イザヤ書55章1~5節 「ただで恵みを受けよ」

きょうはイザヤ書55章のみことばから、「ただで恵みを受けよ」というタイトルでお話します。1節を見ると、「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒を買え。」とあります。ここで神はただで恵みを受けるようにと招いておられます。

イザヤ書53章には、主のしもべによって成し遂げられた救いの御業が預言されていました。主は私たちにできないことをしてくださったのです。十字架にかかって死なれ、私たちの罪を赦してくださいました。その主の贖いを信じる者に、神はとてつもない回復を約束されました。それが54章にあることです。54章12節には、「あなたの城壁をすべて宝石にする」とありますが、主は天の御国を相続するようにしてくださったのです。

そして55章に入ります。ここには、そのようにして成し遂げられた祝福への招きが語られています。皆さんは、今までどれだけの招待を受けたことがあるでしょうか。その中で一番価値のある招待はどのようなものでしょうか。きょうのところで主は、「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい」と招いておられます。ただで恵みを受けるようにというのです。これこそほんとうに価値ある招きではないでしょうか。きょうはこの神の招きについて、三つのポイントでお話をしたいと思います。

Ⅰ.渇いている者は出て来い(1)

まず1節をご覧ください。ここには「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。」とあります。水というと、日本ではただで飲めるというイメージがあってあまり価値のないもののように感じますが、そうではありません。調べてみると、この地球にはおよそ14億Km3の水があると言われていますが、そのうちの約97%は海水で、淡水はわずか3%しかありません。そしてこの淡水のうち私たちが生活に利用できる水はわずか0.8%しかないのです。ですから、水はとても貴重な資源なのです。ヨーロッパなどでは昔からレストランなどてで何かを注文する時、水が欲しかったら「ミネラル・ウォーター」といって注文しなければならないそうです。お金を払って買わなければならないのです。しかも水の方がぶどう酒よりも高いという所もあります。イスラエルやエジプト、中近東の砂漠地帯に行きますと水はもっと貴重で、たとえば最大の産油国であるサウジアラビアでは石油よりも水の方が高いと言われています。それほど水は貴重なものなのです。

それなのに、ここではその水をただで飲めと言われています。水だけではありません。穀物も、ぶどう酒も、乳もです。「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」もちろん、これは物質的な祝福だけのことではありません。物質的なものも含め、すべての良いものをを意味しています。「穀物」というのは、いのちの象徴でしょう。イエスは「わたしはいのちのパンです」と言われました。また、「ぶどう酒」は喜びを、「乳」は「みことばの乳」という言葉があるようにいのちを養い、成長させるうえで欠かせないものです。そのように物質的にも、霊的にも、私たちにいのちを与え、私たちの生活を支え、私たちに喜びをもたらすものを求めて、神のもとに出て来い、というのです。

「出て来い」という言葉は命令形で、非常に強いことばです。3節にも繰り返して出てきます。なぜこのように強く命じられているのでしょうか。なぜなら、来ることがなければ何も始まらないからです。来ることによって初めて受けることができます。ですから、神は私たちに向かって開口一番言われることは、来なさいということなのです。あなたがどんな用事があろうと、どんな状況であっても、あなたが神の祝福を受けたいと思うのであれば、そうしたものを脇に置いてでも来なければならないのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

ここでイエス様は、「わたしを遠くから見なさい」とか「わたしを研究しなさい」とは言いませんでした。「来なさい」と言われました。そうすれば、あなたがたを休ませてあげる・・と。ですから、もしあなたが恵みを受けたいのなら、イエスのもとに来なければなりません。

私が小さい頃、母がよく言ってたことがあります。それは「ただほど怖いものはない」ということです。ただなんてあり得ない。ただであげるというのは、何かたくらみがあるからだ。しかし、神はただで与えてくださるのです。これを何というかというと、「恵み」と言います。神の恵みです。しかもこれは神の一方的なあわれみによるものです。そこには私たち人間の側のどのような手のわざも加えることはできません。私が何かしたから、たとえば、私が奉仕したから、私が一生懸命に祈ったから、私が一生懸命に何かをしたから与えられるのではなく、ただ一方的な恵みによって与えられるものなのです。神の前には自分がどれだけやったかといったことは、全く関係ありません。ただ神の前に出て行くかどうかということだけなのです。神の前に出て行くことによってのみ受けることができるもの、それが神の恵みであり、神が私たちに与えてくださる救いなのです。神の目から見たら、私たち人間はみなナッシングです。何もない、何の価値もありません。しかし神は、そのように神の恵みに全くあずかる資格のない者や罪深い者に対して、「渇いているならわたしのもとに来て飲みなさい。穀物も、ぶどう酒も、乳も、金を払わないで買いなさい。ただであげよう」と言って招いておられるのです。

Ⅱ.良い物を食べよ(2)

次に2節をご覧ください。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」

それなのに、なぜ食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのでしょうか。お金では買えない霊的祝福があります。それらはただで受けることができるのにそうしたものにはちっとも目もくれず、心の糧にもならない物のためにお金を払い、天国には持っていけない物や天国では何の役にも立たないもののために労するのでしょうか。もちろん、それはこの地上の生活を楽しんではならないということではありません。むしろ、私たちが投資すべきものは何なのか、その優先順序をよく考えてみなさいということです。もっと永遠に残るもののためにお金を使い、労し、時間を使うべきだということです。

このことについて、イエス様はこのように言われました。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)

一生懸命に汗水垂らして働いて、ようやくいただいたお給料で、たまったストレスを発散しようと、ブランドものを買ったり、高級な洋服を買ったりしても、そうしたものが私たちの心を満たすことはできません。買ったその瞬間から古くなってしまいます。エントロピーの法則といって、形あるものは滅びていくのです。中には一回も着ないのに虫に食われて穴が空いてしまったり、太って着れなくなってしまったということもあります。せっかくローンを組んで買った車が、きず物になったり、さびついてしまうこともあります。だから最近は車がその辺にぶつかっても気にしないことにしました。形あるものは壊れるのですから。ですから、自分の宝を地上にたくわえるのはやめて、天にたくわえるべきです。憂さを晴らそうと高いお酒を買う必要はありません。神に聞き従い、良い物を食べるなら、ストレスも解消でき、喜びに満ち溢れるようになるからです。

ここでは、「そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」とあります。「脂肪」は現代では様々な病気の原因となっていてあまり歓迎されていませんが、聖書では芳ばしい香のする最上のものとして、神にささげられました。つまり、「脂肪」は最上のものを表しているわけです。神に聞き従い、良い物を食べるなら、あなたは最上のもので元気づくことができるのです。

では「良い物」とか「最上のもの」とは何でしょうか。ここではそれが「食料にもならない物」とか「腹を満たさない物」と対比されています。私たちの糧となり、私たちの腹を満たすものです。それは、神とその救いのみことばのことです。この時イスラエルはバビロンに捕らえられていましたが、そうした異教の生活の中に自分たちの心を満たすものを求めていたでしょうが、見つけられませんでした。そうした異教の社会の中には彼らを満たすものはありませんでした。一時的に満腹感を味わうことができても、次の瞬間はにはまたお腹が空いてしまうのです。真に人の心を満たすことができるのは、神とそのみことばだけです。イエス様はこう言われました。「人はパンだけで生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)これが良い物であり、イスラエルが置かれた絶望的な状況の中でそれを乗り越えていく力であったのです。

それは私たちも同じです。皆さんは何のためにお金を払い、何のために労しておられるでしょうか。食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労してはいないでしょうか。神に聞き従い、良い物を食べなければなりません。神の口から出る一つ一つのことばを食べて、そこに希望を置かなければならないのです。そうすれば、あなたは脂肪で元気づくことができます。イエス・キリストは、いのちの水になってくだるし、穀物(いのちのパン)にもなってもくださいます。またぶどう酒(喜び)にも、乳(成長の糧)にもなってくださいます。イエス・キリストは、あなたのすべてのすべてになってくださるのです。この方を食べるなら、すなわち、この方を求め、この方と交わりをもって生きるなら、あなたの一生は良いもので満たされるのです。

Ⅲ.あなたがたは生きる(3-5)

第三にその結果です。神に聞き、神のもとに出て行くなら、あなたがたは生きるということです。3節をご覧ください。ここには、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」とあります。

「私はちゃんと生きてますよ!」という方がおられるでしょうか。それは一時的なことで、あとどのくらい生きられるかわかりません。ここで言われているのは永遠のいのちのことです。死んでも生きるいのちです。イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われましたが、この死んでる生きるいのちのことなのです。 クリスチャンにはこのいのちが約束されています。ですから、クリスチャンは今死んでもまた生きます。クリスチャンでない人は違います。クリスチャンでない人は、今晩死んだらまた死にます。死が二回あるんです。肉体の死と、霊的な死です。霊的な死とは第二の死とも言われ、永遠に神から離れてしまうことを意味しています。黙示録20章14~15節に記されてあります。「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この池に投げ込まれた。」これがいわゆる地獄のことです。しかし、クリスチャンは一度しか死ぬことがありません。そして肉体的に死んでも天国に入り、そこで永遠に神と生きるようにになります。これが永遠のいのちです。この地上でのいのちは70年か80年、長くても100年くらいです。どんなに頑張っても120年くらいでしょう。みんな必ず死にます。それは100パーセントです。そして死んだらどうなるのかというと、死んでも霊において生きるのです。人は死んだら終わりではないのです。死後も霊において生き続けるのです。永遠にです。死後の世界の方が圧倒的に長いのです。この地上でのいのちは点にすぎません。あっという間に過ぎ去りますが、死後の世界は永遠なのです。あなたはこの永遠の世界をあなたはどこで過ごされますか。神とともに天国で過ごされますか。それとも、神のいない燃える火の池である地獄でしょうか。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたは生きる。」もしあなたが神のもとに行き、神に聞き従い、神の救いを受け入れるなら、あなたは生きるのです。

アメリカの企業家であったハワード・ヒューズは、映画、放送局、航空会社、ホテル、賭博場など、約50あまりの事業を手がける富豪で、若い頃はハリウッドのスターたちとも数多くのうわさがあった人です。                     しかし彼は、45歳になると対人恐怖症にかかかり、人を避け、一人で過ごすようになりました。病原菌を恐れ、自宅に無菌室を作り、食べ物に毒が入っていないかを心配して、チキンスープしか飲まずに生活しました。理容師が、かみそりやハサミで自分を殺しはしないかと恐れ、床屋にも行かず、手足のつめは切りませんでした。さらに彼は、仕事も電話とインターフォンを通してするようになりました。とうとう栄養失調にかかり、最後は飛行機で移動中に亡くなりましたが、死ぬ間際に、次のような言葉を残したと言います。「何もない。何もない。何もない!」つまり、「むなしい。むなしい。むなしい。!」と叫びながら死んだので す。                                            人が全世界を手に入れたとしても、まことのいのちを損じたら何の得があるでしょうか。私たちが常に感謝しなければならないのは、たとえこの世で楽しむことができなくても、一番尊い天国のいのちが約束されているからです。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたは生きる。」とあるように、このいのちを受けたのです。

3節後半のところを見てください。ここには、「わたしはあなたがたにとこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」とあります。これはどういうことでしょうか。ここでは、この約束がどれほど確かなものであるかを示すために、ダビデへの変わらない愛の契約が記されてあるのです。これはⅡサムエル記7章12~16節にあるものです。ダビデの子孫から救い主イエス・キリストが生まれ、彼によって王国が確立されるという預言です。それはいったいどのようにしてもたらされるのでしょうか。それは一方的な恵みによってです。かつてシナイ山でモーセに与えられた十戒はそうではありませんでした。それは神がこうしなさいということに対してそれを行うことによって与えられる救いでしたが、ダビデ契約は違います。ダビデ契約は恵みの契約です。ただ神のもとに出て、神が与えてくださる恵みを受けることによって救われるのです。私たちがへりくだってただ神の前に出、神の救いを受け入れるなら、だれでも救われます。それがダビデ契約であり、それがその子孫から生まれたイエス・キリストによって実現したのです。ですからこれは確かな救いなのです。私たちの行いとは全く関係なく、一方的な神の恵みによる救いだからです。

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(Iヨハネ5:11,12)    そのいのちは御子のうちにあります。御子を持つ者、すなわち御子を信じる者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。それは神の約束のみことばによるのです。私たちの感情とは全く関係ありません。御子を持つ者はいのちを持つことができるのです。お金をはらわなくても、代価を払わなくても、ただで・・・。

このように何の代価も払わないでと言いますと、何だかそれはとても安っぽいように感じますが、実はそうではなく、そこにはものすごい代価が払われているのです。神のひとり子のいのちという代価です。私たちは自分の罪の代価を支払うことができなかったので、神が代わりに支払ってくださいました。それが御子イエス・キリストです。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったので、この御子の代価のゆえに、私たちの罪は赦されたのです。

5節を見て終わります。「見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。」

「あなたを知らない国民」とは異邦人のことです。やがて異邦人までもあなたのところにやって来て、あなたの祝福にあやかりたいというようになるということです。この恵みはそれほど豊かな救いなのです。この大いなる祝福の中にあなたも招かれているのです。きょう、この招待状があなたにも送られました。あなたはどのように応じられますか。

マタイ22章には、天の御国は、王子のために結婚披露宴を設けた王にたとえることができるとあります。王は招待しておいた客を呼びに、しもべたちを遣わしましたが、彼らは来たがりませんでした。彼らは王が遣わしたしもべたのことを気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、ほかの者たちは、そのしもべたちをつかまえて恥をかかせ、殺してしまいました。  そしたら王は何と言ったでしようか。「宴会の用意は出来ているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者たちをみな宴会に招きなさい。」(9)それでしもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになったのです。

皆さんはどうか王である神の招待を拒むようなことはなさらないでください。神の前に出て、神がただで与えてくださる祝福を味わっていただきたいと思います。そうすれば、あなたは生きるのです。