ローマ人への手紙6章15~23節 「神の奴隷として生きる」

きょうは、「神の奴隷として生きる」というタイトルでお話したいと思います。23節のところに、「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり」とあります。もとは罪の奴隷でしたが、今は神の奴隷となったのですから、神の奴隷として生きなさいというのです。現代人は、「奴隷」ということばに違和感を感じます。奴隷というのは、何の自由もない、束縛された状態にある人のことを指しているのではないかと考えているからです。

しかし、聖書をみるとパウロは、自分が神の奴隷とされたこと、神の奴隷として生きるということに、言うことのできない喜びと、感謝と、誇りを持っていたことがわかります。パウロは他の人に比べて一番多くの書簡を聖書の中に残した人ですが、そのパウロは、自分が使徒であることを主張しなければならない時には、明確に、「キリスト・イエスの使徒パウロ」という言い方をしておりますが、そうでない時に彼が自分のことを表す際に用いた表現は、「キリストの奴隷」でした。自分はキリストの奴隷である・・・と。彼は、自分が使徒であることを主張しなくてもよい時には、いつもこの「キリストの奴隷パウロ」と書いたのです。

それはパウロばかりではありません。ペテロもヤコブもそうでした。たとえば、ペテロはイエス・キリストによって罪から解放され、自由にされた者として、「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(Iペテロ2:16)と言っています。ペテロはいつでも弟子たちの中で自分がナンバーワンでないと気が済まない性格の人間でした。おれがおれがと出しゃばりました。そのようなペテロが、イエス様の奴隷であることを喜びとし、光栄とし、感謝し、誇りとしていたのです。

パウロも同じでした。彼はもとは罪の奴隷でしたが、今は義の奴隷とされたことを感謝していると言いました。それはパウロばかりでなく、同じように罪の奴隷から解放された私たち一人ひとりのクリスチャンにも言えることです。

きょうは、この「神の奴隷として生きる」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、私たちは罪から解放されて、義の奴隷となったということについてです。第二のことは、そのように義の奴隷となったのであれば、義の奴隷として、清潔に進みなさいということです。そして第三のことは、その行き着くところです。罪の行き着くところは死です。しかし、神の奴隷として、清潔の行き着くところは永遠のいのちです。

Ⅰ.罪の奴隷から義の奴隷へ(15-18)

まず第一に、クリスチャンは罪の奴隷から解放されて、義の奴隷となったということを見ていきたいと思います。15~18節までのところですが、まず15節をご覧ください。

「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」

パウロは、6章1節からのところで、罪が増し加わるところに恵みがまし加わるのならば、罪の中にとどまっているべきかということに対して、絶対にそんなことはないと語ってきました。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおもその中に生きていられるだろうか。いられません。キリストにつぎ合わされて一つとされた私たちは、もはや罪の下にではなく、恵みの下にあるからです。では恵みのもとにあるなら罪を犯そうとなるのでしょうか。なりません。なぜでしょうか。パウロはその理由を15~18節までのところで述べているのですが、それは、クリスチャンというのは罪から解放されて、義の奴隷となったからです。

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」

ここには、クリスチャンとはどういう人なのかが示されています。そして、クリスチャンというのは罪から解放されて、神の奴隷となった者であるということです。クリスチャンは、もともと罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準、これは「福音」のことでありますが、この福音によって、罪から解放され、義の奴隷となったのです。義の奴隷とは何でしょうか。22節を見ると、ここには「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり」とありますから、これは神の奴隷のことであることがわかります。生まれながらの人間はだれもみな、罪の奴隷です。生まれながら神の奴隷であるという人はいません。またこのどちらでもない中立の立場という人もいません。みんな罪人であり、罪の奴隷なのです。そのように、罪の奴隷であった者たちが、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、神のものとされたのです。そのことについて、エペソ2章1節からのところで、次のように語られています。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―」(エペソ2:1~5)

また、Ⅰコリント6章20節には、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」ともあります。私たちは、イエス様の十字架という代価によって、買い取られたのです。イエス・キリストを信じる人は、皆、神様のもの、神様の所有となったのです。

現代人は、この「奴隷」ということばに引っかかります。奴隷というのは、自分の意志に反して、嫌でも何でもこき使われる。お金で売買されるというイメージがあるからです。罪から解放されて、神の奴隷になったということは、神に束縛される不自由な状態に置かれるのではないかと考えてしまうのです。この当時、ローマ帝国には600万人の奴隷がいたそうです。その中には主人に愛され、豊かな生活をしている奴隷もあったでしょうが、大部分の人は牛馬のようにこき使われ、牛馬のようにお金で取引されました。ことに船底で年がら年中オールで船を進めるために漕いでいたガロースレイプと言われる人たちは大変でした。疲れて少しでも休むと、金属の長いむちを持った人にビシッと打ちたたかれ、休む暇もなく、交代するまで漕いで、いつも船底の暗い所に生きていなければなりませんでした。

しかし、パウロが言っている神の奴隷というのは、決してそのような奴隷のことではありません。本当の意味での自由の中を生きる人のことでした。というのは、本当の自由というのは神にあるからです。昔、栄華を極めたソロモンは、「空の空。すべては空」(伝道者の書1:2)だと言いました。「日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(同1:3)と言ったのです。神を抜きにしたものは、たとい学問でも、快楽でも、事業も、芸術も、すべてむなしいのです。それらのものは、それなりに一時的な喜びや満足感や幸福感を与えてくれるかもしれませんが、それははかない罪の楽しみにすぎません。ですから、現代には、心に休らぎがないのです。今よりももっと良い暮らしを求めてせかせかと働き、その忙しさの中に、せめてもの楽しみをお酒や映画やテレビに求めても、それによって本当の安息は得られません。人によって流行を追い求め、現代を生きていると思い込んで満足しようとしますが、そのようなことで、私たちの心は満たされることはできないのです。神から離れ、キリストから離れた生活には、決して本当の自由と平安、喜びと満足はありません。イエス様は、「人の子は安息日の主です」(マルコ2:28)と言われましたが、イエス・キリストこそ真の安息であって、イエス・キリストにあってこそ真の自由を得られるのです。

それは罪が赦されて、罪から解放された自由です。もはや罪は私たちに何の所有権を持っていません。だれが私を訴えるのですか。だれが私を罪に定めるのですか。だれもいません。神のひとり子イエス・キリストが、私たちのために死んでくださり、そして今、よみがえって神の右の座に座して、私たちのためにとりなしていてくださいます。私たちはこのキリストにあって、罪のペナルティー、罪のさばきから全く解放されたのです。イエス様の十字架の贖いによって、ちょうど大海の底に沈め込まれたように、風によって雲や霧が吹き飛ばされたように、私たちの罪が全く取り去られ、もはや再びそれを覚えないと言うのです。天国に行ったとき、「あなたは、こういう罪を犯したなあ、ああいう事もやった。なんてひどい人生だった」とみんなから責められ、小さくなっていなければならなくても、神の右の座におられる方が、「父よ。この人を赦してください。この人の罪は、十字架で全く清められています」と、とりなしてくださるのです。私たちの人生に深く深く刻み込まれた罪が、イエス様の血潮によって洗い清められ、あたかも罪を犯さなかった者のようにしてくださるのです。それが義認ということです。私たちの人生で何が苦しいかって、罪を責められることほどつらいことはありません。多くの人が、この罪の呵責(Guilty consciousness)に苦しんでいるのです。しかし、イエス様はこの罪のさばきから、罪の傷跡から、罪の呵責から解放してくだいました。そればかりではありません。罪の力からも解放しくださいました。

ある人たちは、自分たちはそんな罪からの救いなど必要ないと言います。そんなものがなくても、十分りっぱな人格者として生きていくことができると言うのです。しかし、果たしてうでしょうか。自分は自由であり、主体性をもって毎日生きているし、人格者だと思っている人でも、いざという時にはそうではないのです。いざという時には、人は必ず利己的な考え方をし、利己的な行動をとるものです。それがこの罪の世の現実なのです。つまり、私たちは、何が正しいか、何が間違っているのかという判断を、自分の都合によってしているということです。ですから、どんなに自分でりっぱな人格者として生きていこうと思っていても、そこには限界がありますし、全く無力にすぎないのです。まして単なる考え方が変わるだけでなく、感情や道徳も含めて全人格的に変わることなどできるわけがないのです。人間は罪のゆえに全く無力にすぎません。しかし、福音には力があります。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(ローマ1:16)だからです。

このように、神の奴隷となったということは、罪の支配、罪の奴隷から解放され、真の自由と平安、喜びと満足を与えてくださる神の力、神の支配に生きるようにされたということです。いつでもどんな時でも神様の前に出て、自由にお祈りすることができますし、祈ったことは聞いていただける。慰めが必要な時には慰めが、励ましが必要な時には励ましが、赦しやきよめが必要な時には赦しやきよめが、導きが必要な時には導きが、忍耐が必要な時には忍耐が、愛が必要な時には愛が、知恵が必要な時には知恵が、全部私たちのものとして与えられるのです。それはむしろ、すばらしい特権なのです。

出エジプト記21章5~6節には、「しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」とあります。昔、イスラエルでは奴隷とされても6年後には解放されるという習わしがありましたが、中には奴隷がご主人様の愛を感じ、「自由になりたくない。あなたのそばにいて、一生涯、いつまでもあなた様に仕えたい。」と言うと、その人はずっと奴隷としていることができました。そのときには家の戸口の柱の所に連れて行かれ、その柱の前に立って、きりで耳に穴を開けられたといいます。それが自ら進んで奴隷となったしるしだったのです。そうまでしても奴隷でいたかった。まさに、神の奴隷であるということは、そうしたいと望むほどのすばらしい立場に変えられることなのです。

パウロは、ガラテヤ人への手紙の中で、「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びている」(6:17)と言いました。その焼き印とは、所有者の印です。牧場などに行ってみると、よく牛や馬の体に、所有者の焼き印が押されているのを見ることがありますが、パウロは、自分の身にはイエスの焼き印を帯びていて、自分はイエス様のもの、イエス様の所有であると告白したのでした。頭のてっぺんから足のつま先に至るまで、すべてあなたのものです、あなたの所有です、と告白したのです。私たちも同じです。私たちは罪から解放されて、神の奴隷となりました。私たちはイエス様の十字架の贖いによって、神に買い取られ、神の奴隷、義の奴隷とされたのです。

Ⅱ.神の奴隷として生きる(19)

第二のことは、そのように神によって買い取られ、神の奴隷とされたのであれば、その神の奴隷として生きましょうということです。19節をご覧ください。

「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」

このところでパウロは、そのように罪の奴隷から解放されて義の奴隷、神の奴隷となったのであれば、その手足を神の奴隷としてささげて、清潔に歩みなさいと勧めています。

ところで、パウロはこのところで、「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」と述べていますが、この「人間的な弱さ」とはいったいどういう意味でしょうか。もちろん、生まれながらの人間は、霊的には盲目ですから、そういう意味での弱さを持っていますが、ここでの「肉の弱さというのはそういうことではありません。ここでパウロが言っているところの「肉の弱さ」というのは、キリストを信じてすでに救われていながらも、霊的な理解力において持っている弱さのことです。ヘブル人への手紙5章12節には、

「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」

とありますが、そういう意味での弱さです。つまり、クリスチャンではあっても、まだ十分に霊的に成長していないため、霊的理解力に欠けている人々ということです。ですから、パウロはクリスチャンとは罪から解放されて義の奴隷となったということを理解できるように、こういう言い方をしているのです。こういう言い方とは何でしょうか。奴隷の例です。先程も申し上げましたように、人はだれも奴隷などにはなりたくありません。けれども、その奴隷の意味は違っても、私たちが罪から解放されて義とされたということは、全く神の奴隷とされたということと同じことなのです。であれば私たちはどうしたらいいのでしょうか。義の奴隷として、神の奴隷として、清潔に進まなければならないのです。「その手足を」というのは、心も身体もすべてをという意味です。私たちは、私たちを愛して、御子イエス・キリストを十字架の死にまでも渡され私たちを買い取ってくださった神に、すべてをささげなければなりません。「清潔に進む」とは、そういうことです。ここで誤解しないでいただきたいことは、これは完全に聖くなることではありません。そんなことは罪深い人間にできることではありません。ですから、たとえ罪を犯して悲しむことがあったとしても、そのことで悩む必要はないのです。大切なのは悔い改めることです。そうすれば、神は真実で正しい方ですから、すべての悪から私たちを聖めでくださいます。ここで言われている清潔に歩むとは、聖くなっていく歩みをしていくということであって、全く罪を犯さない完全な人になることとは違うのです。福音が本当にわかっている人は、罪の中にとどまりたいとは考えません。何度も何度も罪を犯すような者でも、それでも、神に喜ばれるような聖い歩みをしたいと願い、そのように進んでいくものです。

今は天に召されましたが、日本を代表する伝道者の一人に、本田弘慈という先生がおられましたが、この本田弘慈先生のモットーは、「いつでもとこでも何でもはい」でした。神様が「本田」と召されたら、いつでも、どこにいても、何でも「はい」と言って従う。それが本田先生のモットーだったというのです。

旧約聖書に出てくるダビデには、立派な兵隊がいましたが、中でもすぐれた三人の勇士は、「ダビデ三勇士」と呼ばれていました。彼らは、ダビデが「ああ、あのベツレヘムの水が飲みたいなぁ」というと、そのダビデ王のために、「いつでもどこでも何でもはい」でした。そこにどんなに強力な敵兵がいても、その敵兵の陣営をくぐり抜けて、敵の陣営の向こう側にあったベツレヘムの井戸から、いのちがけで、たた一杯の水を持ってきたのです。ダビデもダビデで、そうやって彼らが持ってきた水を、「彼らがいのちをかけて持ってきたこの水を、私がどうして飲めるだろうか」と言って、その水を神にささげるように地に注いだというのです。神の奴隷として生きるということは、こういうことなのではないでしょうか。ダビデの三勇士は、むだなようなことでもいのちをかけました。一杯の水を持ってきたのにその水を飲んでもらえないで地にかけられたときには、「ああ、むだだった」と思ったことでしょう。しかし、むだだと思えるようなことにまでいのちをかけて、ダビデを喜ばせようとしたあの三勇士のように、私たちがイエス様の血潮がこの地に注がれるために駆け出して行くことを、神はどんなに感動の心をもってご覧になっているかと思うのです。

戦前、日本にやって来た宣教団体の一つに、「セントラル・ジャパン・パイオニア・ミッション」(中央日本開拓伝道団)という団体がありますが、その団体が1925年に群馬、埼玉、栃木で伝道を開始したときのモットーは、「キリストの愛我に迫れり」でした。それはコリント人への手紙第二5章14~15節のみことばからとったものです。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」

キリストの愛が私を取り囲んでいる。キリストがすべての人のために死なれたのは、それは生きている人たちが、もはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえってくださった方のために生きるためなのです。このキリストの愛が分かるとき、私たちはもうすべてをささげて、この方のために生きたいと思うようになるのは、当然のことなのではないでしょうか。

戦前、信仰を持たれたあるクリスチャンがおられました。その人は、信仰のゆえに家を追い出されて苦労しましたが、やがてクリスチャンの旦那さんと結婚しました。しかし結婚して二年半で戦死されて、残された二人の子供さんを骨をきしませて育てました。職業婦人として苦労なさいましたが、彼女は壮絶なほどに厳しい人でもありました。彼女はキリストのために身をささげ、キリストの愛に生きました。彼女が亡くなってしばらくして、あちらこちらで、「私は、Bさんによってイエス様に導かれました。」という人がたくさん出てきたのです。そのBさんの墓石にしるされた詩がありまして、次のようなものです。

「ひとりの愁い(うれ)をいやし得ば、ひとりの涙を拭きいえば、弱りし一羽の小鳥をば、助けてその巣に帰しえば、わが生涯はむだにならず。」

なんという思いでしょう。ひとりの愁いとか、ひとりの涙、弱りし一羽の小鳥とかというのは、まさに罪に滅び行く魂のことですが、そのような弱りし一羽の小鳥をば、助けてその巣に帰しえば、わが生涯はむだにならずとは、まさに神に、キリストに、すべてをささけ尽くした人の言葉ではないかと思うのです。イエス様は、ひとりを追い求め、そのひとりのたましいが放っておかれ、弱り果てて倒れていくことがやりきれないのです。ひとりのその人のために祈り、愛の労苦をする人を、イエス様はどんなにか求めておられるのではないでしょうか。

Ⅲ.死か永遠のいのちか(20~23)

第三のことは、その結果です。その行き着くところはどこかということであります。20~23節をご覧ください。

「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

ここには、信仰を持っていない人々と、信仰を持って神の奴隷として生きる人の、二種類の人の姿、その運命について記されてあります。一般にこの世の人々は、その運命がどれほど重大な違いがあるかを知っていませんが、それは国籍の違いや男女の違い、あるいはこの社会的なさまざまな違いといったもの以上に重大な違いです。なぜなら、これによって永遠が決まるからです。罪の中にある人たち、罪の中に死んでいる人たちの行き着くところはどこでしょうか?その行き着くところは永遠の死です。この死とは単なる肉体の死のことではなく、霊的死のことです。黙示録では「第二の死」(20:14)と呼ばれているもので、祝福の源であられる神様から、永遠に引き離されてしまうことです。  それに対して、神の奴隷の最後は何かというと、「永遠のいのち」です。永遠に神様の祝福のうちに、あり続けることです。私たちのいのちは、決してこの地上だけのものではありません。この肉体は滅んでも、たましいは永遠に続くのです。その第二の人生をいったいどこで送られるでしょうか。神とともに、神の祝福のうちにですか。それとも、神から引き離された、のろいのうちにでしょうか。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

この世のどこを探しても、永遠のいのちはありません。永遠のいのちは、ただイエス・キリストにあるのです。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は、人には与えられていないからです。大震災の後で原発の問題もなかなか解決に向かっていかない今、この国の多くの人々が不安と混乱の中にありますが、まことのいのちと希望は、このイエス・キリストにあるのです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)このキリストの御名が、この国の至るところに宣べ伝えられるように、私たちはイエス様の心を心とし、イエス様の思いを思いして、「イエス様、あなたのことならどんなむだになるようなことでも喜んでさせていただきます」という覚悟で、全生涯を主におささげしていたきたいと思うのです。それが、私たちを愛し、私たちのために死んでよみがえってくださった方に応える生き方なのではないでょうか。神の奴隷としての生涯は、まことに実りの多い、喜びと力と報いのある、天国に行ったら、本当にすばらしい栄冠を神様からいただけるような生涯なのです。