「主のことばはありがたい」 N056
Ⅰ.高慢になったヒゼキヤ(1-4)
前半のクライマックスの部分である。ヒゼキヤが病気から回復すると、バビロンの王メロダク・バルアダンは使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。するとヒゼキヤはそれを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、またいっさいの武器庫に至まで、すべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤが見せなかった物は一つもなかった。このことが原因で、やがて南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされてしまうことになる。15年も寿命を延ばしてもらったヒゼキヤだったが、彼はその15年の間に、取り返してのつかない過ちを犯してしまった。いたいなぜ彼はこのような愚かなことをしてしまったのだろうか。それは、彼の心が高ぶったからである。彼は自分の富と力を誇りたかった。彼がほんとうに見せなければならなかったのは生きて働かれる主の御業だったのに、バビロンの王から贈られた贈り物を見て興奮し、自分の権力と、自分の栄華を誇示してしまったのである。
人は往々にしてこのような傾向がある。神の恵みに感謝するよりも、自分を誇示しがちなのである。病気がいやされたり、家庭が崩壊の危機から回復したりすると主の恵みに感謝するよりも、自分の手柄を誇ろうとする。ヒゼキヤはアッシリヤの王たちの脅迫によって信仰が弱くなるのではないかという危険があったが、本当の危険はそうした困難に勝利した後にもたらされる人からの称賛という甘い蜜であった。「ですから、立っていると思う物は、倒れないように気をつけなさい。」(Iコリント10:13)いつも慎み深く、謙遜でなければならない。
Ⅱ.すべてがバビロンへ(5-7)
このヒゼキヤの過ちよって、主はイザヤを通して語られた。「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる。」(5)これは、この時から115年後のB.C.586年に起こるバビロン捕囚の預言である。バビロンの王ネブカデネザルによってエルサレムは陥落し、そこにあったすべてのものが略奪され、エルサレムの人たちはバビロンへと連行される。それはヒゼキヤが神ではなく自分の栄光を求めたからである。もし彼が神に信頼し、神に助けを求めたのであれば、エルサレムが滅ぼされることはなかった。しかし、彼は神ではなく自分のことしか考えなかったので、神はエルサレムにあったすべてのものをバビロンへ運び去ったのである。
Ⅲ.それでもあきらめないで(8)
しかし、それですべてが終わりではない。ヒゼキヤはイザヤが語ったことばに対して、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」と言った。彼はこの神のさばきを招くようになったのは自分のせいであることを認め、その高ぶりを捨ててへりくだった(Ⅱ歴代32:26)のである。それで主の怒りはヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。ヒゼキヤはそうした失敗からも学び、それを悔い改めてへりくだった。それがこのヒゼキヤのことばに現れているのである。かつての彼はそうではなかった。彼が39歳の時死の宣告を受けた時は、「死にたくない。死にたくない」の一点張りだった。すべてがみこころのままにとは言えなかったのである。ところがこの時は、たとえそれが神のさばきの宣告であっても、「主のことばはありがたい。」と受け入れることができた。それは彼が失敗を通して学んだからである。すべてが神の恵みである・・・と。神のみこころがベストであり、それに従うことが最大の祝福なのだ・・・と。だから、このように言うことができたのである。
年を取ってからでも罪を犯すことがある。人生の晩年を迎えても過ちを犯し、神のさばきを招くことがある。けれども、大切なのはそこから学ぶことである。神は、私たちがもう一度信仰に立つことができるようにチャンスを与えてくださる。だからあきらめないで、主にすがっていただきたい。私たちは何歳になっても「工事中」である。しかし、主はそのような者を変えてくださり、やがて完全にし、堅くし、強くしてくださる。その神の約束に信頼し、何度でも立ち上がらせていただきたい。その結果が、「主のことばはありがたい。」なのである。生きることはキリスト。死ぬこともまた益なり。それは失敗から学んだ人の確信であり、ヒゼキヤの信仰だったのである。
まとめ(自分に適用してみましょう!)
・大きな喜びの後に軽率な行動で苦しみを招いたことがありますか?
・ヒゼキヤは自分の失敗を通して、「すべてはき主の恵み」と受け止めることができるようになりました。あなたがなかなか受け入れられないで苦しんでいることは何ですか?あなたがすべてを神にゆだねるために必要なことは何ですか?