「偶像はむなしい」 N067
Ⅰ.なぜ偶像を造るのか(9-11)
44章前半のところでイザヤは、まことの神とはどのような方なのかについて語った。この方以外に神はない。なのに、人は偶像を造り、それを拝む。いったい、人はなぜ何の役にも立たない偶像を造るのだろうか?「偶像」とは「切り刻んだもの」である。人は自分がイメージしたものを具現化する。その方がイメージしやすいからである。コロサイ3:5には、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とある。つまり偶像とは人間の欲望を具現化したものなのだ。ゆえに偶像礼拝に陥る危険性はクリスチャンにもある。出エジプト20:3には、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」とあるが、まことの神以外のものを神にしてしまうことがある。神よりも仕事を優先したり、家のこと、車のこと、健康のこと、勉強のこと、趣味のことを優先にするなら、それは偶像礼拝である。かつてマルチン・ルターは「人は常に神か、さもなくば偶像を持つ」と言った。人は常に神か、偶像を持つ者なのである。自分の欲望を具現化したものが偶像であるなら、我々はいつもこの偶像を造ってしまう危険性があることを覚えておかなければならない。
Ⅱ.偶像を拝むとどのようになるか(12-17)
人は偶像を拝むとどうなってしまうのだろうか?ここには彼らが神として拝んでいる偶像がどのようなものであり、それを拝むとどうなるかが記されてある。つまり、いくら彼らが「私を救ってください。あなたは私の神だから。」(17)と叫んでも、救ってくれなければ、助けてもくれない。ただむなしさだけが残る。それだけではない。詩篇115:8には、「これを造る者もみな、これと同じである。」とある。つまり、偶像を拝み、偶像に仕えると、偶像のようになってしまう。逆に、まことの神を拝み、まことの神に仕えるなら、神と同じようになる。栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。偶像礼拝の恐ろしさはここにある。あなたが何を拝むのかによって、あなたもそのようになる。ゆえにまことの神を信じ、神に仕えること、神を礼拝し、神と交わることはとても重要である。日曜日の礼拝はすばらしい恵みであり、祝福なのである。もちろん、日曜礼拝だけではない。日常的に神を礼拝すること、神と交わることが重要である。そのことによって私たちも神のように変えられるのだから。
Ⅲ.どうしたら偶像から解放されるか(18-20)
最後に、どうしたら偶像から解放されるかを見て終わりたい。18節には「彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。」とある。彼らは、偶像に魅了されて、それが偶像だということを悟れないほど霊的に麻痺している。いったいどうしたら偶像から解放されることができるのか?神のみことばに照らし合わせて考えなければならない。自分の考えや自分の判断ではなく、日々神と交わり、神の力を受けなければならない。
Iサムエル5:1-5のところに、神の箱がペリシテに奪われ、ペリシテの神ダゴンの神殿に安置されたことが記されてある。その翌日、彼らが朝早くおきて見ると、何とダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。つまり、主の臨在があると偶像は自然に倒れるということである。それは自分の力では追い出すことはできないが、自分のダゴン神殿の中に神の臨在を運び入れるなら出て行く。もしあなたが神以外のものを神よりも優先すればあなたのダゴンはスッと立ち上がり、あなたの前に立ちはだかるが、日々神と交わり、神の臨在に満たされていれば、ダゴンは倒れる。神の救いに与った者としてむなしい偶像から生けるまことの神に立ち返らなければならない。そのために必要なことは、あなたが神を信じ、この神との交わりに生きること、神の臨在に満たされることなのである。
(自分に適用してみましょう!)
・あなたは神以外のものを神よりも優先していることはないですか?あなたの偶像は何ですか?
・あなたは神のようになるために、神とどのように交わっていますか?