ルツ記2章

きょうは、ルツ記2章から学びます。まず1節から3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.はからずも(1-3)

 

「さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。」

 

モアブの野から戻って来たナオミとルツはどうなったでしょうか。ルツはベツレヘムに着くと、ナオミに言いました。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいたのです。その人の名はボアズです。彼女は、その人の畑に行かせて、落ち穂を拾い集めさせてほしいと言いました。落ち穂拾いとは、収穫が終わった畑に落ちている麦の穂を集めることです。律法には、貧しい人や在留異国人が落ち穂を拾うことができるように、すべてを刈り取ってはいけない、というおきてがあります。レビ記19章9-10節です。

「あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

ルツは、神のおきてをよく知っていて、それに従ってナオミと自分の生計を立てようと考えたのです。彼女は、ナオミにそうするようにと言われたから出かけて行ったのではなく、自分の方からそのように申し出ました。

 

ナオミが、「娘よ、行っておいで」と言うと、ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めましたが、何とそれは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑でした。「はからずも」という言葉は、それが偶然のことではなく、そこに神の御手が働いていたことを表しています。ルツが行った畑はボアズという人の畑でした。彼は、エリメレクの一族に属する人、つまり、ナオミの夫の親戚にあたる人で有力者でした。「有力者」であったというのは単に資産家であったというだけでなく、神に従い、人格的にも優れた人物であったということを意味しています。このボアズの畑に導かれたのです。

 

私たちの人生にも、神の御手が働いています。私たちが、日々、主の御声を聞き従いながら歩んでいると、主は次の進むべき道を開いてくださいます。多くの人は、自分に対する神のご計画がよくわからないと言いますが、ルツのように今神から示されていることに忠実に従っていくなら、神は、ご自身の御業を表してくださるでしょう。

 

Ⅱ.主の慰め(4-16)

 

するとどのようなことが起こったでしょうか。4節から16節までをご覧ください。12節までをお読みします。

「ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。ボアズは、刈る人たちの世話をしている若い者に言った。「あれはだれの娘か。」刈る人たちの世話をしている若い者は答えた。「あれは、ナオミと一緒にモアブの野から戻って来たモアブの娘です。彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」

 

「ちょうどそのとき」、ボアズがベツレヘムからやって来て、ルツたちが働いていた畑にやって来ました。すると彼は刈る人たちに、「主があなたがたとともにおられますように。」とねぎらいの言葉をかけました。すると、刈る人たちは「主があなたを祝福されますように。」と答えています。実に麗しい関係ですね。ボアズは心から神を慕い求め、神の言葉に生きていました。そんな彼を、しもべたちも尊敬していたのです。

 

するとボアズはルツに目を留め、刈る人たちの世話をしている若い者に、「あれはだれの娘か」と聞きました。勤勉に働いている姿に目が留まったのか、見た瞬間に美しい人だと思ったのかはわかりません。その若い者がルツについて知らせると、ボアズはその献身的な姿に感動し、ルツに、自分のところの若い女たちのそばを離れず、彼女たちの後について行くように、と言いました。そればかりではありません。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲むように、と言いました。ルツを労り、外国人であるがゆえの嫌がらせを受けないように取り計らってくれたのです。

 

ルツは顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言いました。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」すると、ボアズは答えて言いました。

「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(11-12)

ボアズは、この一連のルツの行動が、単にナオミに対する愛情だけではなく、イスラエルの神、主に対する信仰から出たものであると受け止め、主がその行為に報いてくださるようにと祈っています。つまり、ルツがその翼の下に身を避けようとしてやって来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように、と祈ったのです。

 

この言葉には本当に慰められます。私たちは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)私たちもイエス・キリストを通してイスラエルの神の翼の下に避け所を見出した者です。つまり、このボアズの姿は、イエス・キリストの姿を表していたのです。キリストこそ私たちの避け所です。その主に身を避ける者は幸いです。その人は、主から豊かな報いを受けることができるからです。

 

それに対して、ルツはこう答えています。13節です。

「彼女は言った。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」

ルツは、自分が、このような取り計らいを受けるに値しない者であることを知っていました。ボアズが雇っているわけでもない娘です。それにモアブ人でした。本来なら追い出されても仕方ない者であるにもかかわらず、ボアズの特別な計らいと好意にあずかることができました。このように、受けるに値しない者が受けることを「恵み」と言います。私たちも、神の民となるには全く値しない者であったにもかかわらず、神の民となりました。それは私たちに何かそれだけの価値があったからではなく、そうでないにもかかわらず、イエス・キリストの十字架の贖いを信じたことによって、そのようにさせていただけたのです。そうです、私たちが救われたのは、一方的な神の恵みによるのです。

 

14節から16節までをご覧ください。

「食事の時、ボアズはルツに言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る人たちのそばに座ったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若い者たちに命じた。「彼女には束の間でも落ち穂を拾い集めさせなさい。彼女にみじめな思いをさせてはならない。それだけでなく、彼女のために束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい。彼女を叱ってはいけない。」

 

ボアズはルツに、パン切れを酢に浸して食べるように勧めています。また、炒り麦を取って、彼女に与えています。そして、ルツが知らないところでも、ボアズは、ルツに良くしています。彼は若い者たちに、たくさん穂が落ちる束の間から拾い集めさせ、彼女にみじめな思いをさせてはならない、と言いました。それだけでなく、彼女のためにわざと束から穂を抜き落としておくようにさせました。

このように、ルツは、ボアズをとおして、主から大きな慰めを受けました。これが、私たちが主からうける慰めです。私たちが主イエス・キリストに従うと決心したことで、確かに今まで慣れ親しんできた習慣から離れ、これまでの仲間から離れることで寂しい思いをすることがあるかもしれませんが、そのことによって私たちは主との深い交わりの中に入れていたたき、主の深い配慮にあずかるようになったのです。確かにルツは、自分の家族を失ったかもしれません。頼りにすることはできない、モアブ人の神々を頼りにすることもできません。けれども、主ご自身との個人的な関係、愛し合う関係を得たのです。これが、主にお従いする者にもたらされる報いです。

 

Ⅲ.帰宅して(17-23)

 

最後に17節から23節までをご覧ください。

「こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。集めたものを打つと、大麦一エパほどであった。彼女はそれを背負って町に行き、集めたものを姑に見せた。また、先に十分に食べたうえで残しておいたものを取り出して、姑に渡した。姑は彼女に言った。「今日、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女は姑に、だれのところで働いてきたかを告げた。「今日、私はボアズという名の人のところで働きました。」ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主、その方を祝福されますように。」ナオミは、また言った。「その方は私たちの近親の者で、しかも、買い戻しの権利のある親類の一人です。」モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、うちの若い者たちのそばについていなさい』と言われました。」

ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ、それは良かった。あの方のところの若い女たちと一緒に畑に出られるのですから。ほかの畑でいじめられなくてすみます。」それで、ルツはボアズのところの若い女たちから離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女は姑と暮らした。

 

こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めました。集めたものを打つと、大麦一エパほどでした。大麦一エパとは23リットルです。ボアズの配慮があったとはいえ、これは大変な量です。彼女はそれを家に持って帰り、姑のナオミに見せました。また、それとは別に、十分に食べから残しておいた炒り麦を、ナオミに渡しました。驚いたナオミはルツに、どこで落ち穂を拾い集めたのかを聞くと、ルツが、ボアズという人のところですと答えたので、ナオミはさらに驚きました。ボアズはナオミの近親者で、買戻しの権利のある親戚のひとりだったからです。

 

買戻しの権利とは、だれかが所有していた土地が売られてしまい。それを再び自分のものにするとき、代価を払って買い戻すことを言います。レビ記25章25節には、「もしあなたの兄弟が落ちぶれて、その所有地を売ったときは、買い戻しの権利のある近親者が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」とあります。この権利については3章でもう少し詳しく学びたいと思いますが、ボアズは、その買戻しの権利のある親戚のひとりだったのです。

 

ルツは、その方がこれからも自分の畑に来るように、と言ったことを伝えると、ナオミは「それは良かった」と答えました。ほかの畑でいじめられなくてすむからです。それで、ルツはボアズのところの若い女たちから離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂を拾い集めました。こうして、彼女は姑と暮らしたのです。

 

ナオミとルツがモアブの野からベツレヘムに戻って来た時には、これから先どうなるか全くわかりませんでした。ナオミは自分を「ナオミ」と呼ばないで、「マラ」と呼んでください、と言いました。全能者である神が大きな苦しみにあわせたのですから。でも、その全能者であられる神が、ルツを通して彼女に報いてくださいました。はからずも、ルツはボアズの畑へと導かれたのです。誰がそのようになることを想像することができたでしょうか。しかし、話はそれで終わりません。それよりももっとすごいことになっていきます。人類の救済の歴史へと発展していくのです。これが神の世界です。人間の目では八方塞がりのような状況でも、そこに神の御手があるなら、私たちの知らない大いなることがそこに広がっていくのです。大切なのは、ルツが神の導きに忠実に従っていったように、今自分の目に広がっていることを自分に与えられた神の計画として受け止め、それに従っていくことです。私たちの信仰の道は必ずしも自分が思い描いたようには進んでいないかのように見えるかもしれませんが、主はあなたの信仰に報いてくださいます。雌鳥がその翼の下に身を避けるように、あなたの人生をかくまってくださるのです。これが主を信じて歩む私たちに与えられている約束なのです。

ヨハネの福音書7章37~39節「生ける水の川」

きょうは、「生ける水の川」というタイトルでお話しします。「生ける水の川」とは、39節にあるように、イエスを信じる者が受けることになる御霊のことです。イエスを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、この生ける水の川が流れ出るようになるのです。これが、私たちのいのちです。創世記を見ると、そもそも人は神のかたちに創造されました(創世記1:27)。この「神のかたち」とは、「霊」のことを意味しています。神は霊ですから、その神と交わりを持つことができるように、人は霊を持つものとして造られたのです。これが人のいのちです。ですから、私たちは神に祈り、神を礼拝するとき、「ああ、生きている」という感じることができるのです。これがないと、私たちはいったい何のために生きているのかもわからず、ただ目先のものに振り回されながら生きることになります。それは本当に空しいことです。人は神の御霊を受けることで生きることができ、それは生ける水の川のように、その人の心の底から流れ出るようになるのです。

どうしたらその生ける水を受けることができるのでしょうか。きょうはこのことについて、聖書のみことばから学びたいと思います。

 

Ⅰ.だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい(37)

 

まず37節をご覧ください。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

 

この祭りとは「仮庵の祭り」です。イエス様は、兄弟たちがこの祭りに上って行った後で、ご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれました(10)。そして、祭りも半ばになったころ、宮に上って教え始められました(14)。それから36節まで、ずっとユダヤ人たちとの間に議論が続きました。そして、この祭りの大いなる日に、イエスは立ちあがり、大きな声で言われたのです。この「祭りの大いなる日」とは、仮庵の祭りの最終日、つまり7日目のことです。この日は、祭りのクライマックスの日でした。それまでの6日間、祭司たちは行列を作ってシロアムの池まで出かけて行き、そこで黄金の器に水を汲んで神殿に戻ってくると、祭壇の周りを1度だけ回って水を注ぎました。しかし、祭りの最終日の7日目は、昔エリコの城壁の周りを7回回ったように、祭壇の周りを7回周り「ホザナ」と歌いながら祭壇に水を注ぎました。それは、主が雨を降らせ、豊かな収穫を与えてくださったことに感謝すると同時に、翌年の豊かな雨を祈願するためでした。その祭りが最高潮に達した時に、イエスは立ち上がって、大きな声でこう言われたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

前回の時にも申し上げたように、主が大声で語られるというのは非常に珍しいことです。これはそれだけ重要なことであることを表しています。それが「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」ということでした。これはどういうことでしょうか。

 

こ意味は一つしかありません。それはだれでも魂が渇いている人がいるなら、その渇きを癒すためにキリストのもとに来て飲みなさいということです。主がこのように言われたのは、この仮庵の祭りの時、シロアムの池から水が汲まれ、それが神殿に運ばれ祭壇に注がれるというタイミングでのことでした。主はかつてサマリヤの女に「決して渇くことにない永遠のいのちへの水」について語られましたが、その時井戸の水から話を進めて行ったように、この時もシロアムの池から汲まれてくる水を見て、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。もちろん、イエス様がここで言及しておられるのは飲み水のことではなく、「霊的な水」のことです。ですから、ここで「渇いているなら」というのは、のどが渇いていることではなく心が渇いているなら、という意味です。人々の関心は、水と収穫、すなわち物質的なものに向けられていましたが、イエス様の関心は、霊的な水、霊的な渇きを満たすことだったのです。

 

では、心が渇くとはどういうことでしょうか。私たちはみな欲望を持っています。欲望それ時代は悪いものではありません。しかし、欲望が満たされればそれで幸福になれるかというとそうではありません。お金にしても、物にしても、地位にしても、名誉にしても、そうしたものを手に入れることで、一時的な満足は得られるかもしれませんが、それで本当の満足は得られないのです。

 

映画「風と共に去りぬ」の主演男優であったクラーク・ゲーブルは、ある朝、むなしく疲れ果て、自分のベッドで自殺死体として見つかりました。彼はオスカー賞を何度も取りました。幸せを求めて5回も結婚しました。彼にはお金もあり、恋もあり、名誉もあり、人気もありました。私たちから見れば、彼は自分が求めたこの世のすべての物を手にしたかのように見えましたが、そんな彼が、なぜ自殺しなければならなかったのでしょうか。飢え渇いたその魂を、この世のもので満たすことはできなかったのです。

 

私たち人間は、神のかたちにかたどって造られていますから、神のみもとに帰るまでは、決して満ち足りることはないのです。神のみもとから離れ罪の中にある人間は、自分の魂が満足するどころか、不安と苦悩でおののいています。罪の中にある人間は、その罪の赦しを経験することなしに魂の渇きが癒されることはないのです。

 

ですから、イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。ここで注目したいことは、主が招いておられる人はどのような人であるかということです。それは「だれでも渇いている人」です。つまり、魂が渇いている人です。それは自分の罪を自覚し、その罪の赦しを求め、魂の平安を切望している人のことです。渇いていなければだれも飲みたいと思いません。空腹でなければ食べたいとも思いません。自分が罪人であると自覚し、その罪から救われたいと本気願う人だけが、そのためにどうしたら良いのか求めるようになるのです。

 

もうすぐペンテコステですが、あのペンテコステの日にペテロの説教を聞いた人々はどうだったでしょうか。彼らは心を刺され、ペテロとほかの使徒たちにこう言いました。

「兄弟たち、私たちはどうしたら良いでしょうか。」(使徒2:37)

これが渇いている人のことばです。また、パウロとシラスがピリピの牢獄に入れられた時、真夜中に、神を賛美していたとき、突然大きな地震が起こり牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、囚人たちの鎖が外れてしまいました。目を覚ました看守は、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした時、パウロは大声でこう叫びました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」すると看守は、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏してこう言いました。

「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(使徒16:30)

これが渇いた人のことばです。それでパウロとシラスが、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)と言うと、彼と彼の家族の者全員が、その言葉を受け入れてバプテスマを受けました。

このような渇きが、彼らをそこからの解放、すなわち、魂の救いへと向かわせたのです。「渇く」ということがなければ、満たされることはありません。

 

私たちが救われるために必要な第一のことは、私たちが渇くということです。私たちは罪を犯した、価値のない、貧しい罪人であるということを知ることです。私たちは失われた者であることを知るまでは、救いへの道を歩み出すことはしないからです。天国への第一歩は、私たちは地獄に行っても当然であるということを、はっきりと自覚することにほかなりません。罪の意識は、時として自分が救いようもない人間であるという思いを抱かせますが、実は、これが尊いことなのです。なぜなら、それこそ救いに向かう第一歩となるからです。私たちに律法が与えられたのはそのためでした。神の完全な律法が与えられそれと照らし合わせてみてはじめて、自分がどんなに罪深い人間であるかを知り、救いを求めるようになるでしょう。

イエス様は山上の説教の中でこう言われました。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(マタイ5:6)どういう人が満ち足りるようになるのでしょうか。義に飢え渇く者です。そういう人は満ち足りるようになるのです。

 

あなたは、義に飢え渇いていますか。もし飢え渇いているなら、イエスのもとに来てください。そして、イエスが与えてくださる水を飲んでください。キリストのもとに来て飲むとは、単純にキリストを信じるということです。キリストがあなたの罪を赦す力をもっておられ、あなたの魂の渇きを完全に癒すことができる方であると信じて、キリストにあなたのすべてをゆだねることなのです。これを「信仰」と言います。キリストに「来る」とは、キリストを信じることであり、キリストを「信じる」とは、キリストのもとに「来る」ことにほかなりません。これは実に単純なことです。あまりにも単純すぎるので本当でないかのように思えるかもしれませんが、これが本当のことです。これ以外に救いはありません。クリスチャンは、いつの時代でも、この信仰によってキリストのもとに来て、キリストの泉から飲み、罪から解放された人たちです。心から罪の意識を感じ、その罪から赦されること、つまり義に飢え渇いて、キリストのもとに行くことは、天国に至る大切なステップなのです。しかし、あまりにも多くの人が、このステップを踏もうとしません。このことを考える人が少ないのです。そして信じる人はもっと少ないというのは、本当に悲しいことです。

 

Ⅱ.生ける水の川が流れ出るようになる(38)

 

次に、38節をご覧ください。ここには、キリストのもとに来て飲むとどうなるのか、その結果が記されてあります。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 

キリストのもとに来て飲むとは、キリストを信じることだと申し上げましたが、ここでははっきりとそのように言われています。「わたしを信じる者は・・・」と。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

これは、もちろん比喩的な意味で用いられていますが、二つの意味があります。一つは、キリストを信じる者は、心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるということ、つまり、魂の必要が豊かに満たされるということです。そしてもう一つは、そのように自分の魂の必要が満たされるというだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉となるということです。

 

まず、キリストを信じる者は、自分の魂の必要が豊かに満たされるということですが、これはキリストを信じて生きている多くのクリスチャンが実感していることではないでしょうか。キリストを信じるまでは、それがどのようなものなのかを想像することすらできませんでした。しかしキリストを信じたことで、魂の平安と喜び、希望や慰めを知りました。

 

既に召されましたがクリスチャン作家の三浦綾子さんは、直腸がんの手術を受ける前日、心臓病もあるので、ひょっとすると手術中に召されるかもしれないと思い、遺書を書くことにしました。ところがその時、人知を超えた不思議な平安に包まれ、死の恐れから全く解放されたそうです。

 

第二次世界大戦時、ナチスの強制収容所には、定員の三倍近くの囚人が詰め込まれていました。しかも最上階のベッドは天上にくっつきそうだったので、そこに座ることさえできませんでした。そのような環境の中であらゆる自由を奪われた若い婦人たちが、腹這いになり、神の導きについて話し合っていました。すると、その中の一人の姉妹が、このように言ったそうです。

「神様が私をここに導かれたのは、決して間違いであったとは思わない。私はここで初めて、本当に祈ることを学びました。ここでの精神的、肉体的な苦痛は私に、その人がすべてをイエスさまに明け渡さない限り事態は解決されないことを教えました。これまで私は、うわべでは敬虔そうな信仰生活を送ってきましたが、私の生活の中にイエス様を締め出していた部分があったのです。でもイエス様は今、私の生活のあらゆる部分で王となっておられます。私ははじめて、神の平安と愛で満たされる喜びを知ったのです。」

こうした試練に会うと神を呪ってもおかしくないのに、むしろ、そうした中ではじめて神の平安を知ったと言える、これは人間の思いをはるかに超えた思いではないでしょうか。

 

主イエスを知って、主イエスを信じたことによって、こうした魂の平安と慰めが与えられ、生きる希望が与えられるのです。時として私たちは、自分自身に失望することがありますが、キリストに失望することはありません。キリストを信じたことで与えられた神との平安、喜び、希望、慰めは、この世の何物とも取り変えることはできないからです。それは聖書の御言葉を読み、そこにある神の恵みの確かさを理解すればするほどそうなります。皆さんはどうでしょうか。まさかあのエサウのように、パンとレンズ豆の煮物と交換するような愚かなことはしたいとは思わないでしょう。

 

長い間世界的な伝道者ビリー・グラハムの伝道集会で特別賛美を歌ってきたBEVERLY SHEAは、その体験をこう歌いました。

「キリストには代えられません 世の宝も また富も

この御方がわたしに代わって死んだゆえです。

世の楽しみよされ、世の誉れよ行け

キリストには代えられません 世の何物も」

(新聖歌428「キリスト」には代えられません)

 

これがクリスチャンの実感でしょう。キリストを知れば知るほど、その思いは深くなっていきます。キリストを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになるのです。

 

しかし、そればかりではありません。キリストを信じる者は、自分の魂の必要が満たされるだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉となります。たとえば、パウロは、コロサイ人への手紙の中でこのように告白しています。

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(コロサイ1:28)

クリスチャンをキリストにある成人として立たせることはどんなにか労苦の伴う働きだったことでしょう。しかし、彼は、自分のうちに働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しました。その結果、こうした彼の奮闘は決して無駄にはならず、その恵みは多くのクリスチャンに伝わり、やがて世界中へと広がって行きました。それは彼の心の奥底だけでなく、彼の周りの人たちに、そして全世界に溢れ出たのです。

 

先ほども申し上げたクリスチャンの作家に三浦綾子さんは、信仰をテーマとした小説をたくさん残されましたが、それは今も世界中で伝えられ、「三浦綾子読書会」となって広がっています。三浦綾子さんの心の奥底に流れた生ける水の川は、溢れ出て、多くの人の魂を満たす水となっているのです。

 

あなたもキリストのもとに行き、その水を飲むなら、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。

 

Ⅲ.イエスを信じる者が受ける御霊(39)

 

いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。ヨハネは39節で、そのことを説明して次のように言っています。

「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」

 

これは、ヨハネの福音書によく出てくる説明的論評と世バルものです。それがどういうことなのかを説明しているのです。そして、ここには、イエスを信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである、とあります。しかし、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのです。つまり、この生ける水の川とは、この御霊のことを指して言われていたのです。御霊とは神の御霊、聖霊のことです。当時の人々は、旧約聖書における聖霊の働きしか知りませんでした。それはある一部の人に、しかも必要な期間しか与えられませんでしたが、イエスが約束された聖霊は、イエスの十字架と復活、そして昇天の出来事以降、イエスを信じるすべての人に注がるというものでした。それがペンテコステの出来事です。イエス・キリストを信じる者には、だれにでもこの御霊が注がれ、その人の心の奥底に生ける水の川となって流れ出るようになったのです。

 

それがどれほどすごいものなのかを、旧約の預言者エゼキエルはこのように預言しました。

「彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。」(エゼキエル47:8-10)

 

「この川が入るところでは、すべてのものが生きる」。これはエゼキエルという預言者が語った言葉です。エゼキエルは、非常に困難な時代を生きた預言者でした。彼はユダヤからバビロンに捕囚として連れて行かれた人々の中にいた人物です。そして彼が捕囚の地において、預言者として活動していた期間中に、彼の故郷であるエルサレムが最終的に破壊されてしまうという、悲惨な出来事が起こるのです。  なぜ、生ける真の神に仕えている神の民イスラエルがこのような苦しみに遭わなければならないのか。神からの答えは、イスラエルが神から離れて罪を犯したからだ、ということでした。人々は真の神に頼って生きることをせず、偶像礼拝に陥っていたのです。そのために、神の臨在がエルサレムから去ってしまいました。

 

神が去った後のエルサレムは悲惨でした。異邦人によって滅ぼされ、なすがままにされ、ついに神殿さえも破壊されてしまうことになります。けれども、エゼキエルの見た幻は、そこで終わりませんでした。どん底に落ちたイスラエルに、再び希望が語られるのです。廃墟になったエルサレムの街が再建され、神殿が再び建設されていくのです。

そして、彼は思いもかけない光景を目にすることになります。なんと、神殿の中から、しかもその中心部分である聖所から、水が流れ出ているのです。しかも、その流れが川となり、その川は遠くへ行けば行くほど水かさが増して、最後には渡ることのできないほどの大河になります。この川は、普通の川ではありません。超自然的な川です。なぜなら、聖所から流れ出ているからです。聖所というのは、神様がおられる場所です。つまり、このエゼキエルが見た川というのは、神様ご自身から流れ出ていた川でした。

そして、この川が流れ出るところはどのようになるでしょうか。これが先ほど読んだ御言葉です。神殿から流れ出た川は、そこから東向きに流れて行って、やがてアラバに下り、海に入ります。この「海」というのは、エルサレムから東に向かって行くとある海、そうです、「死海」のことを指しています。「死海」とは「死の海」と書くように、魚が生きることができません。死海の水は、普通の海の水の六倍もの塩分の濃度を持っているために、普通、海に住んでいるような魚でさえも生きることができないのです。けれども、この神殿から流れて来た水がこの死海に注ぎ込むとその水が一変して、この死んだ海が生き物で満ちるようになり、そこに多くの魚がいるようになります。なんとすばらしい驚くべき光景でしょうか。

 

いったいこのエゼキエルが見た幻は、何を意味していたのでしょうか。それは、神の神殿から流れ出るいのちの水です。この水が流れ出ると、死んだようなこの世が生きるものとなるということです。それは、聖霊のことです。聖霊が流れ出ると、死んでいるようなあなたが生きるようになります。実に、教会とはこのいのちの水が溢れている所です。なぜなら、神の聖霊を受けたクリスチャンが集まっている所だからです。その教会からいのちの川の水が流れ出て、この世のすべてのものを生かすようになっていくのです。何とすばらしい約束でしょうか。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

あなたは、心に渇きを覚えてキリストのみもとに来て、キリストが与える水を飲みましたか。キリストを信じるなら、あなたの心にも聖霊という生ける水の川が流れ出るようになります。それはあなたの周りの人々をも潤していく力となるのです。

 

キリストを信じたのに、心の奥底から、生ける水が流れているという実感がないという方がいますか。そのような方は、もしかしたら神とのパイプラインが詰まっているのかもしれません。そのような時には、詰まりを取り除かなければなりません。それを悔い改めると言います。障害物があれば、真摯に神に対して悔い改めなければなりません。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義きよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

そして、渇いた心をもって主のもとに来て飲んでください。あなたのすべてを主に明け渡し、主の御言葉に従った信仰の歩みを始めてください。主に従うことが生ける水の川が流れ出るようになる秘訣です。

あなたの信仰のパイプラインは大丈夫ですか。神と直結しているでしょうか。接触が不十分であったり、詰まったり、曲がったり、細かったりしていませんか。十分に点検して聖霊に満たされた者とさせて頂きましょう。そうすれば、あなたの心の奥底からも、生ける水の川が流れ出るようになるのです。

出エジプト記8章

出エジプト記8章から学びます。まず1節から15節までをご覧ください。4節までをお読みします。

 

Ⅰ.第二の災い:蛙の害(1-15)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが去らせることを拒むなら、見よ、わたしはあなたの全領土を蛙によって打つ。ナイル川には蛙が群がり、這い上がって来て、あなたの家に、寝室に入って、寝台に上り、またあなたの家臣の家に、あなたの民の中に、さらに、あなたのかまど、こね鉢に入り込む。こうして蛙が、あなたと、あなたの民とすべての家臣の上に這い上がる。』」(1-4)

イスラエルをエジプトから去らせるようにとの主のことばを拒んだファラオに、主はすべてのナイ

ル川の水を血に変えるという災いを下しました。それによってナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなりました。それでもファラオの心は頑なになり、モーセとアロンの言うことを聞き入れませんでした。それは、初めからわかっていたことです。ファラオはどんなに偉大な主の力を見ても、イスラエルの子らをその地から去らせようとしません。それは主がファラオの心を頑なにし、主がエジプトの地でしるしと不思議を行うことによって、主こそ神であることをファラオが知るようになるためです。

 

そこで主は第二の災いをもたらします。それは蛙の害です。この蛙の災いが、ナイル川が血になる災いと異なるのは、この災いがファラオの家の中にまで入り込むということです。寝室にも、かまどにも入り込むので、ベッドで寝るときもぐちゃ、こね鉢でこねる時も蛙を一緒にぐちゃぐちゃにすりつぶしてしまうのです。1匹2匹だったらかわいいものですが、至る所が蛙ですから気持ち悪いですね。特にエジプでは蛙は礼拝の対象でしたから、その蛙に打たれるということは屈辱的なことでした。

 

5節から7節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『杖を持って、あなたの手を川の上、水路の上、池の上に伸ばせ。そして蛙をエジプトの地に這い上がらせよ』と。」アロンが手をエジプトの水の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった。呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行った。彼らは蛙をエジプトの地の上に這い上がらせた。」

 

アロンが持っていた杖を川の上や水路の上、池の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおいました。するとエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行いました。しかし、彼らは蛙を増やすことはできても、それを取り除くことはできませんでした。

 

するとファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言いました。8節です。「私と私の民のところから蛙を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」

ファラオは、何とかしてこの苦しみから解放されることを願いました。それで、自分たちのところから蛙を取り除くように、主に祈れ、とモーセとアロンに言いました。そうすれば、イスラエルの民を去らせる・・・と。それでモーセはファラオに迫ります。10節です。「いつが良いですか」

「蛙があなたとあなたの家から断たれ、ナイル川だけに残るようにするため、私が、あなたと、あなたの家臣と民のために祈るので、いつがよいかを指示してください。」(9)  するとファラオは「明日」と言いました。なぜ「今」ではなかったのでしょうか。そんなに苦しいのであれば「今すぐに取り除いてほしい」と願うのが普通かと思いますが、ファラオは「明日」と言いました。もしかしたら明日になれば事態が解消されていると思ったのかもしれません。あるいは、このような儀式を行うためには、それくらいの時間がかかるものと思ったのかもしれません。

 

それでモーセは、「あなたのことばどおりになりますように」と言いました。「それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。」(10)これがこの災いの目的です。それはファラオが、イスラエルの神、主のような方はほかにいないということを知るためです。ファラオは、あの手この手を尽くしてイスラエルを行かせることを拒みますが、それはそのことによって主が力強い御業を行い、主こそ神であるということをファラオが知るためだったのです。

 

するとモーセが主に叫んだので、蛙はエジプト中の家と畑から死に絶えました。モーセがファラオに約束したとおりです。主はモーセを通して約束されたように、モーセの祈りに答えてこの問題解決してくださいました。

ところが、ファラオは一息つけると思うと、手のひらをひるがえして、彼らの言うことを聞き入れませんでした。主が言われたとおりです。何という頑なさでしょうか。ファラオにはこうしたずる賢さがありました。いつがよいかというと「明日」と言い、祈りが応えられて一息すると心を頑なにするという不従順が見られます。

 

しかし、それは何もこのファラオだけのことではなく、私たちにも同じではないでしょうか。「今日」ではなく「明日」と言ってみたり、一息つくと元の状態に戻ってしまうということがあります。

「「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。」(へブル3:15)

今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはなりません。心を頑なにしないで、従順に主の御声に聞き従う者でありたいと思います。主のような神は、ほかにはいないからです。

 

Ⅱ.第三のわざわい:ブヨの害(16-19)

 

次に16節から19節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」彼らはそのように行った。アロンは杖を持って手を伸ばし、地のちりを打った。すると、ブヨが人や家畜に付いた。地のちりはみな、エジプト全土でブヨとなった。呪法師たちも、ブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ブヨは人や家畜に付いた。 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」

 

それで主はモーセ言われました。16節です。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」」

それでモーセとアロンがそのようにすると、エジプト全土でブヨが人や家畜に付きました。「ブヨ」という言葉は、へブル語では「種々の害虫」のことです。何か特定の昆虫というよりも、雑多な害虫が現れたのでしょう。

 

この時もエジプトの呪法師たちがブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしましたが、できませんでした。それで彼らは何と言ったかと言うと、「これは神の指です」と言いました。つまり、自分たちの能力をはるかに超えているということです。このように叫ぶことによって、それが神によって行われたわざであることを暴露したのです。しかし、それでもファラオは、彼らの言うことを聞き入れませんでした。

 

Ⅲ.第四のわざわい: あぶの群れ(20-32)
それで主は第四のわざわいをエジプトに下します。それは「あぶの群れ」です。20節から24節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に出よ。見よ、彼は水辺に出て来る。彼にこう言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしもわたしの民を去らせないなら、わたしは、あなたと、あなたの家臣と民、そしてあなたの家々にアブの群れを送る。エジプトの家々も、彼らのいる地面も、アブの群れで満ちる。わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。』」主はそのようにされた。おびただしいアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入って来た。エジプトの全土にわたり、地はアブの群れによって荒れ果てた。」

「アブ」というのは、「サシバエ」という蝿の一種だと考えられています。この「サシバエ」が家畜や人の体を刺すと、とにかく痛いんだそうです。動物たちは始終頭を振り、尻尾を振り、刺される痛みのためか時に身をブルッと震わせます。これは彼らが強いストレスを感じているサインです。ですから、こんなのに刺されたらたまったもんじゃありません。これがエジプト全土に満ちるというのです。

 

しかし、今回はこれまでと違う点が一つだけありました。それは、イスラエルの民がとどまっていたゴシェンの地にはいないようにするということです。つまり、主はイスラエルの民とエジプトの民を区別して、贖いをする、ということです。そのようにして主は、ご自身の民であるイスラエルを特別に扱われるのです。それはファラオが、その地のただ中にあって主こそ神であるということを知るためです。

 

この区別して、贖いを置くというのは、区別して、救いを置くという意味です。この表現は、あのノアの方舟のことを思い起させます。あの箱舟の扉が閉ざされた瞬間に、舟の中の人々と外の人々とが区別されました。その扉を通って箱舟に入るかどうかが、中の人と外の人とを区別したのです。その扉こそイエス・キリストです。キリストはこう言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)

つまり、イエス・キリストこそ神の民とそうでない民とを区別して、ご自身の民を贖われる方であるということです。その中間はありません。救い主イエス・キリストを信じるのか、信じないのかが、主の贖いに与るかどうかの区別となるのです。

 

そうでないと、神のさばきを受けることになります。24節をご覧ください。おびただしいうアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入ったので、エジプト全土がアブの群れによって荒れ果ててしまいました。

 

それで、ファラオはどうしたでしょうか。25節をご覧ください。ファラオはモーセを呼び出してこう言いました。「さあ、この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」

どういうことでしょうか?主の命令は、イスラエルの民をエジプトから去らせということでしたが、ファラオは、「この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」と言っています。これはファラオの妥協案です。彼らがいけにえを献げるのはいいだろう。でもこの国から出て行ってはいけない。この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げればいいじゃないか、と言ったのです。

 

それに対してモーセは、「それはふさわしいことではない」(26)と断ります。なぜなら、イスラエル人はエジプト人の忌み嫌うものをいけにえとして献げることになるからです。それは何ですか?羊です。エジプト人は羊を忌み嫌っていました。その羊を献げたらどうなるでしょう。それを見たエジプト人たちに石で打ち殺されてしまうでしょう。だから、イスラエルの民は主が言われたとおり、荒野に三日の道のりを行って、主にいけにえを献げなければなりません。

 

するとファラオはどうしましたか?28節をご覧ください。「ファラオは言った。「では、おまえたちを去らせよう。おまえたちは荒野で、おまえたちの神、主にいけにえを献げるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」」

どういうことでしょうか?「ただ、決して遠くへ行ってはならない」とは。ここでファラオはさらなる譲歩案を提示しているのです。それは、イスラエルが荒野に出て行って、主にいけにえを献げてもよいが、決して遠くへは行くな!ということです。そして、自分のために祈ってくれ!というものでした。つまり、エジプトの支配が届かない所には行ってはならないという意味です。あくまでも自分たちの手の届くところに置いておきたいのです。これが悪魔の常套手段です。

 

悪魔は私たちが信仰を持つことを許しても、あまり遠くに行かないようにと働きかけてきます。仮に神を信じたとしても、自分たちの手の中にあれば、いずれ戻ってくることになるからです。だからあまり遠くに行ってほしくありません。これまでのようにできるだけこの世にどっぷりと浸かっていてほしい。教会に行って、洗礼を受けてもいいけれども、できるだけ今のままでいるようにと圧迫してくるのです。つまり、自由にさせているようで自由ではないのです。私たちがイエス様を信じて罪から解放され、全く自由にされたはずなのにそうではないように感じるのは、このような悪魔の働きがあるからなのです。

 

また28節を見ると、「私のためにも祈ってくれ」と、いかにも敬虔であるかのように装っています。これがこの世が取る姿です。彼らはいいことなら何でもやってもらいたいのです。たとえ自分たちが信じていない神でも、自分に都合のいいように祈ってもらいたいのです。ピリピ3:19に、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。」とあるように、あくまでも彼らの神は彼らの欲望なのです。

 

それでモーセは言いました。「今、私はあなたのもとから出て行き、主に祈ります。明日、アブが、ファラオとその家臣と民から離れます。ただ、ファラオは、民が主にいけにえを献げるために去ることを阻んで、再び欺くことなどありませんように。」

モーセはファラオの言うことを受け入れ、明日、アブがファラオとその家臣から離れるように祈ることを約束します。だから、ファラオはイスラエルの民がいけにえをささげることを阻んで、再び欺くことがないようにと釘を指しました。そして、ファラオのもとから出ていくと、モーセはファラオに約束したとおり、主に祈りました。本来であれば、エジプトがアブによってもっと苦しめばいいのに・・と思うところでしょうが、彼はそうした自分の感情に流されることなく、エジプト人のためにとりなしの祈りをしたのです。

 

すると主はモーセの祈りを聞かれ、モーセが祈ったとおり、翌日には、アブが一匹も残らないようにされました。しかし、ファラオはまたも心を頑なにし、民を去らせませんでした。何という優柔不断さでしょうか。主に祈ってくれ!と言ったかと思えば、やっぱり行かせない!と、いつも気持ちがコロコロと変わっています。こういうのを「二心」と言います。こういう人はその歩むすべてにおいて安定を欠いた人です。ヤコブはこう言っています。

「 ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」(ヤコブ1:6-8)

 

皆さんはどうでしょうか。少しも疑わないで、信じて祈っているでしょうか。それとも、信じていても疑うようなことをして、安定感のない信仰生活を送ってはいないでしょうか。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはありません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)いつも信仰に歩めるように、神の助けを求めましょう。

ルツ記1章

今回からルツ記の学びに入ります。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ナオミと二人の嫁(1-5)

 

「さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。」

 

これは、さばきつかさたちが治めていたころのことです。つまり、士師記の時代です。士師の時代がどのような時代であったかは、士師記の一番最後を見るとよくわかります。すなわち、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(士師21:25)時代でした。それは霊的混乱ばかりでなく、物質的混乱をももたらしました。ここには、「この地に飢饉が起こった」とあります。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野に行き、そこに滞在することにしました。その人の名前は「エリメレク」と言います。妻の名前は「ナオミ」です。二人には二人の息子がいました。「マフロンとキルヨン」です。

 

するとそこで思わぬでき出来事が起こりました。ナオミの夫のエリメレクが死んでしまったのです。なぜ死んでしまったのかはわかりません。しかし、そのことでナオミと二人の息子が残されてしまいました。そこで、二人の息子はモアブの女を妻に迎えました。一人の名は「オルパ」で、もう一人の名は「ルツ」です。残された家族で助け合って生きていこうと思ったのでしょう。ところが、その10年後に、その二人の息子のマフロンとキルヨンも死んでしまいました。何ということでしょう。いったいなぜこのようなことが起こったのでしょうか。

 

わかりません。それがどうしてなのかわかりませんが、私たちの人生にはそれがどうしてなのかわからないことが起こることがあるのです。しかし、それがどんなことであっても、今週の礼拝のみことばにあったように、主の御許しがなければ何も起こりません。すべては主の御手の中にあります。そしてこのことにも主の深いご計画と導きがあったがわかります。この時点ではそれがどうしたなのかはわからる術もなく受け入れられることではなかったでしょう・・・が。

 

ただこの地に飢饉が起こったとき、彼らがモアブの地へ行ったことが、果たして本当に良いことであったのかどうかはわかりません。というのは、カナンの地は、イスラエルの民に与えられた約束の地です。その地から離れることは決して神のみこころであったとは思えないからです。エリメレクが家族を守ろうとしたことは理解できますが、そのために約束の地を離れたことは評価できません。かつてアブラハムも約束の地カナンに入って後で、その地に飢饉が起こったとき、エジプトにしばらく滞在するために下って行きましたが、それは神のみこころではありませんでした(創世記12:10)。彼はそこで自分の妻を妹だと偽ったので、彼女は宮廷に召し入れられてしまいました。主はそのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれたので、彼らは所有するすべてのものと一緒にそこを出ることができましたが、明らかにそれは神のみこころではありませんでした。

 

ここでも同じことが言えます。モアブの地とは、ヨルダン川東岸にある、アルノン川とゼレデ川の間の高原地帯を指します。そこは肥沃な農業地帯でした。産物としては、小麦、大麦、ぶどうなどがあり、羊ややぎの牧畜も盛んでした。

モアブ人の祖先は、アブラハムの甥のロトです。ロトには二人の娘がいましたが、姉が父ロトによって産んだ子がモアブです(創世記19:30-38)。ちなみに、妹が父ロトによって産んだのがアンモン人の祖先ベン・アミです。ですから、モアブ人はイスラエル人と血縁関係にありましたが、そのように近親相姦によって生まれたアンモン人を、イスラエルは罪に汚れた民族と見ていたのです。

 

また、歴史的にもイスラエルがエジプトを出て約束の地を目指して北上したとき、イスラエル人を恐れたモアブの王バラクは、占い師のバラムを雇ってイスラエル人を呪わせましたが、これは失敗に終わりました(民数記22-24章)。そこでモアブの娘たちはイスラエル人を誘惑し、バアル・ペオル礼拝に陥らせました。主はその危機から救い出すためにピネハスを用いて2万4千人のイスラエル人を討たれました(民数記25:1-9)。それ以降、モアブ人は主の集会から除外されるようになったのです。ですから、たとえ飢饉が起こったからと言って、約束の地を離れてこのモアブに行ったことは、主のみこころであっとは言えません。むしろ彼はそれがどんな困難があってもその地にとどまっているべきだったのです。

 

これは、私たちにも言えることです。私たちの人生にも、避けて通ることのできない困難があります。しかし、それがいかに苦しくても、永遠に価値あるものを手に入れるためにそこから離れるのではなく、忍耐をもってそこにとどまっていなければなりません。神の導きがないままで場所や状況を変えても、根本的な問題の解決にはならないからです。

 

Ⅱ.ルツの信仰(6-18)

 

それでナオミたちはどうしたでしょうか。次に6節から18節までご覧ください。まず14節までお読みします。

「ナオミは嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ることにした。主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。彼女は二人の嫁と一緒に、今まで住んでいた場所を出て、ユダの地に戻るため帰途についた。ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。二人はナオミに言った。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」 ナオミは言った。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」 彼女たちはまた声をあげて泣いた。オルパは姑に別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついた。

 

夫とふたりの息子を失ったナオミは、主がご自分の民を顧みて、カナンの地を祝福し、彼らに豊かな収穫を与えてくださったということを聞き、ふたりの嫁といっしょに、モアブの野から故郷のベツレヘムに帰ることにしました。

しかし、その途中でナオミは、このふたりの嫁を実家に帰すことにしました。ふたりの嫁にとって一番幸せなのは、再婚相手を探してモアブに住むことだと考えたからです。ナオミはふたりの嫁にこう言いました。

「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」

このナオミの言葉には、愛が溢れています。この二人が亡くなった自分の夫と姑である自分にしてくれたことをねぎらい、主がその労に報いてくださるようにと祈っています。また、彼女たちが実家に戻って、モアブの地で新しい夫が与えられ、その家で安らかな暮らしができるようにと祈りました。そして、ふたりに分かれの口づけをすると、彼女たちは声をあげて泣きました。そして、ナオミにこう言いました。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」彼女たちにとっては異国の地です。自分の夫を失って、それでも姑について行きたいというのは、そこによほどのものがなければ言えないことです。ナオミとこのふたりの嫁たちの間には、深い愛と信頼関係がありました。

 

このような二人にナオミはこう言って説得します。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」

 

どういうことでしょうか。これは、申命記25章5-6節にある「レビラート婚」という聖書の律法に基づいたものです。「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」

これはユダヤ人の特殊な婚姻法で、死んだ者の兄弟が、そのやもめと結婚して、死んだ者の名を残し、イスラエルから消し去られることがないようにするための定めです。この場合、彼女たちの夫であるマフロンとキルヨンが死にました。ですから、彼らの弟がオルパとルツと結婚する必要がありますが、弟はいませんでした。そこでナオミがこれから子を宿して、その子が、彼女たちと結婚しなければならないことになります。けれども、そんなことは無理です。ですからナオミは、夫を持って息子たちを産んだとしても、彼らが成人になるまで待とうというのですか、と言っているのです。

 

それで彼女たちはまた声をあげて泣きました。結局、オルパは姑に口づけをして別れを告げましたが、ルツはナオミにすがりつきました。ここでふたりの嫁オルパとルツの決断が別れました。弟嫁のオルパは、自分の民とその神々のところに帰って行きました。そのこと自体は何の問題もありません。それはナオミが勧めたことですし、ナオミも彼女を責めてはいません。ある意味、それは常識的な判断だったと言えるでしょう。

 

しかし、兄嫁のルツはそうではありませんでした。ルツはこう言っています。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(16-17)

ルツがナオミに着いて行ったら、不安なことだらけです。夫はいないし、全く新しい土地で、外国人として暮らさなければなりません。それでもルツがナオミに着いて行こうとしたのは、姑ナオミに対する愛はもちろんのこと、ナオミの民であるイスラエルの民への愛、そして、イスラエルの神への愛から出たものでした。ルツはここで、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と言いました。どうして彼女は、このように言ったのでしょうか。

 

彼女の決断は大きなものでした。今まで住み慣れたモアブの地、モアブの民、そしてモアブの神と別れを告げ、ナオミの民、ナオミの神を自分の神とするのですから・・。彼女は、マフロンの妻になってから、イスラエルの神こそ天地を創造されたまことの神であるということを知りました。そして、この神がいかに、エジプトからイスラエルを救い出され、約束の地に導かれていたことも聞いていたでしょう。イスラエル人の家族の中にいて、生けるまことの神がどのような方であるかを知り、この方を自分の神としたのです。自分の支えである夫がいなくなり、かつて自分が暮らしていたモアブ人たちの中に戻ることはいくらでもできましたが、彼女は、自ら進んで、イスラエルの神を自分の神とする決心をしたのです。ナオミの信じているイスラエルの神の恵みの中で生き、そして死んで行きたいと思いました。モアブ(異邦人)の女である彼女は、このように信仰を告白することによって、イスラエルの民が受ける祝福に与ることができたのです。

 

それは私たちも同じです。私たちも肉においては異邦人でした。いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあっては望みもなく、神もない者でした。しかし、かつては遠く離れていた私たちも、イエス・キリストにあって、キリストの血によって近い者とされたのです。ルツのように異邦人であった私たちもナオミのような存在の人と出会いを通して、まことの神を知り、その中に加えていただくことができたのです。私たちもまた神から遠く離れていた者ですが、神の恵みによって、「あなたの民は私の神、あなた神は私の神です。」と信仰を告白することができ、神の民に加えていただくことができたのです。

 

Ⅲ.ベツレヘムに着いたナオミとルツ(19-22)

 

最後に19節から22節までをご覧ください。そのようにしてベツレヘムに帰ったナオミとルツはどうなったでしょうか。

「二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ、ナオミではありませんか」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。 私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。」

 

ふたりは旅をして、ベツレヘムに着きました。ふたりがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出しました。そして、女たちは、「まあ、ナオミではありませんか。」と言うと、ナオミは、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。」と言いました。「ナオミ」とは「快い」という意味で、「マラ」は、「苦しむ」という意味です。全能者が私に大きな苦しみにあわせたのですから、満ち足りてかえって来たどころか素手で帰ってきたのですから、とても「ナオミ」ではない、「マラ」です、そう言ったのです。ここでナオミは自分の身に起こったことを、偶然の結果としてではなく、全能者のわざであるとみています。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。全能者が私を辛い目にあわせたのですから。どういうことでしょうか。

 

それが全能者のわざであると受け止めることができるなら、そこに希望があります。なぜなら、一時的な苦しみは必ず祝福へと変えられるからです。どのような試練の中にも、そこに神がおられ、神が導いておられると信じることができるなら、その試練にも何らかの意味があることを悟ることかできるからです。先日、亡くなられたマラソンの小出監督は、バルセロナオリンピックで銀メダルを取った有森裕子選手に、「人生に意味のないことはない。試練や苦しみがあったら、それを「せっかく」だと思え。」と言って指導したそうです。人生に意味のないことなどありません。なぜなら、神はご自身のご計画に従って、私たちの人生を導いておられるからです。たとえ今、試練の中にあってもそこに神の御手があると受け止められる人は、そこに神の希望の光を持つことができるのです。ナオミの場合、どこに希望を見出すことかできたのでしょうか。

 

22節をご覧ください。ここには「モアブの野から戻った嫁、モアブ人の女ルツが一緒であった」とあります。また、「ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった」とあります。人間の目では何でもないことですが、神の目を通してみるなら、そこに大きな希望がありました。この二つのことが、その後の話の展開に有利に働くからです。だれがこんなことを考えることができたでしょうか。

 

神はナオミとルツを見捨ててはいませんでした。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたにもルツが残されています。あなたの置かれている時は、大麦が始まったころではないですか。あなたが置かれている状況をよく見てください。神はそこに脱出の道を備えていてくださいます。現状を見て悲観するのではなく、そこに全能者の御手があると信じ、信仰の目をもって、神の働きに期待して祈りましょう。

ヨハネの福音書7章25~36節「今が恵みの時、今が救いの日」

きょうは、ヨハネ7章25節から36節までの箇所から「今が恵みの時、今は救いの日」というタイトルでお話しします。伝道者の書3章1節には、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」とありますが、その時を見逃すことがないようにということです。

 

Ⅰ.キリストはどこから来たのか(25-29)

 

まず25節から29節までをご覧ください。27節までをお読みします。

「さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」

 

仮庵の祭りもすでに半ばになったころ、主イエスが宮に上って教えておられると、ユダヤ人たちは驚いて言いました。

「この人は正規に学んだこともないのに、どうして学問があるのか、どうして聖書のことをそんなに知っているのか。」

するとイエス様は、ご自分が神から出たので、神のことばを語るのだと言いました。でも、彼らはそれを受け入れることができませんでした。24節にあるように、うわべで人をさばいていたからです。

 

すると、エルサレムのある人たちは、「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。」と言いました。

「彼ら」とはユダヤ人の指導者たちのことです。イエス様があまりにも毅然とした態度で語っていたので、ユダヤ人の指導者たちは、この人がメシヤであると認めたのではないかと思ったのです。

 

しかし、彼らはそれを打ち消すかのように言いました。27節です。「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」

彼らも主が語られた言葉を聞いて、もしかしたらこの人がキリスト(メシヤ)ではないかと思いましたが、すぐにそれを否定したのです。なぜなら、彼らはイエスがどこから来たのかを知っていたからです。イエス様はどこから来ましたか?彼らが知っていたのは、イエスがガリラヤのナザレから来たということでした。イエスはそこで大工の仕事をしていました。彼らはそのことを知っていたのです。でもキリスト(メシヤ)はナザレから出るのではありません。ユダヤのベツレヘムです。聖書の預言にそう書かれてあるからです。ですから、イエスがメシヤであるはずがないと思ったのです。

確かに彼らはメシヤがどこから来るのかを知っていました。けれども、イエスがどこから来たのかを正確には知りませんでした。ただガリラヤのナザレで、大工をしていたということは知っていましたが、ユダヤのベツレヘムで生まれたことを知らなかったのです。また、イエス様の母マリヤも父ヨセフもダビデの家系であったことすら知りませんでした。ユダヤ人は系図や家系、血筋を大事にする民族ですから、よく調べさえすればそんなことくらいすぐにわかったことなのに、それさえもしませんでした。なぜでしょうか。彼らは最初から偏見でこり固まっていたからです。ガリラヤのナザレの出身であるイエスが、メシヤであるはずがないと最初から決めつけていたのです。

 

これは今日も同じです。一般に人々は、イエス様を偏見の目で見ています。イエスは偉大な人であったかもしれないが神様であるはずがないとか、釈迦や孔子と同じだと決めつけているのです。しかし釈迦や孔子とは明らかに違う点があります。釈迦や孔子は自分たちが神であるとか、神から遣わされて来たとは一言も言っていないのに、イエス様はそのように明言されたことです。何よりも、宗教はアヘンだと思っています。

 

28節と29節をご覧ください。

「イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」

 

ここにはイエス様が「大きな声で言われた」とあります。何ですか、大きな声で言われたとは・・?「大きな声で言われた」というのは、それがとても重要であったことを意味しています。確かに彼らは人間的な意味でイエス様がどこから来たかを知っていたかもしれませんが、霊的な意味では全く知りませんでした。つまり、イエスが父なる神から遣わされたメシヤであるということには目が閉ざされていて、理解していなかったのです。

 

人間はどこまでも頑なで、盲目です。ちょっとでも調べれさえすればすぐにわかるものをそれさえもしないので、ただナザレに住んでいたというだけで、大工のせがれだというだけで、ただの人だと決めつけていたのです。メシヤはユダヤのベツレヘムで生まれるということを知っていましたが、その預言を思い出すことさえしなかったのです。人間の記憶というのは本当に曖昧ですね。時として自分の思いに左右されて忘れてしまうことがあります。「そんなはずがない」と思っていると、記憶がどこかへ飛んで行ってしまうのです。そして意図的に盲目になっている人も少なくありません。聖書の中に明らかに示されている事実や教えすら見ようとしません。ですから、信じるようにと促されていてもそれを受け入れることができないのです。意図的に知ろうとしないからです。信じたくないことは信じません。したがって、真理を求めて聖書を読もうとしたり、話を聞こうとさえもしません。まして、そのことを真剣に考えたり、捜し求めようともしません。これは、ひどい霊の病です。この社会に最も広く蔓延している病の一つであります。見ようとしなければわからないのは当たり前ではないでしょうか。見ようとしない人ほど盲目な人はいません。ここに出てくる人たちは、こうした病に侵されていたのです。彼らの偏見は、こうした思いから生まれていたのです。

 

Ⅱ.イエスの時はまだ来ていない(30-31)

 

次に、30節と31節をご覧ください。ここには、「そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」とあります。

 

イエスが、ご自分が天の父から出た者であり、その方によって遣わされたと言うと、人々はイエスを捕らえようとしましたが、だれもイエスに手をかける者はいませんでした。イエスの時がまだ来ていなかったからです。この「イエスの時」については、7章6節でも説明しましたが、それはイエスが十字架につけられる時のことです。十字架につけられ、永遠の贖いの死を遂げられる時のことです。その時がまだ来ていなかったので、だれもイエスに手をかけることができなかったのです。それは、このように言うこともできるでしょう。そこにすべてを支配している神の御手があったので、彼らは手を出すことができなかったのである・・・と。

 

そうです、神のお許しがなければ、何一つ起こりません。主はこう言われました。

「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」(マタイ10:29-30)

1アサリオンというのは、1デナリの16分の1に相当する金額です。1デナリとは1日分の給料に相当しますから、仮に1日の給料が5,000円だとすれば、1アサリオンというのは大体300円くらいになります。二羽で300円ですから一羽だと150円です。それはあまり価値がないことを意味しています。そんな雀の一羽でさえも、父の許しがなければ地に落ちることはありません。いいですね、そんな雀の一羽でも、地に落ちることはない。天の神様がちゃんと見守っていてくださいますから、天の父のお許しがなければ決して地に落ちることはありません。

 

また、髪の毛一本一本に至るまですべて数えられています。あなたは、自分の髪の毛の数を数えたことがありますか。数えられません、あまりにも多くて。でも、天の父は、私たちの髪の毛さえも、すべて数えておられます。そこまであなたのことを気に留めておられるのです。ですから、私たちの人生のすべては、この天の神様の御手の中にあり、この方の許しがなければ何一つ起こりません。つまり、私たちの人生に起こるすべての出来事には、深い意味があるということです。

 

先日、あのマラソンの有森裕子選手や高橋尚子選手を育てた小出義雄監督が召されましたが、小出監督は常々、有森選手にこう話していたそうです。「なんで故障したんだろうと思うな。物事には意味のないものはない。どんなことが起きても「せっかく」と思え。どれだけ故障しても、それだけ意味がある」と。物事には意味のないものはありません。どんなことが起きても「せっかく」と思う。どれだけ故障しても、それだけ意味がある。すばらしい言葉です。なぜそう思うのか。私はこの小出監督の言葉にこう付け加えたい。「そこに神の許しと計画があるのだから。」

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 

私たちの人生には「どうして・・・」と思うことが度々起こりますが、これらどれ一つとっても、神がよしとされない限り決して起こりません。もしこれらのことが起こるとしたら、それは神が深い計画を持って許しておられるからなのです。そういう意味ではどんなことが起きても「せっかく」と思うというのは大切なことです。どれだけ困難があっても、そこにはちゃんと意味があるのですから。

 

それは主が十字架で死なれたことにおいても言えることです。主が十字架で死なれた表面的にはユダヤ人たちのねたみによるものでしたが、本当の理由は、神が深いご計画をもってそのように導いておられたからです。それは、私たちの罪の身代わりとなられるためでした。ただ、まだその時が来ていませんでした。ですから、主が十字架につけられたのはそれを避けることができなかったからではなく、それこそが神のみこころであったからです。神の許しがなければ誰も主に手をかけることはできませんでした。彼らがしたことはすべて父なる神が許されたことで、神の永遠のご計画によって定められていたことだったのです。

 

このことを思う時、私たちの人生に起こるすべてのことも、深い神のご計画によるものであることがわかります。あなたが今ここに置かれているのも、今のパートナーと結婚したのも決して偶然ではなく、そこに神の御手があったからです。私はよく聞かれることがあります。「あなたはどうしてパットさんと結婚されたんですか」わかりません。なんで結婚したのか。地球上に女性も男性も約37億人もいるのに、その中からたった一人の相手ですよ。これはすごい確率でしょう。奇跡です。たまたま出会ったというのであればすごいことです。決して偶然ではありません。そこには、すべてを支配しておられる方の御手があったのです。そこに神の御手があると信じて、すべてをこの神にゆだねることができるかどうかです。

 

詩篇31篇15節には、「私の時は御手の中にあります。私を救い出してください。敵の手から、追い迫る者の手から。」とあります。皆さん、私の時は御手の中にあります。今この時も、この境遇にあるのも、このように導かれていることも、すべて神の導きによるものであると信じて、この方にすべてをおゆだねしようではありませんか。

 

Ⅲ.その時を逃さないように(32-36)

 

第三のことは、その時を逃さないようにということです。32節から36節までをご覧ください。

「パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

 

それでも、群衆のうちにはイエスを信じる人たちが多くいて、彼らが、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言っているのを耳にした祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わしました。すると主は、こう言われました。33節と34節です。

「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」

 

どういうことでしょうか?それを聞いたユダヤ人たちは、首をかしげました。「あなたがたはわたしを捜すが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」とはどういうことか、「まさか、ギリシア人たちの中に離散している人たちのところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。」

彼らには、主が言われたことがどういうことかわかりませんでした。主がここで言われたことは、ご自身が十字架で死なれ、三日目によみがえられてから天に行かれることを預言していたのですが、彼らにはそのことがわからなかったのです。彼らがこのことに気付いたのは、ずっと後になってからのことでした。それは主が復活して天に昇って行かれてからのことです。その時になってやって思い出すことができました。でも、その時にはもう遅いのです。

 

このように、真理を見出した時にはもう遅いということがあります。私たちは、自分がやって来たことが間違いであったとか、愚かなことであったと気づかされることがありますが、その時にはもう遅いということがあります。それでもまだ人生の扉が開かれている内はやり直すこともできますが、その扉が閉ざされてからではどうすることもできないということがあるのです。

 

たとえば、創世記にノアの方舟の話があります。主はノアに仰せられました。「あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。」(創世記7:1)あと七日たつと、主は地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、主が造られたすべての生けるものを大地から消し去るからです。それでノアは、彼の妻と彼の息子たち、息子たちの三人の妻とともに、箱舟に入りました。また、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつノアのいる箱舟の中に入りました。すると、「主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」(7:16)それで、箱舟に入らなかったすべての息のあるもので、乾いた地の上にいたものは、みな死んでしまいました。ただノアと、彼とともに箱舟にいたものたちだけが生き残ったのです。うしろの戸が閉ざされてからでは遅いのです。その前に箱舟に入らなければなりません。

 

これは、ちょうどともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘のようです。

「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』(マタイ25:1~12)

 

その時になって求めても、時すでに遅しということがあります。五人の愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油は持っていませんでした。それで、「花婿だ」と声かしたので迎えに出ようと思ったら、何と夜中だったので迎えに出ることができませんでした。それで賢い娘たちに油を分けてもらおうとしましたが、分けてやるだけの分はありませんと断られ、仕方なく店に買いに行くと、その間に花婿が来てしまいました。油の用意ができていた花嫁たちは花婿と一緒に婚礼の祝宴に入ることができましたが、用意ができていなかった娘たちは、婚礼の祝宴の中に入れてもらうことができなかったのです。

 

「備えあれば憂いなし」ということわざがあります。日頃からしっかりと準備を整えておくと、万が一のことが起こっても慌てなくてすみます。あなたはどうですか。油の用意はできていますか。「いや、まだだべ」と用意するのを怠っていると、やがてその時が来たとき、その中に入ることができなくなってしまいます。それがいつなのかは誰にもわかりません。ですから、それがいつやって来てもよいようにしっかりと備えておかなければなりません。箴言にはこうあります。

「そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。」(箴言1:28)

 

私たちは、このユダヤ人たちのように主イエスを救い主として求めた時にはすでに手遅れだったということがないように注意しなければなりません。

「見よ。今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

今が恵みの時、今が救いの日です。この恵みの時である今、イエス・キリストを私たちの罪からの救い主として信じて、永遠の御国に備える者でありたいと思います。

 

またこれはイエス様を信じるということだけに限らず、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。日々の忙しさにかまけて、本当にしなければならないことが後回しになっているということはないでしょうか。イエス様はマルタにこう言われました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)

どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。あなたは、その必要な一つのことを大切にしているでしょうか。

 

あるいは、イエス様を第一にしていると思っていても、いつの間にか違ったことに心が奪われていることも少なくありません。そのことにさえ気づいていないこともあります。そのような時には悔い改めて、主に立ち帰らなければなりません。そのためにもいつも主に向かい、主のみこころが何であるのか、何が良いことで完全であるのかをわきまえしるために、心の一新によって自分を変えなければなりません。遅すぎた!ということがないうちに。

 

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

あなたが主を求めるなら、必ず与えられます。探すなら、見つかります。たたくなら、開かれます。ただ遅すぎることがないように。そのとき、主を呼んでも、主は答えてくれません。主を捜し求めても、見出すことはできません。それは今でしょ。今が恵みの時、今が救いの日なのです。

出エジプト記7章

出エジプト記7章から学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.バロの心をかたくなにされた主(1-7)
「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。しかし、ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない。そこで、わたしはエジプトに手を下し、大いなるさばきによって、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの子らをエジプトの地から導き出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」そこでモーセとアロンはそのように行った。主が彼らに命じられたとおりに行った。 彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」

モーセの前には多くの障害が立ちはだかっていました。彼は民を説得することに失敗し、全く自身を失っていました。それでも主はモーセを見放しませんでした。何度も躊躇するモーセに対して、忍耐深く語りかけられます。1節をご覧ください。

「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」

モーセを神の代理人とするということです。そしてアロンは、モーセの言ったことを伝えるモーセの代弁者です。モーセがは神が命じることを、ことごとくファラオに告げなければなりませんでした。それは、イスラエルの子らをその地から去らせるようにということです。

 

けれども、主はファラオの心を頑なにされるので、ファラオは彼のことばを受け入れません。これは不思議なことです。イスラエルをエジプトから連れ出そうとしているのに、ファラオの心を頑なにするというのはどういうことでしょうか。それは、主がファラオの心を頑なにするというよりも、いくら説得しても頑なであり続けるファラオの心を知っておられた主が、その頑な心を用いて、エジプトの地でしるしと不思議を行い、イスラエル人をエジプトから連れ出されるということです。それは、「エジプトは、わたしが主であることを知る」ようになるためです。つまり、エジプトの奴隷であったイスラエルの神の方が、彼らの神々よりも強いということを示そうとしておられたのです。

 

それに対してモーセとアロンはどうしたでしょうか。6節です。「そこでモーセとアロンはそのように行った。主が彼らに命じられたとおりに行った。」

これまでは、なかなか主に従うことができませんでした。「そんなこと言ったって・・」といつも否定的にしか応答することができなかったのに、ここでは素直に従っています。どうしてでしょうか。それは彼らが主の計画をはっきりと知ったからです。

これは、私たちクリスチャンも同じです。もし私たちが信仰の落ち込みから解放されたいと願うなら、自分自身に焦点を合わせるのではなく、神のことばに焦点を合わせなければなりません。そして、神が命じられるとおりに行なわなければならないのです。わかったら行動するのではなく、行動すればわかるようになるのです。私たちは自分が納得するまで行動しないと、自分の思いや考えを優先させることがありますが、そのような姿勢ではいつまでも神に従うことはできません。神のことばに従わないなら、神の力や恵みを体験することはできないのです。神のことばを信じて従うこと、それが私たちに求められています。

 

「彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」彼らの年齢をどのように考えたらよいでしょうか。これからのしるしと不思議は、何と80歳と83歳の二人の老人に与えられました。これはどういうことかというと、このイスラエルの出エジプトの出来事は人間の力ではなく、神の力によって成されるということです。

アメリカの大衆伝道者D・L・ムーディーは、モーセの人生の最初の40年間は、ファラオの宮殿で自分がそれ相応の人間であることを学び、次の40年間は、ミディアンの荒野で自分が何者でもないことを学んだ。そして最後の40年間は、神が無力な者を用いてみわざを行う方であることを学んだ、と言っています。つまり、モーセにとって80歳というのは、自分の知識と経験が最高潮に達した時であったということです。神にとって用いやすい状態になりました。これまでの80年は、そのための準備の時でした。皆さんは今、人生のどのあたりを歩んでいるでしょうか。どの段階にあっても、神のご計画の中を歩むことが重要ですね。

 

Ⅱ.杖が蛇に(8-13)

 

次に、8節から13節までをご覧ください。

「また主はモーセとアロンに言われた。「ファラオがあなたがたに『おまえたちの不思議を行え』と言ったら、あなたはアロンに『その杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言え。それは蛇になる。」モーセとアロンはファラオのところに行き、主が命じられたとおりに行った。アロンは自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げた。すると、それは蛇になった。そこで、ファラオも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらエジプトの呪法師たちもまた、彼らの秘術を使って同じことをした。彼らがそれぞれ自分の杖を投げると、それは蛇になった。しかし、アロンの杖は彼らの杖を?み込んだ。それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」

モーセとアロンはファラオのところに行き、主が命じられたとおりに行いました。それはファラオとその家臣たちの前に自分たちが持っていた杖を投げるということです。すると、それは蛇になりました。それで、ファラオもエジプトの知恵のある者と呪術者を呼び寄せて同じことをさせると、彼らもまた、杖を蛇に変えることができました。彼らは蛇使いであって、催眠術や奇術によって、蛇やワニなどを一時的に硬直状態にすることができたのでしょう。それは、単なる「マジック」というよりは、悪魔的なものだと考えられます。悪魔もそのような奇跡を行って人々を驚かし、人々の心を捉えることができるのです。しかし、アロンの杖が彼らの杖を呑み込んでしまいました。それは、神の力がサタンの力よりも勝っていたことを表しています。同じようなことができても、神の力は圧倒的な力があるのです。  「それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」(13)

この出来事を目撃しても、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れませんでした。けれども、そのことでモーセとアロンは動揺したり、落ち込んだりしていませんでした。なぜでしょうか。彼らの目が主に向けられていたからです。彼らは、主が言われたとおりに行いました。私たちも、自分に向けられている目と心を自分ではなく主と主のことばに向けるべきです。そうすれば、目の前にどんな障害があっても、それを乗り越えることができるのです。

 

Ⅲ.ナイル川を血に(14-25)

 

それでモーセはどうしたてしょうか。14節から18節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「ファラオの心は硬く、民を去らせることを拒んでいる。あなたは朝、ファラオのところへ行け。見よ、彼は水辺に出て来る。あなたはナイル川の岸に立って、彼を迎えよ。そして、蛇に変わったその杖を手に取り、 彼に言え。『ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして言われました。わたしの民を去らせ、彼らが荒野でわたしに仕えるようにせよ、と。しかし、ご覧ください。あなたは今までお聞きになりませんでした。主はこう言われます。あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知る、と。ご覧ください。私は手に持っている杖でナイル川の水を打ちます。すると、水は血に変わり、

7:18 ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなります。それで、エジプト人はナイル川の水を飲むのに耐えられなくなります。』」

 

それで、彼らはどうしたでしょうか。15節をご覧ください。「見よ、彼は水辺に出て来る」というのは、彼が礼拝のために出て来るということです。ナイル川を拝みに出て来るのです。エジプトでは、肥沃な土地をもたらしこの国に潤いをもたらしているナイル川を、神として拝んでいました。そのナイル川の岸に立ってファラオを迎え、蛇に変わったその杖を手に取って、「ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして言われました。わたしの民を去らせ、彼らが荒野でわたしに仕えるようにせよ」と言え、と言うのです。そのことによって、主がエジプトにさばきを下すからです。それによって彼らが、主こそ神であるということを知るため(17)です。

 

その災いは、ナイル川の水が血に変わるという災いでした。するとナイル川の水は地に変わり、ナイル川の魚は死に、臭くなります。それで、エジプト人はナイル川の水を飲むことができなくなります。彼らが神として拝んでいたナイル川がこのようになることは、エジプトの神々の敗北を表していました。そうして彼らは、イスラエルの神、主がとのように偉大な神であるのかを知るようになるのです。これがこれから始まる10の災いの最初の災いでした。

 

次に、19節から21節までをご覧ください。 「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、

その川、水路、池、すべての貯水池の上に伸ばしなさい。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになる。』」モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った。モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。エジプト全土にわたって血があった。」

 

ここで主は、その杖をナイル川だけでなく、エジプト中の水という水に伸ばすようにと命じられました。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになります。すると、ナイル川の水はすべて血に変わりました。こんなことがあるのでしょうか。このナイルの水が血に変わるなんて考えられません。それである人たちは、これは実際に血に変わったのではなく、血のように赤くなったのにちがいないと考えます。赤潮ですね。ヨエル2章31節に「月は血に変わる」という表現があるので、ここでもナイル川が地のように赤くなったということだ、と言うのです。しかし、水が血に変わったというのは、成分が透明な水とは違ったものになったことは確かです。なぜなら、すべての魚が死んだし、川が臭くなりました。そして、水も飲めなくなりました。これらのことは、明らかにただ水が赤くなったというのではなく、血地になったということです。それは神の超自然的なしるしであったのです。

 

その結果、どうなったでしょうか。22節から25節です。

「しかし、エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。ファラオは身を翻して自分の家に入り、このことにも心を向けなかった。全エジプトは飲み水を求めて、ナイル川の周辺を掘った。ナイル川の水が飲めなかったからである。主がナイル川を打たれてから七日が満ちた。」  ところが、エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをしました。それでファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れようとしませんでした。けれども、なぜエジプトの呪法師たちはこれを水に変えられなかったのでしょうか。水を赤くすることができるなら、透明にすることもできたはずです。それなのに彼らにはできませんでした。それでエジプト全土は飲み水を求めて、ナイル川周辺に井戸を求めて掘らなければならなかったのです。

 

すると、ファラオはどうしたでしょうか。彼は身を翻して自分の家に入り、このことに心を向けませんでした。これは、国家の指導者としては、あまりにも無責任な態度です。彼は一般庶民のように水に困ることはなかったでしょうが、一般のエジプト人は、生きていくために水が必要だったので必死でした。彼らは井戸を掘らなければなりませんでした。それが7日間も続いたのです。それでエジプト人たちは苦しみました。それなのに彼はそのことに全く心を向けなかったのです。何とひどい王でしょう。

 

でも、私たちの神は、そのような方ではありません。私たちの神は、私たちが苦しみの中から主に呼び求めると、答えてくださる方です。詩篇55:16,17には、「私が神を呼ぶと主は私を救ってくださる。夕べに朝にまた真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。」とあります。

また、エレミヤ書33章3節には、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」とあります。

私たちの神は、私たちの叫びを聞き、助けの手を差し伸べてくださいます。このような神は、ほかにはいません。主こそ神であり、私たちをすべての苦しみから救ってくださる方なのです。ですから、私たちは、この方に信頼し、この方に助けを求めて叫ぼうでありませんか。主はあなたに心を向けてくださっておられるからです。

ヨハネの福音書7章14~24節「正しい判断を下すために」

ヨハネの福音書7章から学んでおります。きょうは、正しい判断を下すにはどうしたら良いかというテーマでお話ししたいと思います。私たちは、いつも「どうしたら良いか」で悩みます。自分では正しい判断を下したつもりでも、必ずしもそれが正しくなかったという場合がたくさんあります。むしろ、そうでない場合の方が多いかもしれません。正しく判断することは、それほど難しいことです。いったいどうしたら正しい判断を下すことができるのでしょうか。きょうは、このことについて主の言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.神のみこころを行おうと願うこと(14-17)

 

まず、14節から17節までをご覧ください。

「祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

 

この祭りとは仮庵の祭りです。この祭りがすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められました。すると、ユダヤ人たちは驚いて言いました。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか」。一般的に牧師が神学校で聖書を学ぶようにユダヤ教の指導者たちはラビの学校で学びますが、イエスはそこで正規に学んだことがないのに聖書をよく知っているのに驚いて、彼らは不思議に思ったのです。

 

それに対してイエスは、こう言われました。16節です。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

イエス様の教えは、当時のラビたちの教えとは全く違うものでした。ラビたちの教えというのは、自分たちの教えを裏付けるために、有名なラビたちの言葉を引用するというものでしたが、イエス様の教えはそのような権威に裏付けられたものではなく、いわばオリジナルのものというか全く新しいものでした。しかもそれは、イエスを遣わされた方である神のみこころに適った教えでした。つまりそれは伝統に縛られた権威主義的なものではなく、また、自分の独自の考えに基づいたものでもなく、神のみこころに基づいたものであったということです。ユダヤ人の指導者たちは、そのことが理解できませんでした。ですから、自分たちの教えとは違う、全く新しい教えを聞いた時、「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」と驚いたのです。

 

いったいどうしたら、それが神から出たものであるかがわかるのでしょうか。17節にこうあります。「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」

そうです、だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人は、それが神から出た教えなのか、そうではないかがはっきりわかるのです。私たちが何かの教えを聞いた時、それが神からのものであるのかそうでないのかを判断するためには、それを聞いた私たちが神のみこころを行おうとしているかどうかで決まります。確かに、何が真理なのかを見分けることは難しいことですが、いつも神のみこころを行いたいと願っているなら、必ず見分けることができるのです。私たちがなかなか正しい判断を下すことができないのは、正しい情報を持っていないということもありますが、それよりも私たちの中に自分に都合のよいものは受け入れ、そうでないものは排除しようという働きがあるからです。でも、そうでなく、いつも神のみこころを行いたいと願っているなら、たとえそれが自分にとって都合が悪いことでも受け入れ、正しく判別することができるのです。

 

またここには、「神のみこころを行おうとするなら」とあるように、ただ神のみこころを知ろうとするだけでなく、それを行おうとすることが大切です。つまり、神のみこころを単に知識としてではなく、自分の生活の中に適用し実践していこうとする姿勢が求められるということです。

 

今年7月にさくらチャーチにアメリカカリフォルニア州フレズノ市からサマーチームが来会します。今回は7名のチームなので、それだけの人数が宿泊できる場所をどうやって確保しようかと祈っていたところ、ある方を通して車で35分くらいのところにかつて古民家で民宿を営んでおられたクリスチャンがいるということを知り、現場に行ってお会いしました。この方はまだ30歳代の若い青年で、父親が水道工事の会社を経営していることから、それを引き継いて水道の工事をしておられます。「若いのにすごいですね。どうやって覚えたんですか。」と尋ねると、こう言いました。「いや、自分は小学校の時から父親の跡をついて行って一緒にやっていましたから、実際この仕事を始めるようになってからは7~8年ですけれど、小学校の時からやっているので、結構できちゃうんですよ。」

なるほど、水道工事の知識も必要ですが、実際に小さい時から工事に携わってくる中で見えてきたことが大きいんですね。つまり、「行動」が「知識」をもたらすということは、ある意味で本当なのです。

 

「納得しなければ実行しない」という人がいますが、そういう態度ではいつまでも実行に移すことはできないでしょう。なぜなら、納得するかしないかはあなた次第だからです。大切なのは、あなたが納得できるかどうかではなく、納得できなくとも神のみこころは何かを知り、それを行おうとすることです。そうすれば、そのうちに納得できるようになります。

 

ホセア書6章3節に、「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」とありますが、どうやったら知ることができるのでしょうか。主を知ることを切に追い求めることによってです。そうすれば、主のみこころが何かがはっきりと見えるようになります。

 

あなたは、主を知ることを切に追い求めておられるでしょうか。確かに、神のみこころを知ることは簡単なことではありませんが、もうすでにはっきり示されていることもたくさんありますから、まずそれを行いさらに深い真理を求めていくなら、神はじきに多くのものを判別する知恵を与えてくださることでしょう。

 

Ⅱ.神の栄誉を求める(18)

 

第二のことは、自分の栄誉ではなく、神の栄誉を求めるということです。18節をご覧ください。ここには「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」とあります。

 

誰でもよく考えればすぐに、このことばが教えていることがどういうことかわかると思います。自分から語る人は自分の栄誉を求めますが、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。つまり、その人が何を求めているかによって、その人がどういう人であるかがわかるということです。自分の栄誉を求めている人は、自分のことを語りますが、神の栄誉を求めている人は、神のことを語るからです。つまり、実を見て、木を知れ、というのです。イエス様は、どのようにして「偽預言者」を見分けたら良いかを、この木と実のたとえでお話ししてくださいました。

「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:15-20)

偽預言者と本物の預言者とを見分けるのは難しいです。彼らは羊の衣を着てやって来ますが、内側は貪欲な狼です。「羊の衣を着て」というのは、見たところ無害で、ソフトな姿で近づいてくるということです。ですから、出会う人は警戒心を緩めて、かえって好感を抱いてしまうのです。

しかし、彼らの正体は見た目とは反対の「貪欲な狼」です。このような凶暴性を持った偽預言者たちによってもたらされる被害は大きく、神様との関係や兄弟姉妹との関係を取り返しがつかないほどに破壊してしまいます。こうした偽預言者に注意しなければなりません。どうしたら見分けることができるのでしょうか。何よりも見分けるポイントが大切です。つまり、実によって見分けるということです。茨からぶどうは採れないし、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結びますが、悪い木は悪い実を結びます。ですから、実によって判別するようにと教えられたのです。

 

ここでも同じことが言われています。自分から語る人は自分の栄誉を求めますが、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。まさに、イエス様はそのような方でした。ピリピ人への手紙2章6~11節にはこうあります。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:6-11)

キリストは、自分の栄誉ではなく、神の栄誉を求めました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになられたのです。

 

今の時代にあって誰が神の人であるのかを、どうやって見分けることができるでしょうか。それは、その人が言っている言葉を聞けばわかります。もしその人が「私を見てください、私はこれだけのことをやりました」と言うなら、そこには真理はありません。自分の栄誉を求めているからです。でも、もし「この人を見よ」と十字架のキリストを指し示すなら、その人は正しい人です。その人こそ神によって立てられた人だと言えるでしょう。十字架の陰に自らを隠そうとする人こそ、まことの牧者です。その人は、ただ神の栄誉を求めています。このような人こそ真実で、不正がありません。

 

先日、「1番だけが知っている」というテレビの番組で、ハンセン病国家賠償訴訟について報じていました。これは「らい予防法」という法律によって強制的に隔離された人たちが、その法律が間違っていたことを国が認め、国に賠償と謝罪を求めるというものでした。しかし、法律が間違っていたと国が認めることはあり得ないことで、その裁判は困難を着褒めましたが、徳田弁護士を中心とした137人の弁護団によって戦い、裁判から2年半後の1998年に「らい予防法」し違憲との判断が下され、国が控訴を断念したことから裁判が結審しました。それはアリが巨大な像を倒した瞬間でした。当時の首相であった小泉首相の会見後、原告団の記者会見が行われましたが、この晴れ舞台に弁護士の姿はありませんでした。主役は原告団であって、自分たちは脇役にすぎないと、表に出ることを避けたのです。弁護士であれば自分の手柄を誇りたいところでしょう。それなのに、自分たちの栄誉を求めようとしなかったこの弁護士は、本物だなぁと思いました。

 

私たちも、このような者になることを求めましょう。自分の栄誉ではなく、キリストを遣わされた方の栄誉を、神の栄光が現されることを求めましょう。そうすれば、見えるようになり、神のみこころが何なのかを正しく判断することができるようになるのです。

 

Ⅲ.うわべで人をさばかない(19-24)

 

第三のことは、うわべで人をさばかないということです。19節から24節までをご覧ください。19節には、「モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」とあります。

「あなたがた」とは「ユダヤ人たち」のことです。ここでイエス様はモーセの律法を取り上げ、彼らが神を敬っていないことを指摘しています。なぜなら、彼らはモーセの律法を一生懸命に守っていると言いながら、イエスを殺そうとしていたからです。律法には何と書いてありますか?律法には「殺してはならない」とあります。それなのに彼らはイエスを殺そうとしていました。どういうことですか。律法を守っていないということです。彼らは律法を守っているどころか守っていなかったのです。

 

すると、群衆が答えました。20節です。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」どういうことですか。群衆は、まさかユダヤ教の指導者たちがイエスを殺そうとしていることなど全く知らなかったので、「あなたがたは、なぜ私を殺そうとするのですか。」と言われたイエス様の言葉を聞いて、気が狂っていると思ったのです。「あなたは悪霊につかれている」と言いました。

 

するとイエス様は、それが間違った判断であることを示すために、21節でもう一つの律法を取り上げて説明しています。それは「安息日」の律法です。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。」というのは、5章で見たあのベテスダの池での出来事です。38年もの間病気で伏していた人が、「床を取り上げて歩きなさい。」と言われたイエスの言葉に従ってそのとおりにすると、その人はすぐに治って、床を取り上げて歩き出しました(5:1-9)。ところが、その日は安息日でした。つまり、安息日に病人をいやしたことが問題となったのです。ユダヤ人たちとの論争はそこから始まりました。ユダヤ人たちは、イエスが簡単に安息日の規定を破ったのを見て、驚いたのです。もっとも、イエス様は安息日の規定を破ったのではなく、あくまでも彼らがそのように思っていただけでした。彼らは、安息日律法そのものを間違って理解していたのです。

 

そのことを説明するために、今度は「割礼」のことを取り上げています。22節です。「モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。」

どういうことですか?「割礼」とは、モーセから始まったものではなく、父祖たちから始まったことでした。父祖たちとはモーセたちの時代よりも500年も古い時代です。つまり、律法が与えられる前からあったということです。それはアブラハムの時代のことでした。神はアブラハムに、彼らが神の民であるというしるしに、「割礼」を受けるように命じられたのです(創世記17:9)。それはその子が生まれて八日目に施すようになっていたため、それが安息日に当たっていたとしても、それをしなければなりませんでした。それは彼らが神の民のしるしですから、とても重要なことだったのです。であれば、イエスが安息日に病気で伏していた人を癒すことがどうして問題になるのでしょうか。おかしなじゃないですか。23節には、「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。」とあります。だったら安息日には、何もしてはいけなかったはずです。それなのに、割礼は大丈夫だけれども、人の病気を癒すことは悪いというのは変な話です。論理に一貫性がありません。いったい何が問題だったのでしょうか。

 

24節をご覧ください。これが彼らの問題でした。ご一緒に読みましょう。「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」

群衆は、安息日の規定と割礼の規定とは矛盾しないものであることを知っていました。それなのに、イエス様が安息日に行ったいやしを認めることができなかったのは、指導者たちの言葉に影響されて、正しい目でイエスを見ることができなかったからです。いわゆる偏見です。彼らは最初から、正しい判断を下すことを放棄していたのです。

 

それは何も当時のユダヤ人たちだけのことではありません。私たちも、何かの判断を下さなければならないとき、こうした偏見によって判断に狂いが生じ、正しい判断を下すことができない時がありますが、うわべで人をさばいていることがあるのです。「うわべ」とは、「見かけ」のことです。「見かけ」で人をさばいてはいけません。なぜなら、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)からです。

 

これはとても有名な話です。主が最初のイスラエルの王であったサウルを退けた時、ベツレヘムにいるエッサイという人の息子の中から次の王を選ぶようにと言いました。サムエルは主が告げられたとおりにベツレヘムのエッサイのところにやって来ると、そのことを彼に告げました。そして、エッサイとその息子たちを祝宴に招くと、背が高くて、なかなかハンサムな息子がやって来ました。名前はエリヤブと言います。サムエルは彼を見たとき「彼だ!」と思いました。しかし、主はサムエルに言いました。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)と言われました。

そこでエッサイはアビナダブという別の息子を呼んで、サムエルの前に進ませましたが、サムエルは、「この者も主は選んでおられない。」と言いました。じゃ次の息子の「シャンマ」かなぁと彼を進ませましたが、サムエルの答えは「No」でした。エッサイは7人の息子をサムエルの前に進ませましたが、サムエルは「この者たちではない」と言いました。「子どもたちはこれで全部ですか。」と言うと、エッサイが、「いや、まだ末の息子がいますが、今、羊の番をしているような息子ですよ。」と言うと、「その子を連れて来なさい。」と言われたので、エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させました。その子は血色が良く、目が美しく、姿も立派でした。その時、主は言われました。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」と。それでサムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油を注いだのです。それがイスラエルの二番目の王で、イスラエルの絶頂期を気付いたダビデ王です。彼は兄弟たちの中では一番小さな者でしたが、神が選んでおられたのは、何とその小さな息子のダビデだったのです。

 

私たちは時として、こうした「うわべ」で人を判断してしまうことがあります。でも表面的に立派であれば必ずしも立派であるかというとそうとは限りません。英語のことわざに、All that glitters is not gold.ということわざがあります。訳すと、「光るものすべて金ならず」です。光っているものがすべて金であるとは限りません。外面に気をとられて内面を見誤ってはなりません。この英語の「glitters」というのは、家内の説明では、子供たちがクラフトでよく使う金色のピカピカに光る粉のことだそうです。あれは後始末が大変で、どんなにコロコロを使って取ろうとしてもなかなか取れません。それが「glitters」です。それはただピカピカに見せているだけですが、それが必ずしも金であるわけではないのです。その人の人となりは、その人の隠れた行いなり、人の目にはふれない性格などに見られるのであって、うわべで判断してはいけないのです。

 

それとは反対に、どんなに表面的に光っていないような人でも、すべてが悪だと性急に決めつけてはなりません。見た目ではパッとしないような人でも、神のことばによっていのちが芽生え、聖霊の圧倒的な力によって変えられて、神に大きく用いられることもあります。私はそう信じています。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られた人です。古いものは過ぎ去って,見よ、すべてが新しくなりました。キリストによって、だれでも、新しく変えられます。

 

4年半前に、教会のO兄が天に召されました。それは突然のことでした。水曜日の祈祷会が終わって家に戻り、その晩に頭が痛いと救急車で病院に運ばれると、その日のうちに亡くなられました。翌々日の金曜日に奥様から電話があり、事情を聞いてびっくりしました。あんなに元気だったのに突然召されるなど考えられませんでした。その翌日の土曜日に宇都宮の駒生で行われた葬儀で司式をしましたが、私たちの教会にO兄を送ってくださった主に、心から感謝しました。

O兄は、なかなか周りに理解されにくいタイプの人でした。かつては大手の企業のチェーン店の店長を勤め、定年になるとそれを奥様に任せて自分は掘っ立て小屋みたいなところに住み、仙人のような生活をしていました。お酒が好きで小屋にはたくさんの酒瓶がありました。Oさんが教会に来たのも、コンビニにお酒を買いに来た時、目の前に私たちの教会があったのがきっかけでした。何日も風呂に入っていなかったのか、近くによるとかなりにおいがしました。「何だろう、この人は・・」と不思議に思いましたが、彼の聖書を見るとどこも赤線がびっしり引かれてありました。本当に不思議な人でした。何よりも聖書の話をじっと聞いていました。最後の祈祷会の話は、イスラエルが荒野を行軍した時の形でした。それは上空から見ると十字架の形でした。十字架こそ荒野を旅するイスラエルにとって勝利の秘訣だった。それはイエス・キリストご自身を指し示していたんですと話すと、興奮して「先生、それが一番強いんだよね。」と言われました。「何でこんなことを知っているのかなぁ」と思いましたが、その学びが最後でした。

しかし、O兄が教会に来て洗礼を受けてから、本当に変わったと思います。変わった人が変えられてもっと変わったのではなく、すばらしい人に変えられました。匂いは相変わらずでしたが、神に向かう姿勢が見事でした。毎週の礼拝と祈祷会には欠かさず出席しました。雨の日も雪の日も、自転車を引っ張って来ました。ある時は、大雪で来られないだろうと思っていたら、「いや、大変だった。自転車を引っ張って来たら1時間半もかかったよ。」と、自転車を引っ張って歩いて来られたのです。

それは私にとって大きな慰めでした。神の言葉を求めて、自転車を引っ張っても教会に来るというのは考えられないことだったからです。そんなことを葬式でお話しすると、O兄のお母さんが棺に手をかけて、「政行、聞いたよ。牧師さんから聞いた。随分、頑張ったんだね。」と言われました。O兄は、ご長男でしたが、家族の中でも変わり者で、ご両親やご兄弟からも相手にされないところがあったんですね。だから、お母さんがその話を聞いて、「そうだったんだ」と驚いておられたのです。

でも、これは本当です。イエス様を信じて、イエス様によって新しく生まれ変わりました。本当に新しい人に変えられました。何よりもうれしいことは、そのような彼を私たちの教会が受け入れ、愛をもって接してくれたことです。

 

うわべで人をさばかないで、正しいさばきをしなければなりません。常に神のみこころを求め、神の栄誉を求め、神の目をもって、正しい判断ができるように神の助けを仰ごうではありませんか。