「主によって喜ぶ」 No.95
イザヤ書61:1~11
Ⅰ.悲しみを喜びに(1-3)
主によって罪赦され、神の民とされた者にもたらされる祝福がどのようなものかが預言されている。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」(1-3)この「わたし」とは誰のことか?これはイエスのことである。ルカの福音書4章18-19節のところで、イエスは会堂でこの箇所をお読みになられ、「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)と宣言された。イエスこそ主に油そそがれた方であり、貧しい者に福音を伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には赦免を、囚人には釈放を告げ知らせるために神から遣わされた救い主だったのである。
しかし、ルカの福音書を見ると、イエスの宣言は「主の恵みの年を告げ知らせるために。」で切れていることがわかる。いたいこれはどういうことだろうか。実はイエスはここで最初の来臨と二度目の来臨を分けておられたのだ。最初の来臨はイエスが救い主として来られた時に成就したが、二度目は違う。二度目はさばき主として来られる時に成就する。イザヤはその両方を見て預言したが、イエスはその最初の来臨が成就したと告げたのである。今から二千年前に。確かにイエスが来られたとき貧しい人に福音が伝えられた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目が開かれることを告げられた。しいたげられていた人々は自由にされ、主の恵みの年が告げ知らされた。しかし、それだけではない。やがてイエスはさばき主として再臨され、神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、喜びの油を、賛美の外套を着けてくださる。その時イエスはすべての敵に復讐し、神の民シオンを慰めてくださる。今はいろいろなことで苦しまなければならないが、やがてこのような喜びがもたらされる。これは必ず実現することである。なぜなら、前半に書かれてあった預言もちゃんと実現したことを私たちは知っているからだ。だから、私たちはここに希望を置くことができる。ここに希望を置いて、神からの慰めを受けるものでありたい。
Ⅱ.主の祭司ととなえられる(4-9)
そればかりではない。6節には、「しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。」とある。これはどういうことか。祭司とは民に代わって神にとりなしをする人のこと。立場の下にある者が上の人を祝福する。それは下の者が上の者に勝る特権が与えられていることを意味している。イスラエルはもともとその祭司として召されていた(出エジプト19:6)。にもかかわらず彼らはその召しに不忠実だった。それで神は彼らからその特権を取り上げ、それを異邦人へともたらされた。そのようにして私たち異邦人がイエス・キリストを通してこの祭司の王国に加えられ、聖なる国民、神の所有とされた。霊的イスラエルとなったのである(Iペテロ2:9)。しかし、それは神がイスラエルを捨てられたということではない。神の賜物と召命とは変わることはない(ローマ11:29)。一時的に救いが異邦人にもたらされたが、それはオリーブの木につぎ木されているだけのことであり、やがてイスラエルはみな救われる。それは彼らが再び神の祭司となるためである。イスラエルがどんなに神にかたくなになり、神に反逆したり、神のみこころにそむいても、神は決して彼らを捨てることはない。それは霊的イスラエルとなった神の民クリスチャンにも同じことがいえる。私たちも何度も神に敵対し、その召しに不忠実になることがあるが、一度神を信じ、イエス・キリストの救いにあずかったのならば、どんなことがあっても捨てられることはない。神はずっと私たちを愛し続け、必ず捕らえてくださる。あなたもやがて神の祭司と呼ばれるようになるのである。
Ⅲ.主によって喜ぶ(10-11)
だから、私たちに求められていることは、主によって喜ぶことである。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。」(10)「わたし」とはイエスのこと。イエスは主によって楽しみ、イエスのたましいも、神よって喜ぶ。であれば、イエスによって救われ、イエスに連なる者とされた私たちも主によって喜び、楽しむことができる。私たちはキリストとの共同相続人であるからだ。イエスに対する栄光は私たちに対する栄光であり、イエスの祝福は私たちの祝福でもある。だから、私たちもこの主によって喜び、楽しむことができる。現実の日々の生活にはいろいろな困難もあるが、私たちもこの主によって喜び、楽しもう。私たちにもこのようなすばらしい祝福が約束されているのだから。