イザヤ63:1~14 「豊かな神の恵み」
Ⅰ.敵を滅ぼされる方(1~6)
ここには、やがてキリストが再臨され敵を滅ぼされる様子が預言されている。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。」(1)エドムとは、聖書では常に神の民イスラエルに敵対する民族として登場してくる。ボツラとはそのエドムの首都のこと。再臨のキリストは、このボツラからやって来る。真っ赤に染まった衣を着て。これはどういうことか。「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏むようなのか。わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」(2-3)
これは十字架の血ではない。これは神に敵対する者がさばかれ、酒ぶねで踏まれた時のように踏みにじられた時に流される血のことである。神に敵対する者は、やがてこのようにさばかれる。神はこのように敵を滅ぼされるのである。
Ⅱ.豊かな神の恵み(7-10)
このような神のさばきの中にあっても、主を信じる者はさばかれない。彼らはこのように神への賛美をほめ歌う。「私は、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないくつしみについて。」(7)なぜこのようにほめ歌うのか。それは、神が一方的に救ってくだったから。何の功績もなく、全く救われるに値しない者が救われた。それは神の一方的な恵みによる。だから、神をほめたたえるのである。それがクリスチャンの歩みだ。
では、神はどのように愛してくださったのだろうか。第一に、神は「偽りのない子たちだ」(8)と呼んでくださった。人を蹴落としても自分を優先し、自分さえよければいいと思うような身勝手な私たちを、偽りのない子と呼んでくださる。それは私たちの罪を見て見ぬふりしているからではない。私たちの罪のすべてを十字架で代わりに受けてくださったからである。
第二に、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」(9)でくださる。「親身になって」という言葉があるが、まさに主イエスは親身になってあなたのことを理解してくださる。なぜなら、主イエスはあなたのために十字架にかかって死んでくださったからだ。だからあなたに同情できないことはない。あなたの悲しみや苦しみのすべてを汲み取ってくださることができるのである。
第三に、主は「昔からずっと、彼らを負い、抱いて来られた。」(9)主はあなたの最も近い親類になってあなたを贖い、あなたを罪から解放してくださった。そして、昔からずっとあなたを背負い、抱いてこられたのである。
何という恵みだろう。まさに「豊かな恵み」、「豊かないつくしみ」である。このような神なら、だれでもきっと素直に従うことだろう。しかし、イスラエルはそうではなかった。彼らは逆らい、主の聖なる御霊を悲しませた。私たちが主に逆らうと、御霊は悲しまれる。痛まれる。だから決して逆らうことがないように、素直にイエスを信じ、従っていきたい。いったいどうしたら従うことができるのだろうか。
Ⅲ.主の恵みを思い出して(11-14)
それは主の恵みを思い出すことによってである。「そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。」いったいなぜ彼らはモーセの日を思い出したのだろうか。それは思い出すためである。神がどれほど偉大な方であり、恵み深く、あわれみ深い方なのかを思い出すためである。主の恵みを思い出すなら、感謝に溢れるようになる。そのくちびるに賛美が溢れるようになるのだ。「恵み」とは、十字架を思うと書く。あなたが十字架を思い出すなら、あなたも必ず感謝に溢れるようになる
神はあなたを地獄の滅びから救ってくださった。世の終わりの神の復讐の日に、あなたが恐ろしいさばきを受けることがないようにしてくださった。そのために主は十字架にまでかかってくださったのである。この恵みを思い出すなら、あなたにも感謝と賛美が溢れるようになる。
だから、どうか思い出してほしい。あなたがどのようにして救われたのかを。あなたが救われてから今までどのように導かれてきたのかを。そこには言葉には尽くせないほどの神の大きな愛と恵みがあった。その恵みを思い出してほしい。そして、日々の生活の中にあって、自分の置かれたを現実を見て嘆くのではなく、その中にあってもいつくしんでくださる主の恵みを信仰によって見つめ、感謝に溢れながら喜んで神に仕えていく者でありたい。