イザヤ50:1-11 レジュメ

「神である主が私を助ける」                    N078

Ⅰ.イスラエルの錯覚(1-3) 

イスラエルは、自分たちがバビロンの捕囚になったのを神のせいにして恨んでいた。ちょうど夫が離婚を宣言し、妻を追い出したように、また父親が借金のために子どもを借金取りに売り渡したように、神が自分たちを見捨ててしまったと考えていたのである。それに対して主は、「あなたがたの母の離婚状は、どこにあるのか」「その債権者は誰なのか」と言われた。つまり、主が離別したというのなら、その証拠を見せなさい、主が彼らを奴隷の子として売ったというのなら、誰に売ったのかを告げてみよ、というのだ。主はそのようなことは絶対になさらない。なぜなら、主は真実な方だから。主は永遠の愛をもって彼らを愛してくださった。だから、どんなことがあっても彼らを見捨てることはなさらない。

では問題はどこにあったのか。「見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。」(1)問題は彼らの罪にあった。彼らは、主がいくら預言者を遣わして警告を与えても、それに答えようとしなかった。信仰がなかったからである。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのでもない。イスラエルの咎が神との仕切りとなり、イスラエルの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしていたのだ。

何か難しい問題が起こったとき、それをだれか他の人のせいにしたり、神のせいにして恨んだりしていることはないだろうか。それは神のせいでも、他の人のせいでもない。それは自分の罪のせいである。大切なのはその罪を認め、悔い改めて、神に立ち返ることである。それが解決の第一歩となる。

Ⅱ.神である主が、私を助ける(4-9)

ここに第三のしもべの歌が記されてある。いったい神はどのように救ってくださるのか。それはしもべの苦難を通してである。「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばをかけられても、私の顔を隠さなかった。」(5-6)これが主のしもべの姿である。いったい彼はどのようにして苦難の中にも耐えることができのだろうか。それは、「神である主が、私を助ける。」(7,9)という確信があったからである。それゆえに、どんなに激しい苦難にあってもその苦難を正面から受け止め、自分に与えられた使命に向かって進んで行くことが出来たのである。

それは神のしもべである私たちも同じだ。私たちの人生にもさまざまな困難な出来事が起こる。しかし、神である主が私を助けてくださるという確信があれば、いかなる困難も恐れることなく、あらゆる侮辱や恥にも耐えることができる。

Ⅲ.神により頼め(10-11)

だから結論は、神により頼めということ。「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聴き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神により頼め。」(10)私たちには、このしもべを遣わされた真の神、主に対してどのような態度を取らなければならないのかという決断が迫られる。道は二つ。一つは、主を恐れ、そのしもべの声に従う道である。それは光のない暗やみの中を歩む時にも主の御名に信頼し、神により頼む道である。もう一つは、それとは反対に、しもべの声に聞き従わないで、自分の考えや自分の力によって歩む道である。主に信頼して歩む道は、たとえその道が真っ暗闇であったとしても、主が助けてくださるので必ず勝利が与えられるが、自分の光はそうではない。やがて苦しみのうちに伏倒れてしまうことになる。

イエスは言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)主のしもべイエスが世の光である。彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。この方を信じて、この方に聞き従うこと、それが私たちの人生の勝利なのである。たとえ道は険しく、苦しくとも、神である主は、あなたを助ける、との御声を聞いて、神の愛に気づき、神の助けを確信しながら歩んでいきたい。

(自分に適用してみましょう!)

・何か難しい問題が起こる時、あなたはどのような態度を取っていますか。

・困難の中で、「神である主は、私を助ける」という確信を保っていますか。