イザヤ書60章1~22節 「起きよ。光を放て。」

きょうは、イザヤ書60章から「起きよ。光を放て」というタイトルでお話します。これは、神の恵みによって救われた神の民に対して語られていることばです。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(59:16)主は一方的な恵みによって私たちを救ってくださいました。その神の民に語られていることは「起きよ。光を放て」ということです。  きょうはこの箇所から、神の民であるクリスチャンにもたらされる栄光がどのようなものか、どのように輝いたものなのかを一緒に見ていきたいと思います。

Ⅰ.起きよ。光を放て(1-3)

まず最初に1節から3節までをご覧ください。1節には、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」とあります。 この「あなた」とは誰のことでしょうか。それは罪を悔い改めた者、シオンのことです。59章19,20節には、「そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上る方では、主の栄光が恐れられ。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」とあります。これは主イエスの再臨の預言なのです。主イエスはどのような人のところに来られるのでしょうか。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者たちのところ、その罪が贖われた者たちのところです。ですから、これはクリスチャンたちのことを指して言われているのです。そのクリスチャンたちに語られていることはどういうことでしょうか。起きて、光を放て、です。なぜなら、あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからです。

「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」(2)

まさに現代はやみです。暗やみです。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっています。しかし、クリスチャンは決してやみの中を歩むことはありません。なぜなら、クリスチャンの上には主が輝いているからです。主はこう言われました。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

イエス様はこの世の光です。あなたではありません。あなたが世の光なのではないのです。イエス様が世の光です。私たちはその光を受けて、その光が私たちの上に輝いているので、私たちは決してやみの中を歩むことはないのです。いや、そればかりではなく、国々の民はこの私たちの光のうちに歩み、王たちは私たちの輝きに照らされて歩むのです。私たちにはまさに燈台のような使命が与えられているのです。

マタイの福音書5章14~16節を開いてください。そのところで主はこう言っておられます。 「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14~16)

皆さん、私たちは世界の光なのです。光は何のために存在しているのでしょうか。照らすためです。その光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられる私たちの父があがめられるようにしなければなりません。

ゴスペルシンガーのレーナ・マリアさんは、生まれたときから両手がありませんでした。そのうえ、左足の長さも右足の半分ぐらいしかなかったのです。両親は初めびっくりしましたが、すべての人は等しく価値ある人間だという信念から、精一杯の愛情を注いでレーナさんを育てました。障害があるからといって甘やかさず、普通の子どもと同じように育てました。もちろん、困難なことはたくさんあったでしょうが、レーナさんは、何でもできるだけ自分でするようにして、辛抱強く一つ一つを克復していきました。字を書くことはもちろんのこと、お料理も、裁縫や編み物も、パソコンも、ピアノを弾くことも、そして車を運転することも、できるようになりました。口とあごと両手を使って何でもできるようになったのです。3歳からは水泳を始めて、ソオルのパラリンピックでは優秀な成績を収めました。  そのレーナ・マリアさんが日本のテレビに出演したとき、キャスターが、「体が不自由で大変でしょう。それなのに、どうしてそんなに明るい笑顔でいらるんですか」と尋ねると、レーナさんはにこにこしながら、こう答えました。「私は神様からたくさんのものをいただいているので、不自由だと思ったことがありません。イエス様はいつも私のそばにいてくださいます。だから、いつも神様に感謝しているんです」  レーナさんは、このような体で生まれたのは、神様が特別な目的をもっていらっしゃるからだと考えています。そして、その神様の目的を達成するために精一杯努力したいと言って、美しい声で神様を賛美し、さわやかな笑顔で神様のすばらしさを証しているのです。長野のパラリンピックの開会式では、「わが魂、いざたたえよ。大いなる御神を」と高らかに神様を賛美して、世界中の人に感銘を与えました。また、先の震災復興のコンサートでも多くの人たちに慰めを与えました。

それは何もレーナさんのように特別な人だけのことではありません。私たちもそうなのです。今、阿久津恵美さんが証をしてくださいました。阿久津さんがクリスチャンになられたのは、かつて米国の証券会社に勤めていた時に同じフロアーにいた一人の女性との出会いがきっかけでした。毎日怒号が飛び交う殺伐とした職場の中でも、その方はつも笑顔を絶やさないで、だれにでも親切に接しておられたので、誰からも愛されていました。こんな殺伐とした職場でどうしてそんなに穏やかにしていにれるのかと思った阿久津さんは、ある日その女性に尋ねました。すると彼女は「神様を信じているから」と言いました。その方はいろいろと説明してくれたのですが、ただ一つわかったことは、その神様というのは仏陀でも、マホメットでもなく、イエス・キリストであるということです。それで阿久津さんはその週末から近くの教会に行くようになったのです。その方の存在が阿久津さんを救いへと導くきっかけを与えてくれたのです。阿久津さんにとってその方は光のような役割を果たしてくれました。阿久津さん曰く、「人は行いだけでは救われませんが、しかし、彼女の存在そのものがイエス様の香り放ち、愛を示していたことで、私の中に蒔かれていた信仰の芽を芽吹かせるきっかけとなりました。」    アーメン!皆さん、私たちの存在そのものがこの世の暗やみを照らす光なのです。人は行いだけによっては救われませんが、私たちの良い行いを見て、天の父をあがめるようになるのです。そういう意味では笑顔は大切ですね。一生懸命に作る笑顔ではなくその人の心から溢れ出るような笑顔、優しい言葉、親切な態度、愛に溢れた行動、そうした良い行いによって、天の父があがめられるようにしなければなりません。

Ⅱ.目を上げて、あたりを見よ(4-9)

次に4~9節までをご覧ください。4節には「目を上げて、あたりを見よ。彼らは集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」とあります。

どういうことでしょうか。これは終末的預言で、やがて神の子とされる数えきれない人々が救われ、主に導かれてくるということです。リバイバルです。具体的には、あなたの証しによって、イエス様を信じ、救われた神の子たち、ここでは息子とか娘と呼ばれていますが、そういう人たちが教会に集うようになるのです。伝道というと、人の誤りや罪を指摘し、イエス様を信じるようにと説得することだと考えている人が多いようですが、このところを見ると、伝道とはそういうものではないことがわかります。伝道とは、あなた自身がイエス様とイエス様の御言葉にしっかりつながることによって愛の実を結び、あなたの内にあるイエス様の光に、人々が引き寄せられてくることなのです。いつでも、どこでも、あなたは光であるイエス様だけを見上げて、人々を愛し、仕えればよいのです。そうすれば、人々はあなたに引き寄せられてきます。それが伝道です。あなたを救われたイエス様の光を指し示すのが伝道なのです。

そのとき、主の祝福が、あなたのもとにやって来ます。5節には、「そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。」とあります。「海の富」とは、海からの産物のこと、諸国の財宝も彼らのものとなります。

そればかりではありません。6節を見てください。6節には、「らくだの大群、ミデヤンとエファの若いらくだが、あなたのところに押し寄せる。これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて来る、主の奇しいみわざを宣べ伝える。」とあります。  「ミデヤン」とか「エファ」とは、イスラエルの南方にある広大な砂漠地帯のことです。モーセはエジプトから逃れたときこのミデヤンの荒野に来て、ここで羊を飼っていました。そのミデヤンとエファからはらくだの大軍が押し寄せてくるというのです。  「シェバ」とは今のサウジアラビヤのことですが、そこから来る者は黄金と乳香を携えてやって来ます。イエス様がお生まれになったとき、東方の博士たちが、黄金、乳香、没薬をイエス様に献げましたが、それはこの預言の成就でもあると言えます。

7節を見てください。7節には、「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕え、これらは受け入れられるいけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。わたしは、わたしの美しい家を輝かす。」とあります。「ケダル」も南方の荒野の地域のことですが、そこからは羊の群れを携えてやって来るようになります。しかし、これは単なる羊の群れというよりも、主を礼拝するためのいけにえとしてささげられるということが言われています。どういうことでしょうか?

ケダルとはイシュマエルの子孫たちのことです。アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたこどもですね。それがイシュマエルです。その子孫がケダルです。聖書を見ると、このイシュマエルの子孫であるケダルは、ずっと神の民であるイスラエルに敵対すると預言されています(創世記16:12,25:18)。その預言のとおりに、イシュマエルの子孫であるアラブ人はずっとイスラエルに敵対していました。それはこの聖書の預言でもあるのです。イスラム教の創始者であるムハンマドは、自分はこのイシュマエルの子ケダルの子孫であると言っていますが、イスラム教徒やアラブ人は昔から今に至るまでずっと、イスラエルに敵対してきたのです。しかし、そのような人たちでさえも、世の終わりになると神の都にやって来て、まことの神を礼拝するようになります。自分のたちの家畜をいけにえとしてイスラエルの神の神殿でささげるようになるのです。これは本当に麗しいことではないでしょうか。これまでどんなに神に敵対していた人でも、どんなに呪われていたような人でも、主は必ず救いの手を差し伸べてくださいます。そして神の民の一員として加えてくださり、神の民と一緒に神の救いをほめたたえ、心からの感謝のささげ物をささげるようになるのです。ここに「わたしは、わたしの美しい家を輝かす」とありますが、そのようなことによってさらに主の宮は美しく輝くようになるのです。

そして8節と9節です。「タルシシュの船は真っ先に、あなたの子らを遠くから来させ、彼らの金銀もいっしょに、あなたの神、主の名のために、イスラエルの聖なる者のために運んで来る。」

「タルシシュ」とは今のスペインにある町のことです。後に、そこには多くのイタリヤ人が移民しました。ですから、ここにはヨーロッパから運ばれてくる品々がどんなものであるのかが記されてあるのです。そしてヨーロッパから運ばれてくるのは多くの金銀、莫大な財宝であります。それはまさに大きな雲が押し寄せて来るようであり、巣に帰る鳩が群れをなして押し寄せて来るようです。つまり、この世の終わりには、世界の果てから、四方八方から、多くの人々がそうした財宝を携えて、あなたのもとにやって来るようになるのです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。「主があなたを輝かされたから」です。私たちは神の子どもとして、神のすべての祝福を相続するようになったからです。

神の子どもとされたことで得た栄光、やがて来る栄光はどんなに輝いたものでしょう。あなたはこれを見なければなりません。目をあげて、あたりを見なければならないのです。罪贖われて神の子どもとされた者に与えられる祝福がどんなに大きなものなのか、その栄光がどんなに輝いたものであるかを見るなら、あなたはこの主の光を輝かせることができるようになるでしょう。

Ⅲ.主があなたの永遠の光となる(10-22)

最後に、この御国の栄光とその輝きについて見たいと思います。10節から終わりまでのところです。10節から13節をご覧ください。 「外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたをあわれんだ。あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、共に、あなたのもとに来て、わたしの聖所を美しくする。わたしは、わたしの足台を尊くする。」

「城壁」とは、エルサレムの神殿の城壁のことです。これまで外国人の王たちは、城壁を打ち壊す者でした。アッシリヤにしてもそうですし、バビロンにしてもそうです。またローマ帝国もそうでした。外国の王たちはみなエルサレムを踏みにじり、その神殿を粉々に破壊しました。今、そこには嘆きの壁と呼ばれている壁があるだけです。しかし、この世の終わりにはそうではありません。逆に、彼らは城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕えるようになります。エルサレムの再建のために、王たちが仕えるようになるのです。

11節には、「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。」とあります。  これはやがてもたらされる新しいエルサレムの光景です。黙示録21章25節にも同じことが言われています。つまり、これは天の御国のことが語られているのです。このイザヤ書60章と黙示録21章は対になっている箇所です。同じことが預言されています。紀元前700年頃に見たイザヤの幻と紀元100年頃に見たヨハネの幻は同じものだったのです。ということはどういうことかというと、これは必ず起こるというこです。天国は絶対にあるということです。私は牧師として時々思うことがあります。こうやって天国のことをいつも宣べ伝えておきながら死んだ後で天国がなかったらどうしよう・・・と。私の一生は何だったのか・・・と。そのために仕え、そのために労してきたのに、死んでみたらそれがなかったとしたら、それほど虚しいことはありません。けれども、こうしてイザヤもヨハネも同じものを見ていたことを知るなら、「ああ、やっぱり間違いではなかった!」という確信が与えられます。イザヤもヨハネも言っていることは、この都の門は一日中決して閉じることがない、ということです。なぜ?そこにはいつも国々の財宝が運ばれて来るからです。そこにはレバノンの杉やもみの木、すずかげ、檜といった木々が運ばれて来て、神の神殿を美しく飾るようになります。かつてレバノンの杉を使ってソロモンが神殿を建てたように、世の終わりの新しいエルサレム(天国)も完全なレバノンの杉が神の神殿を美しく飾るのです。

これと同じ光景が19節と20節にもあります。 「太陽がもうあなたの昼の光とならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」

この神の都は、太陽と月はもはや必要ありません。なぜなら、主ご自身が永遠の光となって、太陽にまさる光で都を照らされるからです。暗い夜に星が輝いているときれいですね。昔はその星によって旅人が旅の方角を知りました。航海する舟が後悔することがないように、ちゃんと行く道を定めるように星を見て航海したのです。ところがその星でさえ、太陽が出たら消えてしまいます。太陽の光というのはものすごく明るいです。ところが、その太陽の光でさえ、栄光の主の前には消えてしまうのです。私たちは太陽を見ると、目が焼けてしまいますから、いぶしたガラスなどで見ますが、主の栄光を見るということは太陽どころではありません。罪人はその前で立っていられないのです。しかし、その私たちの罪が赦され、聖められて主イエスが再びおいでになられたるとき、太陽の光にもまさる栄光を私たちはこの眼をもって見ることができ、拝することができるのです。いいえ、そればかりではなく、この栄光の主と永遠に交わりをもつことができるのです。そういう時が来ます。

ここに「あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない」とあります。いい言葉ですね。いくら明るい太陽でも雲があったら隠れてしまいます。夜になったら沈んでしまいます。けれどもこの太陽は隠れることも、沈むこともありません。私たちの心のうちに与えられた神の恵みが、永遠に輝き続けるからです

22節の最後のところには、「時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。」とあります。そういう時が必ず来るぞ!とイザヤは告げました。時が来れば、主がすみやかにそれをされます。それは私たちでさえまだ見ていない、これから何年先、何千年先に起こるかわからない出来事、けれども、それは必ず起こる出来事であると、イザヤは神の聖霊によって見ていたのです。あなたはこのことを見ておられますか。あなたが見ておられるのは何ですか。目の前の苦しみや患難ですか、それとも、やがてもたらされる栄光でしょうか。今の生活がどんなに苦しくても、それがすべてではありません。クリスチャンには暗やみを照らす光があるのです。その光があなたの上に輝いています。この光に照らされることによって、私たちは現実の生活での不安や絶望を克復していくことができるのです。どんな暗やみの中にあっても輝くことができるのです。その光を私たちはこの世の中で輝かせなければなりません。

昨年、7月22日午前9時15分、JR南浦和駅のホームで30歳の女性が足を滑らせて京浜東北線の電車とホームに間に挟まれるという事故が起こりました。その女性は幸い電車とホームの間にウエストがひっかかり、線路のある地面に落ちませんでした。しかし、その女性を救い出すためには電車をゆっくりと動かさなければなりませんでした。駅のスタッフはホームと乗客にこのことを伝え、このため電車が遅れるとアナウンスすると、約40人くらいの人が線路に下りて行き、みんなでゆっくりと電車を反対側に押し始めました。それで電車とホームにはさまれていた女性は全く無傷で、何のけがをするみとなく救い出されたのです。彼らはホームに落ちて危ない人がいるということを聞いたとき、何とかしなければならないという気持ちになり、自分にもできるならと、ホームに下りて行ったのです。一人一人の力は小さくても、このようにみんなで協力し合うことによって一人の女性が救い出されたのです。

これは私たちの伝道においても言えることです。私たち一人一人の力は小さいですが、この世の中で迷っている人がいることを知り、何とかしなければならないという思いを持って立ち上がり、お互いに協力し合うなら、必ず救い出すことができます。それがあなたがたの光を輝かせるということではないでしょうか。私たちはそういう教会でありたいと願います。神を知らないで滅びに向かっている人を救い出すために一つ一つの光が助け合って大きな光となってキリストを証していく。そこに大きな神の栄光が現されていくのです。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」私たちも主の光を受けて、主の証人として輝かせていただきましょう。