ローマ人への手紙8章31~39節 「勝利の歌」

きょうは「勝利の歌」というタイトルでお話したいと思います。38節と39節のところでパウロは、「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」と、高らかに勝利を宣言しています。

パウロは、これまで1~6章までのところでイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるということを語ってきましたが、7章に入ると、そのように義と認められた者の罪との戦いについて語ってきました。すなわち、自分の中には善をしたいという思いがあるのに、かえって、したくない悪を行ってしまうのは、自分のうちに住む罪のせいだ・・・と。しかし、クリスチャンには神の御霊が与えられているので、この御霊が罪と死の原理から私たちを解放してくださったのですから、私たちは罪に悩む必要はないのです。だれも、何も、このキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。

きょうはこのクリスチャンの勝利について三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできないということについて。第二のことは、神が義としてくださったのなら、だれも私たちを訴えることはできません。ですから第三のことは、私たちは圧倒的な勝利者になることができるということです。

Ⅰ.神が私たちの味方であるなら(31)

まず第一に、31~32節をご覧ください。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

パウロは、これまで語ってきたことを受けて、神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうかと問いかけます。これは疑問文の形でしるされてありますが、実は断定へと至らせる強い疑問文です。つまり、だれも反対できないほどの強い断定です。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対することができるでしょうか?だれもできません。私たちの周りには、私たちに敵対するさまざまな勢力があります。35~36節のところでパウロは、このように言っています。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。」

当時はイエス様を信じると迫害を受けました。あるときは荒野に追いやられて飢え、あるときは共同墓地に隠れなければならないということもありました。それはまさに、ほふられる羊のようでした。ほふられる羊のようだと表現されているのは、その迫害がどれほどひどかったかを物語っているのです。イエス様を信じるときに、まさに火のような試みがあったのです。それは現代でも同じではないでしょうか。

現代では当時のような迫害はないかもしれませんが、別な形で襲ってくることがあります。たとえば、私たちが生きていくうえで日々直面するさまざまな苦しみや悩みです。私たちの人生には、「どうして自分だけがこんなに悩み、苦しまなければならないのか」といったジレンマがあります。淀川キリスト教病院の柏木哲夫という先生が、「心をいやす55のメッセージ」という本の中で、人生を白と黒の縞のマフラーにたとえて考えると、黒は人生の不幸、白は幸せを現しているけれど、ほとんどの人生が黒と白が交互に織り上げられていると言っておりますが、自分の人生に当てはめてみるかぎり、どうも黒の方が圧倒的に多い。15,16,17と、私の人生暗かった~、長い黒です。しかし、人生悪いことばかりじゃない、いいこともあると思っていたら、「夢は夜開く」で、いいこともあった。しかし、そんないいこともほんのつかの間で、また長く暗いトンネルが続く。どこまでそのトンネルが続くのか・・・。きっといつまでも続かないと思っていたら、ほんとうに明るい兆しが見えてくる。と思ったら、またトンネルの中に・・・。というふうに、白と黒のマフラーではない、ほとんど黒いマフラーじゃないかと思えるような、そんな葛藤です。  あるいは、私たちの中にはまだ罪の残痕があって、悪魔はそれを巧みに使い、強い力をもって攻撃してきたりすることもありますから、そうしたことでの戦いもあるでしょう。さまざまなものが、なおも私たちに敵対してくるのです。

しかし、そうした勢力がどんなに強くても、神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできません。なぜなら、神はこの天地万物を造られた全能者であって、すべてを支配しておられる方だからです。まさに神は王の王、主の主であられるのです。この方に敵対できる者など何もないからです。イザヤ書40章28~31節、

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

主は永遠の神、地の果てまで創造された方です。その英知は計り知れないのです。この方が私たちの味方であるなら、私たちはいったい何を恐れる必要があるでしょうか。私に敵対するということは、この神に敵対することになるのです。この神様に敵対して勝てる人などだれもいません。ですからこの神がともにおられるなら、私たちは何も恐れる必要はないのです。

ダビデは、多くの敵に取り囲まれたとき、次のように告白しました。 「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」(詩篇3:3~6)

ダビデはそのような状況の中にあっても、なぜ恐れなかったのでしょうか?主がともにいてくださると確信していたからです。全世界を敵に回しても、神がともにいてくださるなら、それに屈しないで大胆に生きていくことができます。人目を気にすることも、人の脅しに悩むことも必要ありません。なぜなら、神様がともにいてくださり、神がささえてくださるからです。

では、神が私たちの味方であることをどうやって知ることができるのでしょうか。それは、神の愛によってです。32節をご覧ください。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

神は、私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡してくださいました。であるなら、どうして、御子といっしょに、すべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょうか?ありません。神は御子といっしょに、すべてのものを私たちに恵んでくださるのです。ですから大切なことは、神がこれほどまでに私たちを愛しておられるということを知ることです。

最近、下の娘がよく電話をしてくるようになりました。きょうは宇都宮で研修があったとか、仕事はきついけど楽しいとか、教会までは自転車で20分だったとか、米送ってちょうだいとか、事あるたびに連絡をくれるのです。今まではそうではありませんでした。こちらからどんなに連絡しても、なかなか連絡がつきませんでした。ついたかと思ったら、「うざい!」とか、「もういい!」とかで、煙たがれる存在だったのです。それが急に、家から離れて寂しいとかと言うようになったのです。いったい何があったのか?彼女の中にこの確信が湧いてきたのです。すなわち、親に愛されていることに少しずつ気が付いてきたのです。するとそれまで敵であったような相手が自分の味方であるどころか、どんなことがあっても守られるという強い確信に変わったのです。

神様は私たちのために、ご自分の御子をさえも惜しまずに死に渡してくださいました。それほどまでに愛してくださった。であるなら、神様は私たちの味方であるどころか、どんなことがあっても私たちをつかんで離すことのない愛の方であるという確信を持てるのではないでしょうか。どんなことがあっても、この神が私たちを守ってくださるのです。そう、この神の絶対的な愛こそ、私たちの勝利の礎なのです。

Ⅱ.神が義と認めてくださる(33-34)

第二のことは、たとえだれかが罪に定めるようなことがあったても、神が義と認めてくださるということです。33~34節をご覧ください。

「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。」

これはものすごい宣言です。神様は私たちを、イエス・キリストの十字架の血潮で救ってくださいました。ですから、だれかが私たちを罪に定めようとしても、絶対にできません。それは神が義と認めてくださったことだからです。この「義と認められる」ということばは法律用語で、裁判の時に、無罪と宣言されることを意味します。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていますが(ヘブル9:27)、その最後の審判において、全く無罪と宣言されるというのです。私たちは神を信じるまでは「神なんていない」と豪語して、神を無視し、神を苦しめ、神を悲しませていました。親が子どもに無視されることほど辛いことがないように、神様を無視して、神を傷つけながら生きていました。そればかりではありません。信じてからもなお、人を受け入れられなかったり、人を憎んだり、ねたんだり、落ち込んだりして、まだまだ自分のために生きていました。自分を第一にしては、平気でうそをついたり、ケンカをしたりして、神のみこころにかなわず、神を悲しませて生きていたのです。それが私たちの現実ではないでしょうか。にもかかわらず神は、そういう私たちを義と認めてくださるというのです。

どうしてこういうことが成立するのでしょうか?イエス様が私たちの身代わりに十字架でかかって死なれ、私たちが受けるべき罪の刑罰を受けてくださったからです。イエス様が人間としてこの地上に来られたのはそのためでした。人間が神様に正しい者と認められるには、まず、神の基準を守らなければなりませんでした。その基準とは「律法」です。ところが人類は、それを守ることができませんでした。それでイエス様が代わりに罰を受けてくださり、そのイエス様が私たちの心に入り、私たちは「正しい者」と認められるようになった。これが神の救いです。

「キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ10:4)

ところが、人間はこの神の恵みを極端に嫌い、どうしても自分の力で救われようとする傾向があります。自分の努力、自分の修行、自分の信仰心、自分の忍耐など、そうやって自分の思いどおりになると、自分を誇るのです。実際には全く誇れるような人間など一人もいないのに・・・です。心が汚れ、足の先から頭の髪の毛の先まで罪のかたまりである私たちが、どうやって自分を誇れるというのでしょうか。そのような私たちを義と認めてくださるのは、天から下ってくださった神の恵みイエス・キリスト以外にはないのです。ただ頭を垂れて、悔い改め、イエス様を信じる以外に道はありません。この信仰のゆえに、神は値なしに義と認めてくださいました。

ですから、悪魔がどんな手を使って私たちクリスチャンを責め立てることがあったとしても、そんなことで動揺するには及びません。私たちは「神に選ばれた人」だからです。神に選ばれた人とは、特別に神のものとされた人のことです。もう神のものとされているわけですから、責め立てることなどできないのです。 悪魔が、「何だってお前は悪い人間なんだろう!そのように悪いことばかりするから、救われることはないはずだ。未信者ならともかく、クリスチャンのくせに・・。もしかして「でもクリ?」最低!お前のようなやつは救われない。もうダメだよ!」と言ったとしても、神に選ばれ、神が義と認めてくださったのですから、決して罪に定められることはない、と断言できるのです。その内容だけを見たら確かに正しいのです。私たちは本当に罪深い者であって、こんな私たちが救われるはずはありません。にもかかわらず、神は、このイエス・キリストによって信じる者を義と認めてくださいました。それゆえに聖書は、「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(8:1)と断言するのです。

また、悪魔がどんなにクリスチャンを訴えたとしても、そんなことで少しも心配する必要はありません。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるからです。とりなしてくださるとは、弁護してくださるという意味です。つまり、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったイエス様が、私たちが支払わなければならない罪の代価を支払ってくださったと弁護してくださるということです。これほど確かな保証はありません。私たちの救いの根拠は、私たちの中にではなく、神様にあるのです。このことが分かっていれば、たとえ罪を犯すようなことがあったとしても、その罪にビクビクしている必要はないのです。私たちは自分の罪のために、本当に小さくなっていなければならない者ですが、神の右の座に着いておられるイエス様が、「父よ、この人の罪は赦されました。」と弁護してくださるので、大胆でいられるのです。裁判官であられる神様が、その弁護を絶対的に受け入れて、義と宣言してくださるからです。  ですから大切なことは、この神の義認の宣言を感謝して受け止め、いつも悔い改めて、この神とともに生きることです。そうすれば、私たちの救いの確信は確かなものとなり、私たちの信仰生活もいのちに満ち溢れたものとなるのです。

Ⅲ.圧倒的な勝利者となる(35-37)

ですから第三のことは、私たちはこのイエス・キリストにあって圧倒的な勝利者になることができるということです。35~37節をご覧ください。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」

この31節から39節まではわずか9節しかありませんが、実に勝利に満ち溢れた宣言です。できればこの箇所は全部暗記した方がいいです。もし全部暗記するのが難しければ、37節だけでも暗記したいものです。このみことばを握りしめて最後まで進む人には、天での報いが保証されています。実際、当時は激しい迫害の中で、信仰が萎んでしまうようなこともありましたが、主の御霊が彼らとともにおられたので、どんなことがあっても、「これらすべての中にあっても」、圧倒的な勝利者となったのです。たとえば、この当時は、キリストを信じる信仰のゆえに、羊の毛を着せられ、円形競技場でライオンの餌になることもありましたが、それでも彼らは、賛美しつつ死ぬことができました。

この日本でも、そうした迫害はたくさんありました。中でも有名なのは豊臣秀吉の時代に発令された「バテレン追放令」でしょう。彼は九州におけるキリシタンの勢力を恐れ、キリシタン弾圧を行いました。その一つが「26人聖人殉教」です。京都で捕縛された24人のキリシタンに加え、長崎に向かう途中で二人のキリシタンが加わって26人の人たちが、1597年2月に、長崎の西坂の丘で殉教したのです。  一行の中には若干12歳の少年ルドビコ茨木もいて、その残酷さを覚えて寺沢半三郎という人が幼い少年を助けようと思い信仰を捨てるよう迫りましたが、ルドビコ茨木はこの申し出を断固として断わりました。そして彼は、「わたしの十字架はどれ?」と尋ね背丈に合わせて準備されていた自分の十字架のもとに走り寄り、十字架の上では縛られた体と指先を動かし、「パライソ(天国)、イエス、マリア」と言って喜びを表したといいます。  また、13歳になった聖アントニオも、西坂の丘で涙を流し出迎えた両親に、微笑みながら「泣かないで、自分は天国に行くのだから」と慰めたといいます。そして隣にいた神父に「神父様、歌いましょう」と『感謝の賛歌』〕を歌う中で、槍で刺され殉教したのです。  また、聖パウロ三木は、死を目の前にして、周囲を取り囲む約4000人を超える群集の前で十字架に架けられたままこのような説教をしたと言われています。 「私は、太閤様をはじめ処刑に関わったすべての人を許します。私が切に願うのは彼とすべての日本人が一日も早くキリシタンになることです」と。

十字架を前にして、なぜ彼らはこんなにも大胆でいられたのでしょうか。キリストの愛が取り囲んでいたからです。神の聖霊が彼らとともにおられたので、それらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者になることができたのです。

私たちの人生にもさまざまな試みが迫り、艱難や迫害が迫り、自分の力ではどうにも耐えられないと思うような状況に導かれることがありますが、しかし、聖霊がその苦難に対して圧倒的な勝利を治める力を与えてくださるのです。それゆえ私たちは、どんな試みや艱難、苦しみや迫害が襲ってきたとしても、そのようなものが神様の愛から私たちを引き離すことはできないと、勝利を宣言することができるのです。

今、皆さんが受けておられる患難や苦しみは何ですか?それがどのようなものであっても、それらのものがキリストの愛から引き離すことはできません。皆さんは、皆さんを愛してくださった方によって、それらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者になるのです。皆さんの中に聖霊が内住しておられるからです。この聖霊が皆さんを助け、導いてくださいます。どの道に行っても、どんな失敗や困難に直面しても、すべてのことを働かせて益としてくださいます。信じましょう。この聖霊様が皆さんの中に内住しておられるとき、この勝利の確信が生まれ、どんな悪魔の悪巧みがあり、どんな試みや患難があったとしても、私たちの救いは決して揺らぐことはありません。最後まで守られるのです。神様が選ばれた民は、どんな危険な場所に置かれても、どんなことがあろうとも、決して揺らぐことはありません。神様が天の御国まで私たちを引いて行ってくださるからです。