きょうは、ルツ記3章から学びます。まず1節から5節までをご覧ください。
Ⅰ.ルツの従順(1-5)
「姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。あなたが一緒にいた若い女たちの主人ボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。けれども、あの方が食べたり飲んだりし終わるまでは、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その場所を見届け、後で入って行ってその足もとをまくり、そこで寝なさい。あの方はあなたがすべきことを教えてくれるでしょう。」ルツは姑に言った。「おっしゃることは、みないたします。」
ルツの大きな決断によって、ナオミはルツと一緒にベツレヘムに帰って来ました。すると彼女はナオミに「畑に行かせてください」と言って、落ち穂拾いに出かけて行くと、はからずも、そこはエリメレク一族に属するボアズの畑でした。ボアズは、ルツが大きな決断をしてベツレヘムまでやって来たこと、そこで大きな犠牲を払って落ち穂拾いをしていることに同情して彼女に慰めのことばをかけ、彼女に落ち穂をたくさん与えるように取り計らってくれました。こうしてナオミとルツは、なんとか食いつなぐことができたのです。
そんなある日、姑のナオミはルツに言いました。からだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行くように・・と。それはボアズのところでした。そこでボアズが寝るとき、その場所を見届け、後で入って行って一緒に寝るためです。当時、麦打ち場は戸外にあったため、収穫された麦が盗まれないように、主人か雇人が寝泊まりして番をしていました。ナオミは、そのことを知っていたのです。
それにしてもナオミは、どうしてこのようなことを言ったのでしょうか。1節には、「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。」とあります。ナオミは、ルツとボアズが結婚できるように取り計らっているのです。ナオミは、ルツが自分について来たとき、彼女が再婚する見込みはないと思っていましたが、彼女がボアズの畑に導かれたことを聞いて、しかもボアズは買戻しの権利のある親戚の一人であることがわかると、ボアズと結婚することができると思ったのです。
このナオミの助言に対して、ルツはどのように応答したでしょうか。彼女は、「おっしゃることは、みないたします。」とナオミの助言を受け入れ、従順に従いました。彼女のこの従順が、後に大きな祝福を生むことになります。やがて彼女はボアズと結婚することで、オベデという子どもが生まれ、そのオベデからエッサイが生まれ、エッサイからあのダビデが生まれます。ダビデは、イスラエルの王になる人物で、イエス・キリストの先祖となる人物です。このルツとボアズから、やがて全世界の救い主イエス・キリストが誕生するのです。そういう意味で、この時のルツの従順がどれほど大きなものであったかが分かります。
そして、このルツの従順は、後にイエスが生まれる時に天使から受胎告知を受けた時のマリヤを思い出させます。マリヤは御使いガブリエルから、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(ルカ1:31)と告げられた時、まだ男の人を知らない身、処女であったにもかかわらず、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(同1:38)と言いました。その結果、全く罪のない神の子キリストがこの世に誕生することになったのです。
このように従順は大きな祝福をもちらします。あなたはどうですか。神の言葉に対して従順でしょうか。そして、主に用いられる器になっているでしょうか。あなたも、みこころがこの身になりますようにと、祈りましょう。
Ⅱ.御翼の陰に(6-13)
こうして、彼女が打ち場に下って行くと、どういうことになったでしょうか。6節から13節までをご覧ください。
「こうして、彼女は打ち場に下って行き、姑が命じたことをすべて行った。ボアズは食べたり飲んだりして、気分が良くなり、積み重ねてある麦の傍らに行って寝た。彼女はこっそりと行って、ボアズの足もとをまくり、そこに寝た。夜中になって、その人は驚いて起き直った。見ると、一人の女の人が自分の足もとに寝ていた。彼は言った。「あなたはだれだ。」彼女は言った。「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。」
ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。娘さん、もう恐れる必要はありません。あなたが言うことはすべてしてあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っています。ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類ですが、私よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類がいます。今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、それでよいでしょう。その人に親類の役目を果たしてもらいましょう。もし、その人が親類の役目を果たすことを望まないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられます。さあ、朝までお休みなさい。」
彼女は、打ち場に下って行くと、姑が命じたことをすべて行いました。ボアズは食べたり飲んだりして、気分が良くなり、積み重ねてあった麦の傍らに行って寝ると、一人の女が自分の足もとにいるのを見てびっくり!彼は驚いて起き直り、「あなたはだれだ」と言うと、「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。」という声が聞こえました。「覆い」と訳されている言葉は、衣の「裾」のことで、直訳すると「翼」です。かつてボアズはルツに、「主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(2:12)と言いましたが、ルツは彼こそ主から与えられた避けどころであると信じて、その大きな翼の下に身を寄せようとしたのです。
今日でも、ユダヤ教の結婚式では、このような習慣があります。新郎はタリートと呼ばれる裾で花嫁の頭を覆います。これは新郎が花嫁を受け入れ、生涯彼女を守るという決意を示す象徴的行為です。ですからこれは、ボアズを性的に誘惑したのではなく、結婚のプロポースのしきたりでもあったのです。
ルツは、ボアズの買い戻しの権利に訴えました。これは2章にもありましたが、申命記25章5~10節にある律法の定めです。それは、人が子を残さずに死んだ場合は、買戻しの権利のある者がその妻をめとり、死んだ者の名を残すようにと定められたものです。ルツの夫マフロンは、子を残さないまま死にました。つまり、ルツにはボアズに買戻しを要求する権利があったのです。彼女は、自分がボアズと結婚するようなことなどとてもできないと思っていました。そんな値打ちなどないことは十分分かっていたのです。しかし、ルツは神のことばをしっかりと握っていました。神が、買い戻しの権利があると言われたのですから、自分はそれを求めることができると信じたのです。
それに対して、ボアズはどのように応えたでしょうか。ボアズは、「主があなたを祝福されるように」と答えています。それは、ルツが尽くした誠実さが、先の誠実さにまさっているからです。どういうことでしょうか。これは、ルツがナオミに対して尽くした誠実にまさって、今また結婚について誠実を尽くしているということです。ボアズはルツを「娘さん」と呼んでいますから、父と娘ぐらいの年が離れていたのではないかと考えられています。けれども、ルツは若い男たちの後を追いかけたりせず、神の律法を重んじて、買い戻しの権利があるボアズにプロポーズしたのです。
ボアズという名前には、「彼には力が宿る」という意味があります。その名のとおり、彼はは裕福な資産家であり、気力、体力ともに充実した人でした。しかし、彼が人格者として数えられた最大の理由は、彼が律法に精通していた人物であったということでしょう。それは、2章1節で「有力な」という言葉を説明したとおりです。とはいえ、彼がどんなに人格者であったとは言っても、40歳の若い女性が80歳のお爺ちゃんと結婚したいと思うでしょうか。遺産でも目当てでなければ考えられないことです。しかしルツはそんなボアズにプロポーズしました。それはそうしたボアズの人柄と立場というものを理解した上で、ルツが誠実を尽くしたいと思ったからです。
とはいえ、ボアズは感情で走る男性ではありませんでした。すべてが公明正大に行われるようにと計画を練ります。もし買戻しの権利のある人で優先権のある親類がいて、その人が買い戻したいというのであればそれでよし、でもその人が親類の義務を果たしたくないというのであれば、自分が彼女を買い戻すと申し出たのです。つまり、彼はすべてを主の御手にゆだねたのです。なかなかできることではありません。自分の気に入った女性がいて、その人から求婚されたのであれば、もう天にも昇るような気分なって、「O.Kそうしましょう!」と即答したいところですが、彼はそのように自分の感情に流されることはありませんでした。ここに、信仰者としてのボアズの誠実な姿が表れています。ボアズはルツに優しい言葉をかけ、朝まで彼女をそこで休ませました。
あなたがボアズだったらどうしますか。どのような行動を取ったでしょうか。あなたは主に信頼して待つことができますか。それとも、できずに自分から動いてしまうでしょうか。待つことは、信仰の重要な要素です。主の言葉に信頼し、忍耐して待つ者となりましょう。
Ⅲ.すべてを主にゆだねて(14-18)
その結果、どうなったでしょうか。14節から18節までをご覧ください。
「ルツは朝まで彼の足もとで寝て、だれかれの見分けがつかないうちに起きた。彼は「打ち場に彼女が来たことが知られてはならない」と思い、 「あなたが着ている上着を持って、それをしっかりつかんでいなさい」と言った。彼女がそれをしっかりつかむと、彼は大麦六杯を量り、それを彼女に背負わせた。それから、彼は町へ行った。彼女が姑のところに行くと、姑は尋ねた。「娘よ、どうでしたか。」ルツは、その人が自分にしてくれたことをすべて姑に告げて、こう言った。「あなたの姑のところに手ぶらで帰ってはならないと言って、あの方はこの大麦六杯を下さいました。」姑は言った。「娘よ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい。あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから。」
ボアズは本当に誠実な人です。妙なうわさが立つことを恐れた彼は、夜明け前の早いうちに起きて、ルツを自分の家に送り返します。そればかりでなく彼は、大麦6杯を量り、それを彼女に背負わせたのです。
彼女が姑のところに着くと、早速、姑から尋ねられました。「どうでしたか」そこでルツは、ボアズがしてくれたことをすべて姑に告げました。すると姑は、「娘よ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい。あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから。」(16)と助言しました。ボアズは、「朝になって」(13)、また、「あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから」とあるように、ルツと彼女の土地を買い戻すために、すぐに行動を起こします。実にボアズはルツにとって愛すべき、信頼に足る人でした。
そして、このボアズの姿はイエス・キリストの姿を表していました。ボアズがルツを買い戻すために行動を起こしたように、イエス様は私たちを買い戻すために、十字架の上で贖いとなってくださいました。
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」(Ⅰテモテ2:6)
キリストこそ私たちの愛すべき方、信頼に足るお方であり、私たちを買い戻すためにすぐに実行に移される方、いや、すでに実行に移してくださいました。
私たちは自分の努力や頑張りではどうしようもないことがあります。でも、このことを覚えておいてください。主は、あなたのために働いてくださる方であるということを。自分の成すべきことをしたなら、あとは主にすべてをゆだねましょう。待つことは決して簡単なことではありませんが、神の御業を待たなければなりません。ルツのように、座って待つという信仰がるなら、私たちの魂は平安で満たされるだけでなく、次の展開に向けて大きく動き出すことでしょう。