「朝が来ない夜はない」 N028
Ⅰ.神にはえこひいきがない(1-10)
「海の荒野」とはバビロンのことである。バビロンに対するさばきについて既に13章と14章で語られたが、ここで再び語られている。難攻不落と言われたバビロンが、メディヤとペルシャの連合軍によって一夜にして滅んだ。それは見るにたえない、聞くにたえないものであった。神に敵対する者は、やがて必ず滅ぼされることになる。
ところでここには、イスラエルに対して「踏みにじられた私の民、内ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。」(10節)とある。このことはバビロンやイスラエルの周辺諸国に対してだけ言われていることではない。神の民であるイスラエル自身も聞かなければならないことなのである。自分たちは神に選ばれた聖なる民だから大丈夫だ。自分たちには関係がないと思ってはならない。彼らは周辺諸国と何ら変わらない者だということを自覚し、注意して神のメッセージを聞かなければならないのだ。
ローマ2章11節には、「神にはえこひいきなどはないからです。」とある。神の民だから何をしてもいいということではない。たとえ神の民であっても真理に従わないで不義に従うなら、その人には神の怒りと憤りが下る。また逆に、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、善を行うすべての人の上に栄光と誉れと平和があるのである。
Ⅱ.朝が来ない夜はない(11-12)
ドマに対する宣告である。ドマとはエドムのことであり、エサウの子孫にあたる。そのドマに対して主は、「セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」と言われた。今は夜の何時か、というのである。夜とはアッシリヤの侵攻のことである。あの大帝国に呑み込まれてしまう。もうお先真っ暗だ。もう先がない。夜が来る。あといつになったら夜が明けるのかというのだ。朝が来ても、また必ず夜がやって来る。それはこの世の常だ。この夜とはアッシリヤの攻撃であり、バビロンの攻撃のことである。せっかく朝が来ても、また夜が来る。この世は間違いなく夜に向かって進んでいる。完全に真っ暗になる暗闇が近づいているのだ。
しかし、クリスチャンはそのような暗闇にあっても希望を持つことができる。それは主イエスの再臨である。やがてイエスが私たちを迎えに来るために戻って来られる。その時私たちは栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになる。目の涙もすっかりぬぐい取ってくださる。それこそクリスチャンの救いが完成する時である。ノンクリスチャンには荒唐無稽なことであろう。けれども、クリスチャンにとっては希望の朝だ。この夜がどんなに暗くても、必ず朝がやって来るという希望を持つことができるのである。
Ⅲ.主に身を避けて(13-17)
だから、私たちは主に身を避けなければならない。ここには、アラビヤに対する宣告が記されてある。テマの地の住民に、デダンの人の隊商に水をやれというのだ。テマもデダンもアラビヤにあった町である。テマとデダンは、直線距離にして130㎞しか離れていなかった。なのに一方は難民となり、一方は難民の援助者になる。その違いはいったいどこにあるのか。「水」である。この二つの町はどちらも沙漠の中にあったが、テマには豊かな地下水が流れていた。それでその町はオアシスであったのだ。同じ沙漠にある町でも、テマには彼らの渇きをいやすための十分な水があったのだ。
主イエスは言われた。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)
キリストこそ真の隠れ家であり、この方に身を避けるなら、私たちの中に、生ける水の川が流れ出るようになる。この世がどんな暗くなっても、この方がその暗闇を照らしてくださる。朝が来ない夜はない。キリストこそこの時代を生きる希望であり、力なのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたの中に、自分はクリスチャンだから大丈夫だという思い込みはありませんか。あなたが悔い改めなければならないことは何ですか。
・あなたにとっての暗闇は何ですか。その暗闇の中をどのように歩んでいましたか。暗闇を照らす光であるキリストの再臨を待ち望みましょう。