イザヤ38:9-22 レジュメ

「生と死を支えるもの」                         N055

Ⅰ.ヒゼキヤの嘆き(10-16) 

ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた時、涙を流して必死に祈った。その結果、主はヒゼキヤをあわれんでその病をいやしてくださった。その病気から回復したとき、彼はそのことを思い出して言った。「私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は、私の残りの年を失ってしまった。」(10)まさに人生で一番脂がのった時に死の宣告を受けた彼は、自分のみじめさを嘆いたのである。いったいなぜ彼はこんなにも落ち込んだのか?それは、復活の希望がぼんやりしていたからである。確かに旧約の時代にも復活についての言及はあった(詩篇49:15,ダニエル12:2)が、あまりはっきりしていなかった。それがはっきりしたのはいつかというと、イエス・キリストが来られて十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた時である。イエスが死ら復活したので、この方を信じる者はみな死んでも復活して永遠のいのちが与えられることがわかった(Ⅱコリント5:1)。このことを信じている私たちは、たとえ死に直面するようなことがあっても神に感謝することができる。たとえ心が騒ぐようなことがあっても揺るがされることなく、堅く信仰に立って、いつも主のみわざに励むことができる。結局のところ、私たちの生と死を支えるものは、この十字架と復活の信仰なのである。

 Ⅱ.ヒゼキヤの賛美(17-20)

このように十字架と復活の信仰を持っている者は、主への賛美と感謝に溢れている。「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。」(17)と言うことができる。それが主の摂理と主権によって行われたことであり、それは神のすばらしさを学ぶレッスンだったと受け止めることができるのである。

9歳で集団赤痢にかかり、それが原因で脳性マヒになった水野源三さんは、生涯首から下が全く動かず、瞬きだけで自分の意志を伝えた。12歳の時に聖書に触れ、13歳で洗礼に導かれ、47歳で天国に召されるまで、瞬きだけで詩を書いた。その詩の中に「キリストを知るため」という詩がある。

「病に倒れたその時には 涙を流して悲しんだが  霊の病いやしたもうキリストを知るためだとわかり  喜びと感謝に変わりました

友にそむかれた時には  夜も眠れずに恨んだが  永遠に変わらない友なる  キリストを知るためだとわか

り喜びと感謝に変わりました  過ち犯したその時には  心を乱して悔やんだが すべてをば償いたもう

キリストを知るためだとわかり 喜びと感謝に変わりました」

すべてはキリストを知るためであったとわかるとき、私たちの心にも神への感謝と賛美が溢れる。あなたのためにひとり子イエス・キリストのいのちさえも惜しまずにささげてくださった神は、あなたのために働いてあなたを救ってくださる。その信仰があなたを支え、あなたを賛美と感謝の生涯へと導いてくれるのである。

Ⅲ.いやすのは神(21-22) 

主はヒゼキヤの信仰に答え、彼の病を癒してくださった。「イザヤは言った。ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上に塗りつけなさい。そうすれば直ります。」(21)ヒゼキヤの病気をいやすために、主は干しいちじくを用いられた。主が全能者であられるならば、わざわざこのような方法を用いなくてもいやすことができはずなのに、主はあえていちじくを持って来させ、それを腫物の上に塗りつけるようにさせたのはどうしてか?それは、ヒゼキヤから信仰を引き出すためである。聖書を見ると、主はたびたびこのような方法を用いていやしておられる。どのような方法を用いるかは実にさまざまであるが、忘れてはならないことはどのような方法を用いるにせよ、いやされるのは神であるということだ。医学が人をいやすのではない。薬が人をいやすのでもない。いやされるのは主である。主はある時には医療を用いて、またある時はぶどう酒を用いていやされることがあるが、いやされるのは主ご自身なのであって、この方がいやしてくださると信じて祈ることが重要である。

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは復活の希望を持っていますか?あなたはキリストの贖いによって救われていますか?

・あなたは今どんなことで苦しんでいますか?その苦しみをあなたはどのように受け止めていましたか?それがキリストを知るためであったと受け止め、感謝していますか?

・あなたは、主がどんな病も癒すことができると信じていますか?あなたはその主に何を求めますか?