ローマ人への手紙7章1~6節 「キリストの花嫁として」

きょうは、「キリストの花嫁として」というタイトルでお話したいと思います。パウロは6章の中で、クリスチャンとはどのような存在なのかについて語りました。それは、キリストに結びついた者であるということでした。パウロは、そのことをわかりやすく教えるために、主人と奴隷のたとえを使って説明してきました。つまり、クリスチャンというのは罪の奴隷から解放されて、神の奴隷となったということです。きょうのところでは、それを結婚のたとえを使ってさらに説明を加えようとしています。つまり、クリスチャンとはキリストと結ばれ、キリストと結婚した、キリストの花嫁であるということです。それまでは律法という夫に結ばれていたので律法に縛られていましたが、その古い夫である律法が死んでしまったので、新しい夫であるキリストと結ばれ、この方のために生きるようにされたというのです。

きょうは、このキリストとの結婚についてついて三つのことをお話したいと思います。まず第一に、古い夫について見ていきましょう。古い夫とは律法のことです。私たちは、この古い夫である律法と結婚していた時にはその支配の下にありましたが、その夫が死んでしまった以上、もはやその支配から解放されました。第二のことは、新しい夫についてです。その新しい夫はだれのことでしょうか。そうです、キリストのことです。クリスチャンは古い夫である律法と死別した後に、キリストと結ばれて、キリストの花嫁となりました。ですから第三のことは、キリストの花嫁として生きるということです。

Ⅰ.古い夫、律法(1-3)

まず古い夫について見ていきましょう。1~3節までをご覧ください。 「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか―私は律法を知っている人々に言っているのです。―夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」

このローマ人への手紙7章は、実際には6章14節の説明です。パウロは、6章14節で「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」と宣言しましたが、この短い聖句を説明するために、主人と奴隷の関係を例にして説明した後に、今度は婚姻関係を例に取り上げて説明を加えようとしているのです。そしてそのポイントは何かというと、法律における婚姻関係というのはその人が生きている間だけの期間であって、その人が死んでしまえば、その法律から解放される、すなわち、その後であれば、だれと結婚しても自由であるということです。

では、これまで私たちが結婚していた相手とは、どのような人だったのでしょうか。ここには、それは律法であったとしるされてあります。法の下のあったということはどういうことかと言いますと、犯罪者であったということです。なぜなら、法というのは犯罪した人にだけ適用され、意味を持つからです。私たちは、律法の前ではそのような者なのです。たとえば、十戒を見ると、その最初の戒めに、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト20:3)とあります。これはどういう意味でしょうか。もちろん、造り主なる神様以外に神があってはならないということですが、コロサイ3章5節を見ると、この中でパウロは、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」と言っています。むさぼることが偶像礼拝だとしたら、この戒めを守っていると言える人がいったいいるでしょうか。だれもいません。私たちはあれも欲しい、これも欲しいとむさぼる者だからです。「殺してはならない」という戒めもあります。しかし、イエス様は兄弟に向かって腹を立てる者、「能なし」と言うような者、「ばか者」と言うような者はすでに心の中で人を殺したと言っています。そうであれば、私たちの中で人を殺したことのない人などいるでしょうか?「姦淫してはならない」という戒めを私たちは聞いています。しかし、イエス様は、女性を見て情欲を抱く者はすでに姦淫を犯していると言われました。それならば、姦淫などしたことないなどと、胸を張って言える人などだれもいないのです。私たちはみな、これらの律法の前には、罪ある者でしかないのです。ですからパウロは、このローマ書3章10~11節のところで、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」と言っているのです。私たちはみな、この律法の前には罪人であり、その束縛の下に暮らしているのです。

パウロはこのことを、夫と妻の関係をとおして説明しています。1節、「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。」2節、「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に縛られています。」私たちは以前、この妻のように、律法という夫に縛られていました。この夫といっしょにいれば罪に定められてばかりいるので、そこから解放されたいと別れようとしても別れることができませんでした。このパウロの時代は、女性の側から離婚を要求することは考えられませんでした。結局、この奥さんは夫の束縛から脱出できないのです。

しかし聖書は、こうした夫の束縛から抜け出す方法が一つだけあるというのです。何でしょうか。それは死ぬことです。結婚している女性でも、夫が死んだ場合には、その結婚関係は解消され、夫から解放され自由になり、別の男性と結婚しても差し支えなくなるのです。死ねば、すべての関係は終わるのです。ではどうしたら律法は死ぬのでしょうか。「早く死んでください」とお願いしても、律法は死にません。なぜなら、「天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画も決してすたれることはありません」(マタイ5:18)とあるからです。律法は神様の原則ですから、なくなることも、変わることもありません。結婚の場合は夫が死ぬことによってその関係が解消されますが、律法の場合はそういうわけにはいかないのです。ではどうしたらいいのでしょうか。自分が死ぬばいいのです。夫が律法であり、妻が自分であるなら、この両者の関係を断つには、自分自身が死ぬしかないのです。ですから聖書はこう言うのです。6章4節、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」皆さん、福音の確信は、私たちが死ぬところから始まるのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

私たちがキリストにあって新しいいのちを得、律法のすべてのくびきから解放されるためには、死ななければなりません。死ねば自由になるというのが福音です。十字架なしには決して解放の喜びを体験することはできません。私たちの人生のすべてにおいて、一度死にさえすれば、そのときからすべての束縛から解放されるのです。私たちが死んだと宣言するなら、そのとき私たちは生きるのですが、逆に、私たちは生きると思うと、死ぬのです。

どういうことかというと、こういうことです。かつてビリー・グラハムという有名な伝道者が、こんな話をされました。カエルたちの会議です。カエルたちが集まって会議をしていました。そのとき一羽の鶴が彼らのそばから飛び立ちました。それを見ていたカエルたちは、いったいどうしたらあんなふうに飛べるのかと、鶴に訪ねて聞きました。そして名案を思いつきました。それは、長めの棒切れの両端を互いにくわえていれば飛べるのではないか、ということでした。鶴も、「それはいい考えだ」と賛成して、やってみることにしました。カエルが棒切れの片方を、鶴がもう片方を口にくわえ、格好よく飛び立ちました。カエルはもう夢か幻かわからないほどの興奮と喜びに包まれました。下にいた仲間のカエルたちはそれを見て、「おお、すばらしい!カエルでもあんなふうに飛べるのか!」と驚きました。そこで飛んでいるカエルに叫びました。「お~い、誰がそんなすごい考えを思いついたんだ?」すると飛んでいたカエルは、得意げに答えました。「おれだよ!」そう言った瞬間に、そのカエルは下に落ちて死んでしまいました。    私たちも同じです。「俺がやった。私の力、私の才能だ」と自慢した瞬間に、私たちは死にますが、私は死んだ。キリストともに十字架にかかって葬られたと言うなら、そのとき生き返るのです。死んだ者にはことばはなく、自分の栄光もありません。死んだ者は自我を失い、ただ忠誠を尽くす心だけが残っているからです。この点において、私たちは注意深く今回の大地震のことを思い巡らさなければなりません。今回の大地震はいったいどういうことだったのでしょうか。それはまさに、私たちは死んだということだったのではないでしょうか。この自然の猛威の前には、私たちは何のなす術もない無力な者であるということを悟り、この天地の造り主であられるまことの神様におすがりしなければならないということなのに、そのことに気づかず、まだ「私がやる」「日本には力がある」などと言っているとしたら、本当の意味でこの地震の教訓を生かすことができないのではないかと思うのです。原子力事故による災害はその最たるものでしょう。どんな災害が襲ってきても日本の原子力発電所の電源は絶対に大丈夫だと豪語していたのに、それがたった一瞬の大津波によって、すべてが動かなくなってしまいました。今こそ私たちは死ぬべきです。私たちは、どんなに小さなことでも成し遂げると高慢になるものですが、そうではなく、それはただ神の恵みですと、神に栄光を期する者でなければならないのです。

私の尊敬しているニュース解説者の方が、ある日テレビの番組で、「私たちの知らなかったアメリカ」を解説していました。アメリカという国は、キリスト教が基盤になっている・・・と。そのキリスト教が信じている聖書には、神様がすべてのものを造ったと書いてあるのですが、私たちの常識ではなかなか考えられないことです。と言っていました。どこまでも科学こそが真実であるかのような解説をしておられましたが、人間の知識にどれだけ優れたところがあるというのでしょうか。パウロは、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Iコリント1:25)と言っていますが、本当に私たちの賢さというものは、神の愚かさにも届かないのです。私たち人間にとって必要なのは、自分に死ぬことです。この天地を造られた神様の前にへりくだって歩むことなのです。

また逆に、自分はだめだという意識も持たないことです。私たちは少しでもうまくいかないと落ち込みます。自分は無能だとという意識にとらわれているからです。しかし、そのような意識を持ってしまうのは自分がやったと考えているからであって、死んでいるなら、そのような感覚さえ起こらないのです。そうでしょ。ですから、高慢も罪ですが、挫折も罪です。自我が死んでいる人は高慢にもならず、挫折もしません。神のしもべには、本来、誇りもなければ、落胆もないのです。あるのは何でしょうか。あるのは忠誠を尽くすことのみです。成すべき事を淡々と、忠実に成し遂げていくことだけです。人生のすべてを神様にゆだね、主のみこころだけを淡々と行っていくこと。これこそ神のしもべの人生であり、十字架に釘付けされた者の人生なのです。

Ⅱ.新しい夫、キリスト(4)

次に、新しい夫について見ていきましょう。4節をご覧ください。

「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」

ここでパウロは、「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいる」と言っています。私たちは、もうキリストの死によって、死んだのです。ゆえに、律法との夫婦関係も根本的に解消されました。そして、他の人と結ばれたのです。他の人とは誰でしょうか。イエス様です。イエス様と結ばれて、神のために実を結ぶようになったのです。イエス様が夫で、私たちはその妻であり、その花嫁です。ということはどういうことかというと、律法はもはや私たちを支配しないということです。新しい夫であるイエス様だけが、私たちを支配なさるのです。もちろんそれは、実際の旦那さんをないがしろにしてもいいということではありません。イエス様に支配されるなら、実際の夫にも、もっと仕えていきたいと思うようになるはずだからです。ここで言わんとしていることは、結婚関係において夫や自分が死ねばその婚姻関係が解消されるように、私たちは律法との婚姻関係が解消し、その支配から解放され、新しい夫のもとで、その支配の中で生かされるようになったということです。

では、それはどのような支配なのでしょうか。一言で言うなら、それは愛です。パウロは、私たちクリスチャンとキリストとの関係を次のように言っています。

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)

ここでパウロは、夫に関する勧めの中で、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」と言いました。キリストはご自分のいのちをささげられるほど、私たちを愛してくださいました。私たちが母親に特別な愛を感じるのは、母親にはこのような愛があるからではないでしょうか。母親は、我が子にだまされても、裏切られても、何があっても、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを堪え忍びます。懐が広いというか、深いのです。私も中学生の頃には反抗期があって、母親によく反抗したものです。母親にはお金がないということがわかっていても、それをむしり取るかのようにしてもらい、自分の欲望のために使っていても平気でした。母親はこんな私をどんなに憎らしかったことか、どんなに悔しかったことかと思うんです。親の心、子知らずということわざがありますが、子は親になるまでその痛み、苦しみというものを、なかなか理解できないものなのです。しかし、自分が親になってみて、初めて、「ああ、あのとき母親がどんな気持ちだったのか」ということが痛いほどわかるような気がします。それでも母親は赦してくれました。たぶん・・。それでも母親はだまされてくれました。なぜ?愛していたからです。母親には、そのような愛があるのです。イエス様も同じです。イエス様はそのようないのちがけの愛で、私たちを愛してくださるのです。

クリスチャンの人生とは、このような人生なのです。私たちが罪を犯し、あるいは倒れたとしても、恵み深い私たちの夫であられるイエス様は私たちを赦し、抱きしめてくださいます。それだけでなく、新しい道を示し、そちらの道に導いてくださいます。掃除をやっていないからと言って、鬼のように鉄の棒を持って仁王立ちしているような方ではないのです。私たちの夫は、そんな暴君ではありません。すべてを愛と恵みで満たしてくださる方なのです。それゆえ、古い夫である律法と決別し、新しい夫と結ばれた私たちは、異邦人のように、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどと言って、心配する必要はないのです。そういうものはみな、異邦人が切に求めているものです。しかし、私たちの天の父は、恵み深い主イエスは、それがみな私たちに必要であることを知っておられ、それに加えて、すべてのものを与えてくださるのです。

Ⅲ.恵みに生きる(5-6)

ですから第三のことは、この恵みに生きましょうということです。5~6節をご覧ください。

「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

ここに、「しかし、今は」とあります。クリスチャンは、古い生活と決別し、全く新しい生活に入れられました。それはキリストと結ばれた、キリストの花嫁としての、キリストの愛と恵みに満ち溢れた生活です。それは古い文字に捕らわれた、通り一遍の、外見的な生き方ではなく、御霊によって導かれる、バランスのとれた、愛と恵みに満ち溢れた生活です。そのような生活へと導かれたのであれば、私たちはその行く先々で、律法ではなく、恵みが感じられるような人生を歩んでいかなければなりません。恵みが支配するところには豊かな祝福が溢れ、いのちのみわざが起こり、多くの人々が押し寄せて来るようになります。教会は、律法と正義をもって構えていてはいけませんが、互いが「こうすべきだ」「ああすべきだ」と主張して言い争ったりするのではなく、「本当に罪深く、足りない者なのに、ただ神様のあわれみによって救われたて感謝!」と、「こんな者が主の教会に連ならされていただいて、感謝です」と、へりくだった思いが必要です。

家庭でも、互いにさばき合ったりするのではなく、神のみことばが恵みの中で生かされるように求めるべきです。みことばが律法として機能してしまい「こうすべきだ」「ああすべきだ」と互いに主張すると、恵みは消え失せてしまいます。律法が支配すると家庭には平和がやってきません。恵みが支配することによって、家庭にも祝福が溢れるようになるのです。「聖書には妻を愛せと書かれているのに、いつも愛の足りない自分を赦してくれ」言う夫に、「そうよ」なんて言わないで、「いいえ、あなた。従いなさいとあるのに、従っていない私が悪いのよ」という家庭では、みことばが恵みとして機能するのです。「はい」と言うと「はい」、「いいえ」というと、「いいえ」、「ごめんね」というと、「ごめんね」と返ってきます。神様のみことばは律法として用いることも、恵みとして用いることもできるのですが、恵みとして用いましょう、というのです。神様のみことばを自分に適用すると恵みになりますが、他の人に適用すると、人を責め立てる律法になってしまうのです。    子育てにおいても、律法が支配する家庭では、こどもが曲がったひねくれた道に進んでしまうケース多くなりますが、恵みが支配する家庭では、こどもたちは健全に育っていきます。家の決まりが多すぎて、「これを破ったらむち打ち10回、二度断食」という具合にやると、父親は裁判官みたいな、母親がこん棒を持ったイメージしか残らず、かえってこどもは家に帰らたがらないで、夜の街を歩き回るようになるのです。「自分は一度も人様に迷惑をかけたこともなく、かけられたこともない」というのは、クリスチャンにとっては誇りにはなりません。貧しい人を助けて、少々踏み倒されるくらいがちょうどいいのです。刀のように鋭い人は、隣人に恵みを施す機会をそれだけ逃しているかもしれないのです。

昔イスラエルでは、稲の収穫をするときには、稲をすっかり刈り取ることはしませんでした。畝(うね)一つ残しておくようにしたのです。そして穀物を刈り取りながら、わざと少し落としておいたのです。なぜなら、貧しい人たちがそれを集めることができるようにするためです。そういう配慮からでした。それから、動物たちが食べるためでした。

これが恵みの生活です。それは決して、生真面目なばかりの生活ではありません。時にははしゃいでみるのもいいでしょう。普段からたくさん与え、日々余裕をもって多くの人を広い心で包み込み、恵みを注ぎ続ける。そんなライフスタイルです。神様は、そのような人をますます祝福し、多くの恵みを注いでくださるのです。キリストの花嫁として私たちがこの世で味わう祝福は、そうした神の恵みの現れなのです。