ローマ人への手紙11章25~36節 「このすばらしい奥義」

パウロは、このローマ人への手紙9~11章のところで、イスラエルの救いの問題について語ってきました。神様によって選ばれたはずのイスラエルが、唯一の救い主であるイエス様を信じないのはどういうことなのか?神様はイスラエルをお捨てになられたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。神様は残りの民を通して彼らを救おうとしていたのであって、彼らの不信仰になったのは、そのことによって救いが異邦人に及ぶためだったのです。それが神の計画でした。きょうのところでパウロは、そのイスラエルの救いに関する最終的な結論を「奥義」として語ります。

きょうは「この素晴らしい奥義」について三つのポイントでお話したいと思います。まず第一に、その奥義とは何でしょうか。その奥義とは、こうして、イスラエルはみな救われるということです。第二のことは、その理由です。それは、神の賜物と召命とは変わることがないからです。第三のことは、このようなご計画を持っておられる神様にすべてをゆだね、感謝と賛美をもって歩んでまいりましょうということです。

Ⅰ.この奥義とは(25-27)

まず第一に、この奥義について見ていきたいと思います。25-27節までをご覧ください。

「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

イスラエルの救いに関する神の計画について語ってきたパウロは、ここで、「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。」と語ります。この「奥義」という言葉は、ギリシャ語の「μυστηριον:ミュステーリオン」という言葉ですが、この言葉から英語の「mystery」という言葉が派生しました。しかし、意味は非常に異なっています。英語でミステリーという場合、人間の理性では知り得ない不思議なこととか、秘め事を意味しますが、ギリシャ語の「奥義」という言葉はそうではなく、過去において隠されていたことが、神様によって特別に啓示された秘密のことを表しています。それは神様からの特別な啓示があって初めて明らかにされたことなのです。その奥義とは何でしょうか?25節後半から26節前半に書かれてあることです。

「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」

どういう意味でしょうか?ここに「イスラエルの一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり」とありますが、この「異邦人の完成のなる時」とは何を指しているのでしょうか。ラルフ・スミスという聖書学者などは、この異邦人の完成なる時とは、紀元70年のエルサレム神殿が破壊された時だと解釈していますが、この「異邦人の完成のなる時」というギリシャ語は「異邦人の満ちる時」という意味ですから、そういう意味ではないでしょう。では、この「異邦人の完成なる時」とはいつの時を指しているのでしょうか。

尾山令仁先生が訳された現代訳聖書では、このところを「異邦人の救いについての神のご計画が成就する時まで」と訳されてあります。つまり、これは神が定めておられる救いのご計画の中で、救われるようにと定められている異邦人がすべて救われ、神の教会の中に占めるべき異邦人の数が満たされる時のことを意味しているのです。イスラエル民族の一部がかたくなになったため、福音が異邦人に伝えられるようになり、その数が満ちて異邦人の救いの計画が完成する時のことです。その時、イスラエルはみな救われるのです。

ところで、この「こうして、イスラエルはみな救われる」とはどういう意味なのでしょうか。そのためには、「イスラエルはみな」の「イスラエル」とは何か、また、「みな」とはどういう意味なのかを理解する必要があります。カルヴァンなどは、この「イスラエル」を霊的な意味で、ユダヤ人も異邦人もすべてイエス・キリストの救いにあずかった者のことを指していると解釈しています。確かにパウロはこのような意味で「イスラエル」という言葉をいろいろな箇所で使っていますが(たとえばガラテヤ6:16など)、ここではどうもそのような意味で使っているのではなく、民族としてのイスラエルという意味で使っていることがわかります。というのは、パウロはこの9~11章までのところでイスラエル民族の救いに関して語っているのであって、この中では「イスラエル」という言葉が13回使われていて、そのすべてが民族としてのイスラエルを表しているからです。ですから、この「イスラエル」とは、ユダヤ人そのものを指していることがわかります。

では、「イスラエルはみな救われる」の「みな」とはとのような意味なのでしょうか?サンデー・ヘッドラムといった学者たちは、この「みな」という言葉を文字通り解釈し、イスラエル人のすべての人ととらえています。すなわち、キリストが再臨される前に、異邦人の中から救われるべき者の数が満ちる時、イスラエル人は民族ぐるみで、みんな一人残らずキリストを救い主として信じるようになるというのです。しかし、ここで言っている「みな」とは、そのような意味なのでしょうか?    そうではありません。この「みな」というのはイスラエル人が一人残らずという意味ではなく、民族全体としてのイスラエルのことを表しているのです。すなわち、世の終わりに、全世界に福音が宣べ伝えられ、救われるようにと神に選ばれれていた異邦人がみな救われると、それまでかたくなだったイスラエル人たちがこぞってイエス様を信じるようになり、こうして、イスラエルはみな救われるようになるということなのです。おそらくそれは、「残された民」のことを指しているのでしょう。この「残された者」については11章5節にも出てきました。神様は、今も、恵みによって残された者を選んでおられますが、この世の終わり時にはもっと多くのイスラエルがイエス様を信じて救われるようになるのです。 こうして、イスラエルはみな救われるのです。

何ということでしょう。誰がこのような主のみわざを知ることができるというのでしょうか。私たちはこのような神様の知恵、知識に、ただ驚嘆するばかりです。33節のところでパウロは、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」と言っていますが、まことに神様の知恵と知識との富みは、底知れず深いのです。その道は測り知れないほど完全なのです。私たちは、このような計り知れない完全なご計画を持っておられる神様の前に、ただひれ伏すばかりです。私たちは「ああだ」、「こうだ」と自分の意見や考えこそ正しくて絶対だと思いがちですが、神様には神様の深いご計画があるのです。私たちはこのような奥義、このようなご計画を持っておられる神様の前にひれ伏しながら、ただ「みこころが天で行われますように、地でも行われますように」と祈る者でなければなりません。人間的に右往左往するのではなく、完全な計画をもって導いておられる神様にすべてをゆだね、神様が成してくださることを待ち望む者でなければならないのです。

Ⅱ.変わらない神の召し(28-32)

第二のことは、このようにイスラエルがみな救われるというのは、神様の変わらない約束に基づいているからであるということについて見ていきたいと思います。28-32節までをご覧ください。

「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」

ここでは、「彼ら」であるイスラエルと、「あなたがた」である異邦人が対比されて描かれています。すなわち、「彼ら」であるイスラエルは、今は福音に対して敵対し神に不従順な状態ですが、神の約束によるならば、彼らの父祖たちに対して与えられた祝福のゆえに、神に愛されている者なのです。神はアブラハムを選び、「あなたがたを祝福する者を、わたしは祝福する」と約束されました。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)と約束されましたが、その約束に変わりはないというのです。神の賜物と召命とはどんなことがあっても変わることがないのです。

これが、イスラエルの救いについてパウロが語ってきたことの結論です。神様は、一度交わされた契約を変えることはありません。なぜなら、神様はどこまでも真実な方だからです。私たち人間はそうではありません。私たちはその置かれて状況によっていつも変わるのです。「君といつまでも」と誓っても、ちょっとしたことで「もうイヤ」とすぐにそっぽを向いてしまう。それが人間です。しかし、神様はどんなことがあってもご自分の約束を変えられることはなさいません。旧約聖書、イザヤ書54章10節に、こうあります。

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」

人は変わり、街は変わっても、山は変わらない。「ふるさとの山はありがたきかな」と石川啄木は歌いましたが、しかし、山が変わり丘が動くことがあるのです。天変地異という言葉どおり、太陽も地球も変わります。しかし、そんなすべてが変わる世の中で、人生にあって、いつまでも変わらないもの、動かないものがあると聖書は言うのです。それが「神の愛」「神の救いの約束」です。お母さんの目が、いつも幼子に注がれていることが、その子の安全と幸せであるように、神様の目がいつも私たちの上に注がれているということは、私たちにとってどれほど安全で幸せなことでしょう。イスラエルの民は、時に神に背いては罪を犯し、金の子牛を拝むような反逆行為を行いましたが、それで彼らが断たれてしまうということはありませんでした。なぜ?選びによるなら、父祖たちのゆえに、神に愛されている者だからです。

むしろ神様は、イスラエルの罪の行為である「不従順」をさえ用いて、救済のわざを展開しておられたのです。30-32節には、「不従順」ということばが四回も出てきます。不従順は、神様に対する罪です。それは、神の救いのご計画さえ破壊するかのように見えます。しかし、すべての主権者であられる神様は、サタンのそのような仕業さえも逆手に取って、全人類の救いの道を拓くために用いられたのです。たとえば、異邦人の救いはそうでしょう。それはイスラエルの不従順の結果、もたらされたものです。彼らの不従順のゆえに、異邦人が神のあわれみを受けたのです。私たちの神様は、逆転の神様です。そうした不従順さえも用いて救いのみわざを行ってくださる。それは、私たちが神様によって選ばれているからです。救い主イエスを私の罪からの救い主と告白したその時から、神の子として、あのアブラハム契約の中に入れていたたいた。神の子としての特権にあずかり、祝福を受け継ぐ者とさせていただいたのです。私たちは、このみことばの約束のゆえに、神様に愛されている者なのです。

時として私たちは自分の罪で、「ああ、神様は自分を捨てられたのではないだろうか」と思い悩むことがあるかもしれません。もう出口のない袋小路の中に追いやられたかのように感じることもあるでしょう。しかし、神様は決して私たちを捨てられるようなことはなさいません。私たちが罪に悩み、苦しむ中で、悔い改めることができるように、あわれみを注いでくださるのです。時には、大きな患難の中で、行く手がはばまれ、暗闇に陥ることもあるでしょうが、それもまた祝福なのです。その暗闇や長いトンネルを通り過ぎた時、天からの光を受けて、神様が用意しておられる救いを受け取ることができるように、従順な者に造り変えられている自分を発見することができるからです。神の賜物と召命とは変わることがないというみことばの約束に信頼し、そこに安らぎと希望を見いだしていきたい思います。

Ⅲ.すべてを神にゆだねて(33-36)

最後に、このイスラエルの救いに関する神様のご計画を思い、パウロが発した賛美を見て終わりたいと思います。33-36節までのところです。

「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

パウロは、9章からずっとイスラエルの救いについて語ってきました。イスラエルが神の唯一の救いであるイエス・キリストを信じないのはどうしてなのか?神はイスラエルをお捨てになられたのか?絶対にそんなことはありません。神様は残された民を用意しておられ、彼らを通してイスラエルを救おうと計画しておられたばかりか、そのようにイスラエルがかたくなになったことで、何と救いが異邦人にまで及びました。しかし、やがて異邦人の完成の時がやってきます。そのときには、イスラエルがこぞって主を求めるようになり、こうして、イスラエルはみな救われるようになるのです。このすばらしい奥義が明らかに示されたとき彼はその神の知恵と知識の深さに驚嘆し、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」と神をほめたたえずにはいられませんでした。

このように神様を高く見上げている人の心には、賛美と感謝が溢れてまいります。しかし、そうではなく、いつもほかの人と自分とを比較して、自分の思いや考えで物事を判断しようとする人の心からは、つぶやきや不平、不満、ほかの人をさばいたりすることしか生まれてきません。正しい信仰生活とは、いつも神様を見上げ、この神様に信頼してすべてをゆだねるところから始まるのです。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)

私たちの人生にはいろいろな事が起こります。自分では願っていなかったことが起こったり、こんなことが果たして自分の人生にとってどれだけプラスなのかと思うような事も起こります。しかし、神様の目から見るとき、その中の一つ一つとして不要なものはなく、すべては永遠のご計画の中に位置づけてられているものなのです。それはちょうど、あのペルシャの豪華なじゅうたんを裏側から見て、一体これは何の模様なんだろうと考えこんでしまうようなものです。少しも意味のある模様にはなっていません。しかし、それをひっくり返して見る時、そこには美しい模様が織り成されています。ちょうどそれと同じように、私たちの側から見て、わからないことはいくらでもあります。それは、私たちが有限の存在なのだからであって、いつも時間の中でしか物事を見ることができないからです。けれども、神の側から見る時、そこには実にすばらしい意味と目的があるのです。そうした一つ一つの事も、神様の永遠のご計画の中に位置付けられているのです。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至からです。」この神にすべてをゆだねて、感謝と賛美の信仰の生涯を歩んでまいりたいと思います。