出エジプト記36章

出エジプト記36章から学びます。

Ⅰ.あり余る奉仕(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。「ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のあらゆる仕事をする知恵と英知を【主】に授けられた、心に知恵ある者はみな、すべて【主】が命じられたとおりに仕事をしなければならない。」モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および【主】が心に知恵を授けられた、すべて心に知恵ある者、またその仕事をするために進み出ようと、心を動かされた者をみな呼び寄せた。彼らは、 聖所を造る奉仕の仕事のためにイスラエルの子らが持って来たすべての奉納物を、モーセから受け取った。しかしイスラエルの子らは、 なおも朝ごとに、進んで献げるものを彼のところに持って来た。そこで、聖所のすべての仕事をしていた知恵のある者はみな、それぞれ自分がしていた仕事から離れてやって来て、モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。【主】がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」こうして民は持って来るのをやめた。手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。」

モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、及び主が心に知恵を授けられた、すべての心に知恵ある者、また、その仕事をするために進み出ようと、心を動かされた者をみな呼び寄せました。「主が心に知恵を授けられた、すべて心に知恵ある者」とは、そのために聖霊の賜物と知恵が与えられている人のことで、「その仕事をするために進み出ようと、心を動かされた者」とは、その仕事をするために進み出ようと、聖霊によって心を動かされた人たちです。神の御業はこのような人たちによって成し遂げられていくのです。

しかし、ここで問題が生じました。どんな問題でしょうか。それは、彼らは聖所を造る奉仕の仕事のためにイスラエル人が持って来た奉納物をモーセから受け取ったわけですが、イスラエルの民が朝ごとにささげ物を持ってきたので、あり余るほどになってしまったということです。彼らはモーセのところに来て、現状を伝えました。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどです。」

イスラエルの民がいかに感動して、進んでささげていたかがわかります。教会で、献金があり余るほどなのでもう持ってこないでください、という話は聞いたことがありません。どうして彼らはこんなに喜んでささげたのでしょうか。それは、あの金の子牛を拝むという罪を悔改めたことでその罪が赦されたこと、そして、栄光の主が彼らとともにおられるということを実感したからでしょう。すなわち、罪が赦された喜びのゆえです。ダビデは、詩篇32:1で「幸いなことよ。その背きの罪を赦され、罪を覆われた人は。」と歌っていますが、罪が赦されること、それほど大きな喜びはありません。そのような人と、主がいつもともにいてくださるからです。イスラエルの民には、その喜びが溢れていたのです。それで、

主の幕屋の建設のために、喜んでささげたいと思ったのです。

Ⅱ.幕(36:8-19)

次に、8~19節までをご覧ください。「仕事に携わっている者のうち、心に知恵ある者はみな、 幕屋を十枚の幕で造った。幕は、撚り糸で織った亜麻布、 青、 紫、 緋色の撚り糸を用い、意匠を凝らしてケルビムを織り出した。幕の長さはそれぞれ二十八キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビト、幕はみな同じ寸法とした。五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、もう五枚の幕も互いにつなぎ合わせた。つなぎ合わせたものの端にある幕の縁に、青いひもの輪を付け、もう一つのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにした。その一枚の幕に五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の端にも五十個の輪を付け、その輪を互いに向かい合わせにした。金の留め金を五十個作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせ、こうして一つの幕屋にした。また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作った。その幕を十一枚作った。幕の長さはそれぞれ三十キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビト、その十一枚の幕は同じ寸法とした。そのうち五枚の幕を一つに、 もう六枚の幕も一つにつなぎ合わせ、つなぎ合わせたものの端にある幕の縁には五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の縁にも五十個の輪を付けた。青銅の留め金を五十個作り、天幕をつなぎ合わせて一つにした。天幕のために、赤くなめした雄羊の皮で覆いを作り、さらに、その上に掛ける覆いをじゅごんの皮で作った。」

これは26章の繰り返しです。内容がほとんど同じです。一見、無味乾燥に思える繰り返しのようにも見えますが、実はそうではありません。このように、同じことが繰り返して書かれている時は、それなりに重要であるということです。ではどういう点でこの記述が重要なんのでしょうか。それは、26章で語られた内容をここで実行したという点においてです。すなわち、命令と実行の関係になっているということです。それはどういうことかというと、イスラエルの民は神から与えられた命令を忠実に守って実行したということです。

 

8節には、幕屋の幕とその上に掛ける天幕について記されてあります。この幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸でおられたもので、ケルビムの刺繍が施して造られました。幕は全部で10枚でしたが、その幕5枚を互いにつなぎ合わせ、また、ほかの幕5枚も互いにつなぎ合わせました。そのつなぎ合わせた物の端にある幕の縁に、青いひもの輪を付け、ほかのつなぎ合わせた物の端にも同じようにしました。その1枚の幕に50個の輪を付け、ほかのつなぎ合わせた幕の端にも50個の輪を付けて、その輪を互いに向かい合わせにしました。そして金の留め金50個を作り、その留め金で、幕を互いにつなぎ合わせて、一つの天幕にしました。この「留め金」は26章の説明にあったように、キリストの神性と力を象徴していました。つまり、この2枚の幕を結び付けるのは、キリストによるということです。これは神と私たち人間のことであり、ユダヤ人と異邦人のことを象徴していました。これはただ神の愛、神の恵みによって結び合わされるのであって、私たちの力や働きによるのではありません。

 

また、天幕の上に掛ける幕のために、やぎの毛でおった幕を作りました。全部で11枚です。その5枚の幕と6枚の幕も一つにつなぎ合わせなければなりませんでした。つなぎ合わせたものの端にある幕の縁には50個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の縁にも50個の輪を付けました。しかし、それを留める留め金には「青銅の留め金」が用いられました。なぜ「青銅の留め金」だったのでしょうか?内側の幕には金の留め金が用いられましたが、ここでは青銅の留め金です。それは、神のさばきを象徴していたからです。黒の幕が青銅の留め金でつなぎ合わされていたのは、人の罪に対する神のさばきを表していました。イエス・キリストは、まさに私たちの罪のために神のさばきを受けられたのです。

 

やぎの毛の幕の上にさらに覆いが2枚用いられました。どのような幕ですか。赤くなめした雄羊の皮で作った覆いと、その上にはじゅごんの皮で作った覆いです。「赤くなめした雄羊の皮」は、雄羊の身代わりを象徴していました。やぎの毛でできた黒い「天幕」はすべての罪の象徴ですから、それを覆うのは「赤くなめした雄羊の皮」でなければならなかったのです。Ⅰペテロ1:18-19には、「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、キリストの尊い血こそ、私たちの罪を贖うことができるものです。

「私たちは、この御子の内にあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによる事です(エペソ1:7)。

 

また、「じゅごん」というのは紅海に生息していた動物で、アザラシのことではないかと考えられていますが、これは風雨にさらされても大丈夫な皮です。それは、どんなに強大な嵐が襲って来ても大丈夫な屋根であることを示しています。しかし、それはとりわけ人の目を引くような魅力あるものではありません。誰も入りたいとは思えないこの幕屋のみすぼらしい外観は、イザヤが預言した、この地を歩まれたキリストの姿そのものでした。イザヤ53:2には「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。

しかし、見た目にはみすぼらしく、人々を引きつけるには何の魅力もないようなこの幕屋でも、ひとたび中に入ったら、そこには神の栄光の輝きがありました。全く次元の違う輝きを放っていたのです。それは人の目には隠されています。イエスは大工の息子として来られましたが、そこには神の本質と栄光の輝きが隠されていたのです。

 

この幕が象徴していたのは何だったのでしょうか。それは、キリスト以外に救いは無いということです。神の栄光の輝きに至るには、私たちの罪を聖めてもらわなければなりません。それがキリストの十字架の贖いであったということです。キリストは神の栄光の輝き、神の御子であり、私たちの罪を完全に聖めることができたのです。表面だけを見るなら何ともみすぼらしい姿にしか見えなかったかもしれませんが、「このキリストの内にこそ、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3)

 

イスラエルの民は、主がモーセを通した命じられたとおりに造りました。あなたはどうですか。あなたは、この幕に込められた神の救い、キリストの十字架の贖いをその通り受け入れているでしょうか。この方の内側の輝きを知る事のできた人は幸いです。見みすぼらしく見えるようでも、キリストには神の栄光が宿っているのです。

 

Ⅲ.幕屋の建枠と横木(20-38)

次に、20~38節をご覧ください。まず34節までをお読みします。「さらに幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作った。一枚の板は、長さ十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半。板一枚ごとに、はめ込みのほぞを二つ作り、幕屋のすべての板にそのようにした。こうして幕屋のために板を作った。南側に二十枚。その二十枚の板の下に銀の台座を四十個作った。一枚の板の下に、 二つのほぞのために二個の台座、ほかの板の下にも、二つのほぞのために二個の台座を作った。幕屋のもう一つの側、北側に板二十枚。銀の台座四十個。すなわち、一枚の板の下に二個の台座。次の板の下にも二個の台座。幕屋のうしろ、西側に板六枚を作った。幕屋のうしろの両隅に板二枚を作った。これらは底部では別々であるが、上部では、一つの環のところで一つに合わさるようにした。二枚とも、そのように作った。これらが両隅である。板は八枚、その銀の台座は十六個。すなわち、一枚の板の下に二個ずつの台座があった。また、アカシヤ材で横木を作った。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、幕屋のもう一方の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、西側の板のために横木を五本作った。それから、板の中間を端から端まで通る中央横木を作った。板には金をかぶせ、横木を通す環を金で作った。横木にも金をかぶせた。」
これは、幕屋のための板について記されてあります。彼らは幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに建てる板を作りました。その命令の通りです。この板も幕と同じように長細い形をしていますが、それをいくつも作り、そこに棒を通すことによって一つの壁にしたのです。そして、板が倒れないようにそれを支えるための台座も造りました。それは銀です。先ほど話しましたように、天を表わす聖所の部分が地上に触れるときに贖いが必要な銀が使われるのです。そして、板も横木もみな金をかぶせました。主が、モーセを通して民に命じられた通りです。そのとおりに実行したのです。

この板は何を表していたのかというと、私たち一人一人のクリスチャンのことです。教会はキリストのからだ(幕屋)です。その幕屋を構成している材料がこの板なのです。それはアカシヤ材で作られました。それは罪に汚れた人間の姿を表していました。アカシヤ材は曲がった木で、それだけでは全く役に立たない価値のないものですが、そんな者の罪が贖われて、神の教会を建て上げていくための材料として用いられるのです。その板を支えていたのが銀の台座です。銀は贖いの象徴です。キリストが贖ってくださったので私たちはもはやこの世のものではありません。だから台座によって宙に浮いているのです。宙に浮いているようにこの世に遣わされているのです。

 

31~34節には、その板を支えるための横木について記されてあります。板は、5本の横木によって支えられていました。そして板の中間には、端から端まで通る中央の横木を作りました。そしてその横木には金がかぶせられました。アカシヤに金という表現は前から出てきますが、それは人となられた神、イエス・キリストを象徴していました。この横木とは板であるクリスチャンを支えるキリストご自身の象徴だったのです。エペソ4:16には、「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長して、愛のうちに建てられるのです。」とあります。

教会は、キリストによって結び合わされて、愛のうちに建て上げられていきます。それは「板には金をかぶせ、横木を通す環を金で作った。」(34)とあることからもわかります。この環こそ愛のしるしです。教会はキリストによって結び合わされ、愛によって結ばれてこそ建て上げられていくものなのです。

 

最後に、35~38節を見て終わります。「また、青、 紫、 緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作った。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出した。その垂れ幕のために、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱を作った。それらの鉤は金であった。また、柱のために四つの銀の台座を鋳造した。天幕の入り口のために、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、刺?を施して垂れ幕を作った。また、五本の柱とその鉤を作り、柱頭と頭つなぎに金をかぶせた。その五つの台座は青銅であった。」

 

ここには聖所と至生所を仕切る垂れ幕と、天幕の入口の幕について語られています。この垂れ幕は四色のケルビムが織り出されていました。この幕こそイエス・キリストご自身のことです。言うならば、キリストご自身の肉体を象徴していたのです。へブル10:19-20に、「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」とあるように、キリストはご自身の肉体という垂幕を、十字架で裂かれることによって、私たちが天国のまことの聖所に入ることができるようにしてくださったのです。キリストが十字架につけられたとき、上から下に真っ二つに裂けた(マタイ27:50-51)のは、この垂れ幕のことです。今は、キリストにあって神の御座が完全に開かれており、私たちは、キリストにあって大胆に神に近づくことができるのです。  そして37-38節には、聖所の入口である幕について記されてあります。この幕もキリストを象徴していました。キリストこそまことの門です。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。この方を通って入るなら救われます。」(ヨハネ10:9)

 

あなたは、この門から入ったでしょうか。この門から入るなら救われます。イスラエルの民は、主がモーセに命じられた通りに行いました。私たちも、主が命じられたとおりにキリストを信じ、キリストの十字架の贖いを受けることによってのみ救われるのです。

 

伝道者の書5章10~20節「幸せな人」

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きょうは、伝道者の書5章後半から、「幸せな人」というタイトルでお話しします。20節に、「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」とあります。どういう人が、自分の生涯のことをあれこれ思い返さないのでしょうか。どういう人が、神によって心を喜びで満たされる人なのでしょうか。私たちはいつも自分の生涯のことをあれこれ思い返しては、心を煩わせることがあるのではないでしょうか。しかし聖書は、「こういう人は」神によって心を喜びで満たされると言っています。それはどういう人なのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.どんな境遇にあっても満足することを学ぶ人(10-12)

 

第一に、どんな境遇にあっても満足することを学ぶ人です。10~12節までをご覧ください。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。 財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。働く者は少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」

 

「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。」金銭を愛することへの警告です。金銭そのもの、富そのものは決して悪いものではありません。仕事をする時に、その労働の対価として与えられる恵みを感謝し、喜びを味わうことは自然なことです。ところが、その富を愛することが様々な災いをもたらすことになると、聖書は教えています。その一つが金銭に満足しない、収益に満足しないということです。いくら富を蓄えても、それで満足することがありません。いつも、まだ足りない、まだ足りない、もっともっと、と欲しがるのです。欲張り、貪欲です。そのことからわかることは、富によっては決して「満足」を買うことはできないということです。商売の利益、銀行の利子、株の配当、株の売買益など、これら一切がさらに欲望をかきたてるのです。

 

この「金銭」と訳されたことばは、へブル語では「銀」ということばです。ですから、新共同訳ではこれを「銀を愛する者は銀に満足することがない。」と訳しているのです。銀に満足しなかった人はだれですか。そう、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダです。彼は銀貨30枚でイエス様を売り渡しました。彼は銀貨を愛していました。弟子たちの会計係として金入れを預かっていましたが、そこからいつも銀貨を盗んでいたのです。そして、遂には銀貨30枚のために自分の主であったイエスを売り渡してしまいました。それで彼は満足したでしょうか。いいえ、最後に彼はその銀貨を神殿に投げ込むと、出て行って首を吊って死んでしまいました。銀貨を愛する者は銀貨に満足しないのです。

 

Ⅰテモテ6:10には、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」とあります。また、へブル13:5には、「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。」とあります。大切なのは金銭を愛することではなく、今持っているもので満足することです。確かに、「生活に不安がある」状態では満足を得られないかもしれません。かといって、不安から解放されれば満足できるかというとそうでもないのです。なぜなら、真の満足はどれだけ持っているかとか、どのような境遇にあるかによって決まるのではなく、どのような心を持っているかによって決まるからです。

 

古代ペルシャに古くから伝わる伝説です。昔、神様が「幸せの鍵」を、お作りになられました。これを一生懸命捜して見つけた人に「幸せの扉」を開けさせたいと考えたのです。
そこで「幸せの鍵」をどこに隠すかという話になりました。天使たちがいろいろアイデアを出し合いました。
「高い山の上がいいんじゃないか」「地の深い所にしよう」「深い海の底はどうか」しかし、どのアイデアもいま一つでした。誰でも見出せるけれど、なかなか見つけられない所はないのか。
そして、とうとう理想的な場所を見つけ出しました。それは「人間の心の中」に隠すことでした。

 

そうです、幸せの鍵は私たちの心の中に眠っているのです。それを掘り出して、用いる人が豊かな人生を歩むことができます。そのことをパウロはピリピ人への手紙の中でこう言っています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13)

パウロは、どんな境遇にあっても満ち足りることを学んだと言っています。貧しさの中でも、富んでいても、そのような境遇が彼の幸せを奪うことはありませんでした。なぜなら、彼はイエス・キリストを知っていたからです。イエス・キリストによってどんな境遇にあっても満ち足りることを学んでいたのです。金銭を愛する者は金銭に満足しません。富を愛する者は収益に満足しないのです。これもまた空しいことです。しかし、イエス・キリストにあるなら、どんな境遇にあっても満足することかできます。これは幸いなことではないでしょうか。

 

11節をご覧ください。「財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。」
財産が多くなると、それをあてにして群がる者たちが現われるということです。そのために出費が増え、財産の所有者はその恩恵に与ることができません。彼にできるのは、せいぜい預金通帳の数字を目で眺めていることくらいです。これもまた空しいことです。

 

12節には、「働く者は少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」とあります。働く者が少し食べても多く食べても、心地よく眠ることができるのは、心配がないからです。貧乏人は失うものがないので怖いものがありません。株価が上がろうが下がろうが関係ないのです。でも財産がある人はそういうわけにはいきません。満腹しても、心配事が山のようにあるため、安眠することができないのです。彼は床の中で、資産の運用のことや、税金の支払い、財産が盗まれるのではないかと不安になり、よく眠ることができません。皆さん、寝る前にいろいろ考えない方がいいでよ。考えると眠れなくなりますから。というか、皆さんは考える必要もないようですね。でも、そんなに持っていなくても、もっと増やそうと貪欲になると眠れなくなりますよ。

 

以前、関西に住んでおられる方から電話で相談がありました。その方は、自分のおこずかいの中から株を始めたのですが、前年に大失敗をして大きな損失を出してしまい、どうしたら良いものかと夜も眠れないというのです。それで、お金ではなくもっと大切なものを持つといいですよと言うと、後日、こんなメールがきました。

「お金より大事なものって、結局何なのでしょうか・・・?大きなお金を失ってまで気づく大事な事はあるのでしょうか。今朝目をつけていて、でも買わなかった株が、今日一日で10万円以上上がっていて、買っておけばよかったと、まだ思ってしまい、、、昨年の失敗をいい教訓に、これから慎重に銘柄を選んだり、頑張れば少し取り戻すことはできるのではないかと、少し思いますが、時間はとられます。今、損をしたままやめてしまっても、このあとの人生、そういうものが見つかると思っていいのでしょうか?もし、分かりやすい言葉で、それが何か教えていただけるのであれば、教えていただきたいと思いまして、大変厚かましいのですが、メールをさせていただきました。本当に申し訳ありません。」

 

この方は寝ても覚めても株なのです。株のことが気になって仕方がないのです。それで、星野富弘さんの「いのちよりも大切なもの」という詩を送りました。

「命がいちばんだと思っていたころ 生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」

短い詩ですが、とても大切なことが教えられると思うのです。「いのち」とは肉体のいのちのことです。そのいのちがいちばん大切だと思っていたころは、生きるのが苦しかった。でも、そのいのちよりも大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しくなった。いのちよりもたいせつなものとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストにあるいのち、永遠のいのちのことです。それがあると知った日、生きるのが嬉しくなりました。そうしたものに執着しなくてもよくなったからです。神が与えられたいのちに生きればいい、そう思うと生きるのが嬉しくなります。

 

すると、彼女からメールがありました。「よく分かりました。頑張って、教会に通ってみたいと思います。星野さんがイエス・キリストに出会われていたことも知りませんでした。詩集も読んでみます。」

まあ、頑張って行く必要もありませんが、その方にとって教会は初めての所ですから敷居が高かったんでしょうね。頑張って行ってみます。

すると、しばらくしてメールがありました。「おかげさまで、近くの教会に昨日で3回目行かせていただきました。星野富弘さんの本も、図書館で数冊読み、感動しました。その中で奥様との出会いや家族の方々の優しさにも感動しました。
今朝、突発的に全部の持ち株を処分してしまったのは、昨日も残っている資金で株を買い、少し下がると怖くなって売り、1万6000円の損を出し、懲りずに今朝も買った株が下がりだし・・
その株を売ると同時に、持ち株全部、衝動的に処分したわけなのですが、その時、昨日も今日も、失敗を重ね、「これでもまだやめないのか」「これでもまだ分からないのか」って、ふと神様に言われているような気がして、本当に衝動的に全部売ってしまいました。全く、まだ売るつもりもやめるつもりもなかったのに、です。
1月からも、買っては小さな損をする、を繰り返していて、「これでもまだ懲りないのか」って、あまりの失敗続きに、失敗を重ねるたびそう言われているような気がなんとなくしていました。考えすぎでしょうか?神様がこれほどの大きな損失を出さないと分からない私を正してくださったのでしょうか?
とにかく、そう思って、これからは、だんだん生活と私自身の心を改善させていくよう、努力したいと思います。」

 

その後、どうなったかはわかりませんが、近くの教会に通い、そこでいのちよりもたいせつなもの、イエス・キリストのいのち、永遠のいのちを得ることができたらと願っていますが。金銭を愛する者は金銭に満足しません。富を愛する者は収益に満足しないのです。そのような人は満腹してよく眠ることができません。むしろ、すべてを豊かに与えてくださる神に感謝し、イエス・キリストと共にあることこそ、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣であることを覚え、そこに目を留めたいと思うのです。

 

Ⅱ.なくならない食物のために働く人(13-17)

 

ここで教えられる幸せの第二の鍵は、なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食物のために働く人です。13~17節をご覧ください。まず13節と14節をお読みします。「私は日の下に、痛ましいわざわいがあるのを見た。所有者に守られていた富が、その所有者自身に害を加えることだ。その富は不運な出来事で失われ、息子が生まれても、その者の手もとには何もない。」

 

「痛ましいわざわい」とは、単なる悪しきことというレベルではなく、恐ろしい悪、決定的な打撃のことです。金持ちがいかに心を労し、富を守ろうとしても、その富が所有者自身に害を加えることがあります。たとえば、突然不幸な出来事が襲って、その富が一挙に失われ、子どもに残してやる財産すら無くなってしまうとかです。私たちは時々そのようなことを耳にします。株価や市場の暴落によって、持っていた財産の価値がなくなってしまったというニュースを。そのようにニュースに触れるたびに、できれば多くの財産を持っていたいと思う反面、経済って本当に怖いなあと思い知らされます。明日どうなるかなんてだれにもわからないのですから。伝道者自身、金持ちが突然の不幸に襲われ、一夜にして貧困のどん底に投げ込まれるのを目撃したのでしょう。このような経験から、伝道者は、次のような結論に導かれるのです。15,16節です。「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。自分の労苦によって得る、自分の自由にすることのできるものを、何一つ持って行くことはない。これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」

 

人はこの世に裸で生まれてきました。同じように、この世を去る時何一つ携えて行くことはできません。それがこの世の定めなのです。にもかかわらず、人はこの地上生涯においてその富を蓄積するために労苦するわけです。これも痛ましいわざわいです。それはまさに風のために労苦するようなものです。何の益もないのです。

 

そればかりではありません。17節には、「しかも、人は一生、闇の中で食事をする。多くの苛立ち、病気、そして激しい怒り。」とあります。どういうことでしょうか。これは夜中、ごはんを食べる話ではありません。その一生は、多くの苛立ち、病気、そして激しい怒りが伴うということです。それが闇の中で食事をするということです。

ここで伝道者が警告しているのは、神を信じないで、自分のために労苦する一生の空しさです。13節には「日の下に」ということばがありますが、それは、神様抜きの、神様無しの、神を除外したという意味です。神を除外して自分のために富を得ようとあくせく働くことがもたらす悲劇とはこのようなものであるというのです。

 

しかし、日の上には、喜びと楽しみがあります。その人の一生は、闇の中で食事をするのではなく、光の中で食事をするようになります。主イエスは言われました。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

主イエスの招きに応じて心の戸を開き、主イエスを心の中に迎えるなら、主がその人の中に入ってその人とともに食事をし、その人もまた彼とともに食事をします。苦痛も、病気も、怒りも、嘆きもありません。闇の中で食事をするのではなく、光の中で食事をするようになるのです。神の聖霊があなたに臨み、あなたのすべての罪が赦され、あなたは神の子とせられ、神との親しい交わりを持ちことができます。あなたの一生は、良いもので満たされるのです。

 

ですから、大切なのは何のために働くのかということです。あなたは、何のために働いていますか。なくなる食べ物のためにあくせくと働いてはいないでしょうか。イエス様は言われました。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」(ヨハネ6:27)

富のために労苦するなら、その富がわざわいをもたらすことになります。それは風のために労苦するようなものです。何の益にもなりません。そのような人の一生は、苛立ちであり、病気であり、激しい怒りです。闇の中で食事をするようなものです。けれども、日の上には喜びがあります。神が共におられるからです。富のためではなく、神のために、なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きましょう。それこそ、人の子が与えてくださる食べ物なのです。

 

Ⅲ.主の恵みを数える人(18-20)

 

ですから、結論は何かというと、幸せな人とは神が与えてくださる恵みを数え、それを喜び楽しむ人であるということです。18~20節をご覧ください。「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」

 

「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととはとは、こうだ」とは、伝道者がこれまで語って来たことを受けての結論です。それは、神によって与えられた日々の生活を楽しむということです。そうすれば、何が起こっても、人生の喜びを奪い去られることはありません。人生は短いのだから、神によって与えられているものを思う存分楽しむのが、最善の策であるというのです。このような思想は、2:24や3:13にもありましたが、伝道者はここでそのことを繰り返して語っているのです。繰り返して語っているというのは、それだけ重要なことであるということです。なぜこのことが重要なのでしょうか。それは、神がどのような方であるかを示しているからです。そうです、神は私たちに必要なものを与え、これを楽しむことを許してくださる方なのです。18-20節には、「神」の名が4回も出てきていますが、いずれの場合も、「神」は「与える方」として表現されています。

 

19節には、「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」とあります。何が神の賜物なのでしょうか。これこそ神の賜物です。神は食べたり飲んだりするだけでなく、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされました。これこそが神の賜物なのです。

 

伝道者はここで、神というものを強く意識し、また、これを読む者に神から与えられた人生がどれほどすばらしいものであるかに目を向けさせているのです。であれば、私たちはこのことを理解し、自分が神よって受ける分を喜ぶことが求められています。そういう人は、自分に与えられた労苦(仕事)を、自分にゆだねられたものとして楽しむことができるようになりますが、そうでないと、自分の置かれた境遇を嘆き、文句タラタラ言いながら生きることになってしまいます。本当に不思議ですね。同じ境遇でも一方はそれを感謝して、前向きに受け止めることができる人がいれば、一方ではいつも周りの人と自分を比較して、自分に無いものに目を留めて失望したり、不平不満に陥っている人がいます。いったいその違いはどこにあるのでしょうか。それは神によって与えられた賜物を、自分の分としてしっかり受け止めることができるかどうかです。

 

新聖歌172番に「望みも消え行くまでに」という賛美があります。

1. 望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ 主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

2. 主の賜いし十字架を 担いきれず沈むとき 数えてみよ 主の恵み つぶやきなど如何であらん 数えよ 主の恵み
数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

3. 世の楽しみ 富 知識 汝が心を誘うとき 数えてみよ 主の恵み 天つ国の幸に酔わん 数えよ 主の恵み 数えよ
主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

この賛美は、E.O.エクセルという人によって作られました。エクセルという人は、この歌の題を「Count your blessings」と名付けています。「Count your blessings」。文字通り、「あなたに賜った恵みを数えなさい」という意味です。望みも消えそうになるほどの この世の嵐に悩むとき 数えてみてください 主の恵みを。あなたの心は安らぎ得るでしょう。主から賜った十字架を担いきれず 心沈むようなとき 数えてみてください 主の恵みを。あなたの心からつぶやきなど消え去るでしょう。この世の楽しみ 富 知識が あなたの心を誘惑するとき 数えてみてください 主の恵みを。さながら天国のような心地に 心躍るでしょう。数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み。

 

魂に平安がなく、私たちの内に不平不満が絶えない原因は、問題が大きいからではありません。エジプトを脱出した後のイスラエルの民に呟きが絶えなかったのは、あの救いの御業を忘れてしまったからです。詩篇103:2には、「わがたましいよ 主をほめたたえよ 主がよくしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。主が良くしてくださったことを何一つ忘れないこと、そうです、主が良くしてくださったことを一つ一つ数えて感謝すること、それが幸福の秘訣なのです。

 

毎年11月第四木曜日は、アメリカではサンクスギビングを迎えます。1620年9月16日、信教の自由を求め102名の人を乗せて英国のプリマスを出航した船は、66日間の航海の後11月21日にアメリカ東部マサチューセッツ州プリマスに到着しました。慣れない土地で、森の木を切り、丸太で家を建て生活を始めますが、多くの人は都会育ちで農業に慣れておらず、新天地での生活は困難を極めました。冬の半年間に約半数の人たちが飢えと寒さで死にました。春に親しくなったインディアンから、トウモロコシやえんどう豆、小麦、大麦などの種まきを教えてもらい、2度目の秋には沢山の収穫が与えられたことから、秋の収穫物を前にインディアンの友を招き、神の恵みに感謝して収穫感謝礼拝を行ったのです。あれから400年、アメリカ人はそのことを忘れないようにと、毎年盛大にこれをお祝いするのです。というわけで、私はアメリカ人ではありませんが、家内がどうしてもというので、今週はターキーを焼いて盛大にお祝いすることになっています。

 

それはアメリカだけてのことではなく、私たちの人生においても言えることです。食べたり、飲んだりすることは日常茶飯事です。普段、食事がことさら楽しいと感じることはないでしょう。しかしその日常の小さな幸いこそが「神の賜物」であり、「幸福」なのです。私たちの人生は神に与えられた短い人生の日々です。残りわずかな人生の日々に、汗をかいて労し、食事ができることは、なんと幸いなことでしょう。それを神の賜物として受け入れ、喜んで生きることが大切なのです。

 

20節をご覧ください。「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」

こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返しません。自分が不幸だとか、神は不公平だとか、人生は悲劇で満ちているとか、思わなくなるのです。つまり、自分の人生をくよくよ思わなくなるということです。なぜ?神が彼の心を喜びで満たされるからです。その人の心には、神が下さる喜びが満ちているからです。

結局のところ、私たちの幸いは自分にどれだけの富や財産があるかとか、どんな仕事をしているか、どのようにうまくいっているかということではなく、神によって心が喜びで満たされているかどうかで決まるのです。自分に与えられたすべてのものが神の賜物であると受け止め、これを喜び、楽しみましょう。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返すことはしません。まことに幸いな人だと言えるのです。

Ⅰサムエル記31章

これまでサムエル記第一から学んできましたが、きょうはその最後となりました。きょうは31章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.サウルの死(1-7)

 

まず、1-7節をご覧ください。「ペリシテ人はイスラエルと戦った。そのとき、イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺し殺されて倒れた。ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼をねらい撃ちにしたので、彼は射手たちのためにひどい傷を負った。サウルは、道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ。あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶり者にするといけないから。」しかし、道具持ちは、非常に恐れて、とてもその気になれなかった。そこで、サウルは剣を取り、その上にうつぶせに倒れた。道具持ちも、サウルの死んだのを見届けると、自分の剣の上にうつぶせに倒れて、サウルのそばで死んだ。こうしてその日、サウルと彼の三人の息子、道具持ち、それにサウルの部下たちはみな、共に死んだ。谷の向こう側とヨルダン川の向こう側にいたイスラエルの人々は、イスラエルの兵士たちが逃げ、サウルとその息子たちが死んだのを見て、町々を捨てて逃げ去った。それでペリシテ人がやって来て、そこに住んだ。」

 

29:1には、イスラエル軍はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いたとありますが、ペリシテ人との戦いで後退しました。ギルボア山は、イズレエル平野の南東に位置しています。そこでイスラエルの人々の大勢の者が刺されて殺されました。

ペリシテ人たちは、特にサウルとその息子たちを狙い撃ちにしました。そして、サウルの息子4人のうち、ヨナタン、アビナダブ、マルチ・シュアの3人を撃ち殺しました。もう一人の息子イシュボシェテ(エシュバアル)は、戦争に参加していなかったので無事でした。

 

攻撃はサウルに集中し、ペリシテ軍の射手たちが彼を狙い撃ちにしたので、彼はひどい傷を負ってしまいました。このままでは敵になぶりものにされてしまいます。なぶりものにするとは、もてあそび苦しめながら殺すことです。そこで彼はどうしたかというと、部下の道具持ちに、彼の剣で自分を刺し殺すように言いました。しかし、自分の主君を刺し殺すことなどできません。それで道具持ちはそのことを非常に恐れ、手を下しませんでした。するとサウルは彼の剣を取り、その上に身を伏せました。自殺したのです。道具持ちは、サウルが死んだのを見ると、自分も剣の上に身を伏せて、サウルのあとを追って自害しました。こうしてその日、サウルと彼の3人の息子、道具持ち、それにサウルの部下たちはみな、ともに死んだのです。

 

イズレエルの谷の向こう側、すなわち、北側にいたイスラエルの人々と、ヨルダン川の向こう側にいたイスラエル人々は、イスラエルの兵士たちが逃げ、サウルとその息子たちが死んだのを見ると、町々を捨てて逃げ去りました。それで、ペリシテ人がやって来て、そこに住むようになりました。イスラエルの人々が築いた町々が、敵の手に渡ってしまったのです。

 

これで、サウルの生涯は幕を閉じます。彼の最初はすばらしいものでした。彼はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さな部族の出にすぎませんでしたが、主は彼に油を注いでイスラエルを治める王としました。それなのに彼は主の命じられたことに背き、サムエルを待たずして全焼のささげ物を自分の手で献げたり(13:9)、アマレクとの戦いにおいては聖絶するようにという主の命令に背き、肥えた羊と牛の最も良いものや、子羊とすべての最も良いものを惜しんで聖絶しませんでした。そればかりか、小さな不従順を積み重ね、最後は、主に反抗することが習慣になっていました。彼はそうした罪を犯し続け、最後まで悔い改めませんでした。彼は、自分で蒔いた種の刈り取りをしたのです。それはサウルだけのことではありません。私たちも主に背き、小さな不従順を重ねながら最後まで悔い改めないなら、同じような結果を招いてしまうことになります。

 

黙示録3章には、主がラオデキアの教会に宛てて書かれた手紙があります。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示録3:15-18)

 

このラオデキアの教会の問題は何だったのでしょうか。それは、彼らの信仰が熱くもなく、冷たくもなかったということです。彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知りませんでした。知らなかったというより気付いていなかったのです。ドキッとしますね。まさに私たちは、自分はそんなに富んでいるわけではなくても普通の生活ができているとまあまあのクリスチャンだと思い込んでいる節がありますが、実はそうではありません。ただ自分の姿が見えていないだけなのです。自分がどれほどみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であるかを知らないだけなのです。もし知っていたら、主の前に胸をたたいて悔い改めたあの取税人のようになるでしょう。

ですから、主はこう言われたのです。「豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」

 

神様は、私たちがサウルのような最期を迎えることを願っていません。今は恵みの時、今は救いの日です。そういうことがないように、恵みの時、救いの日である今、熱心になって悔い改め、主に立ち返ろうではありませんか。あのラオデキアの教会に対して、主はこのように言われました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:19)

主イエスの招きにあなたも応答し、あなたも心に主イエスを招き入れましょう。そして、彼とともに食事を、彼も私とともに食事をするという、主イエスとの親しい交わりの中を歩ませていただきましょう。

 

Ⅱ.ヤベシュ・ギルアデの人たちの手による丁寧な埋葬(8-13)

 

次に、8~13節をご覧ください。「翌日、ペリシテ人がその殺した者たちからはぎ取ろうとしてやって来たとき、サウルとその三人の息子がギルボア山で倒れているのを見つけた。彼らはサウルの首を切り、その武具をはぎ取った。そして、ペリシテ人の地にあまねく人を送って、彼らの偶像の宮と民とに告げ知らせた。彼らはサウルの武具をアシュタロテの宮に奉納し、彼の死体をベテ・シャンの城壁にさらした。ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、これをヤベシュに運んで、そこで焼いた。それから、その骨を取って、ヤベシュにある柳の木の下に葬り、七日間、断食した。」

 

翌日、ペリシテ人たちが、イスラエルの刺し殺された者たちからはぎ取ろうとして戦場にやって来たとき、そこにサウルと3人の息子たちがギルボア山で倒れているのを見つけました。それで彼らはまず、サウル首を切り、彼の武具をはぎ取ります。そして、ペリシテ人の地の隅々にまで人を送り、彼らの偶像の宮と民とに告げ知らせました。というのは、ペリシテ人の勝利は、彼らの神々の勝利でもあったからです。サウルの首は、ダゴンの神殿にさらさることになります(Ⅰ歴代誌10:10)。また、彼の武具は、アシュタロテの神殿に奉納し、首から下の彼の遺体は、ベテ・シャンの城壁にさらされました。ベテ・シャンは、イズレエルから南東に約15㎞にある町です。

 

そのことを聞いたヤベシュ・ギルアデの人たちは、夜通し歩いてベテ・シャンまで行き、サウルの死体と息子たちの死体を城壁から取り下ろしてヤベシュに帰って来ると、そこで死体を焼きました。そして、ヤベシュにあるタマリスクの木の下に葬り、七日間、断食したのです。ヤベシュ・ギアデは、ヨルダン川の東約10㎞入ったところにあります。ベテ・シャンはヨルダン川の西側約10㎞のところにありますから、彼らは約20㎞の道のりを夜通し歩いて行ったことになります。いったいなぜ彼らはそんなことをしたのでしょうか。

 

11章を振り返ってみましょう。「その後、アモン人ナハシュが上って来て、ヤベシュ・ギルアデに対して陣を敷いた。ヤベシュの人々はみな、ナハシュに言った。「私たちと契約を結んでください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」そこでアモン人ナハシュは彼らに言った。「次の条件で契約を結ぼう。おまえたちみなの者の右の目をえぐり取ることだ。それをもって全イスラエルにそしりを負わせよう。」ヤベシュの長老たちは彼に言った。「七日の猶予を与えてください。イスラエルの国中に使者を送りたいのです。もし、私たちを救う者がいなければ、あなたに降伏します。」使者たちはサウルのギブアに来て、このことをそこの民の耳に入れた。民はみな、声をあげて泣いた。そこへ、サウルが牛を追って畑から帰って来た。サウルは言った。「民が泣いているが、どうしたのですか。」そこで、みなが、ヤベシュの人々のことを彼に話した。サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。それで彼の怒りは激しく燃え上がった。彼は一くびきの牛を取り、これを切り分け、それを使者に託してイスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルとに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」と言わせた。民は【主】を恐れて、いっせいに出て来た。サウルがベゼクで彼らを数えたとき、イスラエルの人々は三十万人、ユダの人々は三万人であった。彼らは、やって来た使者たちに言った。「ヤベシュ・ギルアデの人にこう言わなければならない。あすの真昼ごろ、あなたがたに救いがある。」使者たちは帰って来て、ヤベシュの人々に告げたので、彼らは喜んだ。ヤベシュの人々は言った。「私たちは、あす、あなたがたに降伏します。あなたがたのよいと思うように私たちにしてください。」翌日、サウルは民を三組に分け、夜明けの見張りの時、陣営に突入し、昼までアモン人を打った。残された者もいたが、散って行って、ふたりの者が共に残ることはなかった。そのとき、民はサムエルに言った。「サウルがわれわれを治めるのか、などと言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」 しかしサウルは言った。「きょうは人を殺してはならない。きょう、【主】がイスラエルを救ってくださったのだから。」」(11:1-13)

 

これは、かつてヤベシュ・ギルアデに対してアンモン人が戦いを挑んで来た時のことです。ヤベシュ・ギルアデの人々は自分たちに勝つ見込みがなかったので和平条約を申し入れますが、アンモン人ハナシュは、無理難題を突き付けてきました。何と右の目をえぐり取ることを条件に契約を結ぼうというのです。右目をえぐり取られるとは、戦うことができなくなることを意味していました。それは非常に屈辱的な要求でした。それで、ヤベシュの長老たちは7日間の猶予をもらい、イスラエル全土にこの状況を伝えて救いを求めたのですが、その時に立ち上がったがサウルだったのです。彼は牛を追っていた畑から帰って来てそのことを聞くと、神の霊によって立ち上がり、イスラエルの全部族を招集してアンモン人と戦い勝利しました。この戦いがきっかけとなって、彼は王としての道を確立していくことになりました。ヤベシュ・ギルアデの人たちは、その時のことを忘れていませんでした。そして、サウルと息子たちの遺骨をその地に葬り、7日間断食して、敬意と哀悼の意を表したのです。

 

そして、後にユダの家の王となったダビデは、そのことを知って彼らに賛辞と称賛、祝福のことばを贈っています。「ダビデは、自分とともにいた人々を、その家族といっしょに連れて上った。こうして彼らはヘブロンの町々に住んだ。そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油をそそいでユダの家の王とした。ヤベシュ・ギルアデの人々がサウルを葬った、ということがダビデに知らされたとき、ダビデはヤベシュ・ギルアデの人々に使いを送り、彼らに言った。「あなたがたの主君サウルに、このような真実を尽くして、彼を葬ったあなたがたに、【主】の祝福があるように。今、【主】があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。この私も、あなたがたがこのようなことをしたので、善をもって報いよう。さあ、強くあれ。勇気のある者となれ。あなたがたの主君サウルは死んだが、ユダの家は私に油をそそいで、彼らの王としたのだ。」(Ⅱサムエル2:4-7)

 

サウルはサウルで、ヤベシュ・ギルアデの人々を敵から救ったことで、彼らの敬意と哀悼の意を受け、彼らも彼らで、そのようにサウルを葬ったことで、ダビデからの賛辞と称賛と祝福を受けたのです。私たちはこの後どうなるかはわかりませんが、わかっていることは、主の前に忠実であった者は同じように祝福されるということです。それゆえ、私たちはどんなことがあっても、神に喜ばれることは何か、すなわち、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。目の前に置かれた一つ一つの出来事を、主のみこころを求めて忠実に行っていく者でありたいと思うのです。良いことであれ、悪いことであれ、人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになるのです。

出エジプト記35章

出エジプト記35章を開いてください。金の子牛の事件によって神との契約を取り消されたイスラエルでしたが、モーセのとりなしによって神の赦しを得て、再び神との契約を結ぶことができました。モーセは40日40夜、シナイ山で主とともにいました。彼が山から降りて来ると、彼の顔が輝きを放っていました。それでモーセはイスラエルの民と話し終えると、顔に覆いを掛けました。その輝きを失わないためです。そして主と語るために主のもとに行く時は、その覆いを外していました。それは、律法の限界を示していました。確かに、律法にはそれなりの輝きがありますが、それによって救われることはありません。けれども、人が主に向くならその覆いは取り除かれます。そして鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行くのです。それが御霊の輝きです。その輝きは律法のように一時的なものではなく永続した輝きです。

そして35章に入ります。ここには、モーセがシナイ山で受けた幕屋と祭司の事柄について記されてあります。幕屋は神の臨在が現われる場所です。モーセは、その幕屋を建設するにあたり、主が行えと命じられたとおりに行っていきます。これは25~31章で語られた内容の繰り返しです。このように繰り返して記されてあるということは、それだけ重要であるということです。ここから私たちは、どのようにして主の働きをしていったら良いかを学びたいと思います。

Ⅰ.安息日の規定(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「モーセはイスラエルの全会衆を集めて、彼らに言った。「これは、【主】が行えと命じられたことである。六日間は仕事をする。しかし、七日目は、 あなたがたにとって【主】の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。 安息日には、あなたがたの住まいのどこであっても、火をたいてはならない。」」

これから幕屋の材料を集めること、幕屋を造る作業を開始させるのですが、その初めに安息日についての規定について語られました。それは、彼らが本当に大切なもの、第一にすべきものを見失わないようにするためです。本当に大切なものとは何でしょうか。主を礼拝することです。言い換えると、主ご自身を求めることです。以前にもお話ししましたが、主のための働きは主を礼拝するという行為があってこその働きです。主を礼拝することこそ本質的なことであって、それに伴う作業はその次のことなのです。

クリスチャン生活と教会、諸活動の中心は、主を礼拝することです。信仰生活の他の点でどんなに成長していても礼拝の生活が確立されていなかったら、あるいはまた、教会のどの活動に力を入れても、礼拝がその中心に据えられていなかったら、すべては空回りしてしまいます。礼拝こそ信仰の中心であり、礼拝によって強められ、励まされ、燃やされ、一週間の生活に遣わされていきたいと思います。

Ⅱ.進んでささげるささげ物(4-19)

次に、4~9節をご覧ください。まず、9節までをお読みします。「モーセはイスラエルの全会衆に告げた。「これは【主】が命じられたことである。あなたがたの中から【主】への奉納物を受け取りなさい。すべて、進んで献げる心のある人に、【主】への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。」

モーセはイスラエルの全会衆に、主への奉納物を持ってくるように命じました、これらは25:4~7にもあった15種類の材料です。ここでは、そのささげものを献げるにあたっての心構えが記されてあります。それは、「すべて、進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい」ということです。義理とか、義務感からではなく、心から、喜んでささげる者から受け取るようにということです。Ⅱコリント9:6~7でパウロは、このように言っています。「私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」

これが献金についての原則です。献金について聖書の中で貫かれている原則は、自分自身のもの、特に自分にとって尊いものを主に献げるということと同時に、それらが自分の意思で、主体的に、喜んで献げるということです。他の人が献げているからとか、牧師にそのように言われたからとかではなく、自分の心で決めたとおりに、喜んで献げるということです。神は喜んで献げる人を愛してくださいます。実際、スラエルの民は、心から進んで献げました(35:21,22,29)。その結果、あり余るほどのささげものが献げられたのです(36:5-7)。

次に、10~19節をご覧ください。「あなたがたのうち、心に知恵ある者はみな来て、【主】が命じられたものをすべて造らなければならない。幕屋と、その天幕、覆い、留め金、板、横木、柱、台座、 箱と、その棒、 『宥めの蓋』、仕切りの垂れ幕、机と、その棒とそのすべての備品、臨在のパン、ともしびのための燭台と、その器具、ともしび皿、ともしび用の油、香の祭壇と、その棒、注ぎの油、香り高い香、そして幕屋の入り口に付ける入り口の垂れ幕、全焼のささげ物の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒とそのすべての用具、洗盤とその台、庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門の垂れ幕、幕屋の杭、庭の杭、そのひも、聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。」」

ここには、ささげられた材料を使って幕屋やその中にあるもの、あるいは祭司の装束を造るようにと言われています。誰にそのことが命じられているかというと、「心に知恵のある者」です。心に知恵のある者はみな来て、主が命じられたものをすべて造らなければなりませんでした。心に知恵のある者とはどういう人でしょうか。それは人間的な言い方をすれば職人さんたちのことでしょう。ただの職人さんではありません。これは神の知恵、神の霊に満たされた、御霊の賜物が与えられていた人たちです。このようなものを巧みに造ることができる特別な能力を神から与えられている人がいます。そのような人たちに命じられているのです。30~31節には、「モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。」とあります。また、「ダン部族のアヒサマクの子オホリアブ」にもそのようにされました。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、神から与えられた仕事を成し遂げるためです。

同じように神様は、私たち一人一人を召し、主から与えられた仕事を成し遂げるために、御霊の賜物を与えてくださいました。Iコリント12章には、「奉仕にはいろいろな種類があり、働きにはいろいろな種類がありますが、主は同じ主です。みなの益になるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」(12:4-7)とあります。神から与えられている賜物は、それぞれみな違います。ちょうど人間のからだは一つでも、そこに多くの器官があるように、キリストのからだにもいろいろな種類の賜物が与えられた人たちがいるのです。それぞれに与えられた賜物を通して、主のからだである教会が建て上げられていくのです。それはどういうことかというと、第一に、私たちはそれぞれを必要としているということです(12:21)。それぞれ互いに補い合ってこそ、教会はしっかりと建て上げられていくのです。第二のことは、比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものであるということです。私たちはからだの中で比較的に尊いとみなす器官をことさらに尊ぶ傾向がありますが、神は違います。劣ったところをさらに尊んで調和させてくださいます。そうやってキリストのからだが立て上げられていくのです。

Ⅲ.心を動かされた者、霊に促しを受けた者(20-35)

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。20~29節をご覧ください。「イスラエルの全会衆はモーセの前から立ち去った。心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、【主】への奉納物を持って来た。進んで献げる心のある者はみな、男も女も、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を【主】に献げる者はみな、そのようにした。また、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。銀や青銅の奉納物を献げる者はみな、それを【主】への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のあらゆる仕事のためにそれを持って来た。また、心に知恵ある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。部族の長たちは、エポデと胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石を持って来た。また、ともしび、注ぎの油のため、また香りの高い香のために、香料と油を持って来た。イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。」  モーセの前から立ち去った民はどのように応答したでしょうか。「心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持ってきた。」(21)

ここで繰り返して記されていることは、「心を動かされた者」、「霊に促しを受けた者」です。つまり、彼らは自分のものをささげるときに、いやいやながらではなく、また強制されてでもなく、自分でささげたいと思って、それを心から喜んでしたということです。そこには聖霊による感動がありました。それは、金の子牛の事件の罪が赦されたという感動でもありました。さらに、主の栄光が再び宿るという恵みへの感動でした。

29節をご覧ください。ここには、「イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。」とあります。ここには、「イスラエルの子らは男も女もみな」とあります。金の子牛を作るためにアロンが指定したのは金だけでした。金を持っていない人たちはそれに参加することができませんでした。しかし、幕屋の建設は違います。幕屋の建設のためには15種類のものが必要とされました。つまり、誰でも参加することができたのです。事実、民は主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、あり余るほどのささげものを献げました。神の事業には、全員が参加するのです。

それは、神の教会も同じです。教会は牧師だけの働きによって成し遂げられるものではありません。信者全員が参加することによって建て上げられていくものです。まさに全員野球です。そのことを覚え、喜んで主の働きに参与させていただきましょう。

最後に、30~35節をご覧ください。「モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、意匠を凝らす仕事をするためである。また、彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺?する者、また機織りをする者の仕事を成し遂げるためである。」

祭具や祭司の彫刻において細工が必要ですが、そのために主はベツァルエルを名指しで召されました。そして、彼が幕屋のあらゆる仕事を成し遂げるために、彼に知恵と英知と知識を与えました。神の霊で彼を満たされたのです。神は、ご自身の働きのために召してくださった人にこのように神の霊を与えてくださるのです。教会において、神の働きにおいて必要なのは能力がある人ではなく、神の霊に満たされた人です。神の霊、知恵と英知と知識なのです。

もうひとりはオホリアブという人物です。彼はベツァルエルの補助者となりました。彼はダン部族の出身でした。最大のユダ部族からベツァルエルが召され、最小のダン部族からオホリアブが召されました。ここから、神はイスラエル12部族のすべてを用いようとしておられたことがわかります。主は彼らをすぐれた知恵で満たされました。それは彼らがあらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、神の幕屋を制作するという仕事を成し遂げるためです。これは主が名指しで召したとあるように、神の主権によって成されたことでした。

この原則は、新約の時代の教会にも言えることです。エペソ4:11~13節には、「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」とあります。

主は、キリストのからだを建て上げるために、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある日外たちを牧師また教師としてお立てになりました。名指しで召されたのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きを指せ、キリストのからだを建て上げるためです。ですから、他の兄姉に与えられた賜物をねたんだり、うらやましがったりする必要はありません。互いの賜物を認め合い、キリストが建て上げられていくことを求めて、自分に与えられた賜物を喜んで主に用いていただきましょう。

伝道者の書5章1~9節「神は天に、あなたは地に」

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伝道者の書5章に入ります。伝道者は、日の下で益になるものはないかといろいろと探究しましたが、日の下には人の益になるものは何もありませんでした。「空の空。すべては空。」です。結局のところ、人は神から離れて、だれも食べたり、楽しんだりすることはできません。

しかし、伝道者の探究はこれで終わりません。であれば、宗教はどうなのか。熱心に宗教をすれば心が満たされるのではないかと思うのです。しかし、残念ながらそうではありません。大切なのは、宗教に熱心であることではなく、宗教が目指している神との関係がどうであるかということです。すなわち、神と正しい関係を持つことです。この伝道者のことばで言えば、7節にありますが、「ただ、神を恐れよ」ということです。きょうは、このことについてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神の宮へ行くときは(1-3)

まず、1節から3節までをご覧ください。「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」

「神の宮へ行くときは、自分の足に来につけよ。」とは、教会に行くときには、車の運転に気を付けよ、という意味ではありません。まあ、車の運転には十分気をつけてほしいと思いますが、そういうことではないのです。神の前に立つ時には、その態度に気をつけるようにということです。つまり、神を礼拝する時の姿勢について語られているのです。どういうふうに気をつけなければならないのでしょうか。

その後のところには、「近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。」とあります。どういうことでしょうか。信仰において大切なのは、近寄って聞くことだということです。どんなにいけにえを献げたとしても、主が自分に何を語っておられるのかを知り、それに聞き従うのでなければ何の意味もありません。イスラエルの最初の王サウルの問題はここにありました。彼は預言者サムエルを通して、「行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。」(Ⅰサムエル15:3)と命じられましたが、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しませんでした。後でサムエルが彼のもとに来て羊や牛の鳴き声を聞いたとき、「この声は何ですか」と尋ねると、彼は、「あなたの神、主にいけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを取っておきました。しかし、残りのものは聖絶しました。」(Ⅰサムエル15:15)と答えました。それは主にいけにえを献げるために取っておいたと言ったのです。もったいないから。でも神様の命令は何でしたか。すべてのものを聖絶せよ、ということでした。すべてのものですから、最も良いものもそうでないものもすべてです。しかし、彼はその命令を守りませんでした。自分に都合が良いように受け止めたのです。

それに対してサムエルは何と言ったでしょうか。彼はこう言いました。「主はあなたに命じて言われました。「行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。」なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」(Ⅰサムエル15:18-19)

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)  主の御声に聞き従うことは、いけにえにまさります。自分がどんなに献げものをしたからといっても、主の御声に従うことがなければ何の意味もありません。

人は本能的に宗教的なものを求めています。宗教といえば、一般にキリスト教もその一つと言えるでしょう。いわゆる宗教としてのキリスト教はあります。けれども、教会に通いながらもなおキリストにある神との生きた関係を持つのでなければ、どんなにそれに付随したことに熱心であっても、それは空振りに終わってしまいます。そのような宗教は、ソロモンが他の分野に求めたもの、たとえば、知恵、知識、富、名誉、財産といったものと同じように空しい結果をもたらすことになります。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからです。それもまた風を追うようなものです。信仰生活において大切なのは、近くに行って聞くこと、主の御声に聞き従うことです。あなたはどうでしょうか。主の御声を聞いておられるでしょうか。聞いて従っているでしょうか。

2節をご覧ください。ここには、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」とあります。

神の前ではどうあるべきか、ということです。ここには、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな」とあります。どういうことでしょうか。神の前では、それが誓いであれ、祈りであれ、軽率なことばは控えるべきであるということです。私たちが神に対して熱心であればあるほどことば数も多くなります。賛美であれ、祈りであれ、感謝であれ、多くの言葉を口にするのです。そのこと自体は悪いことではありませんが、注意しないと、それがただ口先だけの表面的なものになってしまうことがあります。私たちにとって必要なのは、神の前で心焦ってことばを出すことではなく、神の声を聞くことなのです。

そのことについてイエス様は、山上の説教の中でこのように教えられました。少し長いですが、引用したいと思います。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(マタイ6:1-8)

偽善者たちの問題は何だったのでしょうか。それは人に見せようとしたことです。自分を人に見せようと思うとことば数が多くなります。自分の前でラッパを吹いてしまうわけです。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っていますが、実際のところはそうではありません。大切なのはことば数の問題ではなく、それが真実な祈りであるかどうかということです。伝道者はその理由を次のように言っています。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」どういうことでしょうか。これはきょうのメッセージのタイトルです。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」つまり、神は天におられ、私たちに必要なものが何であるかを知っておられるからです。私たちは地にいますが、神は天におられます。そして、私たちに必要なもののすべてを知っておられるのです。であれば、私たちはこの神にすべてをゆだねて、人前ではなく、隠れたところにおられる主に、心から祈りをささげるべきではないでしょうか。

3節をご覧ください。「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」これは2節で語られたことを強調するために引用した格言です。仕事が多いと悪夢にうなされます。それと同じようにことば数が多い人は、愚かなことばを口にするようになるということです。それは祈りにおいても、日常会話においても同じです。言わなくてもいいようなことをついつい言ってしまいます。新約聖書のヤコブ書にもありますが、舌は小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。それを制御することは簡単なことではありません。馬を御するためには、その口にくつわをはめればできますが、この舌を制御することはなかなかできません。だからこう祈りなさいと、イエス様は教えてくださいました。それが主の祈りです。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:9-13)

私たちも神の宮へ行くときは、このことに心を留めたいと思います。神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すのではなく、逆に、神の近くに行って神の御声を聞き、心からの祈りをささげたいと思います。

Ⅱ.神に誓願を立てるときには(4-6)

次に4~6節をご覧ください。私たちは神の前でどうあるべきなのか、次に、伝道者が取り上げるのは「誓願」についてです。「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。あなたの口が、あなた自身を罪に陥らせないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。」

ここには、神に誓願を立てるときにはどうしたら良いかについて教えられています。「誓願」とは、広辞苑を見ると、神や仏に誓いを立て、物事が成就するように願うこと、とあります。その誓願を立てるときは、それを果たすのを遅らせてはなりません。人は安易に、「主よ。もし・・のことをしてくださるなら、私は・・のことをします」と誓いますが、いざとなると、それを果たすことを忘れてしまったり、先延ばしにしてしまうことがあります。しかし、誓っても果たさないなら、誓わないほうがましです。なぜなら、そのように誓うことによって、あなたの口が罪を犯すことになるからです。申命記23:21-23にはこうあります。「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。なぜなら、あなたの神、主は必ずあなたからそれを要求し、こうしてあなたが罪責を負うことになるからである。 誓願をやめる場合、あなたに罪責は生じない。あなたの唇から出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。」

聖書にはこの誓願に関していくつかの例が見られます。たとえば、ハンナの誓願ですね。彼女は夫エルカナに愛されながらも、胎は閉じられていて、子どもがありませんでした。しかし第二夫人であったペニンナには多くの息子と娘たちがいて、夫に愛されているハンナを憎み彼女をいらだたせるようなことをしていました。それでハンナの心は痛み、主の宮で主に祈って激しく泣きました。そのとき、彼女は主に誓願を立てました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(1サムエル1:11)
すると、このハンナの祈りは聞かれ、男の子が与えられました。そして生まれた男の子の名前をサムエルと名づけました。第一子は母親にとって最も大切な存在です。その子が乳離れした頃、彼女は主に誓ったとおりに主にささげたのです。具体的には、祭司エリのもとに預けました。このようにして、誓願を立てて与えられたサムエルは、やがてイスラエルの歴史の舵取りをしていく者となったのです。

また、エフタの誓願もあります。士師記に出てきます。イスラエルの士師、さばきつかさであったエフタはアンモン人と戦っていましたが、その戦いがいよいよ激しくなったとき、彼は主に誓願を立てて言いました。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」(士師11:30-31)
すると、主はアンモン人をエフタの手に渡されたので、彼はアンモン人に勝利することができました。しかし、彼が戦いに勝って自分の家に帰ると、なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らして、踊りながら迎えに出て来たのです。エフタは唖然としました。もしアンモン人に勝利することができたら、自分が無事に家に帰ったとき、その戸口から最初に自分を迎えに出て来た者を、主への全焼のいけにえとしてささげると誓っていたからです。いったい彼はどうしたでしょうか。聖書にはこうあります。「父は誓った誓願どおりに彼女に行った。」(士師11:19)彼は誓ったとおりに彼女に行ったのです。このことについては、文字通り全焼のいけにえとしてささげたということなのか、終生幕屋で仕えるために主に捧げられたということなのか意見が分かれるところですが、はっきり言えることは、彼は自分が誓ったとおりに行ったということです。

それにしても、人はなぜこのように誓願をするのでしょうか。ハンナにしても、エフタにしても、それだけ強い願いがあったからでしょう。ハンナは何としても子どもがほしいという思いがあったでしょうし、エフタにしても、アンモン人との戦いが激しさを増したとき、何としても勝利したいという気持ちが強かったのだと思います。それが、このような誓いという形になって出てきたのでしょう。でもまさか自分の娘が戸口から出てくるなんて思ってもいませんでした。いや、もしかしたらそのような可能性も考えられたかもしれませんが、それよりも勝ちたいという思いが、性急な誓いという形となって出て来たのではないでしょうか。

しかし、こうした性急な誓いは後悔をもたらします。また、神へ誓いは、神に何かをしていただくためではなく、すでに受けている恵みに対する応答としてなされるべきです。ですから、エフタの誓願は、信仰の表れというよりは、むしろ彼が抱いていた不安の表れにすぎなかったのです。

このように軽々しく誓うことが私たちにもよくあります。それが自分の力ではどうすることもできないと思うような困難に直面したとき、「神様助けてください。もし神様がこの状況を打開してくださるのなら、私は・・・をささげます」というようなことを言ってしまうのです。イエス様は「誓ってはいけません。」と言われました。誓ったのなら、それを最後まで果たさなければなりません。果たすことができないのに誓うということは、神との契約を破ることであり、神の呪いを招くことになります。ですから、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言うべきです。それ以上のことを口にするのはよくないことです。サタンの罠にかかる恐れがあるからです。エフタは自分の直面している困難な状況を、誓願を通して乗り越えようとしましたが、軽々しく誓うべきではなかったのです。

私たちはきょう「プリンセス」の献児式を行いました。献児式とは何でしょうか。献児式とは、神から賜った我が子を神様にお返しする式です。それは神のものですから神にお返しするのです。その中で、神から授かった子として神のみこころにかなった子どもとなるように大切に育てていく責任が両親に与えられているのです。ただのセレモニーではありません。「プリンセス」は神に献げられた神のものですから、両親はこの子を神から託された大切な子として神の愛をもって育てていかなければなりません。そして、やがてこの子が神を信じて神のもとに帰ることができるように、私たちも常に祈るものでありたいと願います。

Ⅲ.ただ神を恐れよ(7-9)

神の前でどうあるべきなのか、第三のことは、だから、ただ神を恐れよ、ということです。7-9節をご覧ください。「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。ただ、神を恐れよ。ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからだ。国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。」

「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。」とは、3節のことばを受けてのことでしょう。「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」非現実的にことばを多く発するよりも、神を恐れることを学べということです。
預言者ヨエルは、やがて聖霊が降るとき、息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る、と言いました。しかし、それが神に栄光を帰すためではなく、神なしに見る夢は空しいだけで、悪夢にすぎません。

私が小さい頃、「いつでも夢を」という歌が流行っていました。橋幸夫さんと吉永小百合さんがデュエットです。「星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも 歌ってる 声が聞こえる 淋しい胸に 涙に濡れた この胸に 言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を 星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも 歌ってる  歩いて歩いて 悲しい夜更けも あの娘の声は 流れ来る すすり泣いてる この顔上げて きいてる歌の 懐かしさ 言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を 歩いて歩いて 悲しい夜更けも あの娘の声は 流れ来る」
これは、昭和37年、日本レコード大賞グランプリに輝いた曲ですが、グランプリに輝いた、と云う割りに、あまり内容のない歌詞です。場面のイメージが湧いてきません。タイトルだけが独り歩きしているような感じです。とある人は言っています。神なしに見る夢には空しさがあるのです。

また、ことばが多いところにも空しさがあります。先ほども言いましたが、口を制御しない無節制なことばの習慣は、自分の過ちをあらわにします。多くの夢とことばに縛られて忙しく生きるより神を恐れて生きること、それが最も重要なことなのです。

それは、8-9節を見てもわかります。ある地域で貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚く必要はないと伝道者は言っています。なぜなら、その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからです。これは、堕落した官僚制度のことです。それぞれの段階で、各人が何らかの利益を得ています。上役には下の者を監視する役割が与えられているのに、現実にはそのようになっていません。しかし、虐げる者たちの上には、彼らよりもさらに高い神がおられ、すべてを見ておられます。

9節には「国にとって何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。」とありますが、何のことを言っているのかよくわかりません。この聖句は、伝道者の書の中でも最も難解な箇所の一つだと言われています。へブル語の原文の確定が難しいからです。その中で最も意味が通じる訳は、英語訳(NIV)ではないかと思います。英語訳(NIV)では、「王もまた農地の収穫から利益を得ている」となっています。この場合、下級官僚から王に至るまで、腐敗の官僚体制が出来ているという意味になります。その点に関しては、ソロモンの王国も例外ではありませんでした。彼の王国も重税によって民は苦しめられていました。それはソロモンの時代だけではありません。現代でも言えることです。それはいつの時代でも横行している悪なのです。子どもの7人に1人が貧困に喘ぐ今の日本にあって、いったいどこに希望があるのでしょうか。

ソロモンは、その現実を見てこう言うのです。「ただ、神を恐れよ」と。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」私たちにとっての希望は、天におられる神が、地にいる私たちの歩みをご覧になっておられるということです。「主は天から目を注ぎ人の子らをすべてご覧になる。御座が据えられた所から地に住むすべての者に目を留められる。」(詩篇33:13-14)だから、ただ神を恐れ、神に従うこと、これがすべてです。これが唯一の希望であり、救いであり、神の御前における正しい人間の姿、神との正しい在り方なのです。

箴言14章27節には「主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。」とありますが、私たち一人ひとりを生かし、治めておられる主を知ること。人のいのちとたましいに対する権威を唯一持っておられる方を恐れて生きること。それを抜きにして人は真の平安を得ることはできません。神は天におられ、あなたは地にいるからです。この神を恐れ、神に聞き従いましょう。これが人間にとってすべてであり、神の前にある正しい姿なのです。

Ⅰサムエル記30章

いよいよサムエル記第一の学びもあと2章です。今日は、30章から学びたいと思います。

Ⅰ.苦境に立たされたダビデ(1-6)

まず、1-6節をご覧ください。「ダビデとその部下が三日目にツィクラグに帰ったとき、アマレク人はすでに、ネゲブとツィクラグを襲っていた。彼らはツィクラグを攻撃して、これを火で焼き払い、そこにいた女たちを、子どもも大人もみな捕らえ、一人も殺さず、自分たちのところへと連れ去っていた。ダビデとその部下が町に着いたとき、なんと、町は火で焼かれていて、彼らの妻も息子も娘も連れ去られていた。ダビデも、彼と一緒にいた兵たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。ダビデの二人の妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。ダビデは大変な苦境に立たされた。兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからだった。しかし、ダビデは自分の神、【主】によって奮い立った。」

ガテの王アキシュの説得によってイスラエルとの戦いを免れたダビデとその部下が三日目にツィケラグに戻ってくると、そこはとんでもない状態になっていました。アマレク人がツィケラグを襲い、これを火で焼いて、そこにいた女たちと子どもたちをみな捕らえ、自分たちのところへ連れ去っていたのです。
ダビデとその部下たちがそれを見たとき、声を上げて泣き、ついには、泣く力もないほどになりました。彼らは自分たちの家族が殺されたと思ったのでしょう。ダビデの二人の妻、イズレエル人アヒノアムとナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていました。

ダビデは大変な苦境に立たされました。それは、自分たちの群れがアマレク人によって連れ去られたこともありますが、それ以上に、そのことで兵がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺すのではないかと思ったからです。しかし、そのときダビデはどうしたでしょうか。彼は自分の神、主によって奮い立ちました。

ダビデが約束の地を離れてペリシテ人の地に行ったのは、サウルに殺されるのを恐れたからです。ペリシテ人の地に逃れればさすがにサウルも追っては来ないだろうと思ったのです。しかし、彼はその刈り取りをしなければなりませんでした。ペリシテ人の側についてイスラエルと戦うことは、神のあわれみによって逃れることができましたが、あの不信仰の精算をしなければならなかったのです。そして、彼は自分の神、主の名によって奮い立ちました。窮地に立たされたダビデは、悔い改めて主に立ち返ったのです。主に対する信仰を再び回復したのです。ペリシテ人の王アキシュのもとに逃れて1年4カ月、彼はようやく主に立ち帰ることができたのです。そういう意味では、このアマレク人の襲来は、ダビデが主に立ち返るために主が備えておられたことであったと言えます。主はなかなか主に立ち返らない者を引き戻すために、時としてこのようなことを用いられるのです。ですから、私たちももしそこのような事の中に置かれているなら、それは、私たちが主に立ち返る時として神が備えていることかもしれないと信じて、主に立ち返りたいと思います。

次に、7~10節をご覧ください。「ダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。ダビデは【主】に伺った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」すると、お答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」ダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残ることになった者は、そこにとどまった。ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡れなかった二百人の者が、そこにとどまった。」

そこでダビデは、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに命じてエポデを持って来させました。エポデは祭司の服の上に身につけるエプロンのような胸当てですが、その中にウリムとトンミムが入っていたので、自分が何をすべきか、まず主のみこころを求めようとしたのです。本来であれば、ペリシテ人の地に下るという決定をする前に主に伺いを立てなければならなかったのですが、それをしなかったために、今回のような事態を招きました。しかし、この時ダビデの心は主に対して開かれていたので、自分の判断ではなく主のみこころを求めたのです。

主の答えは、「追え」というものでした。必ず追い付くことができる、必ず救い出すことができると。この時ダビデは、自分たちの家族がまだ死んでいないという確信を持つことができたと思います。主が「追え」と言われるのですから、まだ望みがありました。その一縷の望みにかけてダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来ました。しかし、そのうち二百人の者が疲れきってベソル川を渡ることができませんでした。そこでダビデはその者たちをそこに残し、四百人の者を引き連れて追撃を続けることにしたのです。

Ⅱ.アマレクからすべての物を取り戻したダビデ (11-20)

次に、11-20節をご覧ください。15節までをお読みします。「兵たちは野で一人のエジプト人を見つけ、ダビデのところに連れて来た。彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も飲ませた。さらに、ひとかたまりの干しいちじくと、二房の干しぶどうをやると、そのエジプト人はそれを食べて元気を回復した。彼は三日三晩、パンも食べず、水も飲んでいなかったのである。ダビデは彼に言った。「おまえはだれのものか。どこから来たのか。」すると答えた。「私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。私たちは、クレタ人のネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、ツィクラグを火で焼き払いました。」ダビデは彼に言った。「その略奪隊のところに案内できるか。」彼は言った。「私を殺さず、主人の手に私を渡さないと、神にかけて私に誓ってください。そうすれば、あの略奪隊のところに案内いたします。」」

兵たちは野で一人のエジプト人を見つけると、彼を捕らえダビデのところに連れて来ました。このエジプト人はアマレク人の奴隷でしたが、三日前に病気なったためそこに置き去りにされていたのです。アマレク人たちは多くの捕虜を手にいれていたので、使いものにならない奴隷は足手まといになると思い見捨てたのでしょう。しかし、ダビデは彼に十分な食料と飲み物を与え、そのいのちを助けてやると、彼からアマレク人の居場所を聞き出し、彼らの所まで案内してもらうことができました。

これは、主の導きでした。ダビデたちがこのエジプト人を助けてあげたことで、アマレク人の情報を入手することができたのですから。このように、神が下さる機会は予期せぬ方法で与えられることがあります。この場合は、瀕死の奴隷を助けてやることによってもたらされましたが、同じように、私たちがいつも主にあって正しい心と愛をもって行動するなら、主はその道を開いて導いてくださるのです。あなたの前に今、そのような機会が開かれていないでしょうか。それを逃さないように、いつも正しい心と愛をもって行動しましょう。

次に、16-20節をご覧ください。「彼はダビデを案内して行った。すると、なんと、アマレク人たちはその地いっぱいに散って食べたり飲んだりし、お祭り騒ぎをしていた。彼らがペリシテ人の地やユダの地から奪った分捕り物が、とても多かったからである。ダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを討った。らくだに乗って逃げた四百人の若者たちのほかは、一人も逃れることができなかった。ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。ダビデはまた、すべての羊と牛を奪った。兵たちは家畜の先に立って導き、「これはダビデの戦勝品だ」と言った。」

そのエジプト人の案内で進んで行くと、なんとアマレク人たちはその地いっぱいに散って食べたり、飲んだりして、お祭り騒ぎをしていました。それは、彼らがペリシテ人の地やユダの地から奪った分捕り物が、とても多かったからです。

そこでダビデは、油断しきっていたアマレク人を一気に攻め、彼らを討ちました。その戦いは非常に激しいもので、その日の夕暮れから翌日の夕方まで丸一日続きました。アマレク人で逃れることができたのは、らくだに乗って逃げた四百人の若者だけで、そのほかはひとりも逃れることができませんでした。そして、自分の二人の妻をはじめ、子どもも大人も、息子たちも娘たちも、また分捕られた物も、アマレクによって奪われた物をすべて取り返すことができました。彼らから奪われたもので、失われたものは何一つありませんでした。それどころか、ダビデはまた、すべての羊と牛を奪い取ったとあるように、これらのものを戦利品として奪うことができました。部下たちは家畜の先頭に立って導き、「これはダビデの戦利品だ」と叫びました。

ダビデは不信仰のためにその身に困難を招きましたが、しかし信仰に立ち帰ったとき、彼は身にあまるほどの祝福を受けることができました。それは今も同じです。主は今も、真実に主に立ち返る者を受け入れてくださり、ありあまる祝福で満ち溢れさせてくださいます。イザヤ55:7に、「悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」とあるとおりです。

Ⅲ.恵みの原則(21-31)

次に、21-31節をご覧ください。25節までをお読みします。「ダビデは、疲れてダビデについて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところに来た。彼らは、ダビデと彼に従った者たちを迎えに出て来た。ダビデは、この人たちに近づいて彼らの安否を尋ねた。ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」その日以来、ダビデはこれをイスラエルの掟とし、定めとした。今日もそうである。」

さて、ダビデ一向は、疲れてダビデについて来ることができずベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者たちのところに来ました。ダビデが彼らに安否を尋ねると、ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に、「彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれの自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」と言いました。意地の悪い、よこしまな者たちとは、欄外に直訳「ベリヤアルの者」とありますが、これは元々「益がない者」という意味です。これは、心の向きが横を向いているということです。つまり、心の向きが正しくないのです。その前に「意地が悪い」とありますが、ほとんど同じ意味だと考えられます。意地悪とはどういうことかというと、正しくないことを企てることです。よこしまも同じで、心の向きがひねくれていて、正しくないことを企てます。ある人はこれを、犯罪歴を持った者たちで、処罰をまぬがれるためにダビデのもとに集まって来た人々、いわゆる「ならず者」と考えていますが、そこまで考えなくてもよいでしょう。心が「ならず者」、「ひねくれた者」、「正しい方向を向いていない者」という意味にとらえるのがよいと思います。そういう者たちが、彼らには妻と子どもを連れて行ってもいいが、自分たちが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかないと言ったのです。これでは、その二百人は生活することができません。

それに対してダビデは何と言いましたか。23-24節にあるように彼は、「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」と言いました。つまり、戦いに参加した者もそうでない者も、公平に分配すべきであるということです。なぜなら、それは主が与えてくださった物だからです。主が恵みによって与えてくださった物を、そのようにしてはいけなすのです。その日以来、この恵みの原則はイスラエルの掟となり、定めとなりました。

そして、この原則は新約時代にもあてはまります。たとえば、マタイ20:1-16に、日雇い労働者が朝早くから働いている人も、夕方5時頃から雇われた人にも、主人は同じ1デナリを与えた、という話です。朝から雇われた人は、最後の連中が1時間しか働かなかったのに、労賃を私たちと同じくした、と文句を言いましたか、それに対して主人は、「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」(マタイ20:13-14)と言いました。  私たちが主にあって働くことには、もちろん報いがあります。けれども、その前に、私たちは主の働きの中に参加させていただいている者たちであり、自分たちが主のわざを行なっていること自体、神の恵みなのです。ですから、神にとって、多く働いた人も少なく働いた人も、ただ恵みを施したい、愛する対象にしか過ぎず、みな同様に、永遠のいのちを与えられます。ダビデは、神の恵みを理解していました。彼自身が、神の恵みによって生きていたからです。

それはまたこういうことも言えるでしょう。戦いに参加する者とは、実際に宣教地に出ていく宣教師や牧師たちです。そして、とどまる者とは、その背後で祈りと献金によってその伝道活動を支えるクリスチャンたちです。この恵みの法則からすると、この両者が天国で主から受ける報いは、全く同じであるということです。私たちは意地悪い、よこしまな者たちのようにならないで、ダビデのように「恵みの原則」に生きる者でありたいです。そして、それぞれに与えられた場で、主から与えられた使命を全うしていこうではありませんか。

最後に、26-31節をご覧ください。「ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。「これはあなたがたへの贈り物で、【主】の敵からの戦勝品の一部です。」その送り先は、ベテルの人々、ラモテ・ネゲブの人々、ヤティルの人々、アロエルの人々、シフモテの人々、エシュテモアの人々、ラカルの人々、エラフメエル人の町々の人々、ケニ人の町々の人々、ホルマの人々、ボル・アシャンの人々、アタクの人々、ヘブロンの人々、すなわち、ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった。」

ダビデはツィケラグに帰って来ると、友人であるユダの長老たちに、戦利品の一部を送って言いました。「これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの戦勝品の一部です。」それは、ベテルの人々やラモテ・ネゲブの人々をはじめ、ダビデとその部下がさまよい歩いていた時にお世話になったすべての人々です。つまり、戦いに行った者たちだけでなく、また、途中でとどまっていた人たちだけでもなく、戦いに行かなかったユダの町々の人たちにも分捕り物を分け与えたということです。彼は大量の分捕り物を独占することなく、こうした人たちに分け与えました。これらの町々の中には、アマレク人の略奪によって被害を受けていたところもあったでしょう。そのような人たちにとって、それはどれほどありがたい贈り物であったことかと思います。

これがキリストの弟子の特質の一つでもあります。私たちは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。それは、私たちが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。そのようにして受けた恵みを、どうして独り占めすることができるでしょうか。「受けるよりも、与える方が幸いである」と言われた主の御言葉に従って、私たちも喜んで自分を与える者とならなければなりません。もしそうでなければ、それはこの恵みの意味を本当の意味で理解していないということになります。主イエスは恵み深いお方です。その恵みを受けた私たちは、感謝の心を忘れず、主の恵みを独り占めするのでなく、ダビデのように、すべての人とそれを分け合いたいと思うのです。特に、主にある兄弟姉妹に、そして、自分たちのところにやって来る人々すべてと分かち合い、心からのおもてなしをさせていただけたらと思うのです。