Ⅰテサロニケ1章4~10節 「すべての信者の模範となった教会」

きょうは、テサロニケ人への第一の手紙1章4節から1章の終わりまでのところから学びたいと思います。1章3節でパウロは、彼らの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしていると言いました。そして、4節から3章の終わりまで、その彼らの信仰の働きがどのようなものであったかが語られます。それは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となるような信仰でした。きょうはその信仰から学びたいと思います。

Ⅰ.聖霊によって伝えられた福音(4-5)

まず4節と5節をご覧ください。4節でパウロは、「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。」と言っています。

彼らは、「神に愛されている兄弟たち」でした。それは彼らが神を愛したからではありません。神がまず彼らを愛し、彼らのためになだめの供え物としての御子を遣わしてくださったからです(Ⅰヨハネ4:10)。彼らは神に愛される資格など全くありませんでした。平気で罪を犯し、平気でキリストを十字架につけて殺すような者だったのです。にもかかわらず神は、彼らを愛してくださいました。なぜでしょうか。それは「あなたがたが神に選ばれた者」だからです。

彼らは神に愛されるように選ばれた者なのです。それは彼らだけではありません。私たちもそうです。イエス・キリストを信じたすべてのクリスチャンは皆、神に選ばれた者なのです。私たちはどこか自分で教会に来て、自分でイエス様を信じたかのような思いがありますが、実はそうではありません。神があなたを選んでくださったので、あなたは救われ、こうして教会に来ることができるのです。有名なヨハネの福音書15章16節には、次のようにあります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」

また、エペソ人への手紙1章4節5節を見ると、このように書かれてあります。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。にしようとされました。」皆さん、私たちは生まれる前から、いや、世界の基の置かれる前から、救われるようにと定められていたのです。

このようなことを申し上げると、「じゃ、神は救われない人は、あらかじめそのように定められていたのか」とか、「信じていない人は救われないように定められているということなのか」「そんなの不公平じゃないか」という人たちがいます。しかし、決してそういうことではありません。Ⅰテモテ2章4節を開いてください。ここには、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」とあります。皆さん、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。それなのに信じようとしないのはそれはその人の側の問題であって、神の問題ではないのです。差し出された救いを自ら拒んでいるだけなのです。神の救いはすべての人に差し出されています。神は、すべての人が救われることを望んでおられるのです。ですから、もしあなたがその差し出された救いを受け入れるならば、あなたも神に選ばれた人になるのです。テサロニケの兄弟たちは、差し出された神の救いを素直に受け入れました。それは彼らが神に選ばれた人たちだったからです。

5節をご覧ください。「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」

ここには、テサロニケの人たちが神に愛され、神に選ばれた人たちであると言える理由が語られています。それは、パウロたちによって彼らに伝えられた福音は、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。

どういうことでしょうか?Ⅰコリント人の手紙1章18節でパウロはこのように言っています。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

また、同じⅠコリント2章4節のところでも、こう言っています。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」(Ⅰコリント2:4)

パウロによって伝えられた福音はただのことばだけではなく、そこに御霊の力があったということです。それはここに、「私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」とあることからもわかります。これはおそらくしるしや奇跡、いやしといった不思議なみわざもあったでしょうが、それ以上に、彼らの生活を通して、神の福音が力強く証されていたということでしょう。というのは、ここでパウロは福音のことを「私たちの福音」と言っているからです。「私たちの福音」とは何でしょうか。これは、私たちの所有となっている福音、私たちのものになっている福音という意味です。ただ私たちが信じた福音というだけでなく、その福音がすっかり板についていたということです。すなわち、彼らはこの福音に生き、福音に立って歩んでいたのです。そこにはものすごい聖霊の力が現れたことでしょう。その福音がテサロニケの人たちに伝えられたのです。

皆さんはどうでしょうか。「私の福音」になっているでしょうか。確かに福音によって救われたけれど、それは救われた時だけでした・・というようなことはないでしょうか。この福音が「私の福音」と言えるくらいになるまで、この福音にとどまり、福音に生き、福音によって成長していく人になりたいものです。そこに主の聖霊が力強く、豊かに働かれるからです。福音とは良い知らせ、グッド・ニュースです。神はあなたを愛しておられるという知らせです。どのように愛しておられるのでしょうか。神はあなたの罪を赦すために、ひとり子イエスを十字架につけてくださいました。それはあなたが滅びないで、永遠のいのちを持つためです。それは、あなたがどのようになっても変わらない永遠の約束なのです。たとえあなたが罪を犯しても、たとえあなたが道を踏み外したとしても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなさいません。あなたの代わりにイエスさまが死んでくださったからです。だから、どんなことがあっても、あなたが救いを失うことは絶対にありません。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦してくださいます。その約束はどんなことがあっても変わりません。それは永遠の契約なのです。すばらしい約束ではないでしょうか。この神の愛にとどまり、福音に生き続けるなら、神はあなたにも御力を表してくださるのです。

Ⅱ.聖霊による喜びをもって受け入れられた福音(6)

次に6節をご覧ください。ここには、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とあります。

福音は、力と聖霊と強い確信とによってテサロニケの人たちにもたらされましたが、一方、テサロニケの人たちはそれをどのように受け止めたでしょうか。彼らもまた多くの苦難の中にあって、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れました。パウロたちのうちに働いた聖霊のみわざは、伝道の対象であったテサロニケの人たちにも同様に力強く働いたのです。テサロニケの人々は、当然迫害が予想される中でも、聖霊による喜びを持ってみことばを受け入れることができたのです。

皆さん、クリスチャンの歩みは、決して良いことずくめではありません。良いことがあれば悪いこともあります。クリスチャンになったら何もかもがバラ色になるというわけではないのです。イエスさまがいばらの冠を被らせられたように、クリスチャンの生涯にもいばらがあるのです。バラもあれば、いばらもあります。パウロは若き伝道者テモテにこのように書き送りました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

また、イエスさまは弟子たちにこう言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

しかし、そうしたいばらの中にあっても、クリスチャンは喜ぶことができるのです。なぜでしょうか。それは聖霊が与えてくれるからです。聖霊によって喜ぶことができます。たとえ外側からは多くの苦難があっても、聖霊によって内側から喜びが溢れます。

聖書が語っている喜びは、一般的に語られている喜びとは違います。聖書が語っている喜びはまわりの状況がどうであれ、決して奪い取られることがない喜びです。一般的には、健康の時には喜ぶことができても、いざ病気になったら、その喜びはすぐに吹っ飛んでしまいます。お金があれば喜べますが、無くなった途端に不安になります。友達がいれば喜べますが、友達に裏切られたり、見捨てられたりすると落ち込んでしまいます。それまで抱いていた喜びがいっぺんに吹っ飛んでしまうのです。しかし、聖書が与える喜びは、どのような状況にあっても奪い去られることはありません。それは聖霊による喜びなのです。テサロニケの人たちは、この聖霊による喜びをもっていたのです。

皆さんは、この聖霊による喜びを持っているでしょうか?いったいどうしたらこの喜びを持つことができるのでしょうか。それは信仰によります。クリスチャンは信仰によって、目に見える世界だけでなく、目に見えない世界も見ているのです。だから、たとえ現実の生活が苦しくても、喜ぶことができるのです。

使徒ペテロは、迫害によって散らされていたクリスチャンたちに対してこう書き送りました。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:6-9)

「そういうわけで」というのは、イエスによって罪赦されて、永遠のいのちが与えられたので、ということです。そういうわけで、私たちは大いに喜んでいるのです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。私たちはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。アーメン。

これは信仰の結果なのです。たましいの救いを得ているからなのです。それは人間の目で見ることはできません。それはただ信仰によって、聖霊がその真理を明らかに示してくださることによって見えるのです。それは信仰の結果なのです。だから、たとえ苦難にあっても喜ぶことができます。そして、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどることができるのです。

ですから、これが見えるか、見えないかは大きな違いです。信仰によってそれがはっきりと見えるなら、どのような苦難をもろともせずに、聖霊によって喜ぶことができますが、そうでないとまわりの状況に一喜一憂して悲しみに打ちひしがれてしまうことになります。ですから、この差は大きいのです。私たちはいつも聖霊による喜び、聖霊による力、聖霊の臨在にあふれるために、いつもこの信仰によって、自分たちに与えられている霊的祝福がどのように偉大なものなのかを見ていかなければなりません。

Ⅲ.聖霊によって広がり続けた教会(7-10)

第三に、その結果です。聖霊によって伝えられ、聖霊の喜びをもって受け入れられた福音は、いったいどのようになったでしょうか。7,8節をご覧ください。

「こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

すばらしいほめ言葉です。激しい迫害の中、わずか3週間しかテサロニケに滞在することができませんでしたが、テサロニケのクリスチャンたちは、そうした多くの苦難の中にあっても、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主とパウロたちにならうものになっていたのです。それを聞いたときパウロは、どれほど喜んだことでしょう。もう天にも上るような気持ちになったのではないでしょうか。この8節には、そんなパウロの喜びが表現されているように見えます。「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなた方の信仰はあらゆるところに伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

この「響き渡った」ということばは、ラッパの響きが広がっていくのに似ています。彼らの信仰はマケドニヤとアカヤ地方だけでなく、すべての信者の励ましになって響き渡りました。この「響き渡った」ということばは実は完了形で書かれています。完了形というのは継続を表しています。つまり、響き渡り続けたということです。一時的に響いただけでなく、ずっと響き続け、広がり続けていったのです。

私たちの教会もそのような教会になりたいですね。私たちの主への信仰が、この大田原、那須ばかりでなく栃木県の全域に、いや日本全土に、そして全世界に響き渡り、多くのクリスチャンを励ましていくような、そんな教会になれたらと思うのです。絶対にそうなります。私たちは弱くても神は強い方だからです。聖霊には人を新しく作り替える力があります。この聖霊により頼むなら、かつてテサロニケでおこったことが、この大田原でも起こると信じます。かつての中国の教会がそうであったように、この日本の教会も多くの苦難の中で聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主にならう者となるだけでなく、今度はここから出て行って、あらゆる所に響き渡るようにな、そんな教会になるように祈ろうではありませんか。

いったいそのためにはどうしたらいいのでしょうか。まず9節をご覧ください。「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」

パウロの宣教のことばが、神のことばとして彼らに受け入れられると、彼らは偶像から神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになりました。回心にはこの二つのことが必要です。つまり、離れることと、向かうことです。彼らは偶像から離れ、神に向かいました。このテサロニケにはどれほど多くの偶像があったことでしょう。テサロニケの町からはギリシャの神々オリンポスの山を眺めることができたと言われています。たくさんのギリシャ神話の神々を信奉している人たちがいました。それはパウロがギリシャ文化の中心地アテネを訪れた時、そこにあったおびただしい数の偶像を見て怒りを感じたことからもわかります。同じギリシャの地方都市であったこのテサロニケにも相当の偶像があり、それに支配されていたものと思われます。しかし、彼らはパウロを通して語られた神のことばを受け入れたとき、そうした偶像から離れ、生けるまことの神に仕えるようになったのです。この「偶像から」の「から」は、偶像からの明確な分離を示しています。それは中途半端な決別ではありません。明確な、歴然とした方向転換だったのです。

日本人の中には、白黒をはっきりさせない曖昧さをよしとする傾向があります。お正月は神社に行き、お盆なるとお寺に行く。そしてクリスマスになると教会に行ってお祝いするということが平気でできるのです。そうした傾向はクリスチャンになっても引きずっている場合が少なくありません。そして、クリスチャンになってもなかなか偶像から立ち返ることができないでいるということがあるのです。

この偶像というのは単に木や石できたものばかりではなく、私たちの中で作り上げているものもそうです。神以外のものを神よりも大切にするものがあるとしたら、それはその人にとって偶像なのです。クリスチャンもこうした偶像礼拝に陥っていることがあるのです。それがなければ生きていけないとか、絶対に失いたくないと、縛られているとしたら、それはその人にとっての偶像なのです。それが何であったとしても、テサロニケのクリスチャンたちが偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになったように、私たちもそうした偶像と明確に分離し、生けるまことの神に仕える者とならなければなりません。

それから、もうひとつのことが10節に書かれてあります。「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことはたの人々が言い広めているのです。」

これはどういうことかというと、テサロニケのクリスチャンたちは、キリストの再臨を待ち望んでいたということです。この「待ち望む」ということばは、赤ちゃんが生まれる時、両親がわくわくしながらそれを待望する姿に似ています。赤ちゃんが生まれてくるのがわかっているのでその備えます。いつ生まれてきてもいいように部屋の模様替えをしたり、ベビーベッドを用意したり、その脇にはオムツを交換する台を置いたり、暑ければエアコンを、寒ければ赤ちゃんの健康にいいヒーターを用意します。産着も、ベビー服も、おもちゃも、ミルクも、ちゃんと用意して待ちます。それと同じように、テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまがいつ再臨してもいいように待ち望んでいました。いつ来られてもいいように、その備えをしていたのです。

皆さんはどうでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、備えておられるでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、イエスさまを信じて、その思いがイエスさまに向かっているでしょうか。偶像に仕える過去の生活から生けるまことの神に仕える現在の生活に一変させられ、そして将来はキリストの再臨の祝福にあずかる希望へと導かれるクリスチャンライフは、何と幸いなものでしょうか。テサロニケのクリスチャンたちはこのように歩みました。それはすべての信者の模範となるほど輝いていたのです。その信仰はあらゆる所に響き渡るものでした。それは私たちの模範でもあります。私たちも聖霊によって伝えられた福音を受け入れ、その喜びの中に入れられました。しかし、それだけで終わりではありません。福音は私たちの生活を一変させます。偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようにしてくれます。そこには明確な変化が伴います。そして、それはキリストの再臨の希望へとつながっていくのです。私たちもこのテサロニケのクリスチャンたちにならい、生けるまことの神に仕え、キリストの再臨を心から待ち望む者でありたいと思います。これが福音のもたらす大きな変化であり、祝福なのです。

Ⅰテサロニケ1章1~3節 「テサロニケ人への手紙」

きょうから、テサロニケ人への手紙から学んでいきたいと思います。この手紙はパウロからテサロニケ人の教会に宛てて書かれた手紙ですが、パウロが書いた手紙の中で一番初めに書かれた手紙です。新約聖書の手紙の多くはパウロによって書かれましたが、その中でも最も初期に書かれた手紙なのです。

なぜこの手紙が書かれたのでしょうか?パウロがテサロニケを訪問したのは、彼の第二回伝道旅行の時でした。アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたパウロは、フルギヤ・ガラテヤの地方を通ってムシヤに面した所に来ましたが、それからビテニヤの方に行こうとしたら、イエスの御霊がそれをお許しにならなかったのです。それでムシヤを通ってトロアスに下ると、彼はそこで一つの幻を見ます。それは、ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」(使徒16:10)と懇願するものでした。パウロはその幻を見たとき、それは神が自分たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるためだと確信し、ただちにマケドニヤに出かけていくことにしました。こうして福音がエーゲ海を渡り、初めてからヨーロッパへともたらされることになったのです。

マケドニヤに渡ったパウロたちは、まずピリピで伝道します。そこでは紫布の商人ルデヤとその家族が救われましたが、その一方で占いの霊につかれた女から悪霊を追い出したことで、もうける望みがなくなった主人がパウロたちを訴えたので、パウロとシラスは捕えられ、投獄されるという苦しみを体験します。しかし、神はそうした中にも力強いみわざをなされ、大地震を起こし、看守とその家族全員が救われるというみわざを行われました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:30-31)そうやって看守一家が救いに導かれたのです。

その次に向かったのが、このテサロニケです。テサロニケでの伝道の様子は使徒の働き17章にありますので、後で読んで確認しておいていただきたいと思いますが、パウロたちはここにあまり長くはいませんでした。いなかったというよりも、いられなかったのです。パウロはいつもしているように、ユダヤ教の会堂に入って行って、聖書に基づいてイエスこそキリスト、救い主であると宣言すると、彼らのうちの幾人かはよくわかって、信仰の道に入りましたが、他のユダヤ人たちはねたみにかられて騒ぎを起こしました。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。」(使徒17:6)と言って。このままではどうなってしまうのかわからないので、兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスを隣の町のベレヤへ送り出したのです。ですから、彼らはわずか一か月くらいしかいられなかったのです。

それにしてもパウロが気がかりだったのはテサロニケのクリスチャンたちのことでした。彼らはまだ救われたばかりです。しかも、パウロたちはそこに一か月くらいしか滞在することができなかったので、神のみことばをそんなに教えることができませんでした。誕生したばかりの教会にとって激しい迫害の中で、しっかりと信仰に立っていることができるだろうか。中には信仰から離れてしまう人もいるのではないか。もしかしたら、根こそぎにされているかもしれない・・・。そんな不安と恐れの中で、パウロはアテネからテモテをテサロニケに遣わすのです。

テモテがテサロニケから戻ってきたのは、パウロたちが次の伝道地コリントにいた時でした。パウロはテモテから、テサロニケのクリスチャンたちは激しい迫害の中にあっても固く信仰に立っているということ、そして彼らもパウロたちと再会することを心待ちにしているということを聞いて、とても喜びます。しかし、中には再臨について誤って理解していることから、混乱している人たちもいるということを聞きました。そこでパウロは迫害に苦しんでいるテサロニケの人たちを慰め、励ますために、また、福音の基本的な教えを彼らに伝えるためにこの手紙を書いたのです。

皆さん、聖書を正しく理解することは大切なことです。なぜなら、それによって信仰生活が決まるからです。何を、どのように信じているかによって、そのライフスタイルが決まるのです。特に生まれたばかりのクリスチャンにとって福音の基本的な教えを正しく理解することは、その後の信仰生活に大きな影響を及ぼしていきますから、とても重要なことであると言えます。きょうは満喜人兄と桂珍姉のバプテスマ式を行いましたが、これからの信仰生活が祝福されたものとなるために、聖書のみことばを正しく理解することは重要なことなのです。きょうからこのテサロニケの手紙から聖書の基本的な教えを一つ一つ学んでいきたいと思います。

Ⅰ.神および主イエス・キリストにある教会(1)

まず1節をご覧ください。まず、パウロはいつものようにあいさつから手紙を書き始めます。

「パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

ここでは、差出人がパウロだけでなくシルワノ、テモテからとなっています。シルワノとはシラスのことです。シラスは使徒の働き15章22節、32節を見ると、エルサレム教会の指導者の一人であり、預言者であったことがわかります。彼はパウロの第二回伝道旅行で、バルナバに代わってパウロの同行者となりました。テモテは、パウロの第二回伝道旅行の途中、ルステラで一行に加わりました。彼はギリシャ人を父とし、ユダヤ人を母とする評判の良い弟子でした。そのシルワノとテモテの名前も一緒に書き記されているのです。なぜでしょうか。実際にこの手紙を書いたのはパウロです。ですから、パウロからテサロニケ人の人たちへ、で良かったはずですが、わざわざシルワノとテモテの名前も書き記されているのです。

一つには、このテサロニケでの伝道はパウロ一人によって行われたのではなく、そこにシラスもテモテもいました。そのシラスとテモテの名前も書くことで、それを受け取ったテサロニケの人たちが当時のことを思い出し、大きな慰めがもたらされたに違いありません。

もう一つの理由は、このテサロニケでの働きはパウロ一人によるものではなく、そこにはシラスやテモテもいて、彼らとの協力によって成された働きであったということです。つまり、宣教の働きは決してパウロ一人によるものではなく、シルワノやテモテ、あるいはここに名前も記されないような人たちのチームワークによるものであるということです。パウロがいて、またそれを支えるパートナーやサポーターがいて、そのような人たちが互いに祈り合い、助け合ってこそ、成し得ることができるのです。特に、背後で祈ってくれる人たちの働きはどれほど大きな力であったことでしょう。伝道というと、実際にそれに携わる人たちだけの働きのように見えますが、実はこうした背後にある人たちの祈りや、側面からのサポートなど、それを支える人たちの協力があってこそ力強く前進していくものなのです。

1節をもう一度ご覧ください。ここにはテサロニケ人の教会へ、とあります。これはパウロからテサロニケ人の教会に宛てて書かれて手紙なのです。しかし、ただのテサロニケ人の教会へのではありません。ここには、「父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ」とあります。どういうことでしょうか?それはこのテサロニケの教会は神とキリストの教会であるということです。この教会はパウロが開拓した教会ですがパウロの教会ではなく、神の教会なのです。たとえそれがパウロたちによって立てられた教会であっても、キリストにある神の教会なのです。ですから、教会を構成しているクリスチャン一人一人は神とキリストのうちにあって結ばれ、生かされてこそ成長することができるのです。たとえその教会の設立にどんなに貢献した人であっても、その教会にどんなに長くいて貢献した人がいても、神とキリストの地位に取って代わることはできません。教会はキリストのからだであり、神ご自身のものなのです。それゆえ、教会は神とキリストに固く結びついてこそしっかりと立ち続けることができるのです。パウロたちは、このテサロニケに1か月しかいられませんでした。そして、残された教会は激しい迫害の中にありました。しかしそれでも彼らがしっかりと信仰に立ち続けることができたのは、パウロが宣べ伝えた神と主イエス・キリストにしっかりととどまっていたからだったのです。

そのテサロニケの教会のためにパウロは祈っています。「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」この「恵みと平安」という順序が大切です。恵みがあって平安がもたらされるのであって、その逆ではありません。神の恵みを知らなければ平安はないということです。神の恵みとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストによる救いです。それは一方的な神の恵みによってもたらされました。「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2:5)。何の功績もない者が救われました。ただ救い主イエス・キリストを信じただけで救われたのです。自分の力ではどうすることもできませんでした。ただイエスさまを救い主と信じただけで救われたのです。それは恵みではないでしょうか。この恵みがわかると平安がもたらされます。なぜなら、この平安は神から罪が赦され神との平和が与えられたことによってもたらされるものだからです。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

神が私たちに与えてくださる平安は、世が与えるのとは違います。世が与える平安は一時的なものです。しかし、神が与えくださる平安はどんな悩みや苦しみにあっても、どんな恐れや不安があっても、決して奪い取られることのない平安です。それは確固たる平安なのです。主イエスはそのような平安を与えてくださいます。それは主イエスを信じることによって神との敵対関係が解消され、神が共にいてくださることによってもたらされるものなのです。

Ⅱ.祈りとみことば(2)

次に2節をご覧ください。パウロはテサロニケの人たちにあいさつを送ると、今度は彼らのために祈ります。

「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、」

パウロはいつもテサロニケの人たちのために祈っていました。彼の祈りは時々思い出したかのような気まぐれの祈りではありませんでした。また、ほんの少数の人たちのためにとりなすことで満足するような祈りでもなかったのです。パウロの祈りはいつも、彼らすべてのためにとりなして祈る祈りでした。このような祈りは、神との交わりと祈りに十分時間を割かなければできないことです。テサロニケの教会はこうした祈りによって生まれたのです。また、パウロが聖書からイエスこそキリスト、救い主であると語ったことを彼らが理解したことによって生まれたのです。そうです、教会の土台は祈りとみことばであり、教会は祈りとみことばによって生まれ、立て上げられていくのです。

この情報過多な時代にあっては、こうした情報の収集に時間がとられ、祈りとみことばに打ち込むことがとても難しくなっていますが、教会が成長していくためには、あるいは、私たちの信仰が成長していくためには、いつも、すべての人のために、心を合わせ、一つになって祈り、みことばによって私たち自身が新しく創り変えられる必要があるのです。

Ⅲ.信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐(3)

1. 信仰の働き

第三のことは、パウロの祈りの内容です。3節をご覧ください。ここには、「絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。」とあります。

パウロはいつも彼らの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こして祈っていました。「信仰の働き」とは何でしょうか?この言葉は一見、矛盾しているようにも聞こえます。なぜなら、信仰は信じることであって、働くことではないからです。信仰と働きとか、信仰と行いというのは、相容れないもののように感じるのです。いったいこれはどういうことでしょうか?

「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)

これはどういうことかというと、私たちが救われるためにはただ信じればいいのですが、その信仰に行いがなかったら、そのような信仰は死んだものだ、というのです。しかし、これは当然と言えば当然なのです。神の恵みがわかり、イエス・キリストによって救われた人なら、喜びと感謝に満ち溢れ、それに応答して喜んで自分を差し出したいと思うようになるでしょう。本当の信仰にはそのような応答が伴うからです。それがないとしたら、何の喜びもないとしたら、何の感動もないとしたら、その人の信仰に問題があるか、あるいはまだ救いを経験していないかのどちらかです。ここでヤコブが言っていることはそういうことです。

信仰は行いによるのではありません。私たちが何をしたかによってもたらされるものではなく、一方的な神の恵みによるものです。しかし、そのような恵みに触れた人は必ず良い行いが伴うようになります。それがないとしたら、その信仰は死んでいるか、どこかに問題があるのです。本物の信仰にはそうした働きが伴うからです。テサロニケの人たちの信仰には、こうした働き、行いが伴っていたのです。それは彼らが本物の信仰を持っていたからです。

2. 愛の労苦

それだけではりません。彼らには「愛の労苦」がありました。この「労苦」と訳されたことばは「打つ」とか「たたく」、「切る」という意味から来たことばです。つまり、痛みか伴うということです。

皆さん、愛には痛みが伴います。愛しても、愛しても報われないとしたらどうでしょう。痛いです。苦しいです。それは打ちたたかれ、切られたかのような気持ちになるのと同じです。本当の愛には労苦が伴うのです。それは神の愛を考えるとわかります。神はひとり子イエスをこの世に与えてくださいました。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。それなのにこの神の恩を仇で返すようなことがあったとしたらどうでしょう。どんなに悲しまれることかと思います。それなのに、この世は彼を受け入れませんでした。それほど悲しいことはありません。愛には労苦が伴うのです。

しかし、愛することをやめてはなりません。なぜなら、私たちはこの愛で救われたからです。たとえ報いが得られなくても、たとえ感謝されなくても、このような愛で愛することを止めてはならないのです。ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛さなければならないのです。(Ⅰヨハネ3:18 )。テサロニケのクリスチャンたちには、このような真実な愛があったのです。

3.望みの忍耐

そしてもう一つは、「主イエス・キリストへの望みの忍耐」です。主イエス・キリストへの望みの忍耐とは何でしょうか?これは主イエス・キリストが再び来られるという再臨の希望のことです。イエス様が再臨されるとき、私たちは一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。これが本当の希望です。そのとき私たちは朽ちることのないからだ、栄光のからだに変えられます。今のからだは朽ちていきます。そして、みな土にかえるのです。いつまでも若々しく、ピチピチしているということはありません。いつまでも輝いているわけではないのです。年をとれば肉体は衰えていきます。いつの間にか髪も白くなり、薄くなったり、無くなったりします。顔にもしみやしわが出てきます。この肉体がいつまでも続くということはないのです。

しかし、やがてキリストが天から再び来られるとき、私たちは御霊のからだ、栄光のからだに変えられ、いつまでも主とともにいることになります。もう病気になることもなく、障害になることもありません。罪を犯すこともなくなるのです。完全なからだ、栄光のからだによみがえるのです。。これは希望ではないでしょうか。その日が来るとすべての問題が解消されます。今は苦しいことばかりでも、その時にはそうした苦しみから完全に解放されるのです。これは希望です。

「16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

ですから、私たちは勇気を失いません。この希望があるからです。この希望こそ私たちを慰め、励ましてくれるのです。

パウロはこのテサロニケの人たちを励ますために、この主の再臨の希望を何度も何度も語っていることがわかります。このテサロニケ人への第一の手紙の各章の終わりには、必ずこの再臨のことガム語られているのです。(1:9-10,2:19-20,3:11-13,4:13-18,5章全体)

いったいなぜパウロはこんなにも主イエス・キリストの再臨について語っているのでしょうか。それは一つには彼らの中に再臨について誤って理解している人たちがいたからですが、それ以上に、この主の再臨こそ私たちクリスチャンにとっての真の希望であり、慰めであり、励ましであると確信していたからです。

しかし、この主イエス・キリストの望みを持つためには忍耐が求められます。それが近いということはわかっていても、それがいつなのかがはっきりわかりません。いつまで歩くのか、どこまで行くのか、全くわからない中でずっと我慢することはたやすいことではありません。しかし、そのような中にあっても私たちは、忍耐をもって主イエス・キリストが再び来られる時を待ち望まなければなりません。それがあるからこそ私たちはあきらめたり、投げ出したり、絶望したりしないで、最後まで耐え忍ぶことができるからです。

最後にⅠコリント13章13節を開きたいと思います。ここには、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」とあります。これは結婚式でもよく読まれる箇所で、なじみのある聖書の言葉ですが、この信仰と希望と愛こそが、私たちを固く立たせてくれるのです。

信仰のない働きはむなしいです。愛のない労苦、望みのない忍耐は長続きしません。どんなにがんばって働いても信仰がなければ意味がないのです。どんなに労苦しても愛がなければ報われることはありません。どんなにがんばっても、望みがなければ長続きはしないのです。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。テサロニケの教会には、この信仰と希望と愛がありました。信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐がありました。そして、それが彼らの励ましとなり、慰めとなり、希望となり、激しい迫害の中にあっても信仰に固く立ち続けることができたのです。たった3週間、あるいは1か月だったかもしれませんが、それでパウロが、シルワノが、テモテがその地を離れて行かなければならないという状況の中でも、彼らがしっかりと信仰に固く立ち続けることができたのは、この信仰と希望と愛があったからなのです。

その人が若いかどうか、どれだけ経験があるか、どれほど能力があるかといったことは全く関係ありません。若くても用いられます。たとえ経験がなくても、どんなに能力がなくても、用いられるのです。信仰の働き、愛の労苦、主イエスキリストへの望みの忍耐があれば、私たちも励まされ、用いられるのです。

私たちの教会もこのテサロニケの教会のように、信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐によって、固く信仰に立ち続ける教会であるように祈りたいと思います。