ヨハネの福音書17章20~26節「すべての人を一つにしてください」

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十字架を前にしてイエス様は、目を天に向けて祈られました。まず、ご自身のために祈られました。そして、弟子たちのために祈られました。今日の箇所では、すべての時代の、すべてのクリスチャンのために祈っておられます。20節には、「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」とあります。

私たちは、弟子たちが話したことばによってイエス様を信じました。それは単にことばだけでなく彼らが書き記したことば、聖書のことばを通して信じました。イエス様は、そのすべてのクリスチャンたちのために祈られたのです。いや、今も天で祈っておられます。いったいどのようなことを祈られたのでしょうか。

Ⅰ.すべての人を一つにしてください(21-23)

まず、21-23節までをご覧ください。「21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」

イエス様はまず、すべてのクリスチャンを一つにしてくださいと祈られました。クリスチャンが一つになるというのはどういうことでしょうか。教会にはいろいろな人たちがいます。年齢が違えば、性格も違う、それぞれが育った環境も違います。また、考え方も違いますし、聖書の理解においても違いがあるわけです。そういう人たちが一つになるということは簡単なことではありません。ここで注意しなければならないことは、イエス様が一つになるようにと言われたのは、組織的、外面的に一つになることではなく、霊的に、内面的に一つになるということです。ビジネスにおいても、教育の分野でも、どの組織でも、一つの目標を掲げ、それに向かって協力し合い、熱心に行動すれば、物事は成し遂げられるでしょう。しかし、ここでイエス様が言っていることはそういうことではないのです。ここでイエス様が言っていることは、信仰的に一つになることです。信仰的に一致するとはどういうことでしょうか。

ここに、その良い例が示されています。それは、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」一つになるということです。つまり、父なる神と子なる神の一体性と同じ一致です。私たちが暖かい愛の交わりができるのは、キリストを信じる信仰による一致があるからです。言い換えると、ひとりひとりがイエス・キリストの十字架の贖いの死によって、その罪を赦されたという体験を持っているからなのです。そこから生まれてくる一体性です。それがなかったら一致は生まれません。どんなに人間的に努力しても限界があり、空中分解することになってしまいます。調子が良い時は愛し合うことができても、調子が悪い時には、いざ関係がぎくしゃくしてくるともう耐えられなくなってしまいます。しかし、イエス様がこんな罪深い者を愛し、そのためにご自分のいのちを捨ててくださったことを知り、この方を信じるなら、私たちの内に神の愛が生まれ、その愛で愛し合うことによってたとえ考え方が違っても必ず一つになることができるのです。ですから、教会が一致することにおいて最も重要なことは、考え方が違うとは、性格が違うとか、ジェネーションギャップがあるとかということではなく、このキリストの愛によって罪の赦しを得ているかどうかです。それによって新しく生まれ変わっているかどうかなのです。それがあるなら、そこに完全な一致と調和が生まれるのです。父なる神が子なる神キリストのうちにおられ、子なる神が父なる神のうちにおられるような一致です。

皆さん、私たちが信じている神は、三位一体の神です。三位一体とは、聖書の教えの中でも最も難しいものの一つですが、神は唯一ですが、三つの人格を持っているということです。すなわち、ただ一人の神ですが、父なる神と、子なる神、聖霊なる神の三つの神がおられるということです。ただ一つで三つというのはなかなか理解できないことですが、聖書の神は、そういう神なのです。そして、この三位一体の神は、それぞれ人格を持っていますがその本質と性質、属性において全く一つであられるのです。つまり、父も、子も、聖霊も神であり、また、父も、子も、聖霊も愛であり、聖なる方であり、義なる方であられるのです。この三つの神は、それぞれ人格は別々ですが、そこには完全な調和と一致があります。それと同じように、すべてのクリスチャンの間に、すべての教会の間に完全な一致と完全な調和があるようにと祈られたのです。それは不可能なことではありません。なぜなら、私たちはこの三位一体の神を信じ、この神によって新しく生まれた者だからです。以前はそうではありませんでした。全部自分のためでした。自分が考え、自分が思うことが行動の唯一の基準だったのです。そのような人たちの集まりのが、どうやって一致を保つことができるでしょうか。できません。それは夫婦関係を見てもわかるでしょう。夫婦はまさに自我と自我のぶつかり合いです。生まれも、育ちも、性別も、考え方も全く違う人間が一緒に生活するわけですから、それを調整することは至難の業です。最初のうちはあまり感じなくても、次第に考え方に大きなギャップが生じてくるようになります。もうフーフー言うようになるのです。そんな二人が一緒にやって行くことができるとしたら、そこに神の愛とあわれみがあり、互いが互いを見るのではなく、イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストを通して与えられた神の愛に信頼しているからにほかなりません。もし自分を主張し始めたら、そこには一致とか調和は生まれることはないでしょう。それは自分の意見を言ってはいけないということではありません。自分の意見を言うことは全く問題ありませんが、それが叶わなくても神の力強い御手の下にへりくだり、神があなたのことを心配してくださると信じて、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねることです。そうすれば主が、ちょうど良い時にあなたを引き上げてくださいます。これが信仰です。これが一致することはできません。イエス様が、すべての人が一つになるようにと言われたのは、こういうことだったのです。

いったいそれは何のためでしょうか。ここには、「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」とあります。神を知らない人が信じるためです。このような暖かい愛の交わりを見る時、この世の人々はその中に主がおられることを知ることができます。教会に初めて来られる方は、説教の内容はほとんど覚えていなくても、その場の雰囲気はよく覚えていて、そこにこの世にはない何かを感じます。それが何なのかわからなくとも、続いて教会に通ううちに、それがイエス・キリストの愛と信仰によるものであることがわかるようになり、信仰へと導かれていくのです。それが22節で言われていることです。

ここには「またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。」とあります。この「栄光」こそ、イエスによって与えられた栄光なのです。この世の人々が教会を見る時この世にないものを持っているのを見ますが、それこそが神の栄光にほかなりません。その栄光はこの世にはない輝きです。この世にあるのは憎しみであり、争いであり、対立であり、お互いに傷つけ合うことであり、ののしり合うことです。そこには愛のひとかけらもありません。しかし、キリストの教会はそうではありません。そこにはキリストの愛があります。いのちをかけて私たちを愛してくださった愛といのちが溢れています。たとい、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、自分の利益を求めず、ほかの人の益になることを求めます。人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまん、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。もちろん、このように完全にできるわけではありません。それができるのはイエス様だけです。しかし、私たちはそのイエス様に似た者となるように祈り、聖霊の助けと励ましをいただきながら日々歩んでいるので、少しずつですが、そのように変えられているわけです。少なくても、そのような群れとなるように求めて祈っています。いったいこのような愛の共同体がこの世にあるでしょうか。ありません。ですから、この世の人たちがこの愛の共同体である教会が一つになっているのを見るとき、ああ、イエス様はほんとうに神様だと信じるようになるのです。

熊本県の人吉市という所に、松尾鷲嶺(まつおしゅうれい)という仏教の僧侶がおられました。この方は80歳を過ぎてからキリスト信仰に入り、寺を捨てて、クリスチャンになりました。それは大変なことです。1962年のことですから、今から58年も前のことですが、この方の奥さんが駅前で教会の特別伝道集会のビラをもらい、生まれて初めてキリスト教の教会へ行ったのです。その時、奥さんは聴いたメッセージがどんなものであったかは覚えていませんでしたが、どうしても忘れることのできないものがありました。それはその場の雰囲気です。老若男女の様々な人々がいるのに、そこには暖かい愛の一致があったのです。婦人は感動して家に帰りました。それは自分のお寺の現実と余りに違っていました。そのすばらしい雰囲気が忘れられず、夫人はその翌日も教会へ行き、ついに信仰を告白するようになりました。寺の僧侶の奥さんがクリスチャンになったということで、その後が大変でした。夫の松尾鷲嶺師は婦人にキリスト教信仰を捨てるように迫るのですが、そうしているうちに、夫も生きた本当の神を知るようになり、ついに二人ですべてを捨て、寺を出たのです。その後、二人は小さな小屋に住みながら、「私たちの人生で今ほど幸福な時はありません」と告白しつつ、天に召されていったというのです。

これほどまでにお二人の一生を変えたものは何だったのでしょうか。それは暖かい愛を持った教会の交わりでした。教会には、この世界のどこにもないキリストの愛の交わりがあります。栄光の輝きがあるのです。僧侶の婦人は、暖かい愛の一致を持った教会の交わりに出会いました。それによってキリストが神から来られた救い主であると信じることができたのです。私たちが一つになるのはそのためです。私たちがキリストの十字架の死によって罪を赦されたという一体感で互いに愛し合い、赦し合うなら、そこに神の愛と神の栄光が現われ、イエスこそ救い主であるとこの世の人たちが信じるようになるのです。

Ⅱ.わたしがいるところにおらせてください(24-25)

イエス様がすべてのクリスチャンのために祈られた第二のことは、わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください、ということでした。24-25節をご覧ください。

「24 父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。25 正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。」

「わたしにくださったもの」とは、イエス・キリストを信じたすべてのクリスチャンのことです。イエス様はすべてのクリスチャンが一つになるようにと祈られましたが、続いて、そのすべてのクリスチャンが、イエス様がおられるところにいるようにしてくださいと祈られました。「わたしがいるところ」とは、天国のことです。ピリピ3:20-21には、「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」とあります。クリスチャンには、日本とか、アメリカとか、韓国とかの他に、もう一つの国籍があります。それはどこですか。天国です。私たちのふるさとは天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを待ち望んでいるのです。そのときキリストは、私たちの卑しいからだを、ご自身と同じ栄光のからだに変えてくださいます。これが私たちに与えられている約束であり、私たちの希望です。私たちのこの肉体は枯れ、やがて滅んでしまいますが、キリストが再臨されるとき、私たちのこの卑しいからだは、キリストが復活した時と同じからだ、栄光のからだによみがえり、永遠に主とともに生きるようになるのです。なぜなら、イエス・キリストを信じたことで罪が赦され、永遠のいのちが与えられたからです。天に国籍を持つものとされたのです。

それはいったい何のためですか。その後のところにこうあります。「わたしの栄光を、彼らが見るためです」。イエス様の栄光を見るためです。私たちは今、聖書を通して確かにイエス様の栄光を見ていますが、はっきり見ているわけではありません。ぼんやり見ているだけです。Ⅰコリント13:12に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあるように、鏡に映るのをぼんやりと見ているにすぎません。当時の鏡は銅が磨かれたもので作られていましたから、今のようにクリアではありませんでした。おぼろげにしか見ることができませんでした。そのように今は、ぼんやりと見ているのです。しかし、主とお会いする時は顔と顔とを合わせて見るので、はっきりと見るようになります。その時には主が私たちのことをすべて完全に知っておられるように、私たちも完全に主を知るようになります。今はぼんやりと見ているにすぎませんが、やがて天の御国でその栄光の輝きをはっきりと見るようになるのです。イエス様がおられる天国に私たちもいるようになり、そこでイエス様の栄光を見るようになるというのはすばらしい希望です。今、世界中でコロナウイルスの問題だけでなく、バッタが大量発生による農作物に壊滅的な被害や、東シナ海の領有権をめぐって米中の対立が深刻化しています。日本でも豪雨による災害に加え、コロナウイルスの感染拡大によって、非常な恐れと不安が蔓延しています。この地上は見渡す限り、こうした災害が耐えません。いったいどこに希望があるのでしょうか。ここに真の希望があります。イエス様がいるところにいて、イエス様の栄光をこの目で拝することができること、これこそが希望なのです。

25節をご覧ください。ここでイエス様は「正しい父よ」と呼んでおられます。11節では「聖なる父よ」と呼ばれましたが、ここでは「正しい父よ」と呼ばれました。つまり、神が正しい方であり、義なる方であることを強調しているのです。この世は聖なる神、正しい神を知りません。まことの神を知らないのです。それで自分たちでいろいろな神々を作って拝みますが、神は人間の手でこしらえることができるような方ではなく、その人間を造られた方、創造主です。この世はその方を知りませんが、私たちはこの方を知っています。そして、この方が救い主を遣わされたことを知ったのです。それは私たちが、イエス様がいるところにいるようになるためです。永遠のいのちを持つためです。永遠のいのちとは何ですか。それは唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

日本人の寿命は世界一長く、2年前の統計では、男性が81.25歳、女性が87.32歳です。今、日本では100歳以上の人が7万人以上もいます。では、人生長く生きればそれで幸せなのかと言というとそうでもなく、若くして亡くなったとしても、あの人の人生はすばらしかった、感動的だった、輝いていた。そんなふうに周りの人々に思い出させるとすれば、それは豊かな人生だったと言えるのではないでしょうか。

「寿命」ということばがありますが、「寿」というのは、死んでもなお残るいのちのことだそうです。その人が亡くなってお葬式も済み、そこにはもういないけれども、その人の存在が多くの人の心の中でなお生きていること、それを「寿」という漢字で示したのです。死んだ後も多くの人々の中に美しい思い出を残せたとしたら、それこそが寿命でしょう。それはイエス様がいるところにいること、永遠のいのちによって全うされるのです。

フジテレビのニュースキャスターだった山川千秋さんは、1988年に食道がんのため180日の療養後、お亡くなりになりました。奥さんから助からないと告知された時、山川さんは絶望的な気持ちになりました。クリスチャンである奥さんは、山川さんを信仰に導きます。その時のことを、奥さんは次のように言っておられます。
「夫は、死の恐怖や、不安から逃れ、安心して死ぬにはどうすればよいのかと問うてきました。わたしは、その答えは人間によっては絶対に与えられない。それができる方は神様、すなわちイエス・キリストしかいないと答えました。
すると、夫はどうすればイエス・キリストに救ってもらえるのかと、尋ねてきました。わたしは、神の前に正直になること、これまで神に背いてきた罪を悔い改めて、主イエスを自分の救い主として受け入れると口に出して言うことだ、と答えました。夫はしばらく考え、自分の過去の罪を素直に告白し、やがて表情は穏やかなものになりました。」
その後、山川さんは遺言を残し、すべてを整えて非常に安らかになくなられたそうです。山川さんが亡くなられる前に「死は終わりではない」という著書を記されましたが、それは、彼が天国に行き、そこでイエス様とともに永遠に生きることを確信したいたからです。その著書の中で山川さんは、長男冬樹君に宛てて手紙を書きました。 「冬樹へ。お父さんは病に倒れたが、そのことによって、主イエス・キリストを知った。それは、すばらしいことだと思わないか。父親を亡くした君の人生は、平坦ではないが、主イエス・キリストに頼って

生きれば、すばらしい人生が与えられる。また天国で会おうぜ。」

「また天国で会おうぜ。」すばらしい言葉だと思いませんか。希望があります。イエスを信じる者は死んでも生きるのです。イエス様のいる天国で、イエス様と永遠に生きることができるのです。

あなたは、この永遠のいのちを受けましたか。イエス様はあなたのために祈られました。イエス様がおられところに、あなたもいることができるようにと。そして、イエス様の栄光を見ることができるようにと。どうぞ、あなたもイエス様を信じてください。そして、イエス様がおられるところにいることができますように。

Ⅲ.神の愛が彼らのうちにあるように(26)

最後に、26節を見て終わりたいと思います。「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」

ここで主は弟子たちのためにされたことを要約しています。それは、「あなたの御名を知らせました」ということです。「神の御名」とは、名は体を表すとあるとおり、神の本質とか、神の性質、あるいは神ご自身のことです。ですから、イエス様が御名を知らせたというのは、神がどのような方であられるのかを知らせたということです。ことばで信じられないなら、わたしのわざを見て信じなさい、と言われました。ですからイエス様は力あるわざをなさって、ご自分が神から遣わされた方であることを示されたのです。それで弟子たちはそれを見て信じました。そして、私たちもそれを聞いて信じました。私たちに何か理解力があったからではありません。イエス様がご自身のみことばの中ではっきりと示されたので信じることができたのです。

それはこれまでのことだけではありません。これからも同じです。ここには、「これからも知らせます」とあります。ずっと知らせます。なぜでしょうか?それは、「あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」どういうことですか?神の愛が弟子たちの心の中にあり、イエス様が彼らの心のなかに住むようにということです。イエス様の願いは、神がイエスを愛しておられるその愛を、イエスを信じている彼らが感じ、イエスご自身も信仰によって彼らの中に住むということだったのです。あなたは、神がイエスを愛しておられるその愛を、あなたにも向けられていることを感じておられるでしょうか。イエス様が、あなたの心に住んでおられるでしょうか。

使徒パウロは、エペソ人への手紙の中で、次のように祈っています。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」(エペソ3:16-21)

この神の愛、キリストの愛こそ、私たちの人生のすべてにおける勝利の秘訣です。私たちの人生には、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろなことが起こりますが、しかし、このキリストにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。だから、信仰によってしっかりと神の愛にとどまってくただきたいのです。あなたが落胆するのは、あなたの目がこのキリストの愛にではなく、問題そのものに向けられているからです。キリストをあなたの心に住まわせるなら、そして、神がどれほどあなたを愛しておられるのかということに気付くなら、どのような境遇にあっても、キリストにある愛から、あなたを引き離すことは何もできません。

かつてデンマークに一人の男の子が生まれました。彼が生まれたのは棺桶の中でした。お母さんは他人の汚れものを洗って生計を立てていました。おばあさんは庭掃除をしてお金をもらい、おじいさんは精神病院に入っていました。本当に貧しい家に生まれ、極貧の生活の中で彼は育ちました。彼は大人になって恋をしましたが、恋をした相手にことごとくふられ、失恋ばかりでした。ついに彼は生涯独身で過ごしました。彼は70歳まで生きて、最後に言ったことばが、これでした。

「私の人生は童話のように幸せでした」

この人こそアンデルセンです。彼はなぜこのような環境や状況の中にあっても「幸せでした」と言えたのでしょうか。その秘訣を彼はこう言っています。

「私を愛し、私を助けて下さるイエス・キリストがいつも共にいて下さったからです。」

イエス・キリストがともにいてくださることが、彼をそのように言わしめたのです。イエス・キリストがともにおられることで、神がどれほど自分を愛しておられるのかをしることが、「幸せでした」と言える秘訣だったのです。

あなたはどうですか。あなたのうちにキリストがおられますか。どうぞ、信仰によって、あなたの心のうちにキリストを住まわせてください。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つことができるようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。イエス様は、今もあなたのために祈っておられるのです。

出エジプト記29章

28章では、祭司の装束(祭服)について学びました。それはイエス・キリストの型であり、キリストの姿そのものでした。そこにはキリストの栄光と美が表れていました。この29章には祭司として神に仕えるための規定、任職式の規定、手順が記されています。

Ⅰ.祭司として神に仕えるために(1-9)

まず、1~9節をご覧ください。
「1 彼らを聖別し祭司としてわたしに仕えさせるために、彼らになすべきことは次のことである。若い雄牛一頭、傷のない雄羊二匹を取れ。
2 また、種なしパン、油を混ぜた種なしの輪形パン、油を塗った種なしの薄焼きパンを取れ。これらは最良の小麦粉で作る。
3 これらを一つのかごに入れ、そのかごと一緒に、先の一頭の雄牛と二匹の雄羊を連れて来る。
4 アロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で彼らを洗う。
5 装束を取り、長服と、エポデの下に着る青服と、エポデと胸当てをアロンに着せ、エポデのあや織りの帯を締める。6 彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に聖なる記章を付ける。
7 注ぎの油を取って彼の頭に注ぎ、彼に油注ぎをする。
8 それから彼の子らを連れて来て、彼らに長服を着せる。
9 アロンとその子らに飾り帯を締め、ターバンを巻く。永遠の掟によって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたはアロンとその子らを祭司職に任命せよ。」

「彼ら」とは、アロンとその子らのことです。彼らを聖別し祭司として主に仕えさせるために、どんなことが必要だったのでしょうか。まず、そのために次のものを準備しました。すなわち、若い雄牛1頭、傷のない雄羊2頭、「傷のない」というのは、罪や汚れのないということを示しています。また、種を入れないパン。油を混ぜた種なしの輪形パン(ケーキ)を用意しました。種を入れないパンというのも、罪の混ざっていないということを示しています。また、油を塗った種なしの薄焼きパンとは、せんべいやワッフルのようなものです。

以上のものを準備したら、アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗いました。これは衛生的な理由ではなく、儀式的な意味がありました。前回のところで、大祭司が装束を身につけるのは、キリストを自分の身にまとうことを表していましたが、水で洗うのは、私たちがキリストを身につけるときに、御霊による洗いと聖めが行なわれたことを象徴していました。テトス3:5には、「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」とあります。神は、私たちが行った義のわざによってではなく、神のあわれみによって、この聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださったのです。

次に、大祭司アロンに装束を着せます。キリストを来たのです。そして、注ぎの油を頭に注ぎました。これは、聖霊の油を意味していました。つまり、大祭司は、聖霊の力によってその働きをしたということです。それは、キリストとはどのような者であるかを示していました。キリスト(メシヤ)とは、「油注がれた者」という意味です。キリストは、聖霊の油を無限に注がれた大祭司として、民に代わって神にとりなしをされるのです。また、アロンの子らも連れて来て、彼らに長服を着せました。このようにして、アロンとその子らを祭司職に任命したのです。

Ⅰペテロ2:9には、「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」とあります。神の民であるクリスチャンは、この祭司としての使命を帯びています。その使命を果たすためには、聖霊の油注ぎを受けなければなりません。自分の力に頼るのではなく、聖霊の導きに信頼し、聖霊に満たされて歩むことを求めていかなければなりません。

Ⅱ.動物のいけにえ(10-34)

次に、10~34節をご覧ください。まず、14節までをお読みします。
「10 あなたは雄牛を会見の天幕の前に近づかせ、アロンとその子らはその雄牛の頭に手を置く。
11 あなたは会見の天幕の入り口で、主の前で、その雄牛を屠り、
12 その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の四隅の角に塗る。その血はみな祭壇の土台に注ぐ。
13 その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓とその上の脂肪を取り出し、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。
14 その雄牛の肉と皮と汚物は宿営の外で火で焼く。 これは罪のきよめのささげ物である。」

ここには、罪のためのいけにえ、神へのささげものについて記されてあります。アロンとその子らは、雄牛の頭に手を置きます。これは、罪を転嫁することを象徴していました。自分の身代わりに雄牛が死ぬことを表していたのです。つまり、大祭司アロンとその子らの罪が雄牛の上に転嫁されたのです。これは、罪の赦しを与える際に重要な行為でした。

次にこの雄牛を屠ります。そしてその雄牛の血を取り、指で祭壇の角につけました。祭壇の角とは、27:2で見たように、祭壇の四隅に出ている突起物のことです。それは神のさばきを象徴していました。その祭壇の四隅の角に雄牛の血が塗られたことによって、雄牛が自分たちの身代わりとなって死んだことを示していました。

そして雄牛の内臓をおおう脂肪は、すべて祭壇の上で焼いて煙にしました。煙にするとは、芳ばしい香りとして神にささげたということです。というのは、脂肪は最良の部位とされていたからです。最高のものは神にささげられたのです。

雄牛の肉と皮と汚物は宿営の外で火で焼きました。ここでのポイントは、宿営の外でということです。なぜなら、それらは汚れたものを象徴していたからです。へブル13:11~14には、「動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるのです。それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」とあります。

イエス様がエルサレムの城壁の外にあったゴルゴタの丘で、十字架刑に処せられたのはそのためです。それはご自分の血によって民を聖なるものとするためでした。そのキリストの十字架の死によって私たちは救われたのです。ですから、キリストの弟子である私たちも、この世に受け入れられることではなく、宿営の外に出てキリストとともに歩む道を選ばなければなりません。私たちが求めているのは、この地上のものではなく天にあるものです。

パウロはこのキリストの犠牲についてこのように言っています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)これは私たちの罪が、罪を知らない方(キリスト)に転嫁されたということを示していました。その結果、私たちの罪が取り除かれ、神との和解が成立したのです。この罪の赦し、神との和解を受けるには、キリストを救い主として認め、受け入れなければなりません。その時、大祭司の罪が雄牛に転嫁されすべての汚れからきよめられたように、すべての罪が赦され神と和解することができるのです。

次に、15~18節までをご覧ください。
「15 また、一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。
16 その雄羊を屠り、その血を取り、これを祭壇の側面に振りかける。
17 また、その雄羊を各部に切り分け、その内臓とその足を洗い、これらをほかの部位や頭と一緒にし、
18 その雄羊を全部、祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への全焼のささげ物で、主への芳ばしい香り、食物のささげ物である。」

ここには、主への全焼のささげ物について記されてあります。全焼のささげ物は、神への感謝と主への献身を象徴していました。ローマ12:1には、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」とあります。キリストによって救われた者の具体的な生活は、自分自身を主にささげることから始まるということです。

その全焼のささげ物は、一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の上に手を置かなければなりませんでした。手を置くというのは、すでに見てきたように、罪の転嫁を意味していました。これは、罪は命(血)によって贖われるということを示していました。

次に、その雄羊を屠ります。そしてその血を取り、それを祭壇の側面に振りかけました。また、その雄羊を各部位に切り分け、その内臓と足を洗い、これを他の部位や頭と一緒にして、その全部を祭壇の上で焼いて煙にしました。煙にするとは、すでに述べたように、神への芳ばしい香りとするということです。「全焼のささげ物」という呼び方は、このようにその全部を祭壇の上で焼いて煙にしたことから来ています。

次に、19~21節をご覧ください。
「19 もう一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。
20 その雄羊を屠り、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また彼らの右手の親指と右足の親指に塗り、その血を祭壇の側面に振りかける。
21 祭壇の上の血と、注ぎの油を取って、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかける。こうして、彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。」

初めの二つのささげ物は、祭司の任職のための前段階にすぎません。すなわち、「罪のためのいけにえ」をささげることによって祭司に任職される者の罪が贖われ、次いで、その献身が「全焼のいけにえ」によって象徴されていたのです。そして、いよいよ本来の任職のためのいけにえがささげられていきます。神と祭司との交わりを意味する「交わりのささげ物」(和解のいけにえ)です。ここには、「こうして、アロンとその装束、また、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。」(21)とあります。どのようにして彼らの装束が聖なるものとなったのでしょうか。

ここでも、アロンとその子らは雄羊の頭の上に手を置きました。そしてその雄羊をほふり、その血をアロンとその子らにつけました。血は右の耳たぶ、右手の親指、そして右足の親指につけられました。これは、全身に血を塗ったことを象徴していました。つまり、全身が血によってきよめられ、聖別されることを示していたのです。すなわち、耳が血で聖別されるのは主のみことばに常に従うためであり、手がきよめられたのは常に主のみわざを行う用意をしているためであり、足がきよめられたのはその働きを成し続けるためです。そしてその血を祭壇の側面に振りかけられました。

また、祭壇の上の血と注ぎの油を取ってそれをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかけました。これも祭司の任職式だけにある特異な儀式でした。これはどんなことを象徴していたのかというと、祭壇の上の血はキリストの血を、注ぎの油は聖霊のきよめを象徴していました。これがアロンとその装束、また、彼とともにいたその子らとその装束に振りかけられるとは、キリストと聖霊という相互に不可分に結合しているものが振りかけられたことによって、彼らが祭司職に関する神との契約関係に入れられたことを示していました。こうして彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなったのです。

次に、22~28節までをご覧ください。
「22 次に、その雄羊の脂肪、あぶら尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓とその上の脂肪、また右のももを取る。これは任職の雄羊である。
23 また、主の前にある種なしパンのかごから、円形パン一つと、油を混ぜた輪形パン一つと、薄焼きパン一つを取る。
24 そして、そのすべてをアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として主の前で揺り動かす。
25 それらを彼らの手から取り、全焼のささげ物とともに、主の前の芳ばしい香りとして祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物である。
26 アロンの任職のための雄羊の胸肉を取り、これを奉献物として主に向かって揺り動かす。これは、あなたの受ける分となる。
27 アロンとその子らの任職のための雄羊の、奉献物として揺り動かされた胸肉と、奉納物として献げられたもも肉とを聖別する。
28 それは、 アロンとその子らがイスラエルの子らから受け取る永遠の割り当てとなる。それは奉納物である。それはイスラエルの子らからの交わりのいけにえの奉納物、主への奉納物であるから。」

この供え物のもう一つの特異な点は、アロンとその子らの奉納物でした。それは、脂肪と共にもも、それに穀物のささげ物を大祭司と祭司の手のひらに載せて、主に向かって揺り動かすことです。ラビの伝承によると、祭壇に向かって前後に、あちらこちらと揺り動かしました。これはどんなことを表していたのかというと、ささげものをまず神にささげ、それからそれが神から祭司に与えられることを表していました。そして、まずその脂肪と右のもも、また穀物のささげ物を、全焼のささげ物とともに、主の前の芳ばしい香りとして祭壇で焼いて煙にしました。これは主へのささげ物です。次に、雄羊の胸肉を取り、これも祭壇に向かって前後に揺り動かして後、アロンの受ける分となりました。レビ族には土地の分割がなかったのでこれが彼らの生活費となりました。それはイスラエルの子らからの交わりのささげ物(和解のいけにえ)の奉納物だったのです。

29~30節をご覧ください。
「29 アロンの聖なる装束は彼の跡を継ぐ子らのものとなり、彼らはこれを着けて油注がれ、これを着けて祭司職に任命される。
30 彼の子らのうちで、彼に代わって聖所で務めを行うために会見の天幕に入る祭司は、 七日間、これを着る。」

大祭司の装束はアロン一代で終わりにせず、その後継者も代々用いられるようにしました。その儀式は七日間続き、彼の子らのうちで、彼に代わって聖所で務めを行うために会見の天幕に入る祭司は、これを着なければなりませんでした。

次に、31-34節をご覧ください。
「31 あなたは任職のための雄羊を取り、聖なる所でその肉を煮なければならない。
32 アロンとその子らは会見の天幕の入り口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンを食べる。
33 彼らは、自分たちを任職し聖別するため、宥めに用いられたものを食べる。一般の者は食べてはならない。これらは聖なるものである。
34 もし任職のための肉またはパンが朝まで残ったなら、その残りは火で燃やす。食べてはならない。これは聖なるものである。」

水によるきよめ、着衣、油注ぎ、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、任職のためのいけにえ(交わりのささげ物、和解のいけにえ)といった任職のための一連の儀式が終わると、次にいけにえの食事へと続きました。

まず、任職のための雄羊を取り、それを聖なる所で煮なければなりませんでした。「聖なる所」とは、会見の天幕の入口のことでしょう。レビ8:31には、「会見の天幕の入口の所で、その肉を煮なさい。」とあります。アロンとその子らは会見の天幕の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンを食べました。この交わりの食事は、祭司の任職式を終わらせるものとして最もふさわしいものでした。というのは、これまでの儀式によって、彼らは今、主の奉仕者として、主との特別に親しい交わりの中に入れられ、また、彼らが主の祭壇で養われるようになったことを示しているからです。それは神の祭司である私たちクリスチャンの姿でもあります。キリストの十字架の贖いによって罪を赦され、自分のすべてを神にささげることによって、神との親しい交わりの中に入れられるからです。

もし任職のための肉またはパンが朝まで残ったなら、その残りは火で燃やさなければなりませんでした。ほかの者は、食べてはならないということです。それは、ただ神との親しい交わりの中に入れられた者だけが食べることができるものだったのです。これは聖餐式を表しています。聖餐式は、神との親しい交わりを象徴しています。それはキリストの十字架の贖いを信じて罪赦され、自分のすべてを神にささげることによってもたらされる神との親しい交わりです。それゆえ、この罪の赦しと神への献身がなければ、この神との交わりに入ることはできないのです。この神との親しい交わりの中に入れられたことを感謝しましょう。

Ⅲ.任職式(35-46)

最後に、35~46節までを見て終わります。まず42節までをご覧ください。
「35 わたしがあなたに命じたすべてにしたがって、このようにアロンとその子らに行え。七日間、 任職式を行わなければならない。
36 毎日、宥めのために、 罪のきよめのささげ物として雄牛一頭を献げる。あなたはその上で宥めを行い、その祭壇から罪を除く。聖別するためにそれに油注ぎをする。
37 七日間、祭壇のために宥めを行い、それを聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。 祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。
38 祭壇の上に献げるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく、一歳の雄の子羊二匹。
39 朝、一匹の雄の子羊を献げ、 夕暮れに、もう一匹の雄の子羊を献げる。
40 一匹の雄の子羊には、 上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、 また注ぎのささげ物としてぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。
41 もう一匹の雄の子羊は夕暮れに献げなければならない。これには、朝の穀物のささげ物や注ぎのささげ物を同じく添えて、献げなければならない。それは芳ばしい香りのためであり、主への食物のささげ物である。
42 これは、主の前、会見の天幕の入り口での、あなたがたの代々にわたる常供の全焼のささげ物である。その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。」

この箇所は、任職式と関連しているのか、関連していないのかは、はっきりわかっていません。任職式は七日間行われました。それは七が完全数であるからです。神によって完全に罪が赦されることを表していたのです。私たちも、自分の罪が完全にきよめられていることを確信しなければなりません。

また、常供の全焼のささげ物として、毎日絶やすことなく1歳の雄の子羊2匹を、朝と夕方にそれぞれ1匹ずつ献げなければなりませんでした。一匹の雄の子羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、注ぎのささげものとして、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられました。もう1匹の若い雄羊は、夕暮れに献げなければなりませんでした。これにも朝の穀物の献げ物や注ぎのささげ物を同じく添えて、献げなければなりませんでした。それは芳ばしい香りのためであり、主への食物のささげ物だったのです。

42節には「その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。」とあります。「その場所」とは祭壇のことです。「あなたがた」とはイスラエルの民のこと、「あなた」とはモーセのことです。主はそこでイスラエルの民と会い、そこでモーセに語られました。だから、祭壇が贖われなければならなかったのです。あなたの祭壇は贖われているでしょうか。主がそこで会ってくださいます。そこで語ってくださいます。いつでも主とお会いし、主のことばを聞くために、祈りの祭壇を築きましょう。

43~46節をご覧ください。
「43 その場所でわたしはイスラエルの子らと会う。そこは、わたしの栄光によって聖なるものとされる。
44 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる。
45 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる。
46 彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」

この箇所は幕屋の建設と祭司職に関する規定の結びとなっています。ここにその目的が記されてあります。「その場所」とは「幕屋」のことです。神が示された方法(幕屋)を通して神に近づくなら、イスラエル人は神に近づくことができました。幕屋は、神が民と出会う恵みの場所です。また、幕屋で仕え、神との交わりのために用いられるのがアロンとその子らでした。それゆえ、幕屋も祭司も聖別される必要があったのです。そのようにして神に近づくなら、神はイスラエル人の間に住み、彼らの神となると約束されました。これが、主がイスラエルの民をエジプトから解放してくださった目的でした。イスラエル人は主が彼らの神であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出してことを知るようになります。つまり、出エジプトの目的は、イスラエルが自分たちをエジプトから導き出したのは主という御名を持った神であるということを体験的に知るようになるためだったのです。

あなたはあなたとともにおられる方、あなたの中に住んでおられる方がどういう方であるかを知っているでしょうか。この方は、イスラエルをエジプトから救い出してくださった方、主であり、あなたを救うためにあなたのために十字架で死んでくださったイエス・キリストなのです。あなたはそこで神と出会います。イエス・キリストを通して神と会い、神の栄光を受けるのです。この方があなたのただ中に住み、あなたの神であることを感謝しましょう。

Ⅰサムエル記23章

今日は、サムエル記第一23章から学びます。

Ⅰ.ケイラを救ったダビデ(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。

「1 「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています」と言って、ダビデに告げる者がいた。2 ダビデは主に伺って言った。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」3 ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」4 ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えられた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」5 ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を奪い返し、ペリシテ人を討って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。6 アヒメレクの子エブヤタルは、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、エポデを携えていた。

サウルの嫉妬によってダビデはサウルの手を逃れ、まずノブの祭司アヒメレクのところへ逃れました。その後、敵地ペリシテの町ガテに潜伏しました。イスラエルにいればサウルに見つけられてしまうのではないかと思いそうしたのではないかと思いますが、そこですぐに捕らえられ絶体絶命のピンチを迎えました。その時、主はダビデに知恵を与え、ガテの王アキシュの前できちがいを装ったので、そこから追い出され、アドラムの洞穴に避難しました。そこへ彼の家族や困窮している者、負債のある者、サウルに不満のある者たちが集まったので、約400人がダビデとともにいるようになりました。

その後ダビデはモアブの地ミツパに逃れましたが、預言者ガドを通して「ユダの地に帰りなさい」との神のことばを告げられたので、ユダの地に戻っていました。ところが、そこではサウルを通して残虐な行為が繰り広げられていました。ダビデをかくまったということでノブの祭司85人と、ノブの町の男も女も、幼子も乳飲み子も、みな殺されてしまったのです。ただ一人祭司アヒメレクの子エブヤタルだけが難を逃れてダビデのところに逃げて来ました。

そのような時ダビデのもとに、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しているという知らせが入りました。ケイラはユダ族の領地にある町で穀物の産地として知られていましたが、ペリシテ人たちは、その収穫物を略奪するために攻撃していたのです。ケイラは、ダビデがいたアドラムからは10㎞しか離れていなかったので、数時間で駆け付けることができる距離にありました。問題は、彼は戦えるような状態ではなかったことです。彼は今逃亡中の身でした。また、自分が抱えていた兵士の数にも限界がありました。そのような状況でペリシテ人と戦うということには無理がありました。

そこでダビデはどうしたかというと、主に伺って言いました。伺ったとは、祈ったということです。「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」彼は自分の思いや考えではなく、神様の導きを求めて祈ったのです。すると、すぐに主からの応答がありました。それは、「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」ということでした。しかし、ダビデの部下たちは彼に言いました。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」彼らの気持ちもわからないでもありません。この時ダビデは逃亡の身であり、人を助けるような状況にはなかったからです。たとえそれが神のみこころだとしても、いったいどうやって助けることができるでしょうか。無理です。それが部下たちの反応でした。

それでダビデはどうしましたか?彼はもう一度主に伺いました。本当に主は、行って、ペリシテ人を討ち、ケイラを救うようにと願っておられるのかどうかを確認し、確信を得てから出て行こうとしたのです。すると主は、「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」と言われました。主がペリシテ人をダビデの手に渡されると言われたのです。それでダビデとその部下はケイラに下って行き、ペリシテ人と戦ってこれに勝利し、彼らの家畜を奪い返し、ペリシテ人を討って大損害を与えました。こうしてダビデはケイラの住民をペリシテ人の手から救いました。大切なことは、私たちの状況がどうであるかということではなく、神のみこころは何かということです。たとえ現実の状況が苦しくても、それが神のみこころなら、神は必ず答えてくださいます。ですから、私たちは神が願われることを知り、それを行わなければなりません。

私たちは4年前さくら市で開拓を始めるために、その場所が与えられるように祈っていました。当初はどこかを借りて始めようとしましたがふさわしい物件がなかったので、どのようにすべきかを祈っていたところ、さくら市総合運動公園の駐車場の前の土地(教会の建物がある土地)が示されました。しかし、資金が全くありませんでしたので、無理だと思っていたときに、このみことばが与えられました。

「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。」(民数記14:11)

これは、かつてイスラエルがエジプトを出てカデシュ・バルネヤに着いた時、モーセはカナンの地を偵察するために12人のスパイを遣わしたところ、その中の10人がその地の住人を恐れ、イスラエルの民に悪く言いふらしたことに対して、主が怒って言われたことばです。彼らはモーセにこう報告しました。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。・・あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」

しかし、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは違いました。彼らは他の偵察隊のことばを聞き、自分たちの衣を引き裂き、イスラエルの全会衆に向かって次のように言いました。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:6-9)

彼らは、主が私たちとともにおられるので大丈夫だ。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」と言ったのです。ヨシュアとカレブは、自分たちの力や置かれた状況ではなく主を見上げていたのです。

その結果、どうなりましたか。他の12人の偵察隊の声が大きかったので、イスラエルの民は上って行きませんでした。そして、40年間も荒野をさまようことになり、約束の地に入ることができませんでした。彼らの中ではただヨシュアとカレブだけが入ることができました。彼らが神のことばを信じなかったからです。彼らは自分たちの状況を見て、神の約束を信じなかったのです。

それで、私たちはいつまでも信じようとしない罪を悔い改めて祈りました。そして、主のみこころならば、主が必ず与えてくださると信じて祈ったとき、主が必要を満たしてくださいました。問題は、私たちが主の約束を見ないで、自分の置かれている状況を見てしまうことです。

ところで、6節に「アヒメレクの子エブヤタルは、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、エポデを携えていた。」とあります。エポデとは、大祭司が身に着けていた装束ですが、そのエポデの胸には、さばきの胸当てが付いていました。そこにはイスラエル12部族を表す12の宝石が埋め込められていましたが、その中に神のみこころを求めるウリムとトンミムというくじみたいなものがありました。ウリムが出たら「行け」、トンミムが出てら「行くな」というように、それで神のみこころがわかるようになっていました。エブヤタルはこのエポデを携えていたので、エポデの中にあったウリムとトンミムを使って、神のみこころを求めたのです。9節でダビデがエブヤタルに「エポデを持って来なさい。」と命じているのはそのためです。

しかし、私たちにはウリムとトンミムに代わる確かな神の導きがあります。それは神のみことばです。神のみことばを読みながら、神にみこころを求めるなら、主は必ずその道を示してくださいます。あとはそれを行うだけです。たとえ状況がどうであれ、神のみことばを通してみこころを求め、そのみこころに従いましょう。主は必ずあなたに勝利をもたらしてくださいますから。

Ⅱ.ケイラの裏切り(7-14)

次に、7-14節までをご覧ください。

「7 一方、ダビデがケイラに来たことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された。彼は扉とかんぬきのある町に入って、自分自身を閉じ込めてしまったのだから」と言った。8 サウルは、ケイラへ下ってダビデとその部下を攻めて封じ込めるため、兵をみな召集した。9 ダビデは、サウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」10 そしてダビデは言った。「イスラエルの神、主よ。しもべは、サウルがケイラに来て、私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。11 ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、しもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ。どうか、しもべにお告げください。」主は言われた。「彼は下って来る。」12 ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」主は言われた。「彼らは引き渡す。」13 ダビデとその部下およそ六百人は立って、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラから逃れたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。14 ダビデは、荒野にある要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」

一方、ダビデがケイラに来たことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された」と言って喜びました。これは単なる彼の誤解です。彼は霊的に盲目となっており、何でも自分に都合のよいように解釈する癖がありました。サウルの戦略は、ダビデをケイラの町に閉じ込めて捕らえるということだったのです。

ダビデは、サウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに「エポデを持って来るように」と言いました。ここでもダビデは主のみこころを求めたのです。ここでダビデが主に尋ねたことはどんなことだったでしょうか。ここで彼は二つのことを主に尋ねています。一つは、サウルがダビデのことでケイラに下ってくるかどうかということ、そしてもう一つのことは、ケイラの住民はダビデとその部下たちをサウルの手に引き渡すかどうかということでした。主の答えは何でしたか。「サウルは下ってくる」ということであり、ケイラの住民は、ダビデとその部下をサウルに引き渡すということでした。何ということでしょう。ケイラの住民はダビデに救ってもらったにもかかわらず、ダビデに対して真実ではありませんでした。それは恩を仇で返すような行為です。おそらく、彼らはあの祭司の町ノブの二の舞にだけはなのたくなかったのでしょう。自分たちを救ってくれたダビデではありましたが、何をするかわからないサウルの前に屈する形になったのです。

長い間荒野で逃亡生活をしていたダビデにとっては、ケイラの人々に頼って定着したいという思いがあったでしょうが、その願いは叶いませんでした。ダビデとその部下およそ600人は立って、ケイラから出て行き、そこここと、さまようことになりました。もう一度神だけに頼って、荒野に出て行かなければならなかったのです。しかし、それこそ完全な守りです。荒野には鉄の要塞はありませんが、神の要塞があります。神の完全な守りがあるのです。神に信頼するなら、たとえ死の陰の谷を歩くようなことがあっても恐れることはありません。神が守ってくださいますから。結局、神はダビデを捕らえようとするサウルの努力をすべてむなしいものとされました。ダビデがケイラから逃れたことを聞いたサウルは、討伐をやめました。彼は毎日ダビデを追い続けましたが、神はダビデをサウルの手には渡されなかったのです。

Ⅲ.仕切りの岩山(15-29)

次に、15-18節をご覧ください。

「15 ダビデは、サウルが自分のいのちを狙って、戦いに出て来たのを見た。そのとき、ダビデはジフの荒野のホレシュにいた。16 サウルの息子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに行って、神によってダビデを力づけた。17 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。父サウルの手が、あなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。父サウルも、そうなることを確かに知っているのです。」18 二人主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家に帰った。」

サウルがダビデのいのちを狙って、戦いに出て来たとき、ダビデはジフの荒野のホレシュという所にいました。するとそこにサウルの息子ヨナタンが来て、神によってダビデを力づけました。彼はダビデに、父サウルの手が彼に及ぶことはないので、恐れることはないと言って励まし、ダビデこそイスラエルの王となり、自分は彼の次に立つ者となると告げています。つまり、ヨナタンは神の計画を完全に受け入れていたのです。サウルも、そうなることを確かに知っていましたが、サウルはその神の計画に反抗していました。ヨナタンの訪問は、ダビデにとってどれほどの励ましとなったことでしょう。挫折の中で経験するこのような励ましは格別なものです。ケイラからジフに戻ったダビデは、つらい時間を過ごしていました。そこは何も頼るところもない落胆するような寂しい所でした。神はそのようなダビデのところにヨナタンを遣わしてくださったのです。ヨナタンは神の特別な約束を伝え、ダビデを力づけました。ヨナタンの励ましよりダビデは、神に頼ってもう一度立ちあがることができたのです。

19-29節をご覧ください。

「19 ジフ人たちは、ギブアのサウルのところに上って行って、言った。「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。20 王よ。今、下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちが彼を王の手に引き渡します。」21 サウルは言った。「主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。22 さあ行って、さらに確かめてくれ。彼が足を運ぶ場所と、だれがそこで彼を見たかを、よく調べてくれ。彼は非常に悪賢いとの評判だから。23 彼が潜んでいる隠れ場所をみな、よく調べて、確かな知らせを持って、ここに戻って来てくれ。そのとき、私はあなたがたと一緒に行く。彼がこの地にいるなら、ユダのすべての分団のうちから彼を捜し出す。」24 彼らはサウルに先立ってジフへ行った。一方、ダビデとその部下は、エシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいた。25 サウルとその部下はダビデを捜しに出て行った。このことがダビデに知らされたので、彼は岩場に下り、マオンの荒野にとどまった。サウルはこれを聞き、マオンの荒野でダビデを追った。26 サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃れようとした。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来たとき、27 一人の使者がサウルのもとに来て、「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました」と言った。28 サウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人の方に向かった。こういうわけで、この場所は「仕切りの岩山」と呼ばれた。29 ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に住んだ。」

ヨナタンの訪問によりダビデは再び勇気を得ますが、彼の置かれていた状況はさらに緊迫さを増していきます。ダビデが隠れていたジフの人々がギブアのサウルのところに上って行って、ダビデの様子を密告したからです。

「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。 王よ。今、下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちが彼を王の手に引き渡します。」(19-20)

ジフの人々もケイラの町の人々同様、祭司の町ノブの二の舞になるのを恐れたのでしょう。しかし、この裏切りはケイラの場合よりも悪いものでした。なぜなら、ジフ人たちは積極的にサウルのもとに上って行ったからです。サウルはその情報を聞いて非常に喜びました。そして、さらに正確な情報を得るために、よく調べてくれるようにと頼みました。

その頃、ダビデとその部下は、エシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいました。サウルとその部下はダビデを捜しに出て行き、マオンの荒野でダビデを追いました。サウルとその部下は山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進みました。両軍が出くわすのは、もはや時間の問題です。状況はとても緊迫していました。

そのとき、サウルのもとに一人の使者がやって来て、ペリシテ人がイスラエルに襲いかかって来たので、急いで来てくださいと告げました。そのため、サウルはやむなく引き返さなければならなくなりました。何とも言えないタイミングです。でもこれは決して偶然ではなく、神がなされた救いの御業でした。

詩篇54篇は、ダビデがこの時に歌った詩です。表題には、指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール。ジフの人たちが来て、サウルに「ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか」と言ったときに、とあります。                                                                                                                                                                                                                   1 神よ あなたの御名によって私をお救いください。あなたの力強いみわざによって私を弁護してください。                2 神よ 私の祈りを聞いてください。私の口のことばに耳を傾けてください。                                                                         3 見知らぬ者たちが私に立ち向かい横暴な者たちが私のいのちを求めています。彼らは神を前にしていないのです。セラ                                                                                                                                                                                                                     4 見よ 神は私を助ける方。主は私のいのちを支える方。                                                                                                               5 神は私を待ち伏せる者たちにわざわいをもって報いられます。あなたの真実によって彼らを滅ぼしてください。       6 私は心からのささげ物をもってあなたにいけにえを献げます。主よ あなたの御名に感謝します。すばらしい御名に。                                                                                                                                                                                                                  7 神がすべての苦難から私を救い出し私の目が敵を平然と眺めるようになったからです。

この時ダビデは主の御名によって救いを求めました。「セラ」を区切りとして、前半が神への嘆願、後半が神への感謝となっています。ダビデは、祈りの中で、自らの祈りが答えられたという確信を得たのです。ダビデの祈りは、私たちの祈りでもあります。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われます。」(ローマ10:13)神の民であるクリスチャンは、最も絶望的な状況で、起死回生の奇跡を経験することができるのです。

この山は、「仕切りの岩山」と呼ばれました。その山が神のみわざの象徴となったからです。ダビデは神の保護を受け、そこを無事に脱出し、死海の西岸にあるエン・ゲディの要害に住みました。主はあなたの祈りにも答えてくださり、あなたをあらゆる危機から救い出してくださいます。どんな状況でも、この主に救いを求めて祈りましょう。

 

ヨハネの福音書17章6~19節「弟子たちのための祈り」

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きょうは、ヨハネの福音書17章から、イエス様が弟子たちのために祈られた祈りから学びたいと思います。最後の晩餐の席から立ち上がり、ゲッセマネの園に向かわれたイエスは、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」と言われました。それはご自身が十字架で死なれるが、三日目によみがえられること、そして、天に昇り神の右の座に着かれると、約束の聖霊をお遣わしになることを意味していました。その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださいます。その方を通して、主はいつまでも彼らとともにいてくださると約束してくださったのです。今は悲しみますが、その悲しみは喜びに変わります。だから、勇気を出してください。あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

これらのことを話されると、イエス様は目を天に向けて祈られました。それがこの17章の内容です。この後でイエス様はゲッセマネの園で祈られるとその場で捕らえられ、翌日十字架につけられます。そうした緊張した場面で、主は祈られたのです。この祈りは大きく三つに分けられます。まずご自身のための祈りです。それは前回見た1節から5節までの内容です。それから、今日学ぼうとしている弟子たちのための祈りです。6節から19節までです。そして、全世界のすべてのクリスチャンのための祈りです。20節から26節までの内容です。

きょうは、イエス様が弟子たちのために祈られた祈りから三つのことをお話ししたいと思います。第一に、イエス様が弟子たちのために祈られた理由です。イエス様はなぜ弟子たちのために祈られたのでしょうか。それは、彼らがイエスを信じ、イエスのものとされたからです。第二に、祈りの内容です。イエス様は彼らのためにどんなことを祈られたでしょうか。その一つは、彼らを悪い者から守ってくださいということでした。第三に、イエス様が彼らのために祈られたもう一つの祈りです。それは、真理によって彼らを聖別してくださいということでした。

Ⅰ.あなたのものはわたしのもの(6-10)

まず、イエス様が弟子たちのために祈られた理由です。それは、彼らがイエスを信じ、イエスのものとされたからです。まず6節から8節までをご覧ください。

「あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」

彼らは、神によってこの世から選び出された者たちです。イエス様は言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(15:6)その彼らに、イエス様は神の御名を現わしました。現わしましたというのは、明らかにしたということです。どのように明らかにされたのでしょうか。神のわざを行うことによってです。ヨハネの福音書にはイエス様が神から遣わされた方、メシヤであるというしるし、これは証拠としての奇跡のことですが、7つ記録されています。それでイエスは、ご自分があの出エジプト記3:14で言われていた主ご自身であると宣言されたのです。するとどうでしょう、多くのユダヤ人たちは信じませんでしたが、弟子たちはイエスのことばを受け入れ、イエスが神から遣わされた方であることを信じました。

しかし、その後彼らはどうなりますか。その後イエス様が捕らえられると、彼らは一目散に逃げて行くことになります。その中の一人ペテロは、他の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきませんと言いましたが、結局、三度も否認することになります。にもかかわらず、イエスはこうした弱い弟子たちに対して、「彼らはあなたのみことばを守りました」とか、「あなたがわたしを遣わされたことを信じました」と言われました。

ここに主の慰めを感じます。イエス様は、自分たちが見るよりもはるかに多くのことを、彼らの中に見ておられたということです。たとえ弱い信仰であっても、たとえからし種のように小さな信仰であったとしても、そこに信仰があることを見て取って、神のものとして受け入れてくださったのです。それは信じない人たちとは雲泥の差です。イエス様はマタイ10:42で、「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」と言われましたが、そうした弟子たちの誠実さというか、小さな信仰が忘れられていないことをはっきりと示されたのです。

主は、そんな弟子たちのために祈られました。9節と10節をご覧ください。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。」

ここには、イエス様が弟子たちのために祈られた理由が書かれてあります。イエスはなぜ弟子たちのために祈られたのでしょうか。それは、彼らが父なる神のものであり、その父が子にくださったものたちだからです。すなわち、彼らはイエス様のものであるからです。ここに、この世のものと神のものとの違いをはっきりと知ることができます。主の弟子というのは、この世とは区別された者たちです。この世とは神に反逆し、神なしで成り立っている世界のことです。ですから、ヤコブが、「世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)と言っているのです。でもクリスチャンは、この世のものではありません。この世から救い出された者たちです。神のもの、イエス様のものとされました。だから祈るのです。

9節に「世のためではなく、あなたがわたしにくださった人たちのために」と言っているのはそのことです。イエス様は、信じない者たちにされないことを、信じる者たちのためになさるということです。ここに神を信じる人たちとそうでない人たちの間に明確な区別があることがわかります。そして、信じる人たちを特別に愛しておられるということがわかります。このようなことを言うと、それはおかしいんじゃないかと言う人たちもいるでしょう。神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのであって、そのために御子イエス・キリストを十字架にお掛けになったのではないですか。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。それなのに、ある人たちを特別に愛するというのは不公平です!そうです。イエス様は全人類を愛し、すべての人のために死なれ、すべての人に十分な救いを備えられ、すべての人を召し、すべての人を招き、すべての人に悔い改めるようにと命じられました。しかし、それをすべての人が受け入れるかというとそういうわけではありません。神はすべての人に対しては惜しみなく、十分に、無条件にその愛を与えてくださいましたが、それを受け入れるのは一部の人たちです。確かに神の恵みはすべての人に注がれていますが、その恵みは、それを信じる人たちだけに有効であるということも事実なのです。イエス様にとって、ご自身を信じる人たちは特別なのです。だから、イエス様はご自身によって神のもとに来る人たちだけのために、とりなしておられるのです。それが、この「世のためではなく、あなたがわたしに下さった人たちのために」という意味です。

これはすばらしい約束です。全能の主が、ご自身を信じる者ために祈っていてくださるのですから。へブル7:25 には、「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とあります。キリストを信じる者は、決して滅びることがありません。なぜなら、イエス様がその人たちのために祈っていてくださるからです。その祈りをやめることはありません。そして、その祈りが勝利をもたらしてくれるからです。彼らは信仰に堅く立ち、終わりの日まで守られるのは、彼ら自身の意志や能力によるのではなく、主が彼らのためにとりなしておられるからなのです。たとえば、イスカリオテのユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返して、「私は無実の人の地を打って罪を犯しました。」と言いましたが、最終的に彼は、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死にました。再び立ち上がることはなかったのです。一方、ペテロはそうではありませんでした。ペテロもイエス様を知らないと三度も否定しましたが、彼はその後悔い改めて、神との関係を回復しました。この両者の間にどうしてこのような違いがあったのでしょうか。それは、主イエスがペテロのために祈っておられたということです。イエス様はペテロにこう言われました。

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

皆さん、だれかに祈られているということほど心強いことはありません。祈りは神の御手を動かすからです。あなたのために祈っていてくださるのは、あなたの救い主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠ることもありません。その主があなたのために祈っていてくださるのですから、どんなことがあっても大丈夫。あなたは最後まで守られるのです。私たちは本当に信仰の弱い者ですが、主はそんな者のために祈っていてくださいます。なぜ?イエス様を信じたからです。イエス様を信じて神のものとなりました。神のものはイエスのものです。それでイエス様に特別に愛される者となったのです。特別にです。イエス様にとって、あなたは特別なのです。You are special.だからイエス様はあなたのために祈っておられるのです。これこそ、イエス様を信じている者たち、クリスチャンの特権です。しかも、10節の終わりのところには「わたしは彼らによって栄光を受けました」とあります。すぐにつまずいたり、すぐに主の御心を傷つけてしまうような者であっても、主は私たちを誇り栄光と思っていてくださるということです。イエスを信じたからです。そのことを思うと、もう感激で胸がつまってしまうのではないでしょうか。

Ⅱ.悪い者から守ってください(11-16)

第二に、その祈りの内容です。11節から16節までをご覧ください。11節には、「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」あります。

イエス様は、そんな弟子たちのために二つのことを祈られました。一つは、11節にあるように「あなたの御名によって、彼らをお守りください」ということで、もう一つは、16節にあるように「真理によって彼らを聖別してください」ということです。

まず、「あなたの御名によって、彼らをお守りください」ということですが、11節には、「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。」とあります。どういうことでしょうか。イエス様はもうすぐいなくなります。十字架で死なれ、三日目によみがえられますが、その後、父のもとに行かれるからです。しかし、弟子たちは主とともにこの世からいなくなるわけではりあません。彼らはこの世に残されます。彼らには大切な使命が与えられていたからです。それは何かというと、キリストの証人となって、全世界に御国の福音を宣べ伝えることです。ですから主は、彼らを守ってくださるようにと祈られたのです。つまり、イエス様はご自分の民がこの世から取り去られることではなく、この世の中で悪から守られることを願われたのです。

すべてをご存知であられた主は、弟子たちがどのような思いを抱くであろうかということをよく知っておられました。その数は非常に少なく、力は弱く、敵や迫害に取り囲まれたら、だれでもこの悩み多い世から解放されて御国に行きたいと願うことでしょう。あのダビデでさえ、敵の手に取り囲まれたときこう言いました。「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。」(詩篇55:6)この言葉には、敵の手から解放されて主のもとに行きそこで休むことができたらどんなに良いことかという、彼の思いがよく表われています。

しかし、主は、ご自分の民がこの世から取り去られ、悪い者から逃れることよりも、この世に残って悪から守られることの方が重要であると思われました。戦いや誘惑から取り去られることは心地よいことのように思われるかもしれませんが、必ずしもそれが益になるというわけではありません。なぜなら、もしクリスチャンがこの世から取り去られたとしたら、どうやって神の恵みを証しすることができるでしょうか。イエス様は、山上の説教の中で、「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」(マタイ5:13-14)と言われました。もしクリスチャンがすぐにこの世から取り去られたとしたら、どうやってこの地の塩としての役割を果たすことができるでしょう。どうやって暗闇を照らす光となることができるでしょうか。私たちは地の塩、世の光として、自分自身をこの世に示していかなければなりません。

いったいどうやって示すことができるのでしょうか。私たちが主から与えられた使命を果たすためにはこの世に埋没していてはだめなのであって、神を必要としないこの世の原理に立ち向かい,苦闘しながらも、主から与えられた使命を果たしていかなければならないのです。そのためには、主の助けが必要です。この世を支配しているのは悪魔ですから、私たちのような弱いクリスチャンが素手で立ち向かえるような相手ではありません。14節から16節までのところで主はこう言っておられます。「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」

イエス様はここで言っている「悪い者」とは悪魔のことです。イエス様が願っておられたことは、私たちクリスチャンがこの世から取り去られることではなく、この悪魔から守られることでした。いったいどうやって守られるのでしょうか。

11節に戻ってください。ここには、「わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。」とあります。また、12節にも、「わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。」とあります。これはどういう意味でしょうか。これは、「神ご自身の御力によって」という意味です。この方は天地を創造された全能者です。また、私たちを罪から救ってくださった救い主です。そして死からよみがえられた勝利者であられます。この神の御名によって守ってくださるというのです。イエス様はこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(16:33)イエス様は、この世にあっては何の苦難もないとは言われませんでした。苦難はあるんです。しかし、勇気を出すことができます。なぜなら、主はこの世に勝利されたからです。この方の御名によって、この方の力によって、私たちは守られるのです。私たちの力によるのではありません。

パウロは、ローマ8:35-39でこの真理を次のように言っています。

「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)

キリストの愛から引き離すのはだれですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者となることができるのです。私たちがキリストを信じたことによって、神の子とされたからです。私たちには、ご自身の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が共におられます。この神が、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださるのです。

ですから皆さん、安心してください。あなたは悪魔から守られています。キリストを信じた時、神の御霊、聖霊があなたの内に住んでくださいました。主がいつも、またいつまでも、あなたとともにいてくださいます。神の愛と神の恵みが、あなたを取り囲んでいます。悪魔にやられるんじゃないかなぁと心配する必要は全くありません。なぜなら、イエスは、「わたしはすでに世に勝ちました。」と宣言されたからです。十字架に掛かる前に勝利の宣言をされました。そして、十字架の上で「テテレスタイ」「完了した」と言われました。私たちの罪の支払いは完了したのです。そして、イエス様は死からよみがえられました。死から復活されたことによって、死の力を持っている悪魔を完全に滅ぼされたのです。あなたは、この神の力で守られているのです。もしあなたがキリストを信じるなら、あなたは神の子とされ、あなたの内に、この世にいるあのもの(悪魔)よりもはるかに力のある方が住んでくださいます。あなたもキリストを信じてください。そうすれば、神の力によってあなたも守られます。ここでイエス様はそのように祈っておられるのです。このキリストの守りの中にあることを感謝しましょう。キリストの中にいるのであれば、そして、キリストがあなたの中におられるのであれば、あなたはこのキリストの力、神の力で完全に守られるのです。

それは何のためでしょうか。11節、「私たちと同じように、彼らが一つとなるためです。」彼らが一つの心、一つの思いになって、共通の敵に立ち向かい、共通の目標を目指して戦えるように、そして内輪もめや分裂によって分けられたり、弱められたり、麻痺したりすることがないように、彼らを保つためです。このことについては、次回の箇所でもう少し詳しくお話ししたいと思います。

Ⅲ.真理によって聖別してください(17-19)

イエス様の弟子たちに対するもう一つの祈りは、真理によって彼らを聖別してくださいということでした。17節をご覧ください。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」真理によって彼らを聖別するとはどういうことでしょうか。

聖別するとは、もともと神のために区別するという意味があります。この世のものから離れて、ただ神だけのものになるということです。旧約聖書では、イスラエルの民の初子は、人であれ、家畜であれ、神のものとして聖別されました。同じように、私たちもこの世にあって、神のものとして聖別されなければなりません。イエス様が言われたように、この世は悪に満ちているので、私たちがこの世に生きているかぎり、悪に汚れる機会がたくさんあります。家にいれば夫婦喧嘩をして汚れることもあるでしょう。テレビを観ていればいろいろな情報で汚れることもあります。家を一歩出れば、ママ友とのうわさ話や妬みで汚れます。ビジネスでは不正によって汚れることがあるかもしれません。しかし、神のものであるならば、それらのものから離れて、きよめられなければなりません。すなわち、この「聖別してください」というイエス様の祈りは、生活と品性において罪の汚れからもっと分離して、きよくしてくださいということだったのです。その思いとことばと行いと生活と品性において、もっときよく、もっと霊的に、そしてもっとキリストに似るものとしてくださいという祈りだったのです。神の恵みは、すでに彼らを召し、回心させてくださることによって示されましたが、その恵みがさらに高く、またさらに深められるために、彼らのたましいと、霊、からだのすべてにおいてきよめられ、イエス様ご自身に似る者とされるようにという祈りだったのです。イエス様を信じて救われることを新しく生まれる(新生)とか、義と認められる(義認)と言いますが、この新生や義認は完全で完成されたわざであり、イエス様を信じた瞬間に完成されますが、きよめられること、これを聖化と言いますが、これは、私たちの心にもたらされる聖霊による内的なわざであって、私たちがこの地上に生きている間は継続してなされるものです。ですから、イエス様は弟子たちのために救われるようにとは祈りませんでした。彼らは、イエス様が話されたことばによってすでに救われていたからです。彼らにとって必要だったのはきよめられること、聖別されることでした。

いったいどうやったらきよめられるのでしょうか。ここには、「真理によって彼らを聖別してください」とあります。「真理」とは何ですか。真理とは神のみことばのことです。みことばは、私たちが聖霊によってきよめられるために用いられるすばらしい手段です。人が救われるのもみことばによります。聖別されること、きよめられることもそうです。みことばが、人の心、精神、良心、そして感情に蒔かれ、強力に結び付けられることによって、聖霊はその人の品性をもっときよいものへと成長させてくださいます。人はよく座禅とか滝に打たれるといった修行を積むことによって、あるいは、欲を捨てることによって、また、宗教的な儀式を行うことによってきよめられると思っていますが、そうした外側からの働きかけは、残念ながら人をきよめることはできないのです。あなたがどんなに頑張っても、無理なんです。よく求道者の方とお話しをしていると、「どうですか、イエス様を信じてください」と言うと、多くの方がこのように言われます。「いや、もうちょっといい人間になったら信じます。」ならないです。もうちょっと良い人間になろうとすることはいいことですが、なりません。そうじゃないですか。いい人間になりましたか。なりません。悪くはならないかもしれませんが、欲もならない。どちらかというと、悪くなっています。生きていると考えなくてもいいことを考えたり、言わなくてもいいこと、やらなくてもいいことを言ったりやったりするからです。だから、どんなに頑張ってもいい人にはならないのです。じゃ、どうしたらいいんですか。イエス様を信じればいいのです。イエス様を信じるとその人には神の御霊が与えられ、全く新しく生まれ変わり、良い人へと変えられて行くからです。Ⅱコリント3:17-18にこうあります。「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」それは、御霊なる主の働きによるのです。ただ表面的に優しくなったとか、親切になったとかということではなく、根こそぎ変えられるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

すべてが新しくなります。イエスを信じることで喜びと平安、希望が与えられます。それはどんな状況にも奪われることのない希望です。神の愛がその人に注がれているからです。神様がいかに偉大で真実な方であるかを知るようになり、その神のみこころに従って生きていきたいという思いで心が満たされていきます。その結果、主の御霊が私たちを変えられていくのです。あなたの努力とか、頑張りとかによるのではなく、真理によってとあるように、あなたが神を信じ、神のことばに従うことによって、変えられていくのです。

ですから、聖書のみことばを規則正しく読むことと、説き明かされたみことばを聞き続け、それに従うことがどんなに重要であることがわかります。みことばは、気づかずして、私たちをきよめるために働いてくださるからです。詩篇119:9には、「どのようにして若い人は自分の道を、清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」とあります。それは若い人だけではありません。すべての人に言えることです。どのようにして、人は自分の道を清く保つことができるのでしょうか。神のみことばのとおりに、道を守ることです。そうすれば、私たちは自分の道を清く保つことができるばかりか、神のみこころにかなった者に変えられるのです。

なぜきよめられる必要があるのでしょうか。聖別されなければならないのでしょうか。18節にはこうあります。「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを遣わしました。」これがその目的です。神がキリストをこの世に遣わされたように、キリストもまた彼らをこの世へと遣わされます。つまり、クリスチャンはキリストの証人であり、その使命をしっかりと果たすためです。クリスチャンがこの世に遣わされたとき、その人と接した人が「この人は普通の人と違うなあ」「すごく暖かい感じがする」「本当に優しく親切だ」「私もあの人のようになりたい」と思うようであれば、その人は福音に耳を傾けたくなるでしょう。反対に、この人のようにはなりたくない、なんだか冷たいんだよね、というのではあれば、だれも聞きたいとは思わないでしょう。ですから、私たちがキリストの大使として、キリストの香りをこの世に放つために、きよめられる必要があるのです。

バンク・オブ・アメリカのロサンゼルス支店で起こったことです。銀行の駐車場は利用客に限って無料でしたが、乱用する人が続出したので、全場所有料としました。ある日「有料になったことを知らなかったから今日は無料にしてくれ」と、ヨレヨレのシャツとジーンズ姿の60過ぎの男性が、窓口の係の人に頼みました。彼の後ろには順番待ちの人の列が出来ています。少しイライラした窓口係は、その男性に冷たく言い放ちました。「これはもう決まったことです。文句があるなら支店長に言ってください。ハイ、次の方!」

仕方なくその男性は再び列の最後尾に並び、そして自分の番が来たとき、自分の口座から全額を下ろし、向かいの銀行に移し変えてしまいました。その額何と420万ドル、日本円で約4億5千万円でした。窓口係のチョットしたイラッとした態度が、この銀行に大きな損出をもたらしたのです。これはキリストの証人にも言えることです。私たちの態度が、その人に与える影響は大きいものがあります。イエス様の目と、イエス様の心と、イエス様の態度で接するなら、キリストの証人としてその使命を立派に果たすことができます。

ちなみに、神奈川県の秦野市に愛鶴(あいず)タクシーという会社があります。この会社は不況のタクシー業界で業績を伸ばしている会社です。以前あるホテルと契約して仕事をしていた時、そのホテルの支配人から、「キミのところの会社はサービスというものが分かっていない、もう使わない」と言われてしまいました。社長の篠原さんは、その時へりくだってホテルの支配人を訪ね、「サービスについてゼロから教えてください」と頼みました。すると支配人は「その答えは聖書の中にある」と言ったのです。

それは、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」(ルカ6:31)という言葉でした。それから社長の篠原さんは、一生懸命お客様のニーズはどこにあるのかを考えたそうです。その中の一つのアイデアは、「福祉タクシー」というものでした。身体障害者やお年寄りの人たちの立場に立ったタクシーです。タクシーを改造し、運転手にはホームヘルパー2級の資格を取らせました。また、手話を習わせたりしました。するとどうでしょう。同業他社の人々は「昼間だけのタクシーで儲かる筈がない」と言って、篠原さんの試みを冷たい視線で眺めていました。しかしこの試みは世間の人々に受け入れられたのです。社会的弱者に優しいタクシー会社というイメージが拡がり、普通のタクシーの需要も伸びたのです。

このような会社が伸びないはずがありません。キリストの言葉に生きるなら、そこには神のいのちと力が働きますから、必ず良い方向へと導かれるはずだからです。

福音の宣教も同じです。大切なのはどのように伝えるかということではありません。だれが伝えるかということです。だれがとは、どのような立場の人がということではなく、また、どのような性格の人がということでもなく、どのような性質の人が伝えるのかということです。キリストの性質にある人が、キリストに似た人がキリストの証人として伝えるなら、神の栄光が現されることでしょう。イエス様はそのために彼らを聖別してくださいと祈られたのです。

最後に19節をご覧ください。イエス様は、「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」と言っておられます。どういうことでしょうか。イエス様は完全にきよく、罪がないお方だったので、きよめられる必要はありませんでした。そのイエス様が、「わたしは彼らのために、わたし自身を聖別します」と言われたのです。この意味は、「わたしは自分自身を聖別して、祭司として、自分を犠牲としてささげます。」という意味です。それは、わたしの弟子たちが真理によって聖別され、きよい民となるためにです。それは、イエス様が間もなく十字架で贖いの死を遂げられることを意味していました。イエス様はまさにご自身を神のものとして聖別されたのです。それは、弟子たちが彼らに与えられた使命を果たすためでした。その使命とは何ですか。その使命とはキリストの証人として、この世に遣わされるということでした。

弟子たちはその初穂として遣わされたのです。彼らを通して福音が宣べ伝えられ、多くの人がキリストを信じて救われ、神の栄光が現されるようにと。同じように、神はあなたをこの世から選び、ご自身のもとして聖めてくださいました。救ってくださいました。それはあなたを通して神の栄光が現されるためです。私たちはキリストによって罪の赦しと永遠のいのちを受けました。しかし、それは完全になったということではありません。まだ弱さがあります。しかし、私たちには、そうした弱さを知ってとりなしてくださる方がおられます。イエス様です。イエス様があなたのために祈っておられます。あなたの弱さに同情してくださるだけでなく、あなたをそこから助け出して、力を与えてくださいます。そして、あなたを通してご自身の栄光を現してくださいます。私たちも内側からきよめられて、キリストの栄光、神の栄光を現す者となりましょう。そのために、イエス様はご自分のいのちをささげてくださったのです。

出エジプト記28章

今日は、出エジプト記28章から学びます。これまで幕屋の建築について見てきましたが、28章と29章には祭司について書かれています。その幕屋で人がどのように奉仕するのか、その奉仕者である祭司について学びます。今日は前半部分28章です。

Ⅰ.祭司として仕えさせよ(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。

「1 あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビフ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。2 また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。3 あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵ある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなさい。 彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。」

ここにはアロンとその子たちを祭司として仕えさせるようにとあります。祭司とは、簡単に言えば、神と人との仲介者のことで、神の幕屋に仕える人たちのことです。神に対して、祭司は人を代表します。とりなしの祈りをしたりすることは、祭司の務めです。そして人に対しては、神の祝福や恵みやいやしを分け与える神の代表者でもあります。祭司の働きによって、イスラエル人は神に近づくことができました。この祭司もイエス・キリストの型であり、イエス・キリストのことを表していました。イエス・キリストこそまことの大祭司です。ですから、この祭司について学ぶとキリストがどのような方であるのかがわかるのです。

モーセの兄アロンと彼の子どもたちが祭司として任じられました。何のためでしょうか。主に仕えるためです。ここには、「祭司としてわたしに仕えさせよ。」とあります。主に仕えるということは何か主のために特別のことをすることではなく、主が命じられたことを行うことです。

2節をご覧ください。ここには「あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ」とあります。大祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着なければいけませんでした。普通の服装では聖所に入ることができなかったのです。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストを表していたからです。イエス・キリストによらなければ、だれも神に近づくことはできません。ヘブル1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」とありますが、栄光と美を表す聖なる装束は、この栄光のキリストを表していたのです。そのために、主が知恵の霊を満たした、心に知恵ある人たちが用いられました。

Ⅱ.大祭司の装束(4-39)

4-39節までに、栄光と美を表す聖なる装束がどのようなものであったかが記されてあります。まず、4-5節をご覧ください。

「4 彼らが作る装束は次のとおりである。胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯。彼らは、あなたの兄弟アロンとその子らが、祭司としてわたしに仕えるために、 聖なる装束を作る。5 彼らは、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を受け取る。6 彼らに、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、意匠を凝らしてエポデを作らせる。」

彼らは大祭司のために、胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯を作らなければなりませんでした。なぜなら、それはイエス・キリストを指し示していたからです。大祭司はそのままの姿で、神のみもとに近づくことはできませんでした。また、自分を良くすることによっても、神に近づくことはできませんでした。イザヤ書に、「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。」(64:6)とあるように、罪に汚れた者だからです。そのような者が神の幕屋に入って行き、神に近づくことができるのは、イエス・キリストの義を身に着けていなければならないのです。パウロは、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)と言いました。ですから、イエス・キリストが、私たちにとって聖なる栄光と美の装束です。私たちは、自分の正しさではなく、キリストの完全な義を身にまとうことによって神に近づくことができるのです。

最初はエポデを作りました。これはエプロンのような形をしており、大祭司の胸と腹の部分を覆っていました。その材質は、金色、青、紫、緋色の撚り糸と、亜麻布が用いられていました。金色は何を表していましたか。キリストの神性です。キリストが神であることを表していました。青色は天、神の国ですね。それは、キリストが天から来られた方であることを示していました。紫色は王としてのキリストです。緋色は赤ですが、これはキリストの十字架の血による贖いを表していました。そして亜麻布は白ですが、これはキリストの聖さ、キリストの義を表していました。このエポデはキリストの権威を象徴していたのです。

7-14節をご覧ください。これに二つの肩当てが付けられました。この肩当てはイスラエル12部族を表していました。その肩当てにはそれぞれしまめのうがはめ込まれていて、片方にはイスラエル12部族のうちの6つの部族の名前が、またもう一方には6つの部族の名が記されてありました。つまり、キリストはご自身の民であるイスラエルの12の部族(クリスチャン)を背負ってくださるということです。イザヤ46:3-4には、「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とあります。私たちは、大祭司であられる主イエスに担われているのです。ずっと・・。何と感謝なことでしょうか。

8節をご覧ください。ここには「エポデの上に来るあや織りの帯」を作るようにとあります。材料と色はエポデを作る時と同じ色、同じ材料です。すなわち、これもイエス・キリストのことを表していました。この帯は何を象徴していたのでしょうか。出エジプト12:11には、帯を引き締めて、足にくつをはき、急いで行くようにとありますが、それは、着物がはだけないためでした。要するに、働きやすくするために帯を締めるのです。それは、しもべとしてのキリストの姿を象徴していたのです。キリストは仕えるしもべとしてこの世に来てくださいました。そして、この帯がエポデと同じ材質と色で作られなければならなかったのは、権威者であられるキリストとしもべとしてのキリストというこの二つの性質がキリストの中にあるということです。神としての権威をもっておられた方が、しもべとなって仕えてくださいました。栄光の神であられるキリストは仕えるしもべでした。これが真のリーダーです。真のリーダーとは、サーバント・リーダーなのです。

次に15-21節までをご覧ください。

「15 あなたはさばきの胸当てを意匠を凝らして作る。それをエポデの細工と同じように作る。すなわち、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて作る。16 それは正方形で二重にする。 長さ一ゼレト、幅一ゼレト。17 その中に宝石をはめ込み四列にする。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。18 第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。20 第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれる。21 これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表す。」

ここには、「さばきの胸当て」を作るようにと命じられています。この「さばき」というのは神のさばきというよりも、神のみこころは何かということを判断するさばきのことです。イスラエルが何かのさばき、判断、知恵を求めたとき、彼らは大祭司の所にやって来て、神のみこころを伺ったのです。それがさばきの胸当てです。このさばきの胸当てにはウリムとトンミムが入っていました(30)。ウリムとトンミムとはどのようなものであったかは明確ではありませんが、Iサムエル14:41には、これがくじとして用いられていたことが記されてあります。くじとして用いられていたことから、神のみこころを求めるくじのようなものであったのではないかと考えられているのです。ウリムが出たらイエス,トンミムがノーというように判断していたのでしょうす。判断がくじによって与えられるというのは、このくじは単なる偶然にではなく、神がその判断と決定をそれによって与えられるという信仰が基調にあったのです。

このさばきの胸当てもエポデと同じ色、同じ材質で作られました。ということは、これもまたイエス・キリストのことを表していたということです。違うのは何かというと、この胸当てには高価な宝石がちりばめられていたということです。宝石は3個ずつ4列にしてはめ込められていました。この12の宝石は、イスラエルの12部族を表していました(21)。それがこの胸当てにはめ込まれていたのは、大祭司の心にイスラエル12部族の名前が刻まれていたということです。イエス・キリストの心にクリスチャンの名前がしっかりと刻まれているのです。彼らはそれぞれ違う石で表されていましたが、どれも皆、宝石です。どの部族も価値があります。皆、それぞれ光を持っています。光り方は違いますが、どれもみな大祭司のハートにしっかりと刻み込まれていたのです。

イザヤ49:15-16には、「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」とあります。私たちはキリストから忘れられるということは決してありません。その心にしっかりと刻まれているからです。それぞれ輝き方はみな違いますが、宝石のように価値ある者として見られているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

どの教団、どの教派、どの教会の人であっても、あなたがキリストを信じて神のものになっているのなら、神の目にあなたは高価で尊い存在なのです。宝石のように輝いていめのです。まだ輝いていないという人がいますか?そういう人がいたら、その人は宝石の原石なのです。そのうちに輝いてきますから、心配堂しないでください。

それは私たちだけでなく、あなたの隣人も同じです。あなたの隣人もキリストを信じて神のものとなったのであれば、キリストの目には同じように高価で尊いのです。私たちは、そのような目で隣人を見ていく必要があります。

22-29節をご覧ください。

「22また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作る。23 胸当てのために金の環を二個作り、その二個の環を胸当ての両端に付ける。24その胸当ての両端の二個の環に、二本の金のひもを付ける。25その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付ける。26さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付ける。27 また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付ける。28 胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにしなければならない。29 このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」

ここには、胸当てを身に着けるための鎖と環について述べられています。この鎖は、純金で作られました。胸当てを体に固定するために、胸当ての四隅に金の環がつけられます。そして上の環は金の鎖で肩当ての環につなぎあわせ、下の環はエポデにつけられた環に青ひもでつなぎます。それは何のためでしょうか。胸当てがエポデからずり落ちないようにするためです。大祭司の胸当てはイエス・キリストの心です。私たちはあの宝石のように主のみ胸に抱かれて大切に守られているのです。それは決してずり落ちることはありません。

29節には、「このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」とあります。これはキリストの愛情のしるしです。こうして大祭司はイスラエルの民族を代表して聖所で奉仕し、神と人との間のとりなしをするのです。ヘブル7:24-25には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とありますが、キリストはこの大祭司として、私たちのために神にとりなしていてくださるのです。

次に31-35節までをご覧ください。

「31 エポデの下に着る青服を青の撚り糸だけで作る。32 その真ん中に、首を通す口を作る。その口の周りには、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付け、よろいの襟のようにする。33 その裾周りには、青、紫、緋色の撚り糸でざくろを作る。その裾周りのざくろの間には金の鈴を付ける。34 すなわち、青服の裾周りに、金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。35 アロンはこれを、務めを行うために着る。 彼が聖所に入って主の前に出るとき、 またそこを去るとき、 その音が聞こえるようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。」

ここには、エポデの下に着る青服の作り方が記されてあります。これは青色の撚り糸で作られました。これにはそでがなく、ひざが隠れるほどの長さのものでしたが、あるものは足首にまで達する長いものでした。というのは、33節に裾のことが記されてありますが、それによると足首まである長い服であったのがわかるからです。その真ん中には頭を通す穴を開け、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付けました。その裾周りには青色、紫色、緋色の撚り糸で作ったざくろを作り、その裾の周りに付けました。また、その周りのざくろの間に金の鈴をつけました。ざくろは、多数の実を付けていることから肥沃、豊かさ、生命の象徴でした。それはキリストの生命の豊かさを表わしていました。また、金の鈴は、大祭司キリストの働きを示していました。それはとりなしの祈りです。35節を見ると、アロンが聖所での務めをするときにはこれを着なければなりませんでした。そして、彼が聖所にはいり、主の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにしなければならなかったのです。それは、彼が神と人とに覚えられているというしるしでした。そうしないと、彼は打たれて死んだのです。鈴の音が止まると死んだということが、神と人の両方にわかりました。

36-38節をご覧ください。

「36 また、純金の札を作り、その上に印章を彫るように主の聖なるもの』と彫り、37 これを青ひもに付け、それをかぶり物に付ける。それがかぶり物の前面にくるようにする。38 これがアロンの額の上にあって、アロンは、イスラエルの子らが聖別する聖なるもの、彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。これは、彼らが主の前に受け入れられるように、絶えずアロンの額の上になければならない。」

ここには、「純金の札」について記されてあります。純金の札を作り、その上に印を彫るように、「主への聖なるもの」と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物の前面にくるように付けばなりませんでした。その大きさについてはいろいろな節があります。ある伝承では幅4センチ、長さは耳から耳に届くほどの大きさであったとされています。

しかし、最も重要なのは、そこに「主への聖なるもの」と彫られた純金の札を付けなければならなかったということです。これが、38節に「彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。」とあるように、。イスラエルの咎を負うためであったからです。イスラエル人が持ってきた物はいろいろな清めと洗いがなされていますが、完全に聖い神の御前には汚れています。そこで、民を代表するアロンは、それを額の上に置きその汚れたささげ物がすべて聖められるようにしたのです。これでイスラエル人のささげ物が、絶えず神の御前に受け入れられるようになりました。エペソ書1:7には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。」とありますが、私たちはこの大祭司であられるキリストの贖いによって罪が赦され、聖められているのです。この方にあって私たちは神に受け入れられた物、聖い者とされたのです。大祭司であられるキリストが私たちの咎を負ってくださったからです。そのことによって、私たちは大胆に神の御前に出ることができるようにされたのです。

39節をご覧ください。

「さらに亜麻布で市松模様の長服を作り、亜麻布でかぶり物を作る。飾り帯は刺を施して作る。」

長服は亜麻布で市松模様に作られました。市松模様というのは白と黒の正方形を、互い違いに並べた基盤目模様のことです。「石畳」「あられ」などとも言われます。かぶりものは亜麻布で作られました。これは恐らく主への敬意のしるしだったのでしょう。飾り帯は刺繍で作る。大祭司の装束の中に履物についての言及がないのは、おそらく彼らがはだしで務めをしていたからと考えられます。

Ⅲ. アロンの子らの装束 (40-43)

最後に、40-43をご覧ください。                             「40 あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表すターバンを作らなければならない。41 これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。42 彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。それは腰からももまで届くようにする。43 アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためである。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟である。」  大祭司アロンの働きを補佐するアロンの子らたちのためには、長服と飾り帯とターバンが作られました。ターバンは栄光と美を表していました。彼らは聖別された油を注がれて祭司に任命されました

彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作りました。それは腰からももに届くようにしました。これはアロンと彼の子らが聖所で務めを行うために祭壇に近づく時に着ました。これは彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないようにするためのものでした(20:26)。もしも彼らの裸があらわにされてしまうなら、神に打たれて死ななければならなかったからです。どういうことでしょうか。これはキリストの贖いを象徴していました。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはいちじくの葉をつづり合せたもので腰の覆いを作りましたが、そんなものは2,3日で枯れてしまい全く役に立ちませんでした。自分の力や働きによって裸をおおうことはできません。自分の裸をおおうことができるのは、神が用意してくださった動物の皮で作られた着物でした。まさにその動物こそキリストの血を象徴していたのです。神は、そのようにして彼らの裸をおおってくださいました。同じように、私たちの裸をおおうのは亜麻布のももひきです。それはイエス・キリストを指し示していました。それを着なければならないのです。アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着ました。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためです。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟です。

今日、完全なる大祭司であるイエス・キリスト(ヘブル3:1)が私たちのために神の前にとりなしをしていて下さいます(ヘブル7:24-27)。大祭司アロンはイエスキリストのひな型であり、イエス・キリストこそが永遠の大祭司として神の御前に私たちのためにいつもとりなしておられます。今もキリストは大祭司として真の幕屋である聖所で仕えていることを覚え(ヘブル8:1,2)、キリストによって罪を贖っていただいたことを感謝しましょう。

ヨハネの福音書17章1~5節「永遠いのちとは」

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ヨハネの福音書17章に入ります。きょうは、「永遠のいのちとは」というタイトルでお話しします。一般の人にとって、永遠のいのちと聞いてもあまりピンとこないかもしれません。今をどう生きるかとか、どうしたら幸せに生きることができるかといったことならまだしも、死んでからのことなど考えたくないし、考える必要もないと思っているからです。しかし、永遠のいのちとは、死んでからのことだけではありません。今を生きる私たちが真に必要なものでもあります。それはたましいの救いであり、神がともにおられるということです。それとは逆に、死とは、神がおられないこと、神の呪いを意味しています。この世でどんなに成功し、名を上げたとしても、神の祝福がないところには真の幸福はありません。生きがいも、生きる喜びも持つことができません。ですから、永遠のいのちを得て、神がともにおられる人生こそ、ほんとうにすばらしいものなのです。

それでは、どうしたら永遠のいのちを持つことができるのでしょうか。きょうは、このことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。第一のことは、イエス様が十字架で死なれたのは、この永遠のいのちを与えるためであったということです。第二のことは、この永遠のいのちと何ですか。それは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。ですから、第三のことは、どうしたらこの永遠のいのちを持つことができるのかということです。それは、神の御子イエス・キリストを信じることです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていないからです。

Ⅰ.永遠のいのちを与えるため(1-2)

まず、1節と2節をご覧ください。「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。」

「これらのこと」とは、13章から16章までのところでイエス様が話されたことです。イエス様は弟子たちに、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」と言われました。それはご自身が十字架で死なれるが、三日目によみがえられること、そして、天に昇り神の右の座に着かれると、約束の聖霊をお遣わしになることを意味していました。その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださいます。その方を通して、主はいつまでも彼らとともにいてくださると約束してくださったのです。今は悲しみますが、その悲しみは喜びに変わります。だから、勇気を出してください。あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

これらのことを話されると、イエスは目を天に向けて言われました。言われたというのは、祈られたということです。私たちは普通祈るときは目を閉じ、頭を垂れますが、当時は、目を天に向けて祈るのが一般的でした。しかし、祈りにおいて大切なことはどのように祈るかということではなく、どんな時でも祈ることです。また、イエス・キリストの名によって祈ることです。目を閉じて祈ってもいいし、目を開けて祈っても構いません。ひざまずいて祈ってもいいし、立ったままでも構いません。歩きながら祈るのもいいでしょう。家事をしながらでも、ウォーキングしながらでも大丈夫です。運転しながらでも構いません。ただ運転をしながら祈る時は十分注意しなければなりません。大変危険ですから。家内が祈る時は、いつも目を開けて祈ります。目をつぶると、そのまま夢心地になってしまうからですというのはうそで、目を開けたままの方が祈りやすいからだと言います。どのような姿勢で祈っても構いません。また声に出して祈ってもいいし、出さないで黙って祈っても構いません。どのように祈っても、神はあなたの祈りを聞いてくださいます。

イエス様は、目を開けて天を見上げ、声に出して祈られました。この章全体がイエス様の祈りです。これは大変珍しいことです。福音書の中にはイエス様が祈られたことがたくさん書かれてありますが、このように祈りの言葉が記録されてある箇所はあまり多くありません。あってもとても短い内容です。しかし、ここには長い祈りの言葉が記録されています。一般に、キリスト教会ではマタイの福音書6章にある祈りを「主の祈り」と呼んでいますが、それは主が弟子たちにどのように祈ったら良いのかを教えられたものであってイエス様の祈りそのものではありません。実際には、このヨハネの福音書17章が、主の祈りと呼ばれる箇所です。

この祈りは三つの部分に分けられます。まず、1節から5節までですが、ここでイエス様はご自分のために祈られました。次に6節から19節までです。そこには弟子たちのための祈りが記されてあります。そして、20節から26節までは、すべての時代の、すべてのクリスチャンのためのとりなしの祈りです。きょうは、その最初の部分です。イエス様がご自身のために祈られた祈りです。

ここでイエス様は、声に出さないで祈ることもできましたが、あえて声に出して祈られました。なぜでしょうか?それは、弟子たちがそれを聞くことができるためです。さらに、現代に生きている私たちすべてのクリスチャンが聞くことができるためです。というのは、この祈りを通してイエス様と父なる神がどれほど親しい関係であるのかを知ることができますし、また、イエス様がだれであるのかをはっきりと知ることができるからです。そして、イエス様があなたと私、すべてのクリスチャンのためにとりなしておられることを知ることができるからです。

それでは、イエス様の祈りを見ていきましょう。1節の後半をご覧ください。イエス様はまず、「父よ、時が来ました。」と言われました。「父」とは、アラム語で「アバ」です。これは父に対する親しい呼び方で、今日の言葉では「パパ」とか、「お父さん」という感じです。イエス様は父なる神を、いつも「アバ」と親しく呼びかけられました。

「時が来ました」何の時でしょうか。十字架に掛けられる時です。ヨハネの福音書で「時」とある時は、十字架の時を意味しています。イエス様は十字架に掛かって死なれるために来られました。それは、私たちの罪の身代わりとなってご自分のいのちを与えるためです。イエス様はこれまで何度も「わたしの時は来ていません」と言われましたが、12:23で初めて、「人の子が栄光を受ける時が来ました。」と言われました。それで、13:1ではご自分の時が来たことを知られたイエスは、最後まで弟子たちを愛され、彼らの足を洗われました。そして、彼らだけに最後のメッセージをされたのです。それが16章までの内容です。そして、ここでイエス様は父なる神に向かって、「時が来ました」と言われました。ついに、その時が来ました。十字架に掛かる時が来たのです。この翌日、イエス様は十字架に付けられることになります。

「子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」どういう意味でしょうか?イエス様が十字架に掛かることが神の栄光を現すことであり、子の栄光を現すことでもあるということです。どうしてですか?それは、信じる者がみな、永遠のいのちを持つためです。そのために神は、すべてを支配する権威を子に与えてくださいました。それは、父が下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。イエス様が永遠のいのちを与えてくださいます。

ヨハネ5:24にはこうあります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

イエスの言葉を聞いて、イエスを信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。ここでは、移るでしょうとか、移るに違いないというのではなく、その瞬間に移っているのです。イエスを信じる者は、その瞬間に永遠のいのちを持つのです。それは死んでからのことだけでなく、まだ死んでいない、この世にあってもということです。この世にあって天国を味わうことができるのです。なぜなら、神がともにおられところ、それが天国だからです。イエス様を信じてすべての罪が赦されると、神はご自身のいのちであられる聖霊を送ってくださいます。この聖霊によってさながら天国を味わうことができるのです。イエス様は、この永遠のいのちを与えるために来てくださったのです。

しかし、ここには「それは、あなたが下さったすべての人に」とあります。それは、だれにでもではなく、神がくださったすべての人に、です。6:44には、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」とあります。父なる神が引き寄せてくれなければ、だれも父のもとに行くことはできないのです。それは、15:16でイエス様が言われたことでもあります。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」私たちがイエス様を選んだのではありません。イエス様が私たちを選んでくださいました。父が私たちを引き寄せてくださったので、私たちはイエスのもとに来ることができたのです。

1990年7月、福島で牧師をしていた時、金沢哲夫兄という方が信仰に導かれ受洗しました。金沢兄は、精神的な病を患っていましたがその中で純粋に求道し、救われました。以来30年間、病気のためになかなか教会に来ることができませんでしたが、その信仰を詩集にまとめて送ってくださいました。今回が5冊目となりますが、その中にお便りが入っていて、これが最後の詩集となります、とありました。腹膜全体にガンが見つかり、余命半年の宣告を受けたのです。イエス様を信じて、永遠のいのちが与えられたことを感謝しますとありました。

今回の詩集のタイトルは、「天地創造の神」ですが、これは兄弟の祈りです。

「祈らずにいられようか」                                            祈らずに いられようか                                                       世界は とんでもないくらい 深いのだ                                                         宇宙は とんでもなく 広いのだ                                                       祈らずに いられようか

「祈り」                                                                   神は 世界を 変えるほどの 大きな 祈りにも 答えて くださる                                               けれど 個人的な 小さな祈りにも 答えて くれる

こんな詩もあります。

「煙草(たばこ)」(神は祈りに答えてくださる)                                                       自慢できる話ではないが                                                                        私は苦難の日に エコーを 一日五箱吸った時があった                                                         普段はピース・ライトを二箱吸っていた                                                        近頃は メンソールのラーク10gを 二箱吸っている                                                  値上がりしてからは 止めさせて下さいと 祈り始めた                                               それでも一向に減りそうもなかったので                                                                    一日一箱で間に合わせて下さいと 懇願した                                                      そうしたら どうにか一箱で収まった                                                          神は切なる祈りに答えてくださった                                                         馬鹿なことを言う奴だと 思われるかも知れないが 大真面目なのだ                                                          経済的にも 健康の為にも 信仰のためにも                                                    この調子では 止められそうな時が来ることは確実だ

その中で私が最も感動したのは、この詩です。

「今頃気付くなんて」(すでに祈られていたのだ)                                                 今頃気付くなんて 私は無神論の時代から すでに祈られていたのだ                                                    神を否定し 酒場で飲んだくれていた時も                                                             ヒッピー・フーテン 放蕩三昧の時も すでに祈られていたのだ                                         今頃気付くなんて 旧約時代 人類が誕生した時                                                         天地創造の時から 神はすでに祈っていたのだ 今頃気付くなんて                                           ニーチェやサルトル、ハイデッカー・マルクス その他の無神論者の哲学者、思想家達も                                          広大無辺な神にはかなわない                                                              すでに祈られていたのだ(本当の意味での無神論者なんていない) 今頃気付くなんて                               ニートやホームレス、酒場で飲んだくれているあなたも 祈られている                                  早く、教会へ行こう

これは、2013年3月に書かれた詩ですが、ずっと祈られていたのです。それにちっとも気付きませんでした。自分で信じたと思っていた。でも、祈られていたのです。人類が誕生した時から、天地が創造された時から、ずっと祈られていました。だから今、ここにいるのです。神が引き寄せてくださらない限り、だれもイエスのもとに行くことはできません。永遠の昔から、神が引き寄せてくださった方に、キリストは永遠のいのちを与えてくださるのです。あなたはそれに気付いていましたか。今からでも遅くありません。大切なのは、気付いたその時に主のもとに行くことです。

Ⅱ.永遠のいのちとは(3)

それでは、永遠のいのちとは何でしょうか。3節をご一緒に読みましょう。

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

永遠のいのちとは、唯一の真の神を知ることです。また、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。「知る」というのは、単に知識として知るというだけのことではありません。頭だけで理解することではないのです。体験的に、人格的に知ることです。神を信じているという方はたくさんいます。世界中にたくさんの宗教があります。みんな神を信じていると言いますが、果たしてその神とはどういう神でしょうか。日本には八百万の神と言って、八百万も神がいるんです。しかし、まことの神は唯一です。ただ一人です。そう聖書は教えています。その神によって天地万物が造られました。この神は、すべての存在の根源であられます。この方がまことの神です。そして、神はその中に住むすべてのものをお造りになられました。しかし、この神を見た者は一人もいません。また、見ることができない方です。人間がどんなに頑張っても、宇宙に行ったとしても、見つけることはできません。どんなに探しても、どんな宗教を作ったとしても、この神に到達することはできないのです。この神から近づいてくださらない限り、人は神を知ることはできません。

しかし、この神から遣わされた方がいます。それがイエス・キリストです。神が人となって来てくださいました。「イエス・キリスト」という名前の「イエス」は、「神は救い」という意味です。「キリスト」は名前ではなく称号です。「油注がれた者」という意味があります。つまり、イエス・キリストは、救い主として神によって遣わされた方であるという意味です。まことの神はあなたを救う方であり、その方の名はイエスであるということです。ですから、イエスは神の子であり、救い主です。神が人となって来られた方であり、神ご自身であられるのです。

この方は永遠なる方です。ヨハネ1:1には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。この「初め」とは、永遠の初めのことです。何か起点があってそこから始まったというのではなく、始まりのない初めです。アルファであり、オメガであられます。最初であり、最後です。永遠なる方なのです。永遠なる方なので、永遠のいのちを持っておられるのです。一時的に神になったのではありません。永遠から永遠まで神なのです。その永遠のいのちを持っておられる方が、人となって来られました。そして、その永遠のいのちを与えることができるのです。ですから、キリストは「わたしと父とは一つです。」(10:30)と言われたのです。また、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)と言われました。そして、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通しでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)と言われました。キリスト抜きに神を知ることはできません。永遠のいのちとは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることなのです。あなたはこの方を知っておられますか。

フランスのシャルル・ドゴール空港で、一人の英国人紳士が、ベンチに座って顔を伏せたまま動きませんでした。その様子を見ていた空港の警備員が心配そうに尋ねました。「ご気分でも悪いのですか」すると紳士は答えました。「いえ、そうではありません。ここにコンコルドで飛んで来たのですが、あまりのスピードに私の身体はここに着いたのですが、私の心はまだここに着いていないのです。それで心が追い付いて来るまで、ここでしばらく休んでいるのです。」

現代はあらゆるものが猛スピードで動き、まさに心が付いていくのが大変な時代です。その結果人々は、物質的な豊かさの中で心のバランスを失っているのです。日本の自殺者が毎年三万人を越えているのも、その表れだと思います。私たちは、どうすれば心のゆとりや心の豊かさを保つことができるのでしょうか。どこに人生の基盤を置くのかということです。それを表面的で、物質的なこの世に置くのか、永遠のいのちに置くのかということです。もし、この世のものに基盤を置くなら、砂の上に家を建てた人のように、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、すぐに倒れてしまうことになるでしょう。しかし、もし堅い岩の上に置くなら、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、びくともしないでしょう。

ある女子高のクラス会が、温泉宿で、一泊二日で20年ぶりに持たれました。夕食の時、学生気分に戻って、誰とはなしに「ねえ、財布の中身を見せっこしよう」と言い出しました。「私、三十万円」「私、十万円」と言ってキャーキャー言い合っていました。一人の女性が「私、三千円」と言うと、皆シーンとなってしまいました。皆は、彼女の私生活を覗き見たような気がして、気まずい雰囲気が漂いました。帰り道、彼女の友人が気を遣って慰めました。「ゴメンナサイね、昨晩は大人げないことをしてあなたを傷つけちゃって」。しかし、彼女は平然として言いました。「大丈夫、私そんなこと全然気にしていないし、傷付いてもいないから。だって私、銀行口座に親の遺産が三十億あるんだもの」確かにそれだけの大金があれば、財布の中身比べにも動揺しないでしょう。しかし、世の中にはお金では解決できない問題が山ほどあります。ある資産家が臨終の床で医者に叫びました。「先生、いのちを助けてくれ!お金ならいくらかかってもいいから。」

この世界には、ただ一人だけ確かな方がいらっしゃいます。それは天地を創造されたまことの神です。この方と心のベルトがしっかりと掛けられている人は、何が起こってもあわてることはありません。あなたはいかがですか。永遠のいのちとは、唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。この方としっかり繋がっていれば、そして、この方に支えられているという確信がある人は、何があっても動じることはないのです。

Ⅲ.救いのわざを成し遂げられたイエス・キリスト(4-5)

では、どうしてイエス・キリストによらなければ、永遠のいのちを得ることができないのでしょうか。それは、御子イエス・キリストが十字架で私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったからです。4節と5節をご覧ください。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」

イエス様は、神のわざを行うようにと、神から遣わされました。そのわざとは何でしょうか。十字架と復活です。イエス様は多くの奇跡を行いましたが、その中でも最も大きなわざは、十字架に掛かって死なれ、三日目によみがえられることでした。イエス様は、そのわざを成し遂げて、地上で神の栄光を現したのです。

私たち人間は生まれながら罪を持っています。ですから、だれにも教えられなくても、わがままで、自分さえよければよいと考えるエゴイズムであるわけです。それは最初の人間アダムとエバが罪に陥ったからです。その結果、アダムの子孫として生まれて来るものは皆、その人が欲するか否かにかかわりなく、罪を持って生まれてくるのです。これを原罪といいますが、それを持っている限り、だれに教えられなくても罪を犯すのです。罪は、私たちの行いだけによらず、私たちの思いと言葉と行いによって犯します。よくないことを考え、それが心から口に出て、人を傷つけ、ついにはそれが行為にまで至り、神の御心をも、ほかの人をも傷つけてしまうのです。その罪には必ず償いが求められるわけで、その償いを果たし終えるまでは、どこまでも追いかけてきます。ですから、いつも何かに追われているような気がしてならないのです。平安がありません。その償いとは何ですか。聖書は、その償いは「死」であると言っています。その罪のために私たちは死ななければなりませんでしたが、私たちが死しなくてもよいように、神がその解決の道を備えてくださいました。それが十字架なのです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかって死んでくださいました。ですから、この方を、あなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたは救われるのです。永遠のいのちを持つことができるのです。

永遠のいのちは、死んでから持つものではありません。むしろ、この地上に生きている時に持つものです。         「私たちの齢は70年、健やかであっても80年です。そのほとんどは、労苦と災いです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」(詩篇90:10)                                                        では、死んだらどうなってしまうのでしょうか。死んだら消えて無くなってしまうのではありません。では、何かに生まれ変わるのですか。違います。私たちは皆、信仰のある人もない人も、死んだら肉体は消えて無くなりますが、霊魂は永遠に生きるのです。問題は、その永遠をどこで生きるのかということです。聖書は、まことの神を知らなければ永遠の滅びに行くと言っています。イエス・キリストを信じなければ、火と硫黄の池に投げ込まれるのです(黙示録20:15)。死んだらすべてが終わるといいますが、そうではありません。燃える火の中で永遠に生きなければならないのです。それほど恐ろしいことはありません。聖書はそのことを厳かに教えています。脅しているのではありません。それが真実です。だから聖書は、私たちがそこに行かないようにと、神がひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。あなたの代わりに十字架で死なれるために。この方を信じる者は救われます。すべての罪が赦されて、天国に行くことができるのです。天国は聖なるところなので、少しでも罪があると入ることはできません。ですから、神はひとり子イエス・キリストを与えてくださったのです。それが十字架と復活の御業でした。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。イエス様は、ご自分が行うようにと神が与えてくださったわざを成し遂げて、この地上で栄光を現しました。ですから、この救い主イエス・キリストを信じる者の罪は赦され、天の御国に入れていただけるのです。

Ⅰヨハネ5:11-13にこうあります。「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」

この御子を持つことが永遠のいのちです。あなたは御子を持っていますか。あなたの心の中には、御子イエス・キリストが住んでおられるでしょうか。この方と個人的に交わっておられるでしょうか。永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。あなたがイエス・キリストを信じ、この方と親しい交わりを持つとき、そこに永遠のいのちが始まります。どうぞ、イエス・キリストを信じてください。イエス・キリストをあなたの心の中に迎え、この方との親しい交わりの中に生きてください。そこに神の国があります。神の国は、あなたがたのただ中にあるからです。この方を信じて、この神の国を生きることができるのは何という幸いでしょうか。あなたもその中に招かれているのです。

先月、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお父さんで、拉致被害者家族会の前の代表であられた横田滋さんが召されました。横田さんはめぐみさんが失踪した1977年から、40年以上にわたって妻の早紀江さんとともにめぐみさんの救出を訴え、全国で署名活動を行ったり、1,400回を超える講演活動を行ってきました。

早紀江さんは、めぐみさんが失踪した翌年に新潟の教会に導かれてクリスチャンになりましたが、夫の滋さんは長年、早紀江さんの信仰に理解を示しながらも、めぐみさんを突然奪われた苦しみから、信仰を持てずにいました。しかし、2017年に早紀江さんが通う川崎の教会で洗礼を受けました。

早紀江さんのお話しによると、滋さんは、新潟でめぐみがいなくなった時、めぐみさんを捜し回り、泣きながら「神も仏もあるものか」と叫んでいたそうです。その時から「本当の宗教なんていうものはない。自分が強くなければ駄目なんだ」と言って、ちょっとでもキリスト教のことに触れると怒っていたようですが、早紀江さんが教会に通うことには反対しませんでした。

そのように長い間、神様を拒んでいた滋さんでしたが、2017年に川崎の教会の牧師が「神様を受け入れますか」と聞くと、「はい」と言って素直に、にこやかに返事をされ、受洗に導かれたのです。「神も仏もあるものか」と思っていた滋さんでしたが、最後は神にすべてをおゆだねしたのです。

滋さんが召される直前、看護師さんから「何でもいいから声をかけてあげてください。大きな声をかけてあげてください。」と言われた早紀江さんは、耳の近くまで顔を寄せて「お父さん、天国に行けるんだからね。気持ちよく眠って下さい。私が行くときは忘れないで待っていてね」と、大きな声でお話しすると、滋さんはうっすらと涙を浮かべた様子で、眠るように亡くなられました。

「めぐみを助け出してからじゃないと逝けない」と言っておられた滋さんにとって、どれほど無念であったかと思いますが、しかし、そのことで早紀江さんが信仰に導かれ、最後には滋さんも信仰に導かれたことは、神様の大きなあわれみではないかと思います。そのことによってイエス・キリストを知り、永遠のいのちを持つことができたのですから。永遠の主イエス・キリストが、私たちの考えをはるかに超えた方法で最高の出会いを与えてくださるでしょう。

葬儀には、60名ほどの方々が列席されたとのことですが、最後に早紀江さんが挨拶されました。その挨拶は、もう伝道メッセージだったそうです。滋さんが天国へ行ったことの喜びと平安、その力強い美しい生き方だけで、証しでした。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ4:47)   「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)    「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

あなたも永遠のいのちを持ってください。それは、唯一のまことの神と神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。それは、あなたを罪から救ってくださったイエス・キリストにあるのです。