イザヤ63:15-64:12 レジュメ

「イザヤの祈り」

イザヤ63:15-64:12

 Ⅰ.神のあわれみを求めて祈る祈り(63:15-19)

 主のあわれみと、豊かな恵みにふれたイザヤは、その主のあわれみを求めて祈る。「どうか、天から見下ろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。・・・私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。」(15)「たぎる思い」という言葉は、エレミヤ31:20では「はらわたがわななく」と訳されている。聖霊は痛むという表現があるように、神にも感情がある。そのたぎるような思い、はらわたがわななくような思いを押さえないでください、と祈っているのだ。

 イザヤはなぜこのように祈ることができたのだろうか。それは彼の中に、主は自分の父であるという思いがあったからである。16節には、「主よ、あなたは、私たちの父です。」ということばが繰り返して語られている。神はあなたを我が子と呼んで下さる。神の子であるなら遠慮はいらない。何でも自分の思いを告げることができる。それはクリスチャンも同じである。パウロは、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」(ローマ8:14-15)と言っている。「アバ、父」とは、アラム語で父を呼ぶ呼び方のこと。それは最も親しい人への呼びかけである。私たちはそのような身分に変えられた。それゆえ、私たちは神を父と呼び、何でも願い求めることができるのである。

 J.I.パッカーという神学者は、「新約聖書の教えを一言で要約するとすれば、創造者なる神が、父であるということに関する啓示なのだ」と言った。キリスト教信仰を本当に理解し、自分のものにしているかどうかは、自分が神の子であるということを、どれだけ認めているか、神を自分の父としてどの程度認めているか、ということでわかる。私たちは神の子であるから、父なる神に大胆に、また、必死に求めることができる。

 主イエスはこう言われた。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。・・・してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、天の父が、求める者たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9-13)

 主は、求める者たちに良い物を与えてくださる。なぜなら、主は私たちの父だから。そう信じて祈るなら、神は豊かにあわれんでくださるのである。

 Ⅱ.へりくだって祈る祈り(64:1-7)

 第二に、神に聞かれる祈りとは、へりくだって祈る祈りである。ここに重要な問いがある。それは、「ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。」という問いである。そして、その答えは何か。それは救われるということである。なぜなら、私たちは自分の義ではなく、神の義に信頼しているからである。「私たちはみな、汚れた物のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げられます。」(6)この「不潔な着物」と訳された言葉は、直訳では「月の物で汚れた着物」となっている。つまり、月の物で汚れたナプキンのことを指している。イザヤはここで、自分たちの義はみな、使用済みのナプキンのようなものだと、へりくだって祈っている。そのようなものは木の葉のように枯れて、すぐにどこかに吹き上げられてしまう。そのようなもので救われるはずがない。私たちが救われるのはただ、神が与えてくださる衣、義の衣によるのである。だから古い衣を脱ぎ捨てて、キリストという義の衣を着せていただかなければならない。

 Ⅲ.神にすべてをゆだねて祈る祈り(64:8-12)

 神に聞かれる祈りの第三は、神にすべてをゆだねて祈る祈りである。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(8)ここに「陶器師」という言葉が出てくる。これが意味していることは、神は主権者であられるということである。神は陶器師であり、私たちは粘土にすぎない。私たちはみな、神の手で造られたものなのである。したがって、何の文句も言えない。ただ陶器師であられる主にすべてをゆだねるしかない。練られようが、焼かれようが、壊されようが、廃棄処分にされようが、それはただ陶器師の意のままである。そのみこころにすべてをゆだねなければならない。しかし、この陶器師は、同時に私たちの父でもある。だから、決してひどいことはなさらない。むしろ、私たちにとって最善のことをしてくださる。本来なら捨てられても致し方ないようなものなのに、それを新しく造り替え、神に喜ばれる聖い器にしてくださる。何という幸いなことだろうか。だから私たちはこの陶器師の手にすべてをゆだねて祈らなければならないのである。