ローマ人への手紙8章1~11節 「キリスト・イエスにある者」

きょうは「キリスト・イエスにある者」というタイトルで三つのことをお話したいと思います。第一のことは、キリスト・イエスにある者は決して罪に定められることはないということです。第二のことは、キリスト・イエスにある者とはキリストの御霊を持っている人のことです。第三のことは、このキリスト・イエスにあって歩んでまいりましょうということです。

Ⅰ.救いの確かさ(1-4)

まず第一に1~4節をご覧ください。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」

パウロは、これまで語ってきたことを受けて、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と宣言しています。クリスチャンでも罪に悩むことがあります。自分の中には善をしたいという思いがあるのに、かえって、したくない悪を行ってしまうという闘いがあるのです。言わなければ良いことを言ってしまったり、言わなければならないことを言えなかったりと、自分の弱さ、足りなさに思い悩み、落ち込むことがあるのです。それはほんとうにみじめな姿です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。それはただイエス・キリストだけです。神はご自分の御子を、私たちの罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、その肉体によって私たちの罪を処罰してくださいました。「こういうわけでです」こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないのです。

何と力強い宣言でしょうか。たとえ罪に思い悩むようなことがあっても、たとえイエス様から離れてしまうようなことがあったとしても、イエス様が見捨てたり、見放したりすることは決してない。イエス・キリストにあるならば、決して罪に定められることはないというのです。なぜなら、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。この「解放した」ということばは、過去において一回限りの出来事を現す時に用いられる用法です。つまり、私たちが二度と罪に定められることがないのは、イエス様が十字架にかかって死んでくださり、その罪から解放してくださったからなのです。それまではというと、私たちは裁かれなければならない存在でした。神様から与えられた律法に対してそれを行おうとしても、自分の中にある罪がそれを利用して、かえって多くのむさぼりを引き起こしてしまう。それが人間の現実なのです。律法を行おうと思えば思うほど、それができない弱さに気づかされ、かえって死に導かれてしまう。いったいどうしたらいいのでしょうか。イエス・キリストです。イエス・キリストが解放してくださいました。肉によっては無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。キリストを十字架につけることによって・・・。私たちは、ただ神様の御前に頭を垂れ、悔い改めて、この救いを受けるだけでいいのです。そうすれば、この神のいのちの御霊が働いて、罪と死の原理から、私たちを全く解放してくださるのです。これが福音です。

それはちょうど法定に引き出される囚人のようです。私たちは自分の罪のためにいつもビクビクしていなければならないような者です。法定で審判を受けるときどんな判決を言い渡されることか。罪から来る報酬は死ですから、私たちに言い渡される審判は死刑なのです。ところが神は、その最期の審判において判決を下すとき、何と無罪と宣言してくださるというのです。アメージングです。おっどろきです。自分が今までしてきたことを思えば、当然、さばかれても仕方ない者なのに、何と無罪と宣言してくださるというのですから。全く自分の耳を疑いたくなるような事態が起こるというのです。なぜ?キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

肉によって無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。これは神様の一方的なみわざなのであって、私たちの力によるのではありません。私たちには神様の律法を行う力など全くないのです。ただ神の御霊が私たちの内側で働いてくださるとき、私たちにできないことでもできるようにしてくださるのです。たとえば、私たちは自分の力では大空高く飛ぶことができませが、飛べる方法が一つだけあります。大空高く飛ぶことができる鳥にぶら下がっていればいいのです。そうすればその鳥と一緒に飛ぶことが出来る。それと同じように、私たちの力ではどうあがいても神が求める律法の要求を満たすことはできませんでしたが、神の御霊である聖霊様にくっついていればできるのです。聖霊様が私たちの中でみわざをなさると、すべてのことを簡単に行うことができるのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

私たちの力では世界宣教を担う事はできませんが、聖霊様が働かれ、力を与えられますと、私たちは力強い証人になることができます。たとえ雄弁な舌をもっていても、人を変えることはできませんが、けれども聖霊が働かれると、一度のメッセージで三千人、五千人が悔い改めるようになるのです。今、日本には神様が働いておられないように感じますが、聖霊様が働かれるとこの国は一瞬にして主のものになるのです。

クリスチャンの人生とは、この聖霊を受け、聖霊に頼る人生です。「聖霊が私たちに力をくださるなら、その方にあってできないことはありません」と告白して生きるのがクリスチャンの人生なのです。ですから私たちは、「権力によらず、能力によらず、私の霊によって」(ゼカリヤ4:6)という主のみことばに励まされながら、進んでいくのです。歯を食いしばって頑張っても無駄です。主が聖霊を注いでくださってはじめて、すべてのことは成し遂げられるからです。

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してないのです。たとえ私たちが罪を犯すようなことがあっても、神から離れるようなことがあったとしても、それでクリスチャンでなくなったりするようなことは決してありません。それは一方的な神の恵みなのです。神の救いは、私たちの状況によって消えてしまったり溶けて無くなったりしまうようなもろいものでありません。いつまでも変わることがない神の約束のことばに基づいたものなのです。ですから救いの確信というのは、自分の感情や気分、だれかの言ったことば、置かれた状況によって左右されるものではなく、この神様の約束のことばに根ざしているのです。そうでなかったら、私たちの信仰はジェットコースターのようにいつも上がったり下がったりして不安定なものになってしまうでしょう。しかし、この神の約束に信頼するなら、どんなことがあっても揺すぶられることがなく、確かな信仰を持ち続けることができるのです。

Ⅱ.キリスト・イエスにある者(9-11)

第二のことは、ではキリスト・イエスにある者とはどういう人のことを言うのでしょうか?9~11節をご覧ください。

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」

一般的にクリスチャンというのは、洗礼を受けて教会に加わり、教会のために一生懸命に活動している人というイメージがありますが、必ずしもそうではありません。ここには、「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。」とか、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」とあります。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」すなわち、クリスチャンというのは、キリストの御霊を持っているかどうかなのです。Iコリント12章13節を開いてみましょう。

「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」

これは聖霊のバプテスマについて記されているところです。聖霊のバプテスマついては新約聖書の中に何か所か出てきますが、その内容について語られているのはこの箇所だけです。すなわち、聖霊のバプテスマとは頭であられるキリストのからだに結び合わされ、そのからだである教会の一員になることであって、それ以外の何ものでもありません。よく第二の恵みとしての聖霊のバプテスマという意味で使われる方がおられますが、それは聖霊に満たされることであって、聖霊のバプテスマではありません。聖霊のバプテスマとは聖霊によってキリストと一つになることです。イエス様が十字架にかかって死なれたように自分に死に、イエス様がその死からよみがえられたようにキリストのいのちにあって生きる人、それがクリスチャンです。イエス様はそのことをぶどうの木のたとえで、次のように教えられました。ヨハネの福音書15章5節です。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

皆さんはNHKの大河ドラマ「江~戦国たちの姫たち~」を観てますか。別に観なくてもいいのですが、前回の放映の中に戦国時代に生きた細川ガラシャというキリシタンの女性が出ていました。彼女は織田信長に謀反を起こし、本能寺の変で主君信長を倒した明智光秀の娘ですが、後に山崎の戦いで豊臣秀吉が明智光秀に勝利すると、秀吉は当時細川忠興の妻となっていたこのガラシヤ夫人こと「たま」を離縁させ、京都の山里に幽閉さるのです。その間約二年の間、彼女は二人の子供を連れて過酷な状況を生き抜くのですが、そんな彼女を支えたのがキリシタン信仰でした。彼女に仕えていた侍女に清原マリアというキリシタンがいて、彼女をとおしてイエス・キリストを信じる信仰に導かれるのです。やがて秀吉の配慮によって忠興との復縁が許され大阪の屋敷に戻されるも、秀吉のキリシタン禁令が発布される中、彼女は必死で信仰に生きました。  やがて秀吉の死後、石田三成と徳川家康が天下分け目の関ヶ原の戦いを交えると、家康側についた細川家から人質に取ろうと石田三成が屋敷にやって来ると、たまは断固としてそれを拒み、家老に胸を突かせて死にました。自害することは神のおぼしめしではないという教えを知っていたからです。そのときにたまが最期に詠んだ詩というのがこれです。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

これは人生にはすべて神の時があって、その神のみこころのままに生きることが幸いな人生であることを歌った歌です。なぜに彼女はこのように歌うことができたのでしょうか。その信仰に生きていたからです。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です、とパウロが告白したように、彼女はキリストともに死に、キリストとともに生きる、その信仰に生きていたのです。クリスチャンというのは形ではありません。神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるかどうか、キリストの御霊を持っておられるかどうかなのです。もしイエスを死者の中からよみがえらせてくださった方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、その御霊によって、私たちの死ぬべきからだも生かしていただける。あの罪と死の原理から、解放していただけるのです。ですから私たちにとって最も重要なことは、神の御霊によって、キリスト・イエスに結び合わされているかどうか、キリスト・イエスのうちにあるかどうかということなのです。もしキリスト・イエスにあるならば、もう罪に悩む必要はありません。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。決して罪に定められることはありません。

Ⅲ.御霊に従って歩もう(5-8)

ですから第三のことは、御霊に従って歩みましょうということです。5~7節をご覧ください。

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」

ここには「肉に従う者」とか「御霊に従う者」という二種類の人について記されてありますが、これはそれぞれどういう人のことでしょうか?ここで使われている「肉」という言葉は「サルクス」というギリシャ語で、生まれながらの人間を指す場合に用いられる言葉です。たとえば、ヨハネの福音書3章6節には、

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

とありますが、この「肉」こそ「サルクス」です。つまり、肉体的誕生しかしていない人のこと、生まれながらの人のことです。それに対して御霊の人とは、御霊による超自然的な霊的誕生をした人で、本当の意味で生まれ変わった人のことです。それはただ単に宗教に関心があるとか、宗教的な活動にかかわっている、参加している人のことではありません。あるいは、神学に興味があってそうした本を熱心に研究している人のことでもありません。別にクリスチャンでなくても神学に興味をもったり、宗教的な活動に参加することができるからです。あるいはまた、宗教的な現象、たとえば奇跡とか、病気の癒しとかといった神秘的な体験を求めることでもないのです。御霊に従う人というのは、そうした外見的なこととは全く関係なく、御霊によって新しく生まれ変わり、御霊の原理、御霊の生活方針によって生きようとしているかどうかということです。ここで注意していただきたいことは、たとえその人が信仰的に誤った理解を持っていたり、間違ったことをするようなことがあったとしても、その人が救われていないと判断することはできないということです。よく私たちは信仰的でない人をみると、「あの人、あれでもクリスチャン?」言ってしまうことがありますが、その方がクリスチャンであるかどうかを私たちが軽率に判断してはいけないのです。それは神様の領域であって、神様がお決めになることです。ただ神の約束のことばによるならば、もしキリストの御霊を持っていないならば、その人はキリストのものではありませんが、もしキリストの御霊を持っているならば、その人はキリストのものであるということです。たとえ今はそうでなくても、キリストの御霊を持っていれば、その人はやがて立派なクリスチャンになることでしょう。それはここに、「肉にある者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます」とあるからです。なのに表面的な言動を見て、あの人は救われているとか、いないと判断するとしたら、それこそみことばを逸脱したことばであって、厳に戒められなければならないことなのです。

ところで、このような人間観は一般的に考えられているものとは違います。一般的には肉に従っているかとか御霊に従っているかといったことを全然問題にしません。一般的には、人は修行を積むことによって自分自身を向上させていき、やがて天国に入ることができる人格者になっていくと考えられています。自分の努力や力によって自分の品性や意志を聖め、また高めようとするわけです。しかし聖書が教えていることは、肉に従うのか御霊に従うのかどっちなのかということであって、これが基本だと説きます。そうでないと、それがただの小手先の改革になってしまうからです。ただ小手先に、表面的に改革をしてみたところで、死からいのちに移すことはできません。人間がいくら自分の意志や思いを訓練し、修行を積み重ねても、肉に縛られているかぎり、それは悪魔の手中に陥っているのであって、その行き着くところは死でしかないからです。その死の支配から解放されいのちと平安を持つためには、御霊によらなければなりません。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安だからです。肉にある者は神を喜ばせることはできません。御霊に従うこと、御霊の思いに満たされること、それがいのちと平安です。

であるとすれば、私たちの信仰生活において最も重要なことは何かをするということではなくて、祈りとみことばを通して神と交わり、神の御霊に従って生きることです。祈りとみことばによって神のいのちに生きるなら、神がしてくださるでしょう。神が私たちの人格を変えて、神に似た者のようにしてくださいます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を実らせてくださいます。クリスチャンの生涯はこうした実を追い求めていく人生ではありません。こうした恵みが追ってくる人生なのです。なぜ?神と交わり、御霊のいのちが働いてくださるからです。同じようなことをしているようでも、その出所が全く違います。パウロは、エペソ人への手紙1章19節で、

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

と祈っていますが、信じる者に、信じてみことばに従い、聖い神の御前に進み出る者に、この神の全能の力が働き、日々、満ち満ちたみわざを現してくださるのです。これこそ神を信じ、御霊に従って生きる者に注がれる神の祝福なのです。どうかこの神の恵みにとどまり、御霊に従う者となり、御霊に属することをひたすら求めてまいりましょう。ちょっとしたことでは決して動じないみことばの約束に基づいて、この確かな救いを握りしめてまいりましょう。