ヨハネの福音書5章1~18節「ベテスダと呼ばれる池で」

ヨハネの福音書から学んでおりますが、きょうから5章に入ります。きょうは、イエス様がベテスダと呼ばれる池で38年間も病気で横になっていた人をいやされた出来事から学びたいと思います。

 

Ⅰ.良くなりたいか(1-9a)

 

まず1節から9節前半までをご覧ください。

「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。」

 

1節には、「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」とあります。この「ユダヤ人の祭り」が何の祭りであったのかはわかりません。しかし、ユダヤ人が「祭り」という場合、それは過越しの祭りを意味していたので、おそらく過越しの祭りであったと考えられます。もしそうであったとすれば、イエス様が公生涯に入られてエルサレム上られたにのは、これが2回目となります。4章54節に、「イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。」とありますが、最初にエルサレムからガリラヤに来られ、第二のしるしとして王室の役人の息子を癒されました。その後、イエスは再びこのユダヤ人の祭りがあって、エルサレムに上られたのです。

 

エルサレムには、羊の門の近くに、へブル語でベテスダと呼ばれる池がありました。「ベテスダ」とは「あわれみの家」という意味です。その池には五つの回廊がついていました。回廊とは、建物や中庭を囲むように巡らされた屋根付き廊下のことです。このベテスダの池にはその回廊が五つついていました。そしてそこに病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだが麻痺している人たちが大勢、横になっていました。なぜなら、その池の水が時々動き、その時に、真っ先にこの池に入った人は、どのような病気でもいやされる、という言い伝えがあったからです。

 

きょうの聖書の箇所を見ると、4節が抜けているのに気付いた方おられるかと思いますが、下の脚注を見ると、異本に3節後半と4節として、次の一部または全部を加えるものもあるとして、そのことが説明されてあります。つまり、「彼らは水が動くのを待っていた。4 それは、主の使いが時々この池に降りて来てみずを動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。」ということです。この箇所は、多くの有力な写本には載っていないので、本文には含まれていませんが、当時、このような噂が広がっていたのでしょう。「溺れる者わらをもつかむ」ということわざがありますが、大勢の病人が一縷(いちる)の望みを置いて、そこにやって来ていたのです。

 

そこに、38年も病気にかかっている人がいました。彼の病気がどのような病気だったのかはわかりませんが、7節で、彼が、「水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と言っているのを見ると、からだの機能が麻痺する病気だったのではないかと思います。それにしても38年ですよ。38年といったら本当に長い年月です。それは人生の半分、否、人生のほとんどと言っても過言ではないでしょう。彼はその期間を病気のために費やしてきたのです。そして今、神のあわれみを求めてここにいたのです。

 

そこにイエス様が来られると、イエス様は彼が横になっているのを見て、すでにそれが長い間そうしていることを知って、何と言われたでしょうか。イエス様は、「良くなりたいか」と言われました。「良くなりたいか」って、良くなりたいからここにいるのではないですか。病人ならだれでも良くなりたいと思うのは当然のことです。そんなことを言うとはちょっと失礼ではないかとさえ感じます。ではなぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。それは、その後の彼の答えを見るとわかります。

 

7節を見ると、彼は「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と答えています。この病人はイエス様から「良くなりたいか」と言われたとき、「はい、良くなりたいです。」と答えませんでした。彼は良くなりたいと答えたのではなく、どうして良くなれないのかの理由を述べただけでした。すなわち、水がかき回されたとき、池の中に自分を入れてくれる人がいないということ、そして、行きかけると、もうほかの人が先に下りて行くということでした。つまり、彼は最初からあきらめていたのです。病気がいやされることなどありえないし、そんなことは無理だ、と思っていました。ですから、イエス様はこの病人に「良くなりたいのか」と言われたのです。それは、本当に良くなりたいと思っているのか、そのことを本気で願っているのかということです。彼がイエス様から「良くなりたいか」と言われたとき、「もちろん、そうです」とすぐに答えることができなかったのは、そのような思いが、とっくの昔に失せていたからなのです。たとえそのような気持ちがあったとしても、「このままでいた方が楽だ」という思いが彼のどこかにあったかもしれません。このまま病気でいた方が人々から施しを受けながら生きていくことができるけれども、もし治ってしまったら、今度は自分の力で生きていかなければならない。病気以外の様々な問題に直面することもあるだろう。ですから、病気が治ることで生活が変わることに少なからず不安があったのです。それで、無意識のうちに「自分には無理だ」、「誰も助けてくれないから」ということを口実に、そのままの状態にとどまっていようとしたのです。

 

しかし、それはこの病人だけではありません。それは、私たちにも言えることです。たとえば、今の生活を変えたいと思っていても本当に変えたいのかというとそうではなく、「どうせ無理ですよ」「解決することなんてできるはずがない」と半ばあきらめていることということがあるのではないでしょうか。あるいは、良くはなりたいけれども、「このままでいた方が楽だ」という思いが、良くなりたいという思いにブレーキをかけていることがあるのです。

 

武庫之荘福音自由教会の大橋秀夫先生は、これをサーカスの象にたとえました。ある動物園の象の鎖が解けたというニュースを聞きました。幼稚園の園児が動物園に遠足に行って、その象さんを見たときに、重い鎖でつながれていました。しかも、その鎖は1.5mぐらいしかありませんでした。それで幼稚園の子どもたちが帰ってから、園長先生に、「象さんかわいそう」という手紙を書いたのです。動物園の方ではそれで数千万円の予算を割いて園舎を改造し、象の鎖を解いてあげたというわけです。

そのニュースを聞いた大橋秀夫先生は、一つのことを思い出しました。それはサーカスの象のことです。サーカスの象も鎖につながれているのですが、動物園の象と違って、コンクリートで固められた杭につながれていません。なぜならば、サーカスの象は、旅から旅へと移動するので、たいがいは、象の力ならば簡単に抜けてしまうような木の杭とか、鉄の杭につながれているだけなのです。それなのに、サーカスの象は、なぜ逃げないのでしょうか。その答えはこうです。子どもの時に、子どもの時の象なので、小象の時ですね。その小象の時から絶対に抜けないような鎖につながれているんです。そうすると、大きくなっても、この鎖を結んだ杭は抜けない、と思ってあきらめてしまうのだそうです。これが象の飼育係のコツなのでしょうか。一回でも抜くことに成功すると、これは抜けると思ってしまうんだそうです。ですから、小象の時に絶対に抜けない杭につないでおくのです。(「成長する人、しない人」P31~32)

 

私たちも、この象と同じように、自分の中に「できない」という思いが働いて、最初からあきらめていることがでるのではないでしょうか。イエス様はそんな私たちに「良くなりたいか」と問うておられます。私たちは、もっと良くなりたいと思っています。しかし、そこに「でも」という言葉が続くのです。「でも、私は受験に失敗した」「でも私にはそんな能力なんてない」「結婚生活もうまくいかなかった」と、自分で自分に鎖をかけてしまうことがあるのです。あのサーカスの象のように。

 

しかし、イエス様はこの鎖を解き放つことができます。大切なのは、私たちが本気で良くなりたいと願うかどうかです。イエス様は、私たちが求めていないのに無理矢理何かをすることはなさいません。イエス様は、まず私たちが自分の状態を知り、そこから解放されることを本当に求めているかどうかに気づかせることによって、生き生きした人生を歩ませようにされるのです。

 

この病人の場合はどうだったでしょうか。8節と9節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」

 

「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と答えた病人に対して、イエス様は、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命じられました。すると、その人はどうなったでしょうか。その人はすぐに治って、床を取り上げて歩き出すことができました。象の鎖が引きちぎれた瞬間です。彼は38年間も自分を縛っていた問題から解放されたのです。

 

しかし、このところをよく見ると、彼がいやされるために、彼がイエス様を信じたということは一言も書かれていません。確かに、彼はイエス様のことばに応答して自分の足に力を入れて歩き出すことができたのでしょうが、そのためにイエス様を信じたといったことは全く書かれていないのです。それがイエス様であることすらわかりませんでした。それがイエス様であると分かったのは、後で彼が宮に行って、再びイエス様と出会った時です。それまではわかりませんでした。これはどういうことでしょうか。

 

これは、ヨハネが記す7つのしるしの第三番目のしるしです。「しるし」とは証拠としての奇跡のことです。イエス様がメシヤであることをユダヤ人たちに証明するためのものです。この「しるし」においては、その人に信仰があるかどうかは問われないということです。むしろ治してくださった方がどのような方であるのかが重要です。ですから、ここには彼がどれだけイエス様を信じたかということよりも、イエス様が彼をどのようにいやされたのかに力点が置かれているのです。すなわち、このいやしにおいては、徹頭徹尾、イエス様が主導権を握っておられたということです。イエス様の方からベテスダと呼ばれる池に行かれ、イエス様の方から38年も病気にかかっておられる人をご覧になら、イエス様の方から近づいて行かれました。そして、イエス様の方から「良くなりたいか」と言われたのです。彼は自分にはできない理由をいろいろ並べましたが、それでもイエス様はあわれみをもって「床を取り上げて歩きなさい」と言って彼をいやされました。そうです、すべてはイエス様の一方的なあわれみによるのです。この池が「ベテスダ」という名前であったのもそのためです。「ベテスタ」とは「あわれみの家」という意味です。イエス様はあわれみ深い方です。イエス様は、その深いあわれみをもって私たちをいやすことができる救い主なのです。

 

Ⅱ.もう罪を犯してはなりません(9b-14)

 

次に9節後半から15節までを見ていきたいと思います。

「ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

 

38年間病気だった人は治って、宮にいました。これは、ユダヤ教の神殿のことです。おそらく彼は、自分の床を家に運び、すぐに神殿に上って行って、神に感謝をささげようとしたのでしょう。しかし、そこで一つの問題が起こりました。それは、その日が安息日であったということです。10節には、「そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、『今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない』と言った。」とあります。

なぜこれが問題だったのかというと、彼らは安息日に床を取り上げてはならないと思っていたからです。どういうことかというと、確かにモーセの十戒には安息日に関する規定がありますが、それは、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト20:8)というものでした。六日間働いて、すべての仕事をしなければなりませんでした。しかし、七日目は、主の安息の日です。この日にはいかなる仕事もしてはなりません。問題はこの「いかなる仕事」とは何かということです。彼らはそれを厳しく守るために安息日にしてはならない39項目からなる労働のリスト挙げていました。そして、その中に「どんなものでも運搬してはならない」という決まりがあったのです。ここでユダヤ人が問題にしたのはそれです。つまり、安息日に人をいやしたことが問題だったのではなく、安息日に床を取り上げて運んだことが問題だったのです。全くナンセンスです。彼らは安息日律法の文言に捉われ、その安息日律法が本来目指していた精神を見失っていました。

 

そこで彼は答えました。11節、「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」すると今度は、そんなことを言ったのは誰かと、問い正しました。しかし、いやされた人は、それがだれであるかを知らなかったので、答えることができませんでした。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去っておられたからです。

 

しかし、後になって、イエスは宮の中で彼を見つけると、こう言われました。14節です。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

どういうことでしょうか。これを読むと、罪を犯すと、病気が再発してもっと悪くなるよと脅しているかのように感じるかもしれませんが、これはそういうことではありません。確かに、飲み過ぎで肝臓が悪くなったら、お医者さんはその人に、「これからは飲み過ぎに注意してください。そうでないともっと悪くなりますよ」と言うかもしれません。それに、当時は、病気の原因は罪を犯したからだと考えられていたので、そのように思うのも無理もなかったかもしれません。しかし、イエス様がここで言われたのはそういう意味ではなく、神との関係における罪のことでした。つまり、「もう罪を犯してはなりません」というのは、どんな罪も、どんな悪いことも一切してはならないということではなく、故意に神に背を向け、神との関係を自ら拒絶することがないようにということだったのです。私たちは罪を犯さずには生きて行けません。罪を犯さないように努力することは大切なことですが、もっと大切なことは、自分が罪を犯すような弱い者であることを認め、神の前に日々悔い改めて生きることです。つまり、神の恵みとあわれみに生きることなのです。

 

そうでないと、もっと悪いことが起こるかもしれないからです。この「もっと悪いこと」とは何でしょうか。これをこの罪との関係で考えるなら、これは肉体的な面だけでなく霊的な面も含めてのことであるのがわかります。つまり、もしあわれんでくださった神様に背を向けて生きるようなことがあるならば、今までの38年間の不自由な生活以上に、もっと悪いこと、すなわち、彼の人生から平安や安息が失われてしまうことになるかもしれないということです。ローマ6章32節に、「罪からくる報酬は死です。」とあるように、永遠に神との交わりから断たれてしまうことにもなりかねません。もしそのようなことがあるとしたら、からだは良くなったとしても、それ以上に不自由な者、最悪な結果になってしまいます。そうならないように、いつも神様に信頼し、感謝して生きるように、と言われたのです。

 

Ⅲ.ベテスダの池、イエス・キリスト(15-18)

 

最後に16から18節を見て終わりたいと思います。

「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」

 

ベテスダの池でいやされた人は、自分が誰によっていやされたのかを知ると、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えました。それを聞いたユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めます。それは、イエスが安息日の律法を破ったからです。そればかりではありません。イエスを殺そうとするようになりました。それは、イエス様が「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」と言って、ご自分を神と等しくされたからです。

 

この神をご自分の父と呼んだということですが、それは、イエス様がご自分を父なる神と等しい位置に置かれたということです。少なくとも、当時のユダヤ人たちはそのように理解していました。つまり、イエス様はご自分がメシヤであり、神と等しい者であると宣言されたのです。それでユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになったのです。

 

ヨハネが、第三のしるしとしてこの奇跡を取り上げた理由はここにあります。つまり、この38年も病気で横になっていた人をいやすことによって、イエスこそメシヤであられるということ、イエスこそ救い主であられるということを示そうとされたのです。これがわからなければ、どんなに律法を守っているようであっても全く意味がありません。なぜなら、律法が指し示していたのはこのイエス・キリストであったからです。律法は良いものですが限界があります。それは私たちに罪を示し、救いが必要であることを悟らせるものです。パウロはガラテヤ書の中で、律法はキリストのものに導く養育係だと言っているのはそのためです。しかし、ここに律法が指し示していた、しかも律法の要求を完全に満たした救いが現れました。それがイエス・キリストです。神の救いは自分の努力や力によってもたらされるのではなく、ただイエス・キリストによってもたらされます。このベテスダの池での出来事は、そのことを示していたのです。

 

このベテスダの池には五つの回廊がついていましたが、ある人たちは、この五つの回廊は、モーセ五書と呼ばれる律法を表していたと考えています。モーセ五書とは、創世記から申命記までの五つの書です。モーセが書いたのでモーセ五書と呼ばれています。その回廊にベテスダの池がありました。それは、この場所が神のあわれみを受けるためには、五つの回廊に象徴される律法の戒めをきちんと守らなければならない」ということを示していたというのです。それはこの律法と恵みとの関係から考えるとあながち間違いであるとは言えません。その回廊にいた人の中で、自分の力で救われた人がいたでしょうか。だれも律法を完全に守ることができる人などいないのです。

しかし、ここに律法とは別の、しかも律法によって証しされた救いがあります。それがイエス・キリストです。キリストはメシヤとしてこの世に来てくださり、神のあわれみを表してくださいました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われ、罪の中に伏せていた人をいやしてくださいました。私たちを罪から救うことができるのは、ただ神の恵み、神の子イエス・キリストの他にはいないのです。

 

ですから、この38年間も病気だった人がいやされた出来事は、私たちが律法の世界に留まるのではなく、自分の努力や力に頼るのではなく、キリストの言葉に信頼し、その言葉に従って新しい歩みを始めなさい、という招きだったのです。なぜなら、キリスト様こそあわれみの家、ベテスダの池そのものであられるからです。

 

イエス様は、あなたの罪と汚れをきよめる泉であり、あなたをあわれみ、あなたをいやす泉、ベテスダの池そのものです。この池で、あなたも罪の赦しときよめを受けませんか。心とからだのいやしを受けてください。そのために必要なのは、「掟、床を取り上げて歩きなさい」と言われる主イエスのことばを信じて、それに従うことです。キリストのあわれみは、尽きることがないからです。

出エジプト記3章

きょうは、出エジプト記3章から学びます。まず1~6節までをご覧ください。

 

Ⅰ.燃える柴(1-6)

 

「モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。」

 

モーセがミディアンの荒野に導かれて40年が経っていました。モーセは、ファラオの娘の子としてエジプトの宮廷で育ちましたが、イスラエル人を救おうと思いエジプト人を殺したことによって、エジプトから逃げミディアン人の地に来ました。その時、ここに書かれているイテロに出会い、その娘の一人チッポラと結婚したことで、イテロの羊を飼う仕事をしながら40年を過ごしていたのです。エジプトから逃げてきたのが40歳ですから、既に80歳になっていました。イスラエル人たちをエジプトから救い出すための計画は、完全に頓挫したかのように見えていました。しかし、神の側ではそうではなく、彼らを救い出すための計画は着々と進められていました。その最大の準備は、指導者であるモーセを訓練し、そのために彼を召し出すことでした。

 

1節をご覧ください。ここに、「モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。」とあります。しゅうとの「イテロ」は、2章では「レウエル」という名前で登場していました(2:18)。意味は「神の友」です。「イテロ」というのはタイトルで、「レウエル」が固有名詞です。モーセは、彼のしゅうとイテロの羊を飼っていました。この「飼っていた」というのは「常に飼っていた」ということで、彼がこれを仕事としていたことです。このような荒野での羊飼いとしての経験が、後に二百万人とも言われるイスラエルの民をエジプトから救い出し、40年にもわたる荒野での生活を送る際に生かされることになります。本当に神の成さることに無駄なことはありません。ミディアンの荒野で羊を飼いながら神について思い巡らし、エジプトにいる同胞イスラエル人のことを考えたりしながら、その時を待っていたのです。

 

ある日のことです。彼は羊の群れを追って、神の山ホレブにやって来ました。「ホレブ」とは山脈で、シナイ山はその山脈にある一つの山です。しかし、聖書の中に「ホレブ」とある時、それは「シナイ山」のことを指していると考えて差し支えありません。彼はそこで後に十戒を受けることになります。そこには豊かな緑があったのでしょう。シナイ半島は乾燥した地域ですが、家畜を飼う程度の草木は育ちます。あちこちに生えていた柴は、羊ややぎの餌になりました。その柴の茂みが燃えているのを見ました。空気が乾燥しているので、柴が自然に燃えるというのは決して珍しいことではありませんでした。しかし、彼が見たのは火で燃えているのに燃え尽きない柴でした。それは、エジプトで苦しめられていたイスラエルの民がその圧迫の中にあっても、滅びてしまうことがないことを表していました。それは今日に至るまでのイスラエルの姿でもあります。また、それはクリスチャンの姿でもあります。キリストの教会も、燃える柴の性質が与えられています。どんなに迫害されても滅びることはありません。むしろ、その中で成長し続けてきました。

 

その燃える柴の中に主の使いが現れました。旧約聖書で「主の使い」という言葉が出てくる時は、受肉前のキリストを指しています。ですから、この主の使いは4節で「主」(ヤハウェ)とあり、また「神」(エロヒム)と呼ばれています。ですから、主の使いが燃える柴の中に現れたというのは、主の臨在を象徴していました。

モーセは、柴が燃えているのに、その柴が燃え尽きていなかったのを見て、なぜ燃え尽きないのだろうと、近寄って、その大いなる光景を見ようと思いました。すると主は、モーセが横切って見に来るのをご覧になり、柴の中から彼の名を呼ばれました。彼が「はい、ここにおります。」と答えると、神は仰せられました。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」  どういうことでしょうか。この「聖なる」という言葉の本来の意味は、分離されているということです。それはこの世と分離されているということです。神はこの世とは全く分離しており、決して交わることのない方です。それが「聖」であるということなのです。ですから、汚れたままで近づくことはできませんでした。履き物を脱がなければならなかったのです。神に近づく者は聖でなければならないということです。なぜなら、神は聖なる方だからです。このことは聖書の中に何回も繰り返して言われています。たとえば、レビ記11章45節にこうあります。

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」」

ここには、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない、とあります。同様の教えがⅠペテロ1章13~16節にもあります。また、Ⅱコリント6章14~18節にも、「それゆえ、彼らから出て生き、彼らから離れよ。主は言われる。汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、あなたがたの父となり、あなたがはわたしの息子、娘となる。」とあります。

ですから、「あなたの履き物を脱げ」というのは、この世の汚れから離れ、神に全く献身することを表していました。聖なる神の前に自分自身を完全に明け渡すようにという意味です。このように神に近づくためには、まず自分自身を神に明け渡さなければなりません。

 

また、ここには「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とあります。これはどういうことかというと、神は契約の神であるということです。そして、モーセの先祖と交わされた契約を決して忘れず、それを忠実に行われる方であるという意味です。神はかつてアブラハム、イサク、ヤコブと契約したとおりに、彼らを約束の地に導かれると言われました。それは人間的には不可能なことです。しかし、神にはどんなことでもできます。神は契約の神であり、約束されたことを必ず実現される方なのです。そして、その契約を果たすために、神は今モーセに現われてくださったのです。

 

それに対して、モーセはどうしたでしょうか。モーセは顔を隠しました。神を仰ぎ見ることを恐れたからです。なぜでしょうか。以前の彼であれば堂々と立ちあがったことでしょう。しかし、彼はミディアンに逃れ、その荒野での長きにわたる生活の中で、そうした自信を全く失っていました。

Ⅱ.モーセの召命(7-12)

 

次に7節から12節までをご覧ください。

「主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」」

 

主は、エジプトにいるイスラエルの民ことを決して忘れておられませんでした。むしろ、その悩みを見、彼らの叫びを聞き、痛みを知っておられました。そして彼らの叫びが主に届いたとき、主は彼らを救うためにその御業を始められました。モーセを彼らの所へ遣わし、彼らをエジプトから連れ出すようにと命じられたのです。

それに対してモーセは何と言ったでしょうか。11節をご覧ください。

「モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」  これはどういうことでしょうか。モーセはここで、神の召命に対して断っています。それはなぜかというと、ここに、「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」とあります。つまり、自分にはその資格がないということでした。エジプトの王子であった時はいざ知らず、今は無名の羊飼いです。ファラオは最高の権威を持って、軍隊を率いています。杖1本しか持っていない自分に、いったい何にができるというのでしょう。たとえエジプトに行ったとしても、イスラエル人が私を受け入れてくれるはずがありません。40年前でさえ自分を拒否した人がいるのです。行っても無駄なことです。そのような思いが、モーセの頭の中を巡ったのです。

 

それに対する神の回答はどんなものだったでしょうか。12節をご覧ください。「神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」

ミディアンの荒野における40年間の生活は、確かにモーセのプライドが砕かれ、自分にできること

は何もないということを知るために大切な時でした。しかし、彼はまだ学んでいないことがありました。それは、神がともにいるなら、自分にその資格があるかどうかは関係ないということです。「これが、あなたがたのためのしるしである。」とは、神がともにいるというしるしのことです。そのしるしは何でしょうか。それは、「あなたがこの民をエジプトから導きだすとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない」ということです。つまり、神の山ホレブで神を礼拝するようになるということです。神の山ホレブは、エジプトからカナンの地への途上にはありません。しかし、イスラエルの民はこのシナイ山で神を礼拝するようになるというのです。

 

あれっ?しるしとは、証拠としての奇跡のことです。ここでは「神がともにいる」ということの証拠としての奇跡であるはずなのですが、そのしるしは、イスラエルがエジプトを出てカナンに向かう時に与えられるというのは不思議です。神がともにいるというしるしがあってこそ信仰によって行動ができるのですから、このように後で示されるのではしるしになりません。

実は、これは「歴史的しるし」と呼ばれるものです。目の前に起こるいやしや不思議だけがしるしなのではありません。神の存在を証明する最大のしるしは、歴史そのものです。特に、イスラエルの歴史を学ぶなら、そこにある確かな神のしるしを見て、まだ起こっていないことも、必ず起こると確信できるようになります。ですから、モーセはまだしるしを見てはいませんでしたが、歴史の中でこのしるしが与えられた時に、もっと深く神の臨在を確信するようになったでしょう。

 

Ⅲ.わたしはあるというものである(13-22)

 

それに対してモーセは何と答えたでしょうか。案の定、13節を見ると、彼はまた自分にはできないという言い訳を並べます。

「モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」」

 

モーセの次の言い訳は何でしょうか。それは、たとえ自分がイスラエルの民のところへ行っても、イスラエルの民は受け入れてくれないだろう、というものでした。「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのものに私を遣わされた」と言えば、彼らは、「その名は何か」と聞くでしょう。そのとき、自分は彼らに何と答えたらいいのか、というのです。

おそらく彼の中には、かつての出来事がトラウマになっていたのではないかと思います。同胞へブル人が言い争っていたときその仲裁に入った彼は、仲間の一人から「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」(2:14)と言われました。だから、またエジプトに行って彼らを連れ出すと言ったら、彼らから何と言われるかわからないというのです。その時に問題になるのが、「その名は何か」ということです。イスラエルの民は、いつも神に叫んでいたので、神のことを知っていました。彼らは、神は働きの段階に応じて新しい御名を啓示されると思っていました。ですから、イスラエルをエジプトから救い出してくれる神の名は何かと聞かれたら何と答えたらいのかと尋ねているのです。

 

14節をご覧ください。「神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」」

何ですか、「わたしはある」という者である・・とは。これは神の本質を啓示する御名です。これは、神は存在の根源であり、他の何ものにも依存せず存在している自存の神であるということ、よって、いかなる限界もない神であるということです。その方があなたを遣わすというのです。

モーセがこの神のご性質について本当によく知るのならば、もはや何も恐れるものはないはずです。なぜなら、この方は創造主であり、すべてのものの存在の根源であられるからです。ローマ8章31節には「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とありますが、だれも敵対することなどできません。

 

この「わたしはある」という名前ですが、これはイエス・キリストに対して用いられたことばでもあります。イエス様は「わたしはある」という主の御名を、いろいろな形で示されました。「わたしはいのちである。」「わたしは光である。」「わたしは救いである。」「わたしは道である。」というようにです。そして、ユダヤ人には、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある。」と答えられました(ヨハネ8:58)。永遠に存在されている方としての主(ヤハウェ)の御名を、ユダヤ人の前でお使いになられたのです。そして、これが永遠にわたる主なる神の御名です。「わたしはある」という主なる神が、モーセを遣わされるのです。

 

次に、主はモーセがエジプトに行ってどのような手順でそれを行ったら良いかを、事細かに説明されました。16~18節をご覧ください。

「行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。だからわたしは、あなたがたをエジプトでの苦しみから解放して、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地へ、乳と蜜の流れる地へ導き上ると言ったのである」と。』彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』」

モーセはまず、エジプトにいるイスラエルの長老たちの所へ行き、主がこれから何をなさろうとしているのかを告げなければなりませんでした。彼らは、モーセの声に聞き従うでしょう。そしたら、今度は彼らと一緒にエジプトの王ファラオのもとに行き、「ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。」と言わなければなりませんでした。これは最低限の要求です。もしこれに応じないなら、何を提案しても無駄です。

 

さて、それに対してエジプトの王はどうするでしょう。主なる神はそのことも事前に知ってモーセに告げます。そして、それに対してどのように対処したら良いかを知らせるのです。19~22節です。

「しかし、エジプトの王は強いられなければあなたがたを行かせないことを、わたしはよく知っている。わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打つ。その後で、彼はあなたがたを去らせる。わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたが出て行くとき、何も持たずに出て行くことはない。女はみな、近所の女、および自分の家に身を寄せている女に、銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求め、それを、自分の息子や娘の身に着けさせなさい。こうしてあなたがたは、エジプト人からはぎ取りなさい。」

事はそう簡単には進みません。モーセがイスラエルの民の長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行き、自分たちを行かせよと要求しても、エジプトの王はそう易々と行かせるようなことはしません。そこで神はご自分の手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打ちます。その後で、彼はイスラエルを行かせるようにするのです。そればかりではありません。彼らがエジプトを出て行く時には、何も持たずに出て行ってはならないと命じました。すなわち、近所の女や身を寄せている女から銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求め、それを、自分の息子や娘の身に着けさせなければなりませんでした。どうしてこのようなことをしなければならなかったのでしょうか。それは、そのようにしてはぎ取った財産で、後に幕屋を建設するためです。そのために必要になります。神は、その後のこともすべてご存知であられ、そのための備えをしておられたのです。

私たちの神は大いなる神です。「わたしはある」というお方です。その神を見上げて、この方からいつも新しい力をいただきましょう。