから、見ないと信じないというではなく、見ないでも信じる人は幸いです。見ないで信じる人に、主はご自身を見せてくださるからです。

 

そんなピリポに対して、主は何と言われましたか。9節から11節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。「9ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。10わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。11わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」

イエス様はピリポの質問に驚かれました。こんなに長い間、彼らと一緒にいたのに、イエスを知らなかったからです。彼らはイエスとともに長い間生活し、イエスの教えを聞き、イエスの奇跡を見、イエスの人格に触れました。それなのに彼らはイエスを知らなかったのです。もし知っていたのなら、「私たちに父を見せてください」とは言わなかったでしょう。なぜなら、イエスを見た者は、父を見たのだからです。

 

ヘブル書1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」とあります。イエスは神の栄光の輝きであり、また神の本質の完全な現われなのです。ですから、この方を見た者は、父を見たのと同じなのです。

 

あなたがたは、神が分からないと言っているけれども、すごく簡単でしょう。なぜなら、あなたが見ているこのわたしが、神を現わしているのだから。ほら、わたしを見てごらん。ここに神がいるんですよ、そうおっしゃっているのです。私たちは、自分の経験をとおして、自分なりの勝手な神概念を持っていますが、でも本当にあなたが神を見たいと思うなら、イエスを見なければなりません。なぜなら、イエスこそ神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れだからです。イエスを見るなら、神がどのような方かを、はっきり見ることができます。

 

最後にイエスは、「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」と言われました。

トマスやピリポのような人は、今でもたくさんいます。懐疑的で、自分の目で見なければ信じないという人たちです。でも、イエスを見る人は、父を見るのです。イエスこそ、道であり、真理であり、いのちです。天国に至る唯一の道なのです。この方を信じるなら、何を恐れたり、心配したりする必要があるでしょうか。この方は私たちを天の御国に導いてくださいます。私たちが信頼すべきお方、それは私たちの救い主イエス・キリストです。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われる主イエスに信頼し、先が見えないこの不透明な時代にあっても、天から与えられる希望と平安をもって歩ませていただこうではありませんか。

ヨハネの福音書20章1~18節 「なぜ泣いているのですか」

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イースターおめでとうございます。私たちは今日、特別の日を迎えました。イエス・キリストがよみがえられた日です。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られました。葬られたというのは、完全に死んだということです。しかし、キリストは聖書に書いてあるとおりに三日目に墓からよみがえられました。そして、それが事実であることを示すために、12人の弟子たちをはじめ、多くの人たちに現われてくださったのです。これが、最も大切なこととして聖書が私たちに教えていること、良い知らせ、福音です。今朝は、この復活のキリストについて、ヨハネの福音書から一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.見て、信じた(1-10)

 

まず、1節から10節までをご覧ください。1,2節をお読みします。

「1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」」

 

「週の初めの日」とは日曜日のことです。朝早くまだ薄暗いうちに、マグダラのマリアはイエスが葬られていた墓に行きました。他の福音書を見ると、他に2人の女たちが一緒であったことがわかります。彼女たちは、イエスが十字架につけられたときもずっと十字架のそばにいました。そして、イエスのからだが十字架につけられた場所の近くの墓に納められるのを確認すると、安息日が明けるのを待って墓に向かって行きました。いったいなぜ彼女たちは墓に行ったのでしょうか。マルコ16:1には、「イエスに油を塗りに行こうと思い」とあります。イエスが十字架で死なれた直後、イエスの身体には香料が塗られましたが、十分ではないと思ったのでしょう。その女たちの中で、ヨハネはマグダラのマリアにスポットを当てています。なぜ彼女にスポットを当てたのかはわかりません。おそらく、彼女はキリストと出会い、その人生が大きく変えられたからだと思います。

 

彼女は、かつて悲惨な人生を歩んでいました。ルカ8:2を見ると、彼女は七つの悪霊につかれていました。一つや二つではありません。七つです。尋常ではありません。そのため彼女は、非常に苦しい日々を過ごしていました。その彼女がイエス様によって悪霊を追い出してもらったのです。どれほどうれしかったことでしょう。彼女は悪霊から解放されるとイエスに従い、イエスに仕えました。彼女はだれよりもイエスを愛していました。というのは、だれよりも多く赦されたと感じていたからです。ルカの福音書7章には、イエスがパリサイ人シモンの家に招かれ食事をしたときのことが記されてあります。そこに一人の罪深い女が香油の入った石膏の壺を持ってイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐいました。そして、その足に口づけして香油を塗ったのです。その罪深い女とはこのマグダラのマリアでした。パリサイ人シモンはそれを見て、心の中でこう思っていました。「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるかを知っているはずだ。この女は罪深いのだから。」(ルカ7:39)すると、イエスはあの有名なたとえ話を語りました。500デナリを借りている人と50デナリを借りている人がいてどちらも返すことができなかったので、金貸しが二人とも借金を帳消しにしてやると、この二人のうちどちらが金貸しをより多く愛するようになるかという話でした。「より多く帳消しにしてもらった方だと思います」とシモンが答えると、イエスは彼に、「あなたの判断は正しい」と言われました。そして、彼女がこのようなことをしたのは、彼女の多くの罪が赦されたからだ、と言われたのです。なぜなら、多く赦された者は多く愛しますが、少ししか赦されない者は少ししか愛さないからです。すなわち、彼女は多く赦されたので、多く愛したのです。彼女は他の女たちと一緒に十字架でのイエスの死を最後まで見届けました。自分の愛する主が死んでしまったことで、彼女の心は悲しみで一杯でした。ですから彼女は、安息日が終わるやいなや墓に向かって行ったです。

 

墓に行ってみると、墓を塞いでいた大きな石が取りのけられているのを見ました。すると彼女は中を確認することもしないで、走って、シモン・ペテロとイエスが愛されたもう一人の弟子、これはこの福音書を書いているヨハネのことですが、彼らのところに行って、「だれかが墓から主を取って行きました」と告げました。彼女の頭の中にはイエスが復活したという考えはこれっぽっちもありませんでした。ふっかつの「ふ」の字もなかったのです。

 

3節から8節までをご覧ください。

「3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」

 

そこで、ペテロともう一人の弟子のヨハネは外に出て、急いで墓に行きました。二人は一緒に走りましたが、ヨハネの方がペテロよりも速かったので先に墓に着きました。ヨハネの方が若かったからでしょう。この時ヨハネは20代、ペテロは30代後半ぐらいだったと思われます。30代も後半になると。息が切れて早く走ることができなくなります。思っているように走れないのです。それで、ヨハネの方が先に着きました。ヨハネは墓に着くと身をかがめて中を見ましたが、中には入りませんでした。なぜでしょう。ヨハネはそういう性格だったからです。そういう人がいます。石橋をたたいて渡るような人です。世の中にはいろいろな人がいます。石橋をたたいて渡る人、石橋をたたいても渡らない人、石橋をたたかずともさっさと渡る人です。ヨハネは石橋をたたいて渡る人でした。慎重に行動するタイプだったのです。だから、亜麻布が置いてあるのが見えましたが、中には入らなかったのです。

 

一方ペテロはというと、石橋をたたかずとも渡る人でした。彼はヨハネよりも遅れて墓に着きましたが、墓に着くなりさっさと中に入って行きました。慎重なタイプの人と突進するタイプの人がいるとしたら、彼は突進するタイプの人でした。私みたいな人間です。ペテロを見ていると自分を見ているような気がします。闘牛のように突進していきます。彼が中に入って行くとどうでしょう。そこには亜麻布が置いてありましたが、不思議なことに、イエスの頭を包んでいた布とイエスのからだを包んでいた布が、離れたところに置いてありました。しかも、きちんと丸めてです。いったいこれはどういうことか。このような番組がありますね。様々なミステリー事件の真相を、手がかりをもとに解明していく推理バラエティーです。「誰が?」「なぜ?」「どのように犯行を行ったのか?」という情報を基に、事件の解決に挑戦していくのです。ここでは、墓の中に入ってみるとイエスのからだがなく、そこにあったのは亜麻布だけ。しかも、その亜麻布は頭を包んでいた布と、からだを包んでいた布が離れたところにあった。しかも、それぞれの布はちゃんと丸めてありました。いったいこれはどういうことか?もし誰かがイエスのからだを盗んで行ったとしたら、こんな手のこんだことをするでしょうか。しません。からだに巻かれていた布は、香料や没薬が染み付いてベトベトになっていたはずです。それをわざわざほどいて、しかも丁寧に丸めて置いておくようなことをする人はいません。ただそのまま運べば良かったのですから。しかし、イエスの頭を包んでいた布とからだを包んでいた布とは、離れたところに別々に置いてありました。そこにあるはずのイエスのからだだけが消えて無くなっていたのです。いったいこれはどういうことでしょうか?

 

8節をご覧ください。そのとき、先に墓に着いていたヨハネも中に入りました。そして、見て、信じました。いったい何を信じたのでしょうか。ヨハネはその状況をつぶさに見て、イエスがよみがえられたと信じたのです。確かにそこにイエスのからだがありませんでした。マグダラのマリアは、だれかが墓から主を取って行ったと言うけれども、現場の状況から見てあり得ないことです。だって、イエスの頭を包んでいた布とからだを包んでいた布が別々に、離れたところに置いてあったんですから。しかも、丁寧に丸めて。もしマリアが言うようにだれかがイエスのからだを盗んで行ったとしたら、そんな手の込んだことはしないでしょう。しかも、墓を見守っていた番兵たちもいないのです。墓を塞いでいた大きな石は脇に転がしてありました。これらの物的証拠を検証すれば、導かれる結論は一つしかありません。それは、イエスはよみがえられたということです。ヨハネは、それを見て、信じたのです。ただ感情的にそう思ったのではなく、一つ一つの証拠を見て、そのように判断したのです。

 

皆さん、私たちが何かを見るという時、いろいろな見方があります。たとえば、ただ何となく見るということがあります。その場合は、ぼんやり見ています。そのように見ながら、「あ、ここにマイクがある」「ここに講壇がある」と認識しているのです。しかし、もう一つの見方があります。それはじっと見るとか、注意深く見るということです。それがどんなものなのかを観察するわけです。ヨハネが見たのはこれでした。彼はただぼんやりと見たのではなく、注意深く見ました。マグダラのマリアは、イエスのからだが無いのを見てだれかが取って行ったと思いましたが、ヨハネはその状況を注意深く見て、そうではないと判断したのです。そして、イエスはよみがえられたと結論付けたのです。でも確かなことはまだわかりません。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを、まだ理解していなかったからです。

 

Ⅱ.なぜ泣いているのですか(11-16)

 

一方、マリアはどうだったでしょうか。11節から16節までをご覧ください。

「11一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。」

ペテロとヨハネは、自分たちのところに帰って行きました。彼らはイエスがよみがえらなければならないという聖書のことばを、まだ理解していませんでした。一方、マグダラのマリアは墓の外にたたずんで泣いていました。彼女がどれだけイエスを思っていたのか、愛していたのかがわかります。愛する方が亡くなり、そのからだがないのです。いったいどこに行ってしまったのか。帰ろうにも帰れません。帰りたくない。そして泣きながら、からだをかがめて墓の中を覗き込んだのです。すると、イエスのからだが置かれてあった場所に、白い衣を着た二人の御使いが座っていました。一人は頭のところに、もう一人は足のところに。彼らはマリアに言いました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」普通だったらその光景に驚いて「これは夢か幻か、あなたはだれですか。これは現実ですか」とか言ってもおかしくなかったでしょうが、彼女にとって天使なんてどうでも良いことでした。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわかりません。」(13)と、主のからだが無いという状況にただうろたえるばかりでした。

 

そのときです。彼女がこう言ってうしろを振り向くと、そこにイエスが立っているのを見ました。しかし、彼女にはそれがイエスであることがわかりませんでした。もしかすると、朝早かったので寝ぼけていたのかもしれません。あるいは、入口の方が明るくて、立っている人が黒く見えたのかもしれません。いや、涙で目が曇っていてはっきり見えなかったのでしょう。ただ一つはっきりと言えることは、彼女の悲しみは、そこにいる人がだれであるのかがわからないほどのものであったということです。

 

それで、イエスは彼女に言われました。15節です。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」イエスは決してマリアが泣いている理由がわからなかったわけではありません。イエスはマリアの気持ちを全部ご存知の上でこのように言われたのです。

 

マリアは、イエスのからだがだれかに盗まれたと思っていました。それで悲しんでいたのです。しかし、今は悲しむ時ではありません。今は喜ぶ時です。なぜなら、その主イエスがここにいるからです。主はよみがえりました。それなのに、なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。彼女が捜していたのは死んだイエスのからだでした。しかし、イエスはよみがえられたのです。よみがえられて、今、あなたの目の前に立っています。なぜ泣いているのですか。彼女はイエスが目の前に立っているにもかかわらず、イエスが復活したことを認めることができず、そこにいるのは園の管理人だと思っていたのでずっと泣いていたのです。そして、その人にこう言いました。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのかを教えてください。私が引き取ります。」

おじさん、頼みます。教えてください。あなたじゃないんですか、主のおからだを運び去ったのは・・。彼女の目は涙で曇っていたので、はっきり見ることができませんでした。

 

しかし、そんな彼女の目が開かれる時がやって来ます。それは、イエスが彼女の名前を呼ばれた時です。16節、「イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、へブル語で「ラボに。」、すなわち「先生」とイエスに言った。」

 

イエスは彼女の名前を呼ばれました。ヨハネ10:3には、「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」とあります。良い牧者は羊たちの名前を呼んで連れ出しますが、羊たちはその声を知っているのです。

先日、久しぶりに下の娘が家に戻りました。いつも忙しくてなかなか戻って来ないのですが、久しぶりに3~4日ゆっくりしていきました。しかし、今回は一人ではありませんでした。チワワという愛犬を連れて来たのです。名前は「ラブ」です。それがなかなかかわいいのです。でも「ラブ」なんて呼びたくなかったので、「チワ」と呼んだら全然反応してくれないのです。「チワ、こっちおいで。頼むから」と言っても来ない。でも娘が「ラブ」と呼ぶと、しっぽをふって喜んでついて行きます。どこまでも。トイレに行く時にもリビングから出ないようにドアを閉めると、「クーン、クーン」と泣くのです。娘を愛しているのです。そっちの主人よりも、こっちの主人の方がいいよ、と言っても見向きもしません。娘の話ではうるさい人は嫌いだそうで、かえって脅えるというのです。だから、静かに「チワちゃん」で呼んでみましたが、やはりだめでした。チワワは、主人の声を知っていたのです。同じように、羊たちは、牧者の声を聞き分けます。イエス様が「マリア」と呼ばれると、彼女はそれがイエス様だとすぐにわかりました。それで、「ラボニ」、すなわち「先生」と言ったのです。イエス様がマリアの名前を呼ばれたとき、マリアの心の眼が開かれたのです。当時、「マリア」という名前の人はたくさんいました。この朝イエスの墓に一緒に行ったのも、もう一人のマリアと一緒でした。ヤコブの母マリアですね。ですから、当時マリアという名前の人はたくさんいましたが、マグダラのマリアは「マリア」と呼ばれたとき、彼女はそれがイエス様だとすぐに気付いたのです。

 

イエス様はマリアの名前を呼ばれたように、あなたの名前も呼んでくださいます。私は時々イエス様が自分の名前を呼ばれる時のことを想像することがあります。「トミオ→」「トミオ↑」「トミオ↓」「トミオ 」イントネーションによって受け止め方も全然違いますね。きっとマリアを呼ばれた時は、優しく呼ばれたことでしょう。「マリア」。主は、私たちの名前も優しく呼んでくださいます。それによってどれほど慰められることでしょうか。どれほど勇気づけられることか。イザヤ42:1~5にこうあります。

「1 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。3 わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」(イザヤ43:1-5a)

あなたを創造され、あなたを形造られた主があなたの名前を呼び、「恐れるな」と言ってくださいます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と言ってくださる。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言ってくださるのです。私たちの人生には悲しみで涙するようなことがどれほどあるでしょう。しかし、私たちの救い主イエス・キリストは死からよみがえられ、あなたの名前を呼んでくださるのです。この主の御声を聞きながら歩めることはどんなに感謝なことでしょうか。

 

Ⅲ.すがりついてはいけません(17-18)

 

最後に、17節と18節を見て終わります。

「17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。」

 

マリアは、自分の名前を呼ばれるとそれがイエスであることがわかり、うれしくて、うれしくて、イエス様にすがりつこうとしました。するとイエスは言われました。「わたしにすがりついてはいけません」触れると汚れてしまうからではありません。事実、この後でイエス様は疑い深いトマスにご自身を現されたとき、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」(27)と言っています。ですから、触れることが問題ではなかったのです。では何が問題だったのかというと、イエスがまだ父のもとに上っていなかったということです。父のもとに上って行かないと、神との和解が成立しないからです。天に上り、父なる神の右の座に着かれることによって、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれ、よみがえられたことが本当であることが証明されるのです。どうしてそれで召命されるのかというと、イエスが約束された聖霊が来られるからです。約束の聖霊が遣わされることによって、確かにイエスは罪の赦しのために十字架で死なれ、その死の中からよみがえられたということがわかるのです。つまり、イエスは確かに救いの御業を完成したことがわかるのです。ですから、イエス様は17節でこう言われたのです。

「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

 

このようにして、マグダラのマリアは、復活の最初の目撃者として弟子たちのところに遣わされました。イエス様が復活して最初にご自身を現されたのは、このマグダラのマリアだったのです。それは一番弟子のペテロでも、イエスに愛された弟子のヨハネでもなく、ましてや、イエス様を十字架につけた祭司長や律法学者たちでもなく、たった一人の罪深い女性、マグダラのマリアにご自身を現されたのです。イエスに敵対する者は、復活したイエスを見ることができませんでしたが、ただイエス様を心から愛する者にご自身を現されたのです。主の復活を見たのは、主を愛する者だけだったのです。

 

ヨハネ14:18~21を開いてください。ここには、「18わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」」とあります。イエス様は、ご自身を愛する者にご自身を現してくださるのです。

 

マグダラのマリアは、イエスを失い、深い悲しみの中に沈んでいました。しかし、イエスが彼女に現われてくださいました。そのことがわかったとき、彼女の悲しみは飛び上がるほどの喜びに変えられました。当の本人は、イエス様が目の前にいるにもかかわらず、それがイエス様だとわかりませんでした。涙で心の目が曇っていたからです。しかし、イエス様に名前を呼ばれたとき、それがイエス様だとはっきりわかりました。

 

皆さんはどうですか。マリアが深い悲しみで涙していたように、不安や悲しみに押しつぶされてはいないでしょうか。でも、イエス様はよみがえられました。そして、こう言われます。

「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」

主は、あなたの名前を呼ばれます。イエス様は復活して、あなたのうしろに立っておられるのです。あなたがこの復活の主イエスを信じ、主があなたとともにおられることを信じるなら、確かに不安や恐れはあるでしょうが、主がその涙をすっかり拭ってくださいます。なぜなら、キリストは死からよみがえられたからです。主はあなたを捨てて、孤児とはしません。もはやあなたは1人ではありません。復活したイエス・キリストがいつまでもあなたとともにおられます。このことがわかれば、どのような問題も、どのような困難も、どのような悲しみも必ず乗り越えることができます。

今、国中が、いや全世界がコロナウイルスの脅威にさらされています。現状を見れば恐れ以外の何ものでもないでしょう。しかし、復活された主を見るなら、そこに希望を見いだすことができます。なぜなら、そこに真の解決があるからです。いずれ、この感染症も終息するでしょう。しかし、それは最終的な解決と希望ではありません。なぜなら、もっと困難な時代を迎えることになるからです。しかし、クリスチャンにとってどんなに困難な時代がやって来ても、恐れる必要はありません。最終的な希望がどこにあるのかを知っているからです。それはキリストの再臨です。イエス様は、ルカ21:28でこう言われました。

「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」

「これらのこと」とは、終末に起こるしるしのことです。これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなければなりません。あなたがたの贖いが近づいているのですから。ですから、これらのことは、クリスチャンにとっては贖いが近づいているしるしなのです。それは救いの完成の時であり、クリスチャンにとっての希望の時です。その時が近づいているのです。最終的な希望がどこにあるのかを聖書から教えられ今を生きることができるというのは、何と幸いなことでしょうか。そこに希望を持つことができるからです。キリストはそのためによみがえられました。永遠のいのちが与えられている私たちは、この困難の先にある再臨の希望を確信して生きることができるのです。

沖縄にある「オリブ山病院」の理事長で、読谷(よみたん)バプテスト伝道所の牧師である田頭真一(たがみ・しんいち)先生は、このように言っておられます。「最大の問題は新型コロナウイルスで死ぬことではなく、イエス・キリストを知らずして死ぬことです。最大の希望は感染が終息することではなく、再臨のイエス・キリストをお迎えすることなのです。」アーメン。

「なぜ泣いているのですか」「だれを捜しているのですか」主はよみがえられました。あなたの名を呼んでおられます。その御声を聞き、主があなたと共におられることを信じてください。あなたもこの希望に生きることができますように。