イザヤ36:1-22 レジュメ

「敵の攻撃を受ける時」                          N050

Ⅰ.恐れない(1-10) 

ここから39章までこのイザヤ書前半の締めくくりとして、イザヤの時代に実際に起こった歴史的な事実が取り上げられている。アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。そして彼の片腕であった将軍ラブ・シャケに大軍をつけて、ヒゼキヤのところへ送った。降伏を迫るためである。ラプ・シャケはこう叫んだ。「いったい、おまえたちは何に拠り頼んでいるのか。」(4)エジプトに信頼したって無駄である。彼らの毛布は短すぎて、何の役にも立たない。では、「われわれの神、主に拠り頼む」というのか。そんな主など、ヒゼキヤがその高きところと祭壇を取り除いてしまったではないか。それなのに「この祭壇に向かって拝め」というのはおかしいだろう。そう言ってユダを混乱させようとしたのだ。(7)しかし、これは明らかにラプ・シャケの誤解である。ヒゼキヤは主の祭壇を取り除いたりはしなかった。彼が取り除いたのは偶像の祭壇であって、異教の神々であった。ヒゼキヤはそうした偶像を取り除き、まことの神だけに礼拝をささげるようにと命じたのを、何を勘違いしたのか、ラブ・シャケはそのように思い込んでいたのだ。それはラブ・シャケの背後に悪の力、サタンの力が働いていたからである。神の敵である悪魔がイスラエルを滅ぼそうと混乱させ、してもいないことを、言ってもいないことを、あたかもやっているかのように平気でうそぶいていたのである。これがサタンの仕業である。

そればかりではない。ラブ・シャケは圧倒的な軍事力の差を見せつけ、神に信頼したって無駄であること、そんな神を拝んでも何にもならないと言い切った。(8-9)さらに10節を見ると、こうして彼らがユダを滅ぼすために上ってきたのは、主のみこころによると言っている。主の名を使ってまでうそぶくのである。これが悪魔の常套手段である。何と巧みな策略であろう。

こうした敵の巧みな攻撃に対してヒゼキヤに遣わされた三人の高官たちは、間違った対処をしてしまった。彼らはラブ・シャケにヘブル語で話さないでアラム語で話してくださいと頼んだ。ユダの民がこれを聞いて意気消沈することを恐れたからである。その結果、逆にラプ・シャケに弱みを握られ、ラブ・シャケはヒゼキヤのしもべたちの頼みを一蹴し、もっと大きな声で、だれにでもわかるヘブル語で叫び続けることになってしまった。このように敵に取り囲まれるとき敵であるサタンを甘くみてはいけないが、過度に恐れる必要もない。たとえ敵が、あたなの弱みにつけこんで攻撃してきても、その脅かしにおびえたり、恐れたりせずに、主の御名によって大胆に立ち向かっていかなければならない。

 Ⅱ.信仰に高く立って(13-17)

大声で叫ぶラブ・シャケのことばに、エルサレムの住民の中には少なからず動揺した人もいたであろう。そんな彼らにラブ・シャケがたたみかけるかのように語ったことばは、さらに彼らの心を引きつける内容であった。彼は、もしアッシリヤの王と和を結ぶなら、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、自分の井戸から水を飲むことができると言った。(16)彼らに甘いことばをかけ、巧みに誘導したのだ。かつて主イエスが四十日四十夜断食した後で荒野に導かれた時もそうだった。敵である悪魔はイエスに、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」(マタイ4:3)と言って、イエスを誘惑した。サタンはいつもあなたが苦しい時に甘いことばを持ちかけ、あなたをたぶらかそうとする。しかし、そのような時こそ信仰に堅く立たなければならないのである。

Ⅲ.ただ黙って、主を待ち望む(18-22) 

敵である悪魔は、さらにたたみかけるようにユダの民に叫び続ける。ヒゼキヤが、主が自分たちを救い出してくれると言っているがそんなことは絶対にないと、理路整然に訴えた。見てみなさい。これまでどの国の神々が、アッシリヤの王の手から救い出すことができただろう。どの神もできなかった。それはイスラエルの神も然りである。決してできない。

しかし、その時人々はどのように応答したか?彼らは黙って、一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである。(21)これはとても賢い対応であった。私たちはよく沈黙すべき時に沈黙することができず失敗したり、不利益を被ってしまうことがある。敵の攻撃に対していちいち耳を傾ける必要はない。一番いい方法は沈黙することである。ただ黙って一言も答えず、全く相手にしないのがいい。相手にするから問題になる。(エバのように)相手にしなければ、敵はあなたから離れていくことになる。あなたがすべきことは、ただ黙って神を待ち望むこと(詩篇62:1-2,8)である。救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐらである。神に信頼し、神に心を注ぎだして祈れば、決してゆるがされることはない。これが敵の攻撃を受ける時に私たちが取るべき最善の策なのである。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは今、敵のどのような攻撃を受けていますか?その攻撃にあなたはどのように対処していますか?恐れていませんか?あなたが今、しなければならないことはどんなことですか?

・敵の甘いことばで信仰がゆらいでいませんか?あなたが接している友人は信仰を強めてくれる人ですか?それとも逆に信仰を失わせる人ですか?

・沈黙すべき時に沈黙することができずに、失敗したことがありますか?あなたは敵の予想外の攻撃に対してどのように対応しますか?