「主を待ち望め」 N012
はじめに
アラムとエフライムが攻めてくるという報告を聞いたアハズ王の心は、林の木々が揺れるように動揺した。それで主はイザヤを通して「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。」と言われたが、彼はそりことばを信じることができなかった。そしてアッシリヤに助けを求めた。しかし、今度はそのアッシリヤによって苦しめられることになる。本当の解決は、主を待ち望むことである。
Ⅰ.神がともにおられる(1-10)
主はイザヤにもう一人の男の子を与えた。「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」だ。意味は、「略奪者はすみやかに来る」である。これはユダに対するしるしであった。その通りに、アッシリヤが速やかにやって来てアラムとエフライムを滅ぼし、彼らの財宝を略奪していった。しかし、事はそれだけでは終わらなかった。今度はユダにまで襲いかかって来たのだ。それは彼らがゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにしたからである。それゆえ、主は水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれされた。シロアハの水とは、エルサレムの町の外にあったギホンの泉からエルサレムに流れていた川のことである。全長は533メートルあったが、高低差はわずか2メートルしかなかったので、とてもゆるやかに流れていた。あまりにもゆるやかだったので、人の目には目立たなかった。しかし、それがどんなに目立たない水であっても彼らにとってはなくてはならないいのちの水である。それをないがしろにしたので、今度は逆に水かさの多いユーフラテス川の水(アッシリヤ)を、彼らの上にあふれされるのだ。私たちが目を留めなければならないのは人間の目で目立つ派手な行動や活動ではなく、このシロアハの水だったのである。
しかし、そのようなユダに対して、主は慰めの言葉を語る。「インマヌエル。その広げた翼はあなたの国いっぱいに広がる。」(8)アッシリヤがどんなに押し寄せて来ても、インマヌエルの神がともにおられ、その翼を広げて守ってくださるというのだ。実際にこれがヒゼキヤの時代に起こる。アッシリヤの王セナケリブがユダのすべての城壁のある町々を攻め取り、陥落する寸前にまで追い込んだ。しかし、主の奇跡的な介入によって一晩に十八万五千人のアッシリヤ軍が滅ぼされ、ユダは守られた。神がともにおられたからである。インマヌエルの神が、その翼を広げて守ってくださったのだ。
Ⅱ.神が聖所となられる(11-15)
アハズと祭司ウリヤに主の言葉をストレートに語ることを恐れていたイザヤに、主はこのように仰せられた。「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。」(13,14)それは、ユダとイスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩になる。多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれる。しかし、主に信頼する者は守られる。主が聖所となって、守ってくださるからだ。
ゆえに「このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」(16)これは御言葉を心にたくわえよということである。なぜ霊媒や、さえずり、ささやき、口寄せに尋ねなければならないのか?自分の神に尋ねなければならない。教えとあかしに尋ねなければならないのだ。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。苦難とやみ、苦悩と暗やみ、暗黒と追放が覆うようになる。神のみことばがないと、私たちの人生は暗くなってしまう。
Ⅲ.主を待ち望め(17-18)
ここに、イザヤの力強い信仰の宣言が見られる。「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。」(17)イザヤが置かれていた状況は、主が御顔を隠しておられるかのようであった。主がおられるなら、アラムとエフライム、あるいはアッシリヤに攻められるといった状況を許されるであろか?しかし、そうした中で彼は、主を待つ、と言った。この方に望みをかけると言ったのだ。これが信仰である。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものである。そうでない時に主を待ち望むことは簡単なことではない。しかし、隠れた所で見ておられる私たちの父なる神が、その信仰を見ておられ、報いてくださるのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたが目を留めているのは何ですか?この世の派手な活動ですか?それともゆるやかに流れているシロアハの水ですか?
・あなたは何に尋ねていますか?何に望みをかけていますか?あなたにとって神を待ち望むとは、どういうことですか?