ローマ人への手紙6章1~14節 「キリストとともに生きる」

きょうは「キリストとともに生きる」というタイトルでお話したいと思います。パウロは1~5章までのところで、イエス・キリストを信じる信仰による義について語ってきました。すなわち、すべての人は罪人なので神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、値なしに義と認められるということです。しかし、きょうのところから新しいテーマに入ります。それは、信仰によって義と認められた人はどのように歩まなければならないか、いわゆる聖化についてです。

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、罪が増し加わるところに恵みも満ちあふれるのであるならば、そのままずっと罪の中にとどまっているべきかということについてです。絶対にそんなことはありません。第二のことは、その理由です。どうして罪にとどまるべきではないのでしょうか。なぜなら、クリスチャンはキリストにつぎ合わされた者だからです。第三のことは、ではどうしたらいのでしょうか。自分の手足を不義の器として罪にささげるのではなく、義の器として神にささげなさいということてす。

Ⅰ.恵みが増し加わるために罪の中にとどまるべきか?(1-2a)

まず第一に、恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきかということについ見ていきたいと思います。1,2節をご覧ください。

「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」

パウロは5章の後半のところで罪にもまさる神の恵みについて語りましたが、そこに一つの大きな誤解が生じました。罪が増し加わるところに恵みも満ちあふれならば、私たちは罪の中にずっととどまっているべきかという疑問です。これは5章20節でパウロが語ったことを間違って理解したことによって生じた誤解でした。パウロは5章20節で、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言いましたが、すると中には、それではその恵みが満ちあふれるために、もっと罪を犯して、恵みが増し加わるようにしたらいいんじゃないかという考える人たちが出てきたのです。これはとんでもない誤解です。本末転倒とはこのことです。パウロが言いたかったことはそういうことではありませでした。彼が言いたかったことは、どんなに大きな罪でもその罪に打ち勝てない恵みはなく、神の恵みは罪の力にまさるほど大きなものであるということです。私たちの罪がどんなに大きく、根深いもので、世の人々から見捨てられるうなものだとしも、神の恵みはそれ以上なのです。神の恵みの十字架のあがないにとって、赦すことのできない罪はありません。たとえ私たちが人を殺してしまったとしても、人様に迷惑をかけてしまうようなことがあったとしても、人間的に見たらこんなことは赦されないのではないかと思うような罪でも、神は赦すことができるのです。神の恵みはそれほどに大きいのです。十字架の恵みは、そのような罪を覆ってあまりあるほどです。どんなに大きな罪に支配されていたとしても、神の恵みの川かわ押し寄せてくると、すべてがたやすく変えられていくのです。

それなのに彼らは、パウロが言わんとしていたことを曲解していました。自分たちに都合がいいように解釈していたのです。今でも、彼らのようにこのみことばを誤解し、悪用する人たちがいます。神様の恵みの祝福を論争の種にしようとするのです。1節にあるように、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」とめちゃくちゃなことを言う人がいるのです。罪が多いところには恵みも増し加わるのだから、たくさん恵まれるために、もっとたくさん悪いことをしようと言う人がいるのです。それは大きな誤解です。こうした誤解は、聖書が語っている強調点を誤ってとらえていることに起因するものです。    たとえば、ローマ・カトリック教会は長い間、天動説を支持してきました。なぜなら、ヨシュア記10章に記されてある事件を誤って理解したからです。ヨシュア記10章12,13節に、「主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。」とありますが、ここでヨシュアが太陽に向かって「太陽よ、止まれ」と命じたら、まる一日太陽が動かなかったということから、やっぱりい動いているのは太陽であって地球ではないと主張し、そのように主張した人(地動説)たちを処刑したり殺したりしたのです。ガリレオのような学者たちには強制的に天動説を支持させたりしました。「それでも地球は、まわっている」という彼の言葉は有名です。  いったいこうした過ちはどこから生じたのでしょうか?聖書の間違った解釈からです。聖書が本当に言わんとしている強調点、すなわち、その柱となるメッセージに従って理解しなかったことです。この箇所は、もともともともと地動説か天動説かを主張している箇所ではありません。神様の力によって明るい昼がずっと続き、その戦いが自分たちに有利に動くようにというヨシュアの祈りに神様が答えてくださり、エモリ人を絶滅させることができたという奇跡を記録しているのです。ですから、この聖句をもって地動説か天動説かを議論すること自体が全くナンセンスなのです。

恵みが増し加わるために、罪の中にとどまっているべきではないかと主張していた人たちの問題はここにありました。彼らはパウロが言っていた神の恵みの大きさを全く理解していなかったどころか、それを悪用して自分たちに都合のいいよに受け止めようとしたのです。そんな彼らの主張に対して、パウロは何と言っているでしょうか。「絶対にそんなことはありません。」断じてそういうことはないのです。神の恵みが増し加わるために、ずっと罪にとどまるべきであるという考えはおかしいのであり、間違っているのです。

Ⅱ.クリスチャンはキリストにつぎ合わされた者(2b-11)

なぜそれが間違っていると言えるのでしょうか。ですから第二のことはその理由です。クリスチャンはなぜ罪の中にとどまるべきではないのでしょうか?パウロはその理由をその後のところで語っています。2節の後半の部分をご覧ください。

「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」

「罪に対して死んだ私たち」とはどういう意味でしょうか。ある人たちはその後に続く、「どうして、なおもその中に生きていられるでしょうか」という言葉から、クリスチャンは罪の力、罪の影響力から完全に解放されていると考えています。すなわち、クリスチャンは罪を犯すことのない完全な者にされたというのですが、そういうことではありません。11節には、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思いなさい。」とありますから、クリスチャンはこのような完全主義、つまり、全く罪を犯さない存在になったということではないのです。ではこれはどういう意味でしょうか。3~5節までをご覧ください。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちあ、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」

ここでパウロは、「あなたがたは知らないのですか」と言っています。それはどういうことを表しているかというと、クリスチャンならば当然知っているはずの常識的なことを知っているのかということです。神の恵みが増し加わるために、もっと罪の中にどまっていようというのは、その常識的なことをちゃん理解していないからだと言うわけです。ではその常識的なこととは何でしょうか。それは、クリスチャンとはどのような存在であるかということです。いわゆる、クリスチャンのアイデンティティーの問題です。そしてここでパウロが言っていることは、それは一言で言うなら、クリスチャンとはイエス・キリストにつぎ合わされた存在であるということです。キリストとつぎ合わされて一つとされた存在であるということです。イエス様と同じように考え、同じように歩み、同じ原理原則で生きる者であるということです。それはこの3~8節の中に、「キリスト・イエスにつく」とか、「キリストとともに」、「キリストにつぎ合わされて」という表現が6回も出ていることからもわかります。いわば、私たちは小さなキリストなのです。私たちはキリストとつぎ合わされて一つにされたがゆえに、キリストと同じようになり、同じような体験をするようになったのです。どういう体験でしょうか。十字架と復活です。6、7節には、

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」

とあります。はは~ん、これですね。罪に対して死んだ・・・・というのは。キリストとつぎ合わされ、キリストと同じようにされた私たちはまず、キリストと同じように、十字架の死を味わいます。イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)と言われました。私たちの人生にはそれぞれ、負わなければならない十字架がありす。迫害や苦痛があるのです。イエス様がこの地上を歩まれたとき、ある人たちはイエス様に向かって「ベルゼブルにとりつかれている」、つまり「悪魔に取り憑かれている」言いましたが、同じようなことをクリスチャンに向かって言うことでしょう。イエス様を信じるがゆえに、この世で私たちが迫害や苦しみを受けるのは、少しも不思議なことではないのです。問題はそのような時に私たちがどのような態度を取るかです。イエス様につぎ合わされてイエス様と同じようにされたのなら、イエス様のように十字架を負っていかなければなりません。なぜなら、イエス様とともに十字架につけられたとき、私たちの罪のからだが滅びて、罪から解放されたからです。もう罪に対しては死んでしまったのです。この「罪のからだが滅びて」の「滅びて」という言葉は、「使い物にならない」「無力である」という意味です。たとえば、車を買って運転しようとしても、エンジンが壊れていたとしたら使い物にはなりません。それでも車はまだそこにあるのです。同じように、イエス様とともに十字架にかかって死んだ私たちは古い自分に死んだのです。からだはまだそこにありますが、使い物にはならないのであって、以前のように使うべきではないということです。からだが死んでいるのであれば、そのようなことは、起こるはずはありません。私たちはもはや、罪の奴隷ではないのです。私たちはキリストが十字架にかかられて死なれたように、古い自分に死んだのです。しかし、キリストともに死んだのであれば、それは同時に、キリストとともに復活し、キリストとともに生きるということであもあります。なぜなら、私たちはキリストにつぎ合わされた者だからです。8~10節をご覧ください。

「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」

もしキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることでもあります。キリストとともに生きるとはどういうことでしょうか。それはキリストの力によって生きるということです。キリストの力によって生きるなら、もはや罪が支配しないのは当然です。キリストは死の力を打ち破って勝利された方であり、罪の大きさにもまさる恵みを注いでくださる方だからです。私たちの力では決して罪に勝つことができません。どれほど歯を食いしばっても、自分の力では無理なのです。「いや~自分は大丈夫。自分は罪に打ち勝てるし、勝ってみせる」という人は、罪の力がどれほど強力であるかを知らないからです。アルコールや麻薬で苦しんでいる人がそれを断ち切ろうとしても、自分の力では無理です。賭博をする人も自分の中に他の力が働いているのを感じています。やめたい、やめたいと思っていてもなかなかやめられないのはそのためです。うそをつく人も、悪口を言う人も、何か得体の知れない力にひかれてそうするのです。自分はやめたいと思っていても、ついつい言ってしまう。罪にはそれほどの力があるのです。 しかし、死からよみがえられたキリストは、その罪の力に完全に勝利することができるのです。いま、クリスチャンにはこの力が与えられています。どのように?聖霊によってです。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)とイエス様が言われたのは、この力のことだったのです。イエス様が復活された後に昇天されたのはこのためでした。イエス様は十字架につけられる前に、弟子たちのために次のように祈られました。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

この「助け主」こそ聖霊様です。キリストはこの聖霊様をとおして、いつまでも私たちとともにいてくださり、助けてくださいます。ですから、この聖霊が内住していることを知っているクリスチャンは、誘惑されて失敗することがあったとしても、必ずそれに打ち勝つことがきます。聖霊にはそれ以上の力があるからです。ですから、聖霊の力かあれば完全に罪に打ち勝つことができるのです。イエス様を信じると、今までお酒がおいしくてやめられないと思っていた人も、もうおいしくなくなり、罪の中に遊ぶことが大好きでやめられないという人も、そんなことがつまらないと感じるようになり、やめれない、やりたくないともがき苦しんでいた人が、その中から解放されるようになるのです。

パウロはイエス・キリストを信じるまでは、「私には、自分のしていることがわかりません。」と告白しています。「自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っていた」のです。「それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪」でした。その罪のゆえに、「善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない」「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行って」しまう。自分の内なる人は神の律法を喜んでいるのに、自分のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだしていたのです。彼は、自分が「ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と告白せざるを得ませんでした。しかし、この罪に打ち勝つ秘訣を知りました。それがイエス・キリストです。聖霊をとおして注がれるイエス・キリストの力です。ですから彼は、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言うことができたのです。(ローマ7:15~25)

「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い人は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

この聖霊の力と助けによってのみ、私たちは罪に勝つことができるのです。14節に、「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです」とあるとおりです。

Ⅲ.イエス・キリストにあって生きる(11-14)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、このキリストにあって生きましょうということです。11~14節をご覧ください。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」

ローマ人への手紙の中で、ここに初めて適用が記されてあります。これまではずっと信仰によって救われるという教理が語られてきましたが、ここにきてそうした教理の上に立って、具体的、実際的な適用が語られています。それは、自分が罪に対しては死んだ者であり、神に対しては、キリスト・イエスにあって生きている者であると思いなさいということです。ここで大切なのは、「思いなさい」という言葉です。このことばは「みなす」とか「認める」という意味の言葉です。そのことを強く意識いなければなりません。なぜなら、そこにキリストの十字架の死と復活という事実があり、そのキリストに私たちは結び合わされた者だからです。だからそのようにみなすことができるのです。それは決して私たちの信念や感情に基づくものではありません。私たちの信念や感情がどうであれ、神のみことばである聖書がそのように約束しておられるので、そのように信じて従うのです。それが信仰です。たとい私たちの心理状態がどうであれ、私たちの感情がどうであれ、それに従っていく、それが信仰です。

それは昔イスラエルがエジプトを出た時も同じでした。主は彼らにかもいと二本の門柱に小羊の血を塗るようにと命じられました。エジプト中の初子という初子を打つとき、主がそのしるしを見て、さばきを過ぎ越すためです。「そんなことをしたところでどんな意味があるのか」「わざわざそんなことをしなくてもいいではないか」と言う人もいたかもしれまん。しかし、誰がどう思い、どう感じようとも、神が言われたとおりに従った人だけが救われました。それは私たちも同じです。私たちに必要なのは、私たちがどう思い、どう感じるかということではなく、神様が言われたことに従うかどうかなのです。「思いなさい」というのはそういうことです。私たちはかつて罪と死の領域にいましたが、今はもうその中にはいません。今はもうキリストとともにいるのです。キリストともに天の領域、天の座に着いているのです。コロサイ人への手紙1章13節に、

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」

とあるとおりです。このことがわかると、私たちはもはや律法の下にはいなことになり、罪も死も支配することがなくなり、死に対する恐れから解放されることになるのです。

かつてアメリカで南北戦争が行われたことがありました。それは、奴隷解放をめぐっての戦いでした。この戦争の結果、奴隷解放を訴えていた北部が勝利し、奴隷が解放されることになりました。ところが、何人かの奴隷は、その自分たちの立場の変化がまだわからず、なおも奴隷のような生活に甘んじていたのです。しかし、その立場をよく理解した奴隷たちは、自由に行動することができました。ちょうどそれと同じように、自分がどのような立場に変化したのかをよく理解する時に、クリスチャンも真の自由人として行動することができるようになるのです。罪はもう二度と私たちを奴隷にすることはできせん。キリストとつぎ合わされたこによって、愛する御子のご支配の中に移されたのです。それが「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」という意味です。

それは、もう二度と罪を犯さないということではありません。常習的に罪を犯すことがないという意味です。罪の奴隷のように罪を犯すことかないということです。なぜなら、クリスチャンは罪の領域から解放されているからです。ですから、クリスチャンはたとい罪を犯すことがあったとしても、罪の領域から解放された者として罪を犯すのであって、罪の領域の中にあって、常習的に罪を犯すことはないのです。私たちは現実の生活の中では罪を犯すことのある弱い者ですが、しかし、もうすでにそうした罪の支配の中にはいないのです。ですからそのことをよく理解し、神の恵みの中で、キリストとともに生きる者でなければなりません。具体的には、私たちの手足を不義の器として罪の支配にゆだねた生き方ではなく、義の器として神にささげなければなりません。お酒に満ちていたカップを持っていた手が、聖書を持つ手に変えられ、汚い言葉を発していた口が、神を賛美し、福音を語る口になるように祈らなければなりません。ヤコブ書にかかれてあるように、賛美とのろいが同じ口から出るようなことがあってはならないのです。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせることがないように、あるいは、いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの水を同じ穴ならせたりすることがないように、賛美とのろいが同じ口から出ることがないようにしなけばなりません。キリストのご支配に移された人、聖霊がその内に住んでいる人、古い自分が死んだ人は、ガラテヤ5章24節にあるように、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲と欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」キリストにある新しい人として、勝利ある人生を歩ませていただきましょう。

世の終わりが近づいていることを感じる今、私たちは、心騒がせることなく、キリストにあって天の座に着かせていただけたことを喜び、感謝して、この世にあっては、ご聖霊の助けによって、ますます神のみこころに生きる者でありたいと思います。