きょうは「勝利ある人生をめざして」というタイトルでお話したいと思います。24節のところでパウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょうか。」と言っています。彼は、7章1節からのところで語ってきた律法との関係の中で、ほんとうに自分はみじめな人間ですと告白したのです。問題は、彼がこのように語ったのはいつであったかということです。この解釈については大きく分けて三つの解釈があります。第一は、これは彼がまだ生まれ変わっていない時の、未信者の状態の時について言及しているというものです。第二は、これは彼が新しく生まれ変わってからの状態、つまりクリスチャンになってからの姿について言及しているというものです。そして第三の解釈は、これは彼が生まれ変わったばかりの状態ではあるけれども、まだ第二の恵みを受けていない時の姿であるということです。
興味深いことに、キリスト教の歴史を見てみますと、最初の3世紀の間は、第一の解釈がとられていました。つまり、これは彼がまだ生まれ変わっていない時の状態についてしるされてあるという立場です。有名な神学者で紀元400年ころに活躍したアウグスチヌスも、最初のころは、この解釈にしたがっていました。しかし、彼はのちにその考えを改めて、第二の解釈でなければならないと主張するようになりました。その後、宗教改革やピューリタンの指導者たちは、この第二の解釈を採用し、これが生まれ変わった人の状態についてしるしていると解釈するようになったのです。ところが、ある人は生まれ変わったクリスチャンがこんなみじめな状態にあるはずがないと、第三の考えを主張する人も現れるようになったのです。
いったいどれが正しいのでしょうか。きょうはこの聖書の箇所を正しく解釈しながら、私たち人間とはどのような者なのかについてよく理解しながら、クリスチャンとして真に勝利ある人生を歩んでいきたいと思うのです。きょうは、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、パウロの葛藤についてです。第二に、そのパウロの葛藤の原因であった二つの原理を見ていきましょう。第三のことは、そうしたみじめな人間を救う力、イエス・キリストについてです。
Ⅰ.パウロの葛藤(14-20)
まず第一に、パウロの葛藤を見てみましょう。14~20節までをご覧ください。まず14~15節です。
「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」
パウロは7節のところで、「律法は罪なのか」という問題提起をしてから、「絶対にそんなことはありません」と言って、律法の与えられた目的について語ってきました。それは律法によって、自分たちが罪深い者であることに気づくためでした。ではどうして、こんなに良いものが、私たちに死をもたらすのでしょうか。それは律法が問題なのではありません。問題なのは罪です。罪がこの律法を利用して、私たちがもっと罪深い者であるようにとし向けたのです。その説明がこの14節にしるされていることです。このところをよく見ると、パウロは「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と現在形で書かれてあります。これまではそうではありませんでした。これまでは過去形で書かれてありました。たとえば、9節には、「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。」とあります。戒めが来るまでは律法は関係ありませんでしたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死んだのです。にもかわわらずここでは、「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と現在形で書かれてあるのです。どういうことかと言いますと、14節のところに書かれてあることは救われる前の状態のことではなく、救われてからのことであるということです。このようなみじめな人間の姿というのは、救われる前ではなく救われた後のことなのです。救われて罪深い自分の姿に直面したパウロは、「ああ、私はほんとうにみじめな人間です」と告白せざるを得なかったのです。アウグスチヌスが、これがパウロが救われる以前の状態のことを言っているのではなく、救われた後の、クリスチャンになってからの赤裸々な告白であるという解釈に変わったのは、それゆえです。
皆さん、救われて信仰に生きたパウロでさえ、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから私を救い出してくれるのでしょうか」と告白せざるを得ないほどの葛藤に置かれていたのです。皆さん、信仰のしっかりした人は決して状況に揺さぶられないのでしょうか。そんなことはありません。どんなに信仰があつい人であっても、倒れてしまうときもあるのです。あのエリヤもそうでした。列王記第一18章を見ると、神様の預言者エリヤが、カルメル山でバアルとアシェラの預言者850人と戦って勝利した話が出てきます。このときのエリヤの姿はあたかもほえたける獅子のようで、勢いのある預言者でした。しかしその次の瞬間、アハブの妻イゼベルが登場し、エリヤを殺してやると宣言すると、彼は恐れて逃げ、エニシダの木の陰に座り、「主よ。もう十分です。私の命を取ってください。」と泣きつくのです。ちょっと前まではあんなに威勢の良かったエリヤが、「主よ、もう十分だから命を取ってください」と嘆く。いったいどちらが本当のエリヤの姿なのでしょうか。「主よ、もう十分です。どうか命を取ってください」と言った、あの姿こそ、本当の彼の姿なのではないでしょうか。人間は虚栄をはって、いかにも強そうに見せても、しょせん人間なのです。みんな弱い器にすぎません。
宗教改革者のマルチン・ルターは強靱な人物でした。当時のカトリックの勢力との戦いを一身に担った男です。しかしある日、急に無力感に襲われました。それを見ていた彼の妻が、喪服を着てルターの前に現れたのです。びっくりしたルターが、「いったいどうしたのか?身内の者でも死んだのか?」と尋ねると、妻が答えて言いました。「だって、神様はすべてのことを統べ治めておられる方なのに、あなたがシュンと落ち込んでいるから、神様はお亡くなりになられたかと思ったのです。」そのことばに奮起したルターは再び力を得て、改革の旗印をいよいよ高く掲げていったのです。
どんな信仰の勇士でも、動揺し、落胆することがあるのです。「ただ信仰によって」とあれほど叫んでいたルターでさえも、落胆しました。これが人間の姿なのです。クリスチャンになったからといって、もう信じて何年にもなるから落ち込まないということはありません。どんなに強い勇士のような人でも、あるときは落胆して苦しむ、弱い人間の姿をさらすこともあるのです。
使徒パウロも同じです。15節を見ると、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」と告白しています。Ⅱコリント1章8節を見ると、彼は非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受けていたと告白しています。それがどのようなプレッシャーだったのかはわかりません。しかし、それは耐えられないほどのプレッシャーでした。キリストの福音を伝えたあのパウロでさえ、そうした弱さがあったのです。自分の願うことではなく、かえって憎むことを、罪を犯してしまうということが、どうしてもありました。18,19節でも同じようなことを言っています。パウロの葛藤は、自分の中には善をしたいという願いがあるにもかかわらず、悪を行ってしまうという矛盾した自分というか、弱い自分があったのです。
これがパウロの率直な告白でした。この告白は何を意味しているのかというと、使徒パウロほどになれば、悩みや問題、葛藤といったことは一切なく、日々確信に満ちて、口さえ開けば「ハレルヤ!」とほとばしり、どんな試みや患難がやって来ても揺らぐことなどないかというとそうではなく、その内側にはいつも神様のみこころに従えないという悩みがあり、その内面は葛藤で満ちていたということです。であれば、普通の聖徒である私たちにはなおさら、そうした葛藤はつきものなのではないでしょうか。
ある病気との闘いの中にある方とお話したことがあります。この方はその病気と闘っていたとき、自分はクリスチャンなのにどうしてすぐに心を騒がせる弱い人間なんだろうと思ったそうです。しかし、私と話しているうちに、私が「自分にもそうして落ち込むことがありましたよ。あのとき、神様は自分を見捨てられたのではないかと思ったくらい、「神様どうしてですか」と嘆いて落ち込んだんです」と言ったら、その方がこう言われました。「先生。励まされました。先生でも落ち込まれることがあるんですね。それを聞いて励まされました」と。その方はどうも私という人間は落ち込むことを知らない人間なんじゃないかと思っていたらしいのです。とんでもない。そんなに強い人間などどこにもいません。みんなそうやって悩み、苦しみ、もがきながら、闘っているのです。それが人間の、クリスチャンの姿なのです。
Ⅱ.葛藤の原因(21-23)
では、いったいどうしてクリスチャンには、こんなに闘いがあるのでしょうか。次にその原因について考えて行きたいと思いますが、それはクリスチャンには二つの原理があるからです。21~23節をご覧ください。
「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」
この二つの律法とは内なる人である心の律法に対して、外なる人である肉の律法のことです。8章2節のことばで表現するなら、いのちの御霊の原理に対する罪と死の原理です。この罪と死の原理がいのちの御霊の原理に闘いを挑むので、こうした葛藤が生じるのです。ですから、イエス様を信じていない人々が、こうした葛藤や悩みを抱えることはありません。イエス様を信じていない人は、罪と死の原理という一つの原理に完全に支配されているからです。外なる人も内なる人も同じ律法に支配されているので、両者の間に葛藤が生じることがないのです。イエス様を信じていない人が「祈らなかった」と言って悩んだりすることはありません。けれども、いったんイエス様を信じ、心に迎え入れた人たちはそうではありません。イエス様を信じた人たちにはいのちの御霊が与えられているので、信仰が大きいとか小さいとかにかかわらず、このいのちの御霊の原理に罪と死の原理が闘いを挑むので、葛藤が生じるのです。しかし、心配には及びません。こうした葛藤があるということ自体、そこにいのちがあることを意味しているからです。いのちが植え付けているので、少しでも神の律法に背いたりすると、不安になったり、恐れが生じたりするのです。もしいのちがなかったら、いのちの原理が全く働いていないなら、不安などは生じません。私たちが不安になるのは、私たちの内にいのちの種が蒔かれたからなのです。ですから、罪の勢力といのちの勢力の闘いが、ここから始まるわけです。そしてこの闘いは、いのちの勢力が圧倒的な勝利を治めるまで続けられます。パウロは、Ⅱテモテ3章12節で、
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」
と言っています。確かに、キリスト・イエスにあって生きようと思うなら、そう決心したその瞬間から、この罪と死の勢力との闘いが始まるわけです。信じているような信じていないような、ふらふらした状態で生きていたときには何の闘いもなかった人が、主のみこころに従って歩んでいこうと決心した瞬間に、その人の中に大きな変化が起こるのです。その結果、いったい何のために信じたのかさえも見失ってしまうほどの混乱が生じるのです。これまで何でもないと思っていたことができなくなったり、あたりまえだと思っていた常識がそうでなくなったりして戸惑ったりするのです。それはその人の中にいのちが芽生えたからなのです。いのちの御霊の原理が、罪と死の原理と闘っているからなのです。
使徒の働きの17章を見ると、パウロがテサロニケという町で伝道していると、その町の人たちがクリスチャンの人たちを「世界中を騒がせて来た者たち」と呼びました。いったいクリスチャンが何をしたというのでしょうか。何もしていません。ただ全世界の唯一の救い主であるイエス・キリストを信じ、この方の御名を宣べ伝えていただけです。しかし、テサロニケの人たちの目には、このクリスチャンたちの存在が、世界をひっくり返す人たちのように映ったのです。イエス様を本当にまっすぐに信じる人たちの所には、こうした革命的な変化が自ずと現れるのです。
イエス様は、マタイの福音書10章34~36節のところで、このようなことを言われました。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」 どういう意味でしょうか。私たちが本気でみことばに従おうとすると、家庭内の平和は崩れるということです。一方にはこの世の原理で生きようとする人がいて、もう一方ではみことばに従って生きようとする人たちがいて、ぶつかり合うからです。いのちのみわざがなされるところには、いつも罪と死の勢力があがいて暴れるからです。ですから見てください。イエス様が現れた所には、悪魔につかれた人たちが声を出して発狂しながら出て行きました。いのちそのものであられるイエス様が来られると、死の勢力はもはや隠れていることはできなかったのです。教会に葛藤が生じるのも同じです。このいのちの御霊の原理に罪と死の原理が闘いを挑むので、平和が崩れてしまうのです。ですから教会は、いつもいのちの御霊の原理に支配されるように、いつも神様の視点で物事をとらえ、神様のみこころにかなった歩みができるように祈らなければなりません。
Ⅲ.主イエス・キリストにあって(24-25)
ではどうしたらいいのでしょうか。どうしたらこの罪と死の原理に勝利することかできるのでしょうか。それはただ主イエス・キリストにあってであるということです。24~25節をご覧ください。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」
いったいどういうことでしょうか?パウロたる人間が、「私、ほんとうにみじめな人間です。」と嘆くゆえんは何なのでしょうか。それは彼の中には、この罪と死の原理に打ち勝つ力がないということです。彼には善を行いという思いがあっても、その善を行う力がないというのです。そして、からだの中にある罪の律法のとりこにされているというのです。みことばに従いたくても従えないというのです。これがパウロが直面した挫折感でした。そしてこれはパウロばかりではなく、すべてのクリスチャンに言えることなのです。私たちはこの罪に打ち勝つ力などないのです。ほんとうにみじめな人間でしかない。いったいどうしたらこの罪と死の原理から解放され、いのちの御霊の原理が働くのでしょうか。
パウロは、その答えがわかりました。それは全く私の中にあるものではなく、神の恵みによるものでした。25節で彼はこう言っています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」彼は、それはただ神様の恵みでしかないということがわかったのです。自分がいかに罪深い者であり、自分の中にはこの罪に打ち勝つ力など全くないのにもかかわらず、神がイエス・キリストによってその罪の贖いをしてくださいました。私たちはただ神様の御前に頭を垂れ、悔い改めて、神に立ち返り、神の恵みによりすがるだけでいい。そうすれば、イエス・キリストにある神の義と力が、この罪と死に完全に勝利することができる。パウロはその原理がわかったのです。この嘆息こそ祝福です。これこそ、神の恵みに深く入れられた者の告白です。信仰のない人に、このような嘆息はありません。信仰のない人には、自分の弱さ、醜さが見えないからです。人はまことの神様の恵みの光、力の光に照らされて、初めて自分がどれほど罪深い存在なのかがわかるのです。主にあって自分の弱さと足りなさを知った人だけが、この告白をすることができる。ですから、パウロの手紙などを見てみると、彼がキリストにあって歩めば歩むほど、低くされていることがわかります。比較的初期の頃に書かれたコリント人への手紙では、彼は自分のことを「使徒の中では最も小さい者」(Ⅰコリント15:9)と言っていたのに、中期に書かれたエペソ人への手紙では、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)と読んでいるのです。そして、末期に書かれたテモテ第一の手紙では、「私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)と言っています。完全に最低のところまで低く見ています。これが彼の福音理解でした。まさに「実るほど 頭を垂れる稲穂かな」です。それは霊的な世界でも同じ事なのです。
ある人々は自分はしっかりした器だと思っています。特に悪いことはやっていないし、主の日の礼拝もちゃんと守っている。自分は立派な信仰者だと錯覚しているので、変わっていない自分の姿を見ても、「私は何てあわれな者だ」と胸を打って、悲しむことがないのです。これは災いです。「ああ、ほんとうに私はみじめな人間だ。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫び、悔い改めなければなりません。この「死のからだ」ですが、これは当時の処刑の方法に「死体の抱き合わせ」というのがあって、生きている死刑囚と死体とを一緒に縛りつけるというものでしたが、その体のことです。死体が腐るときに発生する病原菌が、生きている死刑囚の体に移り、死に至るのです。普通は死ぬにの1~2ヶ月かかったと言われています。その体のことです。私たちの体はまさに死のからだなのです。いったいだれがこの死のからだから、私を解放してくれるのでしょうか。
ただイエス様だけです。この24節と25節の間には、がらっと雰囲気が変わっています。まるで今泣いたカラスがもう笑ったかのようです。大きなギャップがあります。なぜでしょうか。それは、私たちはそうした嘆き、絶望に長くとどまっていてはいけないからです。自分のみじめな状態を見るとき、私たちは、「ああ、私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫ばずにはいられないでしょう。がしかし、いつまでもそこにしがみついていてはいけません。私たちはそうした絶望の淵から飛び上がらなければならないのです。どうやって?イエス・キリストによってです。「イエス・キリストのゆえに」これがキーワードです。自分の力によってではなく、イエス様を仰ぎ見たら、力が湧いた、希望に溢れたというのです。私たちに救いを与えてくださるイエス様は、死に定められた状態にずっととどまり続けた存在ではありませんでした。三日目によみがえられたのです。死の力を完全に打ち破って、復活されました。ここに希望があります。イエス様は天と地のすべての権威を持っておられ、悪魔の力を完全に打ち破ることができるお方なのです。自分の内には全く希望がなくても、このイエス様によって勝利することができる。これがパウロの勝利の力でした。
ですから私たちは、いつまでも失望や落胆の中にとどまっていてはいけないのです。クリスチャンでも落ち込むことがあります。どんなに偉大なクリスチャンでもみな失望、落胆を経験したのです。ただ違うのは、その中で何を見つめたのかです。「主イエス・キリストのゆえに」ここに私たちの希望があるのです。私たちは罪と死の原理に悩み、負けそうになっては落ち込んだりする弱い者ですが、主イエス様はこうした支配を完全に打ち破る力を持っておられる方であることを覚え、ただこの方の恵みによりすがり、信仰によって、勝利ある人生を歩む者でありたいと思うのです。これが私たちの進む道なのです。