「神のしもべとして」 N030
Ⅰ.自分を高くする者は低くされる(15-19)
前回に引き続き、エルサレムに対する警告である。ここに二人の人物が登場する。一人はシェブナであり、もう一つはエルヤキムである。まずシェブナに対して主は次のように仰せられた。「あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。」(16)彼は自分の栄誉を残そうとした。この時ユダはアッシリヤに四方八方囲まれ危機的な状況にあったが、それでも彼は自分のためにゴージャスな墓を建てようとしていたのだ。それゆえに主は、シェブナをわしづかみにし、遠くに投げやると言われた。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を高くする者は高くされる。」(マタイ23:12)のである。
Ⅱ.忠実な神のしもべ(20-23)
一方、エルヤキムはそうではなかった。エルヤキムに対して主は、シェブナに与えられていた権威と高い地位をゆだねると言われた。いったいどうしてだろうか。それはここに「わたしのしもべ」とあるように、神のしもべとして自分に与えられた立場を忠実に貫いたからである。エルヤキムは政府の要職にありながらも、神の御前にへりくだっていたのだ。
主イエスは「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなしもべになりなさい。」(マルコ10:44)と言われた。これが神の国の原則である。主イエスが来られたのも仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、多くの人たちのための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためだった。
シェブナは自分の立場を利用して自らに栄光を帰そうとしたが、エルヤキムは逆に神のしもべとして、自分に与えられた役割を忠実に担った。だから彼は高くされ、用いられたのである。
ところで22節には、エルヤキムに与えられた栄誉がどれほどすばらしいものであったかがわかる。「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」これは、彼に最終的な決定権がゆだねられるということだ。黙示録3章7節をみると、これが主イエス・キリストがご自分を紹介する時に用いたことばであることがわかる。そう、エルヤキムはイエス・キリストのひな型(象徴)として描かれていたのだ。主はフィラデルフィヤの教会の前に、だれも閉じることのできない門を開いておくと言われた。これは御国の門のことである。それは彼らがたとえ少数であっても、主のことばを守り、主の名を否まなかったからである。教会の真価は外観や人数ではない。そこに主のみことばに従うという真実な信仰があるかどうかだ。主のみことばに忠実であること、それが信仰生活の基本であり、天の御国に通じる門である。
Ⅲ.神のみに信頼する(24-24)
しかし、そんなエルヤキムであっても、彼の上にあらゆるものがかけられると、その釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていたすべての荷が壊れてしまう。それは彼が神ではなく人であるからだ。けれども、私たちの主イエス・キリストはそのようではない。これはキリストの十字架を予見して語られていることだが、そこに一つだけ違いがある。それはエルヤキムの釘が壁にかけられていたことだ。それがどんなに確かな釘であっても壁にかけられたものである以上折れてしまうのは明白である。しかし、私たちの主イエスは十字架にかけられて死なれたが三日目によみがえられた。この方が死に繋がれていることなどあり得ないからだ。この方こそ死に打ち勝たれた勝利者である。この方に信頼するなら決して失望させられることはない。神のみが完全な方であり、その地位を確かにしてくださる。それが神のしもべの姿なのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・あなたの中に自分の名を残したいという思いはありませんか。あるいは神よりも自分のことを求めてしまうといった思いはありませんか。
・あなたは自分に与えられた務めを、仕える者の心で謙遜に、誠実に行っていますか。主があなたの奉仕をご覧になられるとき、何と仰せになられますか。