民数記35章

きょうは民数記35章から学びます。

Ⅰ.レビ人の相続地(1-8)

「エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、その所有となる相続地の一部を、レビ人に住むための町々として与えさせなさい。彼らはその町々の回りの放牧地をレビ人に与えなければならない。町々は彼らが住むためであり、その放牧地は彼らの家畜や群れや、すべての獣のためである。あなたがたがレビ人に与える町々の放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトでなければならない。町の外側に、町を真中として東側に二千キュビト、南側に二千キュビト、西側に二千キュビト、北側に二千キュビトを測れ。これが彼らの町々の放牧地である。主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。」

まず1節から5節までをご覧ください。ここにはレビ人が受ける相続地について記されてあります。イスラエルの12部族には相続地が割り当てられましたが、レビ人にはありませんでした。それは18章20節に、主ご自身が彼らの相続地であるとあるからです。それで主はモーセを通して、レビ人が住むための町々、また、彼らの家畜の群れや、すべての獣のための放牧地つきの48の町を、イスラエルの所有地のうちからレビ人に与えるようにと命じられました。

彼らに与えられる町と放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトです。1キュビトは約44センチなので、千キュビトは約450メートルになります。5節がどのような意味がよくわかりませんが、これが4節の言い換えと考えれば、以下のように、町自体の城壁の幅+その外側に一千キュビトということになります。               

次に6節から8節までをご覧ください。

「あなたがたが、レビ人に与える町々、すなわち、人を殺した者がそこにのがれるために与える六つの、のがれの町と、そのほかに、四十二の町を与えなければならない。あなたがたがレビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地つきである。あなたがたがイスラエル人の所有地のうちから与える町々は、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。おのおの自分の相続した相続地に応じて、自分の町々からレビ人に与えなければならない。」すから、東西南北それぞれ900メートルの正方形になります。ヨシュア記21章には、彼らがカナンの地を占領したとき、ここに記されてある通りにレビ人に放牧地つきの48の町が与えられたことがわかります。 」

4節と5節で示された放牧地の町を48レビ人に与えなければなりません。そのうちの6つは、人を殺した者が逃れるための、逃れの町です。のがれの町については11節以降で見ていきたいと思いますが、ここでは、それらの町々はイスラエルの所有地のうちから与えられるということと、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならないことあります。

ここで興味深いことは、レビ人の町はイスラエル十二部族全体に散らされるような形で置かれたということです。これはどういうことでしょうか。そのようにレビ人がイスラエル全体に散らされることによって、彼らが主に贖われた主の民であることを絶えず思い起こさせ、彼らのうちに主への恐れと敬虔を呼びさましたということです。このことからも、主が、イスラエル全体が祭司の国、つまり神ご自身の国であることを示しておられたのです。

Ⅱ.のがれの町(9-15)

最後に9節から15節までをご覧ください。

「主はモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるとき、 あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。ヨルダンのこちら側に三つの町を与え、カナンの地に三つの町を与えて、あなたがたののがれの町としなければならない。これらの六つの町はイスラエル人、または彼らの間の在住異国人のための、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。」

 のがれの町とは、あやまって人を殺した者がそこに逃れることができるようにと定められた町です。この町々は、彼らが復讐する者からのがれるところで、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことがないようにと定められた町々です。律法には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」(出21:12)とあります。しかし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こさせた場合、のがれる場所が用意されました(出21:13)。

この「復讐をする者」とは、19節以下の「血の復讐をする者」のことで、ヘブル語で「ゴーエール」という原語が用いられています。この語は、ルツ記で、「買戻しの権利のある親類」(ルツ3:9)と訳されてあるように、奴隷となった親類や、相続地の権利等を買い戻す権利、あるいは、その義務のある当事者に最も近い親類を指す語です。ここでは、殺された者の親類で、殺された者の血を贖う者(出21:23)、報復する義務のある者を指しています。彼らは、相手から事情を聞く前に手を下すことが大いにあり得たので、あやまって人を殺した者を守る必要があったのです。それで、ヨルダン川の東側と西側にそれぞれ三つずつ、北から南まで満遍なく広がった形で置かれました。

 Ⅲ.殺人者に対する規定(16-34)

 最後に16節から終わりまでを見ていきましょう。ここには、殺人者に対する規定が記されてあります。まず16節から21節までをご覧ください。

「人がもし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。もし、人を殺せるほどの石の道具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。あるいは、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。」

不慮の事故であったのか、それとも故意の殺人であったのかは、手段と動機で計られます。「人がもし鉄の器具で人を打って死なせたら」、それは故意の殺人であって、その者は必ず殺されなければなりません。「人を殺せるほどの石の道具」の場合も同様です。また、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせた」場合も同じです。それは故意による殺人で、その者は、必ず殺されなければなりませんでした。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよいし、彼と出会ったときに、彼を殺しても構いませんでした。

次に動機です。「憎しみ」「悪意」「敵意」をもって死なせるなら、それは故意の殺人であって、その者は必ず殺されなければなりませんでした。その血の復讐をする者は、彼と出会った時に殺しても構いませんでした。たとえ逃れの町にのがれたとしても、そこから追い出して、血の復讐をする者に引き渡すことができたのです。

次に22節から29節までをご覧ください。

「もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」

 ここでは、過失致死の場合の取り扱いについて語られています。すなわち、もし敵意なく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでなければ、その人をどうするかということです。これは、たとえば、一緒に木こりの仕事をしていて、斧の頭が取れて同僚の頭にぶつかり、死んでしまった、といった場合です。その場合は、会衆が、殺人者とその血の復讐をする者の間に入って、それが故意によるものなのか、過失によるものなのかを前述の規定に従って判断し、もしそれが過失による殺人の場合であれば、彼をその復讐する者の手から救い出し、彼が逃げ込んだその逃れの町に返してやらなければなりません。彼は聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければなりませんでした。これはどういうことかというと、確かにそれは意図的なものでなく、偶発的なものであったとしても、血を流したことに対しては贖いが求められたということです。大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うに十分なものだったのです。

なぜ大祭司の死がその贖いのために十分だったのかというと、この大祭司は大いなる大祭司であられるイエス・キリストの型であったからです。すなわち、それはイエス・キリストの死を表していたからなのです。イエス・キリストは大いなる大祭司として、永遠の御霊によって、全く汚れのないご自分を神にささげ、その死によって世の罪のためのなだめの供え物となられました。ちょうど大祭司の死によって、あやまって人を殺した者の罪の贖いがなされ、自分の所有の地に帰ることができたように、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来たものたちが、罪によって失われた嗣業を受けるに足る者とされ、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができるようになったのです。従って、あやまって人を殺した場合は、聖なる油が注がれた大祭司の死まで、自分の家族から離れて、亡命の状態にとどまることが要求されたのです。

従って、もしあやまって人を殺した者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界の外に出て行ったために、血の復讐者が彼を見つけて殺しても、血の復讐者にはその罪は帰せられません。なぜなら、あやまって人を殺した者は、大祭司が死ぬまでのがれの町にとどまっていなければならなかったのに、勝手にそこから出てしまうことをしたからです。ただ大祭司の死後は、自分の町に帰ることができました。彼の罪が贖われたからです。

次に30節から34節までをご覧ください。

「もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。のがれの町に逃げ込んだ者のために、贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、国に帰らせて住まわせてはならない。あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。」

殺人者を死刑に定めるには、証人の証言がなければなりませんでした。しかもその証言は複数でなければなりませんでした。ここには何人とは書いてありませんが、申命記17章6節には、「ふたりの証人または三人の証人の証言」とあります。どんな咎でも、どんな罪でも、ひとりの人の証言によっては罪に定めることはできませんでした。また、その証言は偽りの証言をしてもなりませんでした。

また死刑にあたる罪を行った殺人者の場合、殺人者のいのちのための贖い金を受け取って、彼を赦してはなりませんでした。それは必ず殺されなければならなかったのです。なぜなら、33節にあるように、血は土地を汚すからです。すなわち、血を流す罪、殺人が行われた時に、血は汚されたのです。その土地が贖われるには、その血を流した者の血が流され、贖われなければならなかったのです。イスラエルは、自分たちの住む土地、すなわち、主がそのうちに宿る土地を汚してはならなかったのです。主である神が、その真ん中に宿るからです。

このことは、私たちにも言えることです。ヘブル書9章22節には、「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」とあるように、私たちの心の汚れは、イエス・キリストの血によってしかきよめられることはできません。イエス・キリスの血だけが、私たちをすべての悪からきよめてくださり、神がともに宿ることを実現させてくださったのです。

また、一度救われて主の御住まいとなった者が、その霊肉を罪で汚してはならず、もしあやまって罪を犯したならば、罪を言い表してきよめていただかなければならないのです。神は真実で、正しい方ですから、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、すべての悪からきよめてくださるのです。

約束の地を前にして、神がモーセを通してこれらのことを語られたのは、彼らが受け継ぐ地を汚すことがでないように、そして、もしあやまって汚すようなことがあったら、このようにしてきよめられることを教えるためだったのです。

民数記34章

きょうは民数記34章から学びます。

Ⅰ.相続となる地カナンの境界線(1-15)

「主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。」

1節と2節をご覧ください。主は、イスラエルが約束の地に入って行ってから彼らに与えられる相続地の境界が示されました。まず南側の境界が3節から5節までに記されてあります。

「あなたがたの南側は、エドムに接するツィンの荒野に始まる。南の境界線は、東のほうの塩の海の端に始まる。その境界線は、アクラビムの坂の南から回ってツィンのほうに進み、その終わりはカデシュ・バルネアの南である。またハツァル・アダルを出て、アツモンに進む。その境界線は、アツモンから回ってエジプト川に向かい、その終わりは海である。」

南側の境界は、エドムに接するツィンの荒野、すなわち、塩の海の端に始まります。そしてアクラビムの丘陵地帯の南側から回ってツィンの荒野の方に進み、その終わりはカデシュ・バネアの南です。それからエジプト川まで続き、地中海に達します。これが南の境界線です。

6節には西の境界線が記されてあります。それは地中海とその沿岸です。何もありませんので、これはよくわかります。

では北側の境界線はどうでしょうか。7節から9節にあります。

「あなたがたの北の境界線は、次のとおりにしなければならない。大海からホル山まで線を引き、 さらにホル山からレボ・ハマテまで線を引き、その境界線の終わりはツェダデである。ついでその境界線は、ジフロンに延び、その終わりはハツァル・エナンである。これがあなたがたの北の境界線である。」

ホル山やツェダデがどこなのかその位置が明確ではありません。ただハツァル・エナンの場所はある程度特定されているので知ることができますが、それは驚くことに今のレバノンの北、そしてシリヤのところにまで及んでいるのがわかります。イスラエルに約束された地は、かなりの領域にわたっていたことがわかります。

そして東の境界線については10節から12節までにあります。

「あなたがたの東の境界線としては、ハツァル・エナンからシェファムまで線を引け。その境界線は、シェファムからアインの東方のリブラに下り、さらに境界線は、そこから下ってキネレテの海の東の傾斜地に達し、さらにその境界線は、ヨルダンに下り、その終わりは塩の海である。以上が周囲の境界線によるあなたがたの地である。」

キネレテの海とはガリラヤのヘブル語です。ですから、これはガリラヤ湖のことです。そこからヨルダン川を下り、その終わりが塩の海までの領域です。ヨルダンの東側については既にガド族とルベン族、マナセの半部族が相続していたので、それを除く残りの9部族と半部族が受け継ぐべき地が示されているものと思われます。それは次の箇所にこう記されてあるからです。13節から15節までをご覧ください。

「モーセはイスラエル人に命じて言った。「これが、あなたがたがくじを引いて相続地とする土地である。主はこれを九部族と半部族に与えよと命じておられる。ルベン部族は、その父祖の家ごとに、ガド部族も、その父祖の家ごとに相続地を取っており、マナセの半部族も、受けているからである。 この二部族と半部族は、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸、東の、日の出るほうに彼らの相続地を取っている。」

イスラエルに約束された相続地は、くじによって決められました。これは箴言16:33にあるように、そのすべての決定は主から来るとあるからです。彼らは自分たちによって決定するのではなく、その決定のすべてを主にゆだねたのです。

ここで創世記15章18節から21節までを開いてください。ここには神がアブラハムに与えると言われた土地が記されています。そして、何とここにはエジプト川からユーフラテス川までとあります。ユーフラテス川というのはアラビヤ半島へ注ぎ込むユーフラテス川の上流域のことです。それはこの相続地の北の境界線にありました。ですから、彼らはアブラハムに約束された地のほとんどを相続するようになったのです。

Ⅱ.土地分配の仕方(16-29)

最後に、16節から29節までをご覧ください。

「主はモーセに告げて仰せられた。 「この地をあなたがたのための相続地とする者の名は次のとおり、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアである。あなたがたは、この地を相続地とするため、おのおのの部族から族長ひとりずつを取らなければならない。」

ここには、この地をどのように相続すべきかのもう一つの点が記されています。それは。相続地とする者が選ばれ、彼らを通して割り当てがなされていったということです。今でいうと遺言執行人のような役割を果たした人です。それが祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアでした。彼らの下にイスラエルのそれぞれの部族から族長をひとりずつ取り、割り当てられました。日本でもそうですが、遺産相続をめぐっては本当に多くの問題が起こります。そのことが原因で家族がいがみ合って、憎み合って、もう口も利かないというケースにも発展することも少なくありません。そういうことがないように、遺言執行人を定め、公正に遺産を相続するようにしていますが、ここでも祭司エリアザルとヌンの子ヨシュアという遺言執行人を立て、彼らを通してそれぞれの部族に相続したのです。

 さて、このようにして神が約束してくださった地の相続が行われたわけですが、ここで私たちが覚えておかなければならないことは、私たちにも神からの割り当て地が与えられているということです。それは想像を絶するような霊的遺産です。それは天の御国です。それが私たちに約束されているのです。であれば、ガド族やルベン族のように、ここは居心地がいいからここに留まっていようとしたり、この地上のものに執着し、神が約束してくださったものを手に入れることができないというようなことがないように注意すべきです。いつも与えられた約束の地を見て、そこを目指してただ前進していかなければなりません。もし目の前に石像や鋳造があれば、あるいは高き所があれば粉砕し、ただひたむきに約束の地を目指して進まなければならないのです。パウロはこう言いました。

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどとは考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:13-14)

主はあなたを約束の地、天の御国に必ず導いてくださいます。そこに入って行くことができるのです。想像を超えたこの御国を、相続する者とさせていただく者として、ひたむきに前のものに向かって進み、目標目指して一心に走る者でありたいと思います。

ヘブル2章10~18節 「人となられたイエス・キリスト」

  きょうは、2章10節から18節のみことばから、「人となられたイエス・キリスト」というタイトルでお話したいと思います。前回は、特に2章9節のみことばから、御使いよりも、しばらくの間、低くなられたイエスについてお話しました。ユダヤ人は、御使いは人間よりも高い地位にあると理解していたので、イエスが人となられたということはその御使いよりも低くされたことを意味していました。いったいなぜ、キリストは、御使いよりも、低くされなければならなかったのでしょうか。それは私たちを罪から救うためでした。9節には、イエスは苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになられました、とあります。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものだったのです。イエスが人となられ、十字架で死んでくださったことによって、すべての人の罪が贖われたのです。ですから、このイエスを信じる者は、だれでも救われるのです。これが福音です。 

そして、10節のところを見ると、それは万物の存在の目的であり、また原因である方として、ふさわしいことであったとあります。万物の存在の目的であり、また原因である方というのは父なる神のことです。それは父なる神にとってふさわしいことでした。なぜなら、神は万物の存在の目的であり、また原因でもあられるからです。すべてのものはこの方によって造られました。ですから、神は万物の存在の目的であり、原因であられる方なのです。すべてはこの神の栄光のために存在しているのです。それは人間も例外ではありません。私たち人間も神によって造られました。ですから、私たちは神の喜びと栄光のために生きているのです。このことがわからないと何をしても喜びがありません。いくら頑張って、真面目に生きたとしても、たとえすべての物を手に入れたとしても虚しいのです。心はいつもカラカラに渇いて平安がありません。

ですから、昔の聖人パスカルはこう言いました。「私の心には、本当の神以外には満たすことかのできない、真空がある。」また中世の偉大な神学者であり、哲学者であったアウグスティヌスもこう言いました。「神よ。私の心には、あなたの中で休むときまで揺れ動いています。」人はまことの神の出会い、神の救いを受け、神の栄光と喜びのために生きることがなければ虚しいのです。そのために神はご自分の御子を十字架につけてくださいました。その苦しみを通して、救いの道が開かれたのです。ですから、イエスが救いの創始者です。イエスが道であり、真理であり、いのちです。イエスを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。私たちは、ただこのイエスを救い主と信じるだけで救われるのです。

では、この神の恵みによって、いったい何がもたらされたのでしょうか。きょうは、このことについて三つのポイントでお話します。 

 Ⅰ.兄弟と呼んでくださる(10-13) 

 第一に、そのことによって神の家族の一員に加えられました。11節から13節までをご覧ください。

「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。」

 「聖とする方」とはイエスさまのことです。また、「聖とされる者たち」とは、私たちのことです。「すべて元は一つです」というのは、父なる神のことを示しています。ですから、これは、「聖めてくださるイエスも、聖められる私たち」も、皆一人の父である神を持っています。」という意味です。それで、主イエスは私たちを兄弟と呼ぶことを恥じとしないで、私たちとともに神を賛美しようというのです。これはものすごいことではないでしょうか。私たちがイエスを救い主と信じたことで、イエスさまが私たちのことを兄弟と呼んでくださるのです。また、それを恥じとなさいません。 

先日、ノーベル賞の発表があり、ノーベル医学生理学賞に山梨県韮崎市出身の大村智さんが選ばれました。大村さんは5人兄弟の2番目の子供さんですが、メディヤはその喜びを伝えるために、早速実家のある韮崎市に生き、お姉さんの山田敦子さんにインタビューしました。すると山田さんはその喜びをこう言いました。「昨夜は、自宅で夕飯の支度をしていたら、テレビを見ていた夫が『智さんがノーベル賞を受賞したよ』といったので『えー』と台所から飛んできて見入りました。智には、おめでとう、よくやったねと言いたいです。弟は、小学生のころは、やんちゃなところがあり、近所の友達と、けんかしていたこともありました。ただ、いつも思うのは、弟が、ひとりで、ここまできたのではなく、周りの人に恵まれたことが、最高に幸せだったのではないかと思います。これからも、皆さんに感謝しながらがんばってほしい。」大村さんがノーベル賞を受賞したことで、お姉さんはそのノーベル賞を受賞した大村さんのお姉さんと呼ばれるようになったのです。別にお姉さんが何かしたわけではありませんが、大村さんのお姉さんということで、その栄誉の一員に加えられたわけです。それは私たちも同じで、私たちは神の子イエス・キリストを信じたことでイエスさまを長男とするその兄弟に、ノーベル賞どころかこの天地万物を造られた神の御子の兄弟、神の家族の一員に加えられたのです。 

信じられません。全くおこがましい限りです。私たちはしばしば自分たちがイエスさまを信じていることさえ恥じたりすることがありますが、そんな私たちを、イエスさまは「兄弟」と呼んでくださるのです。そして、それを恥とはなさいません。何という恵みでしょうか。造り主と造られた者ではレベルが違います。また、救い主と救われる者とでは立場が違います。聖とする方と聖とされる者とでは全く質が違います。それなのに、主は私たちをご自身と同じ「兄弟」と呼んでくださるのです。それは恵みではないでしょうか。 

 Ⅱ.死の恐怖から解放してくださった(14-16) 

 第二のことは、そのようにイエスさまが人となって来られ、十字架にかかって死んでくださったことによって、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったということです。14節と15節をご覧ください。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

 十字架の苦しみと復活によって、なんとすばらしい結果がもたらされたことでしょう。それによって死が滅ぼされました。人にはいろいろな恐れがありますが、その中でも最も恐ろしいのは死ではないでしょうか。死は人からすべてのものを奪ってしまいます。家族を奪い、友人を奪い、これまで積み上げてきた地位や名誉や財産のすべてを奪います。しかもそれは何の予告もなしに、ある日突然やってくるのです。だれもそれから逃れることはできません。私たちの人生にはいろいろな問題がありますが、この死の問題こそ究極の問題であり、最大の問題です。そして、この死の問題に明確な解決を持っていなければ、何のために生きているのか、その生の意味さえも見えてこないわけです。結局のところ、死んでしまえばすべてが終わりなのですから。泡となって消えてしまいます。ですから、いつも死に怯えていなければならないのです。 

 しかし、神はこの死の問題に解決を与えてくださいました。神の御子が私たちと同じように肉体を持った人となって来られることによって、その死によって、悪魔という死の力を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったのです。ここにキリストが私たちと同じ肉体をもって生まれた理由があるのです。それは、キリストが十字架で死なれ、そして三日目によみがえることによって、悪魔が握っていた死の力を完全に打ち破るためだったのです。ですから、クリスチャンにとっては、死はもはやのろいではなく、天国への入り口になりました。クリスチャンといえども造られた者にすぎませんから、肉体の死を免れることはできませんが、その死の意味が全く変わりました。もはや罪の刑罰という意味での死は取り除かれ、天の御国で永遠に主とともに生きる時に変えられたのです。もはや死ぬことは少しもこわくはないのです。一般的には「死」ということばさえ忌み嫌われ、考えたくもないし、会話にもしたくないことですが、クリスチャンにとっては、むしろそれは天国でイエスにお会いできるという喜びの時となったのです。これはものすごいことではないでしょうか。

今年8月1日に全日本リバイバルミッションの滝元明先生が召天しました。85歳でした。その葬儀が8月14日に、凱旋式・リバイバル感謝聖会として新城市文化会館で行われましたが、その中で、1993年に行われた甲子園ミッションで滝元先生が語られたメッセージが上映されました。先生はそのメッセージの中で、こう言われました。「私は19歳で教会に行き2回目で信じました。洗礼の時に、伝道者になって世界中に行きたいと祈り、神様はその祈りを聞いてくださり、痔(じ)も癒やされました。他の宗教でも癒やしはあります。しかし、罪の赦しはキリスト教だけです。神様はあなたの家庭を祝福し、あなたを千代まで祝福すると言います」「イエス様を信じる者は永遠の命を与えられます。それまで死ぬことが怖かったですが、この言葉で怖くなくなりました。私の父も母もイエス様を信じて天国に帰りました。このキリストを信じましょう」すばらしいですね。死はもはや滅ぼされました。確かに肉体は滅んでも、そのたましいは主のもとにあげられ、そこで永遠に主とともに生きているのです。 

大沢バイブルチャーチの関根辰雄先生が、聖書学校を出て最初に赴任した足利の教会の隣に、お寺が管理している墓地がありました。そしてその墓地の中に、一際目立った大きなお墓があったそうです。それはその町の名士であったらしい人のお墓のようでしたが、その墓標にはこう辞世が記されてありました。辞世というのはこの世を去る時に読む詩のことですね。 

「行く先の知れぬ旅路や 衣替え」 

さあ、これから衣を着替えて新しい旅に出かけようというのに、どこに行くのかがわからないのです。行く先の知らない旅に出ることほど不安なことはありません。おそらくこの方は家族のために尽くし、社会のために貢献し、その人なりに生きられたのでしょう。でもその人生の終わりが来たとき、どこに行くのかがわからないとしたら、それこそ虚しいのではないでしょうか。関根先生はしばらくそこに立ち止ってじっと眺めていましたが、何とも寂しく、はかなさを感じたそうです。 

しかし、そのお墓のすぐ近くにもう一つの墓碑があったそうです。それはどうやらクリスチャンの墓のようで、そこにはこう記されてありました。 

「我らの国籍は天にあり」 

ハレルヤ!!!自分は死んで終わりではない。よみがえるのだ。私のたましいは、私を造られた主のもとに帰るのであって、消えて、無くなのではない。私の国籍は天にあるのだ。そのように告白して歩める人は、どんなに幸いなことでしょう。それは、死に完全に勝利した人の姿です。イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きるのです。死はもはやキリストにある者を縛ることはできません。キリストが死んで、三日目によみがえられたことによって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていた人々を解放してくださったからです。あなたも天から恵みを頂いて、このような人生の最後を飾ってください。 

Ⅲ.あわれみ深い大祭司となるため(16-18) 

キリストはなぜ人となって来られたのでしょうか。第三に、それはあわれみ深い大祭司となられるためです。17節と18節をご覧ください。

「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

 大祭司とは、民に代わって、神にとりなしをする人のことです。イエスは、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、すべての点で私たちと同じようになられました。それは私たちの罪のために、なだめがなされるためです。大祭司は、年に一度、至聖所と呼ばれる所に入って、契約の箱の贖いの蓋の上に、血をふりかけて、イスラエルの民の罪のなだめを行ないました。神が人の罪に対して怒っておられるからです。その怒りがなだめられるように、そこで動物のいけにえの血が振り注がれたのです。イエスがそのなだめの供え物となられました。御子イエスが私たちの罪のために、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったので、私たちに対する神の怒りは完全に取り除かれたのです。ですから、もう神は怒っておられません。あたなが自分の罪を悔い改め、神の御子を救い主と信じたことで、あなたは神の子とされたからです。もうあなたは神の怒りの対象ではなく、愛の対象へと変えられたのです。いったいなぜイエスが人となって生まれなければならなかったのでしょうか。このなだめがなされるためでした。そのためにイエスは、私たちと同じように、罪深い肉と同じ姿にならなければならなかったのです。 

ではキリストはどのような大祭司なのでしょうか。ここには、あわれみ深い、忠実な大祭司とあります。キリストは、あわれみ深い、忠実な大祭司となられるために、すべての点で私たちと同じようにならなければならなかったのです。それは、キリストが私たちと同じように肉体に弱さを持っておられたことを意味しています。私たちと同じように肉体の疲れや痛みを経験されました。また、心の苦しみ、叫び、悲しみも経験されました。イエスさまがベタニヤ村のマルタとマリヤの家に行ったとき、弟ラザロが死に、マリヤと人々が泣いているのをご覧になったとき、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、涙を流されたとあります(ヨハネ10:35)。イエスさまは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられたのです。 

ですから、私たちが受けている誘惑、または試練といったものを、イエスさまが知らないものは何一つありません。私たちが日々の生活の中で、「このことは、だれにもわかってもらえない。」という苦しみがあるでしょう。けれども、主はそのすべてを知っておられます。なぜなら、人となられたときに、その試みのすべてを経験されたからです。ですから、すべてのことを知っておられるイエスさまに、力をいただくため、大胆に神の恵みに御座に近づくことができるのです。 

私たちが日々の生活の中でいろいろな苦しみに遭い、その重圧に押しつぶされてしまいそうになるとき、自分だけが苦しい目に遭っているわけではないということを知ることは大切なことです。自分だけが特別に苦しい目に遭っていると思うと、耐えがたさを感じるでしょう。しかし、それが自分だけでなく、イエスさまも同じように試みを受けて苦しまれたということがわかるとき、心に励ましを受けます。なぜなら、この方は私たちと同じようになられたので、同じような試みにある人を助けることができるからです。 

昨日スーパーキッズがあって、2階でお母さんたちのバイブルスタディーがありましたが、その中に先天性の脳の病気を抱えたお子さんを持つお母さんが参加されました。この方の赤ちゃんは3歳になりますが、生まれてからほとんど成長できず、立つことも、話すこともできないでいましたが、1か月前に気管支炎にかかり病院に入院してから体調が悪化し、眠ろうとするとパニックになるので眠ることもできず、もうどうしたらいいかわからないで苦しんでおられました。自ら命を断とうとさえ思ったほどです。ところがそこに、同じような苦しみを経験された人がいて、涙ながらにそのこと話してくれると、その方はこれまで抱えていた肩の荷が降ろされたというか、とても慰められたかのようでした。それは「私だけじゃないんだ」「みんな同じような苦しみを通っているんだ」ということがわかったからです。

このように、自分だけじゃないということがわかるとき、心に大きな慰めを受けるのです。イエスさまは私たちと同じようになられたので、私たちの弱さを十分理解することがおできになるのです。 

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に遭われることはなさいません。試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13) 

私たちは、自分だけが特別に苦しい目に遭っていると思うと耐えがたさを感じるかもしれません。しかし、私たちの大祭司であられるイエスさまも、私たちと同じ苦しみを体験されたのです。その方がいま、私たちの大祭司として、天でとりなしていてくださいます。ただ天にいて、下界を「どれどれ」と眺めているのではありません。すべての点で私たちと同じようになられ、同じ試みに遭われ、同じ苦しみをなめられたそのお方が、今、天において私たち一人一人のために、その名を挙げてとりなしの祈りをしてくださっているのです。なんと驚くべき恵みでしょうか。もし御使いを助けるのであれば、わざわざ肉体を取られることはなかったでしょう。しかし主は御使いを助けるためではなく、アブラハムの子孫、これは私たちクリスチャンのことですが、私たちを助けるために来られたので、私たちと同じようになられたのです。それは私たちが経験するすべての苦しみを理解することができ、またそのように試みられている人たちを助けるためです。 

人間の大祭司なら落ち度もあり、失敗もあるでしょう。しかし、神の大祭司はあわれみ深い方です。また忠実なお方です。忠実ということは、本当に信頼できるということです。このようなお方が私たちのすぐそばにいて、私たちを助けてくださることを思うと、本当に励まされるのではないでしょうか。私たちにどのような問題があっても、この方はどんな問題でも、すべての問題に解決を与えることができる方なのです。こんなすばらしい救い主がほかにいるでしょうか。 

 ですから、使徒の働き4章12節にはこうあるのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

 あなたが助けを求める方はこの方です。この方以外には、だれによっても救いはありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。あなたは、この方に信頼していますか。この方を信じて救われていますか。もしまだでしたら、今日信じていただきたいと思います。信じて救われ、死の恐怖から解放されてください。そして、どのような苦しみからも救い出し、助けることができるキリストの力を体験してください。もう既に信じている方は、どうかこの確信にしっかりと留まってください。押し流されませんように。この方から目を離さないで、この方に信頼して歩み続けてください。そうであれば、どのような問題があっても勝利ある歩みをしていくことができるからです。キリストが人となってこの世に来てくださったのは、あなたを十分理解し、あなたを助け、あなたを救うためだったのです。

民数記33章

きょうは民数記33章から学びます。

Ⅰ.イスラエル人の旅程(1-49)

 1. 出エジプト(1-4)

まず1節から4節までをご覧ください。

「モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとに、エジプトの地から出て来たイスラエル人の旅程は次のとおりである。モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。エジプトは、彼らの間で主が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主は彼らの神々にさばきを下された。」

ここには、イスラエルがエジプトを出てから今の時点、すなわちヨルダン川のエリコの向かいにあるモアブの草原までどのように導かれてきたかの旅程が記されてあります。まず4節までのところには、彼らがエジプトを出た時のことがまとめられています。まずイスラエルはモーセとアロンの指導のもとに、軍団ごとにエジプトから出発しました。それは1年後にシナイの荒野で整備されたような整えられたものではありませんでしたが、ある程度の秩序を保っていたことがわかります。そうでないと約60万人の男子と、女子、こどもを加えて200万人を超える人たちと、多くの家畜を引き連れて一夜のうちに旅立つことは困難だったからです。ここで強調されていることは、彼らは「全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。」ということです。それは主が力強い御手によって連れ出されたからです(出エジプト13:9,14,16)。

2. 第一段階~エジプトからシナイの荒野まで~(5-15)

次に、5節から15節までをご覧ください。ここにはエジプトを出てからシナイ山までの旅程が記されてあります。ここではまず8節の「ピ・ハヒロテから旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい」ということばが強調されています。これは出エジプト記14章にある出来事ですが、イスラエルがエジプトを出た後、背後からエジプト軍が追ってきましたが、目の前間は紅海で全く逃げ場を失うという絶対絶命のピンチの中で、主が奇跡的なみわざによって海の真ん中に乾いた道を作られ、それを通って救われましたことが書かれてあります。

それから9節の、「エリムには12の泉と、70本のなつめやしの木があり、そこに宿営した」ということも強調されています。そこではどんなことがあったでしょうか。これは出エジプト15章にある出来事ですが、彼らは荒野の旅の中で水がなく苦しんでいたときマラという所に来て水を見つけましたが、その水は苦くて飲むことができませんでした。それでモーセが主に叫ぶと、主が1本の木を示されたのでそれを水の中に投げ入れました。するとそれは甘くなり、飲むことができるようになりました。それで彼らはエリムに到着することができました。それは、彼らが主の命令に聞き従うなら主は彼らをいやし、なつめやしの木のように潤してくださることを教えるためのものでした。

そして、14節の「レフィデム」に宿営したことについて、それぞれ簡単な出来事が記録されています。そこでも彼らは、飲み水がなく大変苦しみました。しかし、モーセがホレブの岩の上に立ち岩を打つと、そこから水が流れ出ました。彼らは主を信じることができず主と争ったため、そこはマラ(争う)と名付けられましたが、大切なことはどんな時でも主の御声に従うことであるということを学びました。そして、レフィデムではもう一つの大切な出来事がありました。それはアマレクとの戦いです。ヨシュアが戦い、モーセが祈りの手を上げて祈ったことで、彼らは勝利することができました。

3. 第二段階~シナイの荒野からリマテまで~(16-18)

次に16節から18節までをご覧ください。ここにはシナイの荒野からリマテまでの旅程が記されてあります。ここから民数記に記録されてある内容です。彼らはシナイの荒野で律法が与えられ、幕屋が与えられ、また大掛かりな人口調査が行われ、軍隊が編成されて、神の民として整えられてシナイの荒野からカナンの地に向かって出発しました。それはエジプトを出た第二年目の第二の月の二十日のことでした(民数記10:11)。

キブロテ・ハタアワでは、イスラエルの民が食べ物のことでつぶやいたので、うずらが与えられましたが、主は彼らの欲望に対して怒りを燃やし、激しい疫病で民を打たれたので、欲望にかられた民はそこで死に絶えました。ここで印象的なみことばは民数記11:23の「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今にわかる。」というみことばです。主の御手が短いことはありません。主はどんなことでもおできになる方です。私たちに求められていることは、この主にただ従ことなのです。

ハツェロテでは、ミリヤムとアロンがモーセに逆らったのでミリヤムは神に打たれてらい病になりました。

そして18節にはリテマに宿営したとありますが、このリテマとはどこにあるのかがよくわかりません。そして、ハツェロテの後で、この荒野の旅程で最も悲劇的な事件が起こりましたが、そのことについてここには全く記録されていないのが不思議です。それはカデシュ・バルネアでの出来事でした。約束の地まで間もなくというところにやって来たとき、イスラエルはその地を偵察すべく12人のスパイを送るのですが、そのうちの10人は否定的な情報をもたらし、そのことを信じたイスラエルの民は嘆き悲しみました。彼らは主のみことばに従いませんでした。主は「上って行って、そこを占領せよ。」と言われたのに、彼らは民のことばを信じておびえてしまったのです。それでイスラエルはその後38年間も荒野をさまよってしまうことになりました。ただヌンの子ヨシュアとカレブだけが主に従い通したので、後に約束の地に入ることができましたが、その他の20歳以上の男子はみな荒野で死に絶えてしまいました。あの最大の事件がここに出ていないのです。なぜでしょうか。民数記12:16には、「ハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した」とあり、13:26には、「パランの荒野のカデシュ」とあることから、この二つの荒野の近くにあったのがこのリテマではないかと考えられているからです。つまり、このリテマこそがカデシュ・バルネアではないかと考えられているのです。

  1. 第三段階~リテマからホル山~(19-40)

次に、19節から40節までをご覧ください。ここにはそのリテマからホル山までの旅程が記されてあります。これがいつの出来事なのかははっきりしていませんが、おそらくカデシュ・パルネアでの出来事の後の38年に及ぶ旅程ではないかと思われます。エジプトを出てから40年目の第五の月の一日に、アロンはこのホル山で死にました。それはメリバの水の事件(民数記20:11)で、モーセとアロンは主に従わなかったからです。それで彼らは約束の地に入ることができませんでした。

  1. 第四段階~ホル山からモアブの草原まで~(41-49)

イスラエルの旅程の最後はホル山からモアブの草原までの道のりです。41節から49節までをご覧ください。彼らはホル山からエドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った(民数記21:4)ので、まず南に下り、エツヨン・ゲベルまで南下して、次いでエドムを避けながらプノンまで北上したものと思われます。そしてやっとの思いで今、約束の地に入る手前まで来たのです。

 

それにしても、いったいなぜここで40年間の荒野の旅路を書き記す必要があったのでしょうか。これは主の命令であったとありますから、そこには何らかの主の意図があったものと思われます。おそらくそれは、それが力強い主の御手によって導かれたことを示すねらいがあったのでしょう。それは「旅立って、宿営した」という言葉が何回も繰り返されていることからもわかります。彼らは雲の柱と火の柱によって導かれました。彼らはその時は、雲しか見えなかったかもしれません。夜は火の柱しか見えません。けれども、振りかえれば、主が行なわれた道を辿ることができたのです。アメリカのカルバリーチャペル牧師チャック・スミスはこう言っています。

「イエス・キリストの愛の御手に自分の永遠の運命を信仰によってお任せしたら、神が働かれているのを確かに見ることができるでしょう。そしてあなたの人生の出来事や状況を、麗しいモザイクに形づくられているのを知ります。それは、あなたの周りにいる人々にご自分の御子を明らかにするためです。あなたが生まれた時以来、この方の御手があなたの上にあります。」

私たちも今はわからないことがありますが、確かに主は雲の柱と火の柱をもって私たちを導いておられるのです。主の御手がいつも私たちの上に置かれているのを見て、信仰をもってそれにすべてをゆだねつつ、信仰の旅路を歩ませていただきたいと思います。

Ⅱ.カナンの地に入るとき(50-56)

 最後に50節から56節までをご覧ください。

「エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときには、その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造をすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならない。あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住みなさい。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地としなさい。大きい部族には、その相続地を多くし、小さい部族には、その相続地を少なくしなければならない。くじが当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう。」

ここには、カナンの地に入る時に守るべき事柄が語られています。それは、その地の住民をことごとく彼らの前から追い払うようにということです。彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造もすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならないのです。なぜでしょうか?それは主の土地であって、彼らが所有するように、主が彼らに与えてくださったものだからです。すなわち、それは主の聖なるところだからです。そこには他の神々があってはならないのです。だから、それらを徹底的に粉砕しなければなりませんでした。そうでないと、その偶像が彼ら自身を悩ますようになります。事実、ヨシュアの死後、彼らはその地の住民を追い払わなかった結果、彼らは偶像礼拝に引きずり込まれる結果となりました(士師2:11,12)。敵に苦しめられ、神にさばきつかさが与えられますが、やがてまた偶像に引かれていくことを繰り返すようになったのです。それは特に士師の時代に著しいですが、イスラエルが偶像と全く縁を切ることができなかったことはその歴史が証明しています。

私たちの住むこの日本にもこうした異教的な風習がたくさんありますが、主に贖われたものとして、聖なる者として、そうしたものに心が奪われることがないように、それらを取り除いていくことが求められています。このくらいはいいだろうと妥協せず、汚れから離れ、何が良いことで、神に受け入れられるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。(ローマ12:2Ⅱコリント6:14-18)。

ヘブル2章1~9節 「こんなにすばらしい救い」

 きょうは、2章1~9節のみことばから、「こんなにすばらしい救い」というタイトルでお話します。こんなにすばらしい救いです。どんなにすばらしい救いでしょう。ご一緒に見ていきましょう。まず1節をご覧ください。 

 Ⅰ.押し流されないように(1) 

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」 

この2章は、「ですから」ということばで始まっています。「ですから」というのは、1章で語られた内容を受けてということです。1章ではどんなことが語られたでしょうか。1章では、神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって語られた、とありました。神は、お語りになられる方です。そのようにしてご自身を現してくださいました。ではどのようにお語りになられたのでしょうか。神は、むかし預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には、御子によって、語ってくださいました。御子は、神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れです。ですから、御子を見た者は父を見たのです。神がどのような方であるかは、御子を見ればわかります。御子は万物の相続者であり、創造者であられます。そしてその力あるみことばによって今も万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い方の右の座に着かれました。この方は王の王、主の主であられるのです。他の何ものにも比べることができないほど偉大な神なのです。では神の御使いはどうでしょうか。御使いは霊的な存在で超自然的なことができますが、それらはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために、これは私たちクリスチャンのことですが、遣わされたものにすぎません。しかし、御子は、その御使いに拝まれる対象なのです。全く比べものになりません。「ですから」です。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」 

この手紙の受取人はヘブル人でしたね。ヘブル人というのはユダヤ人のことです。ヘブル人、ユダヤ人、イスラエル人はほとんど同じ意味です。ユダヤ人というのはユダヤ教を信じていますが、そのユダヤ教から回心してクリスチャンになった人たちです。彼らはユダヤ人でしたがキリストの福音を聞いて、イエスこそ約束のメシヤとして信じました。ところが、彼らがイエスを信じているということでユダヤ人たちから迫害を受けると、自分たちが信じているイエスさまから離れ、ユダヤ教に逆戻りする人たちがいたのです。折角、過去の古いしきたりから解放されたというのに、再びそこに逆戻りしたのです。それは船が潮の流れに流された状態と同じです。とても危険なのです。 

2013年9月、イタリアの豪華客船コスタ・コンコルディア(Costa Concordia)が座礁して沈没、多くの尊い命が奪われる事故が起こったことは記憶に新しいかと思います。あの事故はどうして起こったのかというと、船がコースを外れて運航し浅瀬に乗り上げてしまったことが原因でした。。船長が乗客を喜ばせようとして無理に陸地に近づこうとしてコースを外れ、岩礁にぶつかつてしまったのです。まさにこの手紙の受取人もそのような危険がありました。それでパウロはそういうことがないように、聞いたことをしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければならない、と警告したのです。彼らは確かに聞いてはいましたが、実際には聞いていませんでした。それはただ頭だけのことであって、心に結び付けられていなかったのです。キリストのことばを表面的に聞いていても、それが心の深い部分に留まっていませんでした。

イエスさまは、「だから、聞き方に注意しなさい。」と言われました。「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」(ルカ8:18)

みことばを聞いても、聞いていないことがよくあります。みことばを聞いても、「ああそれは知っている」とか、「ああそれは何回も聞いた」いうレベルにとどまったり、心に結びつけるところまでいかないことがあるのです。でも不思議なことに、みことばは何回聞いてもその時その時に教えられることが違います。ですから、聞いたみことばを自分にあてはめ、植え付けるようにして聞く事が大切です。表面的に「分かった」というところにとどまらないで、本当にイエスさまと深い部分において触れ合っていくことが大切ではないでしょうか。 

Ⅱ.こんなにすばらしい救い(2-4) 

次に、2~4節までをご覧ください。

「もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」 

「御使いたちを通して語られたみことば」とは、モーセの律法、旧約聖書のことです。モーセの律法は、神から御使いたちに与えられ、それがモーセに伝えられました。そのみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順に対して当然の処罰がもたらされたのであれば、御子によって与えられたこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうして処罰をのがれることができるでしょうか、できませんよ、というのです。「違反」とは、「これこれをしてはいけない」というルールを破ることです。また、「不従順」とは、「これこれのことをしなければならない」という決まりをやらないことです。この御使いを通して語られた律法でさえ、それに違反したり、それに不従順であれば、当然の処罰を受けたのです。であれば、ましてや神の御子によって伝えられた救いをないがしろにすれば、神の処罰を免れることは当然のことです。なぜなら、これはすばらしい救いだからです。 

聖書は、私たちが救われるために神が用意してくださったものを「福音」と呼んでいます。それは「良い知らせ」という意味ですが、イエス・キリストに関することです。神の御子イエス・キリストが、私たちの救いのために何をしてくださったのかということであります。神は、初め私たちを罪から救うためにご自身の律法を与えてくださいました。それはさきほど申し上げたように、これをすれば救われるとか、これをしなければ救われないというものですが、残念ながらこの律法の基準を満たすことができる人はひとりもいませんでした。むしろ、律法を守ろうとすればするほど、自分がいかに罪深い者であるのかを知るのでした。そうです、神の律法が与えられた目的は私たちを救うことではなく、私たちに罪の意識を植え付けることだったのです。すべての人が罪人であるということを明らかにすることでした。ではいったいだれが私たちを救ってくれるのでしょうか。イエス・キリストです。神は、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされた神の義、救いの道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。このキリストを信じる者は、だれでも神の前に義と認められるということ、すなわち救われるということ、それが福音です。では、イエス・キリストとはどのような方でしょうか。この方はどのようにして私たちを救ってくださったのでしょうか。 

キリストは神の御子であられます。この方は、天地万物を造られた創造主です。それなのに、私たちをその罪から救うために天から下って来られました。そして、私たちのすべての違反、不従順、罪を背負って、身代わりに十字架で死んでくださいました。罪の支払う報酬は死であるとあるように、本来なら私たちが死ななければならなかったのに、キリストが身代わりに死んでくださったのです。そして、三日目によみがえられました。それは私たちが義と認められるためです。もし死んだままであったらキリストは私たちと同じ人間だということであり、私たちを救うことはできないからです。しかし、キリストはよみがえられました。ですから、この方を信じる者は、だれでも救われるのです。これが福音です。 

どうですか、ほんとうにすばらしい救いではないでしょうか。この神がしてくださったことを受け入れるだけでいいのです。そうすれば、あなたも救われます。あなたの努力や行いによるのではありません。難行苦行をしなければならないというのではないのです。ただこの神の救いのみわざを信じて受け入れるだけでいいのです。自分の努力によっては全く救われるはずのない者が救われるのであれば、これは恵み以外の何ものでもありません。だからここには、「こんなにすばらしい救い」と言われているのです。こんなにすばらしい救いはどこにもありません。それなのに、これを無視することがあるとしたら、あるいは、これをないがしろにして過去の生活に、律法主義に逆戻りするようなことがあるとしたら、どうやって神の処罰を逃れることができるでしょう。そこには永遠の滅びしか残っていないのです。 

これは尾山令仁先生が書かれた本にあったお話ですが、先生が1958年に石川県の金沢市にある北陸学院というミッション・スクールの夏期学校に講師として行ったとき、ある教会の夕拝で説教されました。その中にこのような経験をされたご婦人がいました。それはその時よりもさらに15年ほども前のことですが、その方は、ある冬の日、玄関で赤ん坊が泣く声で目が覚めました。その朝は大雪で、軒近くまで雪が積もっており、その玄関の軒先に赤ん坊が置かれていました。すぐに玄関をあけ、その赤ん坊を抱いた時、その赤ん坊がだれの子であるかはすぐに見当がつきました。ちょっと前に近所の奥さんが赤ん坊を置いて家出をしたと聞いていたので、おそらくその人の子供だろうと思いました。きっと育てることができなかったので、ここに置いて行ったのだろうと思い、であれば、自分が育てなければならないと、この時決心しました。しかし、自分が産んだ子供ではありませんから、お乳が出ないわけです。そこで、人工栄養で育てるしかないと粉ミルクを買おうとしましたが、それが結構お金がかかり、ちょっとした内職程度ではミルク代をかせぐことができないわけです。そこでやむなく男たちに交じって道路工事の仕事をすることにしました。

ところが、ある日のこと、仕事をしていると、人がやって来て、その子がトラックにはねられた、と知らせに来てくれました。取るものも取りあえず病院に飛んでいくと、幸いにして一命を取り止めることができました。しかし、だんだんよくなってくると、欲が出るもので、その子のからだのいたるところにできた傷を何とか直してやりたいと思うようになりました。その子が女の子であれば、なおさらのことです。病院のお医者さんに相談すると、「それは難しいですよ」ということでしたが、とうとう意を決して、自分の皮膚を取って、その子に移植しました。無事手術も終わり、日ましによくなり、そのうちにその女の子の傷跡はすっかりなくなってしまいました。しかし、母親のおなかには、大きな傷跡が残ってしまったのです。そして、その子が中学生になり、ミッション・スクールの北陸学院の生徒になったころ、母親と一緒に風呂屋へ行くことを嫌がるようになったのです。母親には、その理由がすぐにわかりました。一緒に風呂屋へ行くと、小さな子供たちが母親の近くに来て、「あのおばちゃんおなかの所おかしいよ」と言っては、じろじろと眺めるものですから、中学生になったその子にとってはとても恥ずかしく、耐えられない苦痛だったのです。

そこで、ある日のこと、その母親は、その子にこう言いました。「今日は、あなたにお話ししたいことがあります。そこにお座んなさい。」すると母親は、自分の醜いおなかのことを話す前に、その子が自分のおなかを痛めて産んだ子ではないことを話しました。さすがに拾った子供だとは言えなかったので、ある人からもらったのだと言いました。そして、「このことはほかの人から聞くよりも私から話しておいた方がいいと思ったから、私から話したの。あなたはどう思う。」と言うと、彼女は少しも動じることなく、「産みの親は産みの親、育ての親は育ての親と言うでしょ。別にどうってことないわ」というので、「それじゃ、あなたにこのこともお話しておくわ」と、自分の醜いおなかのわけを話しました。するとそれをじっと聞いていた娘さんは、「お母さん、ごめんなさい、私はお母さんのおなかのことが恥ずかしくて、一緒にお風呂に行かなかったの。」と言って、その場に泣き崩れてしまいました。そのことがあってから、この娘さんは、学校で聖書の時間や礼拝の時に聞いたイエスさまのことがよくわかるようになりました。イエスさまが自分のために身代わりとして十字架にかかってくださり、私を罪から救ってくださったということがよくわかり、周りにいる人たちにこの福音をよく伝えたそうです。 

私たちが救われた福音とは、実にこのようなものです。いや、これ以上のものです。この娘さんは母親の身代わりによって癒されたのです。それなのに、その母親の愛の行為を恥ずかしいと思ったりすることがあれば、それはほんとうに悲しいことではないでしょうか。同じように、神が私たちを愛してくださったその大きな愛によって私たちが罪から救われたのに、その救いをないがしろにするとしたら、すなわち、その救いの道から離れたり、以前の生活に逆戻りするようなことがあるとしたら、神はどれほど悲しまれることでしょう。この福音こそ、私たちを罪から救い出し、新しく生まれ変わらせることができるのです。ですから、この福音に、あなたが聞いたこの福音の真理に堅く立ち、ますますしっかりと心に留めて、この世の流れに押し流されないようにしなければなりません。それが生まれ変わったクリスチャンの生き方なのです。 

Ⅲ.すべての人のために死なれたイエス(5-9) 

ところで、いったいなぜ神は私たちのためにこんなにすばらしい救いを与えてくださったのでしょうか。それは、神は私たちを愛しておられるからです。5節から9節までをご覧ください。

「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」 

 どういうことでしょうか。5節にある「後の世」とは千年王国のことです。神は、この後の世を御使いたちに従わせることをなさらず、私たち人間の手にゆだねられました。神の御子イエス・キリストを信じる者を、キリストとともに共同相続人として、千年王国を支配する者としてくださったのです。何ゆえに神は、このような特権を与えてくださったのでしょうか。この手紙の著者は、ダビデが語ったことばを引用して、驚きをもってこう語っています。6節、

「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。」

「これ」というのは人間のことです。人間が何者だというので、神はこんなちっぽけな人間に目を留めておられるのでしょうか。それは人を特別な存在としてお造りになられたからです。創世記1章26節、27節を見ると、神が人を造られたとき、神のかたちに、神に似せて造られたとあります。神のかたちに造られたということは、神の霊を持つものとして造られたということです。神は人を霊を持ち、神と交わりを持つ者として造られました。そのように造られたものは人間だけです。この世界には多くの被造物が存在していますが、神に似せて造られたのは人間だけなのです。いや、神が造られた被造物のすべては人間が生きていくために造られたのです。そういう意味で、人は特別な存在なのです。ですから神は、その造られたすべてのものを人間が支配するようにしたのです。つまり、人間にはこの世を支配するという特権がゆだねられたのです。 

それなのに、8節にあるように、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見ていません。実際にこの世を支配しているのは人間ではなく悪魔です。悪魔とか天使という言葉を聞くとどこかおとぎ話のような感じがするかもしれませんが、悪魔は実際に存在しているのです。存在しているだけでなく、実際にこの世を支配しているのです。そして、私たちにいろいろと戦いを挑み、悪い影響を及ぼしているのです。Ⅰヨハネ5章19節には、「私たちは神からのものであり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」とあります。この世全体は悪い者の支配下にあるのです。悪霊崇拝やオカルト(魔術)といったものから、クリスチャンの成長を妨げてしまうようなさまざまな思考パターン、習慣、罪深い行動、怒り、怒り、憎しみ、極度の落ち込みなど、いろいろな形で表われています。私たちはそうしたものに捕われながらなかなか克服することができず、絶望的な日々を送っているのではないでしょうか。それは悪魔がこの世を支配しているからです。悪魔は惑わす霊であり、偽りの父です。その結果、全世界が悪い者の支配下にあるのです。 

 エペソ2章1、2節には、次のようにあります。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順らの子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」この「不従順らの子らの中に働いている霊」とは悪霊のことです。悪魔、悪霊は、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順らの子らの中で働いているのです。私たちはキリストを信じるまでこの悪魔の支配の中で生きていました。本来であれば人間がすべてのものを支配するはずだったのに、最初の人アダムが罪を犯したことで、罪の奴隷となりました。そしてこの悪魔の支配下の中で生きることになってしまったのです。その結果、何とも不自由な生き方を余儀なくされてしまいました。パウロはそんな自分の姿をこのように嘆いてこう言っています。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」(ローマ7:24)

罪に捕われた自分の姿を、このように告白せざるを得なかったのです。それは私たちも同じです。私たちもこうしたさまざまなものに捕われながら、本当に不自由な生き方をしているのではないでしょうか 

いったいだれが、この死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。パウロは続くローマ人への手紙7章25 節からのところでこう言っています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。というのは、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはないからです。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」神はどのようにして私たちをこの罪から解放してくださったのでしょうか。イエス・キリストによってです。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それが9節にあることです。ご一緒に読んでみたいと思います。

「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」

「御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエス」とは、イエスが人となってこの世に来られたことを意味しています。キリストは神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ、神ご自身であられたのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そればかりか、キリストは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それが御使いよりも、しばらくの間、低くされたということです。 

 でも、神が人になるなんて信じられません。そんなことあり得ないからです。当時のユダヤ人もそのように考えていました。遠い地平線を見ると天と地が一つに重なってみえても実際にはどこまでも重なることがないように、神と人間が重なることはありません。どこまでいっても神は神であり人間は人間です。神が人になったり、人が神になったりするなんてあり得ない、と考えていたのです。けれども神は、そうした人間の考えを超えて働いてくださいました。どこまでも交わることのないはずの神が、人となってくださったのです。しかも、十字架にかかって死んでくださいました。なぜでしょうか。9節の最後のところにこうあります。「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」 

それはすべての人のためでした。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人も、また私たち日本人も、すべての人です。すべての人種、すべての民族のためです。それはあなたも例外ではありません。キリストはあなたのために十字架で死んでくださいました。それはあなたの罪を贖い、本来あなたに与えられていた支配権をサタンから奪い取り、やがてキリストとの共同相続人となって、後の世を支配するようになるためです。最初の人アダムは罪を犯したので、神から与えられたこの祝福を失ってしまいましたが、最後のアダム(キリスト)はその失った支配権をサタンから奪い取るために、人類の代表として死を味わわれたのです。キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。キリストを受け入れるまで私たちは罪の奴隷でしたが、キリストが十字架で死なれたことによって、私たちに対する罪の力は破られたのであります。ですから、悪魔は私たちに対して、いささかの力も持っていないのです。あなたはキリストにあって自由とされたのです。ガラテヤ5章1節にこうあります。 

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」 

もうあなたを縛るものはありません。敵である悪魔は完全に打ち破られました。キリストが十字架であなたの罪の身代わりとなって死んでくださったので、あなたに対する罪の力は破られたのです。あなたは救い主イエスを信じたことで神の子としての特権を受けたのです。あの最初の人に与えられた支配権を回復したのです。やがてもたらされる千年王国でそれは明らかにされるでしょう。あなたはキリストとともに千年間王となって御国を治めるようになるのです。 

ですから、あなたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなければなりません。ということは、私たちはその自由を失って、またと奴隷のくびきを負うこともあり得るということです。それは、この1節でパウロが警告していることでもあります。ですから、聞いたことを、ますますしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。あなたは、こんなにすばらしい救いを受けたのですから・・・。キリストは、あなたを救うために天から下って来られ、十字架で死んでくださいました。ここに私たちの唯一の希望があるのです。