Ⅱ列王記1章

 

 

 

 列王記第二の学びに入ります。今日は1章から学びます。

 Ⅰ.アハズヤの病気(1-4)

まず、1~4節までをご覧ください。「1 アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた。2 アハズヤは、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ」と命じた。3 そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。4 それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そこでエリヤは出て行った。」

前回、Ⅰ列王記の最後の章を学びましたが、その中で北イスラエルの王アハブが死んだことを学びました。それは、主が語られたことばのとおりでした。そのアハブの死後、北イスラエルを治めたのはアハブの子のアハズヤでした。アハズヤについては、Ⅰ列王記22章51節から53節までに記録されてあるので、本来であればそれに続けた方が良かったのですが、ここでプッリツと切れた形になっています。それは、もともと列王記第一と第二は、ヘブル語聖書では一つの書でしたが、それが15世紀になってギリシャ語聖書ややラテン語聖書の影響を受けてここで分割してしまったからです。でも元々は一つになっています。ではなぜここで分割してしまったのか。おそらく同じ大きさの巻物に均一に治めるためだったのでしょう。もしⅠ列王記22章50節かⅠ列王記1章18節で分割されていたら、アハズヤの治世をその途中で二つに分けるという不自然さはなかったかと思われます。

ですから、1節に「アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた」とありますが、この記述も唐突に感じるのです。本来ならⅠ列王記22章53節とⅡ列王記1章1節はつながっているからです。

かつてモアブはイスラエルを支配していましたが、ダビデによって征服されました。その後一時的に独立した期間もありましたが、オムリとアハブの時代に再び制圧されていました。その結果、モアブはイスラエルに多額の税を納めるようになっていましたが、アハブが死んでアハズヤの時代になったとき、モアブはイスラエルに背いたのです。それは彼らが、アハブよりもアハズヤが弱い王であると判断したからでしょう。もしかすると、アハズヤが欄干から落ちて重体に陥ったことも関係していたかもしれません。このように考えるとつながりが見えてきます。

彼は、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体になりました。「欄干」とは、バルコニーの手すりのことです。おそらく彼は、屋上に設置してあったバルコニーから落ちて地面にたたきつけられたのでしょう。彼は相当の傷を負ったものと思われます。それで彼はどうしたかというと、使者たちを遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに、この病が治るかどうか伺いを立てました。エクロンとは、サマリアから南西に65㎞ほど離れたペリシテ人の町です。なぜアハズヤはイスラエルの神ではなく「バアル・ゼブブ」に癒しを求めたのでしょうか。

このエクロンの神「バアル・ゼブブ」の、本当の名前は「バアル・ゼブル」です。意味は「命の主」です。しかし、ユダヤ人たちはその名を揶揄して「バアル・ゼブブ」と呼びました。その意味は「(はえ)の主」です。イエス様の時代には、この偶像神がサタンの象徴となっていました。それが「ベルゼブル」です。それはサタンを指していました。ここでアハズヤはこのエクロンの神「バアル・ゼブル」に癒しと助けを求めたのです。

それは、前回学んだⅠ列王記22章52~53節に、彼の生涯について「52 彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させた、ネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。53 彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行ったのと全く同じように行って、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」とあったように、彼は父アハブの影響を受け、バアル礼拝に深くかかわっていたからです。ですから、いざという時に彼が求めたのはイスラエルの神、主ではなく、このバアル・ゼブルだったのです。また、それまでに主の預言者たちが偶像礼拝の罪を糾弾していたことも、主に伺いを立てることを躊躇させていたのかもしれません。いずれにせよ、彼はイスラエルの神、主ではなく、エクロンの神バアル・ゼブブに伺いを立てました。

そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに現れて、こう告げました。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」

かつて、アハブがナボテのぶどう畑を奪い取りに行こうとしたとき、エリヤに主のことばがあったように(Ⅰ列王記21:17)、アハズヤの悪に対しても、主がエリヤに告げられたのです。それは、アハズヤの偶像礼拝に対する裁きは死であるということでした。彼はその寝台から起き上がることはできません。必ず死ぬことになります。これが主の使いがエリヤに告げたことでした。それでエリヤは出て行きました。

それにしても、「アハズヤ」という名前は「主が支えてくださるもの」という意味です。しかし、彼は「主」ではなく「バアル・ゼブブ」を求めました。バアル・ゼブブをはじめ、偶像には私たちを救う力はありません。それは田んぼの中のかかしにすぎません。そんなものに頼るのは愚かなことです。私たちの救いは主から来ます。詩篇121篇3~8節には、次のようにあります。
「3 主はあなたの足をよろけさせずあなたを守る方はまどろむこともない。4 見よ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。5主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。6 昼も日があなたを打つことはなく夜も月があなたを打つことはない。7 主はすべてのわざわいからあなたを守りあなたのたましいを守られる。8 主はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえまでも守られる。」

私たちの救い、私たちの助け、私たちの癒しは主から来ます。主が私たちを支えてくださると信じ、主にのみ信頼しましょう。

Ⅱ.天から下って来た火(5-10)

次に5~10節をご覧ください。「5 使者たちがアハズヤのもとに戻って来たので、彼は「なぜおまえたちは帰って来たのか」と彼らに尋ねた。6 彼らは答えた。「ある人が私たちに会いに上って来て言いました。『自分たちを遣わした王のところに帰って、彼にこう告げなさい。主はこう言われる。あなたが人を遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」7 アハズヤは彼らに尋ねた。「おまえたちに会いに上って来て、そんなことを告げたのはどんな男か。」8 彼らが「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。9 そこでアハズヤは、五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂に座っていた。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」10 エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。」

アハズヤは、使者たちが予定よりも早く帰ってきたので驚き、その理由を尋ねます。「なぜおまえたちは帰って来たのか。」すると使者たちは答えました。「ある人が私たちに会いに上って来て言いました。『自分たちを遣わした王のところに帰って、彼にこう告げなさい。主はこう言われる。あなたが人を遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」(6)

それを聞いたアハズヤは、その男はどんな人だったかと尋ねると、彼らは、「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えました。それを聞いたアハズヤはすぐにピンときました。「それはティシュベ人エリヤだ」と。毛皮を来て、腰に皮の帯を締めていたのは、イスラエルに悔い改めを説いた預言者の姿でした。エリヤはアハズヤの父と母であるアハブとイゼベルに悔い改めを説いてきた主の預言者でした。

そこでアハズヤはエリヤを捉えようと、50人隊の長を、その部下50人とともにエリヤのところに遣わしました。するとエリヤは山の頂に座っていましたが、隊長は彼に何と言いましたか?「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」と言いました。何とも優しい言葉ですね。日本語では優しく訳していますが、実際は違います。実際には命令調でした。「王の命令だ。すぐに降りて来い」といったニュアンスです。

するとエリヤは彼に答えてこう言いました。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」するとそのようになりました。天から火が下って来て、彼とその部下50人を焼き尽くしたのです。

興味深いのは、50人隊の長が、「王の命令だ、下りて来い」と言った「下りてこい」と、「天から火が下りてきた」の「下りてきた」が同じ言葉であることです。英語はどちらもcome downという言葉です。王の全権を携えている使者が、神の全権を携えている預言者によって、さばかれているのです。天から火が下ったのは、カルメル山で天から火が下って来たのと同じ奇跡が起こったということです(Ⅰ列王18:20-40)。

つまり、アハズヤが従うべきお方はバアル・ゼブブではなく、イスラエルの神、主であるということです。それは私たちにも言えることです。私たちが従うべきお方は、イエス・キリストの父なる神のみです。自分が今何に頼っているかをもう一度吟味しましょう。

Ⅲ.アハズヤの死(11-18)

最後に11~18節をご覧ください。「11 王はまた、もう一人の五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王がこう言われます。急いで下りて来てください。」12 エリヤは彼らに答えた。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。 13 王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。14 ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」15主の使いがエリヤに「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼と一緒に王のところに下って行き、16 王に言った。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」17 王は、エリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。そしてヨラムが代わって王となった。それはユダの王ヨシャファテの子ヨラムの第二年のことであった。アハズヤには息子がいなかったからである。18 アハズヤが行ったその他の事柄、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。」

アハズヤは再びエリヤのもとに部隊を遣わします。もう一人の50人隊の長を、その部下50人とともにエリヤのところに遣わしたのです。ただ前回と違うことは、今回はさらに「急いで下りて来てください」と言っている点です。前回よりももっと強く言っています。でも結果は同じでした。50人隊の長とその部下50人は、天から下って来た神の火によって焼き尽くされてしまいました。

それでアハズヤはまた50人隊長と、その部下50人を遣わしました。これで3回目です。しかし、この3人目の50人隊の長はそれまでの長と違い、エリヤの前にひざまずくと、懇願してこう言いました。13節です。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」

彼はエリヤが神の人であることを認め、恵みが与えられるように懇願したのです。それゆえ、彼と50人の部下のいのちが助かりました。これは私たちにも言えることです。私たちのいのちが助けられるのは、私たちがただ謙遜になって、主の前にひれ伏し、「私のいのちを助けてください」と懇願することによってのみなのです。

この時、主の使いがエリヤに「彼といっしょに降りていけ。彼を恐れてはならない。」と言われたので、エリヤは立って、彼と一緒にアハズヤのところに下って行き、臆することなく、主のことばを伝えました。16節です。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」

すごいですね。アハズヤ王を目の前にして、彼の不信仰を責め、死のさばきを宣告したのですから。すると、エリヤが告げた主のことばのとおりに、アハズヤは死にました。主が語られたことは必ず成就します。カルメル山の戦いの後、エリヤの信仰は揺らいでいましたが、ここでは完全に立ち直っています。エリヤの信仰を支えた主は、私たちの信仰も支えてくださいます。

アハズヤの死後、ヨラムが代わって王となりました。アハズヤには息子がいなかったからです。アハズヤに対する神の裁きは、息子がいなかったことにも表れています。その治世も2年間と短いものでした。それは彼が主の目に悪であることを行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させた、ネバテの子ヤロブアムの道に歩んだからです。そして、イスラエルの神、主ではなく、エクロンの神バアル・ゼブブに、仕え、それを拝み、イスラエルの神、主の怒りを引き起こしたからです。つまり、「アハズヤ」(主が支えてくださるもの)ではなかったからです。この教訓から学びましょう。私たちは偶像ではなく主にのみ仕え、主にささえていただくものとなりたいと思います。