先週は63章の前半の箇所から、神の豊かな恵みについて学びました。神に背き続けるイスラエルを、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」(8)と呼んでくださり、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いを彼らに送って、救ってくださいました(9)。そればかりか、主は昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた(9)のです。そのようにして主は、ずっと昔から彼らを導いて来られました。
それならば、なぜイスラエルはバビロンに苦しめられなければならないのでしょうか。なぜ主はじっと黙って、その状況を見ておられるのでしょうか。きょうの箇所には、そのことに対するイザヤの祈りが記されてあります。この祈りの答えが65章と66章に続くわけです。
きょうはこのイザヤの祈りから、神に聞き届けられる祈りとはどのような祈りなのかを学びたいとと思います。
Ⅰ.神のあわれみを求めて祈る祈り(63:15~19)
まず第一に、それは神のあわれみを求めて祈る祈りです。15節から19節までに注目してください。まず15節をお読みします。
「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか。」
ここでイザヤは、「どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。」と祈っています。これは、主が天の輝かしい聖なる御住まいから見ておられるという認識の上で、その熱心と力あるみわざは、いったいどこにあるのですか、と訴えているのです。私たちへのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか・・・と。どうかそんなことはしないでください。押さえることをしないで、私たちの上にそれを注いでください、と祈っているのです。
ここに「たぎる思い」という言葉がありますが、これはエレミヤ書でも使われていますが、そこでは「はらわたがわななく」(エレミヤ31:20)と訳しています。63章10節には主の聖なる御霊を痛むという表現がありましたが、ここでははらわたがわななくのです。神はあなたに対してたぎるような思い、はらわたがわななくような思いを持っておられるのです。その思いを押さえないでください、豊かに注いでください、というのです。そんなこと祈ったらおこがましいんじゃないとか、ズーズーしいんじゃないかとと思う必要はありません。なぜなら、神はあなたの父であられるからです。16節をご覧ください。
「まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。」
ここに、「まことに、あなたは私たちの父です。」とあります。そのことが何度も繰り返して言われています。そうです、神様は私たちの父なんです。神はあなたを我が子と呼んでくださる。たとえあなたがイスラエルの父アブラハムのことを知らなくても、たとえあなたがイスラエルに認められなくとも、神はあなたの父となってくださいました。あなたが救い主イエスを信じたことによって・・・。すごいじゃないですか。神は私たちの父なのです。
ローマ人への手紙8章14~15節には、「 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」とあります。
皆さん、神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもなのです。ここには、、「アバ、父」と呼ぶとあります。「アバ、父」というのはアラム語で父を呼ぶ言葉だそうです。ちなみにお母さんのことは「イマ」と呼びます。「アバもイマ」も赤ちゃんが一番最初に発音するようなごく親しい言葉です。日本語では「パパ、ママ」でしょう。英語では「Daddy」とか「Mommy」です。これはとても親しい呼びかけなのです。神は私たちにとってそのような関係になりました。「アバ・父」と呼べるようになったのです。これはものずこいことです。
J.Iパッカーという神学者は、「新約聖書の教えを一言に要約するとすれば、創造者なる神が、父であるということに関する啓示」なのだといいました。また彼は、「キリスト教の信仰を本当に理解し、自分のものとしているかどうかは、その人が、自分が神の子であるということを、どの程度認めているか、神を自分の父としてどの程度認めているか、ということでわかる」と言いました。ですから、私たちが神を「アバ、父」と呼べることはものすごい特権なのです。私たちはこのような特権をいただいているのです。
ヨハネの福音書1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。皆さん、これは特権なんです。あなたがアブラハムの子孫であるかどうかなんていうことは全く関係ありません。たとえあなたがアブラハムの子孫じゃなくとも、あなたがイエスを救い主として信じ、受け入れるなら、神の子としての特権が与えられ、「アバ・父」と呼ぶことができるようになるのです。
皆さん、これが私たちの信仰です。神が父であるということ、その父を、「アバ」と呼べる身分にさせていただいたということ、それはいかにもったいなく、かたじけないことではありますが、それが私たちに与えられている恵みであり、その恵みを感じながら、神をお父さんと呼ばせていただく。それが私たちの礼拝なのです。だからこそイザヤは大胆に神に求めたているのです。どうか、天から見下ろして、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざはどこにあるのですか。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。そんなことをしないでください。どうかあなたの燃えたぎるあわれみを、私の上に注いでください。私はあなたは私の父なのですから・・・・と。
皆さん、神様は、あなたが神様に向かって「アバ、父」と呼びかけることを求めておられます。神にあわれみを求めて祈ることを願っておられるのです。それはあなたがお父さんやお母さんの立場であるならよくわかるはずです。自分の息子や娘が音信不通で、何の関係もないことほど寂しいことはありません。多少うるさいなぁと思うくらいがちょうどいいのです。そうやってお父さんやお母さんを慕い求め、助けを求めてくるくらいがちょうどいいのです。神はあなたと親しい関係を持つことを求めておられるからです。
ルカの福音書11章9~13節にはこうあります。 「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見いだし、ただく者には開かれます。なぜなら、天の神はあなたの父だからです。子どもが魚をくださいというのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親はいません。卵をくださいというのに、さそりを与えるような父親がいるでしょうか。たまにそういう人もいますね。でもそれは普通じゃありません。普通、父親は子どもがこれこれ欲しいという時には、何とかその願いを叶えてあげたいと思うものです。皆さん、神はあなたの父です。あなたをあわれみたいと願っておられるのです。無関心であってはいけません。その父なる神に、あわれみを求めて祈らなければならないのです。求めなさい。そうすれば、与えられるからです。
Ⅱ.へりくだって祈る祈り(64:1~7)
第二のことは、へりくだって祈る祈りです。64章1~7節までをご覧ください。まず1~4節です。
「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。 火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行われるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」
これは、イエス・キリストがさばき主として天から降りて来られる預言です。そのとき、神に敵対している者たち、聖所を踏みつけている者たちは、震えます。主は、私たちが予想もしなかった恐ろしいことをされるので、山々は御前で揺れ動くのです。それは63章前半部分で見たとおりです。そのとき主は敵の流す返り血で、その衣服が真っ赤に染まりるのです。このようなことまでしてくださる神が他にいるでしょうか。いません。4節にこうあるとおりです。
「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」
このことばは、Ⅰコリント2章9節でパウロが引用しています。そこには「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神が備えてくださったものは、みそうである。」とあります。これが、イザヤ書に記されてあることの意味です。
皆さんは、このようなことを聞いたことがあるでしょうか。どの宗教がそのようなことを告げているでしょうか。それはどの宗教にも見られない、キリスト教だけが、聖書だけが告げていることです。キリスト教以外のどの宗教も、人間が何とかして神に近づくことができると教えます。その救いのベクトル、矢印がすべて下から上に向かっているのです。しかし、キリスト教だけは違います。キリスト教だけはその矢印が上から下に、天から地に向かっているのです。神のが人となられ、神が人となって十字架につけられました。神が人となって私たちのすべての罪を引き受けて死んでくださいました。そして、その名を信じるだけで救われると約束してくださいました。神の救いは上から下に向けられたのです。神の救いは一方的な神の恵みによるのです。信じるだけで救われるのです。しかし、信じない者は罪に定められます。どんなに善いことをしても、どんなに努力しても、どんなに真面目に生きても、自分の行いによっては救われないのです。そのような人は神のひとり子を信じなかったので罪に定められます。やがてキリストが天から降りて来られるときに、さばかれることになります。
このようなことは、私たちの理解を越えています。私たちがいまだかつて見たことも、聞いたこともないようなことです。しかし、神は、このようなことを、 ご自身を愛する者たちのためにそのようにしてくださるのです。
5~7節をご覧ください。 「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。」
ここでイザヤは言っています。「それでも私たちは救われるでしょうか。」いい質問ですね。主よ、あなたは喜んで正義を行う者、あなたの道をを歩み、あなたを忘れない者を、あなたは迎えてくださいます。けれども、私たちは昔からずっと罪を犯しているのです。こんな私でも救われるでしょうか。救われるのです。なぜでしょうか?6節と7節をご覧ください。それは私たち義ではなく、神の義に信頼しているからです。私たちの義など何でもありません。それは不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、風のように吹き上げられるような存在にすぎません。
この「不潔な着物」という言葉には※がついています。下の欄外の説明を見ると、これは「月のもので汚れた」という意味です。ちょっと生々しい表現になりますが、使用済みのナプキンのことを指しているのです。私たちの義とはそんなものなのです。使用済みのナプキンのようで、汚れた着物のようなのです。私たちは自分の善い行いが自分を救うかのように思っていますが、そんなものは汚れたナプキンのようなものだというのです。被災地に行ってボランティアをする、発展途上国の恵まれない国の人たちを助けようと慈善団体に寄付をする。立派なことです。しかし、そのような行いによって救われると思ったら大間違いです。なぜなら、私たちの義はみな、汚れた着物のようだからです。そのような行いが悪いと言ってるのではありません。そのような行いでは救われないということを言っているのです。
私たちを救うことができるのはただ神の義だけであって、それは神の救いであるイエス・キリストを信じることによってのみなのです。61章10節を振り返ってみましょう。ここには、「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」とあります。ここに「救いの衣」とか「正義の外套」といった言葉があります。私たちが救われるのは私たちの義、不潔な着物ではなく、神が与えてくださる神の義、救いの衣、正義の外套なのです。ですから、私たちはその古い不潔な着物を脱ぎ捨てて、キリストという義の衣を着せていただかなければなりません。
なのにどうでしょうか。7節を見てください。「しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。」これが現実です。問題は神なのではなく、その神の救いにすがろうとしない私たち人間なのです。 「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのでもない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1-2)
「主の御名を呼び求めるなら、だれでも救われる」のです。」(ローマ10:13)
あなたはどうですか。神の前にへりくだって、主の御名を呼び求めておられるでしょうか。それとも、あくまでも自分の義、自分の行いを誇っておられるでしょうか。しかし、覚えていただきたいことは、そんなのは不潔な着物にすぎないということです。木の葉のように枯れ、風が吹けばすぐにどこかに吹き飛んでしまうようなはかないものなのです。そんなものに頼らないで、神に頼ってください。へりくだって神を求めてください。神はへりくだってご自身を求める祈りを、決してないがしろにはなさいません。
Ⅲ.神にすべてをゆだねて祈る祈り(64:8~12)
第三に、神に聞かれる祈りは、神にすべてをゆだねて祈る祈りだということです。8節から12節までをご覧ください。8節、「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」
いいですね、この「しかし、主よ・・・」という言葉が。私たちの罪のゆえに神の御名を求めようとしない、神にすがることもしない、それが神との仕切りとなり、神との間に断絶が生じてしまいました。しかし、それで終わりではありません。「しかし、主よ」なのです。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手によって造られたものです。
どういうことでしょうか。たとえ私たちがかたくなでも、たとえ私たちが不忠実でも、神は変わらない愛をもって救ってくださるということです。この愛はヘブル語「ヘセド」といって契約に基づいた愛です。たとえ相手が契約を破っても神は決して破ることはしない、一方的に愛する愛です。 「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)
神はどこまでも愛してくださる方なのです。私たちに求められているのは、この神の愛の懐の中に飛び込むことです。子どもが父の懐に飛び込むように、神の懐の中に飛び込めばいいのです。それを何というかというと、ゆだねると言います。
ここには「陶器師」という言葉が出てきます。この「陶器師」という言葉が意味していることは、神は主権者であられるということです。好きなものを自由に造る権利があるということです。神は、まさに好きなものを造ることができる陶器師です。しかし、造るだけではありません。陶器師ですから、それを壊すこともできます。壊して、捨ててしまうこともできるのです。何でも自由にすることができる。それが陶器師です。
ここでイザヤが、「あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」と言ってるのは、主は私たちをどのように造ろうが、いや、それを壊して、捨ててしまおうが、煮ようが、焼こうが、何をしようが、主はその権利を持っておられるということです。なぜなら、主は陶器師だからです。主が私たちを造られました。
しかし、ここでもう一つの確信があります。それは、主は私たちの父であるということです。ということは、決してひどいことはなさらないということでもあります。私たちにとって最善のことをしてくださるという確信です。私たちは、本来なら捨てられても致し方ないような粘土にすぎない者ですが、主はそれを決して捨てたりはなさいません。それを新しいものに造り替えてくださり、神に喜ばれる、聖い器に造り替えてくださいます。なぜなら、主は陶器師であると同時に、私たちの父だからです。そう信じて、この陶器師の手にわたしたち自身を、あなた自身をゆだねて祈らなければならないのです。
なのに、現状はどうでしょうか。10節と11節を見てください。「あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。」
これは直接的にはバビロン捕囚のこと、究極的には世の終わりの日に荒らす忌むべき者によって、エルサレムが荒らされることを預言しています。しかし、それはイスラエルがバビロンによって滅ぼされた時だけでなく、あるいはこの世の終わりに荒らす忌むべき者によって荒らされるであろう時だけでなく、いつの時代でも起こることです。それは今の、私たちの時代でも、私たちの日々の生活の中にも起こっています。私たちの人生がまさにバビロンや荒らす忌むべき者によって踏みにじられ、荒れ果てたような状態になることがあるのです。主が陶器師であり、私たちの父であられるのなら、いったいどうしてそのようなことを許されるのでしょうか。それが最後の12節のみことばです。
「主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」
これは祈りの締めくくりの言葉です。これは63章15-17節に出てきた内容に似ています。祈りの始めと祈りの終わりが同じ言葉が使われています。これからバビロンに侵略されて、すべてが破壊されてしまう。それでもあなたは黙って見過ごされるのですか?
この祈りの答えが65章と66章に展開されるわけですが、そこには信じられないような驚くべき祈りの答えが出てきます。これがイザヤ書のクライマックスです。主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、溜まって、見過ごされるのですか。私たちを悩まされるのですか。いや、そうではない。その答えをここに示されるのです。祈りに答えてくださる義務などないのに、神は祈り以上のことをしてくださるのです。私たちが祈る以上に、私たちが願う以上のことをしてくださるのです。ですから私たちはこの神を信じて、この神にすべてをゆだねて祈らなければなりません。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)
あなたの道を主にゆだねて祈りましょう。主に信頼しましょう。主が成し遂げてくださいます。それが主に喜ばれる祈りであり、主が聞いてくださる祈りなのです。