民数記2章

きょうは民数記2章から学びたいと思います。まず1~2節をご覧ください。

1.旗じるしのもとに宿営しなければならない(1-2)

「1 はモーセとアロンに告げて仰せられた。2 「イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。」

1章では20歳以上の者で、軍務につくことのできる者が登記されました。その数の総計は603,550人でした。それは、これから約束の地に向かって進む彼らにとって、戦いに備える必要があったからです。そのように軍隊が組織されてこそ、敵と戦っていくことができます。ですから、その最初は軍隊を整えることだったのです。きょうのところには、その配置について教えられています。ここには、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない、とあります。イスラエルの民は、自分の好きなところにどこでも良いから宿営するのではありませんでした。部族ごと、決められたところにテントを張ります。そして、そのしるしがこの旗でありました。旗しるしのもとに宿営することになっていました。この旗は、それぞれ幕屋の周りの東西南北の4方向に掲げられています。12部族は、それぞれの方角に3部族ずつ割り当てられ、それぞれに代表の部族がいました。

ここでの「旗」とは部隊としての「旗」(デゲル)で、旧約聖書の中には14回使われていますが、そのうち13回がこの民数記で使われています。これは「旗をかかげる」「際立たせる」「群れをなして集まる」という意味があります。イスラエルの民は自分の属する旗のもとに宿営したのです。全体としては、12部族が「会見の天幕」を中心にして互いに向き合い、互いに寄り添い合う形となっています。この「旗」は自分の持ち場を知って、そこで「共に生き」、「共に歩み」、「共に進み」、「共に敵と戦い」、「共に仕える」ことを意識させるシンボルでした。

それは新約聖書ではキリストご自身のことであり、キリストのことばを象徴しています。私たちはその旗じるしのもとに集められた者であり、「キリストの名」のもとに集まり、とどまらなければなりません。キリストは次のように言われました。

「4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:4-9)

イエスを離れては、私たちは何もすることができないのです。イエスにとどまってこそ、私たちは敵に勝利することができます。ですから、私たちはキリストにとどまることを学ばなければならないのです。

こうしてイスラエル人で軍務につく者の人数が数えられました。次に、彼らが宿営においてどこに位置するのか、その配置について書かれています。

2.東側に宿営する者(3-9)

では、それぞれの配置を見ていきましょう。まず東側に宿営する者です。3-16節までをご覧ください。

「3 前方、すなわち東側に宿営する者は、軍団ごとにユダの宿営の旗の者でなければならない。ユダ族の族長はアミナダブの子ナフションである。4 彼の軍団は、登録された者が、七万四千六百人である。5 その隣に宿営する者は、イッサカル部族であり、イッサカル族の族長はツアルの子ネタヌエルである。6 彼の軍団は、登録された者が、五万四千四百人である。7 ついでゼブルン部族がおり、ゼブルン族の族長はヘロンの子エリアブである。8 彼の軍団は、登録された者が、五万七千四百人である。9 ユダの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭に進まなければならない。」

まず、東側から見ていきたいと思います。東側は宿営が前進していく方向です。そこにはユダ部族の旗が掲げられました。そして、この旗じるしのもとに右隣にイッサカル族が、左隣にゼブルン族が宿営しました。この三つの部族が幕屋の東に宿営したのです。その合計の人数は18万6400人です。後で他の方角の宿営地を見ますが、そのどれにもまさって、もっとも大きくなっています。9節後半をご覧ください。ここには、「彼らが先頭に進まなければならない。」とあります。これは、イスラエルが旅立つとき、東のユダ部族が先頭になって進んで行ったということです。いったいなぜでしょうか?それは、これがイエス・キリストを表していたからです。

創世記49章9~10節を開いてください。ここには、「9ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」とあります。シロとは犬の名前ではありません。シロとはメシヤのことです。これは王なるメシヤがユダ族から出て諸国の民を従わせるという預言なのです。メシヤなる方は、このユダ族から起こります。イエス・キリストは「ユダの獅子」なのです。このイエスが先頭に立って進んでくださるのでイスラエルは勝利することができるのです。

それは幕屋の構造を見てもわかります。幕屋の入り口はどの方向にあったでしょうか?東側です。東から入って西へ、至聖所、神の臨在へと至るのです。イエスは言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)イエスが門なのです。だれでもイエスを通って入るなら救われるのです。イエスこそ神に至る道であり、私たちを神と結びつけることのできる唯一の仲介者なのです。ですから、ユダ族が先頭に立って進まなければならなかったのです。

3.南側に宿営する者(10-17)

次に 10~17節 をご覧ください。ここには南側に宿営する者がどの部族であるかが記されてあります。

「10 南側にはルベンの宿営の旗の者が、軍団ごとにおり、ルベン族の族長はシェデウルの子エリツルである。11 彼の軍団は、登録された者が、四万六千五百人である。12 その隣に宿営する者はシメオン部族であり、シメオン族の族長はツリシャダイの子シェルミエルである。13 彼の軍団は、登録された者が、五万九千三百人である。14 ついでガド部族がおり、ガド族の族長はデウエルの子エルヤサフである。15 彼の軍団は、登録された者が、四万五千六百五十人である。16 ルベンの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十五万一千四百五十人。彼らは二番目に進まなければならない。17 次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営は、これらの宿営の中央にあって進まなければならない。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならない。」

南側にはルベン族が宿営し、ルベン族の旗が掲げられます。その右隣にはガド族がおり、左隣にはシメオン族がいます。その総数は151,450人です。イスラエルが旅立つときは、ユダ族に続いて、二番目にこの軍団が出発しなければなりませんでした。

そして17節をご覧ください。ここには、次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営について記されてあります。彼らはこれらの宿営の中央にあって進まなければなりませんでした。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならなかったのです。

レビ人の宿営、つまり幕屋の用具や付属品を運んでいる人たちは、三番目に進みます。これは、前方からも後方からも軍がおり、幕屋が敵から守られるためです。彼らが宿営する真ん中に幕屋があり、彼らが進んでいる真ん中にも幕屋があります。これはすばらしいことです。彼らの真ん中には常に主なる神が住んでおられたのです。また、彼らは常に主なる神を中心に生活を営んでいました。

4.西側に宿営する者(18-24)

次に18~24節までをご覧ください。

「18 西側にはエフライムの宿営の旗の者が、その軍団ごとにおり、エフライム族の族長はアミフデの子エリシャマである。19 彼の軍団は、登録された者が、四万五百人である。20 その隣にマナセ部族がおり、マナセ族の族長はペダツルの子ガムリエルである。21 彼の軍団は、登録された者が、三万二千二百人である。22 ついでベニヤミン部族がおり、ベニヤミン族の族長はギデオニの子アビダンである。23 彼の軍団は、登録された者が、三万五千四百人である。24 エフライムの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十万八千百人。彼らは三番目に進まなければならない。」

ここには西側に宿営した部族について書かれています。西側は東側の反対、それはちょうど幕屋の裏側になります。そこにエフライム族が宿営し、エフライム族の旗が掲げられます。そして幕屋に向かって右隣にマナセ族、左隣にベニヤミン族が宿営しました。マナセではなくエフライムが中心になっているのはおもしろいですね。マナセが兄でエフライムが弟です。それなのにマナセ、エフライムではなく、エフライム、マナセの順になっています。なぜでしょうか?それはヤコブの預言のとおりだからです(創世記48:13-14)。マナセが兄であったのも関わらず、ヤコブは腕を交差させて、エフライムに長子の祝福を行ないました。そして、弟が兄よりも強くなることを預言しました。はたして、そのとおりになったのです。

5.北側に宿営する者(25-32)

次に北側に宿営する者です。25-32節をご覧ください。

「25 北側にはダンの宿営の旗の者が、その軍団ごとにおり、ダン族の族長はアミシャダイの子アヒエゼルである。26 彼の軍団は、登録された者が、六万二千七百人である。27 その隣に宿営する者はアシェル部族であり、アシェル族の族長はオクランの子パグイエルである。28 彼の軍団は登録された者が、四万一千五百人である。29 ついでナフタリ部族がおり、ナフタリ族の族長はエナンの子アヒラである。30 彼の軍団は、登録された者が、五万三千四百人である。31 ダンの宿営に属する、登録された者の総数は、十五万七千六百人。彼らはその旗に従って最後に進まなければならない。32 以上がイスラエル人で、その父祖の家ごとに登録された者たちであり、全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」

北側にはダン部族が宿営し、ダンの旗が掲げられました。その右隣にアシュル族が、左隣にナフタリ族がいました。

こうして、東西南北の4つの方角に整然とイスラエルが宿営している姿は、遠くから見たら、ほんとうにすばらしい光景であったでしょう。それにしても、なぜ神はこのような配置を取らせたのでしょうか。ここで各方角に宿営した部族の総人数に着目してください。9節を見ると、東側の総数は186,400人と一番多いことがわかります。そして、南と北がそれぞれ15万人強で、大体同じ人数です。同じ方角のレビ人の人数を数えて足すと、南も北も同じような人数になりです。そして、西がもっとも少ない135,400人です。ということは、これを上空から眺めると、つまり鳥の目で見ると、それは十字架のかたちになります。これは十字架のフォーメーションだったのです。十字架こそ荒野を旅するイスラエルにとって勝利の秘訣であったということです。もちろん、その時点ではそんなことに気付かなかったでしょうが、これはイエス・キリストご自身を指し示していたのです。

ここで民数記24章5~6節を開いてみたいと思います。イスラエルを呪うように預言するように雇われたバラムは、この神の宿営を見てこう言いました。「なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、延び広がる谷間のように、川辺の園のように、主が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように。」(民数記24:5-6)バラムは、まじないによってイスラエルを呪うようにバラク王に雇われたのに、その美しいフォーメーションを見たとき、祝福してしまったのです。思わず・・・。十字架を見てだれも呪うことなどできません。それはかつて処刑の道具として用いられたおぞましいもので、呪われたものなのに、それが祝福のシンボルに変えられたのです。それは十字架こそ神が私たちを救うために用いられた神の愛の象徴だからです。よくアクセサリーで十字架のものが付けられています。十字架のネックレスとか、十字架のイヤリングとか・・。十字架は神と私たちのアクセスになってくりたのでアクセサリーになったのです。だれも十字架を呪うことはできません。だれでもイエスの十字架のもとに行くなら罪から救われ、永遠のいのちという祝福を受けるのです。

ところで、最後になぜイスラエルの12部族を4つの旗のもとに、4つのグループに分けたのかを考えて終わりたいと思います。その4つというのはユダ族、ルペン族、エフライム族、ダン族であるというのは、さきほど見ました。そして、それぞれこの4つの紋章を見ると、一つのことに気が付きます。それは、これが天的な存在であるケルビムを表しているということです。

まずユダ族ですが、ユダ族の旗じるしはライオン、獅子でした。それからルペン族は人間です。またエフライム族は雄牛です。そしてダン族は鷲ですね。聖書の他の箇所で、この四つの動物が出てくる箇所があります。それはエゼキエル1章と黙示録4章です。エゼキエル1章10節には、人間の顔、獅子の顔、牛の顔、鷲の顔をもった生き物が当時用します。これは黙示録4章7-8節を見ると、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を賛美している天使であることがわかります。そう、それはケルビムとか、セラフィムと呼ばれる天使たちのことであり、その類の生き物なのです。つまり、この4つの旗じるしをと通して、天国のイメージを表していたのではないかということです。

それからこの4つの生き物ですが、これは4つの福音書を表しているのではないかということです。その最初はマタイの福音書です。マタイの福音書はユダヤ人の王として来られたイエス・キリストを表しています。ですから、王としての系図が記されてあるのです。マタイの福音書はユダヤ人のために書かれたのです。動物の王といったら何でしょうか。百獣の王ライオンです。それはユダの紋章でした。ですから、ユダ族に対応するのがマタイの福音書です。

それからマルコの福音書は、しもべとしてのキリストが描かれています。しもべとして仕えるために来られたキリストの姿です。ですから、マルコの福音書には系図がないのです。エフライム族の紋章は雄牛でした。それはしもべの象徴です。ですから、エフライム族に対応するのがマルコの福音書なのです。

そして、ルカの福音書は人間としてのキリストの姿が描かれています。人の子としてのキリストです。ですから、系図はアダムまで遡って記録されています。ルペン族の紋章は何だったでしょうか。それは人間でした。ですから、これはルカの福音書に対応します。

そして、ヨハネの福音書は神としてのキリストが強調されています。それはダン族によって現されています。鷲のように空高く飛ぶことができる。それはまさに天的な存在を表していたのです。。イエスこそ神の子であるということです。

ですから、このイスラエルの宿営はイエス・キリストご自身と、その十字架が描かれていたのです。神の子として、人の子としてこの世に来られたイエス・キリストを受け入れるなら、私たちは救われ、圧倒的な神の臨在の中で勝利が与えられるということです。そのことが現されているのが福音書です。この福音を理解して、福音に生きるなら、私たちも勝利のうちに約束の地に行くことができるのです。

民数記1章

きょうから民数記の学びに入ります。「民数記」は英語で「Numbers」と言いますが、ヘブル語では『ベミドバル』、「荒野で」という意味です。これが「民数記」となっているのはイスラエルの民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖書、これはヘブル語をギリシャ語に訳した聖書ですが、『アリスモイ』(数)と呼ばれたことから、民数記という名称がつけられました。しかし、元々は「荒野で」という名前で、エジプトから連れ出されたイスラエルが約束の地カナンに向かうその途上の荒野で、神がどんなことをしてくださったのかが記されたものです。この民数記は「不平不満の書」とか、「つぶやきの書」などとも言われていますが、それは彼らがこの荒野でつぶやいたことからつけられました。

Ⅰコリント10章はこの民数記の出来事が背景にありますが、その中でパウロはこう言っています。11節です。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。」ですから、これは私たちへの教訓のために書かれたものなのです。私たちの信仰生活は天の御国に向かっての荒野の旅です。その旅路においては、かつてエジプトの奴隷の状態から連れ出されたことを忘れ、ちょくちょくつぶやくことがありますが、そのことによっていったいどういうことになったのか、結論から言うと、40年も荒野をさまようことになってしまったということです。そして、その時代の多くの人々は死に絶え、たった二人だけ、神に従ったヨシュアとカレブだけが新しい世代の人たちと約束に地に入ることができました。申命記1章2節を見ると、このホレブからカデシュ・バルネアまで、カデシュ・バルネアというのは荒野と約束の地の境にある地ですが、そこまではたった11日で行ける距離だったのです。にもかかわらず、彼らは40年も荒野をさまようことになってしまいました。なぜでしょうか?つぶやいたからです。彼らは神の単純な約束を信じることができなかったので、そのような結果になってしまったのです。具体的には12人の偵察隊を送ったとき敵は大きく強いので、そこに入って行くことはできないと言って嘆きました。不平不満を言って神につぶやいたのです。それで彼らは40年も荒野をさまよわなければなりませんでした。それは現代を生きる私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。私たちの時代にも荒野があります。そこで神の約束のことばを信じるか、信じないかによって、その後の結果が決まります。信じるか、信じないかの差は大きいのです。民数記では、それが問われています。

民数記はモーセ五書の一つで、モーセによって書かれた四番目の書です。モーセによってずっと書かれているということは、それなりに流れがあるということです。まず創世記ですが、創世記のテーマは、神の民の選びと言えます。神は、罪に陥った人類を救うためにアブラハムを選ばれました。アブラハムから出る子を通して、人類を救おうと計画されたのです。それがイサクであり、ヤコブでした。ヤコブがイスラエルになりました。彼の12人の子どもたちを通してイスラエルの12部族を誕生させたのです。

創世記の次は出エジプト記です。出エジプト記のテーマは、神の民の贖いと言えるでしょう。神によって選ばれたイスラエルが飢饉に直面したとき、神はヨセフを通してイスラエルをエジプトに導かれました。しかし、新しいエジプトに新しい王が誕生したとき、彼らはエジプトの奴隷として仕えるようになりました。その奴隷の状態から救い出したのはモーセでした。神はモーセを通して430年も奴隷としてエジプトに捕えられていたイスラエルを解放したのです。

そして、前回まで次のレビ記を学びました。レビ記のテーマは何でしょうか。神の民の礼拝です。神によって贖われた神の民に求められていたことは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」ということでした。聖別することが求められていたのです。そのために彼らはいけにえをささげなければなりませんでした。神に近づくためには、神が定められた方法によらなければ近づくことはできなかったのです。それがいけにえであり、それは神の小羊であるイエス・キリストを象徴していたものでした。そして、その礼拝において聖なる者としての生き方とはどのようなものかが教えられました。

そして、その次が民数記です。民数記のテーマは、神の民の奉仕です。この場合の奉仕とは、戦いと言ってもいいでしょう。神の民として贖われ、聖なる者としてされた者が、実際に約束の地に向かって歩み出すのです。私たちの信仰生活には様々な戦いがあります。それは外敵との戦いだけでなく、自分の肉との戦いなどいろいろです。その戦いにどのように勝利して進んで行ったらいいのかを、この民数記から学ぶことができます。それでは本文を見ていきましょう。

1.人口調査(1-16)

まず1~16節までをご覧ください1節には、「人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。」とあります。これはイスラエルの民がエジプトを出て二年目の第二月の一日に、主がシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられたことです。エジプトを出てから1年間シナイ山に導きそこで十戒を与え、幕屋を建設されました。モーセはそのシナイ山のふもとの会見の天幕にいます。出エジプト記40章2節を見ると、イスラエルが会見の天幕である幕屋を建てられたのはエジプトを出て二年目の第一月の一日でした。したがって、ここに1ヶ月間の空白があることがわかります。この空白の1か月の期間に何があったのでしょうか。この期間にレビ記が入ります。神の幕屋が完成したとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました(出エジプト40:34)。主はその会見の天幕からモーセを呼び寄せ、彼に告げて仰せられました(レビ1:1)。その内容がレビ記なのです。私たちはレビ記を学ぶのに半年くらいかかりましたが、実際は1か月です。その1か月の間に神の民としてのあり方を学び、そして今いよいよ約束の地カナンに向けて出発していくのです。その旅の準備が12章まで語られます。その準備の最初のことは何だったでしょうか?2節から16節までをご覧ください。

「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。ルベンからはシェデウルの子エリツル。シメオンからはツリシャダイの子ナフション。ユダからはアミナダブの子ナフション。イッサカルからはツアルの子ネタヌエル。ゼブルンからはへロンの子エリアブ。ヨセフの子のうちからは、エフライムからアミフデの子エリシャマ、マナセからペダツルの子ガムリエル。ベニヤミンからはギデオニの子アビダン。ダンからはアミシャダイの子アヒエゼル。アシェルからはオクランの子パグイエル。ガドからはデウエルの子エルヤサフ。ナフタリからはエナンの子アヒラ。」 これらの者が会衆から召し出された者で、その父祖の部族の長たちである。彼らがイスラエルの分団のかしらたちである。」

ここで神はモーセに、イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ、と命じました。なぜでしょうか?戦うためです。これは20歳以上の者で、すべての軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えるためだったのです。戦うためには軍隊を整えなければなりませんでした。神の軍隊の陣営を組織し、その戦いに備えなければならなかったのです。部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。

エペソ人への手紙6章を見ると、クリスチャンの生涯にも悪霊との戦いであると言われています。私たちがクリスチャンとなり教会から出てこの世の中で歩もうとすると、必ず戦いがあります。その戦いにおいて悪魔の策略に立ち向かうために神のすべての武具を身に着けなければならないのです。

そのために選ばれのが父祖の家のかしらたちです。部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が選ばれ、モーセやアロンたちとともにいなければなりませんでした。すなわち、彼らの助手となる人たちです。モーセとアロンたちがそのすべてを行なうのではなく、部族ごとにかしらを立てて、彼らの助手となりました。それが5節から15節までに記されている人たちです。この人たちの名前をよく見てみると、「エリ」とか「エル」という名前が多いことに気づきます。この「エリ」とか「エル」というのは「神」という意味で、彼らの名前は神の名が入った複合体であることがわかります。そこに彼らの信仰が表われていると思います。彼らは皆、神に信頼し、神のために仕える勇士になるようにという願いが込められていたのです。

2.神に数えられている民(17-46)

次に17節から46節までをご覧ください。ここに20歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記しました。なぜ登記する必要があったのでしょうか?彼らがどこの家の出身の者で、どこに属しているのかを明らかにするためでした。イスラエルの民の中で、自分の家系がわからないという人は一人もいませんでした。

これは私たちにも言えます。私たちが戦いに出ていくためには、まず自分がどこに所属しているのかを明らかにしなければなりません。そうでないと戦えません。私たちの家系は何でしょうか?私たちはどこに所属しているのでしょうか?私たちの家系は神の家族です。クリスチャンという家系に所属しています。自分がクリスチャンかどうかわからないというのは問題です。神によって罪が贖われて神の民、クリスチャンになっているということがわからなくては戦うことができません。戦うためにはまず、自分が神の民であるということ、クリスチャンであるということを明らかにしなければならないのです。どうやって明らかにすることができるのでしょうか?いつも教会に行っていればクリスチャンでしょうか。洗礼を受けていればクリスチャンなのでしょうか。そうではありません。私たちが救われてクリスチャンであるかどうかは、神の御霊が証してくださいます。ローマ8章16節を開いてください。ここには、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とあります。クリスチャンの内には聖霊の内住があります。私たちが神の子どもであることは、その聖霊が証してくださいます。ですから、自分がクリスチャンであるかどうか確信のない人はどうか祈ってください。そうすれば、神の聖霊が証してくださいます。

神に仕えるためにはまずあなたが神の家族に登録されなければなりません。神の子どもであるということをはっきりさせなければならないのです。そうでなければ良い成果を上げることはできません。戦いに勝利することはできないのです。

それは同時に、あなたがどの家系に属しているのかをはっきりさせることでもあります。つまり、どの地域教会に属しているのかを明確にするということです。Ⅰコリント14章33節には、「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」とあります。この「平和の神」というのは「秩序の神」という意味です。神は混乱の神ではなく秩序の神です。一定の組織に加わっていることは自分を守ることにもなります。この荒野で敵から攻撃された時どこに属しているのかがわからなかったら、誰も助けてくれる人がいなかったとしたら、一緒に戦ってくれる人がいなかったとしたら、敗残兵となってしまいます。私はどこの教会にも入りたくない、だれの指示も受けない、私はイエスさまの指示だけ従うというのは聞こえがいいですが、自由気ままで無責任な態度なのです。アカンタビリティーということばがあいます。報告責任と訳される言葉ですが、どこかの群れに属していなければ、このアカンタビリティーを持つこともできません。クリスチャンは一匹狼では戦えないのです。どこかの群れに属していなければなりません。私たちが救われたのは戦いに勝利するためです。敗北感を味わうためではありません。孤独で、不安定で、満足のない歩みをするためではないのです。私たちが救われたのは、私たちが勝利するためなのです。そして、そのためには私たちは登記されなければなりません。私たちが神の子どもであるということ、また、私たちはどの地域教会に属しているのかを登記することによって、私たちの身分が明らかとなり、この世での戦いに勝利することができるのです。

次に19節から46節までをご覧ください。ここにはそれぞれの部族の人数が記されています。ルベン部族46,500人、シメオン部族59,300人、ガド部族45,650人です。そして、ユダ部族74,600人です。イッサカル部族は54,400人、ゼブルン部族57,400人です。エフライム部族40,500人、マナセ部族32,200人、ベニヤミン部族35,400人です。そして、ダンは部族62,700人、アシェル部族41,500人、ナフタリ部族53,400人です。この12部族で合計60万3550人です。ものすごい数です。女や子どもを含めれば、おそらく300万人を越えていたでしょう。いったいなぜ、このように細かに人数が記録されているのでしょうか。

その大きな一つの理由は、アブラハムに対する約束が成就したことの確認です。創世記15章5節で、神はアブラハムを外に連れ出し、天を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。神は彼の子孫を空の星、海辺の砂のように数多く増し加えると約束されたのです(同22:17)その約束がどのように成就したのかを、この民数記で見ることができます。ヤコブがエジプトを下るときにはたった70人しかいませんでした。それから約215年の歳月が経た今、その群れは20歳以上の男子で60万人以上おり、女性やこどもを含めると300万人以上に増えたことがわかります。神はアブラハムとイサクとヤコブに約束されたことがそのようになったのです。 これを見るとき、私たちは励まされるのではないでしょうか。神は約束されたことを一つもたがわず成就してくださる真実な方なのです。

このように軍務につく者が登記されました。彼らは兵士として戦うために、まず自分たちが兵士であると数えられなければいけませんでした。主は、だれが兵士なのかを数えるようにと命じられたのです。主はだれが戦うのかを知っておられその者たちにご自分の力と知恵と資格を与え、彼らが戦うときに、主ご自身が戦ってくださったのです。神は数えておられます。私たちの中には数など気にするべきではない、大切なのは質だ!ということをよく聞きます。しかし、数えることも大切なのです。使徒の働きをみると、そこにはちゃんと数えられていることがわかります。最初の教会には3,000人が加えられました。すぐに5,000人の群れに成長していきました。数えることも大切なのです。しかし、それは自分たちの教会がどれだけ大きいかとか、どんなにすばらしい教会か、どんなに優れているのかを自慢するためではありません。プライドを助長するために数えるのではなく、あくまでも祈るためです。集会にだれが出席され、だれが休まれたのかを数えることによって、そのために祈っていくことができます。そのために数えるのです。教会にはいてもいなくてもいいような人は一人もいません。みんな誰かのケアを必要としています。そのために互いに祈り合っていかなければなりません。だれが来たかなんて関係ない、自分さえちゃんとしていればそれでいいというのは、あまりにも自分よがりの信仰と言えます。互いにいたわり合って、互いに助け合って、互いに支え合っていくために、私たちは祈り合わなければなりません。そのために数えるのです。

Ⅰ歴代誌21章1節をご覧ください。ここにはダビデが人口調査をしたことが書いてあります。彼はいったい何のために数えたのでしょうか。「ここに、サタンがイスラエルに逆らって、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。」とあります。これはサタンの誘惑によるものでした。サタンはダビデに人口を調査させ、主の力よりも自分の力、自分の軍事力に頼らせようとしたのです。自分がいかに強いのかを見せて、いかに優れているのか、自分たちの教会がどんなに立派なのかを誇ろうとして数えさせたのです。それは主のみこころを損なわせました。それによって疫病が蔓延し7万人のいのちが奪われたのです。

ですから、このような動機で数えるなら罪です。自分たちの教会がどんなにすぐれているかとか、立派であるかを誇るための人口調査は神のみこころではないのです。しかし、互いに祈り合うために、相手の状態を知りながら、神に助けを求めていくために数えることは大切なことなのです。だから、数を数える時にはその動機に注意しバランスをよく考えなければなりません。ここで神が人口を調査したのは、イスラエルが軍隊を組織として荒野での戦いを戦っていくためだったのです。

3.レビ族について(47-53)

最後に47節から終わりまでのところを見てください。ここにはレビ人についての説明されています。
「しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。はモーセに告げて仰せられた。「レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。 幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。」

レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録されませんでした。なぜなら、彼らの奉仕は神の幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理することだったからです。ですから、彼らは幕屋の回りに宿営しなければなりませんでした。それは、イスラエルの軍団が神の幕屋に近づくことがないためです。幕屋には主が住んでおられ、そこは聖なるところであったので、だれも近づいてはならなかったのです。ただレビ族だけは近づくことができました。彼らは神に一番近いところにいることができたのです。イスラエルは、このようにしてすべて主が命じられたとおりに行いました。彼らは約束の地カナンに向けて歩んでいくために軍隊を組織したのです。

それは、私たちの信仰の旅路も同じです。私たちも約束の地、天の御国に向かって進んで行くために、神が仰せられたように軍隊を組織して敵からの攻撃に備え、神のすべての武具をもって悪摩との戦いに勝利する者でありたいと思います。

Ⅰテサロニケ2章13~20節 「信じる者に働く神のことば」

きょうはⅠテサロニケ2章の後半の箇所からお話したいと思います。前半のところには、パウロの伝道に対して非難していた人たちに対する弁明が述べられていました。ここではそれを受けて、テサロニケの人たちがどのように神に従ったのかが記録されています。それはパウロたちにとって、本当に喜びでした。19節と20節のところでパウロはこう言っています。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」いったいなぜテサロニケのクリスチャンたちはそのように受け止めることができたのでしょうか。きょうはこのことについて三つのポイントで見ていきたいと思います。

Ⅰ.神のことばとして(13)

まず13節をご覧ください。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」

「こういうわけで」というのは、今述べたように、パウロがどのように福音を語ったのかということを受けてのことです。彼は福音をゆだねられた者としてそれにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語りました。彼は決して人をだましたりするような不純な心やだましごとで語ったのではありませんでした。こういうわけで・・・です。こういうわけで、パウロたちとしても、そのような宣教の働きにこのテサロニケの人たちが真実に応答してくれたことに感謝しています。それは彼らが、パウロたちが語ったことばを聞いたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおり神のことばとして受け入れてくれたからです。神のことばとして受け入れるとは、ただ単に知的に認めるというレベルではなく、絶対的な真理として受け入れるということです。人間のことばのように、「こうではないか」、「ああではないか」といった憶測や、「こうあるべきだ」といった自分の考えを捨てて、神のことばのとおりに生きようとすることです。伝道者や牧師が語る聖書のことばを聞いてそれにどんなに感銘を受けたとしても、それが単に「良い話だった」とか「感動的な話だった」というレベルに留まっているかぎりは、まだ人間のことばとして受け止められているにすぎません。神のことばとして受け入れるとは、ただ聞くだけでなく、その聞いたことばのとおりに生きることなのです。まさにテサロニケの人たちはそのように受け入れました。それを自分たちが従うべき絶対的な真理として受け入れたのです。それは神のことばを語る側の者として、どれほど大きな慰めと励ましを受けたことでしょう。牧師なり、伝道者なり、福音宣教の働きに携わっている者がかえって励まされるという経験をよくしますが、テサロニケの人たちの福音に対する応答は、まさにパウロたちに励ましを与えるものでした。いやパウロたちだけでなく、それは神ご自身を喜ばせるものだったのです。

いったいそれを可能にしたのは何だったのでしょうか?それは聖霊の働きです。1章6節を振り返ってみましょう。ここには、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とあります。テサロニケの人たちは聖霊による喜びをもってパウロたちが語ったことばを神のみことばとして受け入れたのです。

その結果、どういうことが起こったでしょうか?どのような神の御わざが起こったのでしょうか?「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」この神のことばが、それを信じた人たちのうちに働いたのです。この「働いている」ということばのギリシャ語は、「作用する」とか「動く」という意味のことばです。神のみことばがその人を動かして変化をもたらしたということです。リビングバイブルではここを、「信じる者の生活を一変させるのです」と訳しています。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われますが、この神のことばはそれを受け入人の心に変化を起こすのです。その神のことばがその人の内に働いて、信じる人の生活を一変させるのです。

先日、Yさんを施設に訪問したとき、ご自分が救われた時のことを話してくれました。三人兄弟の末っ子として生まれたYさんは、実にわがままに生きておられました。そんな時一番上のお兄さんが結核で亡くなるのです。これまで自分をかわいがってくれた兄が亡くなったとき、心にぽっかり穴が開いたように、虚しくなりました。いったい自分は何のために生きているのか・・・。そんな時、渋谷駅の前で行われてキリスト教の路傍伝道に出会いました。そこで歌われていた賛美歌を聞いていると、胸がスーとするのを感じました。それでキリスト教にのめりこんで行ったのです。しかし、当時は耶蘇教と言われていた時代です。ご両親の反対はなかったのですか、と尋ねると、全然なかったと言うのです。むしろ、応援してくれた、と言います。なぜなら、イエスさまを信じてからのYさんの生活が一変したからです。それまでは両親に反抗的でしたが、イエスさまを信じてからは逆に素直になって、両親の言うことを聞くようになりました。それで両親はとても喜ばれ、「キリスト教はいい宗教だ」と応援してくれたというのです。そればかりも自分たちも教会に行ってみたいと言ってくれました。それはYさんの生活が一変したからです。神のことばは、それを信じる者たちのうちに働いて、その人の生活を一変させる力があるのです。

イエス様は種蒔きのたとえの中で、この信じる者に働く神の力がどのように偉大であるのかをお語りくださいました。「3種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ13:3-8)

みことばを聞く姿勢が重要です。どのように聞くかによって結果が違います。神のことばを聞いても悟らないと悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪っていきます。道端に蒔かれるとはこのような人たちのことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んでそれを受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばないのです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。この神のことばは、信じている人のうちに働くのです。三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。ですから、どのように神のことばを聞くのかが重要です。

クリスチャンとは人間が与える影響や感動によってではなく、根本的には神のみことばによって内面が変えられ続ける者です。この信じる者の内に働くみことばの力にどれだけその人があずかっているかということによって、クリスチャンの成長の度合いも異なってきます。テサロニケのクリスチャンたちは、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れました。その結果、その神のことばが彼らのうちに働いて、彼らの生活を一変させたのです。

Ⅱ.神の諸教会にならう者(14-16)

次に14節から16節までをご覧ください。14節のところでパウロは、「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。」

ここでパウロはテサロニケのクリスチャンたちを、ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったと言っています。どういう点でならう者となったのでしょうか。同国民であるユダヤ人に苦しめられたという点においてです。イエスさまもユダヤ人であり、またパウロもユダヤ人ですが、同胞のユダヤ人から迫害を受けました。彼らは主であるイエスをも、預言者たちも殺し、神に喜ばれるどころか、すべての人の敵となってしまいました。しかし、そのような中でもパウロたちはひるむことをせず、福音を語ることをやめませんでした。それと同じようにテサロニケのクリスチャンたちも激しい迫害があるかもしれませんが、それにひるむことをせず、福音を語り続けてほしい。そういう点においてもキリスト・イエスにある神の諸教会にならう者になってほしいと言っているのです。そういう前例があるから、それにならってほしいと言ったのです。

Ⅱテモテ3章12節にはこうあります。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、必ず迫害を受けるようになります。すばらしい約束です。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、敬虔に生きていなくてもそのように願っただけで、その瞬間に、あなたは迫害を受けるのです。これは確かな約束です。逆に、迫害を受けていないとしたら問題です。敬虔に生きようと願うなら迫害を受けるのであれば、そのようには生きていないということになります。この世にどっぷりと浸かっていると何の迫害も受けません。でもキリストのように生きたいと願うなら、それができていなくても、そう願うだけで迫害を受けるのです。なぜなら、この世には確かにキリストの敵がいるからです。この敵の存在は現実であり、リアルです。悪魔、サタンはこの世の神と呼ばれ、この世の支配者とも呼ばれているのです。しかし、たとえそのような迫害を受けても、決してひるまないでいただきたいのです。なぜなら、それこそ真のクリスチャンであるということのしるしであり、正真正銘の救いを得たことにほかならないからです。それは紛れもなく神の諸教会にならう者となったという事実だからです。

皆さんはどうでしょうか。皆さんにはどんな迫害がありますか。しかしそれがどのようなものであっても、それはあなたが真のクリスチャンであることのしるしなのだと覚え、感謝をもって受け止めましょう。そして、私たちも神の諸教会にならう者とさせていただきましょう。

Ⅲ.クリスチャンの交わり(17-20)

最後に17節から20節を見て終わりたいと思います。「17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので―といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、―なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。18 それで私たちは、あなたがたのところへ行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」

パウロたちは、テサロニケには三週間ほどしか滞在できなかったので、どうしてもテサロニケに戻って来て彼らに会いたいと願っていました。それでパウロたちは一度ならず二度までも彼らのところに行こうとしたのですが、その実現には至りませんでした。なぜか?それはサタンがそれを妨げたからです。サタンが妨げたとはどういうことでしょうか?サタンの実在についてはさきほども触れましたが、常に私たちの働きを妨害してきます。このサタンの妨害が実際には何を指しているのかはわかりません。ある人は、それはパウロが抱えていた肉体のとげ(Ⅱコリント12:7)ではないかと考えていますし、ある人は、テサロニケ市当局の厳しい監視の目があったということを指しているのではないかと考えています。またある人はアテネ、コリントと伝道してくる中で生じた様々な問題の対応に追われていたということではないかと考えていまが、はっきりしたことはわかりません。しかし、それがいずれの理由であったにせよ、パウロはその背後にあって神の働きを必至になって妨害しようとするサタンの存在と巧妙なしわざであったと見て取っていたのです。それは私たちもよく経験することです。教会に行こうとしたら急に来客があって行けなくなったとか、聖書を読もうとしたら電話があって読めなかった、祈ろうとしたらどうも体がだるくて祈れない、そういったことがよくあります。ですから、私たちの背後にはサタンの巧妙な妨げがあるということを見て、戦っていかなければなりません。

しかし、そのような困難にもかかわらず、パウロは決して落胆しませんでした。なかなか打開できない状況にありながらも、彼らは感謝を抱き続けたのです。なぜでしょうか?第一に、それはクリスチャンの交わりというのは、たとい直接顔を合わせられなくても、心においてしっかりと結び合わされた交わりであるということです。17節でパウロは、「兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので―といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、」と言っています。顔を見て交わることはできないかもしれない。でも心においてではそうではありません。心において交わりを持つことができるのです。どのように?祈りを通してです。私たちには祈りによる交わりという賜物が与えられているのです。祈りを通して、全世界のまだ一度も会ったことのない兄弟姉妹と豊かな交わりを持つことができるのです。先の東日本大震災では世界中のクリスチャンが、まだ一度も会ったことのない人々から、たくさんの支援が送られてきました。また一度も会ったことはないけれども、それは彼らの祈りの中にあり、その祈りに答えて神が彼らの心を動かしてくださったのです。

家内は1979年にアメリカカリフォルニア州ガーデナ市にあるカルバリーバプテスト教会から遣わされて日本にやって来ました。その数年後私と結婚することになったので、私もアメリカに渡り挨拶をしながら、神が私たちを通して何をなそうとしておられるのかをお話ました。すると、そこにいた大勢の人たちが手放しで喜んでくれました。当時その教会の牧師で、今は天国に行かれましたが、キースターという牧師は、これは神さまのみこころだと信じますと言って、按手をして祈ってくれました。またユースのグループは自宅に私たちを招いて歓迎のパーティーをしてくれました。そのとき私は思いました。それまで私は一度も彼らと会ったことはありませんでしたが、ずっと祈られていたんだな・・と。ですから、初めて会ったような感じがしませんでした。もう何年も知っているかのような友のように感じたのです。それは祈りを通して交わっていたからです。クリスチャンはまだ一度も会ったことのない人でも祈りを通して豊かな交わりを持つことができるのです。教会には年齢や職業はもちろんのこと、趣味や考え方においても異なった人々が集まっていますが、目的において、また価値観においても一致することができるのは、そこに共通の土台が与えられているからです。聖書、祈り、信仰、聖霊の働きという共通の土台のゆえに、たとえ遠く離れていても、常に主にあって心は一つになることができる。それがクリスチャンの交わりなのです。

第二のことは、主イエスが再びこの地上に来られる時、必ず再会できるという約束があることです。19節を見てください。ここには、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」とあります。

いますぐに会うことはできないかもしれない、さまざまな妨げに会って会えないでいるかもしれない、でも必ず再会する時がやってきます。いつでしょうか。それはイエス・キリストが再び戻ってこられる時です。イエスが再臨する時です。その時には顔と顔とを合わせて会うことができるのです。その前に会うことができるかもしれませんが、たとえ会うことができなくても、その時には必ず会うことができます。なぜなら、クリスチャン死んでも生きる永遠のいのちが与えられているからです。ですから、この世で物理的に会えなくても、必ず天国で会えるのです。ですから、クリスチャンが死ぬとき、亡くなったとは言わないのです。肉体的には死んでも、霊においてはまだ生きているからです。ですから喪失感というものはありません。感情的には、この地上での別れいう寂しさはありますが、実際には、今も生きているのです。ですから私たちは失ったわけではないのです。

それはただ目に見えないだけで、一時的に会えないだけで、やがて必ず会う時がやってくるのです。この地上での別れは、天国での永遠の再会に比べれば、ほんのしばしの間の別れにすぎません。クリスチャンにとっては「天国でまた会いましょう」と言える再会を待つ希望の別れでもあるのです。これがクリスチャンの希望です。ですからパウロは今すぐに会えなくても、たとえサタンの妨害があって彼らのところに行くことができなくても、喜ぶことができました。彼は、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りとなるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」と言ったのです。それを知っていたからこそパウロは、会いたくても会えない悲しみ中でも、いつも神に感謝をささげることができたのです。

クリスチャンの交わりはこの希望で支えられているのです。たとえ離れていても、たとえ顔と顔とを合わせることができなくても、祈りによって交わることができるだけでなく、やがて主が再臨されるとき、文字通り顔と顔を合わせて交わることができる。その希望のゆえに、いつも心から主を待ち望むことができたのです。

私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。私たちもそう言われるように、キリストにある神の諸教会にならう者となりたいと思います。それは神のことばを神のことばとして受け入れるところから始まります。この神のことばは、信じている私たちのうちに働いているからです。