申命記24章

 

 申命記24章です。まず1節から5節までをご覧ください。

 

 1.結婚、離婚、再婚について(1-5

 

「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、彼女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となり、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」

 

ここには、人が妻をめとり、その妻に何か恥ずべき事を発見して、気にいらなくなり、離婚した場合、どうしたら良いかが教えられています。まずここには「妻に何か恥ずべき事を発見したため」とありますが、この恥ずべき事とはいったいどんな事でしょうか。多くの学者は、これは姦淫のことではないかと考えていますが、これは決して姦淫ではないことは明らかです。なぜなら、姦淫を行った者は、離婚ではなく死をもって償わなければならなかったからです。ですから、それ以外の何かで、夫が気にいらない事があった場合ということなのでしょう。そのような場合は、夫は離婚上を書いて彼女を家から去らせることができました。

 

あれっ、ちょっと待ってくださいよ。妻が気に入らなくなった場合、勝手に離婚しても良かったのですか?このことについてイエス様はこう言っています。マタイの福音書193節から9節です。ここではパリサイ人がイエス様のところにやって来て、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」と尋ねます。それに対してイエス様はこう言われました。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりはではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:4-6そして、「だれでも、不貞のためではなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」(マタイ19:9と言われたのです。つまり、妻を離別することは、神のみこころではないということです。それならばなぜここで、妻が気に入らなくなったら、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなさいとあるのでしょうか。それはイエス様も言われたように、人々の心がかたくななので、その妻を離別することを許したのです。つまり、離別することは神のみこころではなく、罪なのですが、自己中心的な人間はそういうことをするので、そういうことをする場合は、そのようにしなさいと言われたのであって、初めからそういうわけではなかったのです。

 

しかし、ここで問題になっているのは離婚しても良いかどうかということよりも、そのように離別された妻が、ほかの人の妻となり、次の夫も彼女をきらい、離婚状を書いてその女を去らせた場合、あるいはまた、その夫が何らかの理由で死んだ場合、最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることができるかということです。できません。彼女は汚されているからです。それは主の忌みきらうことであります。そのようなことをして主の相続地を汚してはならないのです。

 

これはどういうことでしょうか。ここで、彼女は汚れていると言われていますが、彼女は好きで汚れたのではありません。それはすべて男の身勝手な思いによってそうさせられたのであって、彼女には何の罪もないのです。ですから、ここで問題になっているのは彼女が汚れているかどうかということではなく、最初の夫の身勝手な行動が戒められているのです。嫌になったから別れたいとか、やっぱりあなたがいいから戻って来てという不誠実な態度を、主は忌み嫌われるということなのです。ですから、この女性がほかの男性と再婚することは禁じられていないのです。そのように一方的に夫から離婚させられ、家から去らせられても、再婚は許されていました。女の権限が全くなかった古代社会で、離婚と再婚が許されていたことは、妻により大きな傷を与えないための神の方法だったのです。

 

このことは、男と女の関係だけのことではなく、キリストと私たちの間にも当てはまることです。私たちは神の恵みにより、キリスト・イエスを信じることで神の子とされました。それはある意味でキリストとの婚姻関係に入ったことを意味しています。しかし、現実の生活は厳しくて、このまま信仰を続けていくことは困難なのでもう信仰を捨てよう、そして、もう少し落ち着いたら、人生を精一杯満喫して、もういいです、もう何の未練もないです、という時に再び信仰生活を始めようというのであれば、それはこの最初の夫がしていることと同じことです。もちろん、信仰から離れていた者が再び戻ってくるということは神のあわれみによって行なわれるかもしれませんが、しかし初めからそのようなことを考えて信仰から離れるということがあるとしたら、それは汚れることであり、再び戻ることはできないということを覚えておかなければなりません。

 

ところで5節を見ると、ここには、新しく結婚して1年間は、その夫を戦場に送ったり、他の社会的な義務を負わせてはならない、と命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、もし、彼が戦争に出て死亡した場合、子孫もなく、妻を未亡人にしてしまうからです。夫は、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければなりません。このことからも、神はあわれみ深い方であり、結婚を通して私たちに喜びを与えてくださる方であるかがわかります。

 

2.貧しい者、弱い者たちに対する配慮(6-16

 

次に6節から15節までをご覧ください。6節には、「ひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。」とあります。ひき臼は、家族のための日ごとのパンを作るのに、必要不可欠な道具でした。毎朝、女たちがひき臼を回して穀粒ををひき、その日のパンのための粉にしました。従って、ひき臼、あるいは上石を質に取られてしまうなら、家族が食べることができなくなり、いのちそのものが取られることになってしまいます。それで、ひき臼を質に取ることが禁じられているのです。朝ごとにひきうすの音が聞こえるのは、平和と幸せのしるしだったのです。

 

7節には、「あなたの同族イスラエル人のうちのひとりをさらって行き、これを奴隷として扱い、あるいは売りとばす者が見つかったなら、その人さらいは死ななければならない。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」とあります。人をさらい、奴隷として外国に売り飛ばすといったことの禁止です。このようなことは主が忌みきらわれることであり、主の相続の地においてはあってはならないものなのです。

 

また、ツァラートの患部には気を付けて、レビ記にあったように、祭司が教えるとおりにしなければなりませんでした。祭司はそれをよく調べ、それがツァラートであると判断したら、隔離してもう一度調べなければなりませんでした。そして、きよめられた者だけが宿営に戻ってくることができました。なぜ、そのように慎重にしなければならなかったのでしょうか。なぜなら、9節にあるように、それが神からの罰であったかもしれないからです。モーセはここでイスラエル人に、ミリヤムのことを思い起こさせていますが、それはミリヤムがモーセを非難したために、主の前に連れて来られ、その罪のためにツァラートなりました。彼女は七日間、宿営の外にとどまっていなければなりませんでした。そのように、それが神からの刑罰であるかもしれないのです。

 

10節から13節には、担保を取ることに関する規定が記されてあります。すでにひき臼や上石を担保として取ることについては6節で禁止されていましたが、それ以外の担保を取って金を貸す場合のことです。10,11節には、担保を取るために、その家に入ってはならないと言われています。外に立っていなければなりませんでした。どうしてでしょうか。お金を貸す者がその家に入っていけば、その人の家に何があるかと注意深く見て回り、担保物件として取ってしまう危険があったからです。担保物件の設定は、あくまでもお金を借りる者が決めなければなりませんでした。ここにも、貧しい者への神のあわれみが示されています。

 

また、12節には、もしその人が貧しい人であるなら、その担保を取ったままで寝てはならないと命じられています。日没のころには、その担保を必ず返さなければなりませんでした。なぜなら、その上着は夕方になって寝るとき、彼の身体を寒さから守る唯一の物であったからです。ですから、彼がそれを着て寝ることができれば、彼はあなたを祝福するだろうし、また、それは神の前に喜ばれることなので、結局のところ、あなた自身が祝福されることになるというのです。そのことがここでは「義」となるとまで言われています。それは神の前に義なる行為として認められるということです。神によって贖われた私たちにふさわしい態度は、この神にならってあわれみ深くあることであり、貧しい人たちを顧みることなのです。

 

14節は、貧しい雇い人を働かせる場合の規定です。貧しい雇い人を働かせる場合は、日没前までに、賃金を払わなければなりませんでした。この定めは、それが同胞イスラエル人であっても、在留異国人であっても、同じように適用されました。彼らは貧しいことで、その日の収入で、その日を食べていかなければならないため、賃金を先送りされては、生きていくことができなかったからです。ですから、賃金を先送りすることは、彼らをしいたげることであり、罪なのです。このことを見ても、神が貧しい人たちのことをどれほど顧みておられる方であり、あわれみ深い方であるかがわかります。

 

16節には、各個人が自分の罪の結果として死刑になる以外に、親が子どもの罪のために殺されたり、子どもが親の罪のために死刑にされるようなことがあってはならないと教えられています。家族が罪を犯すと、多かれ少なかれ、その親や子どもが影響を受けることになりますが、あくまでもそれはその罪を犯した本人の問題であり、家族がその責任を受けるということがあってはならないのです。

 

3.在留異国人やみなしごに対して(17-22

 

最後に17節から22節を見て終わりたいと思います。17節には、「在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。」とあります。在留異国人やみなしごの権利を侵してはいけません。なぜなら、彼らもかつてはエジプトで奴隷だったからです。そのような彼らを、神はあわれみをもって救い出してくださいました。であれば、今度は彼らがそのような不遇な人たちに対してあわれみ深くなければなりません。

 

19節から21節には、「あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。」とあります。

 

レビ記19:9や、23:22には、「畑の隅々まで刈ってはならない。収穫の落穂を集めてはならない。」と述べられていました。農作物を収穫する時に、完全に収穫するのではなく、わざわざ一部を残しておかなければならなかったのです。それは、在留異国人や、みなしご、やもめたちが、残っている未収穫分を食べて生きることができるためです。ここにも在留異国人やみなしご、やもめに対する配慮が語られています。そのようにすることによって、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためです。

 

今日の社会では、文字通り適用することは難しいかもしれませんが、しかし、その精神は継承され、実践されなければならない大切な信仰の基準です。不遇な隣人たちに対してどのように思いやり、彼らの必要に対してどのように支援できるかを、より具体的に実践する必要があります。それは必ずしも経済的な支援に限らず、霊的、精神的な支援も含みます。今日の社会では、どれほど多くの人たちが生活に困窮していることでしょう。

 

先日さくらチャペルで行われたキッズの集会の時、ふたりのお母さんとヨハネの福音書9章から聖書の学びの時を持ちました。生まれつき目が見えない盲人に対して、弟子たちが、「この人がこのように生まれたのはこの人が罪を犯したからですか、それとも、この人の両親が罪を犯したからですか。」と尋ねると、イエス様は、「この人が罪を犯したからではなく、この人の両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:3と言われました。すると、このふたりのお母さんは、それぞれ自分の子どものことで悩みを打ち明けられたのです。はた目では何の問題もないかのようでも、みんな何らかの問題を抱えておられるんだなぁと思ったとき、そのような問題に取り組むことは、こうした在留異国人やみなしご、やもめたちのために労することでもあるということを思わされました。

 

ジョージ・ミューラーは1805917日、ドイツ領プロセインで生まれ、英国に長く暮らしました。彼はA.H.フランケの生涯を読んで深く感銘を受け、30歳の時、英国ブリストルで孤児院を始めました。彼が初めて孤児院を始めた時、準備したものはもらいものの皿3枚とフォーク4つ、そして野菜をおろすおろしがね1枚だけでした。それから62年間、750万ドル以上がその孤児院に送られてきましたが、彼は一度も人に頼んだり、訴えたりしたことはありませんでした。

英国の地に足を踏み入れてから、彼はその日誌にこう書き記しています。「私の残りの人生すべてを生きておられる神にささげる。」彼は聖書のみことばに基づいた原理にそって生きました。そして彼の人生は死ぬまで一貫していました。彼はだれにも助けを求めたり、それをほのめかしたりしませんでした。

晩年、彼は42か国にわたりほぼ20万マイルを回り、300万人のたましいに福音を伝えました。このように神に仕えた後、18983月10日の早朝、93歳でこの世を去りましたが、彼の生涯は、ただ神に祈り、神が導かれた孤児院の子どもたちにあわれみを示すということでした。それは彼のヒューマニズムから出たことではなく、この神の教えから示されてのことだったのです。

 

イエス様は、「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37と言われました。私たちに示されていることは違うかもしれませんが、原則は同じです。すなわち、在留異国人やみなしご、やもめたちをあわれむことです。天の父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深い者でありたいと思います。それがエジプトから救い出された者としての、罪の奴隷の中から贖われた者にとって、ふさわしいあり方なのです。

ヘブル12章1~3節 「イエスから目を離さないで」

きょうは、ヘブル人への手紙12章1~3節から、「イエスから目を離さないで」というタイトルでお話します。このヘブル人への手紙の著者は、11章で信仰に生きた人たちを例に取り上げ、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか。」と勧めました。では、どのようにして走り続けたらいいのでしょうか。聖書にはしばしば私たちの信仰生活が競技やスポーツにたとえて説明されていますが、ここでも信仰生活を競技にたとえ、そのために必要な三つのことを教えています。

 

Ⅰ.いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てる(1)

 

まず、第一のことは、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てるということです。1節に、「私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と勧められています。ここでは競争とありますが、どちらかというと短距離走よりも長距離走をイメージしてください。長距離走、あるいはマラソンを走るのに、荷物を背負って走る人はいません。できるだけ身を軽くして走ります。靴にしても、ウエア―にしても、できるだけ軽くして走るわけです。それと同じように、信仰のレースをする人も、レースの障害になるようなものを取り除かなければなりません。

 

では、信仰の競争において障害となるものは何でしょうか。ここには、いっさいの重荷とまとわりつく罪とあります。いっさいの重荷とまとわりつく罪とは、具体的にはどんなものを指すのでしょうか。

この「捨てる」という言葉の原語は「アポティセミー」という言葉ですが、これはローマ人への手紙13章12節でも使われています。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着ようではありませんか。」この「やみのわざを打ち捨てて」の「打ち捨てて」が「アポティセミー」です。ではこのやみのわざとは具体的にどのようなものかというのが、次の13節にこうあります。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。」です。ですから、信仰のアスリートとして、走り続けたいと思うなら、ここにあるようなやみのわざを捨てなければなりません。

 

また、この言葉はエペソ人への手紙4章22節でも使われていて、そこには、このようにあります。

「その教えとは、あなたがたの以前の生活については言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、」

この「脱ぎ捨てるべきこと」の「脱ぎ捨てる」が「アポティセミー」です。信仰のアスリートとして勝利するためには、余分なもの、邪魔なもの、重荷になるもの、障害になるものは、脱ぎ捨てなければなりません。それは私たちが以前身に着けていた、人を欺く情欲といったものです。

 

また、同じエペソ人への手紙4章25節にも使われていて、そこには、「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」とあります。ここでは捨てるべきものとして挙げられているのは、偽りです。隣人に対して偽りではなく、真実を語らなければなりません。

 

また、コロサイ人への手紙3章8節もこの言葉が使われていて、そこには、「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」とあります。ここでは、怒り、憤り、そしり、また、口から出る恥ずべきことばを捨ててしまいなさい、とあります。

 

また、ヤコブ1章21節には、「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」 とあります。みことばがなかなかすなおに受け止められませんという人は、もしかしたらここに原因があるのかもしれません。それは、捨て去っていないことです。私たちはすべての汚れやあふれる悪を捨て去らなければなりません。それらのものを捨て去って、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなければならないのです。

 

次にⅠペテロ2章1、2節を開いてください。ここには、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。

ここではすべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てるようにと言われています。私は信仰を持って何年も経つのになかなか成長していないという方がおられます。謙遜に言う場合もありますが、本当にそのような方もおられます。いったいどこに原因があるのでしょうか。捨てていないことです。ここには、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、とあります。そのようなものを捨てなければなりません。そして、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めるなら、それによって成長し、救いを得ることができます。それを捨てなければ、それらを身にまとっているなら、いつになっても成長することはできません。

 

また、思い煩うこと、心配することも大きな重荷です。なぜなら、思い煩いは霊的な力を削いでしまうからです。人は自分の将来に目を向けて、起こり得るすべてのことを想像しますが、想像することのほとんどは、否定的なことなのです。私たちは、未来の不確かなことや、過去の出来事の結果 として起こるのではないかと案ずる事柄で、自分を引き裂いてしまうのです。

 

ある精神科医の調査によると、人が思い煩うことの40パーセントは絶対に起こり得ないことであり、30パーセントはどうすることもできない過去の出来事、12パーセントは人から受けた批判(それもほとんど事実無根の話ばかり)、10パーセントは自分の健康のこと(心配すればするほど健康状態が悪くなるのだが)、8パーセントは実際に直面する可能性のある問題だそうです。何というエネルギーの無駄づかいでしょうか。だからイエス様はこう言われたのです。

 

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)。

 

明日のことは神に委ねて、その日その日を精一杯に生きることが必要なのです。こうした思い煩いや心配が、私たちの信仰のレースを重くし、前に進むことを妨げてしまうのです。

 

ところで、「重荷」と訳されていることばの原語の意味は、重要なものとか、突出しているもので、それが転じて重荷だとか、邪魔もの、やっかいなもの、足手まといのものと訳されるようになりました。非常に興味深いことです。私たちにとって、重要なもの、目立つもの、突き出てるものが、時として不必要な重荷となって、信仰のレースの足手まといになることがあるということです。これは大切なんです、これがないとダメなんですというものがあるとしたら、もしかしたらそれが重荷となってあなたの信仰のレースを妨げていることもあるのです。

 

ある婦人が携挙の夢を見ました。他の人はみんなスーと空中に挙げられていくのに、自分だけなかなか天に引き挙げられていかないので、「あれっ、どうしたのかなぁ、ちょっと体重が増えたからかなぁ」と思ってよく見たら、足首にロープが巻き付けられていて、そのロープの先を見ると、自分の家財道具がいっぱい縛り付けられていたというのです。それがゆえに、なかなか上に挙がっていかなかったんですね。その夢を見た方ははっとさせられたと言います。

 

私たちにもそのような重荷があるのではないでしょうか。そうしたものが障害になって、なかなか前へ進めないことがあるのです。物を持つこと自体は罪ではありません。しかし、その物が場合によってはあなたの足を引っ張ることにもなりかねないのです。物を持つことは、お金を持つこと、お金を貯めることは、必ずしも悪いことではありませんが、それに執着したり、そのこだわりがあると、霊的に成長するための障害物になることがあるということを覚えておかなければなりません。そういえば、イエス様は種まきのたとえの中で、いばらの中に蒔かれた種は、いばらが成長を塞いだで実を結ぶことができなかったと言われました。いばらとは何でしょう。この世の心づかいや富の惑わしです。そういったものがあると実を結ぶことができないのです。

 

旧約聖書の聖徒たちも、さまざまな重荷を抱えました。その時彼らはチャレンジを受けました。それを捨てるべきか、それとも持ち続けるべきか。11章を見る限り、彼らはその重荷を捨て去ることができたことがわかります。

 

また、ここにはいっさいの重荷だけでなく、まとわりつく罪を捨てて、とあります。この罪ということばの原語は「ハマルティア」です。ハマルティアは、アーチェリーで的を外すということばから来ています。ですから、的はずれが直訳です。皆さんは今、的に向かって信仰のレースをまっすぐに走っているでしょうか。それとも、的からはずれているでしょうか。勝手に自分で的を設定して、これがゴールだと、これがクリスチャンとしての私の目指すべきところだと突っ走ってはいないでしょうか。それは自分が設定したゴールであって、そのゴールに向かって走っているのは的はずれです。そうすると、遅々としてなかなか信仰の歩みが進まない、霊的に成長しないということも起こってきます。ですから、私たちにとって的が外れていることがないかどうかを、聖霊様によって示していただかなければなりません。聖書には、みこころに反することは罪だと言われています。信仰から出ていないこともそうです。なすべき正しいことをしないのも罪だとも言われています。ですから、だれの目にも罪だというのがあれば、あなた個人にとって罪だというものもあります。そのような罪も捨て去らなければなりません。

 

詳訳聖書では、この「まとわりつく罪」を、「たやすく、巧妙に、悪賢くまといつく、私たちを巻き込む罪」と訳しています。私たちの多くは罪を犯そうと思って犯すわけではなく、知らず知らずのうちに、無意識のうちに、気が付いたら道を踏み外していたということが多いのです。それほど巧妙に、罪の誘惑が仕掛けられているのです。ですから、私たちは常にそのことを意識して、聖霊によって私たちの内側を探っていただき、もし私たちの中に罪があるなら悔い改めて、正しい道へと導いていただかなければなりません。

 

ダビデは詩篇の中でこう歌っています。「 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23-24)

 

この祈りを、私たちの祈りとしたいものです。そして、私たちにまとわりつく罪があるならば、それを捨てて、神が定めてくださった信仰の走路に立ち返り、その道を走り続けなければなりません。幸いなことに、私たちには、こうした重荷や罪といったものよりもはるかに大きな力を持っておられる神がともにいて助けてくださるので、それらのものをかなぐり捨てることができるのです。

 

 

Ⅱ.イエスから目を離さないで(2)

 

第二のことは、イエス様から目を離さないということです。2節をご覧ください。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをもろともせずに十字架を忍び、神の御座に着座されました。」

 

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離すなとありますが、それが勝利の秘訣です。マラソンランナーはじっとゴールを見ています。後ろばかり見ていたら遅れをとってしまいます。また、回りのランナーばかり見ていたら、焦ってペースを乱し、遅れをとってしまうことになります。もしあなたが優秀なランナーならただゴールを目指して一心不乱に走っていきます。そのゴールとはイエス・キリストです。そのイエスはただのゴールではなくスタートでもあります。イエス様は信仰の創始者であり完成者なのです。イエス様は私たちに救いを与えてくださった方であり、それを完成してくださる方です。

 

新改訳聖書には、この「創始者」ということばに※が付いていますが、下の欄外を見ると「指導者」とあります。ですから、イエス様は単に私たちに信仰を与えてくださったというだけでなく、その完成に向かって共に歩み、指導してくださる方であります。まさにイエス様は信仰のリーダーであり、信仰の先駆者であり、信仰の指導者なのです。常にイエス・キリストが私たちのリーダーであるということです。このイエスが目標です。私たちよりも先にこの信仰のレースを走ってくださいました。先ほど1節に、信仰の先輩者たちも私たちを応援する力強い応援団であるということを見ましたが、何よりの励みはイエス・キリストが私たちを応援してくださることです。完成に向けて指導してくださるということです。イエス様がいなければ、私たちはこの信仰のレースを走り抜くことはできません。

ピリピ人への手紙1章6節にはこうあります。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださるということを私は堅く信じているのです。」

イエスが信仰の創始者であるならば完成者でもあります。始められたことを中途半端で投げ出される方ではありません。イエス様がイニシアチブをとってこの世に来てくださり、イエス様が先に私たちを愛してくださって、イエス様が先に信仰のレースを走り抜いてくださいました。全部イエス様が先なんです。初穂となって最初に死の中からよみがえられました。そのあとに続くのが私たちです。ですから、イエス様が始められたレースを、続いて走っているわけです。ですから、そのイエスが最後までその信仰のレースを完了させてくださる、ゴールを切らせてくださると約束しておられるのです。

 

そのイエスから目を離さないでいなければなりません。この「離さない」ということばは、他のものから目をそらして、あるものにしっかりと目を留めること。凝視することです。他のものからきっぱりと目を離して、イエスだけを凝視するということです。これは大切なことです。なぜなら、私たちは同時に二つのものを見ることができないからです。人は、神にも仕え、富にも仕えることはできません。二つのものを見ようとすれば遅れをとってしまうからです。コースから外れてしまうのです。そういうことがないように、イエス様が模範となってくださいました。ですから、このイエスを見続けるならコースから外れることがなく、最後まで信仰のレースを走りつづけることができるのです。

 

ところで、イエスさまはなぜ、このような苦しい信仰のレースを走り抜かれたのでしょうか。その理由が次のところに書かれてあります。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

 

ここには苦しみだけでなく、喜びもあったことがわかります。苦しみの中にも喜びがあります。ゴールのないマラソンを走るような人はいないと思います。それはただむなしいだけです。何のためにこんなに苦しい思いをしなければならないのか、何のために生きなければならないのか、それがわからなければ苦しいだけですが、ゴールがわかり、その先にどのようなものが待っているかがわかっているなら、どんなに苦しくとも、その喜びを胸に、それを先に見て、前に進むことができます。

 

それでは、イエス様の喜びとは何だったのでしょうか。それはその後にご自身が復活するということ、そして、その十字架と復活を通して成し遂げられた救いの御業を信じる者に永遠のいのちがもたらされるということでした。それをちょっと垣間見ることができたのが、イエス様と一緒に十字架に付けられた強盗の一人が、イエス様を信じた瞬間でした。彼は十字架の苦しみの中でイエスをののしったもう一人の強盗のことばをいさめると、イエス様に向かってこう言いました。

「イエスさま。あなたの御国の暗いにおつきになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

するとイエスさまは彼に、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われました。

イエスさまは十字架の苦しみの中にありながらも、パラダイスを見ることができました。その中にこの強盗のひとりもいる。また、それに続く何十、何万という人々が救われて、永遠のいのちがもたらされるということを知っていたので、その苦しみを耐え忍ぶことができたのです。

 

時々、私は考えることがあります。いったい何のために伝道するのだろうか。何のために教会を開拓するのだろうか。それは教会を通して神の福音が宣べ伝えられ、そこで多くの人々が救われ、主を知るようになるためです。想像してみてください。あの町でも、この町でも、主を信じて救われる人たちが波のようにやって来て、主をほめたたえるようになるのです。それは私たちの時代ではないかもしれない。ずっとずっと後の時代かもしれない。しかし、その時彼らはこういうでしょう。「ああ、ここに教会が出来て本当に良かった。こうして主の救いにあずかり、主を礼拝することができるのは本当に感謝なことだ・・・と。」それはふって沸くようなものではなく、多くの労苦がささげられますが、やがてそのような喜びがもたらされるということを思うなら、そうした労苦も乗り越えることができます。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩篇126:5)

 

イエスさまがはずかしめをもろともせず十字架を忍ぶことができたのは、この喜びのゆえであったのです。自分が復活することも喜びでしたが、それだけでなく、ここにいる私たち一人ひとりが永遠の滅びから救われて永遠のいのちをいただき、共にパラダイスに入ることが、イエスさまにとっての何よりの喜びだったのです。私たちの姿が見えたんです。十字架につけられながら、今ここにいる皆さんの姿がイエスさまには見えたのです。私たちも見るべきです。私たちが携挙されて空中で主と出会うのを。そうすれば、どんなに苦しくても、そこには言葉には言い尽くせない喜びが待っているのです。そして、私たちの目の前にどんな苦しみがあっても、それを耐え忍び、信仰のレースを走り抜くことができるのです。

 

Ⅲ.イエスのことを考えなさい(3)

 

ですから、イエスさまのことを考えましょう。3節にはこうあります。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」

 

罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方とは、イエスさまのことです。イエスさまは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方です。このイエスさまのことを考えなければなりません。なぜなら、それによって、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。皆さん、いったいなぜ私たちは元気を失い、疲れ果ててしまうのでしょうか。それはこのイエスから目を離してしまうからです。自分のことを見たり、自分のことばかり考えて、自分にばかりフォーカスを当てるとどうなるでしょうか。落ち込みます。または反対にうぬぼれてしまいます。他人のことばかり考えたると、回りのことばかり考えるとどうなるでしょうか。ねたんだり、腹が立ったりします。サタンことばかり考えるとどうなるでしょうか。恐怖や敗北感に襲われます。罪について考えることは大切なことですが、罪のことばかり考えるとどうなるでしょうか。罪責感にさいなまれてしまいます。ですから、私たちはそのようなものを見るのではなく、イエスさまを見なければなりません。イエスのことを考えなければならないのです。

 

この「考える」ということばは、繰り返して考えるとか、深く考えるという意味です。皆さんはイエスさまのことを聞いたことがあります。聖書も読んだことがあります。メッセージも聞いたことがあります。私たちはそのようにして自分のキリスト像を持っているわけですが、正しいキリスト像を持つためには、たまに聞くだけでなく、毎日聞かなければなりません。毎日、毎日、何度も繰り返して聞かなければなりません。特に、あなたが困難の中にあるとき、試練に直面しているときは、イエスさまのことを考えてください。深く思い巡らしてください。そしてイエスさまがどのようなお方なのかをよくとらえてください。そうすれば、あなたは元気を失い、疲れ果ててしまうことなく、鷲のように翼をかって上ることができます。

 

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。このイエスのことをよく考えてください。それすれば、あなたはこのイエスさまから励ましと力をいただき、あなたの前に置かれている信仰のレースを最後まで走り抜くことができるのです。

 

最後にこれをご覧ください。これは、1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソン競技で、37位ながらも見事完走を果たしたスイスのガブリエラ・アンデルセン選手です。彼女は陸上競技場に姿を表すと、熱中症で今にも倒れ込みそうになりましたが、ゴールを目指して走り続けました。手助けをすると失格になってしまうため、医師らが並走し状態を確認しながら、本人の意思を確認すると、脚も手も思うように動かない状態の中、それでも本人はゴールを目指すことを選択したのです。

彼女がスタジアムに入ってから5分以上が経過しましたが、スタジアムの観客の声援に後押しされるかのように、彼女は最後の気力を振り絞り2時間48分42秒で完走を果たしたのです。

レース後、アンデルセン選手はこう言いました。「普通のマラソン大会なら途中で棄権していたでしょう。でも歴史的な大会だったので、どうしてもゴールしたかったのです。」

 

私たちの信仰生活は一度しかない歴史的なレースです。神様は、私たち一人ひとりに、人生のコースを定めておられます。そして、走るべき道のりを最後までりっぱに走り抜いた人に、勝利の栄冠を用意してくださいます。そのレースは決してたやすいものではありませんが、それでも私たちは走り続けることができるのです。なぜなら、信仰の創始者であり、完成者であるイエスさまがおられますから。イエスさまがすでにその道を走り抜かれ、神の右の座に着座されましたから、私たちはこのイエスさまの足跡に従って進んでいくことができるのです。また、観客の大声援も後押ししてくれます。みんなスタンディングオベーションで励ましてくれています。だから、私たちは走り続けることができるのです。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。これが信仰のレースを走り抜く最も大きな力なのです。