ローマ人への手紙11章1~12節 「イスラエルの救い」

きょうは、「イスラエルの救い」についてお話したいと思います。聖書を見ると、神はユダヤ人を特別な民として選ばれたということがしるされてあります。にもかかわらず、そのユダヤ人は、事もあろうにキリストがこの世に来られた時、キリストを受け入れるどころか、十字架につけて殺してしまいました。あれから二千年が経った今日でも、彼らはキリストを受け入れようとはしません。ということは、イスラエルが神によって選ばれたというみことばは無効になってしまったということなのでしょうか?神は彼らを退けられたのでしょうか?絶対にそんなことはありません。神様はみことばの約束のとおりに、彼らを救ってくださるのです。ではいったい神はイスラエルをどのように救ってくださるのでしょうか。    きょうのところでパウロは、このことについて三つのポイントで語っています。第一のことは、神様は残された民を通して救ってくださるということです。第二のことは、それにしてもイスラエルがキリストを受け入れないのはどうしてなのでしょうか。それは彼らが自分たちの考えに囚われてかたくなになっているからです。残りの民のしるし、それは、神のみことばに対して従順であることです。第三のことは、それでも神はそんなイスラエルの失敗をも用いてご自身の救いのご計画を成し遂げてくださいます。

Ⅰ.残された者(1-6)

まず第一に、残された者がいるということについて見ていきたいと思います。1~6節までをご覧ください。

「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」

「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのでしょうか。」という質問に対して、パウロは「絶対にそんなことはありません」と、強い語調でそれを否定しています。その証拠にパウロは、「私を見なさい」と言うのです。「この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。」イスラエル人である自分が信じているのであれば、イスラエル人が捨てられたわけではないことがわかるというのです。パウロの主張には説得力があります。確かに大部分のユダヤ人はイエス・キリストを捨てましたが、その一方で、少人数ながらもイエス様を信じて従っている人たちもいたのです。その一人がこの私だというのですから・・。いや、それは自分だけではありません。聖書をみると、神様はイスラエル全体をとおしてではなくその中から選ばれた幾人かを通して、みわざを成しておられたことがわかります。その一つの例がエリヤです。

アハブ王の時代、イスラエルは最悪の闇黒時代を迎えていました。神様を敬う人々は激しい弾圧を受け、国中が神様から離れて、バアルとアシェラという偶像を拝んでいたのです。福音を伝え続けて疲れ果てたエリヤは、神様の御前にこのように嘆きました。3節、

「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」(11:3)

エリヤはどのような嘆きを神様にぶつけたでしょうか。彼は、神様に選ばれた民はみんな殺されて、私だけが残されました。」と嘆いたのです。すると神様は何と言われたでしょうか。

「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」 (11:4)

どういうことでしょうか?神様はイスラエルと結ばれた約束を捨てられなかったということです。選ばれた民を維持するために、今も七千人を残しておき、わたしの思いを成し遂げるためのわたしの器たちを、しっかりと備えておいたというのです。それと同じように、今も、恵みによって残された者がいます。たとえば、イエス様の十二弟子たちはそうでしょう。彼らもみなユダヤ人でした。また復活の証人であった五百人余りの兄弟たちも皆ユダヤ人でした。それはほんの一握りであったかもしれませんが、神様はこうした人たちを残しておられ、彼らを通してイスラエルを救おうと計画しておられたのです。

それはパウロの時代ばかりでなく、私たちが生きている現代にも言えることです。私たちはすぐ隣の韓国や中国において、どんどん人が救われ、驚くべき主の御業がなされているのをみると、そうでない日本の現状を嘆き、もしかしたら神様は日本人を捨てられたのではないだろうかと思ってしまうことがあります。しかし、そうではありません。現に、私たちが救われたではありませんか。ほんの一握りかもしれませんが、少数でも救われた者がいるという事実を知るならば、神様は決して日本人を捨ててしまわれたわけではないことを知ることができるのです。いやむしろ神様は、こうした少数の残りの者をとおして、ご自分のみわざを成し遂げてくださるのです。私たちはその残りの民として、最後まで信仰を保っていかなければなりません。

黙示録を見ると、当時小アジヤには七つの教会がありました。その中にはいわゆる大教会もありましたが、そうではない教会もありました。そしてイエス様が認められた教会とはどういう教会であったかというと決して大きな教会ではありませんでした。神様の御前に信仰を守り通した小さな教会でした。その一つがフィラデルフィアの教会です。彼らは小さな群れでしたが、神のことばを守り、最後までその信仰を捨てませんでした。数が問題なのではありません。私たちの中に神が認めてくれる信仰があるかどうか、そしてその信仰を最後まで堅く握りしめているかどうかなのです。どんなに少人数でも、これを握っているなら、神様はその人を通してみわざを行ってくださるのです。私たちも終わりの時に、「残りの民」として神様の御前に認めていただける聖徒になりたいものです。

Ⅱ.かたくなにならないで(7-11)

ではどうして大部分のイスラエルは信じなかったのでしょうか。ここに恵みを受けられなかった人の特徴がしるされてあります。それは、彼らがかたくなであったことです。7~10節までをご覧ください。

「では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

ここに、「選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。」とあります。恵みによって、残されたなかった人たちの特徴は何であったかというと、かたくなであったということです。「かたくなである」とはギリシャ語で「ポロホー」と言います。本来の意味は「固まる」ということです。心が凝り固まっていたので、どんなにみことばを聞いても、賛美をしても、少しも感動がなく、悟ることができませんでした。それはこう書かれてあるとおりです。

「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」

かたくなな人の特徴は、みことばを見ることができず、聞くことができないということです。ダビデもこう言っています。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」これはどういうことかというと、「神様。彼らをひどく苦しめなさいでください。うまくいくようにしてください。彼らがむなしいものを追求して、死んでしまうようにしてください。」という祈りです。悟ることがないためです。

皆さん、私たちの人生で最も恐ろしいのろいとは何でしょうか?それは、病気になったり、大学に落ちたり、事業に失敗するというようなことではありません。最も恐ろしいのろいは、みことばを悟れないということなのです。みことばを悟れなくて、むなしいものを追い求めていくことです。イエス・キリストを信じていないのに、事業が成功し、健康で、やることが何でも思いどおりになることが祝福でしょうか。いいえ、それはのろいです。本当の祝福はイエス・キリストにあるからです。神様のみことばを悟り、神様の御前に、祈りの場に出るということが、最も大きな祝福であるということを覚えておかなければなりません。

イエス様は、終末に関する教えの中で次のように言われました。マタイの福音書24章38~39節です。

「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」

洪水前にどんなさばきがあったでしょうか。人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていましたが、洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、わからなかったということです。飲んだり、食べたり、結婚したりすることが問題なのではありません。問題は、それしか見えなかったということです。それがすべてだと思って生きていた。つまり、悟れなかったのです。。そこに洪水がやって来て、すべてのものをさらって行ったのです。これがかたくなな人の姿です。本当に神様の恵みが臨んだ人というのは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』(マタイ4:4)ということを確信して生きることができます。悟りがあるということが恵みです。悔い改める心、柔和な心、それが祝福です。イエス様は、「耳のある人は聞きなさい。」と言われましたが、これはどういうことかというと、聞く耳をもちなさいということです。イエス様のみことばを聞くことができる人、イエス様のみこころを悟れる人こそまことに祝福された人であり、神の恵みによって残された人なのです。 そのためには柔らかい心、素直な心、従順な心を持っていなければなりません。「ポロホー」凝り固まった心では悟れないのです。

ロシアの文豪トルストイは、六十歳過ぎまでイエス様を知らずに過ごしていました。彼は大変な金持ちでした。莫大な遺産を譲り受け、貧しさを全く知りませんでした。しかし、そうした多くの財産にもかかわらず、彼は人生の意味や目的を見いだすことかできず、ただ虚しく生きていました。しかしそんなとき森の中を歩いたいると、自分を不幸から救ってくださる方はイエス・キリスト以外にはないということを悟りました。キリストを信じてからの彼の文学は、ものすごい霊感と恵みに満ちたものです。また、それまでに成し遂げたどんな仕事よりも、もっと多くの作品を書くことができました。彼は八十二歳で亡くなりましたが、残りの二十年という短い人生が、それ以前のむなしい六十年よりも、さらに価値ある人生になったのです。

本当の祝福は、このことを悟れるかどうかです。私たちはかたくなにならないで、キリストのことばに素直に心を開くものでありたいと思います。それが残された者のしるしなのです。

Ⅲ.失敗さえも用いられる(11-12)

第三のことは、神はそんなイスラエルの失敗さえをも用いられるということです。11~12節をご覧ください。

「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」

イスラエルの一部は恵みによって選ばれ残された民として信仰を持ちましたが、大部分の人たちはつまずいてしまいました。それは彼らが倒れるためだったのでしょうか?絶対にそんなことはありません。彼らがつまずいたのは、そうした彼らのかたくなな心によって、救いが異邦人に及ぶためであったのです。何ということでしょうか。そうした彼らの失敗が、異邦人が救われていくという神様の救いのご計画として用いられていたというのです。

パウロは異邦人への使徒でしたが、どの町に行っても、まずはユダヤ教の会堂に行って、そこでユダヤ人に福音を語りました。しかし、ユダヤ人はその心がかたくなだったのでパウロの語る福音を聞こうとはしませんでした。そこでパウロはどうしたかというと、やむなく異邦人へと向かって行きました。ところが異邦人はというと、ユダヤ人たちとは違い、福音のことばを聞くとそれを素直に受け入れ、みるみるうちに彼らの中で実を結んでいきました。福音が彼らの生活を変え、それが力となって世界中に広がって行ったのです。それは異邦人にとっては大きな恵みでした。イスラエルがつまずいたのは、彼らが倒れるためではなく、救いが異邦人へと及ぶためだったのです。何と彼らの失敗が異邦人たちの救いのために用いられたのです。

皆さん、私たちにとって「違反」や「失敗」は好ましいことではなく、そうしたすべての失敗をマイナスにとらえがちですが、神様はそうした失敗さえも用いてご自身のみわざを成し遂げておられるのです。もちろん、罪とか違反がそのまま容認されるのではなく、それはそれなりにきちんと取り扱われる必要がありますが、しかし、そうした違反や失敗といったことがただそれだけで終わってしまうものなのではなく、神様はそうした失敗さえもご自分のみわざのために用いてくださる方であり、私たちのためにすべてを働かせて益としてくださる方であることを信じなければならないのです。

創世記に登場するヨセフの物語はまさにそうではないでしょう。ヨセフは十二人兄弟の下から二番目でしたが、父親からの寵愛を受けていたことで兄弟たちから激しい嫉妬心を抱かれると、兄たちによってエジプトの行商人に売り渡されてしまいました。それでヨセフはエジプトで奴隷として生きることを余儀なくされたのです。そればかりではありません。さらに悪いことに、ヨセフを奴隷として買い取った妻に言い寄られた時に彼が拒んだことで、彼女は強姦されそうになったと嘘の訴えを起こしたのです。お陰でヨセフは牢屋に入れられてしまいました。彼は孤独で惨めでした。「なぜ私が?」ということができる人がいるとしたら、それはヨセフその人だったことでしょう。  けれども、このような悲劇的な出来事から何年か経ったとき、兄たちの再会を果たした彼は、これまでの一連の出来事を思い出しながら、こう言ったのです。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20)

つまりヨセフはこう言いたかったのです。「お兄さんたちが悪意でやったことを、神は良いことへと変えてくださいました。神はその出来事を用いて、私の人生、お兄さんたちの人生、そして多くの人たちの人生の益としてくださったのです。」と。

ヨセフは、神が事の成り行きを究極的にコントロールとしておられることを信じていました。彼は、自分の回りの人たちが自分に対して犯したすべての罪を神様が取り扱われ、それらを好転させて、「悪いことを」「良いこと」へと変えてくださったと言ったのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8:28)

神にゆだねるとは、どんな状況のときでも神に信頼することです。いつも主に信頼していたヨセフは、人生の終盤で「あなたがたが私を傷つけるためにしたことを、神は益としてくださった」と言うことができました。だれかを恨みたいという誘惑に駆られたとき、ヨセフはその思いを主にゆだねました。彼は、神への信仰と希望を持ち続け、最終的には神がすべてのことを働かせて益としてくださると信じて、信仰に立ち続けたのです。

それは私たちも同じです。私たちの人生にも本当に不条理なことがたくさん起こりますが、しかしそうした出来事の背後にも神様が働いておられ、すべてを益に変えようとしておられるのです。大切なのは、神様が私たちの人生をより良いものへと変えてくださること、そして私の人生に働こうとしておられると信じることです。イエス様が私のために特別な計画をもっておられ、すべての混乱と苦しみ、いら立ちさえも、造り変えて良いことのために用いてくださると信じることです。そのように信じて、すべてを神様ゆだねることです。もしそのように神様にゆだねることができるなら、私たちもその人生を振り返った時にこう言うことができるでしょう。「私をひどく苦しめてきたそれらのものを、神は良いことのために用いてくださいました。神は、私の人生に起こった悪い出来事を用いて、私を建て上げ、私を練り直してくださいました。私はそのことを心から感謝しています。」と。神へのゆるがない信仰によって、そんな将来と希望に溢れた生涯を歩ませていただきたいものです。