エレミヤ11章1~10節「この契約のことばを聞け」

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エレミヤ書11章に入ります。ここから、エレミヤの第三のメッセージが始まります。第一のメッセージは2~6章にありましたが、そこでは、神から離れたイスラエルに対して、神に立ち返れと語られました。第二のメッセージは7~10章にありますが、そこには、神のことばに従わないイスラエルに対する神のさばきが語られました。そしてこの11章から第三のメッセージが語られます。その中心が、この「契約のことばを聞け」ということです。

結論から申し上げますと、この契約のことばに完全に聞き従うことは無理です。これに従おうとすることは大切なことですが、完全に行うことができる人など一人もいないのです。ではどうすればいいのでしょうか。それがきょうのポイントです。この契約のことばが指し示していたものをしっかり見て、そこに歩むことです。それがイエス・キリストです。イエス様の十字架の贖いを受け、神の聖霊をいただいて、新しい契約に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。きょうはこのことについてみことばを聞きたいと思います。

Ⅰ.この契約のことばを聞け(1-5)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語れ。3 『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。5 それは、わたしがあなたがたの父祖たちに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことを、今日のとおり成就するためであった。』」私は答えた。「アーメン。主よ。」

再びエレミヤに主の言葉がありました。これがいつのことなのか学者によって見解が分かれます。恐らく、南ユダ王国のヨシヤ王が死んだ後のことではないかと思います。ヨシヤ王の時代、大祭司でヒルキヤという人が神殿で律法の書を発見すると(B.C621)、それがきっかけとなって宗教改革につながっていきました。しかし、それは長くは続かずB.C.609年にヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死んでしまうと、ユダの民は元の状態に逆戻りしてしまいました。その時に語られたのがこれです。「この契約のことばを聞け。これをエルサレムの住民に語れ。」(2)

この「この契約のことば」とは、かつて神がモーセを通してイスラエルの民と結ばれたあの契約のことば、シナイ契約のことです。それはイスラエルの民がエジプトを出てシナイ山までやって来た時、彼らと結ばれた契約です。ですから、4節に「これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。」とあるのです。その契約を結んだ舞台がシナイ山だったので、この契約を「シナイ契約」と言うのです。シナイ契約といっても、契約をしないということではありません。ちゃんと契約をしましたが、シナイ契約と言います。この契約については出エジプト記19:4~5のところに、前提として次のように言われています。

「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

もし彼らが主の声に聞き従い、この契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって神の宝の民となると約束されていました。つまり、この契約のことばを守るなら祝福されるということです。これがイスラエルの原点でした。ですから、ここで神がエレミヤを通して語っておられることは、この原点に立ち返りなさいということです。そうすれば、祝福されると。それは彼らの父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことが成就するためでした。その約束通り主は、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださいました。しかし、その地に住むことと、その地に住んで祝福を味わうこととは別のことです。もしイスラエルの民がその契約を守るなら祝福を味わうことができますが、そうでなければ、のろわれることになります。それが3節で言われていることです。「『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。」

これが、モーセを通して神がイスラエルに約束してくださったことばです。この契約のことばを聞く者は祝福されますが、そうでなければのろわれることになります。

しかし残念ながら今、ヨシヤ王が死に人々が再び偶像礼拝に走って行ったことで、主は「もうここまで」と言われたのです。契約のことばを聞かなかった彼らに、のろいがもたらされると宣告をしているのです。奇しくも、申命記28:63のことばが実現しようとしていました。そこにはこうあります。「あなたがたは、あなたが入って行って所有しようとしている地から引き抜かれる。」(申命記28:63)
 それが今、実現しようとしていました。神の民であるユダヤ人が約束の地から引き抜かれて、彼らの知らない異邦人のところ、つまり、バビロンに捕え移されようとしていたのです。

それに対してエレミヤは何と答えていますか。5節後半のところで彼は、「アーメン。主よ。」と答えています。「アーメン」とは、「その通りです」という意味です。そうなりますように、まことにそうです、ということです。つまり、契約にはペナルティーが伴うということです。もし神のことばに聞き従うなら神の祝福を受けますが、そうでなければのろいを招くことになります。その主のことばに対してエレミヤは、「アーメン、主よ。」と答えたのです。

私の妻は、1979年にカリフォルニア州のガーディナという町にあるカルバリーバプテストという教会から日本に遣わされました。その教会の牧師はアール・キースターという人でしたが、世界宣教、特にアジアの宣教に非常に重荷を持っていました。それは教会を退職してからも同じで、退職後はカールソンという教育担当の牧師をしていた御夫妻とオーカーストという町に移り住み、そこでりんごを栽培しながら後身の指導に当たっておられました。ですから、私たちが行くといつも大歓迎してくれて、私たちの日本での働きについて関心をもって聞いてくれました。

そのオーカーストという町のすぐ近くにアメリカでも有名な「ヨセミテ国立公園」があります。そこは岩肌がとても美しい大自然です。これはそのヨセミテで、1999年10月22日に起こった悲劇です。

この日、プロのパラシューダー(パラシュートを使って地上に曲芸的に降りる人)であるジャン・デイビス夫人が、事故で亡くなりました。ベース・ジャンプという大変危険なスポーツがありますが、彼女は、そのスポーツを行っていたのです。

その日、5人のジャンパーが、960mの絶壁から下に飛び降りる予定でした。彼女は、その4番目でした。しかし、パラシュートが開かないまま20秒間落下し、そのまま岩盤に叩きつけられたのです。彼女の夫は、その様子をビデオに納めていました。他に、数名の記者も同行していました。彼らは、その惨劇に、自分の目を疑いました。

そこは、この危険なスポーツであるベース・ジャンプは禁止されていました。というのも、それまでに6人もの人がそのスポーツでいのちを落としていたからです。

その日集まった5人のジャンパーたちは、ヨセミテ国立公園でのベース・ジャンプが禁止されているのを知っていましたが、皮肉なことに、彼らはベース・ジャンプが危険なものではないことを証明するために、あえて飛んだのです。彼らは、このスポーツの危険性だけでなく、違法性までも知っていました。ジャン・デイビスは、いのちの代価を払ってその償いをしたのです。

それはイスラエルの民も同じです。彼らもこの契約のことばを聞かなければどうなるかということをちゃんと知っていました。にもかかわらず、彼らはそれに聞き従いませんでした。その結果、神ののろいを受けることになってしまったのです。それは、私たちにも言えることです。この契約のことばを聞くなら祝福されますが、そうでなければのろわれてしまうことになるのです。

あるテレビの番組で、最近の若者の文化について特集していました。そこでは、最近の若者は「約束の時間を守らない、借りた物を返さない」ことが特徴だと言っていました。つまり、「いいかげん」な文化であるというのです。このままでは日本の将来が思いやられると嘆いていました。約束を守るということは、住みやすい社会を作るための基本的なルールです。神様と私たちの関係も同じで、約束(契約)というルールで成り立っています。神はイスラエルの民と契約を結ばれました。それは彼らが幸せに生きるためであって、その契約を守るなら祝福されますが、そうでなければのろわれることになるのです。

Ⅱ.わたしの声を聞け(6-8)

それに対して、イスラエルの民はどのように応答したでしょうか。6~8節をご覧ください。「6 すると、主は私に言われた。「これらのことばのすべてを、ユダの町々と、エルサレムの通りで叫べ。『この契約のことばを聞いて、これを行え。7 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。8 しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。』」

「この契約のことばを聞け」ということが、何度も繰り返されています。「聞け」というのはただ聞くというだけでなく、聞き従うこと、聞いてそれを行うということです。聞いたらメモをしておこうではありません。聞いたら自分の感じたことをシェアしなさいということでもありません。聞いたら、それを実行しなさいということです。

7節をご覧ください。ここには、「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。」とあります。新改訳聖書第三版では「しきりに戒めてきた」と訳しています。主は今日まで「わたしの声を聞け」と、しきりに、しばしば戒めてきました。2~3回ということではありません。しきりに、しばしば、です。何回も、何回も、忍耐をもって戒めてきたのです。なぜなら、やがて聞けなくなる時がやって来るからです。それがいつなのかはわかりません。しかし、その日は間違いなくやって来ます。このエレミヤの時代も、バビロン軍がやって来て彼らを滅ぼそうとしていました。そうなったらもう聞けなくなってしまいます。私たちの時代でいえば、イエス様の再臨の時はそうでしょう。イエス様が再臨してからでは遅いのです。聞きたくても聞けなくなります。ですから、その前に聞かなければなりません。神様がこうやって戒めてくださるのは、本当に幸いなことなのです。ですから、「わたしの声を聞け」という主のことばをスルーしないでください。「いつかそのうちに」とか、「今のところはまだ」などと言わないでください。「今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)とあるように、主の御声を聞いていただきたいと思います。

いったいなぜ主は「わたしの声を聞け」と言われるのでしょうか。それはあなたを責めるためではありません。また、あなたを叱るためでもないのです。それは、あなたに信仰を与えたいからです。というのは、信仰は聞くことから始まるからです。ローマ10:17にこうあります。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

皆さん、信仰は聞くことから始まります。神はあなたに、イエス・キリストに対する信仰を与えたいのです。神が語られるとき、それは時として耳に痛いことばかもしれません。とても聞くに耐えられないと思うかもしれない。このエレミヤのことばもそうでした。当時のユダヤ人にとっては非常に厳しい言葉だったので、故郷アナトテの人たちは彼を殺そうとしたほどです。もう聞きたくないと思いました。でも、信仰は聞くことから始まります。どんな言葉であろうと、どんな内容であろうと、聖書のことばを聞くことを止めないでいただきたい。聞くことを止めてしまったら、あなたは信仰に立ち続けることができなくなってしまいます。でも聞き続けるなら、あなたはしっかりと立つことができます。ですから、主のことばを聞くことを止めないでください。ヤコブ1:21には、「心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。心に植え付けられた御言葉を素直に受け入れなければなりません。その御言葉が、あなたのたましいを救うことができるからです。あなたの考えがあなたを救うのではありません。神の御言葉があなたを救うのです。神の御言葉は完全だからです。詩篇19:7~10にこうあります。「7 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ 主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。8 主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで人の目を明るくする。9主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。10 それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」

8節をご覧ください。「しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。」

しかし、イスラエルの民は聞かず、耳を傾けませんでした。そして、頑なな悪い心のままに歩みました。それゆえ、主はこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませました。臨ませたとは、実現させたということです。つまり、神のことばを聞かない者はのろわれるということばを実現させたということです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。約束の地から引き抜かれることになります。それは主が行うようにと命じられたのに、彼らが行わなかったからです。

Ⅲ.契約のことばを破ったイスラエル(9-10)

では、どうしたらいいのでしょうか。9~10節をご覧ください。「9 主は私に言われた。「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。10 彼らはわたしのことばを聞くことを拒んだ自分たちのかつての先祖の咎に戻り、彼ら自身もほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った。」

6~8節で言われたことが、ここでも繰り返されています。こうやって見ると、イスラエルの民はいつも罪を犯していることがわかります。でもこれはイスラエルの民だけのことだけでありません。私たちも同じなのです。私たちもいつも罪を犯しています。私たちはあからさまにバアルとかアシェラといった偶像を拝むことはしないかもしれませんが、テレビやネットなどの情報を信じてまことの神から心が離れてしまうことがあります。つまり、どの時代の人でも本質的にはみな罪人なのです。聖書に「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:11)と書いてある通りです。だれ一人として神の律法を守り行うことができる人などいないのです。であれば、この契約ことば、律法にいったいどんな意味があるというのでしょうか。

この問題について取り上げているのが、ガラテヤ人への手紙3章です。この中でパウロは次のように言っています。「10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:10-13)

律法の行いによるならば、人はみなのろわれた者です。なぜなら、義人はいない、一人もいないのですから。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないのです。しかし、信仰によるのであれば別です。信仰によるなら義と認めていただくことができます。「義人は信仰によって生きる」とあるからです。そのために、キリストはご自分がのろわれた者となって、十字架にかかって死んでくださいました。それは、罪のために神ののろいを受けて死ななければならない私たちの代わりとなって、私たちを律法ののろいから贖い出すためでした。木にかけられる者はのろわれた者なのです。律法を行うことができなくてのろわれた者となった姿こそ、この木にかけられた者の姿なのです。これが私たちの本来の姿です。しかし、律法をすべて行うことができる方、全く罪のない完全な神の御子イエス・キリストが代わりにのろいを受けてくださることによって、この方を信じる者を義と認めてくださったのです。

これが、永遠の神の救いのご計画でした。これが「新しい契約」と呼ばれているものです。新しい契約があるということは古い契約もあるということですが、その古い契約こそ、このシナ契約です。つまり、このシナイ契約が指し示していたもの、シナイ契約の先にあったのもの、それがこの新しい契約だったのです。それは新約聖書で明らかにされたのではなく、このエレミヤの時代にすでに啓示されていました。たとえば、エレミヤ31:31~33にこうあります。「31 見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った─主のことば─。33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

新しい時代に、主がイスラエルと結ばれる新しい契約は、エジプトの地から導き出された日に、彼らと結んだような古い契約とは違います。それは、彼らの心に書き記される律法です。それは行いによるのではなく、神の真実に基づくものであって、イエス・キリストが流された血によって結ばれる契約なのです。イエス様がこのように言われました。「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:20)

したがって、ここでは私たちクリスチャンにとって非常に重要なことが教えているのです。それは、人は律法の行いによっては救われないということです。「この契約のことばを聞け」とか、「わたしの声を聞け」とありますが、残念ながら私たちは聞き従うことができないのです。律法を守り行おうとすることは大切なことですが、その律法によってはだれも罪から救われないということです。結果、神ののろいを受けるしかありません。

では、この契約のことばにいったいどんな意味があるというのでしょうか。何のために律法が与えられたのでしょうか。それは、私たちが罪人であることを示すためです。そして、その罪から救われたいという願いを起こすためです。律法があるからこそ、私たちは神の前にどのような者であるかがわかります。律法は、いわば私たちの姿を写し出す鏡なのです。それがなかったら、義人はいない、一人もいないと言われても、ピンとこないでしょう。 「いや、私はそんなに悪い人間ではありません」とか、「隣の人を見てください。その人の方がよっぽど悪い人ですよ」となります。

でも、この律法の前に置かれたらどうでしょうか。神様の前に顔向けできなくなります。目も合わせることもできません。違反が示されるからです。律法が与えられた目的はここにあります。ガラテヤ3:22にこうあります。「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。」つまり、律法は私たちを罪の下に閉じ込めてしまうのです。ですから、律法によっては救われないことは明らかです。律法によるなら、のろわれるしかありません。だからこそ神は、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。それは、私たちが律法を行うことによってではなく、信仰によって義と認められるためです。律法の行いによっては永遠にのろわれて当然な者なのに、神は救い主を私たちのところへ送り、この救い主を信じる信仰によって救おうとしてくださいました。永遠ののろいから、永遠の祝福へと移してくださったのです。ですから、主イエスを信じるならだれでも救われるのです。

大切なのは、何を信じるのか、だれを信じるのかということです。今、あなたが信じているものは何でしょうか。それは大丈夫ですか。それはあなたを救うことができるでしょうか。あなたが愛して止まないもの、あなたが頼りにしているものは、あなたを裏切らないでしょうか。ほんとうに困ったとき、あなたを助けてくれるでしょうか。あなたに永遠のいのちを与えてくれるでしょうか。そのことをよく考えなければなりません。

しかし、イエス様を信じる者は、だれでも救われます。何かをしなければならないということではありません。ただ信じるだけでいいのです。イエス・キリストを信じる者はみな救われます。律法によってはのろわれた者でしかない私たちを、神は救ってくださいました。十字架の贖いによって。この神の救い、イエス様の十字架の贖いを受け、神が与えてくださる聖霊の力によって、神のみことばに従う者とさせていただきましょう。自分の力、肉の力では限界があります。神が与えてくださる聖霊の力こそ、私たちが神のみことばに従う秘訣なのです。それは神の救い、イエス・キリストの贖いを受けることから始まります。この契約ことばは、イエス・キリストによって結ばれる新しい契約を指示していたのです。

Ⅰ列王記17章

 今日は、列王記第一17章から学びます。

 Ⅰ.ティシュベ人エリヤ(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。「1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。」

いよいよ旧約聖書における、代表的な預言者エリヤが登場します。エリヤが登場するのは、この北王国イスラエルの王アハブの時代です。彼は、ティシュベの出身でした。ティシュベは、ヨルダン川の東側のギルアデにある町です。彼は、アハブ王がシドン人の娘イゼベルを妻とし、バアルに仕えそれを拝んでいると聞いて、神の怒りに燃え、サマリアにいるアハブのところにやって来たのです。その距離、約50㎞です(新改訳聖書第三版巻末の地図、「イスラエルとユダの王国」参照)。「エリヤ」という名前は、「ヤハウェは私の神」という意味です。彼は神のことばを受けて、それをアハブに伝えました。

それは、「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」(1)というものでした。エリヤが仕えているイスラエルの神、主は生きておられる神です。バアルのように何もできない偶像ではありません。これは、その主が言われることばなのです。それは、ここ数年の間は露も降らず、雨も降らないということでした。つまり、干ばつになるということです。干ばつになるという預言は、バアルを礼拝する者にとっては致命的なことでした。なぜなら、バアルは雨を降らせる神、豊穣神と考えられていたからです。その雨が降らなくなるということは、イスラエルの神、主は、バアルの専門分野をも支配することになります。すなわち、バアル以上の神となるわけです。ですから、このエリヤの干ばつの預言は、ある意味でバアルに対する宣戦布告であったのです。

現代に生きる私たちも、私たちの人生に真の恵みの雨をもたらしてくれるものは何かを考えなければなりません。それは自分の力、家族、友人、偶像の神々ではなく、生きておられるまことの神、主であられるということです。エリヤの力の源は、この主なる神への信頼にあったのです。生けるまことの神に信頼するなら、恐れたり、不安になったり、絶望したりする必要はありません。

ところで、ヤコブ5:16~18に、このエリヤについての言及があります。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」

ここでのポイントは、エリヤは私たちと同じ人間でしたが、という点です。彼は決して特別な人ではありませんでした。私たちと同じ人間でした。しかし、雨が降らないように祈ると、そのようになりました。義人の祈りが働くと大きな力があるからです。義人とは、神の目で正しい人であるということです。神に信頼して生きる人のことであります。生ける神に信頼し、この方に祈るなら、私たちも神から大きな力が与えられるのです。

それから、エリヤに次のようなことばがありました。「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3-4)

ケリテ川がどこにあるか、はっきりしたことはわかっていませんが、ティシュベの北を流れる川であったと考えられています。エリヤは、ヨルダン川の東にあるティシュベから北イスラエルの首都サマリアに行ったかと思ったら、再びヨルダン川の東側に戻らなければなりませんでした。そいったい何のためでしょうか。ケリテ川のほとりに身を隠すためでした。主は、アハブの手から彼を守ろうとしたのです。それは同時に、彼の信仰を養うためでもありました。そのような飢饉の中でも彼を養うことを通して、彼の信仰を強めようとされたのです。どのように?何と主は、烏にエリヤを養うように命じたというのです。

エリヤは主のことばのとおりケリテ川のほとりに行って住むと、何羽かの烏が「カー、カー」とやって来て、朝、夕とパンと肉を運んできました。また、彼はその川から水を飲みました。烏は、自らのひな鳥にさえ餌を忘れるような鳥です。その烏がエリヤのところに朝、夕と食べ物を運んで来たというのはアメージングです。これは神様の奇跡なのです。この「パン」という言葉は、へブル語で「レヘム」という語ですが、食べ物一般を指すことばです。ですから、パンという特定の食べ物だけでなく、そこには果物やナッツ、卵といったものも含まれていたことでしょう。主なる神さまの配慮とその方法には驚かされますね。でも、これが神の方法なのです。神の方法は私たちの想像をはるかに超えています。ですから、今月は食べるお金がないと言って心配しなくても大丈夫です。神様がちゃんと養ってくださいますから。

先日、さくらチャーチの礼拝で、長谷川先生が「さば缶」の話をされました。寒川の教会を開拓される中で食べるのにも困り果て、しょうがなく奥様が近くの施設で仕事をするようになりましたが、どうも平安がありませんでした。自分たちは主に召されたのだから、必要ならば主が与えてくださるのではないかとお仕事を辞めました。さて、この先どうしたらいいものかと途方に暮れていた時、信徒の方が「先生、これを食べてください」と、さばの缶詰をいただいたのです。ちょうど烏がエリヤのもとにパンと肉を運んで来たように、先生のもとに信徒を遣わしてさばの缶詰と大根か何かを運んでくださったのを忘れることができないと、話しておられました。まさにそうです。主は烏を用いて私たちを養ってくださるのです。

しかし、しばらくすると、その川が枯れてしまいました。その地に雨が降らなかったからです。干ばつの影響が出始めたのです。すると、主は彼にシドンのツァレファテに行き、そこに住むようにと言われました。すると主はどうされたでしょうか。

Ⅱ.ツァレファテのやもめの所で(8-16)

8~16節をご覧ください。「8 すると、彼に次のような主のことばがあった。9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」

主はエリヤに、シドンのツァレファテに行き、そこに住め、と言われました。そこに一人のやもめに命じて、彼を養うようにしているというのです。「ツァレファテ」は、ツロとシドンの中間に位置する地中海沿いの町です。ヨルダンの東にあったケレテ川からは100㎞ほど離れたところにあります。主はなぜわざわざツァレファテに行くようにと言われたのでしょうか。

一つの理由は、そこはアハブの妻イゼベルの出身地であったからです(16:31)。つまり、そこはバアル礼拝の中心地であったということです。そこで主は、ご自身がバアルよりも偉大なお方であることを示そうとされたのです。

二つ目に、このことによって神のご計画を示そうとしておられたからです。ルカ4:25~26にこうあります。「25 まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。」これは、イエス様がご自身の出身地であるナザレで受け入られなかった時に言われたことばです。ここで主はご自身が誰の所に遣わされたのかを述べるにあたり、このツァレファテの、一人のやもめに遣わされたと言われました。ツァレファテは異邦人の地です。つまり、イエス様はユダヤ人の中で拒まれたために、その名は異邦人の中でほめたたえられるようになるということを啓示しておられたのです。

三つ目に、このことによって神の偉大な御業を示そうとしておられたからです。一人のやもめに養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度が整っている今日とは異なり、こじきより多少ましであるという程度の貧しい存在であったからです。そんなこと考えられません。もし遣わすなら、もっと裕福な人のところに遣わした方が良いに決まっています。けれども神は人の考えとは違い、人の考えをはるかに超えたところで働かれるお方です。神はこのことを通してエリヤの信仰を訓練しようとしておられたのです。

主のことばに従って、エリヤがそのツァレファテに行くと、ちょうどそこに薪を拾い集めている一人のやもめがいました。そこでエリヤは彼女に、ほんの少しの水を飲ませてくれるようにと頼みました。これは、やもめが好意的に受け入れてくれるかどうかを試すためだったのでしょう。すると彼女が好意的に応答し、水を取りに行こうとしたので、彼は一口のパンも持って来てくださいとお願いしました。

すると彼女は何と言いましたか。彼女は、「あなたの神、主はき生きておられます。」と言いました。これは驚くべきことです。なぜなら、彼女は異邦人でしたが、イスラエルの神に対する信仰を持っていたからです。いわばこれは、彼女の信仰告白と言ってもいいでしょう。それにしてもどうして彼女はエリヤを見たとき、彼がイスラエルの預言者だとわかったのでしょうか。いずれにせよ、彼女はイスラエルの神、主は生きておられると告白することができました。けれども、彼女には焼いたパンはおろか、あるのはかめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油だけでした。彼女は今集めている薪で、帰って、自分と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしていたのです。その時に現れたのがエリヤです。まさに絶妙なタイミングです。これは偶然ではなく神の摂理的な導きによるものでした。このことを通して主はエリヤだけでなく、彼女の信仰も養おうとしておられたのです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。彼は、「それは大変ですね。わかりました。そうしてください」とは言いませんでした。エリヤは彼女にこう言いました。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」(13-14)

エリヤは、最初のパン菓子を、自分のところに持ってくるようにと命じました。それが終わってから、自分たちのために作りなさいと。 たとえ主からのことばが与えられていたからと言っても、このようなことはなかなか言いにくかったことでしょう。人間的に聞いたら、ずいぶん身勝手というか、調子がいい話です。いや、残酷な話です。最後のパンで私は生きるが、あなたがたは野垂れ死になさい、と言っているようなものなのですから。しかし、エリヤは大胆にそれを伝えました。それは、エリヤが主のことばを信じていただけでなく、このやもめもイスラエルの神である主を知るためです。彼女自身が、神を信じるその信仰を試しておられたのです。どのような信仰でしょうか。神の国とその義とを第一にするなら、神はそれに加えてすべてのものを備えてくださるという信仰です。彼女がエリヤのためにまず小さなパン菓子を作ったら、自分たちのためのものはありません。しかし、主のみことばに従って主を第一にするなら、主は必ず必要を与えてくださいます。主が血の上に雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、壺の油は無くならないということです。

彼女は、エリヤが言ったとおりにしました。するとどうなったでしょうか。15節をご覧ください。すると、主は約束通り、エリヤとそのやもめの一家を養われました。彼らは長い間食べることができたのです。主が言われたとおり、かめの中の粉は尽きず、壺の油はなくならなかったのです。すばらしいですね。「かめの中の粉は尽きず、壺の中の油はなくならない。」私はこの言葉が好きです。

ここからどういうことが言えるでしょうか。主は生きておられる方であり、この方に信頼するなら失望させられることはないということです。ツァレファテは、バアル礼拝の中心地シドンの地方にありました。ですから、そこでも干ばつが起こっていました。しかし、主はどんなに干ばつが続いても、麦から取れる粉とオリーブから取れる油を供給し続けてくださったのです。そうです、私たちの主は、バアルよりも偉大なお方なのです。この天地を造られた創造主であられ、今も生きて働いておられる神なのです。私たちも、このイスラエルの神、主こそ、天地を支配しておられる神であると認め、この方だけに信頼しましょう。

Ⅲ.やもめの息子の死(17-24)

最後に、17~24節をご覧ください。「17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。20 彼は主叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」22主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」

それからどれくらい経ったかわかりませんが、このやもめにさらなる試みが襲い掛かります。彼女の息子が病気なり、ついに死んでしまったのです。やもめにとっては何が何だかわからなかったでしょう。死のうとしていたところを生かしてくれたかと思ったら、今度は息子が死のうとしていたのですから。18節のやもめのことばには、こうした彼女の心境が見て取れます。

するとエリヤは「あなたの息子を渡しなさい」と言うと、やもめからその子を受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせました。ここに「その子を彼女の懐から受け取り」とか「抱えて上がり」とあるので、この子がまだ幼かったことがわかります。

エリヤはその子を自分の寝床の上に寝かせると、主に叫んで言いました。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」 そして、その子の上に三度身を伏せて、主に叫んで言いました。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」するとどうでしょう。主はエリヤの祈りを聞かれ、子どものいのちがその子のうちに宿り、その子は生き返ったのです。ある人は、この子は本当は死んだのではなく意識を失っていただけだと考えますが、そうではありません。やもめの絶望とエリヤの必死の祈りが、この子が死んでいたことを示しています。ここでエリヤは三度祈っています。ただ祈ったのではありません。三度も必死に忍耐強く祈り続けました。ここにエリヤの必死に求める信仰が表されています。あの王室の役人の息子が死んだときも、父親はイエス様のもとに来て、息子が癒されるようにとひれ伏して祈りました(ヨハネ4:47)。イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)と言われましたが、主は愛する者のために、こうした必死の祈りに応えてくださる方なのです。それは主が生きておられる神であり、そのことばが確かなものであることを示すためです。

その子が生き返ったとき、彼女はエリヤにこう言いました。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」(24)

それは彼女の信仰を引き上げ、彼女が主こそ神であることを示すために神がなされた御業だったのです。

その主は今も生きて働いておられます。私たちが悲しみや苦しみ、嘆きのただ中で主に叫ぶとき、主は豊かに応えてくださいます。私たちはその主に叫び、主が祈りに応えてくださることを通して、主こそ神であり、この主に信頼して信仰から信仰へと歩ませていただきましょう。

エレミヤ10章17~25節「あなたの道を主にゆだねよ」

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きょうは、エレミヤ書10章後半から、「あなたの道を主にゆだねよ」というタイトルでお話します。きょうのタイトルは23節から取りました。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」
 ここには、人にはその歩む道を確かにする力はないと言われています。ではどこにその力があるのでしょうか。勿論、それは主なる神様です。ここにはそれが省略されていますが、言わんとしていることは明らかです。箴言にはこのことがもっとはっきりと言われています。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)
 であれば、私たちは自分の道をすべて主にゆだねなければなりません。そうすれば、主が成し遂げてくださいます。それは必ずしも平坦な道ではないかもしれません。しかし、それが主が定めておられる道ならば、主が確かなものにしてくださいます。
 きょうは、そのことを悟れなかったユダと、それを悟った預言者エレミヤの姿を対比しながらお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの嘆き(17-21)

まず17~21節までをご覧ください。17節と18節をお読みします。「17 包囲されている女よ、あなたの荷物を地から取り集めよ。18 まことに主はこう言われる。「見よ。わたしはこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめる。彼らが思い知るためだ。」」

「包囲されている女」とは、エルサレムの住民のことです。そのエルサレムの住民に対して主は、「あなたの荷物を地から取り集めよ」と命じています。なぜでしょうか。なぜなら、これから長い旅に出ることになるからです。それはGo to travelのような楽しい旅ではなく、バビロンまで捕虜として歩いていかなければならないという過酷な旅です。エルサレムがバビロンによって滅ぼされてしまうのです。でも彼らには信じられませんでした。当時はアッシリヤ帝国がオリエント世界を支配していました。どうやってバビロンなどという新興国がアッシリヤを倒し、南ユダを滅ぼすことができるというのでしょうか。そんなことはあり得ないと。しかも、ここには主の宮がある。契約の箱もあれば、主の律法もある。そんな神の民を、どうやって滅ぼすというのか。そんなこと絶対にあり得ないと、高をくくっていたのです。しかしそれは彼らの単なる思い込みにすぎませんでした。18節にあるように、主はこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめます。「今度こそ」というのは、今までもそういうことがあっても何度か生き延びることができましたが、今度はそういうことはない。今度こそ間違いなく放り出されることになるいう、神の強い意志が表されています。これは勿論、捕囚の民としてバビロンに連行されるということです。力ずくで町から追い出され、捕虜として連れ去られることになるのです。

それを知ったエレミヤはどうなったでしょうか。19~20節をご覧ください。「ああ、私は悲しい。この傷のために。この打ち傷は癒やしがたい。しかし、私は言った。「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」20 私の天幕は荒らされ、そのすべての綱は断たれ、私の子らも私から去って、もういない。もう私の天幕を張る者はなく、その幕を広げる者もいない。」

エレミヤは、深い悲しみに打ちひしがれました。それは天幕が荒らされ、そのすべての綱が断ち切られ、神の民が捕囚の民として連れて行かれることになるからです。天幕が荒らされるとか、そのすべての綱が断ち切られるというのは、彼らの土地が踏みにじられるという意味です。エレミヤは、エルサレムがそのような状態になることを聞いて、嘆いているのです。それは癒しがたい傷だと。

ここで注目していただきたいのは、エレミヤがそれを自分のこととして受け止めていることです。たとえば、19節では「わたしは悲しい」とか、「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」と言っています。また、20節でも「私の天幕は荒らされ」とか、「私の子らも私から去って、もういない」と言っています。「私の天幕は荒らされ、そのすべての綱は断たれ」と言っています。彼らの天幕が荒らされるといっているのではありません。彼らの子らが彼らから去ってというのではないのです。自分の天幕が荒らされ、自分の天幕の綱が断ち切られ、自分の子らが取り去られると言っているのです。エレミヤは、ユダの滅びを完全に自分のものとして受け止めていました。

いったいなぜ彼はここまで彼らと一体となっていたのでしょうか。それは前にもお話したように、同胞ユダヤ人をこよなく愛していたからです。自分はここから離れたいと思っても、決して離れることができない、そういう愛の絆で結ばれていたのです。

そしてそれは、私たちに対する神の愛と同じです。神は罪に苦しむ私たちを見て、「この傷は癒しがたい。」「まことに、これこそが私が負わなければならない病だ。」と言ってくださるのです。そしてその通りに、主は私たちの罪を負ってくださいました。十字架の上で。それが私たちの主イエス・キリストです。キリストは私たちが負わなければならない病を、その身に負ってくださいました。そのことが、キリストが生まれる700年も前に、それはちょうどこのエレミヤ書が書かれた約100年前ですが、預言者イザヤによって預言されていました。イザヤ書53章です。イザヤ書53章は、メシヤ預言として、来るべきメシヤがどのような方なのかを、イザヤが預言したものですが、その中に次のようにあります。

「4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:4-6)

やがて来られるメシヤは、私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださいました。その打ち傷によって私たちは癒されたのです。本来、私たちが受けるべき罪の刑罰を、彼が代わりに負ってくださったからです。それが十字架です。ここに神様の私たちに対する愛がいかんなく表されていると思います。

クリスチャンのシンガーソングライターで岩渕まことさんという方がおられますが、岩渕さんはクリスチャンになって7年目に、愛する8歳の娘さんを天に送られました。その経験を通して、父なる神さまの苦しみを改めて感じられたそうです。わが子イエスを十字架につける神さまの苦しみは、どれだけ深かったことでしょう。しかしその十字架は、私たちに対する神さまの愛の証しでした。それを歌った詩があります。それが「父の涙」という詩です。

心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎて行く
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

父が静かにみつめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よかれらを赦してほしいと
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛
(作詞・作曲 岩渕まこと、アルバム『HEAVENLY』より)

恐らく、岩渕さんは娘さんが病気になって苦しんでいるのを見て、できれば代わってやりたいとどれほど思ったことでしょう。願っても叶わない歯がゆさを覚えたに違いありません。でも神はそれをしてくださいました。神は罪に苦しんでいる私たちを見て、代わりに死んでくださったのです。これこそわたしが負わなければならない病だと言って。その打ち傷のゆえに、私たちは癒されました。これが神の愛です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

ひとり子さえも与えてくださる愛、神様の愛は本当に偉大ですね。この神の愛に、あなたはどのように応答されますか。

Ⅱ.エレミヤの悟り(22-23)

次に、22~23節をご覧ください。「22 声がする。見よ、一つの知らせが届いた。大いなるざわめきが北の地から来る。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするために。23 主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

ここでエレミヤは一つの声を聞きます。第三版では「うわさ」と訳しています。どんな声を聞くのでしょうか。それは、大いなるざわめきが北から来る、という声です。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするためにです。

それに対してエレミヤは何と言っていますか。23節には、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」とあります。

どういうことでしょうか。エレミヤは、ユダの滅びを前にして、自分の道を主にゆだねているのです。エレミヤは知っていました。人には歩むべき道を決定することも、その歩みを確かなものにする力もないということを。その人の歩みを確かなものにするのは神様です。神によってのみ、人の道は確かなものとなるのです。箴言16:9にはこうあります。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(新改訳改訂第3版)

また詩篇37:23~24にはこうあります。

「23 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。24 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」

すばらしい約束ですね。人は神によって定められた道を歩むとき、神がその人を支えてくださいます。たとえ倒れることがあってもまっさかさまに倒れることはありません。主が支えておられるからです。ですから、どうぞ皆さん安心してください。

あなたはどうでしょうか。主がすべてを支配していると認め、主にすべてをゆだねておられるでしょうか。それとも、まだ自分の悟りに頼っているでしょうか。詩篇37:5にはこうあります。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)

また、箴言3:5-6にもこうあります。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)

ある人のクリスチャンの証です。主に示された道を進もうとした時、未信者の親族たちから猛反対されました。代わるがわる説得され、何やかにやと言われる。しかしこの事は主の御心だと思え、祈りに祈っていました。しかしなかなか道が開かれず、なおも祈り続けていました。 

でも周囲からの反対は変わらず、こんなに祈っているのに、どうして道が開かれないのか。しかし更に祈り続けました。するとその祈りの中で、心が探られ内側が照らされました。確かにそれは主の御心ではあるのだが、周囲の余りの反対に、反発心が起きて、心の中では反抗的になり、意地になっている自分に気づかされたのです。

心が頑なになっていて、何としてでも、自分の意志と力で突き進もうとしていました。主の栄光などではなく、自我そのものであったのです。心から悔い改めて、今一度主に自分自身を明け渡しました。真に主の御心が成りますようにと祈ると、心に平安が与えられました。

そして、すべてを主に委ねて祈っていると、時満ちて、門が開かれたのです。時と共に周囲も認めてくれて、御心の道へと進む事ができました。とにかく祈りに持って行くなら、間違った動機も、態度も教えられます。そして祈りも軌道修正されながら、御心へと導かれていくのです。

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主を認め、主に拠り頼む人は、何と幸いでしょうか。主がその人の道をまっすぐにしてくださいます。自分の悟りではなく、主に拠り頼みましょう。主によって定められている道を、歩もうではありませんか。

Ⅲ.エレミヤの祈り(24-25)

最後に、24~25節をご覧ください。「24主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。25 あなたを知らない国々の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。」

これは、エレミヤの祈りです。人は神の恵みと助けがなければ一歩も動けないということを悟ったエレミヤは、民のために泣きながら祈っています。御怒りによるのではなく、ただ、公正をもって懲らしめてくださいと。これはどういうことかというと、神のさばきがイスラエルの民が滅亡するような厳しいさばきではなく、立ち上がることができる程度の懲らしめであるようにということです。また25節には、イスラエルの民を攻撃する敵、これはバビロンのことですが、そのバビロンの上に神の憤りを注いでくだるようにと祈っています。なぜなら、彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。これはどういうことかというと、バビロンはやりすぎたということです。彼らはユダの民を懲らしめるための単なる神の道具にすぎなかったのに、ヤコブを食らって滅ぼそうとしました。それはやりすぎだと、エレミヤは訴えているのです。だから彼らの上に神さまの憤りを注いで、彼らを滅ぼしてくださいと祈っているのです。それはひいてはユダの救いにつながることになりますから。直接的には、ユダの救いのために祈っていませんが、敵の滅びを祈ることで、間接的にというか、遠回しにユダの救いを祈っているのです。

でも私たちは先に、神がエレミヤにこう言われてことを知っています。「この民のために祈ってはならない。」(7:16)彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。とりなしてはならないということを。それは11:11とか、11:14にも出てきます。それなのに、エレミヤはこの民のために祈っているじゃないですか。これはどういうことでしょうか。

よく見ると、エレミヤは民のために祈っていません。彼は自分のために祈っています。ここには、「主よ、私を懲らしめないでください。」とか、「そうでなければ、私は無に帰してしまいます」と言っています。ユダの民のためではなく自分のために祈っているのです。しかし、その自分というのはだれかというと、ユダの民の代表としての自分です。ですから、直接的にはユダの民のためには祈っていませんが、その民の代表としての「私」のために祈ることによって、結局、民のために祈っているわけです。ここにエレミヤの知恵というか、賢さを感じます。そんなの屁理屈だという人もおられるかもしれませんが、これは神から与えられたエレミヤの知恵なのです。それは神の願いでもありました。それほどまでに民を愛していたからです。それが私たちの神です。神は、ご自身の民を冷たく突き放すような方ではありません。神はあなたが救われるようにと祈っておられるのです。あなたを助けたいのです。あなたを滅びから救いたのです。ここまで願ってくださるのが私たちの神様です。ここまで考えてくださるのが私たちの神様なのです。このような神の愛にあなたはどのように応答されますか。

これほどまでの愛のメッセージを聞かされて、ユダの民はさぞ感動したことでしょう。と思いきや、26:8~11を見るとそうでないことがわかります。ここにはこうあります。「8 主が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死ななければならない。9 なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、主の名によって預言したのか。」そこで、民全体は主の宮のエレミヤのところに集まった。10 これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着いた。11 祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」」
 信じられません。主が語れと言われたことをエレミヤがすべて語り終えると、何と祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえ、死刑を宣告するのです。でも神が特別にエレミヤを守ってくださったので、死から逃れることができました。これほどすばらしいメッセージを聞いてもそれを拒絶されるだけでなく、迫害されることもあるのです。神を信じて、神の道に歩もうとする時、それを快く思ってくれない人がいるわけです。もしかすると、それはあなたのごく親しい人かもしれません。あなたの夫とか、妻とか、息子、娘かもしれない。必ずしも、みながこの救いのメッセージを受け入れるとは限らないのです。

9月10日、11日と、保守バプテスト同盟のチームが、福島県西会津町の教会未設置町に宣教に行った時の報告書を見ました。そこは、かつてイギリス人の婦人宣教師のパルマー先生が、47歳で召しを受け、会津若松市で10年間仕えたのち、移り住んだ町です。80歳で帰国するまで22年間一度も帰国せずに開拓伝道に取り組みました。私も毎年夏、近くの金山町という町にある沼沢湖に家族でキャンプに行ったとき、日曜日の礼拝にお邪魔したことがありますが、そこには1人の兄弟とまだ洗礼を受けていない2~3名の婦人たちが集まっていました。22年間伝道してたった1人です。80歳を過ぎてパルマー先生は帰国しなければならなくなったとき、恵泉キリスト教会の会津チャペルがその働きを引き継ぎました。

バルマー先生によって22年間の種まきがなされてきたこともあって、刈り入れるばかりになっていると信じて、9月10日と11日の2日間、21名の兄姉が数名のチームに分かれて訪問伝道を繰り広げたのです。

その結果、あるチームは40軒以上訪問して、ほぼ全て断られました。結局、167軒を訪問して、返事なしが60件、拒否57件、ただの受け入れ10件、祈りの受け入れ8件、キリストを受け入れると表明したのはたった1人だったそうです。たった1人でも、そこにキリストの福音を聞き、受け入れるという人がいたことはすばらしいことですが、これがこの世の現実なのです。

こんなにすばらしい救いなのに、こんなにすばらしい神様なのに、受け入れるのはごくわずかです。それは決して平坦な道のりではありません。でもそれがどんなに茨の道でも、主はエレミヤにこう約束してくださいました。「18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救い出すからだ。」」(エレミヤ1:18-19)

どんなに人々があなたを拒み、あなたを憎み、あなたを弾圧することがあっても、がっかりしないでください。主はあなたとともにいて、あなたを助け出してくださいますから。あなたが一人ぼっちになっても、主はあなたを見捨てることはなさいません。あなたとともにいて、あなたを守ってくださいます。あなたを助け、あなたを強くしてくださるのです。あなたに求められているのは、彼らを恐れないで、主が語れと言われたことを語ることです。あなたは、神によって定められている道を歩まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。人の道はその人によるのではなく、その歩みを確かにするのは、主ご自身であられるからです。その主の道を歩もうではありませんか。主があなたに求めておられるのは、主を求め、主の道に歩むことです。どれだけの人を救いに導いたかとか、どれだけ立派なことをしたかということではなく、あなたがどれだけ主に忠実であったかということ、どれだけ誠実であり続けたかどうが問われているのです。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。この約束を握りしめながら、すべてを主にゆだね、主が示される道を歩もうではありませんか。

Ⅰ列王記16章

 今日は、列王記第一16章から学びます。

 Ⅰ.北王国イスラエルの王バアシャとエラ(1-14)

まず、1~14節までをご覧ください。や節までをお読みします。「1 そのとき、ハナニの子エフーに、バアシャに対する次のような主のことばがあった。2 「わたしは、あなたをちりから引き上げ、わたしの民イスラエルの君主としたが、あなたはヤロブアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪によってわたしの怒りを引き起こした。3 今、わたしはバアシャとその家を除き去り、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにする。4 バアシャに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」

5 バアシャについてのその他の事柄、彼が行ったこと、その功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。6 バアシャは先祖とともに眠りにつき、ティルツァに葬られた。彼の子エラが代わって王となった。7 主のことばはまた、ハナニの子、預言者エフーを通してバアシャとその家に向けられた。それは、彼が【主】の目に悪であるすべてのことを行い、その手のわざによって主の怒りを引き起こしてヤロブアムの家のようになり、また彼がヤロブアムを打ち殺したからである。」

北イスラエル王国の3代目の王バアシャについての記述です。彼については、15:27~に帰されてあります。今回はその続きです。預言者ハナニの子エフーに、主のことばがありました。2~4節です。「わたしは、あなたをちりから引き上げ、わたしの民イスラエルの君主としたが、あなたはヤロブアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪によってわたしの怒りを引き起こした。3 今、わたしはバアシャとその家を除き去り、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにする。4 バアシャに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」

主は彼を、ちりから引き上げてくださいました。それは何もないところから引き上げてくださったということです。彼は貧しい家の出で何もなかったのに、主がそのような中から引き上げてくださったのです。それは彼がイスラエルの王として、神の偉大な使命を果たすためでした。しかし、彼にはその認識がありませんでした。彼は、あのヤロブアムの道に歩み、神の民イスラエルに罪を犯させ、主の目に悪であることをすべて行って、主の怒りを引き起こしてしまいました。「ヤロブアムの道」とは、偶像礼拝の罪のことです。彼はイスラエルを偶像礼拝の罪に導きました。いったい何が問題だったのでしょうか。神から与えられた使命を忘れてしまったことです。それで彼は主の目の前に悪を行いました。主はそんな彼の家をヤロブアムの家のようにすると言われました。それはバシャに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らうということです。興味深いことに、ほぼ同じ裁きの言葉が、預言者アヒヤによってヤロブアムに語られていました(Ⅰ列王14:10-11)。彼は、自分が倒したヤロブアム家に対する神のさばきと、全く同じ裁きを受けることになったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも自分に与えられている使命を忘れると、バアシャのようになってしまいます。この世には2種類の人がいます。神から与えられた賜物や権力を、自分の利益と満足のために用いる人と、神のために用いる人です。バアシャは自分ために用いました。せっかく神によってちりから引き上げられイスラエルの君主としてもらったのに、それを神のためではなく自分のために用いてしまったのです。私たちはバシャのようにならないように気を付けなければなりません。私たちが神から受けている祝福や恵みは他の人を祝福するためであって自分の利益や満足のためではないことを覚えて、それを神の栄光のために用いなければならないのです。

次に、8~14節までをご覧ください。「8 ユダの王アサの第二十六年に、バアシャの子エラがティルツァでイスラエルの王となった。治世は二年であった。9 彼がティルツァにいて、ティルツァの宮廷長官アルツァの家で酒を飲んで酔っていたとき、彼の家来で、戦車隊の半分の長であるジムリが彼に謀反を企てた。10 ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが入って来てエラを打ち殺し、彼に代わって王となった。11 ジムリは王となり王座に就くと、すぐにバアシャの全家を討ち、小童から親類、友人に至るまで、一人も残さなかった。12 こうして、ジムリはバアシャの全家を根絶やしにした。預言者エフーを通してバアシャに言われた主のことばのとおりであった。13 これは、バアシャのすべての罪とその子エラの罪のゆえであり、彼らが罪を犯し、また彼らがイスラエルに罪を犯させ、彼らの空しい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こしたためである。14 エラについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。」

バアシャのあとに北王国イスラエルの王となったのは、バアシャの子エラでした。彼の治世は2年でした。彼についてはほとんど何も記されてありません。ただ彼は自分の家来、宮廷長官アルツァの家で酒を飲んで酔っ払っていたとき、彼の家来で戦車隊の半分の長であったジムリが起こした謀反によって殺されてしまったということです。エラは家来の家に行って酒を飲むことが習慣になっていたのでしょう。まことに愚かな王であったと言えます。そのようにして、敵に隙を見せることをしたのですから。彼は酒を飲んだだけでなく、酒に飲まれてしまったのです。

ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが入って来てエラを打ち殺し、彼に代わって王となりました。ジムリが王となると何をしたでしょうか。彼はすぐにバアシャの全家を根絶やしにしました。彼は、王位継承の可能性のある者たち全員を抹殺したのです。ここには、「小童から親類、友人に至るまで、一人も残さなかった」とあります。ヤロブアム家が滅んだように、まったく同じような形でバシャの家も滅んでしまいました。それは、16:3~4で預言者エフーが語った通りでした。その預言が成就したのです。

13節には、エラの上に下った裁きの理由が要約されています。「これは、バアシャのすべての罪とその子エラの罪のゆえであり、彼らが罪を犯し、また彼らがイスラエルに罪を犯させ、彼らの空しい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こしたためである。」

ここにある「空しい神々」とは、「偶像」のことです。つまり、偶像とは、実体のない空しい神々なのです。私たちの前には、偶像礼拝か、まことの神礼拝かの、二つの道しかありません。私は無宗教だという人は、自分の腹(欲望)を神としています。もし偶像を礼拝するなら、そこには虚しさだけが残ることになります。偶像ではなくまことの神を礼拝しましょう。

Ⅱ.北王国イスラエルの王ジムリとオムリ(15-28)

次に、15~28節をご覧ください。まず20節までをお読みします。「15 ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが七日間ティルツァで王となった。そのとき、兵はペリシテ人のギベトンに対して陣を敷いていた。16 陣を敷いていたこの兵は、「ジムリが謀反を起こして王を打ち殺した」と言われるのを聞いた。すると、全イスラエルはその日、その陣営で軍の長オムリをイスラエルの王とした。17 オムリは全イスラエルとともにギベトンから上って来て、ティルツァを包囲した。18 ジムリは町が攻め取られるのを見ると、王宮の高殿に入り、自ら王宮に火を放って死んだ。19 これは、彼が罪を犯して主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩んだその罪のゆえであり、イスラエルに罪を犯させた彼の罪のゆえであった。20 ジムリについてのその他の事柄、彼が企てた謀反、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。」

ユダの王アサの第二十七年に、ジムリが七日間ティルツァで王となりました。日本語に「三日天下」という言葉があります。これは、権力を握っている期間が非常に短いことを形容する言葉です。まさにジムリは「三日天下」でした。彼が王であったのはたった七日間でした。ジムリが謀反を起こしてエラを打ち殺したことを聞いた全イスラエルは、ペリシテのギベトンに対して陣を敷いていましたが、その陣営の軍の長であったオムリをイスラエルの王とし、ギベトンからティルツァに引き返して来て、これを包囲したのです。ジムリは町が攻め取られるのを見ると、王宮の高殿に入り、自ら火を放って死にました。

いったいなぜジムリはこのような結末を迎えたのでしょうか。19節にその理由が記されてあります。「これは、彼が罪を犯して主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩んだその罪のゆえであり、イスラエルに罪を犯させた彼の罪のゆえであった。」

これは、13節にも記されてありましたが、繰り返して何度も言われていることです。「ヤロブアムの道に歩んだその罪のゆえ」です。それは偶像礼拝の罪のことです。ジムリもまた主の目の前に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩んだので、主の怒りを引き起こし、彼の王国は三日天下で終わってしまいました。ガラテヤ6:7に「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」とありますが、ジムリは、自らの罪の刈り取りをしたのです。列王記を貫く一つの原則はこれです。偶像礼拝の罪を犯した者は、必ずその刈り取りをするようになるということです。あなたはどんな種を蒔いているでしょうか。自分の肉に蒔くのではなく御霊に蒔いて、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。

次に、21~28節をご覧ください。「21 当時、イスラエルの民は二派に分裂していた。民の半分はギナテの子ティブニに従って彼を王にしようとし、もう半分はオムリに従った。22 オムリに従った民は、ギナテの子ティブニに従った民より強かったので、ティブニが死ぬとオムリが王となった。23 ユダの王アサの第三十一年に、オムリはイスラエルの王となり、十二年間、王であった。六年間はティルツァで王であった。24 彼は銀二タラントでシェメルからサマリアの山を買い、その山に町を建て、彼が建てたこの町の名を、その山の持ち主であったシェメルの名にちなんでサマリアと呼んだ。25 オムリは主の目に悪であることを行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。26 彼はネバテの子ヤロブアムのすべての道に歩み、イスラエルに罪を犯させ、彼らの空しい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こした。27 オムリが行ったその他の事柄、彼が立てた功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。28 オムリは先祖とともに眠りにつき、サマリアに葬られた。彼の子アハブが代わって王となった。」

ジムリが死んでも、オムリが自動的に王になったのではありません。当時、イスラエルの民は二派に分裂していて、民の半分はティブニに従い、もう半分はオムリに従っていました。半分はティブニを、もう半分はオムリを王にしようとしていたのです。この期間は4年間です。結局、オムリに従った民はティブニに従った民よりも強かったので、ティブニが死ぬとオムリが王になりました。このオムリについて特筆すべきことは、新しい首都をサマリアに移したということです。彼の治世は12年間でしたが、6年間は古くから首都であったティルツァで、残りの6年間はサマリアで治めました。

24節には、彼がどのようにサマリアを建てたのか、その経緯が記されてあります。サマリアは、ティルツァから西に約11㎞のところに位置する丘です。周りが谷に囲まれたていたので、地形的に軍事的要塞として適所でした。オムリはこの丘を銀2タラント(6,000シェケル:当時戦車1台600シェケル、馬1頭150シェケル)で買い取り、その山に町を建設しました。町の名は、その山の持ち主であったシェメルの名にちなんで「サマリア」と名付けました。そこは南北の交通の要所で、西の海岸方面にも容易に移動できる絶好の場所でした。丘の上に建てられたこの町は、難攻不落の要塞となりました。

オムリは、これまで北王国イスラエルに登場した王たちの中では、恐らく最強の王だと思われます。謀反人ジムリを征伐し、政敵ティブニにも打ち勝ち、サマリアに新都を建設し、自らの王位を確実なものにしました。しかし、そんな彼も滅んでいくことになります。それはなぜでしょうか。その理由が25~26節にあります。ここにもまたあの言葉が出てきます。

「25 オムリは主の目に悪であることを行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。26 彼はネバテの子ヤロブアムのすべての道に歩み、イスラエルに罪を犯させ、彼らの空しい神々によってイスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」

しかも彼は、彼以前のだれよりも悪いことをしたとあります。これまでの王は単にヤロブアムの道に歩んだ、とありましたが、ここでは、彼以前のどの王よりも悪い事をした、と書かれてあります。彼には霊的関心は全くありませんでした。王が神によって立てられているのは、民にまことの神を示すためです。それなのに彼は、それとは正反対のことをして、主の怒りを引き起こしたのです。

Ⅲ.オムリの子アハブ(29-34)

となれば、その子たちはもっとひどい結果をもたらすことは目に見えています。それが、次に王となるアハブです。29~34節をご覧ください。「29 オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリアで二十二年間、イスラエルの王であった。30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。32 さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。34 彼の時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建した。彼は、その礎を据えたとき長子アビラムを失い、門を建てたとき末の子セグブを失った。ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」

オムリの子アハブは、ユダの王アサの第三十八年に、イスラエルの王となりました。彼はサマリアで22年間、イスラエルの王でした。彼は、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行いました。彼の父オムリも、彼以前のだれよりも悪いことをした(16:25)とありましたが、アハブはそれよりも悪い王でした。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことでした。相当悪いことをしたのです。彼はどんな悪いことをしたのでしょうか。

ネバテの子ヤロブアムの罪とは偶像礼拝のことですが、彼はそれだけではありませんでした。31節は、彼はシドンの王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだのです。「バアル」とは、「主人」とか「夫」という意味がありますが、権力や所有権を持つ者を指し,具体的には旧約時代におけるカナンの地の土着の豊穰神として知られていました。従ってバアルは男神であり,カナンにおける農業宗教として大きな感化を社会に与えていました。この外国のまったく新しい偶像の神バアルをイスラエルに導入したのです。確かにこれまでもヤロブアムによってもたらされた偶像礼拝によって神の怒りが引き起こされましたが、それはあくまでもイスラエルの宗教を改良したところの新興宗教でした。金の子牛を作り、自分勝手に祭司を雇ったり、仮庵の祭りの日程を変更したりと、礼拝対象はイスラエルの神であるヤハウェとされていましたが、今回は全く異質のもので、カナンの土着の神を導入したのです。

さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築きました。さらに彼はアシェラ像も造りました。アシェラ像は、バアルの相方となる女神です。バアル礼拝は、性的堕落を伴った偶像礼拝であったということです。こうして彼は、彼以前のイスラエルのすべての王にも増して、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行ったということです。

34節は、文脈上、アハブとは無関係ではないかと思われる節です。アハブの時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建したのですが、彼がその礎を据えたとき、その長子アビラムが死に、門を建てたとき末の子のセレグが死にました。いったいこれはどういうことでしょうか。ここには、「ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」とあります。実は、遡ること五百年前にヨシュアは、このエリコの町を再建する者があれば、その人はのろわれ、その長子と末の子を失うということを預言しました。ヨシュア6:26です。「ヨシュアは、そのとき誓った。「この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」」果たして、この預言がここに成就したのです。

問題は、いったいこれがどういうことかということです。それは神の命令に背くなら、必ずその預言の通りに神の裁きが下るということです。それは一見アハブとは何の関係もないようですが、実は大いに関係があります。つまり、神の命令に背いてエリコを再建したヒエルが、神のことばのとおりにさばきに会ったように、バアル礼拝を取り入れたアハブの上には、必ず主のさばきが下るということです。17章以降、そのことが展開されていきます。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7-8)

私たちは思い違いをしないように注意しなければなりません。神は決して侮られる方ではありません。人は種を蒔けば、必ずその刈り取りもすることになります。神の言葉に従って、御霊に種を蒔き、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。

エレミヤ10章1~16節「偶像か、まことの神か」

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エレミヤ書10章に入ります。きょうのメッセージのタイトルは、「偶像か、まことの神か」です。エレミヤはここで、偶像とまことの神を対比しながら、まことの神を信じるようにと勧めています。最初の比較は、1~7節までにあります。第二の比較は、8~10節まで、第三の比較は、11~13節まで、そして第四の比較は、14~16節までに見られます。この中でエレミヤは偶像とまことの神について交互に語るわけです。エレミヤがこのように語るのは、人は何を信じるかによってその生き方が決まるからです。偶像を信じ、偶像に信頼すれば、偶像と同じように空しい生き方となります。しかし、まことの神を信じて生きるなら、その神の恵みと祝福を受けることになります。ですから、私たちは偶像か、それともまことの神を信じるかを選択しなければならないのです。

Ⅰ.諸国の道を見習うな(1-7)

早速、本文を見ていきましょう。まず、1~2節をご覧ください。「1 イスラエルの家よ、主があなたがたに語られたことばを聞け。2 「主はこう言われる。諸国の道を見習うな。天のしるしにうろたえるな。諸国がそれらにうろたえても。」

「諸国の道」と訳された言葉は、第三版と口語訳では「異邦人の道」、新共同訳では「異国の道」と訳しています。これは生き方や考え方、ライフスタイルのことで、具体的には異国の宗教のことを指しています。彼らは「天のしるしに」うろたえていました。これは、天に現れるさまざまな現象のことです。天の星を見た異邦人は、そういう現象があると、自分たちに何か影響を及ぼすのではないかと恐れていました。そうした天のしるしをはじめ、その土地の偶像礼拝など、あらゆる迷信的な世界観にとらわれていたのです。そうした異国の宗教に見習うな、天のしるしにうろたえるなと言うのです。

なぜでしょうか。3~5節をご覧ください。ここにその理由が語られています。「3 国々の民の慣わしは空しいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで作った物にすぎない。4 それは銀と金で飾られ、釘や槌で、ぐらつかないよう打ち付けられる。5 それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ。」

それは、異国の民の習わしは空しいからです。それは森から切り出された木にすぎません。木工が、なたで刻んで作った物でしかないのです。それは銀と金で飾られ、釘と金槌で、ぐらつかないように打ち付けられたものです。それは、きゅうり畑のかかしのようです。おもしろいですね、きゅうりの畑のかかしのようであると言われています。それはどういうことかというと、中身が無いということです。皆さんも「かかし」をよく見かけると思います。田んぼとか畑の中に立っています。あれは作物を荒らす烏などの害獣を追い払うための仕掛けですが、竹やわらなどで作った人形を立てておくわけです。それはただの木でしかありません。竹とかわらでしかありません。偶像は見た目では立派でも、中身はかかしと同じなのです。

この近くには、幸福の科学の総本山があります。「幸福の科学那須精舎」と言います。皆さん、行ったことありますか?ないですよね、私もありません。行ったこともなければ、行きたいとも思いませんが、大田原の家を建ててくれた工務店の方が、この那須精舎の建築に関わったようで、教会の修繕に来る時によく話をされるのです。「あの幸福の科学の建物はすごいぞい。金ピカだ!たまげたよ」なんて。私の前で言うのです。いかにも教会はみすぼらしいということを言っているかのように聞こえます。まあ、一般の人にはわかりません。一般の人は見た目でしか判断することができないですから。どんなに金ピカでも、それはかかしと同じです。森から切り出した木を刻み、金箔を塗って、いかにも豪華に見えますが、きゅうり畑のかかしと同じなのです。

どうして偶像はきゅうり畑のかかしと同じなのでしょうか。エレミヤはここで、偶像の本質を見抜いています。そして、それをこで「・・できない」という否定の言葉を持って暴くのです。5節です。まず、ものを言うことができません。また、歩くこともできません。ですから、誰かに運んでもらわなければならないのです。また、害になることも益になることもできません。良いことも悪いことも何もできないのです。それは全く無能で、無益であるということです。3節には「国々の民の習わしは空しいからだ。」とありますが、それは空しいだけです。この「空しい」という言葉は伝道者の書に何回も使われていました。「空」ということばです。へブル語では「へーベル」と言います。「空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)その空です。それは「空っぽ」という意味です。中身がありません。偶像は中身がないのです。

そんなものを拝んでいったいどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。詩篇115篇4~8節には、こうあります。「4 彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。5 口があっても語れず目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。7 手があってもさわれず足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。8 これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ。」

おもしろいですね。偶像は口があっても語れず、目があっても見ることができません。鼻があっても嗅げず、手があってもさわることができず、足があっても歩くことができません。問題はこれを造る者も、これに信頼する者も、みなこれと同じであるということです。これとは偶像のことです。偶像を造り、偶像を拝む者は、偶像と同じだというのです。だから、何を礼拝するかということはとても重要なことなのです。それがあなたの生き方、あなたのライフスタイルを決めるからです。

それに対して、まことの神はどのようなお方でしょうか。6~7節にそのことが展開されています。「6 主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。7 国々の王である方、あなたを恐れない者がいるでしょうか。そのことは、あなたにとっては当然のことです。まことに、国々のすべての知恵ある者の中にも、そのすべての王国の中にも、あなたに並ぶものはありません。」

偶像は林から切り出された木にすぎず、木工が、なたで作った物にすぎません。それは銀と金で飾られ、ぐらつかないように釘や槌で打ち付けられたものです。きゅうり畑のかかしのようで、ものを言えず、歩くことができません。

しかし、まことの神はそのようなものではありません。まことの神は、大いなる方です。その御名は力ある大いなるものです。国々の王であられ、この方を恐れない者はいません。国々のすべての知恵ある者の中にも、そのすべての王国の中にも、この方に並ぶものはありません。この方はまさに比類なき方なのです。

「リビングプレイズ」という賛美デボーションシリーズ2の中に、あるクリスチャンの証が載っていました。この方は、ニクソン・ショック以来、ご主人が経営する会社が急に経営不振に陥り、不渡り手形を毎月、何百枚となく出すようになりました。しかも利害関係で結ばれた親族間のみにくい人間関係が急に露骨になり、家庭はまっくらになりました。毎日、死にたいと思いました。そんなある日、神や仏からの御利益が著しく現れるというお不動さんを紹介され、毎日その前で祈ることにしました。ところが、いくら祈っても、自分の思いが届きません。本当の神であったら来るはずの平安が、いっこうに感じられませんでした。そこでそのお不動さんに、こう祈ったのです。「あなたには、わたしの願いが届きません。あなたでは、だめです。あなたの背後にあり、しかもわたしを造り、天地を造られた神に、わたしの思いを伝えてください。」

それからしばらくして教会に行くようになりました。そしてそこで天地を造られたまことの神さまに出会いました。すると、それまでの、死んで自分の何もかも消滅させたいと思っていた自己否定感が無くなり、生きることに積極的になりました。主の愛と臨在を感じ、不思議な平安が心を覆うようになったからです。それだけでなく、死んだのちも神とともにある永遠のいのちをいただくわけですから、死も恐れなくなりました。(P14)

皆さん、お不動さんではだめです。お不動さんはあなたを救うことはできません。あなたを救うことができるのは、あなたの救い主イエス・キリストだけです。この方以外には、だれによっても救いはありません。この方だけが、あなたを救うことができる大いなる方、他に並ぶものはないのです。

Ⅱ.主はまことの神(8-10)

次に8~10節をご覧ください。まず、8~9節をお読みします。「8 彼らはみな間抜けであり、愚かなことをする。空しい神々の訓戒──それは木にすぎない。9 銀箔はタルシシュから、金はウファズから運ばれる。これは木工と金細工人の手のわざ。これらの衣は青色と紫色、すべて名匠の作。」

エレミヤは、偶像を造りそれを拝む者がいかに間抜けであり、愚かであるかを語ります。「タルシシュ」は、今のスペインの南部にある町です。鉱物が採掘できるところです。そして「ウファズ」は、どこなのかはっきりわかりません。アラビヤのどこかではないかと考えられています。いずれにせよ、そこからは金が採掘されました。衣は、青色や紫色に染められた鮮やかな色彩で、ここには「名匠の作」とあります。そうですね芸術的、美術的に見れば、高度なものがたくさんあります。日本のお寺などでも芸術作品としては見事です。けれども、その礼拝対象はあくまでも木なのです。外国から運ばれて来た金銀を、木の上にかぶせたにすぎません。そこにはいのちがありません。

しかし、まことの神はそうではありません。10節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。「しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その御怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。」

しかし、皆さん、主はまことの神です。「生ける神」であり、「とこしえの王」であられます。見た目では金箔や銀箔がかぶせられ、芸術的も美術的にもすばらしいものでも、木にすぎないいのちのないものと違って、生きておられる神なのです。これがまことの神、わたしたちの主であられます。それなのに、人間は弱いですね。見た目に騙されてしまいます。見た目が豪華だと、中身もすごいものだと錯覚してしまうのです。聖書は、そんな彼らは間抜けであり、愚かであると断言します。

絶滅の危機に瀕しているアホウドリを救うために、伊豆諸島のある島に、木で作った「おとりのアホウドリ」が100個、設置されました。そこにアホウドリを集め、繁殖を促そうとしたのです。

デコいうあだ名のついた5歳の鳥は、2年間も「おとりのアホウドリ」に求愛し続けました。デコは見事な巣を作り、競争相手を追い払い、涙ぐましい努力を続けました。観察者の報告では、彼は1日中「おとりのアホウドリ」のそばを離れなかったそうです。研究員の佐藤文男氏は、デコの求愛についてこう語りました。

「この鳥は、本物のアホウドリには全く関心を示さないんですよ。」

偶像に目が奪われる人もこのアホウドリのようです。彼らは、本当の神には全く関心を示さないで、もの言わぬ偶像に求愛しているのですから。

あなたはどうでしょうか。本物の神には関心を示さないで、もの言わぬ偶像に求愛しているということはないでしょうか。しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの神です。あなたが求愛すべき方は、生けるまことの神なのです。

Ⅲ.天と地を造られた方(11-13)

第三の対比は、11~13節にあります。11節をお読みします。「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる』と。」

これは、非常に興味深い節です。これを語っておられるのは神様です。まことの神様が、そうでない神々を拝んでいるすべての民に語っているのです。おもしろいことに、ここには※があります。欄外を見るとここに、「この節はアラム語で記されている」とあります。アラム語はアッシリヤ帝国の言葉で、その後バビロニア帝国でも使われるようになります。そして、当時の世界の共通語として使われるようになりました。イスラエルの民は、バビロン捕囚によってバビロンに70年間とらえられますが、その間にこのアラム語を使うことが強要されました。ですから、新約時代になってもこのアラム語がよく使われていたのです。イエス様もアラム語も使われました。「アバ父よ」の「アバ」はアラム語です。でも、どうしてここだけアラム語が使われているのでしょうか。おそらく、イスラエルに対してだけでなく、すべての国民に宣言することを意図しておられたからではないかと思います。外国人にはわからないので、外国人でもわかる世界共通語のアラム後で語られたのです。それは、この日本に住んでいる私たちも例外ではありません。私たちの住むこの国は八百万の神を拝んでいます。しかし、それはまことの神ではありません。あれも神、これも神、たぶん神、きっと神と、すべてを神にして拝んでいるわけですが、そうしたものは神ではあり得ないのです。なぜなら、まことの神は人の手によって造られたものではなく、この天と地を造られたお方だからです。天と地を造らなかったものは、地からも、天からも滅びてしまうことになります。それは何も手でこしらえたものだけのことではありません。あなたが神様以上に愛しているものがあるならば、神様以上に大切にしているものがあるならば、それがあなたの偶像となります。ですから、そうしたものも、地からも天からも滅びてしまうことになるのです。神様はそのことを全世界の人々に宣言するかのように、特に、八百万の神々を拝んでいる私たち日本人にもわかるように、アラム語で語られたのです。

12~13節をご覧ください。それに対して、まことの神はどのようなお方なのかが語られています。「12 主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。13 主の御声に、天では水のざわめきが起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、ご自分の倉から風を出される。」

皆さん、まことの神はどのようなお方でしょうか。偶像は天と地を造らなかった神々で、人の手によって造られたものですが、まことの神は、この天と地を創造された方です。そして、今も雨を降らせ、わたしたちの生活を守っておられるお方なのです。

今年も世界中で猛暑が続き、干ばつの災害のニュースがネットやテレビを騒がせました。「記録的」とか「過去最高」、「いままで経験したことのない」といったフレーズを、頻繁に聞くようになりました。いったいどうしてこうした干ばつが起こるのでしょうか。どうして記録的な猛暑になるのでしょうか。さまざまな要因がありますが、その中でも最も大きな原因の一つが、人間活動による温室効果ガスの影響で地球の平均気温が上昇していることがあげられています。地球温暖化です。神様が造られたこの世界を、人間が破壊しているのです。いったいこの先どうなるのでしょうか。神様が天と地を創造され、神様がこれを守っておられるのに、そこに住む人間がこれをぶち壊しているのです。この天地を造られた方ではなく、そうでないものを拝むようになってしまったからです。いわば、これは人間の罪が引き起こしている結果なのです。

Ⅳ.万軍の主(14-16)

第四の比較は、14~16節にあります。14~15節には、偶像の特徴についてこのようにあります。「14 すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。15 それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。」

偶像には息がありません。それは偽りの神なのです。それを造る者も、それに信頼する者も、ともに恥を見るようになります。

それに対してまことの神は、16節にあるように、万物を創る方、万軍の主です。ここで注目していただきたいのは、「ヤコブの受ける分はこのようなものではない。」という言葉です。これはイスラエルが受ける分のことです。神の民イスラエルが受ける分は、そのようなものではありません。ヤコブの受ける分はどのようなものでしょうか。ここには「イスラエルは主のゆずりの民」とあります。これはちょっとわかりづらいですね。下の欄外の説明には「ゆずり」とは「相続」のこと、「民」とは「部族」のこととあります。これはどういうことかというと、イスラエルは主ご自身の民であるということです。イスラエルが相続するのは神ご自身であるということなのです。これほどすばらしい相続はありません。私たちは一等地の広い土地と建物を相続できたらどんなにすばらしいものかと思うかもしれませんが、イスラエルが相続するものはそんなものではないのです。もっとすばらしいもの、それはこの世が与えるものとは比べようのないものなのです。それは天の御国です。神ご自身です。それを相続することができるということです。この世が与える恩恵とは比較のしようがありません。それは超自然的な恵みです。その恵みの究極が、神のひとり子イエス・キリストご自身なのです。神様はそれを与えてくださるのです。主イエスと比べたら、この世のものはすべて色あせてしまいます。パウロは、それらは「ちりあくた」だと言ったほどです。イエス・キリストこそ、まことの神から賜った世界最高の、最上のギフトなのです。この以上の恵みは他にないということです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

これは、他の宗教では得られない恵みです。まことの神を信じない者には体験できない、到達しえない恵みなのです。これがヤコブの分け前、私たちが相続するものなのです。

それなのに、人はどうして、まことの神と偶像の違いに気が付かないのでしょうか。それは、この世の神が不信者の目におおいをかけているからです。この世の神とは悪魔のことです。このことについてパウロはこう言っています。「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)

ですから私たちは、私たちの心の目が開かれ、まことの神がどのような方であるかを知り、この神の偉大さをほめたたえなければなりません。私たちはいのちに満ちた生けるまことの神を信頼して生きるのか、それとも、人間の造った偶像を頼って生きるのかを選ばなければならないのです。私たちの前にはこの二者択一が置かれているのです。それによってあなたの道が、あなたの生き方が、あなたのライフスタイルが決まります。このどちらかを選ばなければならないのです。

イエス様は「だれも二人の主人に仕えることはでません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて、他方を軽んじることになるからです。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)と言われました。神と富とに仕えることはできません。この「富」を、「偶像」に置き換えてもいいと思います。まことの神と偶像に仕えることはできません。

でも、残念ながら神の民イスラエルは、この選択に失敗しました。まことの神を選べばいいのに、よりにもよって、偶像を選んでしまったのです。その結果、滅びてしまうことになってしまいました。バビロンという国の捕囚の民となってしまったのです。

あなたは偶像か、まことの神か、どちらを選びますか。このイスラエルの民のようにならないために、私たちはしっかりとまことの神を選びましょう。そして、この世では得られない神の恵みと祝福を味わいたいと思います。