きょうは、「神のいつくしみときびしさ」についてお話したいと思います。ローマ人への手紙11章は、イスラエルの救いの問題を取り扱っています。イスラエルの民は本来、神様に選ばれた民です。他の異邦人たちには味わえない、霊的な特権を数多く味わった民なのです。にもかかわらず、そのイスラエルの民が、唯一の救いであるイエス・キリストを信じようとしないのは、いったいどうしてなのでしょうか。それは神様がイスラエルをお捨てになられたということなのでしょうか?絶対にそんなことはありません。神様の賜物と召命は変わることがないからです。ではどういうことだったのでしょうか。私たちは先週、その理由を学びました。それは神様が「残りの民」を通してイスラエルを救おうと計画しておられたからであり、そのことによって救いが異邦人にまで及ぶためだったのです。神様の計画は何と深く偉大なのでしょうか。
きょうのところには、そのようにして救われた異邦人はどうあるべきなのかについてしるされてあります。まず第一のことは、そのようにして異邦人にまで救いが及んでいったのはどうしてかということについてです。それは、彼らの中にねたみを引き起こさせれるためでした。第二のことは、誇ってはいけないということです。異邦人が救われたのはちょうど野生種のオリーブがつぎ合わされたようなものだからです。異邦人が根をささえているのではなく、根が異邦人をささえているのです。第三のことは、神様のいつくしみにとどっていましょう、ということです。そうでないと、せっかくつぎ合わされたものが切り落とされることになってしまうからです。
Ⅰ.ねたみを引き起こさせるため(11-16)
まず11-16節までのところに注目してみたいと思います。
「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。」
11,12節は先週のメッセージでも取り上げたところです。イスラエルがつまずいたのはいったいどうしてだったのでしょうか?それは彼らの違反によって、救いが異邦人に及ぶためでした。もしもイスラエルが福音を受け入れていたとしたら、ペテロやパウロは、あえて異邦人伝道に出かけて行ったでしょうか?行かなかったはずです。そうでなかったから彼らは、「これからは異邦人の方に行く」と言って、出かけて行ったのです。もしイスラエルの民がみんな福音を受け入れていたら、おそらくキリスト教は、ユダヤ人の民族宗教にとどまっていたでしょう。イスラエルがつまずいたことによって、福音が異邦人にまで及んだのです。
しかし、それは異邦人のためばかりではありませんでした。ここには、それによってイスラエルにねたみが引き起こされ、彼らの幾人かが信じるようになるためでもあったというのです。どういうことでしょうか?
アメリカのある教会で一人の牧師が青年担当牧師として招聘されました。するとそこに口ばかり達者な大学生たちが結構いたそうです。そんな学生に限って「自分は小さい時から日曜学校に通っていて聖書のことは何でも知っている」とか「教会のことは何でも知っている」というような態度をしたそうです。とはいうものの、ではどんなに立派な信仰者かと思って見ていたら、信仰生活は適当だし、さっぱり伝道もしないのです。そこでどうしようかとこの牧師が悩みました。そして決めました。彼らを説得するのはやめよう。むしろ、信じたばかりの学生たちを教えることに集中し、そのために時間を費やそう・・・と。するとどうなったでしょうか?神様の祝福が彼らの上に臨んだので、みんな生き生きしたクリスチャンに変えられていき、熱心に伝道するようになりました。すると気が気じゃなかったのは先に救われていた学生たちです。長い間クリスチャンだと豪語していた彼らの中にねたみが引き起こされ、彼らもその働きに参加するようになったのです。そして二年も経った頃には、教会全体のだれもが例外なく、忠実に仕えるクリスチャンに変えられていったのです。イスラエルの中にねたみが引き起こされて、彼らの幾人かが信じるようになるためというのはこういうことです。 今、お隣の中国や韓国では大きなきなリバイバルが起こり、教会はものすごい勢いで前進しています。問題は、こうした中国や韓国のリバイバルはいったい何のために起こったのかということです。それは私たち日本人のためでもあるのです。そうした中国や韓国のリバイバルの知らせを聞いて私たち日本人が大いに奮起させられ、この国にも必ずリバイバルがやって来ると信じて、熱心に仕えるためなのです。それはだから日本人はだめなんだと、自分を責める材料にしてはいけないのです。神様が韓国や中国で成したくださったようなみわざをこの国でもしてくださると信じて、私たちがへりくだって仕えるために、してくださっているのだと受け止めなければならないのです。
そうした比較で物事をとらえるのは次元が低いと思われる方もいるかもしれませんが、それは事実なのです。むしろ、こうした話を聞いても自分の世界に閉じこもり少しも心を動かさないでいるとしたら、それこそ異常なのです。何事にも動かされなくなった心は成熟した心なのではなく、すでに老化していると言わざるを得ません。若い人々は何事に対しても感動し、素直に心を動かすものです。きれいな花をみれば「わぁ、メッチャきれい」とか、美味しいものを食べると「マジ、ヤバイ、うめ~」とか、感動の連続です。信仰生活においては、素直に感動する青年のような心こそ、実は神様に喜ばれるものなのです。救いが異邦人に及んだのは何のためだったのか?それはイスラエルにねたみを起こさせるためだったのです。
パウロは、異邦人への使徒として召されても、同胞ユダヤ人が救われることを切に願い求めていました。そして、イスラエルの民が決して捨てられてしまったのではないことを確信して、次のように言ったのです。16節です。
「初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。」
これはどういう意味でしょうか?これはイスラエルが聖いということを表しているものです。「初物が聖ければ、粉全部が聖いのです。」「初物」とは「練り粉の最初のもの」のことです。練り粉の最初のものが聖ければ、練り粉全部が聖くなります。その最初の練り粉とはイスラエルの先祖アブラハムのことを指しています。アブラハムが神に聖別され、神に属する者であったのなら、その子孫であるイスラエルの民も聖別されているのであって、必ず救われるようになるのです。また、「根が聖ければ、枝も聖いのです。」これも最初の比喩と同様、イスラエルの最初の根とも言うべきアブラハムが聖別され、神に属す者であったのだから、その根から出ているイスラエルの民も聖別されているというのです。イスラエルは捨てられたわけではない。神の選びによるならば、神に愛されている者なのです。たとえ一時的に不信仰になって、キリストを退けるようなことがあっても、やがて彼らもキリストに立ち返り、その本来の性格を表す時がやってくるのです。神の賜物と召命とは変わることはないからです。それはまさに奇跡です。15節でパウロが言っているように、彼らが受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。それは死者の中から生き返るようなものなのです。神様はイスラエルの救いに関して、そのようなご計画を持っておられたのです。
Ⅱ.誇ってはいけない(17-21)
第二のことは、ですからそのようにして救われた異邦人は誇ってはなりません。17-21節までをご覧ください。
「もしも、枝の中にあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」
パウロは、イスラエルがつまずき異邦人が救われるようになったという現実を、接ぎ木のたとえで説明しています。つまり、信じないイスラエルの民を「折られて」と言い、それは、異邦人という野生種のオリーブの枝が接ぎ合わされるためだったと言うのです。信じないイスラエルは枝から折られ、その折られたところに異邦人を接ぎ木して、神様の民としてお救いになられたということです。これが神様の救いの方法です。つまり、イスラエルの不従順を通して異邦人が救われるようになったのです。
接ぎ木とは、果樹を育てるときによく用いられる方法です。日本には西洋人が大変好む「たむらりんご」という奇跡のりんごがありますが、これはどのようにして作られたかというと、梨の木にりんごの枝を接ぎ木して作ったものです。りんごの外観をもちながらも、梨のような強い甘みを持つリンゴで、世界中を探しても北海道の七飯町(ななえちょう)にしか見られない大変珍しいりんごです。
神様は、不従順なイスラエルの元の枝を折ってしまって、その折られた枝の代わりに、異邦人という野生の枝を折って接ぎ木なさいました。それによって、異邦人がアブラハムの子孫になり、神様の救いの民となるようにしてくださったのです。これが世の基が据えられる前から定められていた神様の知恵です。何と深い知恵でしょう。このような神様の知恵を思うとき、私たちは11章33節にあるような賛美をささげずにはおられません。
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いのでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」
神様は私たちが到底考えつかない驚くべき方法をとおして、異邦人までもお救いになられたのです。
それゆえに私たちは、こうした神様の知識から学ばなければなりません。このように私たち異邦人が折られた枝に接ぎ木された者であるのならば、私たちは誇ってはいけないのです。なぜ?17,18節にあるように、枝である異邦人が根をささえているのではなく、根が枝をささえているからです。
私たちは、この「ささえられている」という事実を見落としてはなりません。私たちが今日このようにして生かされているのは、多くの人たちにささえられているからであって、自分一人の力によるのではありません。まして私たちが信仰を持つようになった背後には、どれだけ多くの方々の祈りと犠牲があったことでしょう。あるいは何でもないかのように私たちはこうやって毎週の礼拝をささげていますが、それさえも奇跡なのです。多くの人々のささえがあってこそ可能なのであって、自分一人でできることではありません。神様はそのような人々を備え、ささえてくださることによって今の自分の人生、信仰生活があるのです。だからすべては恵みなのです。なのに私たちはすぐに傲慢になってこの事実を忘れては自分一人で成長してきたかのように錯覚してしまい、「だれがあんたに産んでほしいとお願いした?」みたいなことを言うのです。自分にできないことは何一つないといった傲慢に陥ってしまいます。みんなにささえられてこそ今の自分があるのだ、神様にささえられてこそ今の自分があるのだということが本当の意味でわかるとき、私たちの中からつぶやきや不満など出てくるはずがありません。感謝と喜びをもって謙遜に神様に向かうことができるようになるのです。
サッカーのなでしこジャパンは日本中を感動の渦に巻き込みました。まさか日本がドイツやアメリカを破って優勝するなど誰が予想することができたでしょうか。なぜ優勝できたのか?多くの海外のメディアは、何かが彼女たちを後押ししていたと評しました。本当に何かが彼女たちを後押ししてたかのようです。あれだけ押されてもあきらめずに同点に追いついたかと思うと、最後にはそれを逆転して勝利したのですから・・。でも最大の勝利の要因はこの「ささえられている」という感謝の気持ちではなかったかと思います。それは勝利後のインタビューに表れていました。ドイツ戦の延長で貴重なゴールをあげた丸山桂里奈選手は試合後のインタビューで、自分の決めた決勝ゴールを、「チームみんなで決めた点だと思う。ずっとやってきた形」と言いました。あの得点が自分一人であげた得点ではなく、チームのみんなにささえられて、チームのみんなでもぎとった1点であると強調したのがとても印象的でした。
私たちの救いも同じです。私たちの救いはイスラエルが折られた後に接ぎ木されてもたらされたものなのです。そんなイスラエルにささえられているのであって、高ぶってはならないのです。19節には、その高ぶった思いから発せられる代表的なことばがしるされてあります。つまり、「枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ」という思いです。つまり、神様は異邦人を救われるために、不信仰なイスラエルの民を折られたのだという考えです。確かに、イスラエルの民が退けられたのは異邦人が救われるためでしたが、しかし、それは異邦人がそのことを誇るためではなく、感謝する以外の何ものでもありません。滅ぼされても仕方ないような私が救われたのは神様の一方的にあわれみでしかなく、多くの人々の祈りと犠牲によってささえられたからだ・・と、ただ神様に感謝するだけなのです。なのにもし私たちが「枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ」というような主張することがあるとしたら、それは自分が置かれていた立場をすっかり見失い傲慢になっているからであって、そういう人はイスラエルのように切り落とされてしまうことも覚悟しなければなりません。私たちに求められているのは、高ぶらないで、神様に感謝して生きることです。多くの人たちにささえられて今の自分があるとへりくだって生きることなのです。
Ⅲ.神のいつくしみときびしさ(22-24)
ですから第三のことは、神の恵みにとどまりましょう、ということです。22-24節をご覧ください。
「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。」
神様の前に高ぶり、自分を誇るような者は、イスラエルであろうと、異邦人であろうと、切り落とされることになってしまいます。神様の恵みを拒み、信仰を放棄したイスラエルはどうなったでしょうか。このパウロの時代からすぐ後のA.D.70年にエルサレムが陥落すると、彼らは流浪の民として全世界に散らされてしまいました。彼らは国なき民として世界を流浪しなければならなかったのです。1948年には世界中からユダヤ人が帰還し祖国パレスチナに「イスラエル共和国」を建国しましたが、以後、今日までずっと流血の惨事が繰り返して起こっています。これはまさに神様のきびしさです。神様の救いを信じないで自己流の生き方を貫く彼らの上にあるのは、きびしさなのです。しかし、神のいつくしみの中にとどまる者に対してはそうではありません。そこにあるのは、神のいつくしみです。信仰にとどまり、神のいつくしみの中にとどまっているかぎり、神のいつくしみと恵みは注がれ続けるのです。
それは、かつて不信仰によって信仰を拒んだイスラエルに対しても言えることです。彼らが不信仰にとどまり続けずに、神の慈愛によって神に立ち返るなら、神は赦してくださいます。彼らもまた救われるのです。そのことをパウロは次のように言っています。23,24節、
「彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。」 ここにイスラエルの希望があります。一度失敗したらそれで終わりではありません。神様は再びつぎ合わすことがおできになるのです。しかし、そのためには一つだけ条件があります。それは「もし不信仰を続けなければ」です。もし不信仰を続けなければ、神は、彼らを再びつぎ合わすことができる。言い換えるなら、悔い改めて、神様に立ち返るならということです。悔い改めて神に立ち返り、自分の義ではなく、神が用意してくださったイエス・キリストによって示された救いを信じるなら、一度折られた枝であっても、もう一度つぎ合わせられるのです。何という希望でしょうか。
アメリカにロバート・ファンクさんという、アメリカ最大の牧畜業を営んでいた方がおられます。彼はプロのホッケーチームも所有しているばかりか、アメリカ最大の人材派遣会社の社長もしています。 そんなファンクさんのお母さんは非常に熱心なクリスチャンなので、彼は小さい頃にはよく教会にも行っていましたが、学校を卒業してビジネスの世界に入った途端に、仕事が忙しくなって教会に行かなくなってしまいました。でも彼は小さい時からずっと教会に通い、洗礼も受けていたので、自分ではクリスチャンだとおもっていたそうです。 ところが、友人に誘われてビリー・グラハムの伝道集会に行ったとき、そこでビリー・グラハムの語ったことばを聞いて、彼は強い衝撃を受けました。というのは、ビリー・グラハムが次のように行ったからです。 「本当の信仰とは、聖書をどれだけ知っているか、何年間教会に通ったかではなく、生ける神様との個人的な関係を持っているかどうかです。あなたはそのような関係を神様と持っていますか?」 それを聞いたファンクさんは、個人的な関係といったらない。それが本当の信仰だというのなら、自分にはそういう信仰はないと、招きに応じて前に出て、イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れたのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
だれでもキリストを信じるなら、新しく造られた者となるのです。それが「不信仰を続けなければ」ということです。神のキリストを信じてください。信じて、この恵みにとどまっていてください。そうすれば、私たちも再びつき合わせていただくことができるのです。何度つまずいても悔い改めて立ち返る。それが神のいのちを受ける唯一の道です。キリストの十字架の血潮には、それをなし得る力があるのです。