Ⅰペテロ3章13~22節 「キリストを主としてあがめなさい」

  きょうは、「キリストを主としてあがめなさい」という題でお話ししたいと思います。前回のところでペテロは、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(8節)と勧めました。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るなんてできるわけがありません。そこで彼はダビデの詩篇を引用し、「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」(12節)と語り、すべてを主にゆだねるようにと語りました。きょうの箇所はその続きです。つまり、悪をもって向かってくる相手にどのように対処したらよいのかとです。

Ⅰ.義ための苦しみ(13-14)

まず13節と14節をご覧ください。
「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。」

この手紙は、ペテロからローマの迫害によって、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビデニヤに散らされ、寄留していたクリスチャンに宛てて書き送られたものです。彼らは圧倒的多数の異邦人社会の中で、また、数は少ないながらもキリスト教に反感を持っていた保守的ユダヤ教徒に囲まれながら、見える形、見えない形のさまざまな圧迫を受けて苦しんでいました。そうした彼らを励ますためにペテロは、悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです、と勧めました。そして、ここでは「もしあなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなた方に害を加えるでしょう。」と言っています。どういうことでしょうか。

普通、たとえ人種が違っても、宗教が違っても、良いことをする人は回りの人から認められ、尊敬されます。たとえば、近所の貧しい人々を一生懸命に励ましたり、助けたりしている人は社会からも認められ、尊敬されるでしょう。それはどんな宗教を持っているかということとは関係ないのです。そのような人は、たとい回りの人が攻撃しようとしてもその口実さえも与えないでしょう。たとえ義のために苦しむことがあっても、それは回りの人たちがただ誤解しているだけであって、そのようなことがあるとしたら、それはまさに天において受ける報いが大きいということの保証でもあるわけですから、それは幸いなことなのです。

イエス様は山上の垂訓の中でこのように言われました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」(マタイ5:10-12)

確かにクリスチャンであるということは、多かれ少なかれこうした迫害を受けるということです。IIテモテ3:12には「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。また、ピリピ1:29には、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」ともあります。それがどのような苦しみなのかはわかりませんが、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、多かれ少なかれこうした圧迫を受けるのです。それは、クリスチャンはこの世のものではなく神のものだからです。ですから、そこに何らかの摩擦が生じるのはむしろ当然のことなのです。しかし、そのような迫害にあっても善に熱心であるなら、だれもあなたに危害を加えるようなことはないどころか、むしろあなたを尊敬するようにさえなるのです。ですから、彼らの脅かしを恐れてはいけません。それによって心を動揺させたりしてはいけないのです。あなたが成すべきことは、この世において善に熱心であることです。

皆さんは、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩をご存知だと思います。この詩はある一人のクリスチャンがモデルになっていると言われています。そのクリスチャンとは斎藤宗次郎という人で、岩手県花巻市で最初にクリスチャンになった人です。彼は1877年、岩手県花巻で、禅宗の寺の三男として生まれた。15歳の時、母の甥にあたる人の養子となり、斉藤家の人となります。彼は小学校の先生となり、一時、国粋主義に傾きましたが、やがてふとしたきっかけで内村鑑三の著書に出会い、聖書を読むようになりました。そして1900年に信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになるのです。
彼がクリスチャンになったのは、キリスト教が「耶蘇教(やそ)」とか、「国賊(こくぞく)」などと呼ばれていた時代のことです。クリスチャンとして生きていくことがどれほど苦しい時代であったかわかりません。洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強くなりました。親からは勘当され、以後、生家には一歩たりとも入ることを禁じられてしまいます。町を歩いていると「ヤソ、ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げられました。近所で火事が起きた時には、全然関係ないのに家の窓ガラスを割られたこともありました。いわれなき中傷を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めさせられてしまうのです。
迫害は彼だけにとどまらず、家族にまでも及んでいきました。長女の愛子ちゃんはある日、国粋主義思想が高まる中、ヤソの子供と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こし、何日か後に、9歳という若さで主の御元に召されました。その葬儀の席上、賛美歌が歌われ、天国の希望のなかに平安に彼女を見送りましたが、愛する子を、このようないわれなきことで失った斉藤宗次郎の内なる心情はどのようなものであったか、察するに余りあります。
彼はその後、新聞配達と牛乳配達をして生計を立てました。雪の日には、朝の仕事が終わる頃、小学校への通路の雪かきをして道を作りました。小さい子どもを見ると、抱っこして校門まで走ったと言われています。雨の日も、風の日も、雪の日も休むことな
く、地域の人々のために働き続けました。病気の人がいると聞きつけると、新聞配達の帰りに、病人を見舞い、励まし、慰めました。彼は、「でくのぼう」と言われながらも最後まで愛を貫き通したのです。
その宗次郎が、内村鑑三の勧めで上京することになりました。1926年、住み慣れた故郷を離れ、東京に移る日、‘誰も見送りに来てくれないだろう’と思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師、またたくさんの生徒たちが見送りに来ていました。中には神社の神主や僧侶もいました。さらに一般の人たちも来ていて、駅は身動きができないほどでした。それで駅長は停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたほどです。その群衆の中に、実は若き日の宮沢賢治がいたのです。「雨ニモマケズ」の詩は、この時の感動に基づいて、彼の生きざまを書かれたものだと言われているのです。

雨にも負けず 風にも負けず
雪にも 夏の暑さにも負けず
丈夫な体をもち
慾はなく 決して怒らず
いつも 静かに笑っている
一日に 玄米四合と 味噌と
少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく 見聞きし 分かり
そして 忘れず
野原の 松の林の 陰の
小さな 萱ぶきの 小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って 看病してやり
西に疲れた母あれば
行って その稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って 怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、
つまらないから やめろと言い
日照りの時は 涙を流し
寒さの夏は おろおろ歩き
みんなに 木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい
(宮沢賢治、「雨ニモマケズ」)

この詩の締め括り「そういう者に私はなりたい」とは、宮沢賢治のその思いが込められています。斎藤宗次郎がそれだけ多くの人々に愛されていたのは、彼が普段からしていたことを、周囲の人たちが見ていたからなのです。彼は、人にほめられたいなど、人を基準にして生きていたのではなく、ただ、神を、主イエス・キリストを基準に物事を考え、キリストと同じ思いを感じることができるように変えられていたのです。人々は斎藤宗次郎の内側から醸し出されていたキリストの香りを感じ、彼を通して表されたキリストを見ていたのです。

ですから、彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させてはなりません。もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれもあなたがたに害を加えることはできないからです。

Ⅱ.キリストを主としてあがめなさい(15-17)

第二のことは、キリストを主としてあがめなさい、ということです。15節から17節までをご覧ください。
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。」

人から脅かしを受けているときに、何も言えないときがあります。ただ我慢するしかないと思う時、ただそのように防御的になるだけでなく、もっと積極的にすべきことがあります。それは、心の中でキリストを主としてあがめることです。キリストを主としてあがめるとはどういうことでしょうか。この「あがめる」という言葉は、原語で「ハギアゾー」という言葉が使われていて、これき「きよめる」ということを意味しています。ですから、直訳としては、「むしろ、心の中でキリストを主としてきよめなさい」となります。キリストをきよめなさいと言っても、キリストはもともときよい方ですから、きよめる必要などありません。では、キリストをきよめなさいとはどういうことなのでしょうか?それはキリストをきよい方として尊びなさいとか、敬いなさいということです。たとえ義のために苦しむことがあっても、彼らの脅かしを恐れたり、心を動揺するのではなく、キリストがすべてを支配しておられることを認めて、信頼しなさいということです。

そればかりではありません。ここには、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。「あなたがたのうちにある希望」とは、1:3にある「生ける望み」のことです。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持つようにしてくださいました。それは朽ちて行くようなものではなく、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともないものです。それは天にたくわえられている資産なのです。私たちは、この資産、永遠のいのちを受け継ぐようになりました。それは私たちにとって最もすばらしい望みではないでしょうか。これこそ本当の希望です。この希望について説明を求める人には、だれでもいつでも弁明できる用意をしていなければなりません。

ペテロはここで、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明しなさい」ではなく、「弁明できる用意をしていなさい」と言っているのは意味深です。私たちは、誰かに悪口を言われた時などそれにすぐに反応して言い返してしまうということがあります。その結果どうなるかというと、争いがおさまるどころかますますエスカレートすることも少なくありません。しかし、悪口を言われてもじっと我慢して、すぐに言い返すのではなく一呼吸おいて静かになると、相手が心を開いてくることがあります。「そんな風に言われてもあなたが穏やかにしていられるのはどうしてなの?」その時、「それはね、イエス様のおかげなの。ほんとうに私はだめな人間で、あなたのように全然立派な人じゃないから、どうしてこうなのかといつも落ち込んでばかりいるのよ。でも、教会に行ってイエス様の話を聞いているうちに少しずつ変えられて、こんな私でも愛されているということがわかると、他の人に何と言われても我慢できるようになったのよ。」と伝えることができます。

いま、さくらで看護学校に通うある青年と聖書を学んでいますが、この方がどうして聖書を学ぶようになったのかというと、実は同じクラスにクリスチャンの友人がいて、その方に自分の悩みを相談したのがきっかけでした。クラスには48人の生徒が学んでいますが、48人もいるといろいろな人がいて、中には「この人どうかな?」と思う人もいるらしいのです。ところが、ある時そのクリスチャンの友人とお話ししていたら、よく話を聞いてくれるので、「どうしてあなたはそんなに優しいの?」と尋ねたら、「別に優しいわけじゃないけど、私、クリスチャンで教会に行っているの。」と答えたのです。「へぇ、それじゃ私も行ってみたい」と、聖書を学ぶようになったのです。

伝道ってこういうことではないかと思います。こちらから一方的に聖書のことを説明するのではなく、むしろ相手の話をよく聞いて、「どうしてなの?」とか「どうしたらそのようにできるの?」と聞いてきた時にさりげなくお話しするのです。それが弁明するということです。そのためには、ここにあるように、いつでも、だれにでも、弁明できる用意をしておかなければなりません。その用意とはよく聖書を学ぶというのは勿論ですが、それを自分の生活にあてはめ、そのみことばに生きるということが大切です。なぜなら、そのようなみことばの実践が大きな裏付けとなるからです。

 そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。それは2:12にあるように、「何かのことで悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになる」ということです。すばらしいことではないですか。

Ⅲ.栄光の主を見上げて(17-22)

第三に、栄光の主を見上げることです。17~22節をご覧ください。17節と18節をお読みします。
「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」

「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです」というテーマは、すでに2章20節でも語られてきました。私たちが召されたのは実にそのためだと、ペテロはそこでキリストの十字架の模範を取り上げ、そのキリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのですと語ったのです。すべての解決はここにあります。私たちの人生のさまざまな苦しみや悩みの解決は十字架にあるのです。ですから、ペテロはイザヤ書53章から引用して、キリストの打ち傷のゆえにあなたがたはいやされたのです、と語ったのです。

そして、彼はここで再びキリストの模範を取り上げています。しかし、ここでは単に、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいということの模範としてではなく、キリストが悪い人々、すなわち私たちのために身代わりとなったのはどうしてなのかという、その目的なり、理由を語っているのです。それは、「肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」どういうことでしょうか?誰に近づくよりも神に近づくことは困難なことです。罪に汚れた人間が、聖なる神の前に出ようものなら、たちまちその場で倒れてしまいます。罪深い人間がこの聖なる神に近づくことなどできないのです。しかし、神の子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことで、その不可能なことを可能にしてくださいました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」というインマヌエルの預言が成就したのです。これ以上の喜びはありません。キリストはご自身の苦しみによってその喜びをもたらしてくださいました。それは私たちの模範であり、慰めです。私たちも、神のみこころを行って苦しみを受けることがあるかもしれませんが、そのことがわかったら力が与えられます。悪を行って苦しみを受けるよりも善を行って苦しみを受ける方がよいのです。ペテロはこの決定的で完全な救いという事実こそが、信仰者の人生に起こる様々な不条理に対する解毒剤であり、解決であると言っているのです。

いったいなぜそのような苦しみ起こるのかわかりません。そこでペテロはこれをノアの箱舟の事実によって説明を加えています。19節から21節です。「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」

ここは非常に難解な箇所です。いったいなぜこんなことが書かれてあるのかわかりません。ここではイエス・キリストの苦難がクリスチャンに対する模範であり、慰めであり、究極的な解決であるということが語られているのに、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたとか、ノアの箱舟があらかじめバプテスマを示した型であるといったことが語られているからです。ですから、多くの学者は、この箇所は、後代の人が付け加えたのではないかと考えているほどです。つまり、前後の文脈との関係で書かれてあるのではなく、そうしたこととは全く関係なくここにポッと挿入されたと考えた方がよい、というのです。どうですか?しかし、ペテロがここでこのことを取り上げているのは、やはりそれなりに意味があったからです。それは何かというと、このことを記すことによって読者たちを励まそうとしていたということです。いったいこれがどういう点で励ましになるというのでしょうか。

それは、彼らがあのノアの箱舟によって救われたわずか8人の者たちと同じであるという点においてです。圧倒的多数の異教的社会の中にあって、本当に一握りの者たちでした。でも恐れることはありません。イエス様もおっしゃられました。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:32)まさにここで言いたかったことはこのことだったと思うのです。どんな小さな者でも、神は守ってくださいます。それは、昔、箱舟の中で救われたノアの家族のように、です。彼らは大洪水の中を通りながらも救われ、守られました。わずか8人の人々が、箱舟の中にあって水の中を通って救われたのです。ペテロはそれを、この不条理な人生における唯一の支えだと言いたかったのでしょう。

この「水を通る時も救われる」というのは、イザヤ43:2にも出てきます。
「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」
私たちは、「水の中を通らない」とか「火の中を歩かない」というのではありません。水の中をとおった、火の中を歩くような時もあります。しかし、そのような時にも「神はあなたと共にあり」「あなたは押し流されない」「炎はあなたに燃えつかない」のです。これこそが、不条理とも思える苦難の中にあって最大の支えとなり、慰めとなるのです。それほどキリストの救いは完全であり、圧倒的に大きいのです。

ところで、この話はこれで終わっていません。19節と20節の前半のところに、「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」とあるのです。その霊とは、「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。」とある。これはいったいどういうことなのでしょうか。

この箇所は、大きく分けると三つの解釈があります。一つは、これは受肉前のキリストが聖霊によってノアの時代に神を信じなかった人たちに宣教したという考えです。この解釈によると、キリストが捕らわれの霊たちのところへ行ってみことばを語ったのはノアの時代のことであり、十字架で死なれた後、よみへ行かれた時ではないと考えます。

もう一つの考えは、これはキリストが十字架につけられて死んだ後、復活する前に、霊において生かされて、よみへ下り、捕らわれている人たちにみことばを語ったとするものです。この説によると、キリストがよみ下ったことを受け入れます。そして、捕らわれの霊たちにみことばを語られましたが、問題はそのみことばとはどのようなみことばであったのかということです。ある人たちはそれを4:6のみことばとの関連で福音のことばと解釈し、ノアの時代に悔い改めなかった人々、すなわち、捕らわれた霊たちのところに行って、福音を宣べ伝えた、と言います。ということは、死んだ後でも救われるチャンスがあるということになります。死んだ後でも福音を聞くチャンスがあるわけですから。こういうのをセカンドチャンス論と言います。死んでからでも救われるチャンスがあるという考えです。しかし、死後に救いのチャンスがあるという考えは聖書全体の教えから見ても困難です。たとえば、イエス様はラザロと金持ちの話をされましたが、生きている間に神を信じなかった金持ちは、死んで後悔い改める機会がなかったばかりか、彼の兄弟がそのような辛い思いをすることがないようにラザロを私の父の家に送ってくださいと言ったとき、アブラハムは何と言いましたか?アブラハムはこう言いました。「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。」(ルカ16:28)
彼らにはモーセと預言者、つまり聖書があります。その言うことを聞くべきです。それを聞かないなら、どんなことがあっても信じることはありません。
「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)なのです。したがって死んでから救われるということはありません。

ではこれはどういうことでしょうか。そこである人たちはこのように解釈します。つまり、キリストが十字架で死なれ、よみに下られ、キリストの福音を信じなかった人たち、すなわち、捕われの霊たちのところへ行ってみことばを語りましたが、そのみことばは救いのことばではなく、さばきのことばであったというものです。キリストは彼らのところに下って行き、救いの勝利を宣言されたというのです。というのは、喜びの訪れを伝える場合、ギリシャ語では「ユーアンゲリゾウ」という言葉を用いますが、ここでは単にみことばを告げ知らせるという意味の「ケリグマ」が使われているからです。そしてその後のところにキリストが復活され、天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座に着かれたとあるのも、このことを証明していると言えます。

ですから、これはキリストの勝利の宣言なのです。キリストは私たちの罪の身代わりとなって死に渡されましたが、三日目によみがえり、天に昇られ、神の右の座に着座されました。キリストは圧倒的な勝利者なのです。この栄光の主が、私たちとともにおられるなら、たとえ不条理と思えるような状況に置かれていたとしても、私たちはキリストが死から復活して神の栄光の座に着いたように、やがて神の栄光を受け継ぐ者となるのです。

であれば、それでもう十分ではないでしょうか。私たちに求められているのは、私たちがどのような状況に置かれていても、私たちの心の中でこのキリストを主としてあがめることなのです。義のために苦しむとき、あなたは何を見ておられますか。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させてはなりません。あなたが見つめなければならないもの、それはあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられ、神の右の座に着かれた栄光の主イエス・キリストです。この主を見上げるとき、どんな苦しみにあってもあなたは勝利することができるのです。ですから、信仰の勝利者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。この主を見上げること、それがあなたの勝利の力なのです。