出エジプト記11章

きょうは、出エジプト記11章から学びたいと思います。まず1節から3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.もう一つのわざわい(1-3)

 

「主はモーセに言われた。「わたしはファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す。その後で彼は、あなたがたをここから去らせる。彼があなたがたを去らせるときには、本当に一人残らず、あなたがたをここから追い出す。さあ、民に言って聞かせよ。男は隣の男に、女は隣の女に、銀の飾りや金の飾りを求めるように。」主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。」

 

いよいよ第十番目のわざわいが下ろうとしています。きょうの箇所は、その挿入句の部分です。従って、10章29節と11章4節はつながっていると考えられます。10章29節には、「モーセは言った。「けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。」とありますが、実際にはまだファラオの前を去っていないのです。そのファラオとのやり取りの中で、主がモーセに語られたことが1~3節にまとめられているのです。

 

主はモーセに「ファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す」と言われました。その後でファラオは、イスラエルをエジプトから去らせます。その時には、大人も、子どもも、男も、女も、家畜も、あらゆるもののすべてをエジプトから追い出します。

 

それだけではありません。2節をご覧ください。主は、イスラエルの民がエジプトから、金の飾りや銀の飾りを求めるようにと言われました。どうして主はこのようなことを要求されたのでしょうか。それは、イスラエルの民が後に荒野に導かれそこで幕屋を造るようになる時、それを造る材料が必要だったからです。奴隷であったイスラエル人には金銀がなかったので、エジプト人から受け取るようにしたのです。すごいですね。主はずっと先のことまでご存知で、その準備を進めておられたのです。しかし、それはエジプト人から奪い取るのではなく、エジプト人のほうから進んで差し出してくれるようになります。なぜなら、主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされるからです。5節には、「モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。」とあります。こんなにもひどいさばきが自分たちに下っているのに、彼らはなぜモーセとイスラエルの民に好意を持つことができたのでしょうか。一言で言えば、それは主がそのようにされたからです。モーセを通して成された神の御業を見て、彼らはまことの神を認めるようになりました。それでエジプト人はモーセと神の民であるイスラエル人に対して好意を持つようになったのです。

 

使徒の働き5章12~14節にも同じようなことが記されてあります。使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議が人々の間で行われたとき、人々はクリスチャンを尊敬するようになりました。

「さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」

これはアナニヤとサッピラ夫婦が、聖霊を欺いて地所の代金の一部を自分のために取っておいたことで神の怒りが下り、彼らの息が絶えた出来事の後のことです。それを聞いた教会全体とすべての人たちに大きな恐れが生じましたが、主を信じる人たちはますます増え、男も女も大勢になりました。それは、民の中に彼らに対する尊敬があったからです。彼らは、その仲間に加わろうとはしませんでしたが、弟子たちをとても尊敬していたので、主を信じる者たちはますます増えて行ったのです。

 

ここでも同じです。エジプト人たちは、神のわざわいによって苦しんでいましたが、主の大いなる御業を見てモーセとイスラエルの民をたいへん尊敬するようになったのです。私たちも、聖霊によって主の御業を行うなら、周りの人たちから好意を持たれるようになるでしょう。

 

Ⅱ.エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる(4-8)

 

次に4~8節をご覧ください。

「モーセは言った。「主はこう言われます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そして、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。このようなことは、かつてなく、また二度とない。』しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、だれに対してもうなりはしません。こうして主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るようになります。あなたのこの家臣たちはみな、私のところに下って来て、私にひれ伏し、「あなたもあなたに従う民もみな、出て行ってください」と言うでしょう。その後私は出て行きます。」こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った。」

「モーセは言った」とは、ファラオに対して言ったということです。つまり、これは10章29節の続きであるということです。モーセはまだファラオの前にいて、ファラオに語ったのです。それは、どのような内容だったでしょうか。それは、主がエジプトの中に出て行き、エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ、ということでした。それで、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こるということでした。このようなことはかつてなかったし、また二度とありません。

 

聖書の中で、長子はとても重要な意味がありました。それは、初めに生まれてきた、というだけでなく、最優先されるべきもの、他と比べてとびぬけて優れているもの、一番良いいもの、という意味があります。民族の存続は長子を通して維持されます。その長子が死ぬということは、民族の存亡にかかわることであり、大きな痛手となります。また、ファラオの長子は、神の地位を継承する器でしたので、その器が死ぬということは、神の権威がはずかしめられることを表していました。それがエジプト全土で起こります。それはこれまで起こったことがないような大きな叫びです。

 

ところで、4節には、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く」とあります。何のためにエジプトに出て行くのでしょうか。わざわいをもたらすためです。これまではすべてモーセとアロンの手によって行われてきましが、これからは主ご自身によって行われます。それは今までのものが不十分であったからではありません。モーセとアロンによって行われたときも主の命令によって行われたわけですから、主がわざわいを下されたことと同じです。しかしここで「わたしはエジプトの中に出て行く」と言われたのは、これまでのものとは違い、主が直接さばきを行われることを表していたのです。これが、主がこれまでエジプトに下されたさばきの集大成であって、最後のさばきであるということです。それは単なるさばきではなく、キリストの十字架の贖いを指し示す出来事でもありました。それはかつてなかったようなさばきで、また、二度とないであろうさばきです。

 

しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、うなりません。なぜでしょうか。イスラエルが安全に出て行くためです。真夜中に物音がすると、犬はうなり声を上げます。その犬がだれに対してもうならないというのは、イスラエルの民は何の妨げも受けることもなく、エジプトを出て行くようになるということです。イスラエル人とエジプト人との間には区別がなされていて、イスラエル人は少しも災害を受けることがないからです。

 

すでに、この区別についての言及が何度かありました。8章23節には、第四のわざわいに関して、「わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。」とあります。アブに刺されないように、アブの群れがいないようにゴシェンの地を特別に扱ってくださったのです。また9章6節でも、第五のわざわいに関して、すべての家畜に重い疫病が起こることがないように、イスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別してくださいました。さらに9章26節でも、第七のわざわいに関して、イスラエルの子が住むゴシェンの地には、雹が降らないようにしてくださいました。そして10章23節でも第九のわざわいに関して、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があるようにされました。ここでも同じです。主はイスラエルをエジプトと区別して、彼らの上にはわざわいがないようにしてくだいました。

 

それは新約の時代に生きる私たちに対する約束でもあります。主はキリストを信じる私たちがわざわいを受けることがないように、この世と区別しておられるのです。パウロはこう言っています。

「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。」(Ⅰテサロニケ5:4-5)

私たちはみな、光の子ども、昼の子どもです。夜の者、闇の者ではありません。なるほど、ここで主が4節のところで、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く」と言われたことの意味が分かるような気がします。なぜ「真夜中」に出て行かれるでしょうか。それは、彼らは夜の者、闇の者だからです。そのような者たちにわざわいが下るもっともふさわしい時が「真夜中」だったのでしょう。しかし、私たちは光の子ども、昼の子どもです。ですから、主のわざわいを受けることはありません。主がそのように区別してくださったからです。

 

8節をご覧ください。第十のわざわいが下ると、ファラオの家臣たちはみな、モーセのところに下って来て、ひれ伏して、エジプトを出て行ってくれと懇願するようになります。この時点で、ファラオの威光は完全に地に落ちることになります。モーセが優位になるのです。その後、イスラエル人は堂々とエジプトを出て行くようになります。そのように言うとモーセは、怒りに燃えてファラオのところから出て行きました。これが決定的な断絶です。どうしてモーセはここで怒りに燃えたのでしょうか。それは、モーセがこれまで9回にわたって神のことばを告げたにもかかわらず、ファラオが受け入れなかったからです。もはや神のあわれみの時が終わりました。

 

哀歌3章23-24節に、「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」」とあります。私たちが滅びうせないのは、主のあわれみによるのです。主のあわれみは尽きないからです。しかし、それがいつまでも続くわけではありません。それが閉ざされる時がやって来ます。それゆえ、私たちはこの主のあわれみをないがしろにしないで、主に信頼して歩む者でなければなりません。モーセは、神のことばを頑なに拒んだファラオに対して、今や神のあわれみが閉ざされたことを知り、神の怒りを燃やしたのです。

 

Ⅲ.神の奇跡をすべて行ったモーセとアロン(9-10)

 

最後に9節と10節を見て終わりたいと思います。

「主はモーセに言われた。「ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない。わたしの奇跡がエジプトの地で大いなるものとなるためである。」モーセとアロンは、ファラオの前でこれらの奇跡をすべて行った。主はファラオの心を頑なにされ、ファラオはイスラエルの子らを自分の国から去らせなかった。」

 

ファラオは、最後の警告をも無視します。彼は、最後までイスラエルの子らを行かせませんでした。それは主が彼の心を頑なにされたからです。それによって、主の御業がエジプトの地で大いなるものとなるためです。モーセとアロンは、ファラオの前で主が仰せられたすべての奇跡を行いましたが、主がファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを自分の国から去らせなかたのです。それで今十番目のわざわい、最後のわざわいが下ろうとしているのです。私たちはこのことから何を学ぶことができるでしょうか。神に従うことには忍耐と犠牲が伴うということです。ファラオのあまりもの頑なさに、モーセとアロンは途中で任務を投げ出しそうになることもありましたが、彼らは最後まで全うしました。それは、彼らはファラオとの戦いの中でそのことを学んでいったからです。

 

それは私たちも同じです。事態が思うように進まない時、私たちは途中で捨ててしまいたいと思うことがありますが、大切なのは、最後まで忍耐して神のみわざを行うということです。へブル人への手紙10章35-36には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」とあります。私たちが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。自分の目の前の状況が思うようにいかなくても、忍耐をもって最後まで神のみこころを行うなら、必ず約束のものを手に入れることができます。もし、モーセとアロンが最初から事態が順調に進んでいたとしたら、彼らは傲慢になっていたでしょう。しかし、なかなか思うように進まない中で神の教訓を学び、最後まで忍耐することができたのです。

 

パウロは、「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)と言っていますが、この「走るべき道のりを走り尽くす」ということです。今、教会で墓地の購入を検討していますが、私は自分の墓石にこのみことばを入れられたらなぁと思っています。自分の人生を振り返ったとき、そこには何も輝かしいものはなかったかもしれないが、主から与えられた道のり、行程を、走り尽くした生涯だったと言える、そんな人生を全うしたいと思っています。

 

 

11節には、ファラオの心を頑なにされたのは主ご自身であったとあります。主がそのようにされたのです。私たちの人生には本当に不可解なことが起こりますが、神の許しなしに起こることは一つもありません。ですから、それがどんなことであっても、そこに主の主権があることを認め、主にすべてをゆだね、主が成してくださることを待ち望みたいと思います。主は、私たちの人生において最善をなされるお方なのです。