「バビロンの滅亡」 N072
Ⅰ.わたしは復讐する(1-4)
主はバビロンに、「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。」(1a)と言われた。なぜなら、「もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。」(1b)彼らはひき臼を取って粉をひく女奴隷になる。難攻不落と言われバビロンが滅びるという預言である。いったい何が問題だったのか。主はこう言われる。「わたしは復讐する。だれひとり容赦しない。」(3)神は復讐する神である。神はその人の行いに応じて正しくさばかれる。神がバビロンをこのようにされるのは、彼らの悪のゆえである。神の民であるイスラエルを苦しめ、自らが神であるかのように高ぶった。それが問題であった。それはバビロンだけの問題ではない。もし私たちが神に対して罪を犯すなら、そのことも神は正しくさばかれる。神はえこひいきすることはないからである。
しかし、クリスチャンは何も恐れる必要はない。なぜなら、私たちが御子イエス・キリストを信じた瞬間に、神のさばきの対象ではなくなったからである。キリストが十字架にかかってくださり、私たちの罪、咎のすべてを受けてくださったので、私たちの罪は完全に赦され、罪がない者とみなされたのだ。だから、神は復讐すると言っても、だれひとり容赦しないと言っても、びくともする必要はない。あなたの罪はもう赦されたのである。
Ⅱ.あくまでも道具にすぎない(5-6)
ここでもバビロンに、「黙ってすわり、やみに入れ」と言われる。バビロンはもう、「王国の女王と呼ばれることはないからだ。」(5)いったい何が問題だったのか。「わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどい重いくびきを負わせた。」(6)つまり、イスラエルは神に背いたので、そんな彼らを懲らしめるために彼らをバビロンの手に渡したのに、バビロンは彼らをあわれむことをせず、イスラエルに重いくびきを負わせた。彼らは神に背いたイスラエルを懲らしめるための単なる道具にすぎなかったのに、その立場を逸脱して、傲慢にも、行きすぎたことをしてしまった。それが問題だったのである。
それはバビロンだけの問題ではない。私たちの中にもバビロンのような傾向がある。自分の感情にまかせてついつい言い過ぎてしまったり、度が過ぎたりすることがある。あわれみに欠けることがある。私たちは自分が単なる道具にすぎない者であることをわきまえ、その道具としての役割に徹する者でなければならない。
Ⅲ.高慢は滅びに先立つ(7)
バビロンのもう一つの問題は、自分たちがいつまでも続くと考えたことである。これは完全な高慢である。もし終わりことを思うことがあったとしたら、少しは思いとどまることができたかもしれない。しかし、彼らはそんなことは微塵も考えず、高慢になってやりたい放題だった。あわれみに欠け、行きすぎても、やりすぎても全くお構いなしで、快楽にふけり、安逸をむさぼった。そのような高慢を神はさばかれたのである。聖書に、「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:2)また、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)とある。高ぶると祝福を失う。私たちの人生の中で、身を低くすることは大切なことである。身を低くして、へりくだったら必ず祝福される。そのような信仰の歩みを共にしていこう。
(自分に適用してみましょう!)
・あなたは神の怒りの対象ですか。それとも罪ゆるされて、神の愛の対象となっていますか。
・あなたは、自分の立場を忘れて行きすぎていること、やりすぎていること、度が過ぎたことはしていませんか。どのような時にそのような傾向がありますか。
・あなたの中に高慢な思いはないですか。自分の終わりのことを思い、自分のなすべきことをただ淡々と、へりくだってしていますか。