ローマ人への手紙7章7~12節 「律法は罪ですか」

きょうは、「律法は罪ですか」というタイトルでお話したいと思います。パウロは、この律法について7章1~6節までのところで論じてきました。それによるとクリスチャンというのはこの律法から解放され、キリストの花嫁として、キリストの愛と恵みのご支配に生きる者とされたということでした。このように言うと、いかにも律法が悪いものであるかのように聞こえるので、パウロは「律法は罪なのでしょうか」と問いかけることによって、律法と罪との関係について説明を加えようとしたのです。それがこの箇所です。

律法とは神の戒めのことです。それは、狭い意味で言うなら出エジプト記20章に記されているモーセの十戒のことであり、広い意味で言うなら旧約聖書全体を指します。つまり「このようにしてはいけない」とか、「こうしなさい」という神のおきてのことです。この律法をどのように見るかということは、私たちクリスチャンにとって、極めて重要なことです。というのは、これを正しく理解していませんと福音がボケてしまうからです。そして、極端な律法主義に陥ってしまったり、逆に律法など必要ないという律法不要論を称えたりして、いつしか聖書の教えている福音からズレてしまうことにもなりかねません。

きょうはこの律法について三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、律法が与えられたのは罪を知るためであったということです。第二のことは、この律法によって私たちの内にある罪が働き、あらゆるむさぼりを引き起こすということ。そして第三のことは、その結果私たちをいのちに導くはずの律法が、かえって死に導くものとなってしまったということです。

Ⅰ.律法によって罪を知る(7)

まず第一に、律法が与えられのは罪を知るためであったということについて見ていきましょう。7節をご覧ください。

「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」

パウロは、1節から語ってきたことを受けて、「それではどういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか」と問いかけます。それに対してパウロは、絶対にそんなことはないと断言します。12節にあるように、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。ではなぜ神様は律法を与えられたのでしょうか。それは罪を知るためです。律法によらないでは、罪を知ることができないからです。律法が「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知りませんでした。むさぼりとは、「欲深く物をほしがること。欲ばること。」(国語辞書)です。聖書の脚注には、「悪い欲望」とありますが、これは神様が禁じておられることを、あえてしようという願望のことです。パウロがなぜこの戒めを取り上げたのかというと、十戒の中でもこの戒めが、他の戒めと違う点があったからです。他の九つの戒めはすべて体の外に現れる罪であるのに対して、このむさぼりだけは心の中で犯す罪であったという点です。たとえば、「あなたは偶像を造ってはならない」とか、「それを拝んではない」「殺してはならない」「姦淫してはならない」といった戒めはすべて外側に現れる罪ですが、「むさぼってはならない」というのは、そういう形では現れてきません。それは心の中の隠れた罪なのです。

パウロは、イエス様を信じるまでは律法に厳格なパリサイ人として、そのおきてに忠実に従っていると思っていました。しかし、この「むさぼってはならない」という戒めを受けたとき、これまで抱いてきた罪に対する理解が打ち砕かれ、自分が罪人であることに気づかされたのです。まさか心に思うことまで見透かされ、そこまで光を当てられるとするならば、自分は正しい者だと主張できる人などだれもいないでしょう。だれもが神の戒めを受けるまでは、罪とは法を破ることであって、法律さえ守っていれば、自分はまともな人間だと思っているのです。私もかつてはそうでした。社会のルールを守って、温かい心、優しい心、思いやりの心があれば、なかなかいい人間じゃないかと思っていたのです。最近の宣伝で、「人の思いは見えないけれど、思いやりは見える」ということばがあります。電車に乗っていた時にお年寄りがやって来て、その方に席をお譲りする。立派なことです。そうした思いやりが見えるとき、自分って何ていい人間なんだろうと思うのです。しかし、その見えない思いが問題です。その思いを、たとえばプロジェクターなどで写してみようものなら、恥ずかしくて顔を覆いたくなるのではないでしょうか。そうした私たちの思いを写しだし、私たちがどんなに罪深い者なのかを知らせてくれるのがこの律法なのです。

実は、律法が与えられた目的は、そこにあったのです。イエス様はマタイの福音書5章21~28節のところで、このことを教えられました。普通ユダヤ人は、「殺してはならない」という戒めを、手を下して人を殺すことだと考えていましたが、イエス様はそれだけが殺人なのではなく、自分の兄弟に対して腹を立てたり、「ばか者」というようなことがあったとしたら、それもまた殺人を犯したことと同じなのだ言われました。また、姦淫についても、実際に行為としての姦淫だけに限ったことではなく、心の中で情欲を抱いて女を見る者は、すでに姦淫を犯したのです、と言われました。つまり、律法というのは本来心の問題を取り扱っていたのであって、そういう面から見たら、だれも罪を犯していないなどと言える者はいないのです。すべての人が迷い出て、みな無益な者となってしまった。そのことを知らせるために律法が与えられたのです。

それは、救いというのはこうした罪の自覚から始まるからです。人が罪についての正しい自覚を持つことなしに、救いに入れられることはありません。その罪をいかんなく示し、そのままでいることができないように、時には不安を与えることはあっても、救われたいという思いを起こさせるものが律法なのです。

Ⅱ.律法を利用する罪(8)

では何が問題なのでしょうか。問題は律法ではなく、私たちの中にある罪です。8節をご覧ください。

「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」

「機会をとらえ」というのは、攻撃の拠点として利用することです。律法そのものはすばらしいものであり、正しく、良いものですが、罪が、私たちの内にある罪がこの律法を利用して、攻撃してくるのです。それはちょうど「てこ」のようなものです。てこというのは、重くてなかなか動きそうもない大きな石などを動かす時に使われるものですが、支点と呼ばれるものを利用して、長い棒を使って動かすと、重くてなかなか動かない石でも容易く動かすことかできます。たとえば、罪は「むさぼるな」という律法をてこにして、私たちのうちにあらゆるむさぼりを引き起こすのです。人は禁止されると、逆に行いたくなるものです。禁じられると、逆に欲望が燃え上がり、罪は生き生きと生き始め、誰もそれを押さえることができなくなって、悩み苦しむのです。

たとえば、自動車を運転していて制限速度の表示を見ると、もっとスピードを出したくなるのは私だけでしょうか。制限速度が40キロとか50キロとか出ていると、もっとスピードを出したくなって、ほとんど人が50キロとか60キロで走ってしまうのではないでしょうか。10キロくらいだったら捕まらないだろう・・・と。ちょうどそれと同じように、律法がそこにあると、それを破りたいという思いが私たちの内側に起こってくるのです。それは私たちの中にある罪がその律法をてこにして働きかけ、ありとあらゆるむさぼりを生み出すからです。

ですから、今日の世の中を見てください。その頽廃(たいはい:風俗・気風がくずれ不健全になること。くずれ 衰えること。こわれ荒れること。)ぶりは恐ろしいほどです。まさにソドムとゴモラのように、不品行、汚れ、情欲に満ち溢れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになったのです。(エペソ4:19)それは、生まれながらにして私たちの中にある罪が、戒めを利用して、私たちの中にありとあらゆるむさぼりを生み出したからなのです。いくら道徳的なことを教えたとしても、それでその人が自分の力でそれを守れるかというとそうではなく、かえってありとあらゆるむさぼりを生み出すようになります。罪はそれほどまでに力があるのです。そういう意味では、そうした道徳的な教えや戒め、律法は全く無力でしかありません。

ですから、神様は罪人である私たちが救われるためには、そうした律法を守ることを要求しないのです。そんなことはできないことだからです。ではどうしたらいいのでしょうか。神の救いを信じることです。神様は、その大きなあわれみによって、このように自分では律法を守ることができない無力な人間を救うために、ご自身のひとり子イエス・キリストをこの世にお与えになりました。イエス様を十字架に付けてくださり、私たちの罪の身代わりとなってその贖いを成し遂げてくださることによって、私たちを罪から救う道を用意してくださったのです。私たちはただ自分の罪を認め、悔い改めて、イエス・キリストを罪からの救い主と信じればいいのです。そうすれば、神の完全な義が私たちに臨み、私たちはすべての罪が赦され、その支配から解放されるのです。5章20~21節に「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」というみことばがありますが、私たちがキリストの十字架のもとに行った時、はじめてその真意がわかるようになるのです。

Ⅲ.死に導く律法(9-11)

このように、私たちの内にある罪が律法を利用して、ありとあらゆるむさぼりを引き起こすようになったのだとしたら、私たちはいったいどうなってしまうのでしょうか。死に導かれます。9~11節をご覧ください。

「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。」

律法自体は聖なるものであり、正しく、良いものですが、その律法が与えられたことによって、罪がそれを利用し、さまざまなむさぼりを引き起こした結果、人は死んでしまいました。いのちに導くはずの神の戒めが、かえって死に導くものであることを、パウロは知ったのです。パウロは神の律法を行うことにおいてはきわめて熱心な者であって、その律法による義については、非難されるところのない者でした。しかし、それは律法が本当に言わんとしていたことを正しく理解していなかったからであり、それが本当の意味でわかったとき、自分がどれほど罪深い者であるかに気がついたのです。それはまさに目から鱗でした。

今日、どれだけ多くの人々が回心以前のパウロのようでしょうか。いかにも自分が正しい者であるかのように思い込み、自分の義を誇り、他の人を非難してしまうのです。一般的に道徳的であると思われている人ほどそうです。それはまさに、祈るために宮に上ったあのパリサイ人のようではないでしょうか。彼は立って、心の中でこう祈りました。

「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11~12)

これは罪がわからない人の姿なのです。本当の意味で自分がどんなに罪深い者であるかがわかるなら、他の人のことをあれこれと言うようなことなどできないからです。本当に罪がわかる人というのは、一方の取税人のようです。彼は目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいでこう祈りました。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(同18:13)と。

いったいこの二人のうちでどちらが義と認められたでしょうかす。パリサイ人ではありません。取税人の方でした。「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(同18:14)    私たちに律法が与えられたのは、私たちがどんなに弱く、罪深い者であるかに気づかせるためです。神様のさばきの前には全く滅ぶべき者にすぎないということを知らせるためだったのです。それが「死んだ」という意味です。この死んだ人だけが、キリストの福音によって生きることができます。自分の力で何かができると考えているうちはキリストの恵みがわかりません。私たちにあるのは罪だけです。もう死んでいるのです。そのことがわかる人だけが、キリストの救いに入れられ、神のいのち、永遠のいのちが与えられ、本当に生き生きとした人生に入れられるのです。それが福音なのです。

今、日本に必要なのはこの福音ではないでしょうか。それは砂地に建てられた見せかけだけの立派な家のようではありません。堅固な岩の上に建てられた家のようです。雨が降って、風が吹き付けられても、その家は倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。確かな土台の上に建てられた家です。神様は、そのように真の生き生きしたいのちを、人生を、私たちにも与えたいのです。

先週はイースターでしたが、その前日の土曜日に、私はルカの福音書23章39~43節のみことばを読みました。それはちょうどイエス様と一緒に二人の強盗が十字架につけたられた話でした。十字架にかかった二人の罪人は、最後の瞬間に全く違う選択をしました。一人はイエス様に向かって悪口を言ってのろい、非難しました。しかし、もう一人の強盗は、イエスを神の子であると信じました。自分は当然死ぬべき罪人であるが、イエス様は罪のない方でありながらも、不当な処罰を受けて死んで行かれることを知っていました。そのような中で彼は、そんな自分のような罪人でも救われますかと尋ねたのです。イエス様は何と言われたでしょうか。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

と言われました。彼は最後の瞬間に永遠のいのちを得て、パラダイスに入れられたのです。大切なことは、悔い改めて、イエス・キリストを信じることです。ジョン・ピルドは、その著「恵みの上に恵み(下)」の中で次のように言っています。 「悔い改めなしには、救いもありません。神の御前で悔い改めるとき、赦されない罪人はいません。悔い改めは、罪の赦しを受ける唯一の道です。イエスが悔い改める強盗に救いの道を開いてくださったことは、どんな罪人でも悔い改めれば救われることを私たちに示すためでした。まことの悔い改めは、神を喜ばせ、救いの祝福を受ける、最も価値ある行いであることを覚えてください。」

律法を守ろうとすることは大切なことです。しかし、律法を守ることによっては救われないのです。律法を守ろうとすればするほど罪の意識が生じるからです。そこにあるのは「死」です。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21~23)

イエス・キリストの十字架によらなければ、この罪の力を打ち砕くことはできません。どんなに強い意志、どんなに高尚な道徳、鋼鉄のような律法をもってしても防げなかった罪の力が、イエス様が十字架に釘付けられたことによって砕かれたのです。イエス・キリストの十字架だけが、罪と死の権勢から私たちを救ってくれる唯一の道なのです。このイエスを信じる信仰による義。それが私たちに与えられた新しい希望なのです。

地上においた船をどれだけ動かそうとしても、屈強な男たちが何十人いても、一隻の船さえ動かすのは容易なことではありません。しかし潮が満ちて船が浮くと、幼い子供がちょっと押しただけでも船は動くようになります。これが神様のみわざです。自分の力で律法を行おうとするのではなく、律法を完全に行われ、私たちの罪を贖ってくださったイエス・キリストを信じ、この方にすべての重荷をゆだねるとき、取るに足りない私たちの力でも、悠々と船を動かすことができる、驚くべき不思議な人生が展開していくのです。