エレミヤ2章20~37節「もうどうにもとまらない」

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 エレミヤ書から学んでいます。今日は、2章20~37節からお話します。タイトルは、「もうどうにも止まらない」です。エレミヤは2章において、背信のイスラエルの姿をいろいろな比喩を用いて表してきました。その一つが不誠実な妻の姿であり、また、壊れた水溜であり、売られた奴隷の姿でした。そして、ここからさらに痛々しいくらい、彼らの背信の姿を、次から次に語ります。もうどうにもとまりません。

 Ⅰ.もうどうにもとまらない(20-25)

 まず、20~25節までをご覧ください。「20 実に、遠い昔にあなたは自分のくびきを砕き、自分のかせを打ち砕いて、「私は仕えない」と言った。まさしく、あなたはすべての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っている。21 わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。22 たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。-神である主のことば-23 どうしてあなたは、「私は汚れていない。バアルの神々に従わなかった」と言えるのか。谷の中でのあなたの行いを省み、自分が何をしたかを知れ。あなたは、あちらこちら道を走り回るすばやい雌のらくだ。24 また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。25 裸足にならないように、喉が渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。」

 20節に「くびき」とか「かせ」とありますが、これは、神から与えられた律法のことです。かつてイスラエルは神と契約を結びました。もし彼らが神の声に聴き従い、神の契約を守るなら、彼らはあらゆる民族の中にあって神の民となると。その律法のことです。結婚関係でいうと誓約ですね。でも彼らはそれを砕いて、すべての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っていました。「すべての高い丘」とか「青々と茂る木の下」とは、偶像礼拝が行われていた場所です。そこで彼らは寝そべって淫行を行っていたのです。実際的、霊的に姦淫を行っていました。

主イエスはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

イエス様は、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われました。しかし、そのくびきを負いたくないのです。イエス様のくびきは負いやすく、その荷は軽いのに、「私は仕えない」、「ヤダモン!」と言って、神に反抗したのです。

 私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私たちイエス様を信じてイエス様と一つに結ばれたのにもされたにもかかわらず、私は好きなように生きたい、束縛されたくないと言って、くびきを砕き、かせを打ち砕いていることがあります。キリストを信じるとは、キリストの死と復活に一つにされること、すなわち、キリストを人生の主として生きることであるということを、しっかりと受け止めたいと思います。

 21節をご覧ください。「わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。」

 次は質の悪いぶどうのたとえです。彼らは純粋で良質のぶどうとして植えられたのに、質の悪いぶどうに変わってしまいました。それは神の期待を全く裏切るようなものでした。神はどれほど悲しまれたでしょうか。イザヤ書5章1~4節には、その神の嘆きが語られています。

「1 「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。2 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。3 今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。4 わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。」

神はよく肥えた山腹にぶどう園を持っていて、苦労してそこを掘り起こし、石を取り除いたりして良いぶどうを植え、それはせかりか、その中にやぐらを立て、ぶどうの踏み場まで掘って、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、ところが、何と酸いぶどうが出来てしまいました。本来は甘い良い実が出来るはずなのに、酸いぶどうが出来てしまったのです。あなたはどのような実でしょうか。

 22節には、もう一つのたとえが描かれています。それは何をもっても拭うことができない垢、汚れです。「たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。」

 「重曹」という語は、第三版訳と口語訳では「タンサン」と訳しています。炭酸水素ナトリウムのことです。簡単に言うと、万能お掃除グッズです。クエン酸と一緒に使うと汚れを落としピカピカにすることができます。電気ケトルを洗う時などは、このクエン酸を使うとよく落ちるそうですが、私はやったことはありません。しかし、その重曹であなたのからだを洗っても、あなたの垢を落とすことはできません。それはあなたのからだにこってりとこびりついているので、どんな洗剤を使っても落とすことができないのです。たくさんの「灰汁」を使っても同じです。「灰汁」とは植物質のアルカリのことです。その灰汁を使っても、あなたの咎は汚れたままなのです。つまり、どんなに強い洗剤を使っても、あなたの罪の染みは取れないということです。アタックを使ってもだめです。アリエールでもあり得ません。どんな重曹を使っても、どんな灰汁を使っても、あなたのがんこな汚れ、あなたの罪の染みは抜けないのです。

 では、どうしたらいいのでしょうか。どうしたら罪の汚れを落とすことができるのでしょうか。それはただイエス・キリストの十字架の血潮によります。1ヨハネ1章7~9節にこうあります。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。どんなガンコな汚れでも洗い清めることができるのです。すばらしいですね。これが聖書を通して神が私たちに約束しておられることです。御子イエスの血がすべての罪をきよめてくださいます。キリストの血潮できよめられない汚れはありません。キリストの血は、すべての悪からあなたをきよめてくださるのです。

イザヤ1章18節にはこうあります。「さあ、来たれ。論じ合おう。主は言われる。たとえ、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」あなたが御子イエスを信じるなら、御子の血が、あなたのがんこな汚れを完全に洗いきよめてくださるのです。

23~25節をご覧ください。「どうしてあなたは、「私は汚れていない。バアルの神々に従わなかった」と言えるのか。谷の中でのあなたの行いを省み、自分が何をしたかを知れ。あなたは、あちらこちら道を走り回るすばやい雌のらくだ。24 また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。25 裸足にならないように、喉が渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。」

 ここでは、イスラエルがさかりのついた「雌のらくだ」や「野ろば」にたとえられています。このような動物は本能のままに生きるので、自分を抑制することができません。もうどうにも止まらない!です。自分の欲情を満たしてくれるものを探して、あちらこちら走り回るのです。

 私が小さい頃、山本リンダさんという歌手が「どうにもとまらない」という歌を歌いました。「うわさを信じちゃいけないよ 私の心はうぶなのさ いつでも楽しい夢を見て 生きているのが好きなのさ・・ああ蝶になる ああ花になる 恋した夜は あなたしだいなの ああ今夜だけ ああ今夜だけ もうどうにもとまらない」彼らは霊的、肉体的淫行を求め、もうどうにもとまらないくらい走り回っていたのです。

 25節にある「裸足にならないように」とか「喉が渇かないようにせよ」というのは、荒野で行き倒れにならないようにという意味です。それは荒野を旅する者にとっての最低の注意でしたが、その声さえも彼らの耳には入りませんでした。そして、「あきらめません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます。」と言うのです。「他国の男たち」とはバアルの神々のことです。それが好きなので、私は彼らについて行きますと、ついて行ったのです。

皆さんは、どう思いますか。このまま行けば荒野で行き倒れになってしまうように身を滅ぼしてしまうということが分かっていても、あきらめられないのです。そうした忠告に耳を傾けることはできないでしょうか。できます。なぜなら、皆さんはイエス様を信じているので、そうしたものに固執する必要はないからです。イエス様を信じる人には、神の聖霊が与えられているからです。聖書はこうあります。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。」(ガラテヤ5:16)

内なる戦いがあります。肉との戦いですね。この戦いに勝利するのは至難の業ですが、私たちはそれに勝利することができるのです。それは私たちの力によってではなく、神が与えてくださった御霊の力によってです。御霊によって歩むなら、決して肉の欲望を満足させることはありません。私たちには負けるしかない運命の中にいるのではなく、それに勝つことができるように、神は御霊の力と逃れの道を備えていてくださるのです。

 Ⅱ.身勝手なイスラエル(26-28)

次に26~28節をご覧ください。「26 盗人が、見つかったときに恥を見るように、イスラエルの家も恥を見る。彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちも。27 彼らは木に向かって「あなたは私の父」、石に向かって「あなたは私を生んだ」と言っている。実に、彼らはわたしに背を向け、顔を向けない。それなのに、わざわいのときには「立って、私たちを救ってください」と言う。8 では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには彼らが立って救えばよい。ユダよ、あなたの神々はあなたの町の数ほどもいるではないか。」

今度は、盗人が見つかったときに恥を見るたとえです。私たちはよくテレビのニュースで窃盗犯が捕まって警察の車両で連行される場面を見ることがありますが、何ともみじめです。「ショーシャンクの空に」という映画の主人公のように、20年間もロックハンマーで刑務所の壁を掘り続け、ついに脱獄したというのならカッコいいのですが、それはあくまでも映画の話で、実際には不可能です。見つかって捕らえられ、恥を見ることになります。それと同じようにイスラエルも恥を見るようになるのです。

それは彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちも同じです。彼らは木に向かって「あなたは私の父」と言い、石に向かって「あなたは私を生んだ」と言います。それなのに、わざわいの時になると手のひらを返したかのように、主に向かって「立って、私たちを救ってください」と言うのです。

こういう人を、皆さんはどう思いますか。全く身勝手な人だと思いませんか。神様も同じです。28節には、神様が皮肉たっぷりにこう言われます。「では、あなたが造った神はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるではないか。」

あなたが造った神々に願ったらいいじゃないか、あなたの神々はどこにいるのか。彼らが立って救えばよい。しかし、そうした偶像があなたを救うことはできません。ここには、「ユダよ、あなたの神々はあなたの町の数ほどもいるではないか」とあります。日本にも八百万の神といって、八百万の神々がいると言われていますが、そうしたものがいざというとき、本当にあなたを助けてくれるでしょうか。あなたを救ってくれるでしょうか、そのことをよく考えなければなりません。

詩篇115篇4~8節にこうあります。「4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。5 口があっても語れず、目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」

おもしろいですね、偶像は目があっても見えず、耳があっても聞こえません。口があっても語れず、鼻があってもかぐことができません。手があってもさわれず、足があっても歩くことができないのです。そんな偶像を造り、それを拝むことにいったいどんな意味があるのでしょうか。全くありません。そうした偶像は何の役にも立たないのです。無益なのです。

しかし、まことの神は違います。まことの神は、あなたを救うことができます。まことの神は、あなたのためにご自分のいのちを捨ててあなたを救ってくださった方、私たちの主イエスです。この方は、あなたが困ったときにちゃんと助けてくださいます。ご自分のいのちを捨てるほど愛してくださった方が、それといっしょにすべてのものを与えてくださらないわけがありません。神はそれほどあなたを愛しておられるのです。この神が一番頼りになるのはいうまでもありません。この神を恐れ、この神を礼拝しなければなりません。

 Ⅲ.神と争うイスラエル(29-37))

 次に29~37節までをご覧ください。「29 なぜ、あなたがたはわたしと争うのか。あなたがたはみな、わたしに背いてきた。-主のことば-30 わたしはあなたがたの子らを打ったが、無駄だった。彼らはその懲らしめを受け入れなかった。あなたがたの剣は、食い滅ぼす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした。31 あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。わたしはイスラエルにとって荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。なぜわたしの民は、「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません」と言うのか。32 おとめが自分の飾り物を、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。その日数は数えきれない。33 あなたが愛を求める方法は、なんと巧みなことか。そのようにして、あなたは悪い女にさえ、巧みに自分の方法を教えたのだ。34 あなたの裾に見つかるのは、咎なき貧しい人たちの、いのちの血。彼らが押し入るのを、あなたが見たわけでもないのに。しかも、これらすべてのことにもかかわらず、35 あなたは言う。「私は潔白だ。確かに、御怒りは私から去った」と。あなたが「私は罪を犯してはいない」と言うので、今、わたしはあなたをさばく。36 あなたはなんと簡単に自分の道を変えることか。アッシリアによって恥を見たのと同様に、あなたはエジプトによっても恥を見る。37 そこからも、あなたは両手を頭に置いて出て来るだろう。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたが彼らによって栄えることは決してない。」

 ここでは、イスラエルを反抗的な子どもの姿にたとえています。主は彼らに何度も警告を与え、彼らを打ったり、懲らしめたりしましたが、彼らはその懲らしめを全く受け入れませんでした。「打つ」とは、神が剣とか、もききん、疫病などでその民を罰することを指しています。また、「懲らしめ」とは、預言者たちの警告と神の処罰の両方を含むものです。しかし、彼らはこうした懲らしめを受け入れるどころか、神のことばを語った預言者たちを食い尽くしたのです。彼らは預言者が語る神の言葉を受け入れることができなかったので、食い尽くす獅子のように、預言者たちを食い尽くしました。

しかし、神様が彼らを打ったり、懲らしめたりしたのは何のためだったのでしょうか。それは彼らを傷つけるためではありませんでした。それは、彼らを子として扱っておられたからです。へブル12章6~11節にこうあります。「6主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

しかし、イスラエルの民は受け入れることができませんでした。それで主は彼らにこう言われます。31節、「わたしはイスラエルにとって荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。なぜわたしの民は、「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません」と言うのか。」

「荒野」とか「暗黒」とは、イスラエルがかつてエジプトの奴隷であった時のように、何の喜びもない、がんじがらめの生活のことです。イスラエルは、荒野から導き出してくださった神を忘れ、神ご自身が荒野であるかのように思い、または暗黒であるかのように錯覚して、元の状態に戻ろうとしていました。「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません。」と言って・・。悲しいですね。でも、実際にこのように考えて、信仰から離れ元の状態に戻ろうとする人もいます。

パウロはガラテヤ人への手紙の中でこう語っています。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)あなたは、クリスチャンになる前の生活に戻ろうとしていないでしょうか。ですから、堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされることがないように注意しなければなりません。

さらにイスラエルの罪が糾弾されます。32節です。「おとめが自分の飾り物を、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。その日数は数えきれない。」

この「飾り物」とは、おとめがその身に飾る物です。日常生活において、「おとめがその身を飾るものを忘れる」ことはありえません。また、「花嫁の飾り物」とは、愛する人からの贈り物である花嫁の「晴れ着の帯」のことです。イスラエルは主の花嫁として美しい晴れ着もその帯も与えられていました。それほど主に愛されている存在であったのに、その主を忘れてしまいました。

33節では、辛辣な皮肉を込めて、情事の比喩によって、宗教的な民の無節操が取り上げられています。「愛を求める方法」とは、情事に誘い込む方法のことです。それは本当に巧みで、今では、悪い女、遊女にさえ、そのやり方を教えるほどになりました。

また、34~35節を見ると、彼らは、罪のない貧しい人たちの血を流してきました。自分が欲することを求めるあまりに、多くの人々が傷ついても、そんなのお構いなしで、何の罪意識も持つことはありませんでした。そしてこう言ったのです。「私は潔白だ」。確かに、御怒りは私から去った」と。」どういうことでしょうか。罪の自覚が全くありません。これは、ヨハネ9章41節でイエス様が指摘しておられることです。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」罪の自覚がないということは本当に恐ろしいことです。私には罪がない。それは神を偽りものとすることです。

その結果どうでしょう。36~37節をご覧ください。「あなたはなんと簡単に自分の道を変えることか。アッシリヤによって恥を見たのと同様に、あなたはエジプトによっても恥を見る。そこからも、あなたは両手を頭に置いて出て来るだろう。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたが彼らによって栄えることは決してない。」

アッシリヤとかエジプトといったこの世の力と手を組んで、人間的に解決しようとしても、何の良い結果も得られません。両手を頭に置いて出てくるとは、降参するということですが、結局、バビロンの前に屈服し、彼らの捕虜となります。バビロン捕囚のことです。アッシリヤに頼ろうと、エジプトに頼ろうと、これを避けることはできません。バビロンは確かにやって来ます。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたは滅びる。決して栄えることはない、というのです。この世に頼るならあなたは裏切られ、失望することになります。必ず失敗し失望します。それは昔も今も変わりません。この世に頼ろうとするならば、この世の力にすがろうとするならば、神以外のものに満たしを求めようとするならば、必ず失望することになります。しかし、主に信頼する者は、決して失望させられることはありません。

かつてデンマークに一人の男の子が生まれました。彼が生まれたのは棺桶の中でした。お母さんは他人の汚れ物を洗って生計を立てていました。おばあさんは庭掃除をしてお金をもらい、おじいさんは精神病院に入っていました。本当に貧しい家に生まれ、極貧の生活の中で彼は育ちました。彼は大人になって恋をしましたが、恋をした相手にことごとくふられ、失恋ばかりでした。ついに彼は生涯独身で過ごしました。彼は70歳まで生きて、最後に言ったことばは、こうでした。

「私の人生は童話のように幸せでした。」

そうです、この彼とはアンデルセンのことです。アンデルセンはなぜこのように言うことができたのでしょうか。その秘訣を彼はこう言っています。

「私を愛し、私を助けてくださるイエス・キリストがいつも共にいて下さったからです。」

正しい価値観は、状況や環境が変わっても、それでもなお、私たちに喜びや平安や希望を与えてくれます。これこそ、神が私たちに求めておられることです。神に立ち返りましょう。そして、神に信頼してください。そうすれば、神がイエス・キリストを通して、あなたと共にいて、あなたに真の喜びと平安を与えてくださるのです。

エレミヤ2章14~19節「いつも主を前に置いて」

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2022年1月2日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:エレミヤ書2章14~19節(エレミヤ書講解説教4回目)

タイトル:「いつも主を前に置いて」

 新しい年を迎えました。この新しい年を、皆さんはどのような思いで迎えられたでしょうか。箴言4章23節に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。いのちの泉は私たちの心からわいてきます。ですから、力の限り、見張って、あなたの心を見守らなければなりません。新しい年も神の御言葉によって、心の井戸を深く掘っていきたいと思います。

この新年の礼拝で、主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書2章14~19節の御言葉です。前回もお話したように、この2章には神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿を、いくつかの比喩をもって語られています。1~8節までには不誠実な妻の姿を通して、また9~13節には、壊れた水溜のたとえをもって描かれてきました。

きょうのところには、奴隷としてのイスラエルの姿を通して語られています。イスラエルは奴隷なのか、それとも家に生まれたしもべなのか、ということです。だから、知り、見極めよ、と。何を見極めるのでしょうか。19節の後半にこうあります。「あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。」主を捨てて、主を恐れないことは、いかに苦しいことであるのかを、です。すなわち、主を恐れないこと、主に信頼しないことが、いかに悪いことであり苦しいことであるかということです。このことを見極めなければなりません。この新しい年、私たちはこのことを見極め、真に主を恐れ、主に信頼して歩む年でありたいと思います。

 Ⅰ.イスラエルは奴隷なのか(14-16)

 まず14節から16節までをご覧ください。「14 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。15 若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。16 メンフィスとタフパンヘスの子らも、あなたの頭の頂を剃り上げる。

 ここで預言者エレミヤは、イスラエルの背信がどのような結果を招くのかを語っています。イスラエルは神に背いた結果、どうなったでしょうか。14節には「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。」とあります。

当時、奴隷には二つの種類がありました。お金で買われて奴隷になった者と、奴隷の両親の間に生まれた、生まれながらの奴隷です。イスラエルは神の民として贖われた者ですから、自由な民であるはずです。まして生まれながらの奴隷であるはずがありません。それなのに、彼らの状態はもっと悪くなっていました。戦争によって捕虜となり、獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になっていたのです。どうしてこのようになったのでしょうか。いうまでもなく、彼らが自分の神を捨てて偶像に仕え、外交や武力によって自分たちの安全を保つことができると考えたからです。その結果、どうなったでしょうか。

 15節をご覧ください。「若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。」

 「若獅子」とはライオンのことです。聖書では、イスラエルを荒らす敵の比喩としてしばしば用いられています。文脈によってそれはアッシリヤであったり、エジプトであったり、バビロンであったりしますが、ここではバビロンのことを指しています。バビロンがイスラエルに向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせるというのです。その町々は焼かれて、住む者がいなくなります。エレミヤがこれを語った約40年後に、実際にこのことが起こります。バビロン捕囚という出来事です。B.C586年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを攻め落とし、そこに住んでいた者たちを捕囚の民としてバビロンに連れて行きました。

それはバビロンだけではありません。エジプトもそうです。16節にある「メンフィスとタフパンヘス」は、ともにエジプトにある都市です。つまり、もし彼らがエジプトに保護を求めるなら、彼らがあなたの頭の頂を剃り上げるようになるというのです。ユダヤ人にとって髪を剃り上げることは、恥を見ること、悲しみに打ちひしがれることを表わしていました。イスラエルはせっかく神によって贖われ自由の民とされたのに、その神に背きメンフィスやタフパンスに助けを求めたことで、再び奴隷の状態に陥り獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になったのです。私たちもせっかく主イエス・キリストによって罪から解放され自由の民とされたのにその神に背くなら、若獅子の獲物にされてしまうことになります。頭の頂を剃り上げられることになるのです。

1ペテロ5章8節にこうあります。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

ここでは、悪魔がほえたける獅子のようだと言われています。悪魔は、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩き回っています。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。そうでないと、当時のイスラエルのように若獅子の獲物にされてしまいます。頭の頂を剃り上げられてしまうことになるのです。そういうことがないように、身を慎み、目をさましていなければなりません。エレミヤは、かつてB.C.722年に北王国イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされたことを思い起こしながら、南ユダ王国の人々に、注意しないとあなたがたもライオンの餌食にされてしまいますよ、と警告しているのです。

それは今を生きる私たちにも言えることです。注意しないと、私たちもライオンの餌食にされてしまいます。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。自分は大丈夫と思っている人ほど危ない人です。悪魔なんてやっつけてやるという人ほど簡単にコロリとやられてしまいます。私たちは若獅子の餌食にならないように身を慎み、目をさましていなければなりません。

Ⅱ.なぜ、獲物にされたのか(17~19a)

いったい彼らの問題は何だったのでしょうか。なぜ彼らは若獅子の獲物にされてしまったのでしょうか。次にその理由について考えたいと思います。17~19節前半をご覧ください。「17 あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。18 今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリヤへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。「あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。」

いったいなぜ彼らは獲物にされてしまったのでしょうか。それは彼らが主を捨てたからです。彼らの神、主が彼らに道を進ませたとき、彼らが主を捨てたので、このようになったのです。どうしてナイル川の水を飲みにエジプトへ向かうのでしょうか。どうして大河ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤへ向かうのでしょうか。それは彼らが自分たちの神、主に助けを求めないで、エジプトやアッシリヤに助けを求めたからです。その悪が彼らを懲らしめ、彼らの背信が彼らを責めたのです。

私たちも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書ではエジプトはこの世の象徴として描かれています。また、アッシリヤは超大国の象徴として描かれています。私たちもイエス様を信じていてもにっちもさっちもいかなくなると、目に見えるこの世のもので安心を得ようとすることがあります。しかし、そのような水をいくら飲んでもまた渇くと、イエス様は教えてくださいました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

また使徒パウロは、そうした頼りにならないものに望みを置かないようにと警告しています。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように、と(1テモテ6:17)。そのようなものに望みをおくと、結局のところ、裏切られてしまうことになります。皆さんもそういう経験があるでしょう。

実際、イスラエルの王であったヨシヤ王も、この後B.C.609年にエジプトに攻め込まれて死んでしまうことになります。メギドの戦いです。エレミヤがこれを警告したのはB.C.627年のことですから、実に18年後のことになります。彼らはエジプトに助けを求めたのに、そのエジプトによって滅ぼされてしまうのです。まさに、頭の頂を剃り上げられたのです。その後、新興国であるバビロン帝国が台頭して来て、エジプトも、アッシリヤも、そしてこの南ユダ王国も滅ぼされしまうことになります。そして、バビロンの奴隷として、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになるのです。どんなにエジプトを頼っても、どんなにアッシリヤを頼っても、そうしたものは何の助けにもならないのです。

預言者イザヤは、そんなイスラエルの姿を短い毛布にたとえてこう言いました。「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」(イザヤ28:20)皆さん、わかりますか。エジプトという寝床は、身を伸ばして寝るには短すぎます。アッシリヤという毛布は、身をくるむには狭すぎるのです。私の妻はいつも毛布に身をくるんで寝ていますが、見ると足がベッドからはみ出しています。背中には毛布がかかっていません。短じかすぎるのです。狭すぎるのです。そのようなものは安全のための何の保障にもなりません。それなのに、どうしてエジプトやアッシリヤへの道に向かうのでしょうか。どうして主なる神に背を向けて、この世に向かって走って行くのでしょうか。

あなたがこの世に向かって走るなら、結果的に神に背を向けることになります。その結果、懲らしめや責めを受けることになるのです。勿論、それはこの世を捨てるということではありません。この世を憎むということでもありません。神はこの世を愛されました。神は一人も滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。そのためにひとり子をこの世に与えてくださいました。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためです。ですから、私たちは神がこの世を愛されたように、私たちもほかの人々を愛するべきです。

しかしそれは、この世の考えやこの世を優先することではありません。神様以上にこの世を愛してはならないと、イエス様は言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

神の子とされた者、クリスチャンは、その優先順位を神の価値観に従って、選択すべきです。誰も二人の主人に仕えることはできないからです。神とこの世に同時に仕えることはできません。その優先順位において神よりもこの世を優先するなら、それは神に背を向けてしまうことになります。その悪があなたを懲らしめ、その背信があなたを責めることになるのです。

皆さん、私たちが歴史から学ぶことは何でしょうか。それはたった一つのことです。それは、人類は歴史から何も学ばないということです。本来、彼らは学ぶべきでした。彼らと同じことをすれば自分たちはどうなるのかということを。自分たちもそうなるということ。しかし、彼らは何も学びませんでした。そして同じように痛い目に遭ってしまったのです。どんな人でも最初の一歩を間違えると、どんどん神から離れていってしまいます。しかし、信仰によって小さな一歩を踏み出すと、その人の人生は神によって祝福されたものへと導かれます。

1969年7月16日、アメリカの有人ロケット「アポロ11号」が月に着陸して、初めて人間が月を歩いた時、ニール・アームストロング船長はこのように言いました。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」

それはあなたにとって小さな一歩かもしれません。しかし、それはあなたの人生にとって偉大な一歩となるのです。その信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。

Ⅲ.だから、知り、見極めよ(19b)

では、どうすればよいのでしょうか。最後に19節の後半を見て終わりたいと思います。「だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。-万軍の主のことば。」

この箇所のまとめです。私たちにとって必要なのは、このことを知り、見極めることです。アッシリヤやバビロンの奴隷になるという悲惨さの原因は、指導者の政策が悪いからではありません。それは神を捨て、神を恐れないことです。これが最も根本的な原因なのです。悲惨の原因が自らの罪であることを知らないことが最大の悲惨でありますこのことを知り、見極めるようにと、エレミヤは教えているのです。あなたはこのことを知り、見極めているでしょうか。

昨年からサムエル記を通してダビデの生涯を学んでいますが、ダビデはこのことを知り、見極めていました。主が彼を、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼は主に向かってこのように歌いました。「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」(Ⅱサムエル記22:7)ダビデはいつも苦しみの中で主を呼び求め、主に叫びました。すると主は彼の声を聞かれ、彼は助け出されたのです。

私たちの人生に何が起こるか、だれも予測することはできません。突然、病気や事故や災いに襲われることがあります。まさに人生という舞台に、大きな穴がポッカリと開くような出来事に遭遇することがあるのです。そんなときに、ある人は穴を見て絶望し、運命を呪い、悲しみに暮れます。またある人は、穴を見ないふりをして、現実から逃避しようとします。しかしダビデは、その穴から神を見ました。神を見て、神に信頼し、神に叫んだのです。そして、その穴から救われるという経験をしたのです。すなわち、その穴から、穴が開かなければ、決して見ることがない新しい世界をしっかり見つめたのです。なぜなら、彼はいつも、主を恐れ、主に信頼していたからです。

彼は、詩篇16篇で次のように告白しています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)すばらしいですね。これを、今年の教会の目標聖句にしたいと考えています。「私の前に主を置く」とは、いつも主の助けと導きを仰ぐことです。これによってダビデは、「揺るぐことはない」と告白することができました。彼はサウル王に追われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でした。また、その後イスラエル王となってからも、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中にあっても、彼の心の深い所には神様との強い絆がありました。だから彼は揺るがされなかったのです。それは、彼がいつも主に信頼し、主を前に置いていたからです。

17世紀に、フランスの修道院において台所の奉仕で一生涯を終えたブラサー・ローレンスという人がいますが、彼は「神の臨在の実践」(The Practice of the Presence of God)の中でこう言っています。「仕事の時は、私にとって祈りの時とさして変わらない。台所でガチャガチャした騒音に埋もれ、色々な人々が同時に別々なことで私を呼んでいる時でさえ、私は聖餐式の時に跪いているかのような大いなる静けさの中に住み給う神を持っている」

彼は、それが仕事の時であろうと、祈りの時であろうと、いつも神の臨在の中にいるようでした。それは彼が大切にしていたのは、そうした事柄の背後にある動機であったからです。つまり、いつも自分の前に主を置いているかどうか、そして、何をするにしても、その主への愛に対する応答であるかどうかということです。

彼はダビデのように、いつも自分の前に主を置いていたのです。

新しく迎えたこの2022年、さまざまな計画があり、活動があることでしょうが、それらの活動に勝って、私たちが知り、見極めなければならないことは、主を恐れ、主に信頼し、心を尽くして主を求めることです。ダビデのように「私の前に主を置く」という心の営みを一人一人のものにさせていただこうではありませんか。

エレミヤ2章1~13節「いのちの水の泉」

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 今日はエレミヤ書2章1~13節からお話します。タイトルは、「いのちの水の泉」です。いよいよエレミヤの預言者としての活動が始まります。最初の預言が、ここから3章5節まで続きます。そこには神から遠く離れ、空しいものに従って行くイスラエルの姿がいつかの比喩をもって示されています。その一つが壊れた水溜めです。13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。」とあります。彼らはいのち水の泉である神を捨て、自分のために壊れた水溜めを掘りました。神はそんなイスラエルの姿を見て嘆かれ、いのちの泉であるご自身のもとに帰るようにと語られるのです。

 Ⅰ.覚えておられる神(1-3)

 まず1節から3節までをご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罰を受け、わざわいを被った。-主のことば-」

 預言者エレミヤに次のような主のことばがありました。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。」彼はエルサレムから北東に4キロほど離れたアナトテという村に住んでいましたが、そのエレミヤにエルサレムへ行って、彼らに主のことばを宣言するようにというのです。その内容は、「わたしは、あなたの若いころの真実な愛、婚約時代の愛、種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている」ということでした。

「若いころの真実な愛」とは、イスラエルが神と契約を交わした、まさにその頃の愛のことです。具体的には出エジプト記20章にあるシナイ契約のことです。モーセの十戒ですね。それはエジプトを脱出後に、シナイ山で神様とイスラエルとの間に交わされた愛の契約でした。その頃のことを思い起こしているのです。皆さんは、結婚式で誓ったあの時のことを覚えていますか。来週もジョセフ兄とダフニ姉の結婚式が行われますが、そこでは誓約が交わされます。

「あなたはこの人と結婚し、神の定めに従って、夫婦になろうとしています。あなたは常にこの人を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、乏しき時も、いのちの日の限り堅く節操を守ることを誓いますか。」「はい、誓います。」

そんなこと言ったっけ?なんて言わないでください。確かに、皆さんもそう誓ったはずです。それなのに、そぐに忘れてしまいます。中には、自分の結婚記念日でさえ覚えていないという人もいます。しかし、神様は決して忘れることはありません。全部覚えていらっしゃるんです。あの時は何と麗しい関係だったでしょうか。あなたが若いころの愛は、どんなことがあっても守るという誠実さがありました。真実な愛があったのです。それは、約束に対して誠実であるということです。あのシナイ山で約束した契約に対する忠実さのことであります。約束は破るためにあるということばがありますが、そうではありません。約束は守るためにあるのです。イスラエルは若かったころ、神と結んだ愛の契約を忠実に守ろうとする真実な愛がありました。神はそれを覚えているのです。

またここには「婚約時代の愛」とあります。これは、イスラエルがエジプトを出てからシナイ山で契約を結ぶまでの期間と考えられます。出エジプト記で言うと、12章~19章に該当します。彼らはエジプトに430年もの間奴隷として生活していましたが、その苦しみの中で主に叫び求めると、主は彼らをそこから救い出してくださいました。しかし、彼らが導かれたのは荒野でした。そこには食べ物も飲み物もなかったので、指導者であったモーセとアロン向かって不平を言いました。すると主は、彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出させてくださいました。さらに、アマレクという敵が攻めて来ると、何の防備もなかったイスラエルにとって戦いは困難を極めましたが、主が戦ってくださったので、勝利することができました。これが婚約時代にあったことです。婚約時代には辛いこと、苦しいこともありましたが、一番楽しい時でもありました。なんだかんだ言っても、愛によって乗り越えようとする必死さがありました。主はそんな彼らの婚約時代の愛も覚えておられました。

そればかりではありません。「種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順」も覚えていました。「種もまかれていなかった地」とは、荒野のことを指しています。彼らはカデシュ・バルネアまで来たとき、約束の地まであとわずかという時に、主の命令に背いて上って行かなかったので、結局40年間荒野を彷徨うことになりました。しかし主は、そのような中でも、昼は雲の柱夜は火の柱をもって彼らを導いてくださいました。約束の地を目の前にしてモーセは、その40年間を振り返りこのように言いました。「この40年間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」(申命記8:4)

主が彼らを守ってくださいました。それは主がイスラエルに対して忠実であられたからです。それはイスラエルが主に対して従順であったということの表れでもあります。確かに彼らは荒野で何度となく不平を鳴らしましたが、その根底には主がイスラエルをエジプトから救い出し、ご自分のものとされたという愛の関係がありました。神はそのようなイスラエルの姿を覚えておられるのです。それなのに彼らは、神から離れてしまいました。初めの愛から離れてしまったのです。

これは、イエス様を信じて神の民とされた私たちも同じです。黙示録2章4節には、「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」とあります。これはイエス様がエペソの教会に書き送った手紙です。エペソの教会はよく忍耐して、主のために耐え忍び、疲れませんでした。しかし、彼らには責めるべきことがありました。何ですか?初めの愛から離れてしまったことです。初めの愛、結婚当初の愛、婚約時代の愛から離れてしまいました。エペソという地名は「最愛の人」という意味がありますが、それが色あせてしまったのです。だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなさい、というのです。

皆さんはどうでしょうか。それは私たちで言えばまさにイエス様と出会い、洗礼を受け、クリスチャン生活を始めたばかりのあの頃のことです。何もかもが新鮮でした。何もかもが感動的でした。溢れるばかりの喜びと感謝がありました。とにかく教会に来るのが楽しかった、信仰に熱心だったあの頃です。「だった」と言っているのは、初めの愛から離れてしまったということを念頭に語っています。そんなことはありません。あの時よりももっと燃えています。もっとイエス様を愛しています、もっと主を求めていますというのならすばらしいですが、もし「だった」というのであれば、このエペソの教会と同じであると言えます。信仰生活が重荷なんです。日曜日だから教会に行かなければならない。何となく面倒くさい。家にいてひっくり返っていた方がいい、ゴロゴロしていた方がいいと思っているなら、初めの愛から離れているのです。主があなたにとってすべてであったあの頃の愛から離れているのです。本来ならばあの時よりももっと今の方が主を愛していますとなるはずなのに、あの頃もすばらしかったけど、今の方がもっとすばらしいとなるはずなのに、あの頃の方が燃えていたというのであれば、それは信仰がバックスライドしているということです。初めの愛から離れているのです。もしそうであるならば、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなければなりません。

私たちは本当に忘れっぽいですね。昨日何をしたか、何を食べたかさえも忘れています。しかし、私たちは初めの愛を思い起こさなければなりません。それが聖餐式の意味です。聖餐式では、「わたしを覚えてこれを行いなさい」とありますが、これとはパンとぶどう酒のことです。それはイエス様の血と肉を表しています。イエス様が私たちを愛してくださり、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。そのことを覚えるために、パンとぶどう酒をいただくのです。あなたはどうでしょうか。この神の愛、イエス様の愛を覚えていますか。もし忘れているなら、悔い改めて、初めの愛に立ち返りましょう。これが私たちの信仰の原点だからです。

 Ⅱ.イスラエルの背信(4-8)

 次に、4~8節をご覧ください。6節までをお読みします。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。主はこう言われる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけたというのか。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまうとは。彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」」

 1~3節では、イスラエルの若いころの真実な愛が語られましたが、この箇所では主に背いたイスラエルが糾弾されています。神ご自身の失恋の叫び、と言ってもよいかもしれません。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。」ということばには、イスラエルに対する神の切実な思いが込められています。なぜ自分から離れて、空しいものに従って行ったのか。空しいものとは、偶像のことです。このとき、イスラエルは一応、神殿礼拝の形は保っていましたが、敷地にはさまざまな偶像やその祭壇がありました。まあ、クリスマスとお正月をごちゃまぜにしているような感じですね。クリスマスに教会に来たかと思ったら、お正月には神社に初詣に行くような感じです。いったいわたしがあなたに何をしたというのか、何か悪いことでもしたというのかと、主は問うているのです。

 日本の代表的なクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼はこう言っています。「神に拠り頼んで恥辱を受けたことはない。」あなたが神に拠り頼んで裏切られたことがあるでしょうか。辱めを受けたことがありますか。聖書にも「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)とあります。神はあなたにどんな悪いことをしたでしょうか。あなたをがっかりさせたことがありますか。あなたを傷つけたことがあるでしょうか。ないでしょ。それなのに、なぜあなたは離れていくのですか。こんなにあなたを愛しているのに、こんなにあなたのことを思っているのに、どうして離れていくのですかと、訴えているのです。この悲痛な神の叫びにしっかりと耳を傾けていただきたいと思います。

 6節には、「彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」とあります。

 偶像を求めて空しくなった民は、契約の神をもはや心に留めず、求めることもせず、無関心になってしまいました。もうどうでもいいのです。出エジプトと荒野の旅における神の特別な導きは、イスラエルの民が常に覚えて、主なる神への信仰の告白としなければならなかったことなのに、もうどうでもよくなってしまったのです。その神を求めることさえしなくなりました。

7節と8節をご覧ください。「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものにした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行った。」

 約束の地に入った後の状態です。荒野で反抗した民は滅ぼされましたが、新しい世代の人々は、約束の地に導き入れられました。そこは乳と蜜の流れる、実り豊かな地で、その地で彼らは良い実を食べることができました。ところが彼らは、その地を忌み嫌うべきものにしました。偶像で汚してしまったのです。

さらに、国の指導者たちは、自らの責任を果たそうとしませんでした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、主を知らず、牧者たちも主に背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行きました。

 いったい何が問題だったのでしょうか。イスラエルの神、主を忘れてしまったことです。彼らは、過酷な荒野の旅を終えたときに、それが神の一方的な恵みであったことを認めず、感謝もしませんでした。その結果、カナンの地に入ってからは、真実の神、主を忘れ、自分たちにご利益をもたらすような偶像に走って行ったのです。聖書はこのようなものを「無益なもの」と呼んでいます。それは何の役にもたたないのです。偶像は本当に空しいものですが、不思議なことに、それに従って行けば幸せになれるのではないかと思い込ませます。たとえば、8節にはバアルという偶像が出てきますが、これは無病息災や商売繁盛の神です。この神を拝めばご利益があります。人生が繁栄し、成功を収めることができます。どうですか、拝みたくなったでしょう。こうしたものに人間は本当に弱いですね。ご利益があると聞くと、すぐに飛びつきたくなります。でもそれは空しいもの、無益なもの、何の役にも立たないものです。私たちを真に満たすのは、私たちを造り、私たちのために御子イエス・キリストを与えてくださるほど愛してくださったまことの神です。この方は私たちの根本的な問題である罪から救い、真の幸福をもたらしてくださいます。

 皆さんは、「世界一幸せな国」をご存知でしょうか?知っています、ブーダンでしょう?という方は、ちょっと古い人です。南アジアにあるブータンは、発展途上国ながら2013年には北欧諸国に続いて世界8位となり、“世界一幸せな国”として知られるようになりましたが、2019年度版では156か国中95位にとどまって以来、このランキングには登場しなくなりました。幸せな国ではなくなったのです。どうしてだと思いますか?それは、スマホが普及したせいです。これまで入って来なかった情報が入って来るようになったおかげで、他国と比較するようになったからです。つまり、隣の芝生が青く見えるようになったからなのです。

ちなみに日本はというと、例年、順位が振るいませんで、2021年の最新ランキングでも56位と、G7(先進7か国)の中でも最下位になっています。それはブータン同様、幸せを他の人と比較しているからです。いつの時代もどの国でも他人の持っている物や言動が気になってしょうがないのです。それは決して幸せには繋がらないと分かっていても、隣の芝生の青さやまたその欠点に目を注いでしまうのです。それが日本人の国民性なのです。私たちが幸せになるために必要なことは、私たちが何を見るか、ということです。他の人がどうかではなく、神があなたにどんなによくしてくださったのかを見て、それを感謝することなのです。

砂山(いさやま)節子という方がおられます。この方は戦前、夫の砂山貞夫という牧師と結婚し満州に赴いて福音宣教に従事していましたが、戦後、夫と次女を失い、ご自分も両目の視力を失うという状況の中で、ある日、暗澹たる思いで手探りしながら壁伝いに部屋の中を移動している時、思いもかけずこの賛美歌の一節が、心に浮かび、口をついて出てきたと言います。「数えてみよ、主の恵み、数えてみよ、主の恵み、・・」。彼女は指を折って数えました。私には二人の子供がいるではないか、教会の信徒さんたちもいる、イエス様がずっと一緒にいて下さったではないか・・と。そして、心の平安を得たといいます(「熱河宣教の記録」より)。

砂山さんはどのような状況でも、私たちは神の恵みを数える事ができると教えています。私たちもまた、自分の置かれている状況ではなく、その中で働いておられる主の恵みを数えて歩んでいきたいものです。

 Ⅲ.いのちの水の泉(9-13)

第三に、9~13節をご覧ください。「それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う。-主のことば-また、あなたがたの子孫と争う。キティムの島々に渡って、よく見よ。ケダルに人を遣わして見極めよ。このようなことがあったかどうか、確かめよ。かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。-主のことば-わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」

「それゆえ」とは、イスラエルが神との契約を破り、空しい偶像に走って行ったのでということです。それゆえ、主はなお、イスラエルと争われるのです。この「争う」という語は、法廷用語で、神がイスラエルを法廷に訴えている様子を表しています。訴えられているのはイスラエルです。これほどの愛と恵みを受けながら、その神から離れていくという例は、世界中どこにも見出せません。

10節にある「キティム」とは地中海に浮かぶキプロス島のことです。「ケダル」とはアラビヤ半島の北部に住む人々のことです。彼らはそれぞれ、自分たちの偶像を持っていました。しかし、それを他の神々に取り変えたりはしません。それはキティムやケダルだけでなく、どの国でもそうでしょ。いいか悪いかは別として、そう簡単に自分たちの神々を他のもの取り替えるようなことはしないのです。日本でもそうでしょ。日本は昔から八百万の神といって何でも神にしちゃいますが、その神々でさえ簡単に取り替えたりするようなことはしません。それなのに、イスラエルの民はなぜ簡単に変えてしまうのか?と、主はとてつもない皮肉を語っておられるのです。

彼らの罪は何だったのでしょうか。ここで主は非常に重要なことを語られます。それは13節にあるように、彼らが二つの悪を行ったということです。一つはいのちの泉である主を捨てたということです。そしてもう一つは、多くの水溜めを自分のために掘ったということです。それは水を溜めることができない、壊れた水溜です。それは、自分たちを救うことができない偶像のことを指しています。

彼らはいのちの水の泉であるイスラエルの神、主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜を掘ったのです。この「いのちの水の泉」は、第三版では「湧き水の泉」と訳しています。私たちの主は「湧き水の泉」、「いのちの水の泉」です。あらゆるいのちの源泉であられます。主イエスは言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

他の偶像はすべて「水溜め」です。確かに水はあるでしょうが、いつか尽きてしまう水溜めです。しかもここでエレミヤは、その溜まっている水でさえ、岩の裂け目から水がもれてしまって、少しずつなくなる、と言っています。自分の生きがいとしていたものがまことの神でなかったら、それが宗教であれ、他のどんな活動であっても、尽きて無くなるしかない溜め水を飲んでいるのと同じことなのです。それは本当に空しいことではないでしょうか。

 水溜めは、一枚岩になっているところを切り削して造ります。とても長い期間をかけて造った、非常に大きな水溜めも見つかっています。けれども、もしその岩に裂け目があったらどうでしょう。水溜めの役目を果たさなくなります。これまで削り取ってきた労苦は無駄になってしまいます。

 ここでは「いのちの水の泉」と「壊れた水溜め」が対比されています。私たちは、あからさまに偶像礼拝をしないかもしれませんが、あからさまに偶像礼拝をしなくても、神以外のものを拝むことはあります。いや神に関する、その周囲にあるものを大事にして、神ご自身をあがめることをしないということがしばしばあります。

あなたはどうでしょうか。あなたは、「いのちの水」を下さる主イエス・キリストから飲んでいますか。それとも、壊れた水溜めを自分のために掘っていないでしょうか。ある人は、「私たちは祝福を求めるが、祝福の源を忘れる。」と言いましたが、まさにその通りです。祝福を求めますが、祝福の源を忘れるのです。私たちに必要なのは、「主はどこにおられるのか」という心からの叫びです。

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。」(詩篇103:2~5)

 来週はクリスマス、そして、もうすぐこの1年も終わります。私たちは、私たちの一生を良いもので満ち足らせる主を認め、主に感謝し、主に拠り頼んで、日々歩んでまいりましょう。

エレミヤ1章11~19節「あなたは何を見ているのか」

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 今日は、エレミヤ書1章11~19節の御言葉から、「あなたは何を見ているのか」というタイトルでお話します。エレミヤが預言者として召命を受けた後、最初の預言を発するまでの間に、主はエレミヤに対する召しを確かなものとするために、二つの幻を見せられました。それがアーモンドの枝と煮え立った釜の幻です。

 Ⅰ.アーモンドの枝(11-12)

 まず、11節と12節をご覧ください。「主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」」

 エレミヤの預言者としての働きは、アーモンドの枝を見ることから始まります。「アーモンド」は、ヘブル語で「シャケデ」と言います。意味は「目覚める」とか「見張る」です。イスラエルでは、アーモンドの木は春になると一番先に花をつけました。日本で言えば梅の木でしょうか。とてもよく似ています。梅の花のように白い花をつけるのです。

春が来るとカラカラに乾いた冬の終わりを告げます。そのときアーモンドの木に一斉に花が咲き始めるのです。エレミヤはそれを見ていました。先ほども申し上げたように「アーモンド」はヘブル語で「シャケデ」、意味は「目覚める者」とか「見張る者」です。彼は預言者として神が語ることばが実現するかどうか見張る者として、神から召されました。この「見張る」というヘブル語は「ショケデ」と言いますが、ここに語呂合わせが見られます。「シャケデ」と「ショケデ」です。「アーモンド」と「見張る」です。私はよくおやじギャグを言って顰蹙(ひんしゅく)をかうことがありますが、神の語呂合わせは見事ですね。ショケデがシャケデを見ているのです。エレミヤは、自分が預言者として召されたことを感慨深く思っていたに違いありません。それはまさに自分のことではないか。私はアーモンドだ!と思っていたかもしれません。

その時彼に、主のことばがありました。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」。口語訳では「何を見るか」です。つまり、あなたは何を見ようとしているのかということです。何を見ているのかって、アーモンドの枝です。しかし、本当に彼が見なければならなかったものは何だったのでしょうか。私たちの目にはいろんなものが映りますが、その中で何を見ているのか、何を見ようとしているのかは重要なことです。目で見ているからといっても、必ずしも見ているわけではないからです。耳で聞いているからといっても、必ずしも聞いているわけではないのです。

マルコの福音書8章14~19節には、弟子たちがパンを持ってくるのを忘れて舟に乗り込んだ時の出来事が記されてあります。そのとき、イエス様が彼らに「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」(マルコ8:15)と言われたのです。それを聞いた弟子たちは焦りました。自分たちがパンを持ってくるのを忘れたことについて、イエス様から非難されたと思ったからです。それで彼らは互いに議論し始めました。

するとイエス様はそのことに気がついてこう言われました。「なぜ、パンをもっていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか。悟らないのですか。心をかたくなにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは覚えていないのですか。」(マルコ8:17-18)

「あなたがたは覚えていないのですか」とは、その前にイエス様が行った七つのパンの奇跡のことです。イエス様は、七つのパンで四千人の男の人たちの腹を満腹にさせました。パンの問題はもうその奇跡で解決済みでした。そのパンの奇跡によってイエス様が示そうとしたことは、人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きるのだということです。つまり、人は神の恵みによって生きるのだということです。それなのに、パンを持って来るのを忘れたからといって、パンパカパーンと叱責されるはずがありません。でも弟子たちにはそれがわかりませんでした。彼らは本気でパンのことで叱られていると思ったのです。問題は何でしょうか。よく見ていなかったということです。よく聞いていなかった。目があっても見ない、耳があっても聞かない、悟らない。心をかたくなにしていたのです。

私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。いろんな経験をしても、ただぼんやりとしていたら、その経験、つまり見たもの、聞いたものは、何も見たことにはなりません。聞いたことにはならないのです。どんなにイエスの奇跡を体験しても、それを体験すればするほど、私たちの心は鈍くなり、御利益的信仰しか養われないで、心が鈍くなっていくということがあるのです。神様を信じていれば、必ずいいことばかりくるのだという程度のことしか期待できなくなっているのです。

ですから、私たちが何を見るか、何を見ようとしているかは大事なことなのです。私たちが日常生活において、いつも心を研ぎ澄まして、本質的なものは何か、一番大事なものは何なのか、今、しなければならないことは何か、なくてならないものは何かと、注意深く見ようとしていないと、見えるものも見えてこなくなります。

エレミヤは今、預言者とし召されたばかりでした。その時にアーモンドという花を見ていたのか、見せられたのかわかりませんが、じっと見ていました。それはただ見ていたというよりも、そこから悟りを得るかのように見ていたのです。アーモンドの枝は他の花に先駆けて芽を出し、花を咲かせます。それゆえ目覚めの花ともいわれています。エレミヤは思ったかもしれません。自分は他のだれにも先駆けてこの時代の先駆者にならなければならない。この時代を見張らなくてはならないと。特に彼は神に召された時に、神から「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために」と言われました。厳しいさばきを民に伝えなければならないという意気込みがあったでしょう。普通ならばなんでもないアーモンドの枝でも、いつもとは違ったものとして見ていたのかもしれません。

すると主が彼に言われました。「あなたの見たとおりだ。」新共同訳では「よくぞ見たものだ」と訳しています。つまり、主はエレミヤが見ているものをほめているのです。喜んでいるんです。「よくぞ見たものだ」と。預言者として召されたエレミヤが見るべきもの、それはアーモンドの枝を通して見る神の御思いだったのですが、彼はそれをしっかりと見ることができたのです。それは目覚め、見張るという彼に与えられていた使命でした。

しかしそのあとで主は、思いがけないことを言われました。それは「わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている」ということです。つまり、見張っているのは、エレミヤではなく、神ご自身であるということです。確かにエレミヤは預言者として召されたからには、この世に先駆けて目を覚まし、この世を見張らなくてはならないと思っていたでしょうが、しかし、それ以前に、神ご自身が見張っているというのです。何を見張っているかと言うと、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」というのです。ここで言われている「わたしのことば」というのは、神がエレミヤを通して語られる神のことばです。エレミヤに託された主のことばが、どのように実現するのかをご自身が見張っているというのです。これを聞いた時エレミヤはどんなに肩の力がぬけたことかと思います。ヨッシャー!と思って立ち上がったら、「いや、それはあなたがするんじゃなくてこのわたしだ」と言うのですから。ガクッと来ますよね。ではそのことばとはいったいどのようなことばなのでしょうか。

 Ⅱ.煮え立った釜(13-16)

 それが次に出てくる煮え立った釜の幻です。13~16節をご覧ください。「再び主のことばが私にあった。「あなたは何を見ているのか。」私は言った。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています。」すると主は私に言われた。「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。 今わたしは、北のすべての王国の民に呼びかけている-主のことば-彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダのすべての町に向かいそれぞれ王座を設ける。わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。」

 これがエレミヤを通して語られた主のことばです。先のアーモンドの枝の幻を見てから幾日か経ってからのことでしょう。再びエレミヤに主のことばがありました。「あなたは何を見ているのか。」エレミヤは答えました。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています」と。

 「煮え立つ釜」とは、神の煮え立つような怒りのことです。それが「北から傾いている」とは、バビロン軍が北の方からやって来るということです。彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダの城壁のすべての町に向かってそれぞれ王座を設けるのです。いったいなぜそのようなことが起こるのでしょうか。それは16節にあるように、彼らがイスラエルの神、主を捨てて、ほかの神々にいけにえをささげたり、自分たちの手で作った物を拝んだからです。その悪に対して主がさばかれるからです。これが主のことばです。主は、このことばを実現しようと見張っているのです。

 でもどうやってこれが起こるのでしょうか。というのは、エレミヤが預言者として召されたのはB.C.627年のことでした。当時、周辺諸国を支配していたのはアッシリヤ帝国です。アッシリヤ帝国によってオリエント世界は完全に支配されていたのです。バビロンなんていう国は聞いたこともありませんでした。事実、バビロンはアッシリヤの支配下にありました。ですから、世界最強のアッシリヤ帝国が消滅して、名もないバビロン帝国が世界の覇者になると聞いても、ピンときませんでした。だれも信じることができなかったのです。今で言えば超大国のアメリカが消えて無くなり、どこの名もないような国が急に世界の覇者になるようなものです。考えられません。そのバビロンがやって来てどうやってエルサレムを滅ぼすというのでしょうか。そんな時に、エレミヤはこの預言のことばを語れと言われたのです。語れと言われても、それは突然天から聞こえてきたというよりもエレミヤの思いの中に、そのような思いが与えられたということでしょう。

 彼は夕飯を待ちながら、グツグツと煮え立つ釜を見ていると、その釜が突然北の方から傾いてきてこぼれそうになりました。そのとき、「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。」という主の御声を聞いて、神のことばを悟ったのです。つまりエレミヤは夕飯の用意をしながら、グツグツと煮え立つ釜を身ながら、偶像礼拝をしているイスラエルのあり方を身ながら、こんなことをしていたら、きっと神のさばきがくると考えたのです。それが北からやって来るバビロン帝国でした。

 まだ人々はバビロンという国さえ知らない時代です。まだ北からの驚異を少しも感じていないとき、そんな時に人々にこんな罪の生活をしていたから、必ず北から攻められる、それは神のさばきだと人々に語らなければならないのです。だれが信じるでしょうか。だれも信じられなかったでしょう。バカじゃないか、そんなことあるはずがないじゃないか、もっとマシな話をしろと、鼻で笑われたに違いありません。これが神のことばだと告げれば告げるほど人々から笑われ、そんなことを言って脅かすなと非難されていたのです。17章の15節からのところをみると、エレミヤの嘆きの言葉が記されています。「ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。」(17:15-18)

エレミヤが「北から攻められて、自分たちの国は滅びる」、これは主のことばだと語れば語るほど、お前の言った言葉はちっとも実現しないではないかとからかわれていたのです。

 そのエレミヤに対して主は、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」と言われました。お前がこれは主のことばだといって語ったことは、わたしが責任をもって実現させる、そのために見張っているのだと、神はエレミヤに語られたのです。だからお前は安心して主のことばを語れというのです。わたしがお前が語ったことばを実現させるからと。これはエレミヤにとってどんなに心強い言葉であったかと思います。

 そして、事実、このことばが実現します。主がこれをエレミヤに語られた翌年のB.C.626年に、バビロンの王ナボポラッサルがアッシリヤに反乱を企て独立を果たすのです。これが新バビロニア帝国です。そしてそのまま破竹の勢いで勢力を伸ばすと、B.C.612年には、ついにアッシリヤ帝国の首都ニネベを陥落させるのです。つまり、バビロンがアッシリヤに代わって世界の覇者となるのです。それは、主がエレミヤに語られたてら15年後のことでした。

そして、それからさらに7年後の605年に、このバビロン軍が南ユダに侵攻します。エレミヤがこれを預言したのがB.C.627年ですから、それから実に22年後のことです。その年にバビロンが南ユダに侵略し、ダニエルを始めとした優秀な人材をバビロンに連行するのです。これが第一次バビロン捕囚です。それはユダの王エホヤキムの治世の第三年のことでした(ダニエル1:1)。

それから19年後のB.C.586年には、これが最も有名なものですが、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲し、陥落させるのです。その中心にあったエルサレム神殿は破壊され、エルサレムは瓦礫の山となり、エルサレムの住民はバビロンへと連行されます。これが究極のバビロン捕囚です。ここで主がエレミヤに語られたとおりになるのです。ユダの人々がそんなこと考えられないと鼻で笑ったことを、主は実現されるのです。これが主のなさることです。主はご自分が語られたことを実現しようと見張っておられるのです。

聖書にはたくさんのことが書かれていますが、実にその3分の1は預言です。ですから聖書は預言の書と言われているわけですが、その預言は、これまでの歴史においてことごとく実現してきました。その中には1,900年もの間失われていたイスラエルが、世の終わりに再建されるというのもあります。考えられません。しかし、1948年5月にこれが実現します。イスラエルという国が建国されたのです。これは20世紀最大の奇跡と言われていますが、現実に起こったのです。

ですから、未来のことについて信じ難いことでも、私たちはこの神のことばを信じなければなりません。世間が何と言おうとも、変わることがない神のことばを信じなければならないのです。勿論、それは預言ばかりでなく聖書に書かれてあるありとあらゆることです。たとえそれが常識では考えられないことでも、理性的に受け入れられないことでも、この世の価値観からあまりにもかけ離れていることであっても、聖書は神によって語られた神のことばであり、神は必ずそれを実現してくださるのです。

エレミヤの時代の人々は信じることができませんでした。まさか22年後にバビロンがやって来て人々を連れて行くなんて考えられませんでした。しかし、主はご自身が語られたことばを実現しようと見張っておられます。大切なのは、見ないで信じることです。イエスはトマスに言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)見ないで信じる者は幸いです。見ないで信じましょう。主が語られたことばは、必ず実現するからです。

 Ⅲ.腰に帯を締めて立ち上がれ(17-19)

ですから、第三のことは、腰に帯を締めて立ち上がれということです。17~19節をご覧ください。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、-主のことば-あなたを救い出すからだ。」」

主はエレミヤに二つの幻の意味を説明すると、腰に帯を締めて立ち上がり、主が命じるすべてのことを語れ、と言われました。帯を締めて立ち上がるとは、働きやすいように着物の裾をまくり上げて腰の帯で締めることです。主が語るように命じられたことをすべて語ることができるように用意しておきなさいということです。あなたはその用意が出来ているでしょうか。監督から声が掛かったらいつでもベンチから飛び出していく野球の選手のようにウォーミングアップが出来ているでしょうか。監督の考えや戦略を熟知していて、すぐにそれに対応できるように準備しているでしょうか。

Ⅰペテロ1章13節に、「腰に帯を締める」と同じことばが使われています。「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

この「心を引き締め」ということばです。あなたの心は緩んでいないでしょうか。考えがあっちに行ったりこっちに行ったりしていないですか。あのことを考えたりこのことを考えたりして集中できないということはないでしょうか。聖書のことばに集中して生きるのか、この世の価値観に流されて生きるのかということです。人の言うことに振り回されていないでしょうか。そうではなく、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられている恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。

彼らの顔を恐れてはなりません。さもないと、主があなたを彼らの顔の前でおびえさせることになります。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)とあるとおりです。エレミヤが語ることばは、彼らにとって歓迎されるようなことばではありませんでした。むしろ(いぶか)られたり、拒絶されたりするようなことばでした。しかしそれでも彼は、人々の顔を恐れず主が語れと命じられたことを語らなければなりませんでした。人の顔色を見て神のことばを薄めたり、ゆがめたり、へつらったり、オブラートに包んだりしないで、ストレートに語らなければならなかったのです。

そうすれば、主は彼を「要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする」と約束されました。「要塞の町」とか「鉄の柱」、「青銅の城壁」とは、揺るぐことがない堅固な町という意味です。主はそれをエレミヤに重ねて言っているのです。恐れてはならない、おののいてはならない。主が語られたすべてを大胆に語るように。なぜなら、主があなたとともにいて、あなたを救い出されますから。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。自分で弁護するのでもないのです。人に取り入られようとへつらう必要もありません。全部主が成し遂げてくださいます。あなたは絶対に潰されることはありません。倒れることはないのです。主があなたを要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁としてくださるからです。

エレミヤの預言者としての活動は実に40年間にわたるものでしたが、たとえ40年間だれ一人あなたの語ることばに見向きもしなくても、だれ一人あなたのことばに耳を傾けなくても、それでもあなたは語り続けなさい。わたしがともにいるから。そう語られたのです。これを信じたエレミヤは、40年以上も神の働きを続けることができました。それはこの世の人々の目には不毛のように見えたかもしれません。しかし、神の目ではそうではありませんでした。アーモンドの枝のように、死んでいるように見えても花を咲かせていたのです。ですからエレミヤは、どんなに反対されても、忍耐して、忠実に語り続けることができたのです。

あなたはどうでしょうか。人にどう思われるが気になりますか。そんなこと言ったら変に思われるんじゃないかとか、バカにされるんじゃないか、仲間外れにされるんじゃないかと心配になってはいないでしょうか。ストレートに言ったら反って相手の気分を損なわせてしまうことになるのではないか。それでは逆効果だと思うかもしれない。でも恐れないでください。主はきょうあなたにこう言われます。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」と。

なかなかわかってもらえないかもしれません。拒まれるかもしれない。逆ギレされるかもしれません。それによって人間関係を失うかもしれません。でも彼らの顔を見ておびえないでください。主があなたともにいて、あなたを救い出してくださいますから。これが主の約束です。主のことばはとこしえに堅く立ちます。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに立つ。主のことばに信頼して、あなたも腰に帯を締めて立ち上がり、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。

エレミヤはアーモンドの枝をみながら、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」という主のことばを聞いて力づけられ、また肩の力を抜くことができましたが、それはエレミヤばかりでなく、あなたに対しても語られている主のことばなのです。

エレミヤ1章1~10節「エレミヤの召命」

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 今日からエレミヤ書に入ります。エレミヤは、1節にあるように、「ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子」でした。アナトテは、エルサレムの北東約4キロに位置する寒村です。昔から祭司たちが住み、祭司の村として知られていました。エレミヤは、その祭司の一人ヒルキヤの子として生まれました。すなわち、彼は子供のときから神に対する敬虔な態度を培われ、神の律法をよく学んでいたということです。

 このエレミヤに主のことばがありました。それはユダの王、アモンの子ヨシヤの時代のことで、その治世の第十三年のことでした。ヨシヤは8歳で王として即位したので、その治世の13年というのは、ヨシヤが21歳の時であったことがわかります。それはB.C.627年のことでした。その年にエレミヤに主のことばがあったわけです。

それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの民が捕囚としてバビロンに連行される時まで続いたとあります。いわゆるバビロン捕囚です。捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたという出来事です。それはB.C.586年のことですから、エレミヤの預言者としての活動は、B.C.627年からB.C.586年までの、実に41年間であったということになります。長いですね。

 彼が預言者として活動していた時期はどのような時であったかというと、イスラエルの歴史において最も暗黒な時代であった言えるでしょう。霊的にも、道徳的にも、社会的にも堕落しており、その結果、バビロンという国に捕囚の民として連れて行かれることになったのですから。エレミヤが預言者として活動を始めた時はヨシヤ王の時代でした。彼は非常に善い王様で、父アモンによってもたらされた偶像を神殿から廃棄し、祭司ヒルキヤによって発見されたモーセの書を民の前で朗読するなどして宗教改革に取り組み、イスラエルの民を神に立ち返らようとしました。

しかしそれは長くは続かず、イスラエルは再び主に背き、元の状態に戻ってしまったのです。3節にヨシヤの子エホヤキムとありますが、彼は神のことばをストレートに語るエレミヤを鬱陶(うっとう)しく思い、激しく弾圧しました。その結果、エルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって陥落し、ついにはエルサレムの民がバビロンに連行されて行かれることになってしまったのです。これがバビロン捕囚という出来事です。

聖書には年代として覚えておきたいいくつかの出来事がありますが、その一つがこのB.C.586年のことです。ちなみに、他に覚えておきたい出来事、年代としては、たとえばアブラハムが神に示された地に出て行けということばを受けて、告げられたとおりに出て行ったという出来事があります。創世記12章にありますが、それはB.C.2,000年頃のことです。それから、モーセがイスラエルの民をエジプトから解放した出来事、出エジプトですね、これはB.C.1,400年頃のことです。さらに今祈祷会でちょうどやっているところですが、ダビデがイスラエルとユダを統一して王国を築いた出来事、これはB.C.1,000年頃のことです。また、その子ソロモンによってイスラエルが分裂した出来事、これはB.C.931年のことです。そしてイスラエルの分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされた出来事、B.C.722年です。そしてこの南ユダ王国がバビロンによって捕囚の民となった出来事です。これを以ってエルサレムの民はバビロンに連れて行かれ、そこで70年の時を過ごすことになるのです。

その時の最後の王がゼデキヤでした。彼は両目をえぐられて、バビロンに連行されました。この出来事は、イスラエルの歴史において一大転機となります。かつてイスラエルがエジプトの奴隷として430年間囚われていたように、70年間他国に支配され、奴隷の民として過ごすことになったからです。最終的にそれは、罪の奴隷として罪の支配の中にあった私たちを救ってくださるイエス・キリストの救いにつながっていくのです。エレミヤはまさにこのバビロン捕囚を預言し目撃する人物として神から遣わされたのです。

それは本当に嘆かわしい出来事でした。その中でエレミヤは涙をもって、神のことばを語り続けました。エレミヤが「涙の預言者」と呼ばれる所以はここにあります。それは、ユダヤ人の宗教指導者と対峙し、激しい言葉を使いながら涙を流されたイエス様の姿でもあります。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」(マタイ23:37-38)

そしてそれは、神に背を向けて自分勝手に生きている現代の私たちに対する神の叫び、神の心でもあります。私たちは、このエレミヤを通して語られる神のことばを私たちに対する神からの涙のメッセージとして受け止め、神のみこころは何かを学び、神のみこころに歩む者でありたいと願わされます。

 Ⅰ.エレミヤの召命(4-5)

 では、エレミヤが預言者として召された出来事を見ていきましょう。4節と5節をご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」」

 すごいことばですね。エレミヤは、生まれる前から預言者として定められていました。彼は祭司の子どもとして生まれたので祭司として召されていたというのならわかりますが、祭司としてではなく預言者として定められていました。預言者とは、言葉を預かると書きますが、文字通り神の言葉を預かり、それを語る人のことです。

 それは彼が母の胎内に形造られる前からのことでした。神は彼を、胎内に形造られる前から知っておられました。この「知る」ということばは、へブル語で「ヤーダー」と言います。皆さんは「ヤーダー」と言わないでください。神に知られているということはすばらしいことなのですから。あなたも生まれる前から神に知られていました。この「知る」ということばは、夫が妻を知るという時に使われることばで、夫婦の性的関係を持つ時に用いられることばです。それほど親密なレベルで知っているということです。ただ情報として知っているというだけでなく、本当に親密なレベルで人格的に、経験的に知っているのです。そのように神はあなたのすべて知っておられるのです。あなたが胎内に形造られる前から。

そして母の胎を出る前から、国々への預言者として定めておられました。この時点で彼はそのことを知りませんでした。しかし、時至って彼はそのことを知ることになります。10章23節で彼はこう告白しています。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

人間の道とは人の一生のことですが、人の一生はその人によって決まるのではなく、神の御手の中にあり、神によって定められているのです。皆さんもまさか自分がクリスチャンになってここにいるようになるなんて考えたこともなかったでしょう。だれも知りません。でも神はすべてのことを知っておられます。そして、その歩みを確かなものにしてくださるのです。

 それは私たちも同じです。私たちがクリスチャンになることは、私たちが生まれる前から、神によって定められていたことなのです。エペソ1章4節には、「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4)とあります。私たちは、生まれる前から、いや、世界の基が据えられる前から、クリスチャンになるように選ばれていたのです。このようになるようにと定められていたのです。

このようなことを申し上げると、中には私はロボットではない。一人の人格を持った人間であり、何をするかといった選択の自由が与えられているのであって、定められていたというのはおかしいと言う方がおられます。しかし、そうした選択さえも予め定められているのであって、私たちがどこにあってもキリストを信じるように導かれていたのです。ですから今皆さんがここにいるのも決して偶然ではないのです。

私は18歳の時に今の妻と出会い、クリスチャンになりました。どうして妻に出会ったのかを考えても本当に不思議だなぁと思います。全く考えられないことでした。しかし、今になって思うことは、エレミヤが、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」と告白したように、すべてが主の導きによるものであったということです。綾小路きみまろの「あれから40年!」というフレーズが有名ですが、私のあれから40年も、まさに主の導きによるものであったと実感するのです。決して「偶然」ではなかった。そうです、人の一生は生まれる前からすでに神のみ手にあり、その使命は定められているのです。

ある夕方、ひとりの大学教授が机に向かって翌日の講義の準備をしていました。家政婦が置いていった書類や手紙に目を通しながら、不要なものをくずかごに捨て始めたとき、ある雑誌が目に留まりました。それは、彼の事務所に誤って配達された雑誌でした。それが床に落ちたとき、たまたまその雑誌の中の「コンゴ伝道の必要性」という記事が載ったページが開いたのです。教授は何とはなしにその記事を読み始めると、そのとき、このことばが彼の心をとらえました。

「コンゴでの必要性は大きい。中央コンゴの北部、ガボン州を担当する人がいない。この記事を書きながら、わたしはこう祈っている。主イエスは、このために召された人物の上に、すでにその目を注いでおられる。今こそ神がその人物の上に手を置き、私たちを助けるために彼をこの地に派遣してくださるように。」

雑誌を閉じた教授は、その日の日記に書き記しました。「私の探求は終わった。」

彼はコンゴに身をささげることにしました。この教授の名前はアルバート・シュバイツァーです。この小さな記事は、他人宛ての雑誌の中に潜んでいたものでした。その雑誌が、誤ってシュバイツァーの郵便受けに入れられていたのです。さらに、家政婦が偶然にもそれを教授の机の上に置きました。そして偶然にも教授がその記事のタイトルに気付きました。まるでタイトルの方が彼の目に飛び込んで来たかのようでした。

シュバイツァー博士は、人道主義的な分野で、20世紀を代表する偉大なひとりとなりました。彼の功績は、人類の歴史上、ほとんど他に類を見ないほどのものです。これは偶然に起こったのでしょうか。いや、これは神の摂理によるのです。(Dan Betzer 「Preaching Today.com」)

エレミヤは、自分は神から召されたのだという強い確信がありました。これが、いかなる困難に遭遇しても、それを乗り越えることができた理由です。神は、エレミヤが誕生する前から彼を預言者として選んでおられました。これは私たちにも言えることです。あなたは、自分が神から選ばれた者であることを知っていましたか。神が選んでくださったのであれば、最後まで必ず責任をもってくださいます。あなたは何も心配いりません。何も思い悩む必要はないのです。あなたに必要なのは、永遠の昔から神によって知られ、生まれる前から聖別され、神の栄光のために定められていると信じることなのです。

 Ⅱ.エレミヤの応答(6-8)

 次に、この神の召しに対するエレミヤの応答を見たいと思います。6~8節をご覧ください。「私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。主のことば。」私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」」

 神の召命に対するエレミヤの応答は、「私はまだ若くて、どう語ってよいかわかりません」というものでした。この時エレミヤが何歳だったのかははっきりわかりませんが、預言者として立つにはまだ若いと言っていることから、恐らく20代前半位だったのではないかと思われます。そんな若者がどうやって語れというんですか。そんなの無理です、できるわけがありませんと、答えたのです。もしかすると彼は、祭司の子として生まれたこともあって、預言者として召されることにためらいがあったのかもしれません。あるいは、彼の時代からさかのぼること100年前に現れて神のことばを大胆に語った預言者イザヤと比較して、自分にはとてもそんな力はないと思ったのかもしれません。いずれにせよ、自分にはできませんと答えました。

それに対して、主は何と言われたでしょうか。7節をご覧ください。「主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」

「まだ若い、と言うな」、これは言い訳するな!ということです。できない理由をあげたらきりがありません。自分は若くて未熟な者です。まだ訓練が十分ではありません。自分は預言者としては不適格です。しかし、そのような言い訳は一切必要ありません。というのは、神がエレミヤを預言者として召されたのは、彼に能力があったからではなく、また、知識や経験があったからでもなく、神がそのように選ばれたのだからです。従って、彼に求められていたことは何かというと、能力や知識や経験があるということではなく、ただ神に従うことでした。神が遣わされるところであればどんなところでも行き、神が命じられたことであればそれをその通りに語ることです。すなわち、神のことばに忠実であることです。この預言者の資格について元東大総長の矢内原忠雄は、聖書講義の中で次のように言っています。

「預言者の資格は年令や人生の経験によるのではなく、素直に神の示されたものを見、語られることを聞き、命じられた言葉を告げる真実な心と純粋な信仰にあります。・・預言者は神の言葉を聞いて、これに加えることなく、また減らすことなく、そのまま純粋に伝えることを任務とするため、素直で真実な性格を要求され、人の顔を恐れない勇気を必要とします。」(矢内原忠雄、「聖書講義」8:580)

まさにその通りです。たとえ若かろうと老いていようと、才能があろうとなかろうと、口が重いとか軽いとかということとは全く関係なく、神の預言者に求められているのは、神の言葉を聞き、それをそのまま伝えることです。ですから、預言者に求められることは素直で真実であることなのです。また、人の顔を恐れない勇気です。ですから、8節に次のように勧められているのです。「彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」」

 エレミヤの問題は、人の顔を恐れていたことでした。しかし神はいつもエレミヤとともにあって救い出してくれるから、人の顔を恐れるなと言われたのです。箴言29章25節には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」とあります。人を恐れるとわなにかかります。しかし、主に信頼する者は守られます。どんなに強い確信をもっていても、失望する時は必ずやって来ます。そんな時エレミヤは、神との絶えざる交わりを通して、新しい力を得ていかなければならなかったのです。

あなたはどうですか。人の顔を恐れていませんか。恐れは、私たちの行動を束縛します。しかし、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)とあるように、神の完璧な愛の前に、恐れは一瞬にして締め出されます。大切なのは、神様とともに歩むことです。

「リビングライフ」というディボーションガイドの古いものを見ていたら、数年前に天に召された韓国のオンヌリ教会のハ・ヨンシュ先生の「愛する人を慕うように」というタイトルの詩を見付けました。
「苦しみ自体は問題ではありません。神様がともにおられないことが問題です。苦痛がのろいではありません。神様がともにおられないことがのろいです。神様は神の人と毎日、毎時間、ともにおられる方です。
神様がともにおられると、恐れはありません。失敗しても、病気になっても問題ではありません。死さえも恐れなくなります。主とともにいると、すべてがうまくいきます。すべてがうまくいくとは、すべてのことがともに働いて益となるということです。苦しみが去っていくのではなく、苦しみを打ち破って、勝ち抜く力を持つことです。
「神様が私たちとともにおられる」と思うだけで、すべての責任を神様が取ってくださるような気がします。
それをまた別の視点で見て、「私たちが神様とともにいる」と考えると、私たちは神様を忘れてはならないということになります。たとえ苦痛や悩みがあっても、私たちの中には神様がおられます。一日を神様ともに始めてください。そして、一日中ともに行動してください。いつも神様のことを考えてください。神様のことを考えることが、神様とともに行動することです。それは私たちの特権です。
(ハ・ヨンジュ、「愛する人を慕うように」リビングライフ2010年4月号)

すばらしいですね。神とともにいるなら、恐れは全くありません。死さえも恐れなくなるというのはすごいことです。私たちにとって最も重要なのは、この神とともにいることです。神とのつながりを通して、日々新しい力を受けようではありませんか。人の顔を恐れないで、神に信頼しましょう。

Ⅲ.エレミヤの使命(9-10)

第三に、エレミヤに与えられた使命です。9~10節をご覧ください。「そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」」

そのとき主は御手を伸ばし、エレミヤの口に触れられました。これは、イザヤが召命を受けたときの状況に似ています(イザヤ6:7)。それは彼の口がきよめられたことを表しています。それは、神のことばを語るのにふさわしい者となったということです。そんなエレミヤに対して主が言われたことは、「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。」ということでした。それは、何を話そうかと自分で考えたり、自分で編み出す必要はないということです。神が与えてくださったことばを語るだけでいいのです。預言者とは「言葉」を「預かる」と書きますが、文字通り神の言葉を預かって語る人のことです。自分がどう思うか、どう考えるかということではなく、神が語れと言われることを語ればいいのです。それは聖書に書いてありますから、聖書のことばを語るだけでいいのです。神は、その語るべきことばさえも与えてくだいます。

忘れもしません。私は1983年5月29日の日曜日の礼拝から、ほとんど毎週休みなしで語り続けてきました。それは私たちが結婚した翌日のことでよく覚えています。その前日の土曜日に結婚式を挙げて新婚旅行に行きましたが、翌日は家に戻って来て礼拝をスタートしました。あれから38年。まあよく喋ること、お父さんは口から生まれて来たんじゃないかとよく娘に言われますが、そんなことはありません。私は生まれた時から口が重く、口べたなんです。できれば、貝のように口を閉ざし、ずっと黙っていたいと思っているくらいなんで。誰も信じないかもしれませんが本当です。ただⅡテモテ4章2節の「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」のみことばを読んだとき、「ああ、時が良くても悪くても」語らなければならないと思いました。その使命感だけでずっと語り続けています。できれば、もっと流暢に、もっとおもしろく、もっと感動的な話ができたらなぁと思うこともありますが、そんなの関係ありません。預言者である牧師にとって必要なことはいかに上手に話をするかではなく、主が語れと言われたことを忠実に語ることだからです。何を話すのか、どのように話すのかは全く関係ないのです。語るべきことばは、主が与えてくださいますから、そのことばをストレートに語るだけでいいのです。それが私たちにゆだねられている使命なのです。

では、主がエレミヤに語られたのはどんなことだったでしょうか。10節をご覧ください。ここには、「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」とあります。

これはどういうことかというと「破壊」と「建設」です。「さばき」と「回復」です。エレミヤが神のことばとしてイスラエルの民に語ったことは、イスラエルの滅亡の預言と、悔い改めのメッセージでした。罪の悔い改めがなければ、神の赦しと回復はありません。まず引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊します。しかし、それで終わりではありません。主はそこからまた建て、植えられるのです。引き抜かれることがありますが、また植えられます。壊すことがありますが、また建て直してくださいます。言い換えるなら、もしあなたが今、引き抜かれ、引き倒されているような状況に置かれているなら、それはやがて植えられるために必要な過程を通されているということです。その中でこそあなたは悔い改め、やがて植えられることになるからです。ここに真の回復と希望があります。真の回復と希望は、こうした罪の悔い改めの結果もたらされるものであって、それを避けてはならないのです。

ある有名な映画女優が、仕事と遊びに忙しくて、家をあけてばかりいました。家には十代後半の娘がひとり、お手伝いさんといっしょに暮していました。それでも自分が母親だということは自覚していた母親は、その娘の誕生日に、旅先のローマからすばらしい花びんを送ったのです。ところがその花びんが届くと、娘はそれを床の上に投げつけて言いました。「私がほしいのは花びんじゃない。ママなのよ!」母親から離れてしまった子供は、たとえどんなにすばらしいものをたくさん持っていたとしても不幸です。ちょうど同じように、私たちは自分を創ってくださった神から離れては、どんなに財産があっても、地位が高くても、また名誉を与えられていても、本当に幸福にはなれないのです。(羽鳥順二著、「初めて聖書を開く人のための12のステップ」P48)

私たちもこの映画女優のような仕方で、幸福を得ようしてはいないでしょうか。神から離れたままでは真の幸福を得ることはできません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず・・・」(ローマ3:23)とあります。神から離れているという事実がわからないで、どうやって神のもとに帰ることができるでしょうか。言い換えるなら、自分が罪人であるという自覚がなければ、きよい神を知ることができないということです。先ほどの矢内原忠雄氏はこう言っています。「望遠鏡を用いないで天文学の研究をすることが愚かであるように、自分自身の罪を通さずに神を見ようとする者はおろかなことである。」

また、宗教改革者のカルヴァンも「人間の罪深さを知らないで、どうしてきよい神を知ることができようか」と言っています。そうです、私たちが自分は罪人だと気づいた時、次の聖書のことばの意味がよくわかるようになるのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

真の回復は、破壊から始まります。真に植えられることは引き抜くことから始まるのです。罪の自覚と悔い改めなしには、真の赦しはありません。救いと希望はないのです。ですから主はエレミヤに、破壊と建設、さばきと回復のメッセージを語るようにと言われたのです。これが、私たちが語るべき福音のメッセージです。破壊的な働きは人からは好まれません。だれも聞きたくないからです。それで涙することもあるでしょう。でも、真の救いは罪の悔い改めから始まるということを覚えて、この福音のメッセージを語り続けましょう。「まだ若い」と言わないでください。主があなたを遣わすどんなところへでも行き、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。彼らの顔色を恐れるな。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。

エレミヤ書2章14~19節「いつも主を前に置いて」

 新しい年を迎えました。この新しい年を、皆さんはどのような思いで迎えられたでしょうか。箴言4章23節に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。いのちの泉は私たちの心からわいてきます。ですから、力の限り、見張って、あなたの心を見守らなければなりません。新しい年も神の御言葉によって、心の井戸を深く掘っていきたいと思います。

この新年の礼拝で、主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書2章14~19節の御言葉です。前回もお話したように、この2章には神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿を、いくつかの比喩をもって語られています。1~8節までには不誠実な妻の姿を通して、また9~13節には、壊れた水溜のたとえをもって描かれてきました。

きょうのところには、奴隷としてのイスラエルの姿を通して語られています。イスラエルは奴隷なのか、それとも家に生まれたしもべなのか、ということです。だから、知り、見極めよ、と。何を見極めるのでしょうか。19節の後半にこうあります。「あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。」主を捨てて、主を恐れないことは、いかに苦しいことであるのかを、です。すなわち、主を恐れないこと、主に信頼しないことが、いかに悪いことであり苦しいことであるかということです。このことを見極めなければなりません。この新しい年、私たちはこのことを見極め、真に主を恐れ、主に信頼して歩む年でありたいと思います。

 Ⅰ.イスラエルは奴隷なのか(14-16)

 まず14節から16節までをご覧ください。「14 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。15 若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。16 メンフィスとタフパンヘスの子らも、あなたの頭の頂を剃り上げる。

 ここで預言者エレミヤは、イスラエルの背信がどのような結果を招くのかを語っています。イスラエルは神に背いた結果、どうなったでしょうか。14節には「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。」とあります。

当時、奴隷には二つの種類がありました。お金で買われて奴隷になった者と、奴隷の両親の間に生まれた、生まれながらの奴隷です。イスラエルは神の民として贖われた者ですから、自由な民であるはずです。まして生まれながらの奴隷であるはずがありません。それなのに、彼らの状態はもっと悪くなっていました。戦争によって捕虜となり、獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になっていたのです。どうしてこのようになったのでしょうか。いうまでもなく、彼らが自分の神を捨てて偶像に仕え、外交や武力によって自分たちの安全を保つことができると考えたからです。その結果、どうなったでしょうか。

 15節をご覧ください。「若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。」

 「若獅子」とはライオンのことです。聖書では、イスラエルを荒らす敵の比喩としてしばしば用いられています。文脈によってそれはアッシリヤであったり、エジプトであったり、バビロンであったりしますが、ここではバビロンのことを指しています。バビロンがイスラエルに向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせるというのです。その町々は焼かれて、住む者がいなくなります。エレミヤがこれを語った約40年後に、実際にこのことが起こります。バビロン捕囚という出来事です。B.C586年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを攻め落とし、そこに住んでいた者たちを捕囚の民としてバビロンに連れて行きました。

それはバビロンだけではありません。エジプトもそうです。16節にある「メンフィスとタフパンヘス」は、ともにエジプトにある都市です。つまり、もし彼らがエジプトに保護を求めるなら、彼らがあなたの頭の頂を剃り上げるようになるというのです。ユダヤ人にとって髪を剃り上げることは、恥を見ること、悲しみに打ちひしがれることを表わしていました。イスラエルはせっかく神によって贖われ自由の民とされたのに、その神に背きメンフィスやタフパンスに助けを求めたことで、再び奴隷の状態に陥り獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になったのです。私たちもせっかく主イエス・キリストによって罪から解放され自由の民とされたのにその神に背くなら、若獅子の獲物にされてしまうことになります。頭の頂を剃り上げられることになるのです。

1ペテロ5章8節にこうあります。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

ここでは、悪魔がほえたける獅子のようだと言われています。悪魔は、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩き回っています。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。そうでないと、当時のイスラエルのように若獅子の獲物にされてしまいます。頭の頂を剃り上げられてしまうことになるのです。そういうことがないように、身を慎み、目をさましていなければなりません。エレミヤは、かつてB.C.722年に北王国イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされたことを思い起こしながら、南ユダ王国の人々に、注意しないとあなたがたもライオンの餌食にされてしまいますよ、と警告しているのです。

それは今を生きる私たちにも言えることです。注意しないと、私たちもライオンの餌食にされてしまいます。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。自分は大丈夫と思っている人ほど危ない人です。悪魔なんてやっつけてやるという人ほど簡単にコロリとやられてしまいます。私たちは若獅子の餌食にならないように身を慎み、目をさましていなければなりません。

Ⅱ.なぜ、獲物にされたのか(17~19a)

いったい彼らの問題は何だったのでしょうか。なぜ彼らは若獅子の獲物にされてしまったのでしょうか。次にその理由について考えたいと思います。17~19節前半をご覧ください。「17 あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。18 今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリヤへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。「あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。」

いったいなぜ彼らは獲物にされてしまったのでしょうか。それは彼らが主を捨てたからです。彼らの神、主が彼らに道を進ませたとき、彼らが主を捨てたので、このようになったのです。どうしてナイル川の水を飲みにエジプトへ向かうのでしょうか。どうして大河ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤへ向かうのでしょうか。それは彼らが自分たちの神、主に助けを求めないで、エジプトやアッシリヤに助けを求めたからです。その悪が彼らを懲らしめ、彼らの背信が彼らを責めたのです。

私たちも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書ではエジプトはこの世の象徴として描かれています。また、アッシリヤは超大国の象徴として描かれています。私たちもイエス様を信じていてもにっちもさっちもいかなくなると、目に見えるこの世のもので安心を得ようとすることがあります。しかし、そのような水をいくら飲んでもまた渇くと、イエス様は教えてくださいました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

また使徒パウロは、そうした頼りにならないものに望みを置かないようにと警告しています。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように、と(1テモテ6:17)。そのようなものに望みをおくと、結局のところ、裏切られてしまうことになります。皆さんもそういう経験があるでしょう。

実際、イスラエルの王であったヨシヤ王も、この後B.C.609年にエジプトに攻め込まれて死んでしまうことになります。メギドの戦いです。エレミヤがこれを警告したのはB.C.627年のことですから、実に18年後のことになります。彼らはエジプトに助けを求めたのに、そのエジプトによって滅ぼされてしまうのです。まさに、頭の頂を剃り上げられたのです。その後、新興国であるバビロン帝国が台頭して来て、エジプトも、アッシリヤも、そしてこの南ユダ王国も滅ぼされしまうことになります。そして、バビロンの奴隷として、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになるのです。どんなにエジプトを頼っても、どんなにアッシリヤを頼っても、そうしたものは何の助けにもならないのです。

預言者イザヤは、そんなイスラエルの姿を短い毛布にたとえてこう言いました。「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」(イザヤ28:20)皆さん、わかりますか。エジプトという寝床は、身を伸ばして寝るには短すぎます。アッシリヤという毛布は、身をくるむには狭すぎるのです。私の妻はいつも毛布に身をくるんで寝ていますが、見ると足がベッドからはみ出しています。背中には毛布がかかっていません。短じかすぎるのです。狭すぎるのです。そのようなものは安全のための何の保障にもなりません。それなのに、どうしてエジプトやアッシリヤへの道に向かうのでしょうか。どうして主なる神に背を向けて、この世に向かって走って行くのでしょうか。

あなたがこの世に向かって走るなら、結果的に神に背を向けることになります。その結果、懲らしめや責めを受けることになるのです。勿論、それはこの世を捨てるということではありません。この世を憎むということでもありません。神はこの世を愛されました。神は一人も滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。そのためにひとり子をこの世に与えてくださいました。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためです。ですから、私たちは神がこの世を愛されたように、私たちもほかの人々を愛するべきです。

しかしそれは、この世の考えやこの世を優先することではありません。神様以上にこの世を愛してはならないと、イエス様は言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

神の子とされた者、クリスチャンは、その優先順位を神の価値観に従って、選択すべきです。誰も二人の主人に仕えることはできないからです。神とこの世に同時に仕えることはできません。その優先順位において神よりもこの世を優先するなら、それは神に背を向けてしまうことになります。その悪があなたを懲らしめ、その背信があなたを責めることになるのです。

皆さん、私たちが歴史から学ぶことは何でしょうか。それはたった一つのことです。それは、人類は歴史から何も学ばないということです。本来、彼らは学ぶべきでした。彼らと同じことをすれば自分たちはどうなるのかということを。自分たちもそうなるということ。しかし、彼らは何も学びませんでした。そして同じように痛い目に遭ってしまったのです。どんな人でも最初の一歩を間違えると、どんどん神から離れていってしまいます。しかし、信仰によって小さな一歩を踏み出すと、その人の人生は神によって祝福されたものへと導かれます。

1969年7月16日、アメリカの有人ロケット「アポロ11号」が月に着陸して、初めて人間が月を歩いた時、ニール・アームストロング船長はこのように言いました。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」

それはあなたにとって小さな一歩かもしれません。しかし、それはあなたの人生にとって偉大な一歩となるのです。その信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。

Ⅲ.だから、知り、見極めよ(19b)

では、どうすればよいのでしょうか。最後に19節の後半を見て終わりたいと思います。「だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。-万軍の主のことば。」

この箇所のまとめです。私たちにとって必要なのは、このことを知り、見極めることです。アッシリヤやバビロンの奴隷になるという悲惨さの原因は、指導者の政策が悪いからではありません。それは神を捨て、神を恐れないことです。これが最も根本的な原因なのです。悲惨の原因が自らの罪であることを知らないことが最大の悲惨でありますこのことを知り、見極めるようにと、エレミヤは教えているのです。あなたはこのことを知り、見極めているでしょうか。

昨年からサムエル記を通してダビデの生涯を学んでいますが、ダビデはこのことを知り、見極めていました。主が彼を、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼は主に向かってこのように歌いました。「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」(Ⅱサムエル記22:7)ダビではいつも苦しみの中で主を呼び求めました。すると主は彼の声を聞かれ、彼は助だされたのです。

私たちの人生に何が起こるか、だれも予測することはできません。突然、病気や事故や災いに襲われることがあります。まさに人生という舞台に、大きな穴がポッカリと開くような出来事に遭遇することがあるのです。そんなときに、ある人は穴を見て絶望し、運命を呪い、悲しみに暮れます。またある人は、穴を見ないふりをして、現実から逃避しようとします。しかしダビデは、その穴から神を見ました。神を見て、神に信頼し、神に叫んだのです。そして、その穴から救われるという経験をしたのです。すなわち、その穴から、穴が開かなければ、決して見ることがない新しい世界をしっかり見つめたのです。なぜなら、彼はいつも、主を恐れ、主に信頼していたからです。

彼は、詩篇16篇で次のように告白しています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)すばらしいですね。これを、今年の教会の目標聖句にしたいと考えています。「私の前に主を置く」とは、いつも主の助けと導きを仰ぐことです。これによってダビデは、「揺るぐことはない」と告白することができました。彼はサウル王に追われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でした。また、その後イスラエル王となってからも、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中にあっても、彼の心の深い所には神様との強い絆がありました。だから彼は揺るがされなかったのです。それは、彼がいつも主に信頼し、主を前に置いていたからです。

17世紀に、フランスの修道院において台所の奉仕で一生涯を終えたブラサー・ローレンスという人がいますが、彼は「神の臨在の実践」(The Practice of the Presence of God)の中でこう言っています。「仕事の時は、私にとって祈りの時とさして変わらない。台所でガチャガチャした騒音に埋もれ、色々な人々が同時に別々なことで私を呼んでいる時でさえ、私は聖餐式の時に跪いているかのような大いなる静けさの中に住み給う神を持っている」

彼は、それが仕事の時であろうと、祈りの時であろうと、いつも神の臨在の中にいるようでした。それは彼が大切にしていたのは、そうした事柄の背後にある動機であったからです。つまり、いつも自分の前に主を置いているかどうか、そして、何をするにしても、その主への愛に対する応答であるかどうかということです。

彼はダビデのように、いつも自分の前に主を置いていたのです。

新しく迎えたこの2022年、さまざまな計画があり、活動があることでしょうが、それらの活動に勝って、私たちが知り、見極めなければならないことは、主を恐れ、主に信頼し、心を尽くして主を求めることです。ダビデのように「私の前に主を置く」という心の営みを一人一人のものにさせていただこうではありませんか。