申命記23章

 きょうは、申命記23章から学びます。まず1節と2節をご覧ください。

 

 1.主の集会に加わることができない者(1-8

 

「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。」

 

「こうがんがつぶれた者」とか、「陰茎を切り取られた者」とは、男性の性器をとった者のこと、つまり、去勢した男性のことです。そのような者は、主の集会に加わることができませんでした。また、不倫の子も集会に加わることができませんでした。その十代目の子孫であってもです。なぜ主の集会に加わることができなかったのでしょうか。なぜなら、主は完全な方であり、欠けたところが何一つない方だからです。そして、なによりも、神は、イスラエルの子孫からキリストをお送りになられました。キリストは、「女の子孫」とも呼ばれていますが、この子孫とは、「種」、つまり精子とも訳すことができる言葉で、生殖器官に欠陥があったり、不倫などの汚れを持っているとすれば、そのような中から救い主がお生まれになるということはふさわしくなかったのです。ですから、そうした者が主の集会に加わることができませんでした。

 

しかし、このような箇所を見ると、いかにも神は排他的であり、人を差別しているかのように感じます。人にはいろいろな事情があるし、それぞれの置かれた背景はみな違います。中には自分が望まなかったのにそのようにして生まれてきた人もいるでしょう。それなのに、どうして主はそうした人たちが主の集会に加わることができないと命じたのでしょうか。しかし、ここではそのようなことを言っているのではなく、あくまでも主は完全な方であり、律法も聖なるものであるということを示しているのであって、そのような主の集会に加えられる者も完全でなければならないということを示しているのです。ですから、そういう意味では私たちはみなこうがんがつぶれた者であり、不倫の子でしかないのです。というのは、聖書には「義人はいない。ひとりもいない。」とあるからです。そのような者が神の集会に加えられることがあるとしたら、それは神のあわれみでしかありません。

 

「肉においては無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求を全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4

 

つまり、神は肉においては無力な者を、ご自分の御子によって、ご自分の御子を信じる者を義としてくだり、ご自身の集会に加わることができるようにしてくださったのです。すなわち、救いは神の一方的な恵みによるということです。ですから、ここで神は決して人を差別しておられるのではなく、ご自分の聖さ、完全さをお示しになることによって、不完全な私たちがどのようにしてご自分に近づくことができるのかを示しておられるのです。

 

次に3節から6節までをご覧ください。ここには、アモン人とモアブ人は主の集会に加わることができない、とあります。なぜでしょうか。なぜなら、彼らはイスラエルがヨルダン川の東側を北上しているときに、イスラエルにパンと水を与えることを拒んだからです。また、モアブの王バラクは、ベオルの子バラムを雇いイスラエルを呪わせようとしたからです。勿論、神はそんなバラムの呪いを聞こうとはされませんでした。その呪いを祝福に変えてくださいました。神はイスラエルを愛しておられるからです。その神が愛してやまないイスラエルに敵対したり、呪ったりするなどもってのほかであって、そのような者が主の集会に加わることはふさわしいことではなく、そんな彼らのためには決して平安も、しあわせも残されてはいないのです。かつて主はアブラハムに、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」(創世記12:3と言われましたが、モアブ人たちにそのとおりのことが起こったのです。

 

ところで、このあとに登場するモアブ人ルツは、イスラエルの集会に加えられただけでなく、救い主の系図の中にも出てくる敬虔で、美しい女性です。もしモアブ人を主の集会に加えてはならないというのであれば、ルツがそのように救い主の系図に加えられていることはおかしいことになりますが、そのように彼女が救い主の系図にも出てきているということはモアブ人だから一概にだめだということではなく、イスラエルに敵対する人たちを加えてはならないということなのです。たとえモアブ人であってもルツのようにイスラエルの神を求める者であれば、イスラエルの中に加えていただくことができたのです。

 

次に7節と8節をご覧ください。ここには、「エドム人を忌み嫌ってはならない。」とあります。なぜなら、彼らは「あなたの親類だから」です。また、「エジプト人を忌みきらってはならない。」とあります。なぜなら、イスラエルはエジプトで在留異国人だったからです。

 

エドム人は、ヤコブの兄でした。兄弟であるのだから、親類なのだから、忌みきらってはいけないのです。しかし、エジプト人を忌みきらってはならない、というのは不思議な命令です。というのは、イスラエルはかつてエジプトの奴隷としてしいたげられていたからです。そのエジプトを忌みきらってはいけないというのは、彼らがそこで「在留異国人」だったからでしょう。つまり、イスラエルは、自分にされた仕打ちを仕返しするのではなく、彼らは今、自分たちのところで在留異国人になっているのだから、優しくしてあげなければならないということなのです。イエス様は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44と言われましたが、ゆるしの原則、また敵を愛する原則がここに見られます。だったら、なぜアモン人やモアブ人にもそのようにしないのかと不思議に思いますが、恐らく、彼らはイスラエルを呪うようなことをしたからでしょう。

 

2.陣営をきよく保つこと(9-14

 

次に9節から14節までをご覧ください。「あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。もし、あなたのうちに、夜、精を漏らして、身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出なければならない。陣営の中にはいって来てはならない。夕暮れ近くになったら、水を浴び、日没後、陣営の中に戻ることができる。また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用をたすようにしなければならない。武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用をたしてから、排泄物をおおわなければならない。あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。」

 

ここには、イスラエルの陣営をきよく保つことが命じられています。すなわち、彼らが戦いのために出陣している時には、すべての汚れたことから身を守らなければなりませんでした。たとえば、彼らの中で、夜、射精して身を汚した者がいれば、その者を陣営の外に行かせなければなりませんでした。その者は、日が暮れるころ、水を浴び、身をきよめてからでないと、陣営の中に戻ることができませんでした。 また、お便所は陣営の外に設けなければなりませんでした。そこに小さな穴を掘り、そこで用を足したら、土をかけてそれを覆わなければならなかったのです。なぜなら、神が、彼らの陣営を歩まれるからです。主がその中で汚れたものを見て、彼らから離れることがないようにしなければならなかったのです。これはどういうことかというと、その戦いは主の戦いであるということです。神がともにおられるなら、敵がどのような者であっても勝利することができますが、神がともにおられないなら、人間的にどんな戦術を施しても勝利することはできません。彼らにとって最大の勝利の秘訣は、勝利者であられる主がともにおられるかどうかということだったのです。そのために、彼らから汚れを取り除かなければならなかったのです。

 

 それは私たちも同じです。私たちにとって最大の勝利の秘訣は、主がともにおられるかどうかであって、私たちの力とは全く関係ありません。その主が私たちとともに歩いてくださるために、いつも汚れを取り除き、自分自身をきよく保たなければなりません。それはまさに御霊なる主の働きによるものですから、私たちはいつも自分自身を主に明け渡し、心を尽くし、思いを尽くして、力を尽くして、私たちの神である主を愛する者でありたいと思います。

 

3.神のあわれみを示すこと(15-16

 

次に15節と16節をご覧ください。「主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。」

 

当時、逃げてきた奴隷はその主人に引き渡すことが慣例となっていましたが、主はそれに反し、そのように逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してしならず、その奴隷を、彼らの町囲みのうちのどこでも望む場所に住まわせてやり、決して虐待してはならないと命じられました。なぜでしょうか。それは、イスラエルもかつては奴隷であったからです。彼らもその苦しみを知っています。だから、彼らは自分たちが奴隷の時に受けた苦しみを彼らに与えるのではなく、逆に助けることによって慰めてやらなければならなかったのです。これはその苦しみを経験した者でなければわからないことです。主はそんな彼らをあわれみ、その中から救い出してくださいました。ですから、彼らもまた奴隷して苦しんでいる人をあわれみ、そこから助けてやらなければならないのです。

 

17節と18節をご覧ください。神殿娼婦とか神殿男娼というのは、異教の宮で売春をしていた女性、男性のことです。異教の宮ではこのようなことが平気で行われていました。しかし、主は聖なる方であって、その神殿に汚れたものを入れることを忌みきらわれます。こうしたものを取り除かなければなりませんでした。そればかりでなく、そのようなことによって得たお金を、主の宮に持って行って、捧げてはならないと命じられました。それは主が忌みきらわれることです。なぜなら、その手段が汚れているからです。神を礼拝するという目的のためであるならどんな手段であっても構わないというわけにはいきません。たとえ目的が良くてもその手段が悪ければ、主を喜ばせることにはならないのです。

 

次に19節と20節をご覧ください。ここには、お金や物を貸したときの利子を取ることについて教えられています。そして、外国人からは利子をとってもいいが、同胞から取ってはならないと命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、彼らが入って行って、所有しようとしている地で、彼らの神、主が、彼らの手のすべてを祝福されるからです。これは、すばらしい約束ではないでしょうか。神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは与えられるのです。

 

このことについては、既にレビ記2535節から38節までのところで学んだとおりです。「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。わたしはあなたがたの神、である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。」とあります。

 

もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、彼を在留異国人として扶養しなければなりませんでした。在留異国人として扱うというのは、異邦人として扱うということではなく、土地を持たない寄留者のように、旅人のようにもてなすということです。生活が成り立たなくなった人が奴隷としてではなく旅人のように、寄留者のように扱うというのは、まさに神のあわれみなのです。なぜそのように扱わなければならないのかというと、それは、主がエジプトからイスラエル人を連れ出してくださったからです。主がイスラエルを奴隷の中から解放してくださったのに再び奴隷になるようなことがあるとしたら、それこそ、神の恵みに泥を塗るようなことです。彼らに求められていたことは、神を敬うことでした。神の命令に従うことだったのです。そうすれば、主が彼らを祝福してくださるからです。

 

5.主に誓願をするとき(21-23

 

次に21節から23節までをご覧ください。「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行なわなければならない。」

 

もし主に誓願をするなら、それを果たさなければなりません。誓願をしてもそれを果たさないとしたら、それは罪とされるからです。約束は破るためにあるのではなく、誠実に果たすためにあるのです。最初から果たせないような誓約はしないことです。それでも私たちが誓約をするのは、誓約をしてでも自分の祈りを主に聞いてほしいという願いがあるからです。ですから、もし誓約をするなら、それを果たさなければなりません。

 

士師記の登場するエフタは、アモン人との戦いにおいて、もし主が敵に勝利させてくださるなら、敵に勝利して無事に家に帰ったとき、戸口から自分を迎えに出てくる、その者を主のものといたします、と誓ったら、何とそれは自分の娘でした。彼は非常に悩み、苦しみましたが、それが主への誓いであり、どんなことがあっても守らなければならないと信じ、そのようしました。ヘブル書11章にはこのエフタが信仰の勇者として紹介されていますが、何ゆえに彼が信仰の勇者として数えられているのかというと、このように主への誓いを誠実に果たしたという点で、彼は称賛されているのです。

 

イエス様は、「決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足代だからです。」(マタイ5:34-35と言われましたが、それはここに書かれてあることを否定しているのではなく、むしろ補強しているのです。誓うというのは、簡単に言うと、「自分で言ったことは実行する」ということです。「私は、これこれのことをします。」と言っておきながら、それを行なわなければ、それは偽りの罪になります。ですから、行なわないなら、行ないません、と正直にはっきりと言ったほうが良いのであって、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい、と言われたのです。

 

6.隣人のぶどう畑について(24-25

 

最後に24節と25節を見て終わります。「隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」

 

これはどういうことかというと、だれかが食べるものがなく困っており、ひもじい思いになっているとき、隣人のぶどう畑、もしくは麦畑に入って食べても良いということです。しかし、かごに入れてはいけません。かまを使ってはいけません。それはお持ち帰りということであって、盗むことになるからです。お腹がすいてどうしようもないときに隣人の畑に入って食べることは許されていたのです。たとえば、マルコ2章を見ると、イエスの弟子たちが麦畑を通って行ったとき、道々穂を摘み始めたとあります。お腹がすいたからです。そのような時に麦畑に入り、麦の穂を摘むことは問題ではありませんでした。そこで食べることはできたのです。でもかまを使ってはいけません。かごに入れてはいけません。

 

ここには神のあわれみというか、神の惜しみなさが示されています。神はお腹を空かせて苦しんでいる人が、ぶどう畑や麦畑に入って食べることをいちいち禁止してはいないのです。盗むのは禁じられていますが、そのように飢えで苦しんでいる人に対しては、むしろあわれんでやらなければならないのです。

 

イエス様は、「与えなさい。そうすれば与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38と言われました。日本人はとかく、義理人情の世界で、受け取ったものをお返しする習慣の中に生きています。ですから、自分から与えるということが、苦手なのです。ただで何かを与えるとなると、ただほど怖いものはないと言って警戒されたり、それじゃいくらいくらと言うと、あまりいい顔をしません。自分が価値を見出したものにはいくらお金を出しても惜しいとも思わないのですが、そうでないことに自分から与えるということはあまりしません。それはこの神がいかにあわれみ深い方であるかを知らないからです。私たちの神は与える方であり、その愛はご自身のひとり子をこの世に与えることによって表してくださいました。神はご自身の愛を惜しみなく注いでくださいました。神はそのような方なのです。であれば、その神を信じ、その神の民とされた私たちもまた喜んで与える者でなければなりません。それは神がいかにあわれみ深く、ご自分を与える方であるかを知ることによって生まれてくる性質なのです。この神によって贖われ、神の民とされた私たちも、隣人をあわれみ、惜しみなく与える者でありたいと願います。

申命記22章

 きょうは、申命記22章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

 1.知らぬふりをしてはならない(1-4

 

「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。」

 

ここには、同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしてはならない、と教えられています。そのような牛や羊を見たら、その所有者のところに連れ戻さなければなりません。その所有者が近くの者でなく、それがだれのものであるかがわからない時には、それを自分の家に連れて来て、その人が捜している間、自分のところに置いて、保護しておかなければなりません。そして、所有者が見つかったら、彼に返してやらなければなりません。それは牛や羊だけでなく、ろばであっても、着物であっても同じです。つまり、隣人が自分の物を見失った時、見てみぬふりをしてはならず、その人のためになることをするように努めなければならないのです。

 

これは私たち日本人にはとても大切な教えです。というのは、日本人はどちらかというと自分のことばかり考えて、他の人のことを顧みることが苦手だからです。自分さえよければ良いという風潮の中にあって他の人が困っているのを見たら率先して助けてやることが、神の民にとってとても重要なことだからです。

 

先月、中国の教会を訪問したとき、どこでも盛大なもてなしをしていただきました。中には貧しい農家の方もおられましたが、出された食事はものすごく豪華なものでした。私が王さんに、「これは普通ですか」と尋ねると、中国では他の人のために自分を犠牲にして尽くしたいという思いがあるのでみんな同じようにしますと言いました。日本では自分の都合が悪いとできないとかとよく言いますが、中国では自分の都合が悪ければそれをキャンセルしてでもその人のために尽くすというのです。それは神の愛を受けた者にとって当然のことでしょう。神は私たち罪人をご覧になり、見て見ぬふりをせず、その救いのために御子をこの世に遣わしてくださいました。ここに神の愛が豊かに示されたのです。その愛を受けた私たちは、今度は同じように迷っている人のために尽くすのは当然ではないでしょうか。イエス様は、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31)と言われました。自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにすることが神のみこころであり、救われた私たちに求められていることなのです。

 

Ⅱ.混ぜ物をしてはならない(5-12

 

次に5節から12節までをご覧ください。

「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。」

 

どういうことでしょうか。女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。創世記1章には、神が人を造られた経緯が記されてありますが、神が人を造られた時、男と女とに造られました。それは男と女は違うように造られたという意味です。人間としては同等であり、同質ですが、それぞれ与えられた役割に違いがあるということです。人は神のかたちに造られ、神の栄光を現すために造られましたが、人がひとりでいるのは良くないと、神はアダムの助け手としてエバを造られました。そのようにして二人が互いに助け合って神の栄光を現すためです。ですから、男と女は同等、同質ですが、根本的な違いがあるのであって、その違いを認めつつも、それを混同してはならないのです。

 

それは男と女だけのことではありません。その後のところにはぶどう畑に二種類の種を蒔いてはいけないことや、牛とろばを組みにして耕してはならないとか、羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない、とあることからもわかります。これらを一言で言えば、「神が与えられた区別や種類を尊重しなさい。」ということです。創世記を読むと、神は区別をされる神であることが分かります。「神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」(創世1:4とあります。「こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。」(創世記1:7それぞれに区別があることによって、神の創造の秩序を見ることができ、秩序があるところに神の栄光が現われるのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。

 

ですから、ここでモーセが禁じているのも、そうした神の創造の秩序が基になっているのです。つまり、この創造の秩序を重んじ、男は男として与えられた秩序に従って歩み、女は女として与えられた秩序に従って歩まなければならないということです。パウロは、「すべてのおとこのかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」(Ⅰコリント11:3と言っていますが、この秩序はとても大事です。男と女は一つであり、同等であり同質ですが、男が女のかしらになるように造られました。したがって、女が男のように見えたり、男が女のように見えたりするのは、神が忌みきらわれることなのです。最近では、男が女っぽくなってきたり、女が男みたいになることがもてはやされていますが、そのようなことはこうした区別することをないがしろにすることであり、神が忌みきらわれることなのです。

 

6節から8節までの勧めはユニークです。木の上に鳥の巣を見つけ、そこにひなか卵が入っていてそれを取ろうとする時には、母鳥がいないときにとるようにしなさいとあります。なぜでしょうか。もし母鳥が見たら悲しむことになるからです。そのような残酷なことをせず、ちょっとした配慮をすることは、たとえそれが動物であったとしても大切なことなのです。

同じように、新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけるようにとあります。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないためにです。中東の家は屋上が平らの家屋になっているので、屋上にあがることがたくさんあるのですが、その時に手すりをつけなさいと落ちてしまう危険があります。そういうことがないように、ちゃんと手すりをつけなさいということですが、それが周りの人々に対する配慮でもあり、そうしたことを怠ってはならないのです。

 

また、ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない、とあります。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないためにです。牛とろばとを組にして耕してはならないし、羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはなりません。牛とろばを組にして耕してはならないというのは、同じくびきをかけてはならない、ということです。パウロはここから、「不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14と言っています。私たちはこのような原則を守り、神のみこころにかなった者、聖なる者となることを求めていかなければなりません。

 

また、 身にまとう着物の四隅には、ふさを作らなければならない、とあります。民数記15章を見ると、これは、主の命令を思い起こし、それを行うためであり、神の聖なるものとなるためでした。すべての民が着る着物のすその四隅にあるふさを互いに見ながら、自分たちが神の民であることを思い起こし、神の恵みを思い起こすことができることはどんなに幸なことでしょう。これは現代でいう聖餐式を行う目的でもありますが、私たち常に神の民であることを思いお越し、神が私たちに成してくださった恵みを思い起こすものでありたいと思います。

 

Ⅲ.姦淫の罪に対する処置(13-30

 

次に13節から終わりまでをご覧ください。まず13節から19節までの箇所です。

「もし、人が妻をめとり、彼女のところにはいり、彼女をきらい、口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。」と言う場合、その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。その女の父は長老たちに、「私は娘をこの人に、妻として与えましたが、この人は娘をきらいました。ご覧ください。彼は口実を構えて、『あなたの娘に処女のしるしを見なかった。』と言いました。しかし、これが私の娘の処女のしるしです。」と言い、町の長老たちの前にその着物をひろげなさい。その町の長老たちは、この男を捕えて、むち打ちにし、銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪口を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。」

 

人が妻をめとり、彼女のところに入るとは、結婚して男女が性的関係に入ることです。ところが、結婚した後に彼女をきらうようになり、いろいろと口実を設けて男が女の悪口を言いふらした場合、どうしたら良いかが教えられています。男がその欲望から結婚しても、それがつまらないため離縁しようとしたケースは、聖書の他の箇所にもあります。たとえば、ダビデの息子アムノンは、ダビデの別の妻の娘であり、タマルのことが欲しくて、彼女を力づくで恥ずかしめ寝てしまいましたが、その後で、彼女を熱烈に恋したその恋よりも憎しみの方が大きかったとあります。アムノンは、「さあ、出て行け。」と言いましたが、タマルは、「それはなりません。私を追い出すことなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう悪いことです。」(Ⅱサムエル13:16)」と言いましたが、彼は力づくで彼女を追い出しました。このような時、男は往往にして自分を正当化するために女の悪口を言いふらしてしまうことがあります。ここではそれが、この女と結婚したが、彼女に処女のしるしを見なかったというものです。つまり、離縁するために正当な理由付けを見つけようとするのです。もし彼女が本当に処女ではなかったら、死刑に処せられます。ですから、主は、そのような状況から彼女を守るために、彼女の両親が、その寝床のシーツを持ってきて、処女であるしるしを持って来て、それを町の長老たちの前にその着物を広げて証明するのです。そしてそれがこの男の嘘だということがわかったら男から罰金を取り、一生、その女と離縁することができないように定めました。

 

しかし、そのことが真実であり、その女に処女のしるしが見つからなかったとしたらどうしたかというと、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければなりませんでした。彼女は死ななければなりません。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからです。そのようにして、彼らのうちから悪を除き去らなければなりませんでした。これは婚前交渉も罪であるということです。夫のある女と寝ることも罪ですが、結婚する前に寝ることも罪です。それは神のみこころにかなわないことであり、それが判明した時には女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければなりませんでした。

 

23節と24節をご覧ください。「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」

ユダヤ人の中では、婚約は結婚と同じように拘束力があったので、この時に罪を犯したら、それは姦淫の罪と同じように罰せられました。

 

「もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。」

これは強姦された時のケースです。その場合は、男だけが死ななければなりませんでした。女には死刑にあたる罪はありません。それは、ある人が隣人に襲いかかり、いのちを奪ったのと同じだからです。その女がどんなに叫んでもだれも助けてくれる人がいなかったとしたら、彼女にはどうすることもできないからです。不品行を犯すことは神にとっては重大な罪ですが、しかし、どうしようもないことまでも理不尽にさばくことは決してなさいません。

 

「もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕えてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、女と寝たその男は、この女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。」

 もし、まだ婚約していない女を見つけ、これとネタ場合、男はその責任を取って女を妻としなければなりませんでした。そうした肉体関係を持ってしまった責任を結婚することによって果たすことになるからです。また、「だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。」これは、自分の母ではない父の妻がいて、その母をめとることによって父をはずかしめてはならないということです。

 

このように、イスラエルが約束の地に入りそこに定住するようになるといろいろな問題が起こることが予想されますが、ここではそうした問題一つ一つにどのように対処しなければならないかを教えています。そして、ここに貫かれていることは「聖」であるということです。こうしたことは異教社会では当たり前のように行われていたことかもしれませんが、神に贖い出され、神の民とされた者にとってそうしたものに妥協することなく、神のみ教えに従って歩まなければならないということです。この世と妥協してはなりません。彼らから出て行き、彼らと分離しなければなりません。そうすれば、神は私たちを受け入れてくださり、神の民として生きることができます。それこそ、どこにいても、勝利ある人生を生きる力となるのです。

また、このような聖なる者となるのは私たちの行いによるのではなく、神の子イエス・キリストの贖いによるということを忘れてはなりません。ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女何と言われるかとの律法学者とパリサイ人たちの問いに、イエス様はこう言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)すると、年長者たちから初めて、ひとりひとり出て行きました。するとイエスはその女に言いました。「婦人よ。あのひとたちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」「わたしもあなたを罪に定めなさい。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(同8:10-11

私たちはだれひとり罪に定められることはありません。イエス・キリストが私たちのすべての罪を贖ってくださいました。イエス様はその罪の罰のすべてを受けてくださいました。そのうち傷のゆえに、私たちは許されたのです。このイエス様の赦しがなければ、私たちはここに立ち続けることはできません。しかし、イエス様が私たちのために死んでくださったので、私たちは今もここにいることができるのです。このイエスの愛によって、私たちは神のものとなり、その歩みを続けていくことができるのです。ですから、このことをいつも思い起こし、こんな罪深い者が赦されたことを感謝して、ますます聖なる者としての歩みを続けさせていただきたいと思うのです。

ヘブル11章33~40節 「天国を待ち望む信仰」

きょうは、ヘブル人への手紙11章33~40節から、「天国を待ち望む信仰」というタイトルでお話します。ヘブル人への手紙11章には、信仰によって生きた人たちについて語られておりますが、きょうの箇所には、それらの人々に共通の特質が語られています。それは、こうした人たちは皆、天国を待ち望んでいたということです。

 

Ⅰ.信仰によって勝利した人々(33~35a)

 

まず33節から35節前半までをご覧ください。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」

 

「彼らは」とは、直接的には32節に出て来た6人の人たちのことを指していますが、それと同時にこのヘブル書11章全体に出てきた信仰の偉人たちのことを指しています。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

 

彼らが敵に勝利し、命の危険から守られたのは、信仰によってのことでした。信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得たというのは、イスラエルがエジプトを出て約束の地を占領したことを語っています。彼らは、ヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグとの戦いに勝利し、約束の地に入ると、カナンを支配していた王たちを滅ぼして、ついにその地を占領することができました(申命記2:24-3:11)。

 

また、「獅子の口をふさぎ」というのは、ダニエルが経験したことを指しているものと思われます。ダニエルは、イスラエルがバビロンによって滅ぼされると、バビロンへ強制連行されましたが、その後バビロンがメディヤ・ペルシャの連合軍によって滅ぼされると、メディヤ・ペルシャの王であったダリヨス王に認められ、三人の大臣のうちの一人に選ばれました。しかし、彼には神の霊が宿っていたので、ほかの大臣たちよりもはるかにすぐれていたため、ほかの大臣たちからねたまれると、彼らの策略によってライオンの穴の中に投げ込まれてしまいました。

 

しかし、ダニエルが仕えていた神は、ライオンの口をふさぎ、彼を救い出してくださいました。ダリヨス王はダニエルのことが心配で、心配で、食事ものどを通らず、一睡もしないまま夜を過ごしましたが、夜が明けるのを待ち構えていたかのように翌朝すぐにライオンの穴に行き、こう呼びかけました。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」(ダニエル6:20)すると、ダニエルは王に答えました。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。」(ダニエル6:21-22)

それでダニエルは穴から出され、逆に彼を訴えた者たちが獅子の穴の中に投げ込まれたのです。そればかりか、ダニエルを通して現された神の御業を見たダリヨス王は、ダニエルの神を賛美し、ひれ伏したのです。

 

その次に出てくる「火の勢いを消し」というのは、そのダニエルの三人の友人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが経験したことを指しているのでしょう。彼らもまたバビロン捕囚の際にダニエルと一緒にバビロンに連れて行かれた少年たちでしたが、バビロンの王ネブカデネザネルが、金の像を造り、これを拝まない者はだれであっても燃える炉の中に投げ込まれると脅しても、決してそれに屈しませんでした。彼らがネブカデネザル王の前に連れて来られた時、王が「もし拝まないなら、あなたがたはただちに炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」(ダニエル3:15)と言っても、彼らは、「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17-18)とはっきりと答えました。

それを聞いたネブカデネザル王は、怒りを爆発させ、だったら炉の温度を七倍にして、彼らを炉の中に投げ込めと命じると、あまりの熱さに彼らを縛って炉まで連れて行った軍人たちが焼け死んでしまいました。しかし、三人の若者はどうであったかというと、焼け死にするところか、何の害も受けず炎の中を歩いていたのです。しかもよく見ると、炉の中に投げ込んだのは三人であったはずなのに、その中にはもう一人いて、その人は神の子のような方でした。つまり、それは受肉前のイエス様です。ネブカデネザル王は急いで彼らを炉から出すと、彼らが何一つ害を受けていなかったのを見て驚き、彼らの信じている神こそ本当の神であると宣言したのです。(ダニエル3:28)。

 

その次にある「剣の刃をのがれ」とは、アハブの王妃イゼベルがエリヤの命をねらって彼を殺そうとしたことから逃れたことや(Ⅰ列王記19:2-18)、イスラエルの王であったヨラムがエリシャを殺そうとしましたことから逃れたこと(Ⅱ列王記6:31-32)を指しているものと思われます。彼らは神のことばを大胆に宣べ伝えたことで、王たちの反感を買い、何度も命の危険にさらされましたが、主はそんな彼らの命を守ってくださいました。

 

次に「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」とは、前回のところでも見ましたが、ギデオンをはじめとする士師たちや、預言者たちのことを指しているものと思われます。彼らは最初から勇士だったわけではなく、最初は主の命令に尻込みばかりしているような弱い者でした。しかし、主のあわれみによって強くされ、信仰によって勇士となり、他国に勝利することができました。

 

また、預言者エレミヤも、主から召しを受けた時、「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」(エレミヤ1:6)と言うような弱い者でしたが、「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんなところへでも行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:7-8)。と言われる主の御声を聞いて強められ、ついには自分の命をかけて大胆に神のことばを告げました。36節には、「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い」とありますが、その一人がエレミヤだったのです。最初、彼は「まだ若い」とか、「どのように語っていいのかわからない」と言うような弱い者でしたが、信仰によって強められ、数々の困難を乗り越えて、自分に与えられた務めを果たすことができたのです。

 

そして、35節の前半には、「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」とあります。これはツァレファテの貧しい未亡人やシュネムの金持ちの婦人のことを指しています。ツァレファテのやもめは、預言者エリヤによって死んだ息子をよみがえらせてもらいました(Ⅰ列王17:17-24)。また、シュネムの女は、預言者エリシャによって死んだ息子をよみがえらせてもらいました(Ⅱ列王4:17-37)。それは女たちの信仰によってということよりも、エリヤやエリシャの信仰によってということです。それは彼らが偉大な預言者であったからというよりも、彼らが信仰によって生きていたので、主が彼らを通してそのような御業を行ってくださったということです。

 

それは彼らだけではありません。私たちも信仰によって生きるなら、死んだ人をもよみがえらせるような偉大な神の御業を行うことができるのです。

 

Ⅱ.約束されたものを得なかった人々(35b-39)

 

しかし、このように信仰によって生きた人たちの中には、信仰によって勝利した人たちもいましたが、苦難の生涯を送った人たちもいました。35節後半から39節をご覧ください。

「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるために会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩きまわり、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにあさわしい所ではありませんでした。荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。この人々はみな、その信仰によってあかしされました。約束されたものは得ませんでした。」

 

35節前半までのところには、信仰によって敵に勝利し、約束のものを得た人たちや、命の危険から救い出された人たちのことが紹介されてありましたが、ここには逆に、信仰によって、様々な苦難を受けた人たちのことが紹介されています。この人々はみな、その信仰によってあかしされた人々です。どのようなあかしかというと、信仰によって、約束のものを得た人々がいれば、信仰によって、苦難を受けた人たちもいたというあかしです。どちらも信仰によって生きた人たちでしたが、結果は必ずしも同じではありませんでした。それはどうしてかというと、私たちの信仰はこの地上の祝福だけを追い求めるものではなく、天にある祝福、永遠のいのちを求めるものだからです。これが、私たちの信仰にとっての究極的な約束なのです。そして、イエスさまがこの地上に来られたのも、私たちにこの神の国をもたらすためでした。イエス様はこう言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)このいのちとは永遠のいのちのことです。イエスさまが来られたのは、私たちがこのいのちを得て、それを豊かに持つためだったのです。

パウロは、ローマ1章16節でこう言いました。「私は福音を恥じとも思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」福音は、信じるすべての人を救い、変えることができる神の力です。パウロのようにキリストを迫害していた人さえも救い、キリストを宣べ伝える者に変えてくれました。私たちに生きる力を与えるのは、お金や知識ではなく、福音を信じる信仰なのです。イエスさまはこの永遠のいのちをもたらすために来られたのであって、この地上での祝福をもたらすためではありませんでした。ですから、ある人たちは信仰によって、国々を征服し、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消すことができましたが、ある人たちはその信仰によって、様々な苦難を受け、約束されたものを得ることができませんでした。この世は彼らにとってふさわしいところではなかったのです。しかし、その信仰によって彼らはあかしされました。何を?彼らは信仰によって生きたということです。彼らはこの地上では報いらしいものは何一つ受けませんでしたが、代わりに、さらにすぐれた天の報いを受けたのです。

 

詩篇90篇10節にはこうあります。「私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年、しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」考えてみると、私たちのこの地上での生涯は点のようなもので、それは短いのです。それは早く過ぎ去ります。昨日まではあんなに若かったのに、あっというまに年をとってしまいます。しかし、死後のいのちは永遠なのです。線ように長く、どこまでも続きます。その永遠の世界をどこで、どのように過ごすのかは、この地上での、今の信仰の決断にかかっているのです。それゆえこの詩篇の記者であるモーセはこう祈っているのです。「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:10)私たちもこのモーセの祈りを、自分の祈りとしたいと思うのです。

 

さて、35節後半には、「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。」とあります。これは、この前に紹介されていたエリヤやエリシャによって行なわれたよみがえりと比較しての、さらにすぐれたよみがえりです。そのよみがえりとは、死者の中からの復活のことです。エリシャとエリヤが行なったのは「蘇生」と呼ばれるもので、一度死んだ者が息を吹き返すだけのことで、やがて再び死んでしまうものでした。しかし、ここで言われているよみがえりとは、死者の復活のことです。御霊のからだによみがえることです。キリストが死者の中からよみがえられたときに持っていたあの復活のからだによみがえることなのです。

 

この復活のからだを得るためには、この世においては救いを得るどころか、拷問を受けることさえあります。ここには、釈放されることを願わずに、拷問を受けた、とありますが、旧約聖書の時代には、そういう信仰者たちもたくさんいました。あのシャデラク・メシャク・アベデ・ネゴでさえ、死の危険から奇跡的に救い出されましたが、もしかすると、そのまま焼き殺されていたかもしれません。だから彼らは、「もしそうでなくても」と言ったのです。もし神が自分たちをネブカデネザル王の手から救い出さしてくれないということがあっても、それでも金の像を拝むことはしないと、断固としてそれを拒みました。それは、彼らがこのさらにすぐれたよみがえりを信じ、それを見つめて生きたいたからです。

 

「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるために会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩きまわり、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにあさわしい所ではありませんでした。」

 

これが誰のことを指しているのかははっきりわかりません。けれども、昔も今も、信仰によって生きようと願うなら、だれでもこのような迫害を受けます。なぜなら、そのように聖書に約束されているからです。

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

ですから、もしあなたが信仰のゆえに苦難を受けることがあったとしたら、それはキリストの弟子とされていることの証であり、永遠のいのちという勲章を受けていることでもあるということを覚えて感謝しましょう。

 

1世紀に生きたユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、紀元前2世紀頃ユダヤを治めていたのはシリヤでしたが、そのシリヤの王であったアンティオコス・エビファネスは、彼の政策にギリシャ思想を取り入れようと、ユダヤ人を激しく迫害しました。彼は、律法に基づく犠牲のささげものや割礼を禁じ、代わりにエルサレムの神殿にギリシャのゼウス像を配置し、これを拝まなかったら、その者には激しい拷問を加えるとし、それによって大勢のユダヤ人が死んでいきました。

その中に年老いた律法学者でエレアザルという人がいましたが、彼はどんなにアンティオコス・エピファネスによって脅迫されても、神の律法に背くことはできないと、喜んで殉教の死を遂げました。それは終わりの日に復活し、すばらしい御国に行くことができると信じていたからです。

 

これまで信仰によって生きた人たちの中には、そのような人たちがたくさんいました。それは、彼らだけに限らず、この手紙の読者たちにしても然り、先日お話しした中国のクリスチャンたちにしても然り、そして、私たち日本でも同じようにして死んで行った人たちがたくさんいました。豊臣秀吉の時代に起こった26人聖人殉教は有名な話です。それはいつの時代でも、どこででも起こり得る事なのです。

 

この世は彼らにとって、ふさわしいところではありませんでした。彼らは信仰のゆえに苦難を受け、この地上では報いらしいものは何一つ得られませんでした。しかし、彼らは、さらにすぐれたもの、天における報いを得るために、喜んで苦難を受けたのです。

 

Ⅲ.さらにすぐれたものを得るために(40)

 

それは私たちにとっても同じです。この世は、私たちにとってふさわしいところではありません。しかし、私たちには、さらにすぐれた世界が用意されているのです。ですから、そこでの報いを得るために、私たちはしっかりとそれに備えるものでありたいと思うのです。

 

それでは、そのためにどうしたらいいのでしょうか。この手紙の著者はこう勧めるのです。ヘブル12章1です。ご一緒に読みましょう。

「こういうわけですから、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 

皆さんの中に、心が元気を失い、疲れ果ててしまったという人がいますか。もしそういう方がおられましたら、ぜひ彼らのことを思い出してください。彼らのことを思い出すなら、あなたに励ましを受けます。というのはここに、こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるのですから、とあるからです。これはこの11章で紹介されてきた信仰によって生きた人たちのことです。また、イエス・キリストにあって天に召された信仰の先輩者たちも含まれています。あるいは、ついこの間まで一緒に信仰に歩んでいた家族や信仰の友も含まれています。それらの人々が雲のように私たちを取り巻いているのです。彼らはイエス・キリストにあって天に召されましたが今も生きています。そして、私たちのことを、あなたのことを見て、応援しているのです。

 

私たちは今、この地上で信仰の競争をしています。レースをしています。そこでは様々な患難があるでしょう。辛いこともあります。つまずいて倒れて、立ち上がれないような時もあります。疲れ果ててしまい、もうこれ以上は前に進めないという時もあるでしょう。でもそのような時に、ぜひ彼らのことを思い出してください。不平不満を言う前に、あきらめてしまう前に、ぜひ彼らのことを思い出していただきたいのです。彼らのことを思い起こすなら励ましを受けます。彼らは忍耐をもって走り抜きました。その彼らがあなたを見ているのです。彼らはただ傍観しているのではありません。天国から見下ろして見物しているのではないのです。彼らは私たちと同じように信仰のレースを走り抜き、その途上にはいろいろなことがありました。辛いことも、苦しいこともありました。でも彼らは最後まで走り抜いたのです。約束のものをこの地上では手に入れることはできませんでしたが、忍耐をもって走り抜きました。ですから彼らは、私たちの苦しみも、辛さも、悲しみも全部わかっているのです。すでに通っているのですから・・。その彼らが雲のように私たちを取り巻いて応援しているのです。ですから、私たちは彼らのことを思い出すことによって励ましを受けるのです。

 

私はもう溺れそうです、死にそうです、という人がいますか。そういう人はどうぞヨナのことを思い出してください。ヨナは魚に呑み込まれて三日三晩、その中で苦しみました。今私の直面している試練は炎のごとく私を焼き尽くそうとしていますという人がいますか。そういう人はシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのことを思い起こしてください。彼らは涼し気な顔をして炎の中でイエス・キリストと一緒に歩きました。語り合いました。私は今巨人と戦おうとしていますという方は、ぜひダビデのことを思い起こしてください。どのような時でも、私たちは常に、どんな試練に置かれようとも、どんな困難に直面しようとも、どんな苦しみの中にあっても、この旧約の聖徒たち、ヘブル人の手紙の11章に出てくるような信仰の殿堂入りを果たしたような人たちが、私たちのことを見ていて、応援しているということを思い出すなら、あなたもまた奮い立つことができるからです。そのようにして、私たちも私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

ヘブル11章32節 「信仰によって生きた人々」

きょうは、「信仰によって生きた人々」とタイトルでお話しします。このヘブル人への手紙11章には、信仰によって生きた人々のことが取り上げられていますが、きょうのところにはこのシリーズの締めくくりとして六人の名前を挙げられています。その六人とはギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、そしてサムエルです。実際にはその後に預言者たちについても言及されていますから、もっと多くの人々が挙げられていることになりますが、とりあえず名前として取り上げられているのはこの六人です。いったいなぜ彼らの名前が挙げられているのでしょうか。

 

時代的な順序で言うならバラク、ギデオン、エフタ、サムソン、サムエル、ダビデという順序になりますが、ここにはそれとは違った順序で取り上げられています。おそらく、この手紙の著者は、時代的な順序を念頭に置いて名前を挙げたのではなく、信仰に生きた人たちにもいろいろなタイプの人たちがいて、そういういろいろなタイプを取り上げたかったのではないかと思います。

 

それでは、これらの人たちがどのように信仰に歩んだのかを見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.ギデオン-臆病者でも

 

まず、最初に出てくるのはギデオンです。皆さん、ギデオンという人についてご存知でしょうか。聖書を無料で学校や病院に贈呈している団体がありますが、その団体の名前は「国際ギデオン協会」と言って、この人から取られました。信仰の勇士であったギデオンのように勇ましく主に仕えようという思いが伝わってきす。しかし、聖書をよく見ると、彼は最初から勇士であったわけではありません。ギデオンについては旧約聖書の士師記6章に記されてありますが、4節には、彼はミデヤン人の襲撃を恐れ、酒ぶねの中で、隠れるようにして小麦を打っていた、とあります。そんな彼に、ある日、主の使いが現われてこう告げるのです。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」(士師6:4)これは、あなたは勇士なのだから、立ち上がってこれを迎え討ちなさいという意味です。しかし、彼はそれを素直に受け入れることができず、「主よ、もしあなたが私たちと一緒におられるなら、いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょう。あなたは私たちとともにはおられません。あなたは私たちを捨てて、私たちをミデヤンの手に渡されたのです。」(同6:13)と答えました。

そんな彼に主は、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。あたしがあなたを遣わすのではないか。」(同6:14)と告げるのですが、彼は尻込みして、なかなか従うことができませんでした。そして、だったらしるしを見せてくださいと、しるしを求めたのです。

 

最初は、彼が持って来た供えものを、主の使いが手にしていた杖の先を伸ばして触れると、たちまち岩から火が燃え上がって焼き尽くすというものでした(士師6:19-21)。

それでも確信がなかった彼は、次に、打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛の上にだけ露が落ちて濡れるようにし、土全体はかわいた状態になっていたら、そのことで、主が自分を遣わしておられることがわかりますと言うと、主はそのようにしてくださいました(士師6:36-38)。

けれども、それでも確信がなかった彼は、もう一回だけ言わせてくださいと、今度は逆に土全体に露が降りるようにして、羊の毛だけはかわいた状態にしてくださいと言うと、主はそのようにしてくださいました(6:39-40)。

 

このようにして彼は、主の勇士に変えられ、わずか三百人で、ミデヤン人とアマレク人の連合軍十三万五千人を打ち破ることができました。初めは臆病で疑い深かった彼を、幼い子の手を引いて引き上げてくれる両親のように引き上げてくださり、信仰の勇者となることができたのです。

 

皆さんの中にギデオンのような臆病な人がいますか。しかし、そんな人でも変えられます。信仰の勇士になることができるのです。もしあなたが、確かに主は生きておられると確信しそのみことばに従うなら、信仰によって勇士となり多くの敵を打ち破ることができるようになるのです。

 

Ⅱ.バラク-優柔不断な人でも

 

次に出てくるのはバラクです。バラクについての言及は士師記4章にありますが、ちょっと優柔不断な人でした。当時、イスラエルはカナンの王ヤビンという人の支配下にあって苦しめられていました。その将軍はシセラという人でしたが、彼は圧倒的な戦力を誇り、イスラエルは彼の前に何も成す術がありませんでした。

 

ところが、ある時、当時イスラエルを治めていた女預言者デボラに、タボル山に進軍して、このシセラの大軍と戦うように、わたしは彼らをあなたの手に渡す(士師4:6-7)とう主のことばありました。それで彼女はそれをバラクに告げるのです。

 

するとバラクはどうしたかというと、女預言者デボラに、「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」(士師4:8)と答えるのです。何とも、もじもじした男です。行くのか、行かないのかはっきりしない、まさに優柔不断な男だったのです。

 

するとデボラは、「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に渡されるからです。」(士師4:9)と告げました。私はあなたといっしょには行くけれど、主は別の方法でシセラと倒すというのです。それはひとりの女の手によってだというのです。それで彼は、ゼブルンとナフタリから1万人を引き連れて、タボル山に進軍したのです。

 

これはちょっと不思議です。確かにデボラは彼といっしょに行くと約束しましたが、そこで栄光を受けるのはバラクではなく「ひとりの女」だというのに、彼は進軍したからです。この「ひとりの女」とは、この後でシセラのこめかみに鉄のくいを刺し通したヤエルという人です。彼女はバラクとの戦いで追い詰められたシセラが彼女の家に水を求めて立ち寄ったとき、熟睡していた彼のところに近づいて、彼のこめかみに鉄のくいを刺し通したのです。それで彼女は栄光を受けたのです。栄光を受けたのはバラクではなくこの女性でした。にもかかわらずバラクは進軍したのです。なぜでしょうか。

 

それは彼が信仰によってそのように決断したからです。普通だったらこのようなことを言われたら、「だったら、や~めた。骨折り損のくたびれもうけだわ」と言って止めるところですが、彼はそうではありませんでした。それでも彼は出て行ったのです。それは彼が自分の栄誉ではなく、主とその民イスラエルの勝利をひたすら求めていたからなのです。ここではその信仰が称賛されているのです。本来ならこんな優柔不断な男のことなどどうでもいいことですが、それでも彼のことが取り上げられているのは、こ

うした彼の信仰が評価されていたからなのです。皆さん、どんなに優柔不断な人でも、信仰によって生きるなら主はその人を大きく評価してくださるのです。

 

Ⅲ.サムソン-破天荒な人でも

 

次に取り上げられているのはサムソンです。サムソンについては皆さんもよくご存じかと思います。彼はロバのあご骨で千人のペリシテ人を打ち殺したが、最後はそのペリシテ人に捕らえられて目をえぐられ、足には青銅の足かせをかけられ牢の中で臼をひかせられるという苦しみを味わいました。しかし、その牢の中で悔い改めると再び聖霊が激しく彼に下り、ペリシテ人の神ダゴンの神殿の柱を引き抜いて、そこにいた三千人のペリシテ人を打ち殺しました。その数は生きていた時に殺した敵の数よりも、多かったと言われています。

 

しかし、ここに信仰の勇者としてこのサムソンのことが取り上げられていることには、全く違和感がないわけではありません。というのは、彼の生活にはかなりいかがわしいところがあったからです。彼はナジル人として、生まれた時から神のために聖別された者であったのに、異教徒であったペリシテ人と結婚したり、売春婦であったデリラという女性と夜を過ごすなど、破天荒な生活をしていたからです。そんな彼でもここに信仰の勇者として取り上げられているのは、神の民イスラエルの敵であったペリシテを打ち倒すという神の御心の実現に向かって、生涯をかけて戦い抜いたからです。

 

かつてはヤクザの世界に身を置いていた人が神の福音を聞き、悔い改めてイエス様を信じた人たちの話を聞いたことがあります。彼らは、イエス様を信じる前はいわゆる全うな道から外れ、破天荒な生き方をしていた人たちでしたが、しかし、イエス様がその罪を赦してくださったことを知ると罪を悔い改め、「親分はイエス様」と言って、自分のいのちをかけて主を証するようになりました。彼らは反社会的勢力として一般の社会からつまはじきにされてもおかしくないような人たちでしたが、イエス様を信じたことで全く新しい人に変えられ、神の御心の実現のために生涯をかけて戦う者へとなりました。

 

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

 

このような人たちの姿をみるとき、たとえどのような背景がある人でも信仰の勇者として用いられることがわかります。考えてみると、サムソンのことについて書かれてある箇所をみると、その随所に、「主の霊が激しく彼の上に降って」(士師14:6、19)とありますが、どんな人でも主の霊が臨むとき、その人は神の器として聖霊の力を受け、神の御心の実現のために大きく用いられるのです。

 

Ⅳ.エフタ-軽率な人でも

 

次に取り上げられているのはエフタです。エフタについては士師記11章に記されてありますが、彼はギルアデという父親と遊女との間に生まれた子どもです。そのため正妻の子どもたちによって家から追い出され、ごろつきどもと略奪をしていました。そんな彼がイスラエルの檜舞台に登場したのは、当時イスラエルにアモン人が攻撃しかけてきたときでした。そのとき、イスラエルの長老たちは、あのエフタなら何とかしてくれるかもしれないと、彼のもとに人をやって、自分たちを助けてくれるようにと頼むのです。過去のことでイスラエルを恨んでいたエフタはすぐには応じようとしませんでしたが、長老たちの切なる要請に応じて、アモン人と戦うことになりました。その時、エフタは主に誓ってこう言いました。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出てくる、その者を主のものといたします。」(11:30-31)こうして彼は出陣し、アモン人の大軍を打ち破って家に帰ってみると、何とその時最初に彼を出迎えたのは、彼のたった一人の娘でした。まさか彼の一人娘が出てくるなどとは夢にも思わなかったでしょう。それで彼は相当悩んだことと思いますが、それでも彼は、その誓いのとおりに自分の一人娘を主にささげたのです。彼は最初の誓いを最後まで貫いたのです。

 

ここで彼が自分の一人娘を主にささげたということが、いけにえとしてささげたということなのか、それとも主の働きのために結婚をせずに一生を過ごさせたということなのかについては見解が分かれるところですが、いずれにせよ、彼がここで信仰の勇者として取り上げられているのは、彼が主に誓ったことを最後まで誠実に履行したからなのです。もちろん、彼がイスラエルを導いてアモン人の大軍から民を救ったということも信仰の勇者として数えられていることの一因ではありますが、それ以上に、一度、神に対して誓った約束を最後までやり遂げたところに、彼の信仰の真骨頂が見られるのです。

 

時として私たちも軽率に主の前に誓うものの、自分の都合が悪くなるとそれを簡単に破ってしまうことがあります。誓約を守るということ、約束を果たすということはそれほど大変なことなのです。たとえば、結婚式の誓いにしても、常に相手を愛し、敬い、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時もいのちの日の限り堅く節操を守ることを誓いますかと問われ、「はい、誓います。」と誓ったものの、実際に結婚してみると、「こんなはずじゃなかった。」と、いとも簡単に誓いから解かれようとします。そんなことなら初めから誓約などしない方がいいのに、それでも私たちが誓うのは、そこまでしても大切にしたいという思いがあるからです。

 

それは結婚だけではなく、私たちの信仰生活も同じです。ある意味で私たちの信仰生活はイエス様との結婚と同じです。イエス様が花婿であり、私たちはその花嫁です。聖書には教会がキリスト花嫁として描かれています。ですから、イエス様を信じた時どんなことがあってもあなたを愛し、あなたに従いますと誓ったはずなのに、私たちは自分に都合が悪くなると、いとも簡単にそこから解かれようとします。それは私たちに共通する弱さでもあるのです。

 

けれども、このエフタは違いました。彼は神に誓ったその誓いを、最後まで誠実に果たしました。その信仰が称賛されているのです。

 

Ⅴ.ダビデ-罪を犯しても

 

次に登場するのはダビデです。ダビデについてはもう説明がいらないくらい有名な人物です。彼はイスラエルの王であり、信仰の王でもありました。彼はいつも主に信頼し、その小さな体であるにもかかわらず、ペリシテの巨人ゴリヤテを石投げ一つで倒しました。そんな信仰の王であったダビデですが、実のところ、彼にも弱さがなかったわけではありません。彼の生涯における最大の汚点は、王の権力を笠に着た姦淫の罪と、それをもみ消そうとして犯した殺人の罪でした。どんなに偉そうに見える人にも弱さがないわけではありません。どんなに完全に見えるような人にも欠点はあるのです。しかし、ダビデの偉大さは、そのような弱さや欠点、罪や汚れがあっても、へりくだって神の御前に悔い改めたことです。彼は預言者ナタンによってその罪を指摘された時、自分の権力を笠に着て、それをごまかそうとしませんでした。彼は王の権力によって預言者ナタンの直言を退け、彼を処刑にすることさえできないわけではありませんでしたが、そのことばを受け入れ、神の御前に罪を悔い改めました。これは、そのときダビデが歌った詩です。

「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか、私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」(詩篇51:1-2)

 

皆さん、このとき彼はイスラエルの王ですよ。王ともあろう者が自分の罪を認め、それを告白し、悔い改めるということは、王のメンツにかかわることでしたが、彼は王としてのメンツも何もかも捨てて、神の御前にへりくだったのです。それが彼の本当の意味での偉大さだったのです。

 

Ⅵ.サムソン-人はうわべを見る

 

最後に登場するのはサムエルです。彼は最後の士師として、また、祭司として、預言者として偉大な神の働きをしました。聖書を見る限り、彼は非の打ちどころがないほど完璧な人物として描かれていますが、そんなサムエルでも弱点がなかったわけではありません。彼の弱さはどんなところであったかというと、うわべで人を判断するという点でした。それは彼がサウルに代わるイスラエルの王を立てるとき、エッサイの家に生きましたが、長男のエリアブを見たとき、「確かに、主の前で油注がれる者だ」と思い、そうしようとしましたが、主は、そうではないと仰せられました。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)と仰せられたのです。それでエッサイはその弟アビナダブ、シャマと進ませましたが、彼らも主が選んでいる器ではありませんでした。主が選んでおられたのは七人兄弟の一番末の弟でダビデでした。彼はまだ小さく羊の世話をしていましたが、彼が連れて来られたとき、主は、彼に油を注げと言われたので、サムエルはダビデに油を注いで王としたのです。

 

このようにサムエルとて弱点はありましたが、それにもかかわらず、ここに信仰の勇者として彼が名を連ねているのは、そのような中にあってもイスラエルの民を終始信仰によって指導し、エルサレムの神殿がペリシテ人によって破壊され、イスラエルの中心であった神の箱が奪われても、弱り果てたイスラエルの心を奮起させようと必死に取り組んだからです。神の箱がペリシテ人のものになっても、神はなおもイスラエルの民とともにおられることを示し、それを取り戻した時にはそれを人里離れた遠いところに置き、イスラエルの民の心が神の箱にではなく、神ご自身に向けられるように指導しました。

 

このように、サムエルはイスラエルの民の心がいつも主に向けられるように指導しました。預言者として、神の命令に背き自分勝手な道を進もうとするイスラエルに神のことばを語り、主に従うようにと励ますことは大変だったと思いますが、それでも彼は忍耐して、その働きを全うしました。それは、彼が信仰によって歩んでいたからです。その信仰が評価されたのです。

 

このように、彼らは生きていた時代や背景も違い、また、性格もいろいろでしたが、どの時代、どのようなタイプの人であっても、共通していたのは、信仰によって生きていたということです。それはここに名を連ねている人もいれば、いない人もいます。そうした多くの人たちが含まれているのです。それが良い時であれ、悪い時であれ、彼らはひたすら神に信頼し、信仰によって生きたのです。

 

それは私たちにも求められていることです。私たちの置かれているこの時代は良い時か、悪い時か、良い時もあれば、悪い時もあるかもしれません。しかし、それがどんな時であっても、私たちもまた信仰によって生きていこうではありませんか。ですから、聖書は私たちにこう告げるのです。ヘブル人への手紙12章1節です。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 

信仰の旅は、決してひとりぼっちではありません。あなただけがこの信仰の戦いをしているのではないのです。神に誠実を尽くした偉大な聖人たちや無名な信仰者たちが手本となって、私たちを励ましてくれています。彼らが今、天の御国にいることも私たちの励ましです。ですから、私たちも信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、神に従った人たちに背中を押されながら、信仰の歩みを続けていくことができるのです。