イザヤ書61章1~11節 「主によって喜ぶ」

前回は60章1節のみことばから、「起きよ。光を放て」というメッセージでした。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからです。罪を悔い改めて、主の贖いをいただいた神の民は、光輝く存在になって、周りの国々を照らすようにというのです。  この61章はその続きですが、続き以上です。そのように主に贖われた者はものずこい祝福を受けるようになることが語られます。それまでの悲しみが喜びに、憂いが賛美に変えられるのです。だから私たちはどんな状況にあっても、この主によって喜ぶことができるのです。

Ⅰ.悲しみが喜びに(1-3)

まず1~3節を見ていきましょう。 「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」

ここに「神である主の霊が、わたしの上にある」とありまりますが、この「わたし」とは誰のことでしょうか。これはイザヤ書の中でずっと示されてきた「主のしもべ」のことです。この方は主の使命を遂行するために選ばれ、立てられた人物ですが、ここには、主によって油を注がれ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために遣わされる方だと言われています。この方は捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰めてくださいます。ここまで読むと、これが誰のことを指していたかがわかるでしょう。そうです、これはやがて神によって遣わされる救い主イエス・キリストのことです。この「油をそそぎ」という言葉はヘブル語で「メシヤ」と言いますが、「救い主」のことです。すなわち、これは人々を罪から救ってくださる救い主イエスのことを預言していたのです。

ルカの福音書4章18~19節を開いてください。この箇所がイエス様によって引用されています。イエス様はその宣教の初期、自分の育った町ナザレに行き、いつものとおりに会堂に入って、聖書を朗読されました。それはイザヤ書でしたが、当時は巻物になっていましたのでその巻物を開くと、こう書いてある所を見つけました。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)

これはイザヤ書61章1,2節のみことばです。イエス様はこれを朗読されると巻物を巻き、係りの者に渡してすわられました。そこにいた人たちが固唾を呑んでイエスを見つめていると、イエスは人々に向かってこう言われたのです。

「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(21)

そこにいた人たちはみんなびっくりしたでしょう。イエス様は、このイザヤ書で預言されていた救い主はご自分のことであったと宣言されたのですから。イエスこそ油注がれた者、メシヤ、キリストだと宣言されたのですから。それで人々はみなイエスをほめ、その口から出てくる恵みのことばに驚きました。

しかしこのところを見ると、イエス様はイザヤ書61章1節と2節の途中までしか引用していないことがわかります。「主の恵みの年を告げ知らせるために。」で終わっています。本来なら「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ・・」と続くはずなのに、「主の恵みの年を告げ知らせるために」で終わっているのです。なぜでしょうか。それはここまでが救い主イエスが最初に来られた目的であったからです。その後の「われわれの神の復讐を告げ、」という部分は、後で成就します。それはキリストが再臨するときに成就することなのです。そのときキリストはさばき主として再び来られます。しかし、その前にキリストは救い主として来られます。その預言だっのです。その預言のとおりに、キリストは今から約二千年前に救い主としてこの世に来られました。貧しい人には良い知らせ伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げるために来られたのです。

皆さん、キリストは私たちを救うためにこの世に来られました。貧しい人に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、来てくださいました。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年を告げるために来てくださったのです。

皆さん、私たちは何と多くのものにとらわれながら生きていることでしょうか。私たちは、往々にして自分の欲望の赴くままに行動しています。それが自由だと錯覚しているからです。しかし、本当の自由とは自分の欲望のまま生きることではなく、自分の意志によって生き方を選択できることです。しかし、罪に捕らわれた者はそうした罪の誘惑を拒否しようとしてもできず、自分の意志によって選択することさえもできなくなってしまいました。

そんな罪に囚われたみじめな人間の姿を嘆いて、使徒パウロはこう告白しています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:24,25)

それは本当にみじめな人間の姿です。それはまさに死のからだなのです。いったいだれが罪に囚われた死のからだから私たちを救うことができるのでしょうか。だれもいません。ただ神だけが、神が遣わされた救い主だけができます。それゆえに彼は、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言ったのです。

イエスはこう言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31)罪を行っている者はみな罪の奴隷です。しかし、真理はあなたがたを自由にします。「もしキリストがあなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ8:36)キリストは、あなたを自由にすることができます。罪に囚われた状態から完全に解放することができるのです。

ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 – 1976年5月26日)は、「人間というのはみな死に閉じ込められいる存在だ」と言いました。死の奴隷になっているのが人間だというのです。そういうものの奴隷になつて、結局のところ死に服するのが人間だとあきらめていたわけですが、そういう私たちのために、イエス様は来られました。イエス様は、私たちの罪を全部背負って十字架について身代わりに死んでくださいました。それだけではありません。三日目によみがえられました。その復活の力をもって死を爆破するかのように征服されたのです。イエス様は「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年」を告げるために来られたのです。

ここには「主の恵みの年」という言葉がありますが、これはレビ記25章にある「ヨベルの年」のことです。この「ヨベルの年」とは、五十年ごとにやってくる解放の年です。その時にはあらゆる借金が棒引きになりました。また、奴隷に売られていた人々は解放されて家に帰ることができました。要するにこれは恵みの大解放であったわけです。そういう時がやって来るとイザヤは預言したのです。それは何を意味していたのかというと、このことです。やがてこの世界に救い主が来られ、罪に囚われている私たち解放してくださるということの預言だったわけです。罪によって苦しんできたこの人類がその罪から解放され、その罪を問わないという救いの時代がやってくるということのひな型だったのです。

イエスは、この恵みの年を告げ知らせるために来られました。それは霊的な問題であれ、精神的な問題であれ、肉体的な問題であれ、経済的な問題であれ、すべての問題における大解放です。ですからイエス様がおいでになられた時、その口から出る恵みの言葉に多くの人々が慰められたのです。盲人には目が開かれることを、足のなえた人はいやされ、死人は生き返りました。悪霊に縛られていた人も解放され、さまざまな問題に捕らわれていた人が解放されました。それだけではありません。罪を犯して、その結果である死に捕らわれていた人が赦される時が来たのです。それが主の恵みの年です。何という恵みでしょう。まさにアメージング グレーズです。それは私たちの人生を一変させます。3節をご覧ください。

「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」

シオンの悲しむ者たちは、灰の代わりに頭の飾りを着けてもらえます。灰というのは悲しみや嘆きのシンボルです。イスラエルでは大きな悲しみを被ったときに灰をかぶりました。たとえば、ダビデの娘タマルが異母兄弟アムノンに辱められたとき、タマルは頭に灰をかぶり、着ていたそでつきの長服を裂き、手を頭に置いて、歩きながら声をあげて泣いた(Ⅱサムエル13:19)とあります。それは悲しみの極致、極みの表現だったからです。しかし、キリストによって罪から解放されると、灰の代わりに頭に飾りをつけてもらえるのです。頭の飾りはお祝いのシンボルです。キリストはあなたの悲しみを祝福に代えてくださるのです。

また、悲しみの代わりに喜びの油を、とあります。これは祝福のシンボルです。油は王としての任職される時に注がれました。それは元気な者としての身だしなみでもありました。ぱさぱさしていません。しっとりとして、つやつやしています。悲しみの油がそのような祝福の油に変えられるのです。救い主イエスは、あなたの悲しみを喜びに変えてくださるのです。

また、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである、とあります。 憂いの心も讃美に代わるのです。

その結果どうなるか?「彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」とあります。皆さん、樫の木というのは堅くて立派な木です。一年中、常に緑の葉をつけ、生命力に溢れています。そんな樫の木のようになるというのです。樫の木は樫の木でも、1章30節には「葉のしぼんだ樫の木」もあります。神から離れ、自分勝手に生きる人は、葉のしぼんだ樫の木のようです。しかし、救い主キリストによって罪贖われ、罪から解放された人は、義の樫の木のようになるのです。

Ⅱ.主の祭司ととなえられる(4-9)

次に4節から9節までをご覧ください。まず4~6節までをお読みします。 「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。」

「彼ら」とは神のキリストによって罪贖われた人たちのことです。彼らは廃墟となったエルサレムと神殿を建て直し、荒廃した他の町々を新しくします。そして他国人は、彼らの羊の群れを飼い、ぶどう作りに励むようになります。これまではそうではありませんでした。これまでは他国人はイスラエルを苦しめていました。そうした他国人がエルサレムの人たちのために羊を飼い、畑を耕し、ぶどう畑の手入れをするようになるのです。

しかし、あなたがたは違います。あなたがたというのは神に贖われた者、シオンのことです。シオンは主の祭司となって、神に仕える者と呼ばれるようになり、世界の富と栄光をその身に受けるようになるのです。    これはものすごい祝福です。皆さん、祭司というのをご存じでしょうか。祭司とは民に代わって神にとりなしをする人のことです。また、神の恵みと祝福を民にとりつぐ人でもありました。この祭司ととなえられるのです。

たとえば、アブラハムはゲラルの王アビメレクのために祈りました(創世記20:17)。また、ヤコブがエジプトの王パロを祝福しました(創世記47:10)。これはどういうことかというと、立場が逆転しているということです。普通、身分の高い人が低い人を祝福するのに、下の人が高い人を祝福したのです。それは神がアブラハムやヤコブに、その地の王に勝る権威や立場を与えてくださったということです。ですから、神の祭司であるということはとても栄誉なことなのです。その神の祭司ととなえられるようになるのです。そして、私たちクリスチャンにはこの立場が与えられていると約束されています。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Iペテロ2:9)

「あなたがた」とはクリスチャンのことです。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、私たちを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、私たちが宣べ伝えるためなのです。

そればかりではありません。7節をご覧ください。 「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」

二倍の祝福です。あなたの恥に代えて、あなたは二倍のものを受けます。この二倍というのは文字通りの二倍というよりも象徴的な数字と考えた方がいいかと思います。豊かな祝福を受けるということです。旧約聖書の律法でも、「盗んだものは必ず二倍にして返さなければならない」(出エジプト22:4)とあります。倍返しです。イスラエルはずっと略奪されてきましたが、ちゃんと報われる時がやってくるのです。このように失われたものが倍にして返されるなら、私たちも期待したいと思います。あなたから奪い去られるものがあるでしょうか。あなたの時間も、労力も、お金も、持ち物も、いろいろな物が盗まれたとか、いろいろなひどい目に遭ってきたということがあるかもしれません。でも神様は二倍にして報いてくださいます。

そして8節には、「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。」 とあります。

「わたし」とは主なる神のことです。主はどのような方なのでしょうか。主は公義を愛する方です。公義とは律法にかなった正しい行いのことです。聖書にしたがって正しい行いをすること、それは神様が愛されることです。だから私たちもそれに従うのです。神が愛されることを行うわけです。もしかしたら、それは少数派の、ほんの一握りの人たちかもしれません。マイナーかもしれません。大多数の人は聖書なんてどうでもいいと、自分たちの考えに従って行動するかもしれませんが、我が家と我は主に仕えん、です。私たちはただ主が示される道を歩むのです。それは主は公義を愛する方だからです。人はあなたを非難するかもしれません。人はあなたを煙たがるかもしれません。しかし、それでも私たちは主が示される道を歩みます。なぜなら、主は公義を愛する方であって、そのような者を祝福してくださるからです。  そのような人は9節にあるように、決して揺らぐことのない永遠の祝福を受けるようになるのです。

Ⅲ.主によって喜ぶ(10-11)

ですから結論は何かというと、主によって喜ぶということです。10、11節をご覧ください。 「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ。」    10節の「わたし」というのは、文脈上、1節から見ていただくとわかりますが、メシヤのことです。救い主イエス・キリストのことを指して言われています。

ですから、これはイエスが主によって大いに楽しみ、イエスのたましいも、父なる神によって喜ぶということです。主がイエスに、救いの衣を着せ、正義の外套をかぶらせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからです。ということは、イエス様も救いが必要だったという意味ではありません。これはイエス様が救いを帯びて来られたという意味です。イエス様は救いを帯びて来られました。正義の外套をまとい、花婿のような栄冠と、花嫁のような宝石で飾られてやって来られました。

それはイエス様だけのことではありません。このイエスを信じ、イエスに連なる者とされた私たちも、イエス様と同じ祝福にあずかることができるのです。なぜなら、私たちはキリストとともに、キリストとの共同相続人であるからです(ローマ8:17)。イエス様が祝福されるとき、私たちも祝福されます。イエスの栄光は私たちの栄光でもあるのです。イエスのものはすべて私たちのものなのです。なぜなら、私たちはイエス様とともに神の祝福にあずかる共同相続人だからです。私たちはそのような祝福が約束されています。来るべき千年王国では、イエス様とともに王としてこの地上を治めるようになるのです。何とすばらしい約束でしょうか。本当に私たちは弱く、足りない者ですが、それでもイエス様が主によって大いに楽しみ、喜ばれるように、私たちもこの神によって楽しみ、喜ぶことができるのです。

「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)

私たちにはこのような栄光が約束されているのです。現実の生活は厳しいことばかりです。誰もがさまざまな悩みや苦しみを抱えています。社会の問題も深刻です。経済の事も、こどもの教育のことも、親の介護のことも、家族の病気のことも、どれも厳しいことばかりです。けれども、私たちには確かな希望が与えられているのです。貧しい者に福音が伝えられ、心傷ついた人もいやされます。捕らわれ人には解放を、主の恵みの年が告げられました。すべての者が慰められ、悲しみの代わりに喜びが、憂いの代わりに賛美がもたらされました。こうした現実の生活の中にあっても、私たちはキリストにあって喜ぶことができるのです。感謝することができるのです。厳しい現実の中に、こうした主の恵みを忘れないで、主に賛美と感謝をささげようではありませんか。

これは「一生感謝365日」にあった言葉です。アメリカの新聞に15歳の少女がこのような投稿をした。 「私は不幸です。自分の部屋をもってないし、両親の干渉が強くて私を信じてくれません。私のことを好きな男の子もいないし、素敵な服ももっていません。私の将来は真っ暗です。」  この投稿を読んだ13歳の少女が、新聞社にこのような文を送った。 「私は歩くことができません。人が歩いたりすることがどれほど大きな幸せでしょうか。私は歩くことができませんが、見たり聞いたり、話したりすることができるので、足の不幸に不平を言う代わりに、感謝をしています。」

考えさせられる内容です。私たちはこの世で無いものを見てはすぐに嘆き、不平を言う者ですが、自分たちに与えられているものがどれほど大きな恵みなのを見ていません。神は私たちに救いを与えてくださいました。将来の希望も祝福も与えてくださいました。私たちが見なければならないのは、私たちに救いを与えてくださった主です。私たちはこの方にあって大いに楽しみ、喜び、賛美することができます。今週も、私たちに与えられた救いを見て、主に賛美と感謝をささげましょう。