「必要なのは神」 N029
Ⅰ.騒がしい町エルサレム(1-4)
「幻の谷」に対する宣告である。「幻の谷」とはエルサレムのことである。彼らは屋根に上ってドンチャン騒ぎをしていた。状況は決してそのようなものではなかった。アッシリヤが攻めてくるなか、国が滅ぼされる危機にあった。彼らは自分たちの罪を悔い改めなければならなかったのに、全く逆の軽率な行動を取っていたのだ。それゆえに彼らは仲間同士で争い、結局、バビロンに捕らえ移されることになってしまった。それは彼らが神のことを考えずに、自分のことしか考えていなかったからである。彼らは本来、神の民として主の幻を受け止め、主の御前にひれ伏さなければならなかったのに、世の楽しみに心が奪われていた。たとえ神に選ばれた民であってもこの世の人のように生きるなら、そのような人には神のさばきが下る。「神にはえこひいきなどないからです。」(ローマ2:11)ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、患難と苦悩とは悪を行うすべての人の上にあり、栄光と誉れと平和は、善を行うすべての人の上にある。
Ⅱ.必要なのは神(5-11)
アッシリヤがやって来てエルサレムを包囲したとき、ユダはどのように対応したか。「こうしてユダのおおいは除かれ、その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。」(8節)彼らは主ではなく武器に目を向けた。そればかりできない。「おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。」(9節)ユダの王ヒゼキヤは、アッシリヤが攻めて来たとき水源を断たれたら終わりだと、水路を作って水を確保した。「また、エルサレムの家を数え、その家をこわして城壁を補強し」(10節)とあるように、城壁を強固にした。確かに、敵の攻撃に備えあらゆる防御策を講じることは大切なことだが、彼らは最も大切なことをしなかった。それは、主に目を留めることである。彼らは武器や水や城壁を造られた方に目を留めず、昔からこれを計画された方に目を向けなかった。彼らにとって必要だったのはこの方に目を留め、へりくだって祈ることだったのだ。彼らは神に頼ったのではなく、あくまでも自分たちの知恵や方法、力に頼ったのである。
Ⅲ.神の呼びかけ(12-14)
それゆえに、主は「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ」と言われる。主は彼らが悔い改め、神に立ち返るようにと呼びかけられる。なのに彼らは全く逆の態度を取った。「どうせ、あすは死ぬのだから」と、開き直って、「飲めよ、食らえよ」と最後まで自分たちの快楽を求めた。
これが神を信じない人たちの姿である。そういう人たちにとっては、この世がすべてだ。この世に生きている間に楽しめるものを楽しまなければならないと考えるのだ。けれども、クリスチャンには復活の希望、永遠のいのちの希望がある。この世だけでは終わらない。死んでも生きる。そう信じている。そしてそのような信仰は、私たちの日々の生活を決定づける。たとえこの世にあって毎日が死の連続であっても、いつかキリストにあってよみがえり、天の御国で大いなる報いをいただくことができるという希望があるのだ。人は死んだら灰になり、何も残らないのではない。そこに確かな希望がある。だからこそ私たちは、その希望につながる生き方を、今この世にあってするのだ。その生き方こそ、目には見えなくとも今も生きて私たちを守り、導いておられる神に目を留め、神のみこころにかなった歩みをすることなのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたは、神のみことばを聞いてそれが主のみこころと受け止め、へりくだって従っているでしょうか。それとも自分の思いを最優先にしてはいないでしょうか。
・あなたの生活に困難なことが起こるとき、あなたはそれをどのように解決しようとしていますか。自分の力で解決を図ってはいませんか。神の前にへりくだり、「神様助けてください」と祈り求めましょう。
・あなたの中には「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」といった思いはありませんか。あなたは永遠のいのちの希望を日々の生活の中でどのように告白していますか。