ローマ人への手紙8章12~30節 「神の御霊に導かれる人」

きょうは「神の御霊に導かれる人」というタイトルでお話したいと思います。8章1節からのところでパウロは、キリスト・イエスにある者、つまりクリスチャンとはどういう人なのかについて語ってきました。つまり、キリストの御霊を持っている人です。9節、「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」とあります。

そこで、きょうのところには、その神の御霊に導かれる人にはどのようなことが起こるのかについてパウロは語っています。三つのことをお話しします。第一に、神の御霊に従って生きるなら生きるということです。第二のことは、もし神の御霊が住んでおられるなら、私たちは神の子どもにしていただけるということです。そして第三のことは、もし神の御霊が住んでおられるなら、この御霊が弱い私たちを助けてくださいます。

Ⅰ.生かしてくださる御霊(12-13)

第一に、もし神の御霊が私たちの内におられるなら、私たちは生きます。12~13節をご覧ください。

「ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」

パウロは、罪に対して全く無力である自分の姿を見て、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの、死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(7:24)と嘆かずにはいられませんでした。しかし、彼はそんな中にあって勝利の秘訣を見いだしたのです。それは、イエス・キリストでした。8:1~3です。

「8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」

何と力強い言葉でしょうか。イエス・キリストにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、イエス・キリストにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から私たちを解放したからです。私たちは弱くても、キリストが御霊によって私たちの内に住んでおられるので、罪に勝利することができるのです。肉によっては無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で遣わし、私たちの罪のために十字架にお付けくださることによって、罪を処罰してくださったのです。それは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、神が私たちに要求される律法の要求が全うされるためです。ですから、私たちはもう肉に従って生きるのではなく、御霊に従って生きているのです。肉によってからだの行いを殺そうとするのではなく、御霊によってからだの行いを殺さなければなりません。人間の力や頑張り努力によってではなく、神の恵みによってこそ肉に勝利することができるのです。

では、御霊によって肉の行いを殺すとはどういうことなのでしょうか。ガラテヤ人への手紙5章16節には、「 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」とあります。それは御霊によって歩むことです。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(同5:24)

アメリカのフロリダに、ある大きな長老教会がありますが、その教会の牧師はジェームズ・ケネディーという人ですが、彼はもともとダンススクールの講師でした。このスクールはかなり繁盛していたのですが、ある日突然誰も来なくなってしまいました。いったいどうしたことかと悩みながらその講師を辞めると、それまで行きたくなかった神学校に導かれたのです。しかし、そこでの訓練によってすっかり変えられた彼は、神様に尊く用いられる牧師になりました。そしてやがて「爆発する伝道」という世界的に用いられている伝道教材を作るようになったのです。いったいなぜダンススクールがつぶれてしまったのかはわかりません。ただ一つ言えることは、そのことによって神は彼を用いようとしておられたということです。ですから、それ以上進むことができないようにに、その道を閉ざされたのです。

使徒の働き16章を見ると、パウロの第二次伝道旅行の時に、彼らがアジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられるということがありました。それで彼らは仕方なくフルギヤ・ガラテの地方を通ってミシアの近くまで来た時、ビテニアに進もうとしたら、今度もイエスの御霊がそれを許しませんでした。いったいどういうことか。それで彼らはミシアを通ってトロアスまで下りますが、パウロはそこで一つの夢を見ます。それは、マケドニアに下って来て、私たちを助けてほしい」ということでした。そのとき、パウロは、それは神が自分たちに福音を宣べ伝えさせるためだと確信し、トロアスから船出してサモトラケに直行し、翌日ネアポリス、そしてピリピに到着しました。そうです、ここからヨーロッパ伝道がスタートするわけです。それは言い換えるなら、聖霊に導きによるものであったのです。それはパウロが自分の思いではなく、神の思い、聖霊の導きに従った結果、起こったのです。

今日から、大田原教会で英語礼拝がスタートしました。これは何年か前からあった計画でしたが、実際に始めてもうまくいかないのではないかということで、なかなかスタートできずにいました。しかし、ケビン兄を中心に祈り、5月か6月に1回だけやってみて、集まった人たちの意見を聞いてみましょうということでやってみると、30人位の方々が集いました。終わってから話を聞いてみると、ぜひ毎週やりたいということでした。それで私たちはどうするかを祈りました。奉仕者の問題、その後の日本語の礼拝への影響など、主の導きを求めて祈ったのです。一番大きな課題は、メッセンジャーを確保することでした。ケビン兄は月1一回できても、他の時をどうしたらよいか。それでアジア学院のティモシー宣教師に相談してみたら、とても感動してくれました。そしてぜひ協力させてほしいと申し出てくれたのです。そのようにして主は、英語礼拝をスタートさせてくださいました。これは主の導きによるのです。

パウロは言いました。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」これが御霊を持っている人に求められていることです。私たちがどう思うかということではなく、神の御霊がどのように導いておられるのかを知り、そこに歩むこと。そうすれば、決して肉の欲求を満足させることはないのです。

 Ⅱ.子としてくださる御霊(14-25)

第二に、神の御霊は私たちを神の子としてくださいます。14~16節をご覧ください。

「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」

神の御霊に導かれる人の特徴は、「恐れがない」ということです。なぜなら、人を再び恐怖に陥れようとする奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたからです。私たちは神様を「アバ、父」と呼ぶことができるようになりました。これは「お父ちゃん」という親しみのこもった言葉です。「お父上様」とか「お父上様」といったかしこまった言い方ではありません。「お父さん」「お母さん」といった親しい関係の呼び名です。私の孫は私を「グランパー」と呼んでいますが、そんな感じです。全く遠慮がありません。もう少しくらい遠慮したらいいのかと思うこともありますが、全く遠慮がありません。私たちはイエス様を信じたことで、神の子とさせていただきました。私たちに恐れが生じるのは罪があるからです。その罪によって神様から捨てられたと感じるからなのですが、イエス様を信じて罪が赦され、聖霊が与えられたので恐れがないのです。御霊ご自身が、私たちが神様の子どもであることを証してくださるからです。テモテへの手紙第二1章7節には、「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」とあります。恐れる心は悪魔が与えるもので、信仰を離れ、神様に対する信頼が消えるようにともたらすものです。そのため恐れには刑罰が伴うのです。しかしクリスチャンは恐れではなく、愛と平和に満たされた心を持ちます。神様を信じる者には、天と地のすべての権威が与えられるからです。何とイエスの御名によって叫べば、悪しき勢力も滅ぼすことができるのです。イエスの御名にはそれだけの力があります。ペテロとヨハネは神殿の美しの門に座っている足なえに、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)と命じるとそのようになりました。イエスの御名にはそれほどの力があるのです。であれば、何を恐れる必要があるでしょうか?

またクリスチャンには恐れだけでなく、愛があります。愛を受けた人々は自信があります。子どもたちを見ていてもわかりますが、自信に溢れている子どもと、そうでない子どもがいます。その違いはどこにあるかというと、家庭でどれだけ愛を受けたかどうかです。私たちがいろいろなことで心配したり、恐れたり、意気消沈してしまうのは、神様が私を愛しているという実感が持てないために起こるのです。「神様が私の味方であるなら、だれが私に敵対できるというのだ」という告白がクリスチャンの真骨頂です。神が私たちを愛しておられるという確信を持てるとき大胆になれるのです。全能の神様が私を愛してくださり、私を認めてくださっているのに、誰が私に敵対するのか?このように大胆に、いつも世に打ち勝つ者となれるのです。

そして、もし子どもであるなら、相続人でもあります。17,18節には、「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」とあります。

やがて私たちは神の子として、天の御国を相続します。その御国はもうこの世のものではありません。おそらくこの世において一番夢のような国はディズニーランドでしょう。私の知っている人にディズニーランドが大好きで、年に4,5回は行きます。毎日一生懸命に働いているのは、このディズニーランドに行くためだというのです。そんなに好きなのかと驚いてしまいます。しかし、ディズニーランドがどんなに魅力的な所でも、この天国と比べたら全くくらべものになりません。黙示録21章を見ると、この天国の輝きは高価な宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであったとあります。(21:11)それは混じりけのないガラスに似た純金でできていて、土台石はすべてあらゆる宝石、また12あると言われる門はどれも真珠からできていました。(18-21)この御国を相続することができるとしたら、どんなにすばらしいことでしょうか。クリスチャンは神の子としていただいたので、この御国を相続するのです。であれば、今の時のいろいろな苦しみも、将来私たちに啓示されようとしているこの栄光に比べれば、全く取るに足りないものです。クリスチャンにもいろいろ苦難があるでしょう。しかし、私たちに与えられた御霊によって、神の子とさせていただいた今、私たちにはすばらしい栄光が約束されていることを思うとき、どんな大きな障害があっても、この御霊によって、圧倒的な勝利者になれるのです。

 Ⅲ.助けてくださる御霊(26-30)

第三に、御霊は弱い私たちを助けてくださいます。26~27節までをご覧ください。

「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。」

人間を一言で評価するなら、「弱い」ということになるでしょう。本当に人間は弱いものです。それは神様が私たちを「土の器」と呼ばれたことからもわかります。土の器はとても壊れやすいものです。実は人間の肉体もこの土の器のように、わずかな過労にも倒れ、苦しい状況に置かれると病気になります。つい最近まで健康を誇っていた人が、急に病気で亡くなってしまうこともあります。いくら自分の健康を誇っていても、土の器のようにもろいのです。人間は肉体的にも、精神的にも、霊的にも、本当にすべての面で弱い存在なのです。しかしその弱い私たちも、内に聖霊の力が働くなら、決して弱くはありません。聖霊が弱い私たちを助けてくださるからです。

聖路加国際病の医師として105歳で召されるまで現役の医師としてご活躍された日野原重明先生は、ご自身の著書「いのちの器」という本の中で、「人間のからだは、病み、老い、やがては土に帰っていく「土の器」。しかしその器に健やかな心を盛ることができるなら、それは朽ちることのない「宝」となる」と言っています。その器に健やかな心を盛ることができるなら、それは朽ちることのない「宝」となるのです。その健やかな心こそ神の御霊なのです。

神の御霊、聖霊はどのように弱い私たちを助けてくださるのでしょうか?第一に、私たちがどのように祈ったらよいかわからない時に、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。クリスチャンの内に住まわれる聖霊様は、何よりもクリスチャンの祈りを助けてくださるというのです。皆さん、人間とって一番弱い部分は何でしょうか。それは祈りです。祈りは何よりも難しいことです。もし徹夜で奉仕してくださいと言われたら、やる人はしっかりやるでしょう。でも「徹夜で祈りなさい」と言われたら、なかなかできないものです。イエス様の弟子たちは、イエス様によくついて行きました。荒野に行こうと言われれば「はい」とついて共に行き、海に行こうと言われれば行き、あの町、この町に伝道に行こうと言えばついて行きました。しかし祈りだけはついて行けませんでした。「祈ろう」と言われるとすっかり眠りこけてしまいました。ゲッセマネの園でイエス様が「わたしのために祈っていなさい」と言われても、祈っていることができませんでした。祈りは労働中の労働であり、人の力ではできない霊的なことであり、闘いだからです。だから祈りに成功する人は力をまとい、残りのすべてのことにおいても勝利するのです。

そのような祈りを助けてくださるのが御霊です。御霊は、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださるのです。私たちを祈りの場に連れて行ってくださり、行き詰まった祈りの門を一度に開いてくださいます。なぜ御霊はこのようにして、私たちの祈りを助けてくれるのでしょうか。それは祈りを通して私たちを変え、神の恵みで満たしてくださるためです。本当に弱い私たちを、力強い神様の器に造り変えるためなのです。従って、私たちが神様のみことばに従って祈るとき、歴史の流れを変えるほどの働き人になるのです。聖霊が私たちを変え、あのエステルのように、「死ななければならない時には死にます」と言って、民族を救う働きをする器にしてくださるのです。

そればかりではありません。御霊は、何を祈ったらよいかも教えてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられるからです。なぜなら、御霊は神のみこころに従って、とりなしてくださるからです。そうでなかったら、私たちはでたらめなものばかり求めて祈ってしまうことになるでしょう。あのヤコブとヨハネの母親であつたサロメは、ある時イエス様のところにやって来て、「あのイエス様、私の二人の息子を、あなたの御国において一人は右大臣に、もう一人は左大臣にしてください。」とお願いしました。これは現代風に言えば、外務大臣と財務大臣にしてください、と頼んでいるようなものです。するとイエス様は何と言われたでしょうか?イエス様は一同を見渡されると、「あなたがたは自分が求めていることがどういうことなのかがさっぱりわかっていない」と言われました。御霊によって祈らないとこうなってしまうのです。みこころに従って正しく祈らなければなりません。子どもが包丁をくださいと言うとき、そのまま与えてやる人がどこにいるでしょうか?求めたとおりすべて与えられることが祝福ではないのです。私たちが求めるものは、自分の目に良さそうに見えても、いざ与えられると災いになってしまう場合があります。ですから、大切なのは、神のみこころに従って祈れるかどうかです。神のみこころに従って祈れることが祝福です。そのように導いてくださる方が御霊なのです。

私たちの内に住まわれる御霊は、私たちのすべての道を導いてくださいます。私たちの祈りを導かれ、最終的には神様の願われる道へと導いてくださるのです。クリスチャンとは、決して間違った祈りをしない、誤った道を行かない人のことではありません。クリスチャンにも間違いがあります。でも、このように神が弱い私たちの祈りを導いて正しい道へと導いてくださるという確信を持って、揺らぐことなく歩んで行く人のことなのです。ですから聖霊によって祈り、聖霊によって導かれる人は、次の告白をするのです。28節です。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

時々、イエス様を信じているクリスチャンの中にも、毎日「大変だ」と言いながら大げさに振る舞う人がいます。しかし実際によく話を聞いてみると、そんなに大したことではないのです。なぜ大変なのかというと、信仰がないからなのです。神がともにおられ、すべてを働かせて益としてくださるというのに、何が大変なのでしょうか。ですから見てください。たとえば、イエス様とともに舟に乗っていたペテロは、嵐が襲ってきたときどれほど恐れたでしょうか。「主よ、起きてください。私たちは皆死にそうです。」私たちもよく言うのではないでしょうか。「もう辛くてダメ。死にそう!」「もうダメダメ、死ぬ」何がだめなのか自分でさえもわかっていないのに「ダメ」「死ぬ」という言葉を連呼するのです。ペテロもそうでした。「主よ。ダメ。死にそう」しかしペンテコステの時に聖霊の力を体験した彼は、そのようには叫びませんでした。ヤコブが処刑されてわずか数日後、ペテロは投獄され、死刑に処せられる危機に瀕していました。それなのにペテロは獄中で大きないびきをかきながら眠っていたのです。どれほど深く眠っていたかというと、天使がやって来て彼を起こすとき、言葉では起きないほどでした。わき腹をたたいてやっと起こすほどだったのです。これがクリスチャンの余裕です。どんな困難や試練が襲って来ても、すべてを働かせて益としてくださる神様が私を守り導いてくれているのだから、私は何の心配もいらない。それは神様が私を祝福してくださるための計画の一部であって、それらすべてが神様の愛だと確信できるのです。それは主によって召された者の人生は、すべてを働かせて益としてくださる主のみわざの中にあることを信じているからです。

あの3.11の震災の時、朝日新聞の第一面に、気仙沼第一聖書バプテスト教会の記事が掲載されました。被災して何も無くなってしまった教会の跡地に、流木でできた7メートルくらいの十字架が、7~8人の人たちの手によってロープで引っ張られて立て上げる写真でした。タイトルは「祈りよ 再び」というものです。地震と津波によって2年前に建てたばかりの教会堂が流され、どんなに失意の中におられたことかと思います。その後もずっと避難所での生活を余儀なくされて、どんなに苦しみの中に置かれていたことかと思うのです。神様が生きておられるならいったいどうしてこのようなことをされるのですかと疑いが出ても少しおかしくない状況だったでしょう。そこに十字架が立ったのです。気仙沼の心の慰め、癒しになればと、十字架が立てられました。それはどんな言葉やどんな支援よりも何よりも大きな慰め、癒しです。それが新聞の第一面に掲載されて全国に配信されたのです。

そして、あれから5~6年が経ち、高台の広い大地に立派な教会ができました。全世界の方方に祈られて、以前よりも何倍も立派な教会ができたのです。こんなことだれが考えられたでしょう。でも、これが神様のなさることなのです。人の目には不幸に見えるような出来事も、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。どんなことがあっても神様は私たちを愛しておられ、すべてを働かせて益としてくださるのです。ですから、一つの現象だけにとらわれて、「ああ、何かの間違いだ」「神様は私を見捨てられたんだ」と嘆いてはいけないのです。クリスチャンとは、すべてのことを働かせて益としてくださる神様のみこころを信じて生きる者なのです。試みや病気、障害が臨むとき、短いスパンで見たらそれは単なる不幸な出来事かもしれませんが、救い主なる神様の視点で観たら、それは必要な導き以外の何ものもありません。

アメリカにイエス様を心から信じている材木屋さんがいました。彼は40歳を過ぎたある日、突然、青天の霹靂のような知らせを受けました。不況の中、解雇通知が届いたのです。彼はほんとうにショックでした。これまで主とともに歩み、祈りつつ生きてきたのに、どうして神様はこのような試練を与えられるのかわかりませんでした。しかし、「主よ、どうしてですか」と祈っていると、彼の心の中に御声が聞こえてきました。「小さなホテルを始めてみたらどうか。多くの人々が不純な動機からホテルを開業するのに対して、あなたは純粋な動機で、多くの人々が泊まれるような健全なホテルを始めなさい。」と。そして彼がそのとおりにしたところ、神様は多くの恵みを注いでくださり、やがて世界にチェーン網を持つ巨大なホテルに成長させてくださいました。それがホリデ-・インです。神様は彼にもっと大きな計画を持っておられたので、彼が失業することを許され、それを通して新たな道へと導かれたのでした。彼はただ内に住んでおられる聖霊に従うことによって、御霊による神の国の祝福を受けたのです。

どうかこの御霊によって生かされ、強められ、助けられ、神様の深い愛を知ることができますように。この御霊によって、この世での歩みを勝利することができますように。心から祈ってやみません。