「ヤコブに落ちた主のことば」 N014
はじめに
これまでイザヤはユダに対して神のことばを語ってきたが、このところでは北イスラエルに対して語っている。その中心は、「なおも、御手は伸ばされている」ということである。北イスラエルにはこれまでも何人かの預言者がみことばを語ってきたが、彼らはそのことばを受け入れなかった。そういう彼らに、神の怒りの御手が伸ばされているのである。
Ⅰ.その敵たちをあおりたてる(9:8-12)
まず神は、その敵たちをあおりたてる。ここには「レツィンに仇する者たちをのし上がらせる」とある。これはアッシリヤのことである。そればかりではない。一緒になってユダを攻めたアラムからも攻撃されることになる。なぜ?それは彼らが神ではなく他のものに頼んだからだ。神以外のものに頼ると、結局のところ、それによって苦しめられてしまうことになる。これがイスラエルの生活のパターンであった。
Ⅱ.かしらも尾も、切り取られる(13-17)
イスラエルは敵たちにあおられても主を求めなかった。そこで主は、イスラエルからかしらも尾も切り取られた。かしらとは長老や身分の高い者、尾とは偽りを教える預言者たちのことである。つまり、霊的・精神的指導者のことである。そういう指導者たちを切り取られるというのだ。たった一日のうちに、素早く。それは彼らが偽りを教えて民を惑わし、誤った道に導いていたからである。注意しないと、私たちも偽りを教える預言者になりかねない。キリストの福音ではなく別の福音を教えてしまうことがある。聞いている人に合わせて、そういう人たちに受け入れられる温かいことば、優しいことばだけを語ろうという誘惑に陥ることがある。こうした偽りを教える預言者は切り取られてしまう。それは預言者だけでなく教会も同じ。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合のよいことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3,4)神のことばを神のことばとして教え、語っていく。今の時代も、このことが求められている。
Ⅲ.互いにいたわり合わない(18-21)
それだけではない。ここには「だれも互いにいたわり合わない」(19)とある。人々はみな自分のことだけを考えて行動するようになるのである。その結果、右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べるようになる。それほどに飢えるのである。ガラテヤ5:15には、霊的な意味での共食いについて語られている。肉の力で生きようとすると、かみ合ったり、食い合ったりするようになる。なぜなら、霊的にお腹が満たされていないから。だから、霊的に栄養失調になると、キリストにある仲間をさばいたり、引き落としたり、かんだりといったことが起こってくるのだ。霊的にいのちをいただき、霊的に満たされていることがどれほど重要であるかがわかる。
Ⅳ.助けと救いはキリストにあり(10:1-4)
それだけではない。遠くからあらしが来るとき、どこにも逃げ場が無くなる。嵐とはアッシリヤのことである。そうした嵐が押し寄せてくるとき、いったいだれに助けを求めるのか?どこに自分の栄光を保つのか?どこにもない。助けと救いの道はただ一つ。十字架にかかって死なれたイエス・キリストである。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9)神の怒りの御手がどんな伸ばされていても、イエス・キリストにある者はその怒りから救われるのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたが頼っているものは何ですか?神ですか?それとも神以外のものですか?
・あなたは神のことばを自分に都合がいいように、気ままな願いをもってみことばを聞いていることはありませんか。どのような心で神のことばを求めていますか?
・あなたは霊的に満たされていますか?霊的に飢えて主にある兄弟姉妹をさばいたり、批判したりしていませんか?
・あなたは、イエス・キリストを信じていますか?神の怒りがどんなに伸ばされていても、この怒りから救われる道にいますか?