ヨハネの福音書7章1~13節「わたしの時は来ていません」

ヨハネの福音書から学んでおりますが、きょうから7章に入ります。きょうは「わたしの時は来ていません」(6)とイエス様が言われた言葉から、「キリストに従う」というテーマでお話ししたいと思います。

Ⅰ.イエスを信じていなかった兄弟たち(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。

「その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」

「その後」とは、6章の出来事があって後のことです。6章には、イエス様が、5つのパンと2匹の魚で男の人だけで五千人の人たちの空腹を満たされたという奇跡が記されてあります。それは6章4節に「ユダヤ人の祭りである過越しが近づいていた」とあるように、過越しの祭りが近づいていた頃のことでした。時期的には3月の終わり頃から4月の上旬にかけての頃です。その後、イエス様はガリラヤ地方を巡り続けておられました。なぜなら、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたからです。もしユダヤ(地方)に行けば、ユダヤ人に捕らえられ、殺されてしまいます。イエス様は、ユダヤ人に殺されることを恐れていたのではありませんが、まだその時が来ていなかったので、ユダヤには行かずガリラヤを巡り続けておられたのです。

それからしばらくして、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていました。これは秋の祭りです。ですから、6章の出来事から半年くらい後の事になります。イエスの兄弟たちがイエスにこう言いました。

「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」(3-4)

なぜイエスの兄弟たちはこのようなことを言ったのでしょうか。ある意味で、彼らが言っていることはもっともであるかのように見えます。もし自分を世に現したいとと願っているのであれば、隠れて事を行う必要はないからです。しかし、彼らは本当にイエス様のことを思ってそう言ったのではありませんでした。彼らがなぜこのように言ったのかを理解するためには、ユダヤ人にとって「仮庵の祭り」が何を意味していたのかを知る必要があります。

先ほども申し上げたように、仮庵の祭りは、過越しの祭り、五旬節、すなわち七週の祭りに並ぶユダヤの三大祭りの一つでした。それは、彼らの先祖がエジプトを出た時、仮の庵、仮庵に住んだことを覚えるために、七日間、仮小屋か木の枝を張って造った天幕に住み、主の前で喜ぶように定められていたものです(レビ3:39-43)。また、この祭りの最終日は聖なる贖いの日と呼ばれていて、この日は、アザゼルとして荒野に山羊が放たれ、年に一度大祭司が至聖所に入って特別な儀式を行いました。そして、何と言ってもこの祭りは、来るべきメシヤの再臨を示すものでした。ゼカリヤ書14章16~21節にこう書いてあるからです。

「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」(ゼカリヤ14:16)

すなわち、これはメシヤがエルサレムから全世界を支配するようになる時、異邦人たちはメシヤを礼拝するために、この祭りに上って来るということです。イエスの兄弟たちが、仮庵の祭りの期間にエルサレムに上り、自分をメシヤとして世に示すようにと言ったのは、こうした背景があったからです。

そういう意味では、彼らが言ったことは決して間違いではありませんでした。むしろ、日ごろからイエスが語っておられることを耳にしていた彼らにとって、この仮庵の祭りにイエスがエルサレムに行き、そこで驚くべき奇跡を行うなら、自分がメシヤであることを示す絶好の機会になるのではないかと考えるのは、むしろ当然と言えるでしょう。しかし、それは彼らがイエスをメシヤだと信じていたからではありませんでした。5節には、「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」とあります。彼らもイエス様を信じていませんでした。だから、イエスがメシヤであるというしるしを行えば、みんな信じるでしょう、そうしたらいいんじゃないかと、挑発したのです。それは神のみこころから遠く離れていたものでした。というのは、十字架抜きの救いというのは、結局のところ、人々を本当の救いを与えることはできないからです。その時はまだ来ていませんでした。悪魔は、いつも身近にいる人を通して、主のみこころとは違った、安易な道へと私たちを誘惑してきます。ですから、私たちは主のみこころは何なのか、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、いつも神の言葉を求めなければなりません。

それにしても、このことがイエス様の一番近くにいた兄弟たちから出たということは驚きです。家族であればいつも一緒にいてその言葉なり、行動というものをつぶさに見ています。ですから、彼らはイエス様のことを見て、よく知っていたはずなのに信じていなかったのです。普通であれば、一緒にいればポロも見えるはず。いいことばかりでなく、悪いことも、いろいろな欠点も見えてきますから信じられないというのは最もですが、イエス様の場合は完全で、しみも汚れも全くなかったわけですから信じても不思議ではなかったというか、信じるのが当然かと思いますが、そうではなかったのです。これはひどい話です。ご自身の民であったユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしていたというのもひどい話ですが、イエス様の兄弟たちがイエス様を信じていなかったというのもそれと同じくらい、いやそれ以上にひどいことです。

このことを思う時、改めて6章44節でイエス様が言われた言葉を思い出します。それは、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」という言葉です。神の恵みと導きがなければ、人はだれも主のもとに来ることはできません。どんなにイエス様の近くにいる人でも、神が引き寄せてくださらない限りだれもイエス様のもとに来ることはできないのです。

私たちはこのことをしっかりと覚えておかなければなりません。私たちはとかく、私たちの家族が信仰を持たないでいたりすると、つい自分を責めてしまうことがあります。自分の態度が悪いからだ、クリスチャンとしてふさわしい態度でないから、夫が、妻が、息子が、娘が、父が、母が信じてくれないのだと思いがちなのですが、必ずしもそうではないのです。何の落ち度もないイエス様が一緒にいても、その兄弟たちが信仰を持たなかったのだとしたら、どんなに私たちが信仰に熱心だからと言っても、必ずしも私たちの家族の者が信仰を持つとは限らないのです。むしろ、イエス様はこのことを経験された方として、そのように祈ってもなかなか信じてくれない家族のことで悩み、落ち込んでしまう私たちの心を知って、深く憐れんでくださるのです。ですから、私たちは何よりもこのことを覚えてこの主のあわれみによりすがり、主が私たちの家族をご自身のもとへ引き寄せてくれるようにと、あきらめないで祈り続けていかなければなりません。

Ⅱ.わたしの時はまだ来ていません(6-9)

第二のことは、多くの人がクリスチャンを憎む本当の理由は何であるかということです。6節から9節までをご覧ください。

「そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」

「自分を世に示しなさい」という兄弟たちの言葉に対して、イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」と言われました。どういうことでしょうか?

イエス様が福音書の中で「わたしの時」と言われる時、それはご自身が十字架に付けられ、永遠の贖いを成し遂げられる時のことを指しています。その時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ています。これはどういうことかというと、新改訳2017で訳されているように、「用意ができている」ということです。どのように用意ができているのかというと、7節にあるように、「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」つまり、イエス様はこの世と同じ生き方をせず、この世の悪い行いを指摘するのでこの世から憎まれますが、イエスの兄弟たちは、この世と調子を合わせ、いつもこの世の流れに流された生き方をしていたので憎まれることはないということです。彼らはいつもこの世にどっぷりと浸かっていました。彼らの時はいつでも来ていたのです。

しかし、それは何もイエスの兄弟たちだけのことではありません。私たちもイエ様を信じて、イエス様に従って生きていこうとすれば、そこに多くの戦いが生じます。もし私たちがこの世から全く憎まれることがないとしたら、それこそこの世にどっぷりと浸かっている証拠であり、この世の人々と何ら変わりがないということを示しているのです。なぜなら、世はイエス様のことを憎んでいるからです。

現代では、特別な時がありません。昔なら、野菜や果物にしても、旬のものがありました。しかし、今は野菜や果物がビニール・ハウスで栽培されるので、いつでも同じ野菜や果物を食べることができるようになりました。季節感というものがなくなってきたのです。いつでも用意ができるようになりました。これは食べ物のことだけでなく、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。つまり、この世のペースに巻き込まれて、クリスチャンとしての生き方を失い、この世に流されてしまう傾向があるということです。それが、イエス様が言われた「あなたがたの時はいつでも来ている」ということです。

しかし、イエス様の時は来ていません。イエス様がこの世から憎まれるのは、「世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」つまり、この世の人々の罪を指摘したからです。罪を指摘すれば、当然憎まれます。これが、イエス様がユダヤ人指導者たちから憎まれた本当の理由です。それはイエス様がご自分をメシヤとして受け入れるようにと主張したからではなく、あるいは、イエス様が崇高な教えを説いたからでもなく、当時の人々の間にはびこっていた罪や過ちを指摘したからなのです。こういう人はいつの時代でも人々から煙たがれ、憎まれ、迫害されます。

もうすぐ「平成」が終わって「令和」になります。202年ぶりに生前退位が行われ、新しい天皇になるのです。天皇が生きている間に、その地位を譲るというのは考えられないことです。なぜなら、日本国憲法に定められている「皇室典範」の第1章に、皇位の継承は現天皇が崩御(死亡)する時と定められているからです。それ以外に重篤な病気がない限り譲位することは認められていません。そのことで政府はいろいろと議論を重ねましたが、結局、一時的な法律を作って生前退位することを認めました。なぜ、天皇が生前に退位することがそれほど問題なのかというと、明治政府以降、日本の政府は、天皇を神格化「現人神」(あらひとがみ)して、国民をまとめる国家戦略を持っているからです。しかし私たちは、唯一まことの神であるイエス・キリスト以外の存在を神としません。確かに、今の天皇は人格的に立派で、個人的には尊敬し、お慕い申し上げておりますが、しかし、神として敬うことは別です。戦後、天皇は国民の象徴としての天皇とは何かを模索してきました。そしてそれを見事に全うされましたが、それはあくまで象徴としての天皇であって、神としてではありません。私たちは、天皇が神格化されることによってあらゆる批判が封じられ、人権が抑圧され、天皇の名によって侵略戦争が正当化された過去を忘れてはいけません。しかし、そのように主張すれば、当然そこにこの世とのひずみが生じ、妨害が起こってくるのは必死です。

最近、LGTB、性的マイノリティーの方々をどのように受け入れるかが問題になっています。世界的には同性婚が受け入れられるようになりました。何と28の国々で認められています。そこまで認めていなくとも、パートナーシップ法のある国が19もあります。その権利を保証する国が5つあります。その中には日本も、何とイスラエルも含まれているのです。旧約聖書をみると、同性婚について厳しく戒められているにもかかわらず、そのイスラエルでも容認する傾向にあるのです。アメリカではこれが法律で定められていて同性婚を禁止したり認めないと、牧師が訴えられるというケースが数多く起こっています。そのような中で、もし我々が同性婚に反対しようものなら、この社会からたちまち非難されることになるでしょう。

ですから、クリスチャンがこの世から憎まれることがあってもちっとも不思議ではありません。それはあなたが間違っているからでも、あなたが悪い人だからでもなく、その生き方が聖いからなのです。そしてその生き方がこの世に対して常に証をしているので、世は不愉快になって受け入れることができないのです。それで世はクリスチャンを憎むのです。間違っても、この世が自分を憎むのは、自分がこの世と同じことをしないからだとか、もっとこの世に染まれば受け入れられるに違いないと、この世と調子を合わせようとしないでください。それこそ、悪魔の思うつぼですから。

イエス様はこう言われました。「人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。」(ルカ6:26) みんなから良く言われるのはその人がよい人だからである、というのがこの世の常ですが、これは大きな誤りです。それは、当時イエス様がこの世からどう思われていたかを見ればわかります。イエス様はみんなから愛されていたのではなく、逆に憎まれたのです。ですから、みんなから好かれているというほめ言葉が、必ずしも良いわけではありません。

私たちもこの世から好かれるかどうかではなく、この世から憎まれることがあっても、イエス様同様、この世に流されることなく、神の御心に従い、塩味のきいたピリッとした生き方を求めていかなければなりません。

Ⅲ.イエスを誰だと言いますか(10-13)

では、どうしたらいいのでしょうか。第三に、10節から13節までをご覧ください。

「しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。」

兄弟たちが祭りに上って行った後で、主イエスご自身も、上って行かれました。なぜイエス様は兄弟たちと一緒に上って行かなかったのでしょうか。それは、ここに「表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた」とあるように、兄弟たちと一緒に行くことによって目立つのを避けようとしたからです。兄弟たちは、人々の注目を主に向けさせることで、いかにも自分たちがその弟たちであることを誇ろうとしたのかもしれませんが、このような機会を与えないために、主は彼らと一緒に行かなかったのです。5つのパンと2匹の魚の奇跡を行った時も、人々は主を自分たちの王にするために連れて行こうとしましたが、主はそれを知って、ただ一人山に退かれました(6:15)。主はそのような人たちを避けたいと思っていたのです。

主イエスが祭りに上って行かれると、ユダヤ人たちはどのようにイエス様を迎えたでしょうか。11節には、「ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを探していた。」とあります。何のために探していたのかわかりません。しかし、1節を見ると「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」とありますから、殺そうとして探していたのかもしれません。彼らは、当然イエスも敬虔なすべてのユダヤ人同様、祭りのためにエルサレムに上ってくるだろうと考えていたので、その隙を狙っていたのでしょう。

一方、群衆はどうだったかというと、12節をご覧ください。群衆の間では、イエス様に対する評価が真っ二つに分かれました。「群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。」

ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言いました。イエス様のことを「良い人だ」と言ったのは、自分たちの考えをはっきり持っていた、純粋で素直なユダヤ人たちでした。彼らの中には、主のお働きを一部始終見聞きしていたガリラヤの人たちも含まれていたことでしょう。一方、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言った人たちは、真理について全く考えようともせず、ただユダヤ教の指導者たちを恐れ、その言いなりになっていた肉的な人たちでした。

しかし、このことからわかることは、キリストに対しての受け止め方は、驚くほど多くあるということです。人生いろいろ。キリストに対する受け取る方もいろいろです。

イエス様が生まれた時、年老いたシメオンが幼子イエスを腕に抱いて語ったことを覚えていますか。彼はイエスの母マリヤにこのように言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(ルカ2:34-35)彼の語ったことが、ここに成就したのを見ます。イエス様は、多くの人々が倒れたり立ちあがったりするために定められたのです。それは、多くの人の心の思いがあらわになるためです。

イエス様ご自身、どこに行っても、常に対立を引き起こす原因となりました。それは今もそうです。ある人にとってキリストは「いのち」に至らせる香りですが、ある人にとっては「死」に至らせる香りです(Ⅱコリント2:16)。キリストは、私たちの心の思いをあらわにされます。人々はキリストを好むか、好まないか、のどちらかです。福音が人々の心に入るとき、そこには当然意見の衝突や争いが起こります。それは福音に問題があるからではなく、人々の心にこうしたいろいろな思いがあるからです。太陽が湿地を照らすと毒の成分である毒気を発生しますが、それは太陽が悪いからではなく、地が悪いからです。同じ光が麦畑を肥沃にし、豊かな刈り入れをもたらします。

ですから、キリストを信じ、聞き従い、人々の前に信仰を告白する人が少ないからといって、これが正しくないとか、恥だとかと思わないでください。むしろ、これが真理だからこそこのような反応が起こるのです。大切なことは、そのような中で、あなたはイエスを誰だと言うかです。あなたは、他人の意見や圧力に影響を受けないで、自分の意見を堂々と述べることができますか、ということです。イエス様はこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

世に勝利されたイエス様が、あなたとともにおられます。私たちも、信仰のゆえに、世に憎まれることがあるますが、世に勝利されたイエス様に信頼して、他人の意見や圧力に屈することなく、イエス様に従う者とさせていただきましょう。

出エジプト記6章

神の命令に従いファラオのもとに行って神のことばを伝えたモーセでしたが、そこで激しい抵抗に会い、イスラエルの立場は以前よりももっとひどいものになってしまいました。イスラエルの民のリーダーたちからそれを告げられた時、モーセは神に祈って言いました。「主よ。なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。」(5:22)

きょうの箇所には、そのことに対する主の励ましが語られています。

Ⅰ.わたしは主である(1-8)

 

まず、1節から8節までをご覧ください。4節までをお読みします。

「主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。」

 

1節には、「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。」とあります。ここで主は、「わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。」と言われました。今はまだわからないが、今に分かるようになります。つまり、モーセに欠けていたのは、今しばしの忍耐でした。それまで彼は、もう少し忍耐しなければならなかったのです。なぜなら、「彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出す」からです。いったいどのようにしてそれが起こるのでしょうか。

 

2節以降には、そのことについて語られています。2節には、「わたしは主である。」とあります。これは、3章14節のところで、主が「わたしは、『わたしはある』という者である。」と言われたことと関係があります。それは、他の何にも依存せず、それだけで存在することができる方、自存の神であるという意味です。つまり、すべての存在の根源者であられるということであり、いかなる限界もない全能の神であることを表しています。加えてこの「主」(ヤハウェ)は、神が契約を守る方であり、いつまでも変わることのない方、常に信頼できる方であることを表しています。神はモーセに、ご自身がそのような方であると啓示してくださったのです。

 

それは、アブラハム、イサク、ヤコブに現われてくださった時とは違います。アブラハム、イサクヤコブに現われてくださった時には「全能の神」として現れてくださいました。それは「エル・シャダイ」という御名でした。神がすべての必要を満たす神であるという意味です。しかし今は「主」と言う名前で現れてくださいました。名は体を表わします。イスラエルの民はこの主の御名の意味を体験的に知っていたわけではありませんでしたが、出エジプトの体験を通して、その意味を深く知るようになります。主は、イスラエルの民に、カナンの地を与えると約束されました。その契約に基づいて、彼らをエジプトから解放されるのです。

 

5節には、「今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。」とあります。この「思い起こした」とは、今まで忘れていたイスラエル人との契約を思い出したということではありません。いよいよ行動を起こす時が来たという意味です。

このことは、モーセにとって大きな励ましとなりました。というのは、それまで彼はこの神の偉大さを知らなかったからです。ですから、自分の身に何か困難なことがあるとすぐに、「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。」と嘆いていたのです。しかし、大切なのは「なぜ」ではなく、「だれ」です。イスラエルの神はどのような方であるかということです。イスラエルの神は「主」であるということです。主は契約を守る方であり、いつまでも変わることのない方です。常に信頼できる方であることです。彼は、この偉大な方に目を留めるべきでした。「自分」ではなく、「神」に、神の偉大さに焦点を合わせるべきだったのです。私たちはいかに「自分」が中心となっているでしょうか。自分を中心に見たり、考えたりしています。しかし、それではすぐに落ち込んだり、がっかりすることになってしまいます。主を見なければなりません。主は必ず契約を守られる方であることを心に刻みたいと思います。私たちの信仰の視点が自分から神に向けられるとき、私たちは体験的に神を知るようになるのです。そして、神を体験的に知れば知るほど、そこにどのような問題があっても神に信頼し、神をほめたたえることができるようになるのです。

 

それゆえ、モーセはイスラエルの子らにこう言わなければなりませんでした。6節から8節です。

「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。」 (6-8)

 

モーセがイスラエルの子らに告げなければならなかったことは、次の三つのことでした。第一に、主はイスラエルをエジプトの苦役から救い出し、大いなるさばきによって贖われ

るということです。(6)「大いなるさばき」とは、エジプトに下されようとしていた10の

災いのことを指しています。エジプトの奴隷となっていたイスラエルを救うために、神はそ

の腕を伸ばし、大いなるさばきをもって彼らを贖われるというのです。

 

第二のことは、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」(7)ということです。イスラエル人は、主の圧倒的な御業によってエジプトから贖い出され、シナイ山のふもとで、主と契約を交わすことによって、主の民となり、主は彼らの神となられます。「わたしはあなたがたの神である」というのは、何という祝福でしょうか。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Ⅰペテロ2:9)とあります。私たちも異邦人の中から召し出され、神の所有とされた民です。神の民とされたことを感謝しましょう。

 

三つ目のことは、「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。」という約束です。神は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地、すなわち、カナンの地に彼らを導き、その地を彼らに与えると約束されました。なぜなら、それは彼らの父祖たちに与えると誓われた地であるからです。この約束は、後にヨシュアの時代に実現します。

 

これら三つのことは必ず実現します。なぜなら、「わたしは主である。」からです。これら

3つの約束が、この「わたしは主である」という宣言で始まり、「わたしは主である」という宣言で結ばれています。すなわち、これらの約束は必ず実現するということです。なぜなら、「わたしは主である」からです。主は契約を守られる方です。ですから、これは必ず実現することなのです。このように、主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は、何と幸いでしょうか。私たちも現状を見たらとても信じられないようなことでも、主を見て、主が語られたことは必ず実現すると信じて、その実現を待ち望みましょう。

 

Ⅱ.失意に陥る時(9-13)

 

それに対してイスラエルの民はどのように応答したでしょうか。9節をご覧ください。

「モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。」

 

モーセはそのようにイスラエルの民に語りましたが、イスラエルの民は、モーセの言うことを聞くことができませんでした。なぜでしょうか、ここには、「失意と激しい労働のために」とあります。彼らはモーセのことばに一度は希望を持ちましたが裏切られる結果となり、失望落胆したのです。また、激しい労働のために、考える暇さえありませんでした。

 

すると、そんなモーセに主がこう告げられました。「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」これは、失意の中にいるイスラエルの民はそのままにしておいて、あなたは、エジプトの王ファラオに所へ行き、イスラエルの民をエジプトから去らせるように告げよ、ということです。

 

すると、モーセは主の前に訴えました。11節、「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」

これはモーセがシナイ山のふもとで召命を受けた時と同じです(3:1~4:13)。そういう状態に戻ってしまったのです。私たちも信仰が逆戻りすることがあります。せっかく信仰が順調に成長しているかのようでも、このように落ち込み、逆戻りすることがあります。そういう時は決まって主を見ているのではなく、その状況を見ています。また、人間的に自分を見て、無力感にとらわれています。つまり、神様から心が離れているのです。ここでモーセは「私は口べたなのです。」と言っています。だからこそ、神様は彼にアロンを備えてくだったのではないでしょうか。それなのに彼は、アロンが彼の代弁者であることさえも忘れていました。主はそんなモーセとアロンに、イスラエルの子らをエジプトの地から導き出すよう、イスラエルの子らとエジプトの王ファラオについて彼らに命じられました。

 

主の前には多くの障害が立ちはだかっていました。民は、救いようもないほど落胆し、不信仰に陥っていましたし、モーセとアロンは、民を説得することに失敗し、全く自身を失っていました。そして、エジプトの王ファラオは、イスラエルに対して以前にも増して敵意を抱くようになっていました。

しかし、神はブルドーザーのようにあらゆる障害物を取り除き、目的を達成するために前進されます。私たちが信じている神は、すべてを可能にされるお方です。自分が置かれている環境や直面している問題から目を離し、この全能の神を見上げましょう。

 

Ⅲ.モーセの系図(14-30)

 

「彼らの一族のかしらたちは次のとおりである。イスラエルの長子ルベンの子はハノク、パル、ヘツロン、カルミで、これらがルベン族である。シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ツォハル、およびカナンの女から生まれたシャウルで、これらがシメオン族である。家系にしたがって記すと、レビの子の名は次のとおり。ゲルション、ケハテ、メラリ。レビが生きた年月は百三十七年であった。ゲルションの子は、氏族ごとに言うと、リブニとシムイである。ケハテの子はアムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハテが生きた年月は百三十三年であった。メラリの子はマフリとムシである。これらが、彼らの家系によるレビ人の諸氏族である。アムラムは自分の叔母ヨケベデを妻にした。彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムが生きた年月は百三十七年であった。イツハルの子はコラ、ネフェグ、ジクリである。ウジエルの子はミシャエル、エルツァファン、シテリである。アロンは、アミナダブの娘でナフションの妹であるエリシェバを妻にし、彼女はアロンにナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを産んだ。コラの子はアシル、エルカナ、アビアサフで、これらがコラ人の諸氏族である。アロンの子エルアザルは、プティエルの娘の一人を妻とし、彼女はピネハスを産んだ。これらがレビ人の諸氏族の、一族のかしらたちである。このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。」

 

ここには、突然モーセの系図が出てきます。なぜ系図が出てくるのでしょうか。それは、26節と27節に導くためです。「このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。」つまり、このモーセとアロンがどこから出た者たちなのかを紹介するために、ここに系図を挿入しているのです。ですから、この系図は全てを記していません。ヤコブの12人の息子たちの記述も、ルベン、シメオン、レビまでで終わっています。それは、モーセとアロンがイスラエルの系図のどこに位置しているのを示せば十分だったからです。そして、モーセとアロンはヤコブの息子のうちレビから始まっています。そのレビには三人の息子がいました。ゲルション、ケハテ、メラリです。そして、その中のケハテ族の中からモーセとアロンは出ました。

 

ということは、どういうことかというと、彼らはアブラハム契約の中から出てきたということです。アブラハム契約の中からというのは、神の啓示を受け取った民の中からということです。それと全く関係ないところから出てくることはありません。それはメシヤの誕生にしても同じです。メシヤは旧約聖書の預言と全く関係のないところから出て来たのではなく、旧約聖書に預言されてあるとおり、アブラハムの子孫として生まれ、その契約を成就する形として来られました。つまり、こうした系図は過去と現在を結ぶ連結器のような役割を果たしているのです。どんなにすばらしい聖句でも、歴史的な流れなり、聖書全体のテキストを無視して取り出されたものは、本来の意図からはほど遠いものとなります。神様は歴史を通してご自身を啓示されました。ですから私たちは、こうした歴史的文脈をしっかりと押さえながら聖書のことばを読んでいなかければなりません。

 

28節から30節までをご覧ください。「主がエジプトの地でモーセに語られたときに、主はモーセに告げられた。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをみな、エジプトの王ファラオに告げよ。」しかし、モーセは主の前で言った。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。」

 

この箇所は、モーセとアロンの系図が挿入される前の文脈に戻っています。すなわち、12節に戻っています。モーセは主のことばをイスラエルの民に告げましたが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができませんでした。それでモーセは意気消沈し、かつてホレブの山で召命を受けた当時の否定的な状態に戻ってしまったのです。つまり、モーセが期待していたことと現実との間に大きなギャップがありました。それが、モーセが信仰の危機に陥った最大の要因でした。何が問題だったのでしょうか。モーセが期待していたことと神の計画には大きな隔たりがあったということです。私たちも同じようなことを経験することがあります。自分が祈っているように事が進まないと、神のみこころが分からなくなってしまい、すぐに不平や不満を抱くようになってしまうことがあります。しかし、神の思いは、天が地よりも高いように高いのです。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

大切なことは、このことを認め、すべてを神にゆだねることです。自分自身に神のみこころを合わせるのではなく、神のみこころに自分自身を合わせ、神の計画に従った信仰生活を送れるように、祈りましょう。

士師記21章

士師記の最後の学びとなりました。きょうは21章からを学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.愚かな誓い(1-7)

 

「イスラエルの人々はミツパで、「私たちはだれも、娘をベニヤミンに妻として与えない」と誓っていた。民はベテルに来て、そこで夕方まで神の前に座り、声をあげて激しく泣いた。彼らは言った。「イスラエルの神、主よ。なぜ、イスラエルにこのようなことが起こって、今日イスラエルから一つの部族が欠けるようになったのですか。」翌日になって、民は朝早く、そこに一つの祭壇を築いて、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。イスラエルの子らは、「イスラエルの全部族のうち、だれが、集団の一員として主のもとに上って来なかったのか」と言った。これは彼らが、ミツパの主のもとに上って来なかった者について、「その者は必ず殺されなければならない」と堅く誓いを立てていたからである。イスラエルの子らは、その同胞ベニヤミンのことで悔やんで言った。「今日、イスラエルから一つの部族が切り捨てられた。あの残った者たちに妻を迎えるには、どうすればよいだろうか。私たちは主によって、自分たちの娘を彼らに妻として与えないと誓ってしまったのだ。」

 

イスラエルがエジプトの地から上って来た日以来、見たことも、聞いたこともないような事件が起こりました。ベニヤミン領のギブアの町に宿泊していたレビ人の側目が、ギブアのよこしまな者たちに犯され、殺されてしまったのです。彼女の肢体を12の部分に切り分け、それをイスラエル全土に送ると、イスラエルの子らは、ミツパの主のもとに集まり、ベニヤミン族と戦うことを決めました。初めは、ギブアにいるよこしまな者たちを引き渡すようにというだけの要求でしたが、ベニヤミンがそれを拒絶したので、イスラエル人40万の兵士とベニヤミン族2万6千人の兵士との間に戦いが勃発しました。

主がイスラエルの前でベニヤミンを討たれたので、イスラエルの子らは、ベニヤミンの兵士2万5千人を討ち、無傷のままだった町も家畜も、すべて剣の刃で討ち、また見つかったすべての町に火を放ちました。

 

1節から4節までをご覧ください。このベニヤミンとの戦いの前に、イスラエルの人々はミツパで、一つの誓いを立てていました。それは、「私たちはだれも、娘をベニヤミンに妻として与えない。」というものです。イスラエル人はベニヤミン族との戦いには勝利しましたが、このことで、ベニヤミン族が消滅しかねない現実に悲しくなり、ベテルに来て、そこで神の前に座り、声をあげて激しく泣きました。ベニヤミン族は、女性も子どもも殺されてしまい、残っていたのは男子600人だけでした。しかし、その600人に自分たちの娘たちを妻として与えることはできません。そう誓っていたからです。

 

これはあのエフタの時の過ちと同じです。エフタは、アンモン人との戦いにおいて、「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」(士師11:30-31)と誓いを立てました。その誓いのとおりに、エフタがアンモン人を打ち破り家に帰ると、自分の家から出て来たのは、なんと自分のひとり娘でした。それで彼は、その誓った誓願のとおりに彼女に行いました。同じです。あの時、彼はなぜそのような誓願を立ててしまったのでしょうか。

おそらく、自分が家に帰ったとき、自分の家の戸口から迎えに出てくるのは自分のしもべたちの内のだれかだと思ったのでしょう。まさか娘が出てくるとは思わなかったのです。それに、アンモン人との戦いは激しさを増し、何としても勝利を得たいという気持ちが、性急な誓いという形となって表れたのでしょう。

 

ここでも同じです。ベニヤミン族との激しい戦いによって、イスラエル軍は二度の敗北を喫していました。そのような中で何としても勝利したいという思いが、こうした誓いとなって表れたのです。けれども、こうした神の前での誓いは、一旦誓ったら取り消すことができませんでした。こうした性急な誓いは後悔をもたらします。神へ誓いは、神に何かをしていただくためではなく、すでに受けている恵みに対する応答としてなされるべきですが、エフタにしても、この時のイスラエルにしても、自分たちの中にある不安が、こうした誓いとなって表れたのです。

 

このように軽々しく誓うことが私たちにもあります。自分の力ではどうすることもできないと思うような困難に直面したとき、「神様助けてください。もし神様がこの状況を打開してくださるのなら、私の・・・をささげます」とか、「自分の娘たちを嫁がせません」というようなことを言ってしまうことがあるのです。イエス様は「誓ってはいけません。」と言われました。誓ったのなら、それを最後まで果たさなければなりません。果たすことができないのに誓うということは、神との契約を破ることであり、神の呪いを招くことになります。イスラエルのこうした誓いは、結局、彼らに後悔をもたらすことになってしまったのです。

 

Ⅱ.ヤベシュ・ギルアデの娘たち(8-15)

 

それで彼らはどうしたでしょうか。8-15節までをご覧ください。

「そこで、彼らは「イスラエルの部族のうちで、どの部族がミツパに、主のもとに上って来なかったのか」と言った。見ると、ヤベシュ・ギルアデから陣営に来て、集団に加わっている者は一人もいなかった。民が点呼したところ、ヤベシュ・ギルアデの住民が一人もそこにいなかった。会衆は、一万二千人の勇士をそこに送って命じた。「行って、ヤベシュ・ギルアデの住民を剣の刃で討て。女も子どもも。これは、あなたがたが行うべきことである。すべての男、そして男と寝たことのある女は、すべて聖絶しなければならない。」こうして、彼らはヤベシュ・ギルアデの住民の中から、男と寝たことがなく、男を知らない若い処女四百人を見つけ出した。彼らは、この女たちをカナンの地にあるシロの陣営に連れて来た。そこで全会衆は、リンモンの岩にいるベニヤミン族に人を遣わして、彼らに和解を呼びかけた。そのとき、ベニヤミンが戻って来たので、ヤベシュ・ギルアデの女のうちから生かしておいた女たちを彼らに与えたが、彼らには足りなかった。民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである。」

 

そこで、イスラエルの子らは、イスラエルの全部族のうち、だれが、集団の一員として主のもとに上って来なかったのかを尋ねます。というのは、彼らは、もう一つの誓いを立てていたからです。それは、ミツパの主のもとに上って来なかったものについて、その者は必ず殺されなければならないというものでした。それで彼らは、ベニヤミンの残りの者たちに妻を迎えるために、その部族の者たちの中から妻として彼らに与えようと考えました。

 

すると「ヤベシュ・ギルアデ」(ヨルダン川の東岸の町)の者が参戦していなかっことがわかりました。それで彼らは、1万2千人の勇士をそこに送り、その町の住民を剣の刃で聖絶し、その中から男と寝たことがなく、男を知らない若い処女400人を見つけ出し、シロの陣営に連れて帰り、ベニヤミン族に与えました。しかし、ベニヤミンの残りの者は600人でした。連れて来られた娘たちは400人です。200人足りなかったのです。彼らは、自分たちの過ちを何とか埋めようと考えましたが、そうした人間的な方策で埋められるものではないことに気付きませんでした。

 

Ⅲ.シロの娘たち(16-25)

 

それで、イスラエルはどうしたでしょうか。最後に16節から25節までをご覧ください。

「会衆の長老たちは言った。「あの残った者たちに妻を迎えるには、どうすればよいか。ベニヤミンのうちから女が根絶やしにされたのだ。」また言った。「ベニヤミンの逃れた者たちに、跡継ぎがいなければならない。イスラエルから部族の一つが消し去られてはならない。しかし、自分たちの娘を彼らに妻として与えることはできない。イスラエルの子らは『ベニヤミンに妻を与える者はのろわれる』と誓っているからだ。」そこで、彼らは言った。「そうだ。毎年、シロで主の祭りがある。」──この町はベテルの北にあって、ベテルからシェケムに上る大路の日の昇る方、レボナの南にある──彼らはベニヤミン族に命じた。「行って、ぶどう畑で待ち伏せして、見ていなさい。もしシロの娘たちが輪になって踊りに出て来たら、あなたがたはぶどう畑から出て、シロの娘たちの中から、それぞれ自分のために妻を捕らえ、ベニヤミンの地に行きなさい。もし、女たちの父か兄弟が私たちに苦情を言いに来たら、私たちはこう言います。『私たちゆえに、彼らをあわれんでやってください。戦争のときに、私たちは彼ら一人ひとりに妻を取らせなかったし、あなたがたも娘を彼らに与えませんでした。もし与えていたなら、今ごろ、あなたがたは責めある者とされていたでしょう』と。」ベニヤミン族はそのようにした。彼らは女たちを自分たちの数にしたがって連れて来た。彼女たちは、彼らが略奪した踊り手たちであった。それから彼らは出かけて、自分たちの相続地に帰り、町々を再建して、そこに住んだ。イスラエルの子らは、そのとき、そこからそれぞれ自分の部族と氏族のもとに戻り、そこからそれぞれ自分の相続地に出て行った。そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

 

会衆の長老たちは互いに話し合います。ベニヤミンの残りの者たちに妻を迎えるには、どうすれば良いか。このままでは、ベニヤミン族が、イスラエルから消し去られてしまうことになる。でも、自分たちの娘を彼に与えることはできない。この戦いに上って来なかったヤベシュ・ギルアデから連れて来た若い女たちだけでは足りない。

そこで彼らは、毎年、シロで行われる主の祭りに出てくるシロの娘たちの中から、彼らに妻として与えることにしました。ベニヤミン族の男たちがぶどう畑で待ち伏せして、シロの娘たちが輪になって踊りに出て来たら、彼女たちを襲い、ベニヤミンの地に連れて行くようにと命じたのです。この祭りは、おそらく過越しの祭りでしょう。モーセの姉ミリヤムは、出エジプトの際に踊りましたが、それを覚えて踊っていたものと思われます。このように、彼らは娘たちを略奪して、自らの部族の再建に取りかかったのです。

 

果たしてこれが、この問題の解決にとって最善だったのでしょうか。彼らの性急な誓いが間違っていたことを認めて、罪過のためのいけにえをささげ、神に赦しを乞うことが必要だったのではないでしょう。しかし、彼らは自分たちの誤りを認めて、神の前に悔い改めるよりも、自分たちの手で解決しようと躍起になっていました。すべてが後手に回っています。いったい何が問題だったのでしょうか。

「イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」

これがすべての問題の原因です。イスラエルには王がいなかったので、それぞれが自分たちの目に良いと見えることを行っていました。神様の目に良いことではなく、自分たちの目に良いと思われることを行っていたのです。

 

これは何もイスラエルに限ったことではありません。私たちもイエス・キリストを王としていないと、このようなことが起こってきます。そして、すべてが後手に回ってしまうことになります。私たちが求めなければならないのはこうしたことではなく、神の目に正しいことは何かということです。神の目に正しいことは何か、何が良いことで神に受け入れられるのかということです。そのためには、いつも私たちの心にイエス・キリストを王として迎え、この方の御心に従って生きることです。この士師記全体を通して教えられることは、主をおのれの喜びとせよ、ということです。

「主に信頼し善を行え。地に住み誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:3-5)

主をおのれの喜びとすること、主を第一とし、主に従って生きることが、暗黒の中にあっても光の中をまっすぐに生きる秘訣なのです。

現代はまさに暗黒です。だからこそ、自分の思いや考えではなく、主を王として、おのれの喜びとすることが求められているのではないでしょうか。

出エジプト記5章

きょうは出エジプト記5章から学びたいと思います。モーセは、ホレブの山でアロンに会うと、エジプトにいるイスラエル人のところにやって来ました。そして、アロンが、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の前でしるしを行うと、民は信じました。そこで、モーセとアロンは、主に命じられたとおりエジプトの王ファラオのところに行き、イスラエルをエジプトから出て行かせるように言います。

1.もっと不利な状況に(1-9)

まず、1節から9節までをご覧ください。                                                                                                            「その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせようとしているのだ。」その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。しかも、これまでどおりの量のれんがを作らせるのだ。減らしてはならない。彼らは怠け者だ。だから、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くしたうえで、その仕事をやらせよ。偽りのことばに目を向けさせるな。」

いよいよモーセとアロンが、ファラオのところに行きます。彼らはファラオのところに行き、「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」と言いました。これはファラオに対する最低限の要求です。荒野で祭りを行えるように行かせてくれなければ、イスラエルをエジプトから去らせることは絶対にしません。神がイスラエルの民を救い出す理由は、礼拝する民を作るためでした。「祭り」とは「礼拝」のことです。「礼拝」は「祭り」でもあります。私たちの礼拝は、祭りとなっているでしょうか。

それに対してパロは何と言ったでしょうか。「主とはいったい何者か」、「私は主を知らない」と言いました。そして、イスラエルを行かせないと言いました。パロは生けるまことの神に対しても恐れを持っていませんでした。自分がどの神よりも偉大で、力があると思っていたのです。だから、「主とは何者か」とか、「なぜ自分がその神の命令に従わないのか」という傲慢な態度を取ったのです。それは、神を信じようしない現代人の姿ではないでしょうか。詩篇10篇4節にはこうあります。「 悪しき者は高慢を顔に表し神を求めません。「神はいない。」これが彼らの思いのすべてです。」神の存在と、その権威を認めない心、これが現代人の姿です。

するとモーセとアロンは言いました。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」

これは不思議な内容です。イスラエルを行かせなければ主がエジプトを打たれるのではなく、イスラエルを打たれるというのですから。それは、イスラエルが打たれれば、ファラオの奴隷であり、財産が失われてしまうという警告でした。

それに対するファラオの反応は、「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」(5)というものでした。ファラオは、イスラエルの民が仕事を止めているという報告を受けていたようです。でも、ファラオは彼らの言うことに全く聞く耳を立てませんでした。むしろ、苦役に戻るようにと命じました。そればかりではありません。6~9節を見ると、ファラオは、イスラエル人の労役を重くしたことがわかります。すなわち、イスラエルの民の監督たちとかしらたちに命じて、れんがを作るための藁を自分で集めに行くようにさせ、その量はこれまでと同じにしたのです。もっと過酷な労働を課したということです。それまではエジプト人が集めた藁を使ってれんがを作っていましたが、その藁も自分で集め、作る量はこれまでと同じというのですから。ファラオは、彼らに重労働を課せば、偽りの言葉に関心を持たなくなるだろうと思ったのでしょう。 

ここには、神の国と神の敵が対決する時に、神の民が苦しむという原則が見られます。主の働きが始まるとき、その働きとは反対の動きが起こるのです。神の働きに対して、敵である悪魔が反対するからです。それは主の勝利が決まるまで続きます。それによって、主の民が苦しむことがあるのです。

このようなことが、私たちクリスチャンにも起こります。私たちは、暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移された(コロサイ1:13)ので、神の敵から苦しめられることがあるのです。自分の問題が解決するのを期待して信仰を持つ人が多くいます。しかし、信じた瞬間に、光と闇との戦いの中に入れられるのでなかなか期待したような状況にならないばかりか、かえって苦しい状況になるため、多くの人たちが失望し、信仰から離れて行きます。クリスチャンの経験するジレンマは、神様の約束は与えられていてもそれが成就しない時に感じるものです。戦いはあります。でも、信じ続けましょう。神の約束は必ず実現するからです。

2.神の民の対応(10-21)

それでイスラエルの民はどのような態度を取ったでしょうか。10節から21節までをご覧ください。「そこで、この民の監督たちとかしらたちは出て行って、民に告げた。「ファラオはこう言われる。『もうおまえたちに藁は与えない。おまえたちはどこへでも行って、見つけられるところから自分で藁を取って来い。労役は少しも減らすことはしない。』」そこで民はエジプト全土に散って、藁の代わりに刈り株を集めた。監督たちは彼らをせき立てた。「藁があったときのように、その日その日の仕事を仕上げよ。」ファラオの監督たちがこの民の上に立てた、イスラエルの子らのかしらたちは、打ちたたかれてこう言われた。「なぜ、おまえたちは決められた量のれんがを、昨日も今日も、今までどおりに仕上げないのか。」そこで、イスラエルの子らのかしらたちは、ファラオのところに行って、叫んだ。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。彼らは、ファラオのところから出て来たとき、迎えに来ていたモーセとアロンに会った。彼らは二人に言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」」

「民を使う監督と人夫がしらたち」とは、エジプト人の監督たちのことです。彼らは出て言き、ファラオが言ったことを、民に伝えました。するとイスラエルの子ら(イスラエルの民のかしらたち)は、ファラオに訴えました。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」彼らは、れんがの生産量が落ちているのは、エジプト人の監督たちの責任であると訴えたのです。

それに対するファラオの回答は、予想外のものでした。17,18節、「ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」それで、イスラエルの子らは気付きました。このような命令を出していたのはエジプト人の監督や人夫がしらたちではなく、ファラオ自身によるものであったことを・・。彼らは、「これは悪いことになった」と思いました。

すると、彼らはどうしたでしょうか。20節と21節をご覧ください。彼らがファラオのところから出て来たとき、彼らを出迎えるために来ていたモーセとアロンにこう言いました。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」つまり、パロがこのような過酷な労働をイスラエル人に強いるのは、モーセとアロンが余計なことを言ってくれたためだと、彼らを責めたのです。モーセとアロンが「解放の約束」を語り始めたばかりに、状況はますます悪くなってしまった。これなら、以前のままの方が良かった、というのです。

ここにイスラエルの民のかしらたちと、モーセやアロンとの考え方に根本的な違いがあったことがわかります。それは、彼らを真に幸福にするものは何であるかという理解の違いです。民のかしらたちは、できるだけ苦しまないことが幸せであると考えていたのに対して、モーセとアロンは、この状態から解放されない限り真の幸福はない、と考えていました。そのことによってイスラエルの民がもっと苛酷な労働が強いられることになりましたが、そのことなしに真の救いはないと考えていたのです。

一般的に人は、今が楽しければよれで良いと考えます。しかし、一時的に苦しむことがあっても根本的な原因を解決しないかぎり、真の救いも幸福もありません。それは、病気の治療と同じです。おできができたとき、いつでも軟膏をはっておくことが最善の治療ではありません。時には痛くても手術をして、悪いうみを出し尽くしてしまわなければなりません。そのような根本的な解決のためには一時的に痛みが伴うことがあります。そして、そのような痛みをもたらす存在を、時として人は恨み、歓迎しない傾向にあるのです。モーセとアロンもそうでした。彼らは根本的な解決を願ってそれを実行に移そうとした瞬間、そうした同胞たちの誤解と、激しい反対に直面したのです。

3.モーセの祈り(22-23)

そこでモーセはどうしたでしょうか。22節と23節です。「それでモーセは主のもとに戻り、そして言った。「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。」」

これはどういうことでしょうか。「主のもとに戻り」というのはシナイ山に戻りということではなく、祈りの中において主に戻ったということです。彼は自分の窮状を主に訴えました。このモーセの祈りには、彼の落胆ぶりが見られます。

これは、私たちクリスチャンもよく味わうものです。なぜこのような苦痛を味わうことになるのでしょうか。その理由は、神がどのように働かれるのを人間の側で決めてしまうからです。イスラエル人たちの人夫かしらたちが落ち込んだのは、神を自分の思い通りに動かそうとしたからです。むしろ彼らは、新たな苦難の中で神がどのように働かれるのを待ち望むべきでした。私たちもまた、神を自分の思い通りに動かそうとしていることはないでしょうか。神はご自身の計画に従って働いておられます。私たちはそれを待ち望まなければならないのです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

神のご計画に従って召してくださった私たちのために、神が働いて最善を成してくださると信じましょう。それが私たちの思いと遠く離れたものであっても、神は完全な計画を持っておられますから、すべてを神にゆだねて、その計画が成されることを待ち望みたいと思います。

ヨハネの福音書6章60~71節「あなたがたも離れて行きたいのですか」

ヨハネの福音書6章から学んでおります。きょうは、60節から71節までの箇所から「あなたがたも離れて行きたいのですか」というタイトルでお話しします。ドキッとするタイトルですね。これは

12人の弟子たちに言われたことばです。イエス様から離れて行くということがあるのでしょうか。あるんです。実際にそういうことがありました。ですから、イエス様は12人の弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われたのです。これは何も当時の弟子たちだけのことではありません。初代教会以来いつの時代でも、ずっと起こって来た現象です。いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に御言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.離れて行った弟子たち(60-63)

 

まず60節から65節までをご覧ください。

「これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」

 

「これを聞いて」とは、主イエスがその前で語られたことを聞いて、ということです。主は、どんなことを語られたのでしょうか。53節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」もちろんイエス様は比喩的に語られたわけですが、このことばを聞いた時、弟子たちのうちの多くの者が、「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろう。」と言って、イエス様の許を去って行きました。このように言ったのは一般の群衆たちではありません。「弟子たち」と呼ばれていた人々です。この「弟子たち」とは、イエス様の12弟子のことではありません。イエス様には、12弟子の外側に「70人の弟子たち」と呼ばれる人たちがいました。また、さらにその外側に、さらに多くのイエス様に付き従う人たちがいました。そういう人たちもキリストの弟子と呼ばれていたのです。この時イエス様のもとを去って行ったのは、12弟子以外の者たちです。彼らはイエス様が語られたことを理解することができませんでした。

 

それは何もこれらの弟子たちだけのことではありません。今日でも、イエス様が語られたことばを理解することができず、イエス様から離れ去ってしまう人がいます。耳障りのよい話をしている間は、喜んで聞いていても、一旦、罪とか、裁きとかについて話し始めると、「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と言って、離れ去ってしまいます。一般的に当たり障りのない話をしているうちはいいですが、あなたは罪人ですとか、そのあなたの罪のためにキリストは十字架にかかって死んでくださいましたと言うと、そっぽを向いてしまうのです。多くの人は楽しいことを求めます。それ自体は何も問題ではありませんが、私たちが本当に幸福になるためには、ただ楽しいだけでなく、自分の罪を認め、その罪を悔い改めて、神の赦しをいただかなければなりません。それを嫌がるのです。あなたはどうでしょうか。

 

それに対して、イエス様はこう言われました。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。」

「わたしの話」とは、この前のところでイエス様が語られた話のことです。イエス様は、ご自分の肉を食べ、血を飲まなければ、いのちはないと言われました。その話が彼らをつまずかせるというのであれば、キリストが十字架で死なれた後、三日目によみがえり、天に昇って行かれるのを見たなら、いったいどうなるというのでしょう。もっとつまずくことになるのではないでしょうか。

 

なぜなら、いのちを与えるのは御霊だからです。肉は何の益ももたらしません。イエス様が彼らに話されたのは霊であり、またいのちです。これは霊的なことなのです。いくら人の肉を食べ、血を飲んだからと言っても、そんなものは人にいのちを与えることはできません。人にいのちを与えるのは、神の御霊です。ですから、イエス様が肉を食べるとか、血を飲むと言われたのは、比喩的な言い方で、霊的なことを表していましたが、彼らはそのことが理解できませんでした。

 

私たちもそのようなことがあるのではないでしょうか。イエス様が語られたことを理解できず、つまずいてしまうということ・・・が。イエス様が霊的なことを語っておられるのにそれを間違って理解して、そんな話など聞いていられないと、イエス様が語られた言葉を受け入れられないということがあるのではないでしょうか。

 

Ⅱ.信じない者たち(64-65)

 

次に、64節と65節をご覧ください。

「けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」」

 

「けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」これはどういうことかというと、確かに彼らは主のもとに来て、主の弟子であると自称していますが、本当は、イエスをメシヤとして信じていないということです。主を本当に信じていないので、主が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、いのちはありません」と言われた言葉につまずいたのです。つまり、彼らがつぶやいた本当の理由は、彼らに信仰がなかったからです。表面上は信じているようでも、実際はそうではなかったのです。

 

ドキッとしますね。信じているようで、実際はそうではないということがあるというのは。自分が本当に信じているかどうかをどうやって知ることができるでしょうか。みんなイエス様を信じたので洗礼を受けたんじゃないのですか?確かに、イエス様を信じたので洗礼を受けました。しかし、どのように信じたのかが問題です。イエス様がただ私たちのすばらしい模範者であるとか、その教えに感動して信じたということがあります。しかし、それは救いに至る信仰ではありません。私たちが救われて神の御霊によって新しく生まれるためには、私たちの罪のためにイエス様が十字架の上で死んでくださり、私たちの罪を贖ってくださったと信じなければなりません。そうでないと、永遠のいのちは与えられないのです。それが新しく生まれるということです。その時、神のいのち、聖霊が私たちの心に住まわれ、支配するようになります。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きるのです。私がどう思うかは関係ありません。キリストが何を言っておられるか、その御心は何かということです。イエス・キリストを救い主として信じて新しく生まれ変わった人はキリストがその心を支配するようになるので、キリストの言葉をもっと知りたいと思うようになるはずです。また、心から従いたいと思うようになります。それが、キリストの十字架の贖いを信じ、罪赦された人に見られる特徴です。私たちが救われているかどうかは、私たちがバプテスマ(洗礼)を受けているかとか、どれだけ教会に来ているかといったことと関係ないのです。この十字架のイエス・キリストを信じなければなりません。そうでないと、いのちはありません。

 

彼らはイエス様を信じていると思っていましたが、本当の意味で信じていませんでした。だから、イエス様の話を聞いたときつぶやいたのです。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と。それは、イエス様の話に問題があったからではなく、彼らが理解できなかったからです。もっと言うなら、彼らが本当の意味で救われていなかったからです。それを求めようともしませんでした。理解できなければ、「主よ、それはどういう意味ですか。あなたは真理のことばを持っておられます。私は何とか理解したいと願っていますので、どうか悟らせてください。あなたの真理を教えてください。」と祈ることができたはずです。それなのに、「だれがこんな話を聞いていられるか」と言うのは、初めから信仰がなかったからです。それが根本的な原因なのです。

 

しかも、その後を見ると、「信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。」とあります。どういうことでしょうか。これは、主が、すべての人の心の思いを知っておられたということです。つまり、イエス様が神であられるということを示しいます。イエス様は、私たちのように、群衆や見せかけの人気に惑わされることは決してありませんでした。「初めから」というのは、恐らく、「主の公生涯の初めから」という意味でしょう。つまり、多くの不信仰な人々が、自分は主の弟子であると最初に言った時からということです。もちろん、イエス様は神として、世の初めからすべてのことを知っておられました。しかし、ここでは必ずしもそういう意味で言われたのではないと思います。

 

それにしても、イエス様は多くの人々が信じないし、信じようともしていなかったのに、すべての人を例外なく愛し、忍耐をもって神の国の福音を教えられたということには教えられます。もしこの人は信じないということを最初から知っていたのなら、「どうせ話しても無駄だから」とか、「もっと必要としている人のために時間を使おう」と考えてもおかしくないのに、そうでない人のためにも、同じように仕えられたのですから、本当に忍耐と謙遜がありました。私もそういう牧師になりたいと願わされます。

 

そして、もっとすごいのは、その次にあることです。ここには何と「ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである」とあります。これは、イスカリオテのユダのことを指しています。イエス様は、彼が裏切ろうとしていることを知っていながら、ご自分の近くにいることを許しておられたのです。いや、ご自分の近くにいるどころか、ご自分の弟子たちの中でもその中核を成していた12弟子であることを許しておられました。これは、考えられないことです。自分の最も近くにいる人たちは、自分の心を許している人たちです。だからこそ、本当に信用できない人を置くことはしないはずです。それなのに主は、その人を最初から知っていながらも、自分の最も近くにいることを許されたのです。

 

このことから私たちにどんなことが言えるでしょうか。もしイエス様が、ユダがご自分の近くにいることを許されたのではあれば、私たちは私たちの家族や兄弟姉妹たちに対して、どれほど忍耐と寛容を示さなければならないかということです。私たちは、「もうここまで!」と自分で限界を定めてしまうことがよくあります。しかし、主がそのことでどれほどの苦しみと悲しみに耐えられたのかを思う時、私たちに耐えられないことはありません。「堪忍袋の緒が切れそうになる」という言葉がありますが、主の苦しみを思う時、私たちはまだまだ耐え抜かなければならないことを教えられるのではないでしょうか。

 

65節をご覧ください。「そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」」

これは、44節のところでイエス様が言われたことの繰り返しです。これは、この前の節でイエス様が言われた言葉の結びでもあります。「あなたがたの中には信じない人がいます。ですから、わたしはあなたがたに言ったのです。「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と」。すなわち、彼らが信じないのは、父なる神が彼らに恵みをお与えになっていないからです。彼らを御許に引き寄せておられないからなのです。

 

ここでもう一度、私たちが信仰を持つことができるのは、天の父なる神様が引き寄せてくださったからであることがわかります。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選びあなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(ヨハネ15:16)とあるとおりです。

ここに、私たちの信仰と救いの確かさがあります。私たちは自分で好きで信じたかのように思っているかもしれませんが、実はそうではなく、神が私たちを救いに選んでくださったのです。自分で好きで信じたのであれば、嫌になったら止めることもできるわけで、私たちに感情がある以上、そうした不安はいつもつきまといます。けれども、そうした中にあってどんなことがあっても、この方に信頼することができるのは私たちの中にそれだけの確信があるからではなく、神がそのように選んでくださったからです。神様はその確かさを次のように言って、私たちに約束しておられます。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません」(ヨハネ10:28-29)

なんと力強い約束でしょう。私たちは永遠に、決して滅びることはありません。私たちは神に愛されている者であり、神の御手の中にあるからです。だれも私たちを、父なる神の手から奪い去ることはできないのです。

 

今日でも十字架の言葉は、人々から歓迎されません。この歴史上最も偉大な人であったキリストの生き方を学び隣人愛を実践しなさいとか、この世の貧しい者たち、小さな者たちを大切にするようにといった教えは、何の抵抗もなく受け入れられるでしょう。でも、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったキリストを受け入れることはなかなかできません。この霊的真理を悟るためには、だれでも神の御霊に従順でなければなりません。霊的真理に目が開かれるように、御霊の神に助けを求めなければならないのです。そうすれば、父なる神は私たちをキリストのもとへて導いてくださいます。

 

Ⅲ.ペテロの信仰告白(66-71)

 

これに対して、12弟子たちはどのように応答したでしょうか。第三に、66節から71までをご覧ください。

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。」

 

試練により、あるいは誘惑によって、教会から離れて行く人がどんなに多いことでしょうか。非常に残念なことです。しかし、試練や誘惑が必ずしも人を神から遠ざけるわけではありません。むしろ、そのような時こそ、本物の信仰があるかどうかが試される時でもあります。12弟子の中の

11人の弟子たちにとっては、この危機が、信仰と献身を再確認する時となりました。「あなたがたも離れて行きたいのですか」という主の言葉に対して、ペテロは、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」と答えました。

 

彼はまず、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか」と答えています。皆さん、私たちはイエス様以外に、だれのところに行けるでしょう。この方以外にだれを信頼することができるでしょうか。この方によって罪から救い出されたということが本当に分かったのなら、この方から離れて行くことなど決してできません。私たちを罪から救うことのできる方が、他にいるでしょうか。私たちの罪を背負ってその罪の刑罰を代わりに受け、罪を贖ってくれる方は他にはいません。キリストの十字架の意味が分かったなら、あっちに行ったり、こっちに行ったりしてふらついたり、信仰が分からなくなったと離れていくことなどできないのです。確かに、そこには試練と迫害が伴うでしょう。しかし、もしキリストを捨てるとしたら、私たちはいったいだれのところに行けると言うのでしょうか。不信仰になればいいんですか。日本の昔からの伝統的な宗教を信じればいいのでしょうか。それとも、そうした宗教的なことは一切捨て、この世的なことを求めればいいのでしょうか。そうしたものが何かよりよいものを与えてくれるのでしょうか。いいえ、これらのものは決して与えることはできません。私たちに本当のいのちを与えくれるのは、私たちのために十字架にかかって死なれたイエス・キリストだけなのです。

 

次に、ペテロは、「あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」と言いました。つまり、キリストこそ、私たちに永遠のいのちを与える御言葉を持っておられるということです。イエス様は言われました。「わたしがいのちのパンです」(ヨハネ6:35)イエス様がいのちのパンです。いのちのパンであられるイエス様は、信じる者にいのちを与え、霊的満足を与えてくださいます。私たちを生かすいのちを与えるお方はイエス様以外にはいないのです。

 

そして、ペテロは最後にこのように言いました。「私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」

「神の聖者」とは、「神の御子」という意味です。ですからここは、「あなたは生ける神の御子キリストであると信じています」と訳しても良かったのです。英語ではそのように訳しています。

“Also we have come to believe and know that You are the Christ, the Son of the living God.”(NKJV)

これは、マタイの福音書16章16節で、ペテロが告白した内容と全く同じです。この時がどういう時であったのか、また、ユダヤ教の指導者たちのほとんどすべてに見られる不信仰を考えると、本当にすばらしい信仰告白であったと言えます。

 

ペテロはそのように信じていました。また、知っていました。普通はそのように知っているので、信じるのですが、ここでは逆です。信じているので、知っています。これが信仰です。信仰は知った上で信じるのではなく、信じることが先で、そうすると分かるようになります。頭で理解してから信じるというのであれば、理解できることしか信じられないでしょう。もちろん、ある程度キリストについて知る必要はあります。何も知らないで信じるというのであれば、それは鰯の頭も信心からで、妄想の類です。しかし、この方が信頼できると分かったら信じることです。そうすれば、この方がどういう方であるのかが分かるようになります。よく「まだこの聖書を全部読んでいないので信じられません。」という方がおられます。しかし、聖書を全部を読んだから信じられるというものではありません。読むことは大切なことですが、読んだから分かるというものでもないのです。でも、信じれば分かるようになります。ですから、ペテロのように、この方が私の罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくださったことで私の罪が贖われたということを知ったのなら、それが神の救いであると信じて受け入れることです。そうすれば、分かるようになります。

 

イエス様は最後のところで弟子たちにこう言われました。70節、71節です。「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。」

イエス様はなぜわざわざこんなことを言われたのでしょうか。それは、彼らに自分を吟味してほしかったからです。信仰の自己吟味です。こんなことを言われたら、それ以後の12弟子のたちのグループは疑心暗鬼になって、お互いへの不信感が募らせても不思議ではありませんが、そうならなかったところに、主の弟子たち一人一人に対する愛と配慮があったことが分かります。また、もしもよくない思いを抱くような者があっても、悔い改めるようにと促す主の愛の訴えであったことが分かります。

 

それは、私たちに対する主の訴えでもあります。「あなたがたも離れて行きたいのですか。」私たちは別にバックスライドしたくてするわけではありませんが、時として困難や試練があるとイエス様から離れてしまうことがないわけではありません。そんな時に私たちが覚えておかなければならないことは、あの人がどう言っているか、この人がどういっているかではなく、ペテロのように、「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白することです。あなたを愛し、あなたの罪の身代わりのために十字架で死んでくださったお方は、神の御子イエス・キリストだけです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

私たちはこの方から離れないで、いつまでもつながり、いのちを得る者とさせていただきましょう。

士師記20章

士師記20章からを学びます。まず1節から16章までをご覧ください。

 

Ⅰ.ミツパでの会合(1-16)

 

「そこで、イスラエルの子らはみな出て来た。ダンからベエル・シェバ、およびギルアデの地に及ぶその会衆は、一斉にミツパの主のもとに集まった。民全体、イスラエルの全部族のかしらたちが、神の民の集会に参加した。剣を使う歩兵も四十万人いた。ベニヤミン族は、イスラエルの子らがミツパに上って来たことを聞いた。イスラエルの子らは、「このような悪いことがどうして起こったのか、話してください」と言った。殺された女の夫であるレビ人は答えた。「私は側女と一緒に、ベニヤミンに属するギブアに行き、一夜を明かそうとしました。すると、ギブアの者たちが私を襲い、夜中に私のいる家を取り囲み、私を殺そうと図りましたが、彼らは私の側女に暴行を加えました。それで彼女は死にました。そこで私は側女をつかみ、彼女を切り分け、それをイスラエルの全相続地に送りました。これは、彼らがイスラエルの中で淫らな恥辱となることを行ったからです。さあ、あなたがたすべてのイスラエルの子らよ。今ここで、意見を述べて、相談してください。」そこで、民はみな一斉に立ち上がって言った。「私たちは、だれも自分の天幕に帰らない。だれも自分の家に戻らない。今、私たちがギブアに対してしようとすることはこうだ。くじを引いて、向かって行こう。 私たちは、イスラエルの全部族について、百人につき十人、千人につき百人、一万人につき千人を選んで、兵たちのための食糧を持たせよう。そしてベニヤミンのギブアに行かせ、ベニヤミンがイスラエルで犯したこのすべての恥ずべき行いに対して、報復させよう。」こうして、イスラエルの人々はみな団結し、一斉にその町に集まった。 イスラエルの人々は、ベニヤミンを除き、剣を使う者四十万人を召集した。彼らはみな戦士であった。」

 

「そこで」とは、19章で起こった出来事を受けてのことです。イスラエルに、これまで見たことも、聞いたこともないような事件が起こりました。ベニヤミン族のギブアの人たちが、そこに泊まったレビ人のそばめを犯し、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるころに彼女を解放したのです。それでそばめは死んでしまいました。そのレビ人は自分の家に着くと、死んだそばめの体を12の部分に分け、それをイスラエル全土に送りました。それを見た者はみな、「イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談し、意見を述べよ。」と言いました。「それで」です。

 

それで、イスラエルの子らはみな、一斉にミツパの主のもとに集まり、問題解決のために話し合いました。「ミツパ」は、ベニヤミン族の領地のエフライムとの北境にある町です。そこにイスラエルの全部族から、剣を使う兵士40万人が集まったのです。

イスラエルの子らが、そばめを殺されたレビ人に、「どうしてこのような悪ことが起こったのか」と聞くと、そばめを殺されたレビ人は、ギブアに滞在した日の夜に起こった出来事について説明しました。そして、「さあ、あなたがたすべてのイスラエルの子らよ。今ここで、意見を述べて、相談してください。」と言いました。非は確かにギブアの住民にありました。しかし、この会話をよく見ると、彼は自分のそばめを外に放り出したことについてはいっさい触れていません。自分に都合の悪いことは伏せておきたいというのが人間の本性なのでしょう。

 

それに対してイスラエルの民はみな一斉に立ちあがり、一致団結してギブアに立ち向かい、彼らを報復させることを決定しました。彼らは、ベニヤミン族に対して、ギブアにいるあのよこしまな者たちを渡すように要請します。イスラエルは、悪い行いをした者だけ除き去ろうとしたのです。しかし、ベニヤミン族は、自分たちの同胞イスラエルの子らの言うことを聞こうとしませんでした。それどころか、イスラエルの子らと戦おうとして町々から出てきたのです。その数は剣を使う者26,000人と、そのほかに、ギブアの住民から700人の精鋭が招集されました。ここにイスラエル40万人と、ベニヤミン族26,700人との戦いが勃発したのです。

 

これは予想外の展開でした。イスラエルとしては戦いを避けるためにギブアにいるあのよこしまな者たちを渡すようにと要請しましたが、まさかベニヤミン族との戦いに発展するとは思っていなかったのです。これは最悪の事態でした。この事態を避ける道はなかったのでしょうか。もしイスラエル人たちがもう少し時間をかけて話し合ったなら、別な展開になっていたかもしれません。けれども、イスラエルの人たちは、明らかに相手が悪いという思いがありました。ですから、ギブアに向かって立ち向かい、報復させようという思いがあったのです。自分を義として性急にことを運ぶのは危険です。伝道者の書7章16節にはこうあります。

「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。」

私たちも自分には何の非もなく悪いのは相手であると思うと、このような態度になりがちです。そうではなく、自分も罪赦された罪人であることを自覚して、同じ目線で話し合いに臨む必要があります。

 

Ⅱ.主の戦い(18-35)

 

次に、18節から35節までをご覧ください。

「イスラエルの子らは立ち上がって、ベテルに上り、神に伺った。「私たちのうち、だれが最初に上って行って、ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」主は言われた。「ユダが最初だ。」朝になると、イスラエルの子らは立ち上がり、ギブアに対して陣を敷いた。イスラエルの人々はベニヤミンとの戦いに出て行き、彼らと戦うためにギブアに対して陣備えをした。ベニヤミン族はギブアから出て来て、その日、イスラエルのうち二万二千人を滅ぼした。しかし、イスラエルの人々の軍勢は奮い立って、最初の日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをした。イスラエルの子らは上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺った。「再び、同胞ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。」そこで、イスラエルの子らは次の日、ベニヤミン族に向かって行ったが、ベニヤミンも次の日、ギブアから出て来て彼らを迎え撃ち、再びイスラエルの子らのうち一万八千人をその場で殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。イスラエルの子らはみな、こぞってベテルに上って行って泣き、そこで主の前に座り、その日は夕方まで断食をし、全焼のささげ物と交わりのいけにえを主の前に献げた。イスラエルの子らは主に伺った──当時、神の契約の箱はそこにあり、また当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた──イスラエルの子らは言った。「私はまた出て行って、私の同胞ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それとも、やめるべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたがたの手に渡す。」そこで、イスラエルはギブアの周りに伏兵を置いた。三日目にイスラエルの子らは、ベニヤミン族のところに攻め上り、先のようにギブアに対して陣備えをした。ベニヤミン族は、この兵たちを迎え撃つために出て、町からおびき出された。彼らは、一方はベテルに、もう一方はギブアに至る大路で、この前のようにこの兵たちを討ち始め、イスラエルのうちの約三十人が野で剣に倒れた。ベニヤミン族は「彼らは最初の時と同じように、われわれの前に打ち負かされる」と考えた。しかし、イスラエルの子らは「さあ、逃げよう。そして彼らを町から大路におびき出そう」と言った。イスラエルの人々はみな、持ち場から立ち上がって、バアル・タマルで陣備えをした。一方、イスラエルの伏兵たちは、自分たちの持ち場、マアレ・ゲバから躍り出た。こうして、全イスラエルの精鋭一万人がギブアに向かって進んだ。戦いは激しかった。ベニヤミン族は、わざわいが自分たちに迫っているのに気づかなかった。主がイスラエルの前でベニヤミンを打たれたので、イスラエルの子らは、その日、ベニヤミンの二万五千百人を殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。」

 

するとイスラエルの子らは立ちあがって、ベテルに上って行き、そこで神に伺いました。「私たちのうち、だれが最初に上って行って、ベニヤミンと戦うべきでしょうか。」すると主は言われました。「ユダが最初だ。」ユダ族にはかつてカレブという勇者がいました。また、最初の士師として立てられたオテニエルもそうです。このユダ族の出身でした。ですから、信仰の勇士であったユダ族こそ最初に上っていく部族としてふさわしかったのでしょう。しかし、最初の日、イスラエルのうち22,000人が戦死してしまいました。

 

翌日、イスラエルの軍勢は奮い立って、最初の日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをします。彼らは上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺いを立てて言いました。「再び、同族ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。」彼らは同胞を相手に戦わなければならないことに不安を感じていたのでしょう。できれば避けて通りたいところです。けれども、主の答えは、「攻め上れ。」でした。そこで彼らは次の日、ベニヤミン族に向かって行きましたが、ベニヤミン族もギブアから出て来て彼らを迎え撃ったので、再びイスラエルの子らのうちに18,000人の犠牲者が出ました。これらはみな、剣を使う戦士たちでした。

 

そこでイスラエルの民はどうしたでしょうか。彼らはみな、こぞってベテルに上って行って泣き、そこで主の前に座って、夕方まで断食をし、全焼のいけにえと交わりのいけにえを主の前に献げました。今度はミツパではなく、場所がベテルに移っています。ベテルはミツパの北東約5㎞のベニヤミンの領地にある町です。ここは、かつてヤコブがエサウから逃れて叔父のラバンの所に行く途中石を枕にして一夜を過ごしたところです。どうしてベテルに上って行ったのかというと、神の契約の箱がそこにあったからです。シロから移っていたのでしょう。また当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていました。ここに神の幕屋があったということです。ですから、彼らは主のもとに行って礼拝をささげ、断食して祈りながら、主のみこころを求めたのです。泣きながら。

 

このような祈りを、主はないがしろにされることはありません。ユダの王ヒゼキヤは、病気にかかって死にかけていたとき、「あなたは死ぬ。直らない。」(イザヤ38:1)と死の宣告を受けましたが、彼は主のもとに行き泣きながら祈ると、その祈りが聞かれ、彼の寿命に15年が加えられました。さらに、ユダをアッシリヤの手から救い出し、エルサレムの町を守るという約束まで与えられました。私たちも困難な時に主の前に行き、心を注ぎ出して祈るなら、主はその祈りに答えてくださいます。

 

最近、このイザヤ書のメッセージを見た方からメールがありました。

「ディボーションがイザヤ書で難しかったのでネットで検索したところ、こちらのページのメッセージを読みました。凄い恵まれました。ヒゼキヤの祈りです。壁に当たった時に神のあわれみで救われた時のことを思い出しました。好きになった女性は、既に他の人と結婚が決まっていました。ただただ毎日、誰もいない教会で神と自分とひたすら向き合いました。自分の思いを神の御前に正直に打ち明けました。何日か経ったクリスマスの日に、彼女と偶然出会わせ、彼女に自分の思いを伝えました。今では、子どもも3人産まれ、毎週家族5人で日曜日に教会へ通っております。今の妻が当時の彼女です。」

 

この方は、人生の壁にぶつかった時、神のあわれみを求めて祈った結果、神の奇跡的な御業を体験したのです。このイスラエルの民も一度ならず二度までも戦いに敗れ、神の導きがどこにあるのかわからなかったとき、主の前に出て、心を注いで祈りました。「私はまた出て行って、私の同胞ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それとも、やめるべきでしょうか。」

すると、主はこう言われました。「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたがたの手に渡す。」それで、イスラエルはギブアの周りに伏兵を置きました。

三日目のことです。イスラエルの子らは、ベニヤミン族のところに攻め上り、先のようにギブアに対して陣備えをしました。今度は、敵をおびき出す作戦を取り、ついにベニヤミン族の兵士25,000人が剣に倒れました。

 

35節には、「主がイスラエルの前でベニヤミンを打たれたので、イスラエルの子らは、その日、ベニヤミンの二万五千百人を殺した。」とあります。これは、主の戦いでした。主がベニヤミンをさばくための戦いであったということです。神の民であっても、自分の罪を悔い改めなければ、このベニヤミン族のように滅ぼされてしまうことになります。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)なぜなら、その罪に対する神の怒りは、御子イエスの上に向けられたからです。大切なのは、私たちがどこまでも頑なになるのではなく、主の御声を聞いて悔い改めることです。へブル4章7節に、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」とあるとおりです。まだ安息は残されています。その安息に入るために、今日、もし御声を聞くなら、心を頑なにせず、従順になって、主に聞き従う者になろうではありませんか。

 

Ⅲ.救われるため(36-48)

 

最後に、36節から48節を見て終わります。

「ベニヤミン族は、自分たちが打ち負かされたのを見た。イスラエルの人々はベニヤミンに陣地を明け渡した。それは、ギブアに向けて備えていた伏兵を信頼したからであった。伏兵は急いでギブアを襲った。伏兵はその勢いに乗って、町中を剣の刃で討った。イスラエルの人々と伏兵の間には合図が決められていて、町からのろしが上がったら、イスラエルの人々が引き返して戦うことになっていた。ベニヤミンが攻撃を始めて、剣に倒れる者が約三十人、イスラエルの人々の中に出たとき、彼らは「きっと前の戦いの時と同じように、彼らはわれわれに打ち負かされるに違いない」と考えた。のろしが煙の柱となって町から上り始めた。ベニヤミンがうしろを振り向くと、見よ、町全体が煙となって天に上っていた。そこへイスラエルの人々が引き返して来たので、ベニヤミンの人々はわざわいが自分たちに迫っているのを見て、うろたえた。彼らはイスラエルの人々の前から逃れて荒野の方へ向かったが、戦いは彼らに追い迫り、町々から出て来た者も合流して彼らを殺した。イスラエルの人々はベニヤミンを包囲して追いつめ、メヌハから、東の方の、ギブアの向こう側まで踏みにじった。こうして、ベニヤミンの一万八千人が倒れた。これらはみな、力ある者たちであった。またほかの者は荒野の方に向かってリンモンの岩まで逃げたが、イスラエルの人々は、大路でそのうちの五千人を討ち取り、なお残りをギデオムまで追いかけて、二千人を打ち倒した。 その日、ベニヤミンの中で倒れた者は剣を使う者たち合わせて二万五千人で、彼らはみな、力ある者たちであった。しかし、六百人の者は荒野の方に向かってリンモンの岩に逃げ、四か月の間、リンモンの岩にとどまった。イスラエルの人々は、ベニヤミン族のところへ引き返し、無傷のままだった町も家畜も、見つかったものをすべて剣の刃で討ち、また見つかったすべての町に火を放った。」

 

ベニヤミン族は、自分たちが打ち負かされたのを見ました。ギブアの町にイスラエル軍の伏兵が入って、そこにいる者を打ちまくり、のろしを上げたのです。ベニヤミン族はイスラエルの人々の前から逃れて荒野の方へ向かいましたが、戦いは彼らに追い迫り、町々から出て来た者も合流して彼らを殺しました。こうして、ベニヤミンの18,000人が倒れました。これらはみな、力ある者たちでした。またほかの者は荒野の方に向かってリンモンの岩まで逃げましたが、イスラエルの人々は、大路でそのうちの5,000人を討ち取り、なお残りをギデオンまで追いかけて、二千人を打ち倒しました。結局、その日、ベニヤミンの中で倒れた者は剣を使う者たち合わせて25,000人で、彼らはみな、力ある者たちでした。しかし、600人の者は荒野の方に向かってリンモンの岩に逃げ、四か月の間、リンモンの岩にとどまったので、イスラエルの人々は、ベニヤミン族のところへ引き返し、無傷のままだった町も家畜も、見つかったものをすべて剣の刃で討ち、また見つかったすべての町に火を放ちました。

 

これは、ヨシュアがエリコに対して行ったのと同じです。「聖絶」です。かつてはカナン人に対して行われた「聖絶」が、今度は12部族の一つであるベニヤミン族に対して行われたのです。なぜそこまでする必要があったのでしょうか。このように行うことが本当に正しかったのでしょうか。21章15節には、「民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである」とあります。そうです、これは主から出たことでした。たとえ神の民であったとしても、神に背いて罪を犯すなら、このような神のさばきがあることを覚えておかなければなりません。

 

しかし、それは世が神様によって裁かれるのとは大きな違いがあります。パウロは、信者が裁かれることについてこう言っています。「私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。」(Ⅰコリント11:32)」つまり、確かに懲らしめはあるけれども、それは罪に定めるためではなく、むしろ世と共に罪に定められることのないようにするためです。つまり、懲らしめによって罪から離れて救われるためなのです。

 

パウロは、コリントの教会で、父の妻を妻にしている者に対してどうすべきなのかについて次のように述べています。「現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。 それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(Ⅰコリント5:1-5)

パウロは、一般の人々よりひどい不品行を犯していたコリントの人たちをサタンに引き渡しました。問題は、それは何のためであったかということです。ここには、「それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」とあります。その証拠に、コリント人への第二の手紙で、悲しみで押しつぶされそうになっているこの兄弟を、教会が赦し、受け入れるように勧めています(Ⅱコリント2:3-11)。これが、兄弟が罪を犯した時に教会が取るべき態度です。確かにそれは悲しいことですが、教会が考えなければならないことはその人をさばくことではなく、どうしたら救われるのかということです。そのためには時には懲らしめも必要となりますが、それは、それによって彼の霊が主の日に救われるためであるということを十分理解して行わなければなりません。

 

いずれにせよ、こうした問題が神の民の中に起こるのは悲しいことです。いったいどこに問題があったのでしょうか。この士師記の最後の所にはこうあります。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」これが問題です。イスラエルに王がいないということです。だから、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていました。これが問題です。私たちはこのようなことがないように、まず主イエス様を私たちの心にお迎えし、この方を王としなければなりません。そして、自分の目に正しいことではなく、主の目に正しいことを求めなければなりません。いつも主のみこころにかなった歩みができるように、日々、主ご自身を求めましょう。