イザヤ書63章1~14節 「豊かな神の恵み」

きょうはイザヤ書63章からお話したいと思います。ここには、やがてキリストが再臨される時、どのようなことが起こるのかが記されてあります。実に、聖書には終末に起こる出来事が数多く予言されているのです。そして、それらの予言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが神からのことばを語ったものなので、100パーセント必ずそのとおりになります。それではきょうの箇所に書かれてある預言を見ていきましょう。

Ⅰ.敵を滅ぼされる方(1~6)

まず1節から6節までをご覧ください。1節をお読みします。 「エドムから来る者、ボツラから真紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」

エドムとは、死海の南方にある地域です。聖書では常に神の民イスラエルに敵対する民族として登場しています。それはエドムの祖先であるエサウが、神の特別の祝福である長子の権利を、一杯の煮物と引き替えに双子の弟ヤコブに売り渡してしまったからです。それで兄が弟に仕えることになってしまいました。それでエサウはヤコブを憎むようになったのです。その子孫であるエドム人は常にイスラエルに敵対する者として存在するようになってしまったのです。ボツラとはそのエドムの首都ですが、キリストが再する時このボツラからやって来るというのです。

なぜでしょうか?なぜなら、彼らは神に敵対したので、神は怒って、彼らを踏みにじられるからです。2節と3節をご覧ください。 「なぜ、あなたの着物は紅く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」

なぜキリストの着物は赤く、その衣は酒ぶねを踏む者のようなのでしょうか。それは、キリストが怒りの酒ぶねを踏んだからです。それで彼らの血のしたたりが、キリストの衣にふりかかり、それですっかり汚れてしまったからです。中には、この血はイエス様が十字架につけられた時に流された血ではないかと考える方がおられますが、違います。これは敵を踏みつけた時の血、その返り血なのです。それがキリストの衣にふりかかったので、真っ赤になってしまったのです。

このことは、黙示録14章17~20節にも記されてあります。ここにもキリストが再臨される時の様子が描かれています。 「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。」

このところによると、その酒ぶねから流れ出る血は馬のくつわに届くほどになり、1600スタディオンに広がるとあります。馬のくつわほどというのは馬の顔くらいの高さです。大体2メートルくらいでしょうか。それが1600スタディオンにわたって広がるのです。1スタディンは185メートルです。ですから約300キロにわたって広がるということです。まさに血の海です。イザヤはその時のことを預言していたのです。

皆さんはこの酒ぶねで踏まれることがないように、キリストを信じて救われているでしょうか。それとも、エドムのように、ボツラのように、神の敵となっていますか。神なんてどうでもいいと神に敵対し、あくまでも自分の思いのままに生きようとしていると、やがて神の怒りの酒ぶねで踏まれてしまうことになります。神が用意してくださった救い、イエス・キリストを信じて救われていただきたいと思います。御子を信じる者はさばかれることはありません。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれています。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです。ですから、あなたも救われるために、この御子を信じていただきたいのです。

Ⅱ.豊かな神の恵み(7-10)

次に7~9節までをご覧ください。まず7節です。 「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。」

この「私」とはイザヤのことです。イザヤはこの幻を見たとき、その口から神への賛美がほとばしり出ました。キリストが再臨する時、敵を踏みにじり、自分たちに報いをもたらしてくださるという神のみわざを聞いたとき、主にほめたたえずにはいられませんでした。それは私たちも同じです。クリスチャンは圧倒的な神の恵みのみわざを知ったとき、黙っていることなんてできません。その恵みに感動して、応答して、そのみわざをほめ歌うようになります。エペソ2:3-5にはこうあります。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―」(エペソ2:3-5)

私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。何の功績もない者が、全く救われるに値しないような者が救われました。これが恵みです。私たちは生まれながらに罪人であり、ゆえに、神のさばきを受けるべき子らでした。まさに酒ぶねで踏みつけられるような者でした。しかし、そのような者を一方的に神が救ってくださいました。私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。だから私たちは神をほめたたえるのです。そうしないと救われないかもしれないからではありません。この大きな愛と恵みによって救われたので、神をほめ歌うのです。

皆さん、なぜ私たちはこうやって神を礼拝しているのでしょうか?たまにはテレビでも観ながらのんびりしていたいと思うのも無理もありません。なのにこうして教会に来て神を礼拝するのは祝福されるためではありません。祝福していただいたからなのです。もう捨てられても致し方ないような者が救われたので、その神のみわざを賛美せずにはいられないからです。尽きることがない神の恵みに応答したいからです。それは宗教的な義務でも、何でもありません。そうしないと救われないからでもありません。そうすれば何か見返りがもらえるからでもないのです。神が愛してくださったので、その恵みによって救われたので、私たちはそうしたいのです。クリスチャンの生活というのは、まさにこの恵みによって貫かれているものなのです。

では神はどれほどあなたを愛してくださったのでしょうか。8節と9節には、神があなたをどれほどあわれんでくださったかが三つの言葉で表されています。「主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのな子たちだ」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自分の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」

まず第一に、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」という言葉です。「彼ら」とは、直接的にはイスラエルのことです。元々イスラエルの名はヤコブでした。意味は「かかとをつかむ者」「ずる賢い者」です。人をけ落としても自分を優先する者、偽りだらけの者でした。そんな彼らを、主は「偽りのない子たちだ」と呼んでくださるのです。これは恵みではないでしょうか。いったいなぜ神はこのように言ってくださるのでしょうか。それは彼らの罪を見て見ぬふりをしているからではありません。彼らの罪を代わりに受けて贖ってくださったからです。それは私たちも同じです。私たちも罪だらけな者で、偽りだらけな者ですが、イエス様が私たちの代わりに十字架にかかって死んで、その罪を贖ってくださいました。それゆえに私たちは、「偽りのない子たちだ」と言ってくださるのです。

第二のことは、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」という言葉です。あなたが苦しむときには、主もまたいつも苦しんでくださいます。ただ苦しむだけではありません。その苦しみのすべてを引き受けてくださいます。その究極的な表れが十字架なのです。

私たちはよく「親身になって」という言いますが葉が、イエス様はまさに親身になってくださいます。イエス様は私たちの身代わりに死んでくださったので、私たちの弱さを理解し、同情することがおできになるのです。

人はよくこう言います。「あなたの気持ちがよくわかるよ!」と。でも本当はわかりません。人の痛みや苦しみはそれぞれみな違うからです。ある程度のことは理解できるかもしれませんが、それはその人が経験したことにおいて理解できるのであって、その経験が必ずしも同じだとは限りません。だから完全に理解することはできないのです。しかし、キリストはあなたのために死んでくださいました。そこまで親身になってくださいました。だからイエス様はあなたの悲しみも、苦しみも、辛さも、全部くみ取って理解することができるのです。ですからへブル人への手紙にはこうあるのです。 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)  そこまで親身になってくださる方はいません。ですから、このイエス様にあなたの人生のすべてを任せていただきたいのです。

ところで、9節には「ご自身の使いが彼らを救った」とありますが、この「ご自身の使い」とは何のことでしょうか。これは直訳では「彼の顔の使い」です。彼の顔、神の目の前にいる使い、それは受肉前のイエス・キリストのことです。イエス様が彼らを救ってくださいました。イエス様があなたを救ってくださいました。イエス様はあなたのために十字架にかかって死んでくださることによって、あなたを救ってくださったのです。このイエスを信じる者はだれでも救われるのです。

もう一つの言葉は、9節後半の「その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」という言葉です。すばらしい言葉です。主はその愛とあわれみによって彼らを贖ってくださったので、ずっと、彼らを背負い、抱いてくださいます。

「贖う」とはヘブル語で「ガアール」という言葉ですが、「代価を払って買い戻す」という意味です。イエス様はご自分のいのちという代価を払って私たちを買い取ってくださったので、どんなことがあっても見捨てることはなさいません。昔からずっと背負い、抱いてこられたのです。46章3-4節をご覧ください。ここには、「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(46:3-4)とあります。

皆さん、主はあなたを胎内にいるときから担い、生まれる前から運んでくださいました。それはこれからも同じです。年を取っても変わりません。あなたがしらがになっても、主はあなたを背負ってくださいます。ずっと運んでくださいます。何という恵みでしょうか。神が私たちを救ってくださったということはそういうことなのです。どんなことがあってもあなたを見離したり、見捨てたりすることはしません。これが神の愛です。そのような大きな愛をもって、神はあなたを愛してくださったのです。

であれば、当然、イザヤのように、その奇しい主のみわざに感動して、その恵みをほめたたえ、心から神に従うだろうと思うかもしれませんが、イスラエルはそうではありませんでした。残念ながら、彼らは神に逆らい、神の御霊を痛ませました。10節を見てください。

「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」

そんなに大きな愛と恵みによって救ってくださったのに、ご自分のいのちをかけて救ってくださったのに、その御恩に報いようとするどころかかえって逆らい、主の御霊を痛めつけたのです。これが人間です。これが私たちの姿でもあります。 主は、その豊かな恵みによって私たちを贖い、昔からずっと背負い、抱いて来られたのに、私たちは主に逆らい、主の御霊を悲しませるようなことばかりしているのです。

皆さん、皆さんが神に逆らい、神の救いを拒絶するようなことがあると、主の聖なる御霊は悲しまれます。なぜなら、神はあなたに救われてほしいと願っておられるからです。そのためにひとり子さえも惜しまずに死に渡されました。ですから、その愛を無駄にするようなことをすると悲しまれるのです。どうか神の恵みを無駄にしないでください。信じるだけで救われるんですから、信じるだけですべての罪が赦されるんですから、どうか救い主イエスを信じてください。そして、ここにある神の豊かな恵みを体験してください。

Ⅲ.主の恵みを思い出して(11-14)

いったいどうしたらこの神の恵みを信じることができるのでしょうか。第三のことは、主の恵みを思い出してください、ということです。11節から14節をご覧ください。 「そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。」このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。」                                                     そのとき、主の民は、どうしたでしょうか。そのとき、彼らは、いにしえのモーセの日を思い出しました。「いにしえ」とは「昔」のことです。ずっと昔のモーの時代のことを思い出したのです。モーセの時代というのはこのイザヤの時代よりも約700年前のことです。いったいなぜそんなに昔のことを思い出したのでしょうか。それは思い出すためです。神がどれほど偉大な方であり、恵み深く、あわれみ深い方なのかをです。神が自分たちに報いてくだった恵みを思い出せば、神を切に慕い求めるようになるからです。

モーセの時代にはどんなことがあったでしょうか。エジプトに奴隷として400年間も捕えられていましたが、神は大いなる御業をもって彼らを救い出してくださいました。また、追ってくるエジプト軍を背に、目の前には紅海が広がっているという絶対絶命のピンチの中で主は紅海を二つに分け、そこに乾いた陸地を造られ、そこを通らせて彼らを救ってくださいました。また荒野では、家畜が谷を下るように、主が彼らをいこわせてくださり、ついに彼らを約束の地に導いてくださいました。その主はどこらおられるのですか。第二の出エジプトであるこのバビロンからの解放にあたっても、主は同じようにしてくだいます。いいえ、第三の出エジプトであるこの罪からの救いにおいても、確かに主は大いなるみわざをもって導いてくださいます。そのことを思い出すなら、あなたに感謝と喜びが溢れるようになります。

イザヤ書51章1節には、「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」とあります。あなたがたがどこからどこから切り出され、どこから救われたのかを思い出せというのです。なぜなら、思い出すことによって希望が与えられるからです。だから、イスラエルにはお祭りがたくさんあるのです。過ぎ越しの祭りから始まって種なしパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭りです。ラッパを吹き鳴らす日、贖罪の日、仮庵の祭りです。それは神が彼らにどんなことをしてくださったのかを思い出させ、どのような状況にあっても神に信頼して歩むためです。

それは私たちも同じです。私たちも神の恵みを思い出すなら、その神の豊かな恵みに感動して、心から神を信じ、神について行きたいと思うようになるでしょう。私たちにとってのモーセの日とはいつのことでしょうか。それはキリストがあなたのために十字架にかかって死んでくださった日のことです。キリストがあなたの罪のために死んでくださいました。その死によってあなたは救われました。あなたはそれほどに愛されました。そして、今も愛されています。あなたはずっと主に担われているのです。す何という恵みでしょうか。このことを思い出すならあなたはうれしくなり、喜んで神を信じたいと願うようになるでしょう。

「恵み」という漢字をよくみると、十字架を思うと書くんですね。十字架の恵みを思い出すなら、あなたがそのときからずっと主に守られて来たことを思い出すなら、あなたも必ず感謝にあふれるようになるのです。

ですから、どうか思い出してください。あなたがどのようにして救われたのか、また、あなたが救われてからこれまで、どのように神に導かれてきたのか・・・を。そうすれば、あなたは力を受けます。そして主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌うようになるのです。どうかあなたの置かれた現状を見て悲しみに沈むことがありませんように。むしろ神の恵みを思い出して、感謝にあふれた日々を送ることができますように。大切なのは、神はどのような方であるかを知ることです。そうすれば、あなたの心に確かな確信と希望がもたらされるでしょう。神はそのあわれみと、豊かな恵みによって、あなたを救い、あなたを守ってくださる方なのです。