レビ記21章1~24節

レビ記21章

きょうはレビ記21章から学びます。まず1~9節を見ていきたいと思います。

1.祭司の歩み(1-9)

「ついではモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。 姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷をつけてはならない。彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する、わたしが聖であるから。祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。」

レビ記の後半部分は17章から始まりますが、そこには神の民として聖められた者の歩みとはどのようなものなのかが教えられていますが、ここにはアロンの子である祭司に対して語られています。聖書で「祭司」というとき、それは民に代わって神にとりなしをする人のことです。また、神の恵みと祝福を人々に分かち合う仲介者でもあります。ですから、祭司とは神に仕える特権が与えられていた人たちです。

そして、聖書を見ると、私たちは神の祭司であると言われています。Iペテロ2:9に、そのように記されてあります。ですから、これは私たちクリスチャン一人一人に対して語られている教えであると言えるのです。その祭司に対して言われていることはどういうことでしょうか。1節には、「縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。」とあります。どういうことでしょうか。

新共同訳には、「親族の遺体に触れて身を汚してはならない。」とあります。このことはすでに11章でも語られていました。そこには、死体に触れる者は七日間汚れました(11:24)。そして再び聖くなるためには、聖めの儀式を経なければなりませんでした。なぜ祭司は死体に触れてはいけなかったのでしょうか。それは、「死」というのは罪によってもたらされたものだからです。罪によって死が入り込んだので、死んだ者にふれることは、罪にふれることを象徴していたからです。ですから、ここで祭司が死体にふれてはいけない、というのは、私たちキリスト者が、罪と関わってはいけない、罪から遠ざかりなさい、ということを教えているのです。それが外見の行ないだけではなく、内側の思いの中で、心の中でも、罪を犯してはいけない、そのような罪にふれてはいけません、と言うことです。

しかし、近親の者の死体には触れてもよいとされています。それは、神さまは、死者のために嘆き悲しむことを許されているからです。したがって、クリスチャンも、聖書的に、神さまのみこころにかなって、身内の死んだ人たちのために喪に服することはできるのです。しかし、そこに異教の影響が入ってはいけません。とかく喪に服するときに、異教はいろいろな儀式を持って来ることができるのです。

ですから、5節のところに、次のような戒めがあるのです。

「彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷をつけてはならない。」

どういうことでしょうか。これは死体を弔う異教的な慣習、ならわしでした。そうした風習にならってはいけないということです。日本でも、葬式は、「死者の霊への弔い」と考えられています。神を礼拝するのではなく、死んだ人を拝み、語りかけ、花をささげます。ですから、花であっても、それは神にささげられるものではなく、その死人に捧げるものとして考えられているのです。ここに、日本における葬式の難しさがあります。そういう異教的な風習を排除して、神を礼拝し、残された家族の慰めを祈るという本来の目的をどのように伝えるかは重要なことかと思います。

けれども、私たちが死んだ人のことを悲しむことは、何一つ悪いことではありません。もちろん、主イエスを信じて天国に入ったことは喜びではありますが、この地上での別れを悲しむということは当然のことであって、悪いことではないのです。死んだその人について思い出し、神がその人を通して行なってくださったことを思い出して、神を礼拝することは、感謝なことなのです。

祭司は、クリスチャンは、神に対して聖でなければなりません。死体に触れることによって身を汚したりして、自分の神の御名を汚してはならないのです。なぜでしょうか。その理由が6節に書かれてあります。それは、彼らは主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからです。

これはどういうことでしょうか。これは主との交わりのことです。この「神のパン」とは、穀物のパンも含めた神へのささげものことで、神がこれらのささげものを食されるわけです。それによって神との交わりを保つことができます。祭司が神にいけにえをささげることによって、聖なる神と一つになることを表しているのです。なのに、そこに罪が入ってきたとしたらどうでしょうか。神との交わりを保つことができなくなってしまいます。ですから、主との交わりを保ち、いつも主にある喜びと平安に満ち溢れた歩みをするためには、こうした汚れから離れていなければならないのです。

それは結婚についても同じです。7節には、「彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。」とあります。結婚とは、その相手と交わり、一つとなることです。したがって、汚れた相手と結婚すれば、自分も汚れてしまうことになります。ですから、そのような人と結婚してはいけない、と言われているのです。ここには「淫行で汚れた女」とか、「離婚された女」とありますが、これは神を恐れずに歩んでいる人のことです。そういう女をめとってはならない、そういう人と深い関わりを持ってはならないという意味です。

私たちは、結婚に限らず、深い関わりを持つ人たちを選ばなければいけません。すべての人と、深い交わりができるわけではないのです。

使徒パウロが言いました。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(Ⅱコリント6:14-15)」

もちろん、私たちはすべての人に接して、愛していかなければいけません。私たちの主も、罪人たちと食事を取られ、またパリサイ人とも食事を取られました。けれども、主は、ご自分が選ばれた12人の弟子たちと特に深い関わりを持たれました。同じように、私たちも、深い関わりを、汚れていない人、神を恐れて歩んでいる人と持つべきなのです。

なぜでしょうか。同じ理由が7節後半と8節にこうあります。

「祭司は神に対して聖であるから。あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する、わたしが聖であるから。」

2.大祭司の歩み(10-15)

次に10~15節をご覧ください。

「兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならないどんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。神のそそぎの油による記章を身につけているからである。わたしはである。彼は処女である女をめとらなければならない。やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。彼の民のうちで、その子孫を汚すことのないためである。わたしは彼を聖別するだからである。」

次に大祭司についての教えです。大祭司は民を代表して至聖所に入ることができた唯一の祭司です。祭司たちは、自分の近親の者であれば、そのために喪に服することができましたが、大祭司は父母のためにもその死体にふれることも許されませんでした。10節には、「その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。」とあります。髪を乱すとは髪をほどくことで、悲嘆の感情を表す行為ですが、大祭司にはこのような哀悼の表現も許されませんでした。また、家族の葬儀に参加するために、聖所から出ることも許されていなかったのです。

なぜでしょうか。12節にこうあります。「神の注ぎの油による記章を身につけているから」です。どういうことでしょうか。新共同訳では、「神の聖別の油を頭に注がれた者だからである。」と訳されています。つまり、大祭司には神の特別の油が注がれていたからです。一般の祭司と違い大祭司だけが至聖所の神の臨在に近づくことができました。大祭司こそ、神にもっとも近づいている者なのです。ゆえに、もっと聖くなければならなかったのです。

このことはどのようなことを意味しているのかというと、大きな特権に与る者には、大きな責任も伴うということです。大祭司は、神ご自身の栄光に近づき、神と交わるという特権にあずかっている分、自分の歩みもまた制限されるのです。
もちろん、この大祭司とはイエス・キリストのことを指し示しています。イエス様は私たちの大祭司です。その大祭司であるイエス様の歩みはどうだったでしょうか。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられました。これが私たちの模範としての姿です。イエス様のように罪や汚れから遠ざかり、神に喜ばれる歩みを求めていかなければなりません。私たちは、クリスチャンとしてすばらしい特権にあずかっているからです。それゆえ、私たちの歩みも、してはいけないことが増えてくるのです。これは否定的に考えるべきではありません。主との交わりを深めれば深めるほど、その関係は緊密になり、自分が何をしなければいけないかが、はっきりと見えてくると言ったらよいでしょう。例えば、独身のときには自由にふるまっていました。けれども、結婚することによって、自分が行なわなければいけない責任範囲がはっきりとして、そのガイドラインにのっとって歩むことに大きな喜びを持つことができます。何をすればよいかわからない、ではないのです。制限されることにある喜び、といいましょうか、律法的ではなく、賞を得るような競争選手のように、目的がはっきりした生き方であります。

それは結婚においても言えることです。大祭司は淫行で汚れている女や、離婚された女だけでなく、やもめをめとってもなりませんでした。ただ処女である女をめとらなければなりませんでした。それはなぜか?その子孫を汚すことがないためです。

3.身に欠陥のある祭司(16-24)

「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。目の見えない者、足のなえた者、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、あるいは足や手の折れた者、くる病、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれを聖別するだからである。」モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた。」

ここには、からだに欠陥がある祭司は奉仕をすることができない、とあります。どういうことでしょうか。これは障害者に対する差別では決してありません。ですから、22節には、「しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。」とあるのです。身に欠陥のある人でも、神のパンは、最も聖なるものでも食べることができました。これは神との交わりを表しているということを言いました。つまり、身に欠陥がある人でも神との親しい交わりを保つことができたのです。決して身体障害者の人が差別されているわけではないのです。そのような人たちも奉仕している人たちと同じように聖められていました。

 ではここで言われていることはどういうことなのでしょうか。これは死んだ者にふれるとか、淫行で汚れた者と結婚するというような、汚れを意味していました。ここでも同じです。神は完全な方であり、何一つ欠けたところのない方なので、この神と交わりを持つためにはそこに欠陥というものを持っていってはいけないということなのです。ですからそれは身障者が汚れているということではなく神がどのような方であり、その神に仕える者はどうあるべきなのかが教えられているのです。ですから、23節に、「ただし、垂れ幕のところに言ってはならない。」とあるように、そのように身体に障害を持っている祭司でも、他の祭司を補助し、日ごとの献げものの灰を取り除くなどの仕事をすることができたのです。

 神に仕える祭司には、神との交わりという大きな特権が与えられているがゆえに、そこにはこうした行動における制限も伴いますが、それは私たちの行動を規制するためではなく、私たちが主との交わりを深めその関係がもっと緊密になるために、何が神のみこころなのかを示しているガイドラインです。そのガイドラインにのっとって歩むことによって神との交わりをもっと深く保つことができることを覚え、神に喜ばれる歩みを求めていきたいと思います。